その5 情勢論(1) 15年秋の闘い、統制と自粛の季節へ

 私は性格としては明るいほうだが、このところの日本社会のゆくえの判断ではどうしても暗くなる。例えば2015年10月20の朝日新聞掲載の世論調査の結果をみると、まことに憂鬱である。安保法制については、賛成が36%で前回(9月19~20日)の30%よりも増え、安倍内閣の支持率はなんと35%から40%に増えている。
 9月19日、安倍内閣は、憲法を恣意的に解釈し、矛盾、撞着、ごまかしの「答弁」に終始し、曖昧なところは俺に任せろと開き直って、参議院でほとんど暴力的に安保法制を「可決?」した。およそまともな議会制民主主義の了解を超えるこのような一連の暴挙に、国会前でも全国各都市でも、何千、何万というあらゆる世代と階層の人びとがくりかえし抗議の集会やデモをくり広げた。それから1ヶ月後の世論がこのありさまなのだ。今回の行動は、組織の動員ではなく一人ひとりの自主的な参加によるもの、ここに定着した民主主義の噴出があり、ここに明日の希望がある──その思いには縋りたい。それでもやはり、明るい明日を展望することはできないのである。

 四日市という保守的な地方都市で、脱原発とともに<戦争する国はいや!>と叫ぶ、「オールズ」に偏りがちな市民運動の展開に携わりながら、私もこの間、長らくあきらめかけていた若者たちの異議申し立てを見て、いくたびも胸を熱くしたものだ。
 例えば、6月26日の札幌では、「戦争したくなくてふるえる」若者たち700人のデモのなか、19歳のフリーターという女性は、「私馬鹿そうですか? ギャルは政治を考えてはいけないんですか? いま必要なのは知識じゃなく声をあげることです!」と叫んだという。なんという軽やかな、それでいて心をうつ発言だろう。彼女らにとって、デモはもう「おじさんやおばさんだけ」がする自己満足の行動ではなかった。
 また例えば、安保法案反対のデモに参加したある女子学生の発言が感銘ぶかい。彼女は中学時代、式典で「君が代・日の丸」を拒んで処分を受けた一教師の、校門での訴えに心を動かされた。だが、長らく政治行動には参加できなかった。「彼氏の手前」もあって、みんなにKY(空気が読めない)とみなされるのがいやだったからだ。けれどもやがて、この日本で「KYでない」とは自分の意志を表明しないことなのだと気付かされる。そんなのいやだ、だから、私はいま行動する・・・。それは鋭い感性が可能にした鮮やかな主体性の獲得であった。
 また例えば、もと予科練の生き残り、加藤敦美は、「私たちが生前できなかったこと」、SEALDsのデモに、美しいメッセージを寄せている。特攻で死んでいった先輩、同輩たちよ・・・今こそ俺たちは生き返ったぞ、若かったわれわれが生き返ってデモ隊となって立ち並んでいる、と。思えば伝統とは無念の死者たちにも発言権を認めることにほかならない。SEALDsの若者たちはこうして、もう決して戦争はしないという、死者たちに促された戦後日本の伝統を継承したのである。
 とはいえ、私の記憶に刻まれたこのようなエピソードに関わらず、1980年代以来の国民に定着したシニシズムの岩盤は容易に揺らぐことはないかにみえる。それは、祭りのような社会運動の盛り上がりで「現実」が変わるわけではない、日常生活はなおひっきょうわれわれが抗い続けることができない権力者の管理と支配のもとにある・・・という、世智によって支えられている。

 安倍晋三はいま上機嫌である。そして彼の上機嫌に正比例し私たちは不機嫌になる。今回の「エッセイその5」をはじめとして、これから折りにふれ、私なりの不機嫌な時代の考察と、では、なにが必要なのかについて、思いつくまま素人談義を試みよう。
 まずいえることに、対米協力もとで「戦争のできる大国」に戻すという険しい峠を越えた自民党政府は、60年安保の後のように、さしあたり経済の繁栄、つまり安倍の想定では国民「一億が活躍できる」機会の拡大に注力するだろう。実のところ、牽強付会の憲法解釈を通した政府にとっては、対立を招きかねない憲法9条の改正などはすでに喫緊の課題でないかもしれない。それにシリアは遠く、中国の進出がすぐに「存立危機事態」を招く可能性は低い。安倍は、岸退陣のあと経済成長で国民統合をはかろうとした池田にもなりたいというわけだ。安倍政権は、人びとの関心を安全保障や原発から遠ざけてきたエコノミックアニマル志向に、国民を再び引き寄せようとするだろう。
 アベノミクスはしかし、派遣雇用を活用できる職場領域をいくらでも拡大できるような今回の法改正に典型的に見るように、深化しつつある格差社会の底上げを図る政策ではない。それがめざすのは総じて、社会保障に頼らずともやってゆける一部の精鋭サラリーマンや総合職的な女性社員が、いっそう「活躍」でき子供を増やすことのできるように便宜を供与することであろう。貧困の連鎖にあえぐ非正規雇用の若者が、奨学資金の免除や大型免許などの無償の職業訓練などに惹かれて「経済的徴兵」に応じるならば、それはそれでいいのだ。ついでにいうと、労働組合運動がさらに衰退しても、安倍は経済成長のための賃上げを財界に頼んでくれもするだろう。もっとも政府の財界への働きかけが、企業規模別、雇用形態別、性別の賃金格差を自由に決める経営権を侵すことは決してないけれども。
「これからは経済発展です」と唱える一方、安倍政権は、アメリカと並んで戦争準備も怠りなく原発の稼働も輸出もできる日本を「大国」として誇れ、かつてのナショナリズムを取り戻せと、国民を強力に誘導してやまないだろう。すでに閣僚20名のうち11名は日本会議、17名は神道政治連盟のメンバーであることにも注目したい。周知のように「自主憲法制定」「皇室と日本文化の尊重」「国家儀礼の確立」「道徳教育の強化」などが両団体の主張にほかならないが、この超保守主義は、かつての侵略や植民地支配を直視する視点を「自虐史観」と難じるゆがんだナショナリズムの立場に直結している。さしあたり、沖縄タイムズ、琉球新報、朝日新聞などをつぶせとわめき、恥ずべきヘイトスピーチまであえてするファシスト的な言辞は、民間右翼や一部の政治家個人のものである。だが、例えば百田尚樹などの重用にみるように、こうしたウルトラ右翼は、安倍にとっては自分はまだ公然とは言えないことを言ってくれる先兵であり、ナチス台頭期の突撃隊のような存在である。そうしたウルトラ右翼の言説が最近はばかりなくなっていることは、挙例にいとまがない。
 ウルトラ右翼の言辞はまだ嗤っていられる。けれども市民生活にとってより問題なのは、いくつかの地方行政体が、多少とも政府批判的な市民行動に会場使用などの便宜供与を控えるようになりつつあることだ。政権の意を迎えるためか、あるいは右翼がねじ込んでくると困るという配慮のためか、いずれにせよ、およそ「政治的」なことにいっさい関わるまいとする、団子虫のような臆病さと事なかれ主義がそこに見られる。こうした動きに地方公務員の間から抗議の声が上がらないのはなぜなのか? 
 この傾向は教育行政においてとくに著しい。教育委員会は、教師たちが教育上の創意と工夫を開発してきた日教組の教研集会を学校で開くことを不許可にしたり、あるいは「安保法制」を授業で取り上げた教師のリストを報告させたりしている。政府は、18歳までの選挙権拡大を控えて高校生の政治活動を取り締まる措置を制度化するのに懸命であるが、すでにはじまっている統制をみれば、さなきだに査定の強化によって発言の自由を失っている教師はもとより、一方では政治に関心をもたねばならないと説教されもする生徒たちも、およそ政治に、ひいては社会そのものに関わらないことが偏らない「正しい態度」だと学ぶことになるだろう。言うまでもなく、考えない、関わらないことは支配権力を支持するということと同義だ。文科省が大学の人文・社会・教育系の学部を縮小・再編しようとする目論見ももちろん、政治や社会を分析する批判的知性の育成を阻むところにひそんでいる。
 憂鬱なことに、テレビを代表とするマスメディアにも、批判的ジャーナリズムの「芽むしり仔撃ち」が進んでいる。過度の自粛、自主規制が働くようになった。無頼の反動を会長にいただくNHKはもう政府の御用機関みたいだ。その報道が、くわしすぎる災害報道とアスリートの活躍(それも日本人だけの!)に偏り、政治・社会・労働などのテーマでは、デモやストライキなどおよそ社会運動というものをまったく軽視している。民間放送は、例えばこの間の安保法問題に見る限り、安倍晋三が好んで出演するフジテレビなどを別にすれば、総じてはるかにましだった。しかし、大学の世界でも、私立の立教大学が安保法への抗議をふりかえるシンポジウム(10月25日)が「政治的である」との理由で講堂を貸さなかったのと同じように、公共部門での統制が、「民間」の、それこそがまさに「政治的」な追随の自粛を招くことは十分にある。ここでも、例えば体制批判のコメンテーターが登場できる余地は確実に狭まるだろう。この間、俳優たちの政治的発言が乏しいのも、おそらくテレビドラマに出演できる機会が狭まる、つまり「干される」のを怖れてのことであろう。

 多くの友人たちとともに、私にとって誇るべき日本とは、人権と非戦の現憲法のもと決して戦争をしない国のことである。憲法九条こそは、例えばトヨタの車やパナソニックのテレビやイチロー以上に私たちの国の輝くブランドなのだ。しかし、このような私の日本は、安倍晋三のもたらそうとする日本とは真逆のものであるゆえ、私たちには窮屈で不自由な、焦慮と鬱屈をまぬかれない時代がやってくる。あえてファシズムの足音が聞こえるともいえよう。
 この流れに抵抗するという立場に立つとき、この晩春から晩夏にかけて示された、組織の動員ではない個人としての政治参加は、光にともなうどのような影をもつだろうか。そして結局、どのような営みが要請されるだろうか。次のエッセイでは、そのあたりを考えてみたい。

その4 過労死・過労自殺の重層的要因と労働者の主体性

──過労死防止学会発足記念シンポジウム(2015年5月23日)報告

 私の過労死研究はもともと、たくさんの労働者が職場史や生活史のなかで、どのように働きすぎに、どのように死に追い込まれていったかを、物語として再現することに関心を寄せてきました。私の過労死に関する著書『働きすぎに斃れて――過労死・過労自殺の語る労働史』(岩波書店、2010年)は、そういう内容です。だから、本来はきわめて具体的な労働者体験を語るのが好きなのですが、今日はもっぱら論理的な考察に絞ります。職場の状況に関する具体的な事実は省略して、広義の過労死の重層的な原因を把握し、その要因のなかでも、私が重視する日本の労働者が仕事に向き合うときのものの考え方、いわば日本的な「働く文化」についていくらか立ち入り、その上で、最後に時間の許す限り、過労死に対してどんな対策が考えられるか──そんな報告をしたいと思います。30分という時間限定はかなり厳しいですから、1分の無駄も許されないという感じ。早速入ることにします。

過労死の根因と媒介要因
 まず、過労死の原因は、きわめて重層的で、遠因や近因がさまざまな形で組合わされていることは、すでにご存じのとおりです。しかし、そのもっとも根底的な原因は、やはり日本企業特有の働かせ方にほかなりません。この点を抜きにしては、いかなる過労死論も成り立ちません。この、いわば働かせるフレームワークは、今日、私が重視して語りたいこと、日本の労働者の働く姿勢・志向性にあまりにも強く関係しておりますので、ここはもういちど振り返ることにして、さしあたり、この働かせる企業労務が過労死の根因であるという確認だけしておきたいと思います。
 けれども、もっともインテンシィヴに、あるいはできる限り長時間、労働者を働かせようという意向は、ある意味では世界共通のもので、世界の経営者はすべてその傾向にあります。では、なぜ日本で過労死という問題がこんなに特徴的に現れるのかといえば、そのように働かせる企業労務が過労死を導くような、あるいは過労死を可能にするような、日本的な媒介要因というものがあると思います。そこのところが実は、日本の産業社会を理解するとき枢要のことなのです。この文脈で私は二つほどの媒介要因を考えます。
 その1は、ずばり言えば、やはり労働組合の弱体化です。過労死元年は1988年といわれますが、そのおよそ5~10年ほど前から、労働組合の働き方に関する職場規制が徹底的に後退しておりました。非常につづめた言い方になりますが、そのころは日本的能力主義管理が浸透・定着しておりました。この日本的能力主義管理の具体的な現れ方はすぐれて「労働条件決定の個人処遇化」ということでした。すなわち、仕事のなかみやノルマ、職務の範囲、配属、そして求められる残業量・・・といった具体的な労働条件が、上司の命令にしたがって労働者が働いた努力と成果に対する査定によって、個人別に決まるようになってきたということ、それが大きな影響を与えました。つまり、広義の労働条件のうち、労働協約とか労働法が一律に規定する部分がきわけて小さくなったのです。
 私はこれを「労働条件決定の個人処遇化」と規定します。この個人処遇化は、労働者のしんどさが、「個人の受難」として現れるということです。この界隈では、過労死・過労自殺にしても、ハラスメントにしても、メンタルヘルス不全にしても、それは従業員の全員に及ぶというよりは、その職場の少数者の問題とみなされがちです。その事例を集計すれば社会的には大きな問題ですが、当該の職場では少数者のもので、企業内では「個人の受難」と扱われてきました。したがってそれは辛辣に言えば、「個人の責任」とされてしまう。<日本的能力主義の浸透⇒労働条件決定の個人処遇化⇒個人の受難=個人の責任>という流れがひとつの連関になっています。そして労働組合は、この連関に介入することを徹底的に回避してきました。組合は「個人の受難」に寄り添わないのです。例えば89年の労働戦線統一時の組合文書には、「過労死」の文字は見えません。過労死元年と労働戦線の統一と同じ時期というのは、皮肉にも象徴的なことと言っていいと思います。例えば、残業にかんする36協定の特別条項。特別条項の適用としてひどい残業があるわけですね。過労死というのはそういうところから起こる。しかし、この特別条項に労働組合はサインしているんです。その点から言えば、労働組合は過労死の頻発に責任がないとは言えない。それゆえ、私は組合の職場規制の後退を過労死の媒介要因の一つとしてあげたいのです。もっとも組合論は、今日はあまり論じません。
 媒介要因のその2は、厚生労働省の方もお話になりましたので言いづらいんですが、やはり労働保護立法も労働行政もダメだったということ。働きすぎを規制すべき政策が不備なのです。これも語ればきりがないんだけれど、たとえば残業時間のマキシマムの法的規制は、日本では基本的にないと言えます。今回、成立した過労死等防止対策法にしても、労働時間規制には踏み込んでいないというのが現状であります。
 また、ノルマとか、個人の残業割り当てとか、そういう具体的な働かせ方の経営権というものは、労働行政としてはある意味で当然の限界かもしれないけれど、「聖域」とされていて、そこには踏み込めないということもある。それから、今の労働法でも駆使すれば、労働基準法で過労死を防止するようなこともある程度できるかもしれないけれど、ご存知のように労働基準監督官は国際比較で見ても大変少ないのです。例えば労働省労働組合などの統計によれば、総じて日本は公務員は少ないのですが、わけても労働基準監督官の労働者数あたりの人数の僅少さには目をみはるほどでしょう。「ダンダリン」がいかにがんばろうと限度があります。こうした労働保護法・労働行政の弱さは否定できないのです。もっともこの媒介要因その2についても、今日はこれ以上立ち入りません。
 もうひとつ無視できないものに、労働を取り巻く日本的な「社会的システム」みたいなものがある。この点について私はこう考えます。日本では、職域を超える普遍的な福祉国家のシステムがなお基本的に貧弱です。そこにジェンダー規範のしがらみも加わって、日本では、男性の会社員人生が成功的であるかどうかが、自分ならびに家族の生活の安寧に実に大きな影響を与えるというところがある。だから結局、男性サラリーマンは会社員人生で成功しないと生活保障が危うい。それは働きすぎのとても大きな駆動因なのです。ここから来るのはどういう生きざまか。私はドイツの労働者の働く姿勢について日系企業の経営者の話を聞いて痛感したのですが、ドイツなんかとは違って、日本の労働者というのは、会社のために働いているということと、自分や家族のために働いているということとの、峻別ができなくなっているのです。自分や家族の人生よりも会社の発展のほうが大切だという考えで過労死するまでに働くのではない。自分や家族の生活のほうがはるかに大切だと思っている。思ってはいるけれども、一番大切なものを守るためには、会社に「精鋭」と認められなければならないと信じ、そのあげく無理に働きすぎてしまうのです。この両者の峻別が難しいというところに、日本の労働者が追い込まれているやりきれなさみたいなものがあります。この社会保障の事情についても、これも今日はここまでに留め、後に議論になりましたら、意見を追加します。
 以上は、先に紹介しました過労死・過労自殺の人びとのエピソードを綴る本で最後にまとめた理論部分の、上澄みみたいなことにすぎません。

働きすぎるノンエリートの主体性
 さて、今日、私がとくに語りたいことは、あえて言えば、過労死や過労自死を招くまでの働きすぎには、「強制された自発性」にもとづく、ある意味での労働者の主体的な働きかけがあるということです。企業や社会に強制された環境のもとで、とはいえ最後には自分が選んで働きすぎているという側面がある。そこを見なければならないのではないか。言い換えれば、過労死・過労自殺に導びかれるような働き方における、労働者のある主体的な適応の側面というものを、今こそ、労働者の思想・労働者の文化として振り返る必要があると痛感します。
 なぜかと申しますと、どんなに「長時間働かざるを得なかった」と言っても、日本の職場はやはり強制収容所の労働ではありません。日本の労働者は奴隷ではありません。最後には、ある自発的な選択があって、あれほどに働いてしまうんです。働いちゃうんです。ここが労働文化の問題として見逃せません。この点はふつうあまり議論されませんし、ある反発も引きおこします。しかし、反発や違和感を覚悟で、今後の闘いのためには、ふれないわけにはまいりません。では、くどいようですが、なぜ、過労死の重層的な原因のうち、最後にあげた労働者の主体的な適応の側面に注目するのか。
 ここを重視することはむろん、一種の危険性があります。なぜなら、たとえば過労死や過労自殺の損害賠償の裁判が行われると、会社側は総じて、先ほどの寺西笑子さんの話にもありましたね、「彼の働き方は会社が命令したものじゃない、寺西は自発的に働いたんだ」という。これは平岡悟さんの裁判以来、いつも繰り返される会社の言い分なんですね、命令したんじゃなく自発的に働いているんだから、と。私が働きすぎには自発的な側面があると主張することには、少し危険な側面があるというのはそこです。しかしながら、労働者の働く文化というものをわれらの側から問い直すことがなければ、今後、どのような法的規制も職場に活かすことはできません。労使関係や労働組合機能にかかわる労働者の働き方の文化についての変革なくしては、法律だけで過労死を防いだり、残業を規制したり、過度のノルマを規制したりすることは絶対にできません。そこをもういちど顧みたい。今後の働き方をめぐる労使関係の営みにこそ、労働者の思想性が問われるということです。今回の過労死等防止対策法を活かすも、形骸化を許すのも、結局は、現場の労働者の働く志向性、思想、文化・・・そういうところに帰着するからです。私が、「強制された自発性」という概念で、労働者のビヘイビアを強制一本で説明することを拒むのは、そのような現場の労使関係の営みへの期待をこめてのことなのです。
 もう少し考察を展開します。労働研究のなかで、私がいつも痛感することがひとつあります。それは、日本の労働状況の一大特徴は、地味な労働を担って労働生活を全うする普通の労働者、これをかりにノンエリート労働者とよびますと、働きすぎがノンエリート労働者にまで広がっていることにほかなりません。たとえばジル・A・フレイザー『窒息するオフィス』(森岡孝二監訳、岩波書店、2003年)なんかを見ると、働きすぎはアメリカのほうが酷いじゃないかと感じもします。しかし精読すると、登場人物たちは総じて上級ホワイトカラーか高度専門職なんですね。彼ら、彼女らは、新自由主義的な哲学と企業に認められて成功する上昇意欲が身についていて、極端にがんばりますので、日本の同じようなクラスの従業員よりも労働時間は長いようです。しかし日本の特徴は、地味な労働に終始するノンエリート労働者が長時間働いていることなのです。
 時間がありませんのでとても簡単な国際比較をしますが、日本の労働時間は、全体的な趨勢としては、突出して長いわけではない。しかし日本で注目すべきなのは、超長時間労働者の比率が高いということです。それは特に正社員男性についてそうなのですが、その比率は職務スティタス上のエリート層の比率を超えています。もうひとつ、週50時間以上働く労働者の比率。OECD諸国のなかでは日本はダントツの金メダルですね。これらについては、レジメの最後のページに、最小限の参考資料をあげておきました。男性正社員の20代後半から30代の後半ぐらいまでは、週60時間以上働く人の比率がおよそ20%弱ぐらいに及んでいること、それから週50時間以上働く男女労働者の比率が日本では30%と第一位であることなどがわかります。
 これはなにを意味するのか。長時間労働をする労働者の範囲が広いということですよ。そこでこの日本の特徴に関して、ひとつの仮説を立ててみます。地味な労働に携わるノンエリート労働者が長時間労働やハードワークを受容する、その熱意や意欲(社会学的にはアスピレーションと言います)の強弱になにが関わっているのか。将来、経営者のグループに入ることが予定されたエリートががんばるというのはわかる。しかし将来の大成功が見こまれるわけでないノンエリート従業員が、日本のようにこんなにがんばるのはなぜでしょう。それは企業内のエリートとノンエリートの間に、はじめからの断絶ではない連続の関係があるからではないかと考えます。
 もう少し説明すれば、ノンエリート労働者が勤続を経てエリート階層に、少なくとの「中間階級」的な存在に昇進していく、その可能性の広さまたは強さのごときものが、現実には結局、一生地味な労働を遂行するノンエリート労働者をも長時間労働・ハードワークの受容に赴かせるのだと思います。これが欧米と異なる日本の特徴です。日本では、長時間がんばって働くという意欲における職種や職位による格差は伝統的に希薄であったということができます。こうしてノンエリート労働者が働きすぎちゃうのです。エリート・ノンエリートという言い方は、ちょっと漠然としておりますから、これを職種に翻訳して考えてみると、境界はかならずしも明瞭ではないけれども、エリート層とは、管理職、高度の専門職、技術職、総合職的事務あるいは営業というような人たちですね。これに対してより広範に存在するノンエリート的な職業とは、工場労働一般、OLなどの一般事務や受付、それから販売職であっても取引営業というよりはルートセールスや店員だったりする、いわゆる裁量労働制の適用は不適な人びと。それから今では決して無視しえないサービス職の増えつつある労働者。サービス職というのは、まあ「マック仕事」みたいな接客関係、産業としては飲食店で働いていることが多いです。日本では、今あげましたようなノンエリート層も、彼ら、彼女らに命令するエリート層に牽引されて働きすぎになる傾向があります。
 この日本的特徴に深く関わってくるのは、先にペンディングいたしました日本企業の働かせるフレームワークです。この過労死の「根因」に戻りますと、日本の労働者の働くフレームワークを今後どのように変えていくかということが、大きな意味では過労死対策の大きなテーマになってくると私は思うのですが、とりあえず今の文脈では、ノンエリート層に及ぶ働きすぎに関わって、ひとつは年功制のもっている一種の平等性みたいなことがあります。この年功制では、上位職務、中位職務、下位職務が連続的な階梯としてつながっています。このことは、勤続を重ねて昇進を追求していく従業員の範囲の広さと、昇進を追求する期間の長さに深く関係しているのです。抽象的な言い方ですけど、日本企業ってそうなんだと、働いている方にはすぐにわかるのではないかと思います。ただ注意が必要です。企業内の上昇競争に参加する従業員の範囲が広いという平等主義には裏があります。ここのところは誤解されてはなりません。年功制はトコロテン・システムではありません。みんなが同じように順調に昇給し、定年まで雇用が保障されるのであれば、ノンエリートまでそんなにはがんばらないけれど、現実の年功制というものは、およそ1960年代後半ぐらいからはっきり、勤続プラス査定のシステムになっており、サラリーマンの昇給の程度や昇格や昇進を決めるのは最後には査定なのです。
 このような現実の(査定つき)年功制のなかに、日本特有の具体的な仕事の与え方が重なってきます。日本企業では、労働研究の定説ですが、職務区分が曖昧です。だいたい欧米では特定の職種や職務に応じてその能力をもつ人が雇われるのに対して、日本での正社員雇用とは従業員としてのメンバーシップの付与にすぎません。どんな質量の仕事をするかということは会社に入ってから与えられるのであり、就職というよりは就社だといわれてきました。仕事の範囲がフレキシブルなんです。フレキシブルということはよくいえば硬直的でないことですが、わるくいえば上司のいうがままということ、がんばるかがんばらないかということで処遇が違うということを意味します。このことの土壌に適合的なものとして、先ほど組合運動のところで言及しました「個人処遇化」が進んできたのです。仕事の範囲や配属、個人ノルマや残業に関する企業の要請を、フレキシブルにこなすという日本的な能力主義が、70年代後半には定着いたしました。過労死元年の80年代末ともなると、その状況はすでに爛熟期を迎えています。その上、日本的能力主義にはのちに成果主義も重なって、労働者に対する要請はいっそう厳しくなっています。どこの国でもそうなっているということはできません。新自由主義の浸透とともに、欧米の一部でもかつてのゆとりある働き方は難しくなっているということはいえましょうが、基本的には欧米は、もういちど申しますと、経営者もしくは経営者の候補者と、普通の労働者、なかんずく組織労働者の働く姿勢は、なおかなり違うんです。日本ではしかし、ノンエリート労働者も、企業内の上位オピニオンリーダーによって働き方を牽引されていて、ずるずるずるとつながっているような関係がある。ノンエリート労働者も「強制された自発性」に駆動されて、健康を損なうまでに働かなきゃならないという状況なのです。

「強制された自発性」の多様性と変化
 許される時間はわずかだと思います。最後の改善論・実践論にあまり独自性はありませんから、あとこれだけは付け加えておかなければ、ということを語りますと、あなたは「強制された自発性」と言うけれど、これはどういうことですかということだと思うんです。簡単に言いますと、どの労働者の働きすぎにも、強制と自発の両側面があります。しかしより具体的には、もちろん「強制と自発の混合比」には、時期的な変化と、階層別の多様性が認められます。階層別の多様性のほうを先に説明しますと、強制の側面というのはね、生活のため、過重ノルマや過度の残業をやむをえず呑み込んでがんばらなきゃならないということ。一方、自発的な側面の内容はよりさまざまです。会社から高い期待をかけられている、昇進の可能性も高いので期待に応えたい、また、しばしば仕事そのものの内容に面白さがある、自己表現性とか、顧客の喜びの実感とかがある──チャレンジしてみよう。そんなことから自発性が喚起されるわけです。この強制と自発は、まったくは二律背反でなく、どの仕事にも混じりあっているのですが、どちらの側面が強いかは職種とスティタスによって異なるでしょう。この区分は、予測可能性も含む、個々の過労死の要因の把握には役立つでしょう。一般に、先にあげましたエリート的な上位職務の担当者の過労死には自発の色彩がわりあい濃いようです。とくに仕事そのものが「おもしろい」専門職の場合はそういうところがあって、対人サービス専門職などは、労働条件がどんなに悪くても、「利用者さん」の喜ぶ顔さえ見られれば・・・と突き動かされるように働く若者も少なくありません。しかしながら、ノンエリート職とか、「しょもない仕事」とみずから言う非正規労働者の場合などは、強制の色彩が強いです。
 とはいえ、「混合比」の時期的な変化のほうがもっと大切かもしれません。「強制された自発性」という以上、その過労死には自発の側面がかなりあった、そんな時代も存在したと思います。それはやはり高度経済成長期、または、なおその余燼が残る時期です。その頃には、戦後初期の自動昇給的な年功制が後退したあと日本的能力主義の浸透がありました。その時代には、がんばれば「労働者も中産階級へ」ということが、かなり実態だったのです。その実態を見すえて、学歴の高くないノンエリート労働者も、いわば進んで長時間労働者やハードワークを受容してきました。初期の過労死のいくつかには、そういう性格もまとわりついております。例えば、経済成長があれば企業の発展があり、企業の発展があれば支店が増え、支店が増えれば支店長も増えるんです。支店長になるということは、些細なことかもしれませんが、とくに競争資源をもたないふつうのサラリーマンにとっては、やはり具体的にして大きな目標ですよ。そんなことでがんばってきたというところがある。
 しかし今はその後こそが問題です。低成長期の到来と平成不況の継続、そして企業社会の現時点を考えますと、説明を抜きに申しますと、ふつうの労働者の中産階級化は虚妄になっております。企業内の成功的サラリーマンの比率は低下し、労働者同士の競争の目的も、階層上昇というよりはせめてほどほどの昇給と雇用だけは確保したいというサバイバル的な競争になりました。競争のサバイバル化が際立ってきた90年代後半ぐらいからは、「強制された自発性」と言いましても、実際は「強制」の色濃い、しかしいくらかは「自発」の働きすぎが常態になっています。代表的な事例として、いわゆるブラック企業では、若者は自発的に働いているんだと、もう言えないところがあります。そして一方、増加の一途をたどる、はじめから年功制と企業別組合の外なる非正規労働者も激増しております。この非正規労働者も、親や配偶者に完全にパラサイトしている場合には、欧米ノンエリート的な、悠々たる働き方でいけるかもしれないけれども、それもたいていは幻想で、今では非正規雇用者が生活費の主要な担い手たらざるをえない状態がむしろふつうです。 中年近いシングルマザーなんかが代表的ですね。こういう場合には、なんといっても、稼ぐ必要に強制されて長時間労働を引き受けざるをえないことになります。そればかりか、非正規労働者の労働条件が劣悪であるということが、正社員の働きすぎの鞭になる関係もある。非正規労働者だけにはなりたくない、正社員にしてもらえるのであれば、どんなにしてもがんばって働くんだというわけ。最近の若者の過労自殺は、非正規雇用から正規雇用にされた人の衰弱死がすごく多いんですね。最近では、非正規から正規になって、すぐに責任の問われる店長になって、本当にすぐに過労死、過労自殺するというのは、決して誇張ではありません。
 全体として、階層上昇のための競争はサバイバル競争に変化しました。労働現場では、ノルマの過重化や、それを達成させるためのハラスメントが横行し、若者たちは、過労自殺(これはまぎれもなく多発しています)の直前には、もはや強制か自発か、自分では判断のできないまでの心の漂流に追い込まれています。彼ら、彼女らはいわば憑かれたように死に引き込まれてゆく。なぜあんなに働かされて死ぬのか、強制とか自発とかの区分そのものがむなしいようなところまできているように思うのです。
 しかしながら、そうであっても、くりかえしいえば職場は強制収容所ではなく、労働者は奴隷ではありません。強制の側面が強くなったとはいえ、働く姿勢にはなお自発性によって改変できる余地はあります。そう考えてこそ、過労死を生む労働環境は労働者が主体的に変えうるのです。その具体的な戦略については、時間の都合でここでは省略するほかありません。しかし、今日の私の議論の主題である働き方の主体性にふれてひとこと言えば、私たちの国・私たちの時代の労働者に認識してほしいことは、雇用形態を問わず、経営者に昇進することなく、たいていは一生、地味な仕事を続けることになるノンエリート労働者がふえてゆくことです。もう、企業内の新自由主義的な哲学を内面化した精鋭エリートに、牽引されたり、操作されたり、唆されたりして、なかま同士の競争に身を投じ、過労死の心配を封じ込めて働きすぎることがあってはなりません。そのような生きざまが「ものになった」時代は終わったのです。
 誤解されては困りますが、私は過労死・過労自殺の根因は労働者の主体的で自発的な労働意識だと言っているのではありません。それはわかっていただけるでしょう。自発性と言っても、それはなかなか抗いがたい強制の環境下で選ばれているからです。けれども、死に至るまでの働きすぎを受容してきた労働観を顧みることは、やはりこれからの私たちには不可欠なのです。もう一件の過労死・過労自殺も出さないと心を定めるならば、普通の労働者は、なんといっても、「命どぅ宝」というか、ワーク・アンド・ライフバランスを死守するんだというノンエリート的思想に自立を遂げていただきたいと思うのです。それなしにはいかなる法規制も組合規制も強靱たりえません。戦略論の最初が、労働時間のインターバル規制や残業規制であることはいうまでもありませんけれど。
 全体につづめすぎた語りになってしまって申しわけありませんでした。

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その3『家族という病』の耐えられない軽さ 

子離れができない親は見苦しい
大人にとってのいい子はろくな人間にならない/家族の期待は最悪のプレッシャー
家族のことしか話題のない人はつまらない/家族の話はしょせん自慢か愚痴
「子どものために離婚しない」は正義か
「結婚ぐらいストレスになるものはないわ」/家族ほどしんどいものはない
家族に捨てられて安寧を得ることもある/孤独死は不幸ではない
結婚はしなくても他人と暮らすことは大事
家族写真入りの年賀状は幸せの押し売り・・・

これは大ベストセラー、下重暁子『家族という病』(幻冬舎新書、2015年)の広告の惹句である。私には大ベストセラーは総じてくだらない本とみるひねくれたところがある。しかし、上の発言には「うん、たしかにそうだよな」と感じることもあり、私自身も成人した息子たちとの関係にはいまだに悩まないこともないわけではないので、つい買って読んでしまった。惹句は各節のタイトルでもあり、内容はほぼ節題につきる。なんという軽い本だろう。

地域や親族、それに働く場所として大切な企業のなかでかつての共同性を失いつつある現代の日本人は、家族の絆というものにいわば過剰な期待を寄せている。とくに多くの人びとがかけがえのない家族を失う痛切な悲哀を体験した大震災ののちは、政府やマスコミによる家族愛の鼓吹?もあって、家族の絆への心の依存はいっそうつよくなっているかにみえる。
けれども、本当は震災前から、家族があれば生きてゆけるという基盤は大きく揺らいでいた。くわしく述べるまでもあるまい。一方では人口高齢化が、他方では雇用不安定を主要因とする労働生活の劣化・ワーキングプアの累積が、老若男女を問わぬ単身世帯の不可逆的な増加、少なからぬ若者の半失業、非婚とパラサイトの傾向、「労労介護」を典型とする家族介護の無理な負担などをもたらしている。総じて家庭内の孤独と緊張は高まっており、家庭内暴力やDVが頻発する。下重のいうように今日、犯罪のかなりの部分は家庭内で起きたものだ。そうした現実を見すえるならば、どんな家庭に育つにせよ、成人した者たちはなによりも自分という個人を大切にして、家族主義を相対化すること、心の上でも、できれば経済生活の上でも、家族離れすることが必要であろう。上の下重の諸発言は、その点で納得できるのである。

とはいえ、私にはまた、家族への愛執、いつまでも捨てられない恋々とした執着は、事実として、普通の人、とくに社会的に「要人」でない庶民にとってみずからのアイデンティとわかちがたいという思いに、どこまでもとらわれている。とくに子どもが未成年のときには、人はすぐれて家族とともに生きる幸せに溺れる。子どもの写真を「見て見て!」というのは、子のない友人をふくむ他人がなにを見たいかの配慮に欠ける一種の「排他主義」かもしれないけれど、幸せそうな家族のようすが唯一自分にとって誇らしいものとする意識を嗤うことはできない。どこの国、いつの時代にも、庶民は家族愛に執着し、その日常意識は家庭の範囲内でぐるぐるまわるのである。
さらに敷衍すれば、人が家族のために、ある負担を背負うばかりか、他人からみれば「犠牲になる」ことさえ、かならずしも不幸せとはいえないだろう。そもそも庶民は、つらい仕事でも、家族を中心とした「傍ら」の誰かが「楽」をするために耐えて働いてきた、つまり「傍楽」労働観のなかに生きてきたのだ。家族のために働くのは、エリート層がよく言う「企業、国民経済、国家のために働く」のにくらべて、決して人としてコンプレックスを感じなければならない営みではない。そしてまた「愛執」に戻るならば、人はその捨てがたさゆえに、社会的・経済的に「一家団欒」の条件が失われようとするときにいっそう、あえて過剰に家族の愛を求め、その絆に期待してしまうのだ。思えば家庭内犯罪も、この否定できない愛執の惰力の産物であろう。愛着なければ激しい憎しみも生じようがない。それゆえにこそ、家庭内犯罪は悲劇的なのである。

NHKのトップアナウンサーであり、エッセイスト・「作家」として成功した下重暁子にも、むろん出身家庭にかかわる葛藤があって、それが彼女の個人尊重の家族論に繋がっているのだろう。彼女は仕事のために子育てをあきらめ、いまマスコミ関係職にあった理解ある夫とのDINKSの「個性的な」生活を満喫する。他人が忙しいときに海外旅行などができる条件があるゆえに、年末年始はたいてい執筆などの仕事、紅白歌合戦などは見ず、元日は夫とともに和服でおとそを祝い、ウィーンフィルのコンサートなどを楽しむ・・・。そんな下重暁子には、子どもたちも一緒にみてくれないかなぁとひそかに願いながら紅白歌合戦などを見ている「おとうさん」の所在なさはわからないだろう。目線が高すぎるのだ。普通の人が下重の発言どうりの距離をもった家族への接し方をするには、どれほど、例えば仕事は自慢できる状況になく、それゆえそれが「唯一のアイデンティティ」にさえなっている家族への愛執をあきらめねばならないか、そこへの目配りがない。お叱りにも聞こえる下重の発言には、不都合なやりきれない要素と対決しようとする迫力がまったくない。それでは評論にもならない。例えば私は、日本のサラリーマンが企業の能力主義的選別から我が身をもぎはなすべきことを年来の主張としてたけれども、そのためには、日本の労働者の日本型能力主義への帰依がどれほど根の深いものか、そこからの離反がどれほど心の緊張をもたらすものか、したがって、それができるためにはどのような組合運動が不可欠か・・・といった分析を迫られたのである。
そのことと関連して、下重暁子が、現在の多くの庶民の家族主義を危うくしている貧困、そしてその根因である労働問題に無関心なことも本書の大きな欠落点といえよう。下重は、自分と夫の職業上のステイタス、「恵まれた」存在が、みずからの家庭論の背景になっていることを、きちんと意識していないかにみえる。今日、家族・家庭について一本をまとめようとするなら、この文章の第4段落で素描したような諸要因に最小限はふれなければ、平均的な家庭を論じたことにならないだろう。それがないお勧めはいきおい言葉だけのものになる。薄っぺらな本だ。このベストセラーには当然ながら酷評も多いという。反応の多くはしかし、「家族の否定は道徳、社会、国の否定につながる」という、論じるにも値しない伝統主義からの批判ではなく、「わかるけどそんなこと言われてもなぁ、うちじゃいろいろあるし・・・」といった不充足感であろう。その結果、発言は聞き流される。思えば、その「いろいろあるし・・・」こそ、物書きが凝視すべきものではないか。例えば角田光代、金原ひとみなどによるすぐれた「家庭小説」には、その凝視がある。
私が今後、下重暁子の著書を繙くことはないだろう。

その2 いつまでも映画ファン

 その2 いつまでも映画ファン──2014年のベスト、今冬の感銘

 映画は、私にとっていわば感性を再活性させるビタミンである。「生きついでゆく日々」にどうしても欠かせない。高齢になっても、映画の感銘をたどれば、社会に大切ななにかがわかり、自分の価値意識がどこにあるかがわかる気がする。旧シリーズのHPでも三ヶ月に一度は「この映画をみて!」と綴ってきた。そのごく一端を新著『私の労働研究』に「スクリーンに輝く女性たち」という編集で再現できてしあわせであった。そんな映画に対する愛執の記述を再開したいと思う。
 しかし、HPの再発足までに、紹介すべき積み残しが多くなりすぎ、今の時点ではどこから書き始めればいいのか戸惑ってしまう。とりあえず今回は、例年紹介する「私のベスト」の2014年版を、ほとんどタイトルだけ記しておきたい。

邦画では、佳作はいくつかあれ、「ベスト」はやはり少なく、前年度作品を加えても5篇にとどまる。

 ①呉美保『そこにのみ光輝く』、
 ②(前年度作品)ヤン・ヨンヒ『かぞくのくに』
 ③熊切和嘉『私の男』、
 ④武正晴『百円の恋』、
 ⑤(前年度作品)小林政弘『春との旅』。

 いずれも、しがない者たちが、容易に出口のみつからない状況のかなたに、ようやくひとすじの光を得てあゆみはじめる物語。切実な感動にとらわれる。池脇千鶴、安藤サクラ、二階堂ふみ、徳永えりなど、アンチ・ヒロインたちの映えがすばらしい。
 洋画は、ベストテンを選ぶにも苦労する。これらは、後期高齢者の私にもまだ見知らぬ世界が広がっていると感じさせ、人びとの愛の力というものへの信頼を甦らせる。

 ①韓国、イ・ジュンソク『ソウォン/願い』
 ②中国、ジャン・ジャンクー『罪の手ざわり』
 ③アメリカ、アレクサンダー・ペイン『ネブラスカ』
 ④フランス、 アブデラティフ・ケシュシュ『アデル、ブルーは熱い色』
 ⑤ギリシャほか、テオ・アンゲロプロス『エレニの帰郷』
 ⑥アメリカ、アルフォンス・キュアロン『ゼロ・グラビディ』
 ⑦アメリカ、リー・ダニエルズ『大統領の執事の涙』
 ⑧インド、アグラーナ・バス『バルフィ、人生に歌えば』
 ⑨アメリカ、ジェームズ・グレイ『エヴァの告白』
 ⑩ルーマニア、カリン・ペーター・ネッツァ『私の、息子』

 それぞれについて、とくに①から⑤など、「よかったよ」と語り出せばあまりにつきないので、今回はリストの定時だけにしたい。ただつけくわえれば、もともと「社会派」好みの私にとって、上の④、⑥、⑧などは、朝日新聞での紹介がなければ見なかったかもしれない。けれども、それらは文句なしに、すれた映画ファンの私を脱帽させる魅惑的な作品であって、映画の世界の果てしなさをよろこばしく感じさせたものである。そのほか、「次点」クラスの作品のいくつかもあげておこう──『リスボンに誘われて』(ピレ・アウグスト)、『シャトーブリアンからの手紙』(フォルカー・シュレンドルフ)、『あなたを抱きしめる日まで』(スティーヴン・フリアーズ)、『悪童日記』(ヤーノシュ・サース)、『フューリー』(デヴィッド・エアー)、『レッド・ファミリー』(イ・ジュヒン)、『お休みなさいを言いたくて』(エーリク・ポッペ)など。いずれも重いテーマを背負う、しかもベストテン入りしてもいい作品だったと思う。例えば『フューリー』は、数ある戦争映画の良品のなかでも新境地を開くものということができる。
  
 さて、このような作品の多くは、四日市など地方都市のシネコンではほとんど上映されないので、妻と私は、およそ週に一度、名古屋の伏見ミリオン座、名演小劇場、今池シネマテークなどに足を伸ばす。しかし交通費もバカにならないので、よく2本立てにする。上映時間や所要時間を調べて、食事、名古屋おなじみのコメダでの喫茶、休息、読書、ときに仮寝などを組み込んだ計画を立てて出かける習慣である。そこで、「この映画をみて!」新シリーズの皮切りとして、今冬にみた私好みのA級作品をいくつか紹介しておこう。
 ひとつは、一流ホテルへの就職の夢破れて、新宿は歌舞伎町のラヴホテルの店長として働く徹(染谷将太)の24時間を描く、広木隆一監督、荒井晴彦脚本の『さよなら歌舞伎町』である。なんとこのラヴホテルに、歌手志望の恋人(前田敦子)とプロマネージャーが、わりのよいアルバイトでAV映画の撮影に東北の故郷の妹が、純情な家出少女と風俗産業のスカウトマンが、明日帰国するため今日を限りに客につくす韓国人デリヘル嬢(イ・ウンウ)が、そして不倫の刑事と部下の女性刑事がやってくる。一方、ホテルの掃除婦(南果歩)は、明日時効の成立する逃亡中の男(松重豊)と同棲している・・・。これらすべて「わけあり」の者たちの性愛の悲喜劇が織りなされる一種の群像劇なのだ。ポルノ映画みたいな趣きもある。
 この映画は、そのいささか便宜的な設定にも関わらず、結局は感銘ぶかく幕を閉じる。それは、逃亡中の男を逮捕しようとして彼ら、彼女らに妨げられる刑事の不倫カップルをのぞけば、これらの不器用な人びとが、うちのめされてもひたすら優しさを失わず、それゆえに、ついにはかけがえのないつながりを取り戻す、あるいは新にそれを見出すにいたる物語だからだ。いちどは泥まみれになってもいいよ、若者がよく言う言葉では、「大丈夫だよ」というメッセージが伝わってくる。

 もうひとつは、ウベルト・パゾリーニの『おみおくりの作法』である。ロンドンの庶民街ケニントンの区役所の民生係、ジョン・メイ(エディ・サーマン)。その仕事は、孤独死した人の遺品を始末し、たいていは空しく身寄りを捜し、一人で葬儀に立ちあうことだ。みずからも孤独で冴えない中年男の彼は、業務の必要を超えてそれぞれの死者に寄り添い、生の痕跡をアルバムに残そうとする。しかし役所はかねてから合理化を目論んでおり、メイはついに、のたれ死にした粗野な男の葬儀を執り行うことを最後に離職することになる。最後の仕事への献身はみごとに実を結んだ。そのプロセスのうちに、探り当てた男の娘(ジョアンヌ・フロガット)との間にほのかな愛さえ芽生える。
 だが、突然に、メイは交通事故で人知れず死んでしまうのだ。男の葬儀には多くの知己が参集した。その傍らで、誰にも寄り添われることなく彼は葬られる。それでも、その墓所には、やがて幻のうちに、彼だけに寄り添われた無数の死者たちの幻が訪れるのである。孤独な人びとにもかならずあったはずの絆をひたすらみつけようとしたこの地味な公務員の生の尊厳に、静謐で深い追悼の思いがこみ上げてくる。

 最後にはやはり、中国の巨匠チャン・イーモウの『妻への家路』を語らなければない。物語は、文化大革命の「下放」で地方に収容されたインテリのルー(チェン・ダミオン)が、妻フォン(コン・リー)に会いたくて脱走するところにはじまる。しかし、バレーに夢中で「紅色娘子軍」の主演に選ばれたくて党に忠実な娘のタンタン(チャン・ホウエン)はこれを密告し、ルーは逮捕されてしまう。それから20年を経て、ルーはようやく釈放されて帰ってくる。しかし、フォンは、孤独が薨じて心の病を得ており、夫を識別できなくなっているのだ。にもかかわらず、夫への愛は深く、それゆえ、帰郷が許されたことを知ると、妻は夫の名を書いたプラカードをもって月にいちど駅頭に立つ。夫は、自分を空しく待つ妻にそのつど付き添いながら、一方、ピアノや手紙などあらゆる工夫をして、妻の記憶を取り戻す懸命の働きかけを続ける。この映画は、ナチの強制収容所で記憶を失った夫の心を取り戻そうとする61年のフランス映画の名作『かくも長き不在』(アンリ・コルピ)に似ているけれど、なんというやりきれない淋しさだろう。
 けれども、働きかけは結局むなしい。もう老いた夫婦は今日もプラカードを掲げて駅にくる・・・。それを正面から撮るラストシーンには、あたかも古典絵画のような粛然とした美しさがある。寄り添うとはときに、このようにも切実なものだろうか。
 チャン・イーモウは、最初の逮捕劇やバレー・シーンですさまじい迫力を盛り上げ、後半では、ともに名優の夫妻を静かながら緊張した舞台劇のように息づかせる。
(2015.3.25記)

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映画情報(2015年3月25日現在)

『そこにのみ光輝く』 公式サイト
『かぞくのくに』 公式サイト
『私の男』 公式サイト
『百円の恋』 公式サイト
『春との旅』 Amazon 原作本へのリンク

『さよなら歌舞伎町』 公式サイト
『おみおくりの作法』 公式サイト
『妻への家路』 公式サイト

その1 残業代ゼロ法案の欺瞞

ホワイトカラー・エクゼンプションへの「トロイの馬」
           ──「高度プロフェッショナル労働制度」考 2015.2.21記

 厚労省が労働政策審議会に提示した「残業代ゼロ」「高度プロフェッショナル労働制度」について考えるとき、なによりも忘れてはならないのは、現在、日本のホワイトカラーの多くが、とかく曖昧な労働時間管理の下で、達成の程度を厳しく査定される過重なノルマを課せられ、本来は非合法のサービス残業や休日返上を通じて他の先進諸国の水準をぬく長時間労働を余儀なくされていることだ。健康やワーク・ライフ・バランスを損なうような働きすぎが常態になり、過労死が跡を絶たない根因もここにある。そもそも「時間ではなく成果に応じて支払う」という、公平感に訴えるような枕詞は欺瞞である。仕事の成果を問われずに「だらだら」働いている労働者はすでにごく少数にすぎない。また、時間だけで支払われている?というなら、なぜサービス残業があるのか?

 企業の能力主義管理はすでに労働時間の多寡だけの評価方式を脱却してはいる。だが、残業や深夜業への割増手当の法的義務をすっきりと免れたい企業は、能力や成果だけを評価するシステムを可能な職域から導入したい。今回の提案は間違いなく、働きすぎすぎを助長するこの「ホワイトカラー・エクゼンプション」への第一歩となる。
 金融商品の開発・ディーリングやコンサルト、製品・サービスの研究開発など、仕事量などに関して「企業に対する個人取引力がある」と想定される「高度プロフェッショナル」への職域限定。従業員の平均年収の3倍以上、1075万円以上という収入条件。これらをみれば確かに新制度が適用される範囲はさしあたり限られるかもしれない。だが、働きすぎ防止の歯止めとして提案されている措置──在社時間と自己申告の社外労働時間からなる「健康管理時間」の規制、つぎの勤務までのオフタイムの下限を設定する「インターバル制度」の導入、年104日の休日取得(これは週休日にすぎない!)などはすべて、法的強制力なく、これからの厚労省指導や企業内の「合意」決定に委ねられていて、その実効性は危うい。それになによりも、新制度の適用される労働者の範囲は、多くのホワイトカラーに拡大される可能性がきわめて大きい。
 政財界は「小さく産んで大きく育てる」つもりなのだ。はじめてホワイトカラー・エクゼンプションが導入されたとき、財界は年収400万円以上に適用と表明している。

 日本の正社員や労使関係のありようをふりかえりたい。「高度プロフェッショナル労働」制が具体的に適用される職域は「柔軟な働き方」を旨とする日本的能力主義のもとでは、ひっきょう企業内での個人別決定にならざるを得ない。そこで上司は、労働時間に関わらずがんばらせたい従業員に、あなたに期待するのは「ただのサラリーマン」の自足なんかじゃない、高度プロフェッショナルとしての創造的な貢献です、あなたはできる、新制度の適用に挑戦してみなさい、と誘導するだろう。その際、ワーク・ライフ・バランスを大切にして引き続き地味な仕事を続けてゆこうと思い定め、この励ましを装う誘導を拒むことのできるノンエリート気質の正社員はそう多くないだろう。よかれ悪しかれ上昇志向に靡く日本のサラリーマンの「強制された自発性」にもとづいて、新制度適用の前提である「本人の合意」が容易に成立することになる。その点では、意味不明瞭な「開発型営業職」への裁量労働制適用の同時提案はいっそう、適用される労働者の雪崩のような増加を招くだろう。
 現時点の日本で働きすぎ防止に本当に必要なことは、ノルマ・仕事量、残業の諾否などに関する労働者の発言権、労働組合規制の復権にほかならない。この労使関係的な営みがさしあたり難しいとすれば、すべての職種を対象にした残業マキシマムと、せめて10時間のインターバル制の法制化が不可欠である。

このエッセイは、共同通信社会の依頼による「識者評論」(今のところ4紙ほどに掲載)に修正・加筆したもの