最近、1637~38年の島原・天草の乱(ふつう「島原の乱」と総称される)に関する本をいくつか読んだ。①堀田善衛『海鳴りの底から』(朝日文庫1961年)、②神田千里『島原の乱――キリシタン信仰と武装蜂起』(講談社学術文庫2018年)、③五野井隆史『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館2014年)、そのほか水溜真由美『堀田善衛 乱世を生きる』(ナカニシヤ出版2019年)の第I部五章などの関連文献である。これらのくわしい内容紹介や比較評論は私にはできない。この文章は、こうした読書に触発された気ままな断想にすぎない。
権力の圧政に抗う民衆蜂起の思想と行動、それは私の終生の関心事であった。世界史・日本史の受験勉強では、詳細な「叛乱年表」を自作したものだ。労働研究という専門分野の選択の背景にもむろん、<蜂起・叛乱に到る、あるいはそこに到ることのできない事情>を凝視したいという思いがあった。また熱烈な映画ファンとしても、私の大好きな作品の一系列はたとえば『七人の侍』『スパルタカス』『アルジェの戦い』『タクシー運転手』などである。もちろん、蜂起・叛乱とはいえない近現代の労働運動、困難ななかでの組合づくりやストライキを活写する『ノーマ・レイ』など傑作たちの忘れられない感銘は、記憶の蔵に犇めいている。
閑話休題。日本近代史上最大の民衆一揆である島原の乱について、まずは概要を確認しておこう。1637(寛永14)年10月、未曾有の凶作とあまりの苛斂誅求に呻吟した島原・天草の農民・漁民はついに叛乱に転じ、その12月、およそ2万4千人(その家族たちを加えて3万7千人ともいわれる)が、16歳のカリスマキリシタン天草四郎を総大将、かつてのキリシタン大名、有馬家・小西家の家臣たちを戦闘指導者として、みずから修復した島原の原城「春の城」に立てこもる。彼ら・彼女らは、およそ3ヵ月間、幕府軍、諸藩あわせて12万人と、手作りの武器と機略をつくして闘かった末、兵糧攻めのもたらす飢餓状態のなか、38年2月28日、幕軍の砲撃・総攻撃で落城させられ敗北するにいたる。幕府はそして、身分差別の封建道徳と背反する平等の理念を掲げる禁教キリシタンを絶滅すべく、一人の投降者・山田右衛門作を除くすべての籠城者を虐殺するのである。
この未曾有の人民抹殺は、その前後の、筆舌につくせない残酷な拷問と処刑と地続きである。文献①③が具体的に記述する。1620年代以来の禁教令に伴う宣教師および農民クリスチャンへの火あぶり、斬首、緊縛したキリシタンの海中または雲仙温泉の熱湯への投げ込み、逆さ穴吊り。そして島原、天草での重税を拒む名主の妻の着物を剥ぐ辱め、妊婦の水漬け、竹のこぎりでの斬首、「蓑踊り」(蓑をまとわせ火をつける)・・・。あえて例示した限りでも、拷問と処刑でのこれほどのサディズムは他に例をみないように思われる。
島原の乱に関する読書を通じて、民衆叛乱の思想と行動という点から、もっと考えたいこと・もっとクリアーに知りたいことなど、さまざまの問いに私は促される。
その1。最大の問いは、島原の乱は、飢饉の年の重税と苛斂誅求に耐えかねた大規模な百姓一揆なのか、信仰の自由を死守するキリシタンの反抗なのかということだ。そのいずれでもあるというのが通説である。この解釈はしかし、いくらか安易な感じがする。耐えがたい苛斂誅求がはじめにあることは否定できない。だが、籠城した農民たちの宣言と行動はどこまでも禁教キリシタンのそれであった。では、経済・生活と宗教・思想とはこの場合どんな関係にあったのか。神田千里の文献②にヒントがある。神田によれば、過酷きわまる弾圧によって15~20年の間、島原や天草の多くの村では圧倒的多数者になっていたキリシタンのほとんどは、やむなく棄教していた、それにキリシタンはもともと世俗の権力に力で対抗することをむしろ禁じ、その教えを拷問や処刑の受難に耐えぬくつよい主体性を支えるよすがとしてきた。そこで神田が重視するのは、1637年の飢饉・苛斂誅求のとき、15年以上もの棄教の末、「立ち返り」(再入信)のうねりが起こり、「立ち返り」者こそが一揆を起こしたという事実である。
神田の示唆を私はこう敷衍する――凶作・飢饉・苛斂誅求は農民たちに「この世」で生きる見通しを失なわせた。そのとき彼らは、それまで非常時にも耐える自分という主体をつくってきた信仰を剥奪されているいるということに卒然と気づいたのだ。そして今、禁じられていたかつての信仰を取り戻すことが眼前の苦しみを打開する唯一の方法と考えたのだ。それは、棄教の生きざま、すなわち困難に向き合う自信と勇気を失った人生の拒否だった。とはいえ、「立ち返える」ことはお上に抗うことにほかならず、ひっきょう死はまぬかれない。だが、終末の日までは「もうひとつのこの世」に生きることはできる。こうして彼らはやがて訪れる死を覚悟して、原城のパライソ「かとりかれぷりか」に立てこもったのである。安保闘争のさなかに連載された堀田善衛の①が熱く記すように、3ヵ月の間、そこは農民、漁民、職人、猟師などが、家族とともに犇めいて窮屈ながら、生活感のある「天地同根、万物一体、一体衆生を撰ばず」の界隈であった。人びとは神に祈り、詠唱し、談笑し、乏しい食糧を分かちい、石や弓矢や鉄砲で幕軍をやりこめたことを自慢しあった。そこでの絆の生はやがて終わる、だが死んでもアニマの鳥は飛び立つ――そう思い定めたのである。
その2。島原南西部・天草東部の多くの村は、全村一家をあげて籠城に参加している。収束後に幕府は村の再建のために大規模に植民せざるをえなかったくらいだ。けれども、籠城者には、強制的に参加させられた者、迫害され恫喝された仏教徒も少なくなかったはずである。それゆえ、その数は資料によってさまざまながら、脱落して落人になった人も確かにいる。籠城者のすべてが「かとりかれぷりか」の理念を内面化していたとはいえないだろう。だが、悔い改めれば咎めなしいう幕府軍の甘言にもかかわらず、降伏者の輩出はなかった。少なくとも2万4000人もが最後に虐殺されるまで明日なき闘いに殉じたことは疑いを容れない。
ためらって動揺していた非キリシタンは、「降伏しても地獄」と覚悟したのだろうか?籠城の日々の過程で、かつての禁教の教えのなかに、身分差別・性別不平等のこれまでとは異なる「もうひとつのこの世」を垣間みたのだろうか? いずれにしても、組織的抵抗運動のなかの異端の少数者の問題として、ここはもう少し考えてゆきたいテーマである。
その3。そんななか、唯一生き残った山田右衛門作の「裏切り」の理由はなにか? この人物については、その後の彼の立ち返り(再入信)の真偽をふくめて、これまでいくつかの文学が関心が寄せてきたが、ここでは彼を主人公として扱う堀田善衛の文献①の解釈と評価が興味ぶかい。
堀田は右衛門作の思考として、①彼は明暗ともども事実をリアルを描く先駆的な油絵の絵師であって、その職業人としての希求が延命を選ばせた、②彼は近代的な思考の合理主義者であって、天草四郎の「秘蹟」などを信じられず、灰燼のなかにキリシタンすべてが死に絶えて信仰のなにが残るのか、空しすぎるという疑問にとらわれた――などをあげている。しかし堀田によれば、③右衛門作は、籠城の過程で、確かにキリシタンの言動のまっとうさ・美しさにうたれ、裏切る自分を最低の人間と自覚したという。この自覚は②と結びついて、ここに、「見ていろ、人として最低のこの俺が、よりによって最低の奴になりさがり、この城にいま在る、もっとも気高いものを世に伝えてやるぞ・・・」という思いに辿り着いたという。
堀田善衛が右衛門作を否定的な人間像としていないことはいうまでもない。安保闘争のどよめきに原城の祈りの斉唱と同じ「海鳴り」を聴いた堀田は、情感を込めて原城の人びとの群像を描いた。だが、アッツ島やサイパン島の悲劇を知る堀田は、「玉砕」の否定という文脈で原城の「ユダ」に共感したのだ。そればかりか堀田は、水溜真由美が丹念に辿るように、乱世のなかを生き延びてまのあたりにした過酷な事実の記録者になるという知識人の宿命的な役割に自覚的であった。堀田はこうして、「偽装転向」して生き延び酸鼻をきわめる過酷な体験を後世に伝えるという、右衛門作の生きざまを掬い上げたのである。
私たちはいま、民衆叛乱どころか、まったく合法の街頭行動も、憲法に保障されたストライキなど労働者の直接行動も、欧米や韓国とは違ってまったく枯死している現代日本に生きている。選別の競争に個人として打って出るほかない、それは新自由主義の「この世」である。
私は2023年9月、おそらく最後の著書として、1984年~85年イギリスの炭鉱大ストライキの軌跡を個人レベルの体験にまで降りて辿る『イギリス炭鉱ストライキの群像』(旬報社)を刊行した。10万人以上の坑夫とその家族が1年間、刑事的・民事的弾圧と貧窮にたえて貫かれたこのストライキは、その後グロ-バルに広がる新自由主義体制への労働運動の最初の闘いであったけれど、坑夫たちと炭鉱労働組合は、あらゆる権力の資源を動員したサッチャー政権にたいして避けがたい敗北を喫するにいたる。
このたび島原の乱の関連文献を耽読したことに、この拙著の執筆体験はどこかでつながっている。もちろん時代も国も、叛乱の「敵側」の物量も、生死を左右する緊迫度も、両者の間ではまったく異なる。だが、慶長期の島原・天草のキリシタン農民と80年代のイギリスの坑夫とは、貧窮と叛乱を絶滅させる権力諸機関の合力によって、「護るべきもの」に殉じて敗北していったことは同じだ。その共通性から思うことは、敗北後に現出した世界をいくらかでも批判的に検証しようとすれば、かつての闘いにおける敗者の眼の復権が不可欠だということにほかならない。
新自由主義の世界にその掲げる自由の偽りをみるならば、イギリス炭鉱ストライキの群像はレジェンドとしてふりかえられねばならず、日本国家の近代以降にいたる思想統制と暴力行使に注目するならば、この国の江戸期にこれほどの規模の民衆一揆があり、それが容赦なき大量虐殺で終結させられたことがいつまでも忘れられてはならい。歴史における敗者の眼を掬うことなき体制は、それ自体、民衆の抑圧をまぬかれないそれである。