この頃のこと(2024年8月10日)

 私はもともと酷暑・酷寒にはつよいはずだったが、7月半ばからの異例の猛暑は、私たちの体力の衰えのせいか耐えがたく、この頃は元気なくクーラーの中へ引きこもりがちで、シェスタのあとは、秘蔵の名画のDVD、小説の読書、室内の断捨離、食欲の出そうな食事の工夫などで過ごす。雑草に覆われる庭の草取りや枝切りに外へ出るのもためらわれる。なにしろ桑名や名古屋は、連日40度近いのだ。まして心臓弁膜症で投薬・経過観察中の妻には無理をさせられない。
 それでも本能的に、ときどきは外出したほうがいいと思う。以下、スナップは、ひとり気を吐く白のサルスベリ/7.4滋子86歳の誕生日・都ホテルの懐石レストラン/ 7.15四日市。韓国映画『密輸1970』をみた後、鰻丼の夕食までの時間を過ごした博物館でのツーショット/7.21、すでにFB投稿で紹介したが、四日市のシンポジウム「日常生活での憲法の空洞化を問う」で発言する私/ 7.28名古屋での「関生労働組合弾圧を許さない東海の会」で、早口ながら表情とゼスチャー豊かに魅力的な講演を聴かせた望月衣塑子さんと私(関西生労組関係者の写真は非公開とのこと)/8.3桑名の酷く蒸し暑い8.3の夜、あえて出かけたコンチキチンの石採祭り――である。

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オリンピック雑感(2024年8月15日)

 なによりもまず、パリ・オリンピックのNHK報道にはいつもいらいらした。それは競技のそのものよりは、もっぱら日本人選手の活躍についてのアジテーションをくりかえすみたいな報道だったからだ。前提として動かないのは、日本人すべては日本のメダル獲得に我を忘れて熱狂しているはずだという思い込みである。日本選手の勝利をとくに切望しているわけでない私なぞ「非国民」」なのだろう。とはいえ、日々の暮らしがままならぬ人びと、例えばこの猛暑のなかクーラーもつけられないでテレビをみるほかない人びとにとって、メダル・ラッシュなどはなにほどのこともないだろう。大会関係者もアスリートも、「日本に勇気と感動を与える」ためがんばったと思わないほうがい
 メダルラッシュと言うけれど、いまメダルの金を三点、銀を二点、銅を一点として計算すると、総得点はアメリカ(240)、中国(195)、フランス(118)、イギリス(113)、オーストラリア(104)の順番であって、日本(91)は6位である。まぁそんなことはどうでもいいが、報道は日本の強さを過大評価させるように思われる。
 ついでに言うと、競技後、メダル受章者は国旗をまとって小走りするが、彼ら、彼女らには国からの報奨金がある。ナショナリズム鼓吹の強弱の差なのか、報償は国によって大きな格差をもつ。『フォーブス』誌の東京オリンピックでのメダル獲得の報奨金報道によれば、国別のベスト10は、①イタリア、907万ドル(約10億円):金10、銀10、銅20/②アメリカ、784万ドル:金39、銀41、銅33/③フランス、651万ドル:金10、銀12、銅11/④ハンガリー、564万ドル:金6、銀7、銅7/⑤台湾(チャイニーズ台北)、492万ドル:金2、銀4、銅6/⑥日本、403万ドル:金27、銀14、銅17/⑦スペイン、255万ドル:金3、銀8、銅6/⑧トルコ、226万ドル:金2、銀2、銅9/⑨セルビア、201万ドル:金3、銀1、銅5/⑩香港、193万ドル:金1、銀2、銅3。一方、イギリス、ニュージーランド、ノルウェー、スウェーデンはなどは報奨金ゼロだ。日本は6番目に報償の大きい国である。選手たちが闘うのはむろんカネのためではなく、多額の報酬でその純粋さが損なわれるわけではないけれど、このことにマスメディアがいっさい触れないのはやはり問題であろう。
 私は、格闘技一般と、それに、たとえば水中で逆立ちするとか頭を下にして身をくねらせるとか、人がふつうやらない軽業めいた競技が嫌いだ。TVの実録、録画をあれこれさがして見るのは、日本選手の活躍報道に比較的偏しない陸上競技、それも走りと跳びである。そこにみるの肉体の躍動はとても美しい。それでも、しなやかな美のきわまる棒高跳びの放映は結局なかったのではないか。
 走りは距離にかかわらず緊張感がただようけれど、印象深いのは、長距離ではアフリカ在住の黒人、中距離、短距離ではアメリカはもとより、フランス、イギリス、イタリアなどの先進国に移民・定着した黒人が主力スターであることにほかならない。鞭のようにしなやかな汗に光る黒い肌の疾走は、セクシーですらあり魅力的だ。心から愉快になる。そしてそこであらためて痛感されるのは、国籍と人種の著しいずれである。日本でもその傾向は徐々に進んできたと思う。国家ごとに競技を競うというオリンピックの建前は、いずれもたなくなるのではないだろうか。

四日市市民シンポジウム 私なりの報告(2024年7月21日)

 7月21日(日)、猛暑の四日市で、「戦争させない・憲法壊すな よっかいち市民ネット」主催のささやかなシンポジウム、<日常生活での憲法の空洞化を問う! 草の根の護憲運動にむけて>が開かれた。くりかえしFBで情宣してきたように、私たちが日常的に属している「界隈」、具体的には学校や家庭や職場やSNS交信におけるルールや慣習にみる憲法の無視や蹂躙をみつめ、その界隈での強力な同調圧力に従う生きざまを反省的にふりかえる――そんな趣旨の企画であった。

 名古屋や京都から駆けつけて下さった方々をふくめて参加者はほぼ30人。学校、家庭、SNS交信、職場と労働運動の状況について4人の無償のパネラー(全員が女性)が各15分、体験や現状を語り、その後、1時間ほど10人以上の方の発言で質疑・討論を繰り広げた。

 ここにアンケートの回答をピックアップしてみる――日常から問題を問う方法論はとても良いと思う/それぞれの場での人権問題について経験や意見が共有され交流できるこのような機会は貴重だ/すべてのパネラーの話からコミュニケーションの重要さと現実のなかでのその難しさがわかった/SNSについて若い世代の思いが聴けてよかった/参加者が自由に発言できるのがいい/思ったよりも楽しかった/自分にとっての自由やともすればネグレクトしがちな「自分の痛み」を考えるよすがにしたい・・・と、おおむね好評であった。けれども、時間がたりない/それぞれ重要な問題のつながりを示す発言はあっても、もっと掘り下げた議論がほしかった/会場の都合でマイクがなく聞き取りにくかった・・・という、いくらか批判的な指摘も複数あった。

 主として企画・準備・運営にあたった私としては、日常の界隈における同調圧力の深刻さ、SNSの光と陰などの問題は一定共有されたとはいえ、日常生活を支配している界隈のルールや慣習、それに対する世智にもとづく人びとの適応を凝視する議論の掘り下げは、やはり道半ばに終わったように思う。すぐれて主催者の責任であるが、企画の趣旨を浸透させるにはなお「力業の無理」があったというべきだろう。アンケートの末尾には、「意見交換と討論を中心にした」「同じようなテーマのシンポジウムをくりかえしてほしい」との励ましの声もあったけれど、四日市の市民団体がこのようなイヴェントを「くりかえす」ことは人的にも財政的にも、もうむつかしいだろう。

2024年夏、私たちの外出        (2024年7月6日)

 7月4日、連日の猛暑のなか、妻・滋子は私より2ヵ月半ほど早く86歳になった。この頃、私たちは、体力的にも経済的にも「まだできること」を確かめながら日々を過ごしている。そんな私たちふたりの典型的な外出のなかみは、名古屋へ出て、季節に応じて公園の花々を楽しみ、かならず映画をみて、書店をのぞき、8000~10000歩ほどウォーキングして、リーズナブルな行きつけのレストランで夕食をとることだ。先月末には、名駅地下街の「廣寿司」で数量限定特価1000円の「にぎわい弁当」を昼食とし、伏見のミリオン座で『ホールドオーバーズ』と『あんのこと』(6.29のFB投稿参照)の二本を観て、伏見から名駅まで歩き、ミッドランドの「文化洋食」でオニオンスープとハヤシライスの夕食をとった。この日、歩いたのは7500歩、総経費は17000円ほどだった。
 交通費、わけても近鉄の値上げが痛い。名古屋への往復だけで2400円ほどかかる。高齢者の外出を勧めるなら交通機関のシルバー料金制度をつくるべきだろう。しかし、心臓弁膜症で投薬・経過観察中の妻も、この日も、スピードは遅いが歩き通した。「典型的な外出」はまだできるようだ。とにかくふたりとも身体を動かしたほうがいい。
 それにしても「もうできなくなった」ことはあまりに多い。2019年が最後だった海外旅行、ハイキング、筋力や耐久性やバランスの要る庭や屋内での作業はもうできない。ふたりとも認知能力や整理能力や記憶力が衰えて、いつももの探しをしている。小1時間ほどのシェスタは不可欠だ。幸い腰、膝、脊柱などの障害も重い内臓疾患もまぬかれていて、散歩や愛用の電動アシスト自転車でのショッピングはまだ可能だが、全体に行動はのそのそしている。外食は頻繁だが、年金以外の収入が皆無になった今は、後10年ほどのありうる大きな出費――このところ相次ぐ不可避の耐久材の買替え、できなくなった庭作業などの外注、必要になるかもしれない多額の医療費など――に備える貯蓄が心配で、2人で3万円ほどかかる懐石やフレンチのレストランには、よほどのハレの日でなければ脚が遠のく。その「ハレの日」が来る見通しはさしあたりない。
 当面の私の最大にしてほとんど唯一の関心は、いつも二人三脚なのに、もう十分に元気とは言えない妻・滋子の心臓弁膜症のゆくえである。どうしても相互ケアの生活が続く。いま私は、午前中は日本の精神史などの書物を繙くけれど、午後からは、いまだ家事の担い手とは言えないまでも、家事修業、家事手伝いの日々である。それもいい。このところ、わが師、同世代の方々、信頼する若い友人たちの逝去、深刻な病苦、コミュニケーションのできないひきこもりなどの報にしきりに接する。私たちはまだ恵まれているのかもしれない。私たちは残存能力を探り当ててなお生き延び、この世がどこまで生きづらくなるかを見届けよう。私が担当する洗いものをしながら、そんな思いが胸に去来する。

最近のスクリーンから――『罪深き少年たち』/『MISSINNG』 /『あんのこと』     (2024年6月29日)

 映画は、小説ともに私には「ご飯みたい」なもので、劇場、DVDをあわせてシャワーを浴びるように観る。しかしこの頃はさすがに、短いショットの「瞬間認知能力」や囁かれる台詞を聞きとる聴力の衰え、感性の鈍磨などを自覚せざるをえない。そのためか、しばしば世評高い新作のいくつかも、DVDでの忘れられない名画再訪のときほどにはときめかなくなっている。
 例えば、リアリズムの毒が回ってしまっている私には、ゴシックSF技法の『哀れなるものたち』はなじめなかったし、『ヨーロッパ新世紀』は、移民差別というテーマへの切り込みはすばらしいとはいえ、最後がひとりよがりのようで感銘がうまく着地しない。『オッペンハイマー』はといえば、複雑な政治ドラマのようで、オッパンハイマーの自負と悔恨の入り混じる人間像の彫りが不鮮明だ。あの『関心領域』にしても、強制収容所のユダヤ人を焼殺する煙や叫びのかたわらで優雅に暮らすヘス一家の、おそるべき無関心の酷薄というの空気はわかるとはいえ、私たちを慄然とさせるはずの小道具のクローズアップやヘス一家には些細な残酷のエピソ-ドの具体的な描写が技法的に排除されていて、なかなか感情移入ができなかった。私にはこれは上質のホラー映画のような印象である。
 わかりやすい映画がいい。さらに私の好みでは、物語の過程での人間という愛しい存在の確かな変化と成熟がみえる映画がいい。その点で、評論家の評価はともかく、ふつうの映画ファンである私が勧めたい近作は次の3作である。

罪深き少年たち(韓国22年、チョン・ジヨン監督、チョン・サンヒョブ脚本)
 定年間近の不屈で嫌われ者の刑事(ソン・ギョング)が、前科をもつ知恵遅れの少年3人を、ずさんな捜査、拷問、恫喝をもって「自白」させ冤罪を捏造したエリート刑事、追随する同僚、検事たちと、左遷というの挫折をふくむ16年の間、徹底的に抗い、女性弁護士らの協力も得て、ついに法廷での真犯人(すでに時効である)から真相の証言を引き出して3人を救う物語である。正義と権力への拝跪、真実と欺瞞、勇気と逡巡の葛藤がくっきりとリアルに描かれて感動的だ。妻たち、女たちがいったん希望を失う刑事や証言をひるむ真犯人の背中を押すのも、最後に、立ちすくむ証言した真犯人に勝訴記念写真に加わるよう、刑事がふと手をさしのべるのもいい。99年参礼ウリスーパー事件の事実にもとづく作劇という。

MISSING(吉田恵輔監督・脚本)
 愛娘・美羽が失踪して見つからぬままの母・沙織里(石原さとみ)の煉獄のような日々を描く。街頭で続ける空しいよびかけ。言動の控えめな夫(青木崇高)との諍い。失踪日にたまたまアイドルのライヴのために出かけていたことを容赦なく誹謗するNET。その日に娘を預かっていたやや言語障害の弟(森優作)を犯人扱いしようとするマスコミ。誰かを美羽と見間違えては泣き叫び、わめき、食ってかかる、そんな狂おしい母の姿をすっぴんで、魅力のポイントの唇にもルージュも引かない石原さとみが体当たりで演じている。
 それでも沙織里は、他家が遭遇した同様の失踪事件の解決に協力し、その子が見つかると「よかった!本当によかった」と涙を流す。美しいシーンである。そしてその母子が沙織里らの街頭キャンペインの場に現れて感謝を述べ、これからはあなた方の運動に協力したいと申し出ると、傍らの夫がはじめて慟哭するのである。 
 2年後を描くラストシーン。沙織里は交通整理のボランティアをはじめ、通過してゆく子どもたちをいとおしく見つめている。かなしみの煉獄を経て、なお人を信じて生きてゆこうとするみごとな成熟をここにみることができる。 

あんのこと(入江悠監督・脚本)
 あん(河合優美)は、ホステスで娼婦の母親(河合青葉)に虐待されて育ち、12歳のときからその母の手引きによって身体を売って、中学も中退。21歳の今、ウリとシャブの常習犯である。救いようがないかにみえるあんはしかし、型破りの刑事・多々羅(佐藤二朗)と出会い、彼の主催する薬物更生グループに加わり、彼に寄り添われ、グループを取材するジャ-ナリスト(稲垣吾郎)の協力もあって、DVシェルターに起居し福祉施設の介護職にもつくようになる。日記もつけはじめた。周囲の大人はみんな親切だった。
 だが、職員のミスから居所を知った母親が職場に現れて暴れる、コロナ禍で非正規職を失う、さらに多々羅のグループ参加者への性加害が暴露されて逮捕されるなどのトラブルが続き、あんはまた出口のない絶望に落ち込む。そんなとき突然、シェルターの隣人の女性が赤ん坊をあんに一方的に預けて失踪してしまった。あんはそこで、卒然と赤ん坊の万全のケアに没入するのだ。けれども、ここでまた母親に捕まり思いがけない至福のときが終わる。この毒ママは、あんを身体で稼いで来いと追い出し、その間に赤ん坊を児童相談所に引き取らせてしまう。帰宅したあんは、怒りのあまり母親を殺そうと包丁を構えるが、ついに刺すことはできなかった。あんはシェルターに帰り、子どものアレルギーになる食品と献立を記したページだけを残して日記を焼き捨て、ベランダから身を投げるのである。
 あんは、介護施設の利用者に慕われ、赤ん坊の十全なケアに生きがいを見いだす優しい女性であり、ひたすら識字に励み、グループで自省をこめて過去を率直に語れるようにもなった真摯な少女であった。こんな女性がなぜ自死しなければならなかったのか? 薄氷を踏む思いで経過をみつめてきた私にはどうしようもなく悔しい思いがつきまとう。いっそこの比類ない毒ママを刺してしまえばよかったのではないか!と感じさえする。これも現代日本、2020年の実際の事件をベースにした映画であるが、ストーリーの中には、あんの本来の優しさと、逆境の中での成熟の歓びがちりばめられていて胸が熱くなる。
 ちなみに今年、女性の受難を描く佳作・名作は、たいてい生家や婚家での育児放棄や虐待やDVを扱う。その点では『あんのこと』も戸田彬弘の『市子』や成島出の『52ヘルツのクジラたち』(原作・町田そのこ)と共通するところがある。『あん・・・』には、悪女としてしたたかに立ち上がる『市子』ほどはサスペンスフルでなく、性的少数者者との揺るぎない愛を発条として孤独なクジラの叫びを聴く、人間の絆を取り戻す『52ヘルツ・・・』ほどの物語の文学的な広がりはない。とはいえ、『あんのこと』がもたらす切実きわまりない衝迫はまた、この作品を今年の収穫のひとつとしている。

 島原の乱をめぐる断想(2024年6月12日)

 最近、1637~38年の島原・天草の乱(ふつう「島原の乱」と総称される)に関する本をいくつか読んだ。①堀田善衛『海鳴りの底から』(朝日文庫1961年)、②神田千里『島原の乱――キリシタン信仰と武装蜂起』(講談社学術文庫2018年)、③五野井隆史『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館2014年)、そのほか水溜真由美『堀田善衛 乱世を生きる』(ナカニシヤ出版2019年)の第I部五章などの関連文献である。これらのくわしい内容紹介や比較評論は私にはできない。この文章は、こうした読書に触発された気ままな断想にすぎない。
 権力の圧政に抗う民衆蜂起の思想と行動、それは私の終生の関心事であった。世界史・日本史の受験勉強では、詳細な「叛乱年表」を自作したものだ。労働研究という専門分野の選択の背景にもむろん、<蜂起・叛乱に到る、あるいはそこに到ることのできない事情>を凝視したいという思いがあった。また熱烈な映画ファンとしても、私の大好きな作品の一系列はたとえば『七人の侍』『スパルタカス』『アルジェの戦い』『タクシー運転手』などである。もちろん、蜂起・叛乱とはいえない近現代の労働運動、困難ななかでの組合づくりやストライキを活写する『ノーマ・レイ』など傑作たちの忘れられない感銘は、記憶の蔵に犇めいている。
 閑話休題。日本近代史上最大の民衆一揆である島原の乱について、まずは概要を確認しておこう。1637(寛永14)年10月、未曾有の凶作とあまりの苛斂誅求に呻吟した島原・天草の農民・漁民はついに叛乱に転じ、その12月、およそ2万4千人(その家族たちを加えて3万7千人ともいわれる)が、16歳のカリスマキリシタン天草四郎を総大将、かつてのキリシタン大名、有馬家・小西家の家臣たちを戦闘指導者として、みずから修復した島原の原城「春の城」に立てこもる。彼ら・彼女らは、およそ3ヵ月間、幕府軍、諸藩あわせて12万人と、手作りの武器と機略をつくして闘かった末、兵糧攻めのもたらす飢餓状態のなか、38年2月28日、幕軍の砲撃・総攻撃で落城させられ敗北するにいたる。幕府はそして、身分差別の封建道徳と背反する平等の理念を掲げる禁教キリシタンを絶滅すべく、一人の投降者・山田右衛門作を除くすべての籠城者を虐殺するのである。
 この未曾有の人民抹殺は、その前後の、筆舌につくせない残酷な拷問と処刑と地続きである。文献①③が具体的に記述する。1620年代以来の禁教令に伴う宣教師および農民クリスチャンへの火あぶり、斬首、緊縛したキリシタンの海中または雲仙温泉の熱湯への投げ込み、逆さ穴吊り。そして島原、天草での重税を拒む名主の妻の着物を剥ぐ辱め、妊婦の水漬け、竹のこぎりでの斬首、「蓑踊り」(蓑をまとわせ火をつける)・・・。あえて例示した限りでも、拷問と処刑でのこれほどのサディズムは他に例をみないように思われる。

 島原の乱に関する読書を通じて、民衆叛乱の思想と行動という点から、もっと考えたいこと・もっとクリアーに知りたいことなど、さまざまの問いに私は促される。
 その1。最大の問いは、島原の乱は、飢饉の年の重税と苛斂誅求に耐えかねた大規模な百姓一揆なのか、信仰の自由を死守するキリシタンの反抗なのかということだ。そのいずれでもあるというのが通説である。この解釈はしかし、いくらか安易な感じがする。耐えがたい苛斂誅求がはじめにあることは否定できない。だが、籠城した農民たちの宣言と行動はどこまでも禁教キリシタンのそれであった。では、経済・生活と宗教・思想とはこの場合どんな関係にあったのか。神田千里の文献②にヒントがある。神田によれば、過酷きわまる弾圧によって15~20年の間、島原や天草の多くの村では圧倒的多数者になっていたキリシタンのほとんどは、やむなく棄教していた、それにキリシタンはもともと世俗の権力に力で対抗することをむしろ禁じ、その教えを拷問や処刑の受難に耐えぬくつよい主体性を支えるよすがとしてきた。そこで神田が重視するのは、1637年の飢饉・苛斂誅求のとき、15年以上もの棄教の末、「立ち返り」(再入信)のうねりが起こり、「立ち返り」者こそが一揆を起こしたという事実である。
 神田の示唆を私はこう敷衍する――凶作・飢饉・苛斂誅求は農民たちに「この世」で生きる見通しを失なわせた。そのとき彼らは、それまで非常時にも耐える自分という主体をつくってきた信仰を剥奪されているいるということに卒然と気づいたのだ。そして今、禁じられていたかつての信仰を取り戻すことが眼前の苦しみを打開する唯一の方法と考えたのだ。それは、棄教の生きざま、すなわち困難に向き合う自信と勇気を失った人生の拒否だった。とはいえ、「立ち返える」ことはお上に抗うことにほかならず、ひっきょう死はまぬかれない。だが、終末の日までは「もうひとつのこの世」に生きることはできる。こうして彼らはやがて訪れる死を覚悟して、原城のパライソ「かとりかれぷりか」に立てこもったのである。安保闘争のさなかに連載された堀田善衛の①が熱く記すように、3ヵ月の間、そこは農民、漁民、職人、猟師などが、家族とともに犇めいて窮屈ながら、生活感のある「天地同根、万物一体、一体衆生を撰ばず」の界隈であった。人びとは神に祈り、詠唱し、談笑し、乏しい食糧を分かちい、石や弓矢や鉄砲で幕軍をやりこめたことを自慢しあった。そこでの絆の生はやがて終わる、だが死んでもアニマの鳥は飛び立つ――そう思い定めたのである。

 その2。島原南西部・天草東部の多くの村は、全村一家をあげて籠城に参加している。収束後に幕府は村の再建のために大規模に植民せざるをえなかったくらいだ。けれども、籠城者には、強制的に参加させられた者、迫害され恫喝された仏教徒も少なくなかったはずである。それゆえ、その数は資料によってさまざまながら、脱落して落人になった人も確かにいる。籠城者のすべてが「かとりかれぷりか」の理念を内面化していたとはいえないだろう。だが、悔い改めれば咎めなしいう幕府軍の甘言にもかかわらず、降伏者の輩出はなかった。少なくとも2万4000人もが最後に虐殺されるまで明日なき闘いに殉じたことは疑いを容れない。
 ためらって動揺していた非キリシタンは、「降伏しても地獄」と覚悟したのだろうか?籠城の日々の過程で、かつての禁教の教えのなかに、身分差別・性別不平等のこれまでとは異なる「もうひとつのこの世」を垣間みたのだろうか? いずれにしても、組織的抵抗運動のなかの異端の少数者の問題として、ここはもう少し考えてゆきたいテーマである。

 その3。そんななか、唯一生き残った山田右衛門作の「裏切り」の理由はなにか? この人物については、その後の彼の立ち返り(再入信)の真偽をふくめて、これまでいくつかの文学が関心が寄せてきたが、ここでは彼を主人公として扱う堀田善衛の文献①の解釈と評価が興味ぶかい。
 堀田は右衛門作の思考として、①彼は明暗ともども事実をリアルを描く先駆的な油絵の絵師であって、その職業人としての希求が延命を選ばせた、②彼は近代的な思考の合理主義者であって、天草四郎の「秘蹟」などを信じられず、灰燼のなかにキリシタンすべてが死に絶えて信仰のなにが残るのか、空しすぎるという疑問にとらわれた――などをあげている。しかし堀田によれば、③右衛門作は、籠城の過程で、確かにキリシタンの言動のまっとうさ・美しさにうたれ、裏切る自分を最低の人間と自覚したという。この自覚は②と結びついて、ここに、「見ていろ、人として最低のこの俺が、よりによって最低の奴になりさがり、この城にいま在る、もっとも気高いものを世に伝えてやるぞ・・・」という思いに辿り着いたという。
 堀田善衛が右衛門作を否定的な人間像としていないことはいうまでもない。安保闘争のどよめきに原城の祈りの斉唱と同じ「海鳴り」を聴いた堀田は、情感を込めて原城の人びとの群像を描いた。だが、アッツ島やサイパン島の悲劇を知る堀田は、「玉砕」の否定という文脈で原城の「ユダ」に共感したのだ。そればかりか堀田は、水溜真由美が丹念に辿るように、乱世のなかを生き延びてまのあたりにした過酷な事実の記録者になるという知識人の宿命的な役割に自覚的であった。堀田はこうして、「偽装転向」して生き延び酸鼻をきわめる過酷な体験を後世に伝えるという、右衛門作の生きざまを掬い上げたのである。

 私たちはいま、民衆叛乱どころか、まったく合法の街頭行動も、憲法に保障されたストライキなど労働者の直接行動も、欧米や韓国とは違ってまったく枯死している現代日本に生きている。選別の競争に個人として打って出るほかない、それは新自由主義の「この世」である。
 私は2023年9月、おそらく最後の著書として、1984年~85年イギリスの炭鉱大ストライキの軌跡を個人レベルの体験にまで降りて辿る『イギリス炭鉱ストライキの群像』(旬報社)を刊行した。10万人以上の坑夫とその家族が1年間、刑事的・民事的弾圧と貧窮にたえて貫かれたこのストライキは、その後グロ-バルに広がる新自由主義体制への労働運動の最初の闘いであったけれど、坑夫たちと炭鉱労働組合は、あらゆる権力の資源を動員したサッチャー政権にたいして避けがたい敗北を喫するにいたる。
 このたび島原の乱の関連文献を耽読したことに、この拙著の執筆体験はどこかでつながっている。もちろん時代も国も、叛乱の「敵側」の物量も、生死を左右する緊迫度も、両者の間ではまったく異なる。だが、慶長期の島原・天草のキリシタン農民と80年代のイギリスの坑夫とは、貧窮と叛乱を絶滅させる権力諸機関の合力によって、「護るべきもの」に殉じて敗北していったことは同じだ。その共通性から思うことは、敗北後に現出した世界をいくらかでも批判的に検証しようとすれば、かつての闘いにおける敗者の眼の復権が不可欠だということにほかならない。
 新自由主義の世界にその掲げる自由の偽りをみるならば、イギリス炭鉱ストライキの群像はレジェンドとしてふりかえられねばならず、日本国家の近代以降にいたる思想統制と暴力行使に注目するならば、この国の江戸期にこれほどの規模の民衆一揆があり、それが容赦なき大量虐殺で終結させられたことがいつまでも忘れられてはならい。歴史における敗者の眼を掬うことなき体制は、それ自体、民衆の抑圧をまぬかれないそれである。

その9 <社会>としての労働組合(2024年6月3日)

 この「連載」は、労働研究における私なりのキーワードの意味するところを、発想の時期にとらわれず思いつくままに綴ってきたが、研究史の中期以降に精力を注いだ日本の労使関係の把握に入ってゆきたい。今回はしかし、生涯にわたって執着した、私に特徴的な――少なくとも日本では――労働組合という組織への視点を示しておきたいと思う。その着想は1976年の『労働者管理の草の根』の所収論文に遡り、後期2013年の『労働組合運動とはなにか』(岩波書店)にいたるまで継承されている。それは、<社会>としての労働組合、という把握である。
 若き日の着想の論文では、ヒントを得たF・タンネンバウム、S・パールマン、A・フランダース、H・A・クレッグなど古典的な文献の引用に満ちている。しかしここでは、2013年の著書の、「原論」の章にみる「社会(学)的にみた労働組合」のくだりからかんたんに説明しよう。
 生産手段を奪われて労働力を商品として売るほかはない労働者階級は、まずアトムとして労働市場に投げ出され、資本家に拾われ棄てられて翻弄される。けれども、労働者はいつまでもばらばらで星雲状態のなかを漂い続けるのでなく、やがては、無意識的にせよ、星雲のなかに「可視的ななかま」、すなわち生活上の具体的な必要性と可能性を共有する他人がいるような、ある境界をもつ領域をきっと見つけるだろう。領域の境界は基本的には仕事の種類や職場や技能、副次的には人種や宗教、性や年齢など多様であり得るが、この領域を私は、まず自然発生的な<労働社会>とよぶ。
 「可視的ななかま」のうちには、助け合いや庇い合いの慣行が自然に生まれている。例えば、なかまの間では決して競争しない、仕事を分け合う、困窮したなかまを扶助する仕組みをつくる、働きと稼ぎにおいてぬけがけしない・・・などである。だが、すぐに疑問が生まれるだろう、こうしたなかまの「黙契」は果たして持続可能なのか?
 自由競争という資本主義体制の「公認の道徳」が浸透している。雇用主は低賃金で働く人を求め、どこまでもなかま同士を競争させようとするだろう。労働者のほうも、緊急の個人生活の必要性に直面してしばしば、それで雇ってくれるならと、進んで、またはやむなく「黙契」を裏切るという現実がある。労働者はそこで、ゆっくりとではあれ、放置すれば風解する「可視的ななかま」の領域や、そのなかでの反競争的な暗黙のルールの意識的な構築を迫られることになる。ユニオニズムが芽生えるのはここからだ。それゆえ、自然発生的な<労働社会>を意識的に組織化したものが労働組合であり、その内部で息づいていた助け合い・庇い合いの黙契を意識したものが労働組合の要求・政策ということができる。私は若き日に、W・M・Leisersonの次のような記述にふれて心底から納得した、その感銘を忘れられない。
 労働組合機能は、公式の組織が賃金労働者の間に現れる遙か以前から存在した、職場労働者の習慣や気質に根を降ろしている・・・われわれの知るような組合規範と団体協約は、事実上労働者の書かれざる習慣と掟の法制化であって、それは習慣法が成文法に対してもつ関係と同じである」(American Trade Union Democracy、1959、P.17)。
  
 一般に<労働社会>の形成の基準は、ひとつは、職業的生涯、異動してもそこには留まるという意味での「定着」の範囲の共通性、今ひとつは、労働者生活における具体的な必要性と可能性の共有である。この<労働社会>の多様性が、労働史上に現出した労働組合のさまざまの組織形態の由来を説明するだろう。このように概念化することができよう。

 A・企業に定着する人
  ――a経営者・管理者へのキャリア展開――企業社会⇒企業別組合
  ――b特定の職種・職場に定着――職場社会⇒産業別組合(職場支部)
 B・職業(専門職・熟練職)に定着する人――職業社会⇒クラフトユニオン
 C・産業・職場・(非熟練)職種への就業が偶然的で流動的な人
  ――特定の地域への定着を経て地域労働社会⇒ジェネラルユニオン(一般組合)
註:もっとも、ABCの分類が同じでも、人種・宗教・性などによって「文化」(もの
  の考え方)があまりにも異なる場合には、組合組織が別になることが十分ありうる  だろう。現代日本では、女性だけのユニオンや非正規労働者の組合の結成はむし   ろ自然である

  日本についても<労働社会⇒労働組合>と把握することは、あるいはいぶかしく思われるかもしれない。しかし企業別組合に帰結させたものは、他の要因も作用すたとしても、ひっきょう日本なりの<労働社会>、企業社会であった。国際比較的にみれば、もちろんその特異性は明かである。企業社会は、黙契にすでに資本の論理が浸透しており、他国の<労働社会>のような反競争性が明瞭ではない。もっと枢要の異常性は、Abの人びとの職場社会がAaの従業員にこそふさわしい企業社会から自立せず、そこに曖昧に吸収されていることだ。こうした企業社会の性格については後にまたふれるけれど、企業別組合といえども、少なくとも1970年半ばくらいまでは、確かに世界共通のユニオニズム的な営みを発揮しなかったわけでなかった。そこを顧みれば、日本の労働組合運動を「世界の常識」を外れた、比較できない異質の運動とみることは、むしろこれからの日本の組合組織の変革の展望を絶望視させることに通じるように思われる
 この項の終わりに、最近、1984年~85年イギリスの炭鉱大ストライキの軌跡を細部にこだわって辿る作業を通じて、<社会としての労働組合>という長年の持論については、ある点で反省を迫られたことを付記したい。新自由主義の嚆矢ともいうべき炭鉱の閉鎖・大合理化に対して、10万人以上の炭坑夫たちは1年にわたって力尽きるまでピケをふくむストライキをもって抗った。その基礎はなによりも男たちの職場社会の結束であった。だが、抵抗力の驚くべき持続は、彼らの家族、女たちのつくる炭鉱ムラ・コミュニティの協力と援助、相互扶助の活動によってこそ支えられていたのだ。職場社会は居住地のコミュニティに抱擁されるとき、いっそう強靱に立つことができる。そういえば日本でも、かつて強靱だった炭鉱組合運動の背後には「炭住」の絆があったことにいまさら気づく。私の労働社会論は、この居住コミュニティの存否ということに関心が薄かったと反省させられたものである。くわしくは、冷静な叙述をもってしかるべき敗北の過程が「哀切を込めて語られている」とも評される、2023年の拙著『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動のレジェンド』(旬報社)の一読を乞う次第である。

大企業のサラリーマンや「OL」も、エンジニアや旋盤工も、教師や医師も、トラックドライバーも看護師も、スーパーのレジ担当パートもファストフードのアルバイト店員も、労働力商品の販売者としてはすべてプロレタリア、労働者階級である。けれども、彼ら・彼女らのそれぞれの<労働社会>は同じではない。日常生活上の必要性と可能性や「可視的ななかま」の範囲が異なるからだ。<労働社会>こそが多様な形態をとる持続的な労働組合の培養器となる。「階級としての労働者」が労働組合をつくるという命題はきわめて一般的な意味では正しいとはいえ、その一般論のみを強調する一部の「左派」研究者や労働運動実践者はしばしば、広くプロレタリアにふくまれとはいえ<労働社会>を異にする労働者さまざまの具体的な生きざまの凝視を怠り、ひいては、労働組合の組織形態にも無関心になりがちである。みんな連帯できる同じ労働者ではないか、そのなかの生活の格差や個々のニーズにこだわるなというわけだ。
 そのよびかけは総じて空しい。もとより、たとえば全国民的な政治課題をめぐる街頭行動とか、ゼネストに近い統一ストライキとか、労働者が<労働社会>の境界を超えて一斉に行動するときは確かにある。それは心の躍る非日常的な祭りだ。だが、祭りが終わるとき労働者の帰る居場所は、やはり職業社会や職場社会や地域一般労働社会であり、それぞれにふさわしい形態の労働組合なのである。
 私が労働組合の役割を経済的機能や政治的機能に限局せず、<社会としての労働組合>に執着するのは、労働組合とは、労働者が誰しも、個人のもつ競争資源の乏しい「孤独な稼ぎ人」たることをまぬかれる、なかまとの絆、相互扶助、、生活擁護を闘う協同の場をもたねばならないという思いに根ざしている。そこは居場所だ。一介の労働者は孤立してはやってゆけない。そこに帰属し、絶えずふりかかる受難に連帯して対応できるような居場所が不可欠なのだ。
 私の議論がさしあたり「ねばならない」という「べき論」であり、ユートピア論にすぎないと受けとられることを、私はよく承知している。たしかにいま現時点の現前にあるものは、従来、労働市場での不成功者の苦境をいくらかは緩衝してきた大家族や地域共同体が著しく衰退したのに、帰属すべき<労働社会>のないまま、過重労働や過少雇用、ひいては孤立貧に呻吟するニッポン・プロレタリアーとの群れである。
 企業のノンリート従業員もかつての職場社会の紐帯を失っている。まして、非正規労働者や低賃金の単身者、稼ぎのよい配偶者を欠く女たちは、まったく助け合いや生活改善に協同できるなかまをもたず、非情の雇用主に拾われ棄てられをくりかえし、文字通りの生活苦はどこまでも続いてゆく。最近の手近な文献では、例えば田中洋子編著『エッセンシャルワーカー』(旬報社)、東海林智『ルポ 低賃金』(地平社)などでその一端を知ることができよう。
 そうした孤立と貧困の深刻化に対して、保守政権の行政の吝嗇な生活支援策に心細く依存するだけでいいのだろうか。やはり当事者たちBY THE PEOPLEの営みが不可欠なのだ。 過重労働や貧困に苦しむ人びと自身が、自己責任論の軛を絶って、帰属する<労働社会>を探り当て、その居場所それぞれにふさわしいかたちの労働組合の意識的な構築につなげること。日本でも、クラフトユニオン、コミュニティユニオン、地域一般組合、企業横断の産業別組合など、もっと多様な労働組合が組織されるべきだ。これまでずっと新自由主義の「悪魔の挽き臼」に粉々にされてきた若い世代、いわゆるZ世代の一部は、そう気づいて、ささやかながらその萌芽を育てはじめているのではないか。私のできることはもうほとんどないけれど、<社会としての労働組合>の必要性論を可能性論に高める方途は、なお模索してゆきたいと思う。

憲法を空洞化させる日常の「界隈」(2024年5月18日)

 愛知県の作家・伊藤浩睦氏が、憲法記念日の5月4日、朝日新聞「声」欄に次のような投書を寄せている。
<私たちにとって、憲法はとても遠いものに思える。学校では、憲法上の権利を口にすれば、「憲法なんか生徒には関係ない。校則がすべてだ」と言われ、会社では、「社員である限り社則やノルマが最優先だ。憲法上の権利なんか関係ない」と言われた。庶民と憲法の関係なんてそんな遠いものだと思っていた>
 数多い良識的な護憲論はほとんど立ち入ることがないとはいえ、およそ現時点の護憲論がなによりも直視すべき枢要の問題を剔る、これはとてもすぐれた発言だと思う。本当にその通りである。ふりかえってみよう。それぞれが日常的に帰属する「界隈」において普通の人びとの発言やビヘイビアを律しているものは、憲法に保証された人権尊重や思想・表現・行動の自由と無関係な、たいていはそれらを蹂躙する、その界隈の公然・非公然のルールまたは慣行にほかならない。
 こうして学校では、「生徒らしい」服装や過剰な生徒指導の校則が若者の学校内外の自由を束縛する。職場では、過重なノルマ達成度や仕事態度を多面的に評価する査定の労務管理が、サラリーマンに「社員の掟」を内面化させ、彼らを萎縮させている。家庭では、なおしたたかに残る性と世代のジェンダー慣行が、それぞれの家族たち、とくに妻や母親にいいようのない鬱屈をもたらしている。社会運動の場でも、自治体は「中立」の名の下に運動にわずかでも「政治的」なにおいをかぎつければ、市民の営みに便宜を図ることをかならず拒む。ネットや公園に集うママ友の交友関係などでも、話題は「いやがられないように」無難なものに留めるという。
 私の言う「界隈」に働くのは、まさに憲法の条文などかかわりない「界隈」独自のルールへの強力な同調圧力である。そして「界隈」の多数者は「空気」を読んでこの同調圧力に靡くだろう。構成員が憲法の条文に殉じて異議を申し立てるならば、その少数者はそれなりの受難を蒙ることになる。たとえば、学校の生徒が求めてやまない自由に固執して校則指導への反抗に転じるならば、サラリーマンが労働基準法を楯としてサービス残業を拒み休暇の自由な取得を主張するならば、労働組合員が労働組合法にもとづいて労使一体ムードの企業でストライキの必要性を訴えるならば、「対等の人格権」を内面化した妻が性別分業に居すわる夫を許さないならば、町内会の集まりで住民の誰かが信教の自由を唱えて神社への寄付の慣行に従わないならば、それらの勇気ある少数者は「波風立てるな」を旨とする多数者から「そっち系のひと」とみなされ、以降、無視され、つきあいで差別され、悪くすれば「界隈」から排除されてしまうだろう。排除されてもかまわない、その方が「すっきりする」場合もあるかもしれないけれど、多くの場合、一介の庶民は「界隈」から排除されてはやってゆけないのである。
 こうしてニッポン2020年代では、憲法の保証する多様な個人の人権尊重、表現と行動の自由、労働基本権などは空洞化し、普通の市民の日常にまさにかかわりないものに堕しているのだ。この点を直視し、政治思想、政治運動論に留まらない「界隈」の民主化、すくなくともそこでの表現・発言の自由を達成する方途が探られなければ、護憲論は市民の生活に届かない。その方途の模索は容易ではないけれど、それぞれの「界隈」の少数者を「界隈」の境界を超えて横につなぐ営み、いわば外なる「界隈」の形成が、その出発点になるだろう。構想することができる、そしてすでに着手されてもいる例して、学校の枠を超える生徒会、Me tooの女性運動体、そして企業横断的な職種別・産業別労働組合の構築などをあげることができる。

プーチ・ダモイ!(2024年4月13日)

 ロシアの女性たちがウクライナの前戦に駆り出された夫や息子たちを返せという果敢な街頭キャンペーン、「プーチ・ダモイ」をはじめている。NHKの「クローズアップ現代」で昨夜、その報道に接して言いしれぬ感銘を受けた。
 彼女らは、動員は一定期間で交替するという当初の約束を容赦なく裏切られたのち、今やその要求を、民間人の動員の反対、ひいては軍事作戦をやめよという水準に高めている。このプーチ・ダモイに対しては、そして今のところ、権力も、従来の反戦運動に対するような過酷な暴力と逮捕の弾圧を控えているという。その理由は、権力側の政治アナリストによれば、前線の兵士たちは家族たちへの弾圧に憤り、戦線を離脱し、武器をもってロシアに帰ってくるかもしれないからだ。かつてのロアシア革命の勃発を連想させる、それは真に危機的な状況であろう。それに、もともと、家族の絆と国家への献身を結びつけて鼓吹してきたプーチンにとって、出征兵士の家族は敵視できないというジレンマがあるとも解釈される。
 とはいえ、プーチンはむろん、その要求がわかりやすく、潜在的には広汎な共感をよぶプーチ・ダモイの広がりを放置できない。その担い手にはじわじわと「沈黙せよ」との圧力がかかっている。それに、NET世界では、第2次大戦中に出征兵士たちをじっと待ち続けたロシア女性を讃える歌「カチューシャ」を高唱しながら戦争協力を訴える「カチューシャ」運動も始まっている。数的な勢力はさしあたりこちらのほうが多分大きいだろう。そうして迫り来る弾圧とプーチン万歳・非国民弾劾の空気のなか、プーチ・ダモイの中心的な担い手、小児科医で一人娘の母であるマリア・アンドレエワは「怖い」と言う。だが、彼女は言葉を継いで、この時代に私が何もしなっかったと思い出すこと、後に娘に「あのときお母さんは何もしなかったの」を聞かれることのほうが「もっと怖い」と語るのである。
 胸をつかれる。なんという勇気に支えられた平和と自由の希求だろう。ウクライナ防衛戦の暗澹たる風景のなか、プーチ・ダモイの広がりは、希望というもののささやかな発芽にほかならない。

さくら花幾春かけて老いゆかん・・・(2024年4月)

 敬愛する大野夫妻に誘われて富田の十四川堤での観桜が4月5日。翌6日には、名古屋は鶴舞公園の満開の濃密な桜を満喫した。すさまじい数のグループがさんざめき、人々は花見さえあれば幸せという感じ。私たちもほっこりした気持になる。そこから伏見へ回ってミリオン座で、『アイアンクロー』という映画を観賞。栄光のレスラー一家の息子たちの名声を求めての相次ぐ悲劇を描く、なかなか切ない佳作だ。そこから名古屋駅まで歩き、高島屋の「ビューレ・ノアゼット」でリーゾナブルなフレンチのコース(いつものように別々の料理でシェア)を楽しむ。とくに仔羊がおいしかった。結局、休み休みだったが、この日は1万歩以上歩いている。まだこうした外出ができるということを確認したかった。
 そして4月8日、桑名医療センターでの妻・滋子の心臓診察に付き添った。18日間の投薬の経過観察の後である。血液、尿、エコー、食事指導のあと循環器内科の診察を受ける。医師は、腎臓機能はOK、肝機能数値は少し改善したが、4年前より不整脈を伴う心臓弁膜症は悪くなっていて「中程度」とのこと。エコー検査結果には、「壁運動評価」はnormalだが、僧帽弁は「石灰化:後尖」、大動脈弁は「石灰化:三尖とも。開放制限(+)」診断は「中程度AS?疑い」、明かなasynergy(-)と書かれている。少し落ち込んだ。ただ急を要する症状ではなく、減塩の食事療法とともに、前と同じ利尿剤アゾセミド錠、スピノロラフトン錠を服用して、さらに50日の経過を見る。それでよくならなければ半年~1年のうちに、可能なら約2週間の入院を要するカテーテル施術も考える。それが担当医の結論だった。その他、特段の生活指導はない。
 妻の心臓弁膜症がどの程度深刻なのか、この医師の処置が適切なのか、本当のところわからないけれど、まだまだ大丈夫と信じたい。前の投稿に記したように、滋子を疲れさせないように心がけて、ゆるやかに生きてゆきたいと思う。それでいい。
 昨9日は、妻に指導・監督されながら昼食に炒飯を、夕食にハンバーグ、味噌汁、にんじんのグラッセなどをつくった。近隣の桜堤を散歩し、DVDで『ア・ヒュー・グッドメン』というアメリカの軍事法廷ものを観た。まぁ、ふたりの生活のありようは、専門研究の仕事がなくなった早春以来の常態とあまり変わらないだろう。
 馬場あき子の名唱「さくら花幾春かけて老いゆかん・・・」の後段は「・・・身に水流の音ひびくなり」と続く。80代後半はまさに「余生」である。それでもなお「身に水流の音」は聴きつづけたい。