その19 「外出自粛」期の読書ノートから

 2020年春から初夏にかけて、コロナウィルス感染のゆえに集会や研究会、国内外の旅行や遠出の行楽ができなくなって以降、私の主な生活時間は、ひとつには長編の名作映画のDVD観賞に、今ひとつにはやはり読書に費やされた。もっとも読んだ本は、数年前までとは異なって、なんらかのアウトプット(執筆) のために必読の浩瀚な研究書や資料ではなく、総じてどちらかといえば「軽い」多方面の一般書や小説である。貧弱な読書内容ながら、長年の習慣にしたがって、この間読んだもののベストと思われる書物のいくつかを順不同でメモしておきたい。

 (1)文学・小説
 小説はいつも手ばなしたことはないが、読後の収納場所が心配で購入するのは主として文庫本としている。しかし近年、私が読みたいと思う書物の文庫化は稀である。いきおい読了した冊数はそう多くないが、うち「おもしろかった」作品はつぎのようである。

 ①ジョゼ・サラマーゴ<雨沢泰訳>『白の闇』河出文庫( 2020)
 ②桐野夏生『夜の谷を行く』文春文庫(2020)
 ③セレクション『戦争と文学』より 『4-女性たちの戦争』
 ④同じく『5-日中戦争』いずれも集英社文庫(2019)
 ⑤『平家物語』(上)(中)(下)<中山義秀 現代語訳>河出文庫(2004)

 いわゆる感染パニックものはいくつか乱読したけれど、文学的にみて白眉はなんといっても①であった。ある国のある都市で、すべての人が盲目になるという悪疫が急速に蔓延する。主人公となる感染者のグループは強制的に拘束され、酸鼻をきわめる不潔と飢餓に呻吟し、そのうえ収容者中の暴力集団に過酷にも隷属させられる。だがそのグループのうち「医者の妻」だけは視力を失っていない。そのグループは、聡明で勇気に富む彼女のリードで連帯し、暴力集団と闘い、収容所を脱して人びとが死に絶えつつある街へ出て、奇跡の終焉の日まで生き延びてゆく。その不潔、臭気、飢餓、抑圧、諍いの地獄を描写する濃密な筆力はすさまじくリアルながら、グループを率いる「医者の妻」はドラクロアの自由の女神のように美しく、盲目の医者、娼婦、病院の事務員、労働者たちからなるグループが徐々に助け合いに向かうプロセスも美しい。そんなSF的な黙示録の世界に引き込まれた後、私たちは静かにしたたかな感動に誘われるだろう。
 ②は連合赤軍のアジトから赤ん坊を連れて脱出し、出獄後、身を潜めていた女性の変化の日々。かの永田洋子は(赤軍派に抑圧されたけれども)実は山塞アジトを女たちの母子共同体にしようとしていたのだという、ジェンダー視点の構想が注目に値する。
 ③④は、以前から読み続けてきた各巻に20篇ほどの短編・中編を編集する戦争文学のアーカイヴスのうちの2冊だ。今の価値意識をもって戦中から戦後初期の作品群を裁断するつもりはないとはいえ、戦争という人間の悲劇を抉る文学の質はやはり玉石混合である。③では、大原富枝、上田芳江(「焔の女」)、藤原てい、高橋揆一郎(「ポプラと軍神」)、一ノ瀬綾、冬敏之など、④では、日比野士郎、伊藤桂一(「黄土の記憶」)、藤枝静男(「犬の血」)、田村泰次郎(「蝗」)、五味川純平などの作品が印象的であった。とくに優作と感じた小説にはタイトルを記した。
 最後に⑤について。私はもともと『平家物語』のファンで、これまでも何種類かの訳本を楽しんできたが、「自粛」在宅の後半、読みたい小説に窮して、今回は中山義秀現代語訳「平家」に時の経つのを忘れた。「平家」のおもしろさは、事態の推移の説明はきわめて簡潔ながら、数ある見せ場での大向こうの雄弁、衣装・装備のきらびやかさ、戦闘における今ではユーモアを誘う蛮勇の立居振舞などの描写が驚くほどくわしく、読むほどに、すべて名前が明かな登場人物たちの究極の人間悲劇がくっきり浮かび上がるところにあると思う。鑑賞としては邪道であろうが、底流にある諸行無常、因果応報、、天皇崇拝、仏道帰依の世界観・歴史観など、どうでもいいという気になる。そしてそれはともあれ、読み進むうちに私は、後白川法王のおそるべき狡猾や、頼朝の果てしない猜疑や、義経の勝ち戦のためには手段を選ばぬ酷薄さが嫌いになる一方、してやられて頓死する木曽義仲、敗戦が重なって鬱になり入水自殺する平維盛、「みるべきほどのことはみつ」の情理の知盛のような敗者におのずから贔屓するようになる。俊寛の悲劇も切実きわまりなく、祇王、仏御前、小督など女性像の佇まいも深い余韻を残す。「平家」のすべてのエピソードをもうすでに熟知しているのになおおもしろい。いちど繙いてみてほしいものである。

 (2)一般書籍
 ①本田由紀『教育は何を評価してきたのか』岩波新書(2020)
 ②清真人『高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り』藤原書店(2020)
 ③森政稔『戦後「社会科学」の思想 丸山真男から新保守主義まで』NHK出版(2020))
 ④プレイディみかこ『ボクはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』新潮社(1919)   
 これら学ぶところ多かったそれぞれの作品について内容をきちんと紹介し、他の書物にはない特色を指摘した上で感想を述べるのが本当であろうが、ここでは恣意的ながら、実は私は、上のいずれにもある不満を禁じえなかったことを語りたい。敬愛する本田由紀の①は、人びとを「垂直的序列化」し「水平的画一化」しようとする日本国家の教育の思想と政策を手堅く説得的に実証しているけれども、私は、そうした国の働きかけに対応する卒業生を採用する経営者、保護者や子供たち、あるいは教師たちの消極的または積極的な受容の心情も描いてほしかったと思う。畏友、清真人の500頁を超える大著②は、高橋和巳の思想を時代背景のなかで徹底的に解剖する力作であるが、高橋の人間像が清の長年の豊富な哲学研究にもとづいていわば演繹的に規定されすぎている。たとえば名著『邪宗門』の人びとの物語を辿りながら高橋の問題意識を帰納法的に把握してゆく、いわば文学評論的アプローチを好む私には、倒叙法を多用する力強くはあれ硬質の文体を、清真人の命題を絶えず反芻しながら読み進むのはなかなかしんどいのである。
 また③は、国内外の多くの社会分析の名著によく目配りが効いており、私自身の学びの軌跡もふりかえさせられて懐かしい気持になった。この分野の絶好のテキストであろう。しかし、戦後日本の民衆の思想や生活意識が社会科学にどのように掬われてきたのかは結局わからなかった。また④は、ヒューマンで感性ゆたかな在英の母と子の、かつての強靱な階級連帯が影をひそめ、貧富の階層、ジェンダー、人種など多様な区分の間で、日常生活において言葉に気をつけなければならないほどはらはらする緊張がはらまれているイギリスでの、公立高校に通う日々を伝える興味ぶかいドキュメント。この国ではそれでも、庶民・ヤンキーの文化の表出と、「多様であること」の絶対的な価値が断固として擁護されている。そんな不思議な国でこの母と息子や教師などが失っていない生活の端々での思いやりにときにじーんとする。好著である。ただ、やはり読みやすさと裏腹にエピソードはとりとめなく、やや軽いという印象はなお残るのである。

 とはいえ、これら良書に対するある意味「ないものものねだり」の不満は、私がいま本当に読みたい・学びたいと思っていることは満たされていないという思いの反映でもある。 私個人の関心は、とくに80年代以降の日本のふつうの労働者の精神史、意識や心性の軌跡である。端的には、労働組合・労働運動の思想史といってもよい。とくに80年代以降およそ40年にわたり、日本の民主主議の議論のなかでは、産業民主主議というものの独自的な価値がほとんど顧みられず、したがって労働運動の脆弱さは、国際比較的にみても際立ってきたかにみえる。それはなぜか。その背景や軌跡を尋ねたい。
 私の乏しい知見では、日本の思想論・精神史の叙述は、60~70年代のニューレフト・全共闘の問題提起、労働運動についてはおそらく考察したことのない丸山真男や吉本隆明の言説で終わってるように思われる。岩波書店の2015~16年刊行の全九巻シリーズ『人びとの精神史』が、「大文字でないふつうの人々の精神史」を標榜し、100人以上の個人のいきざまを扱いながら、そのなかに堅気のサラリーマンやふつうのユニオニストや「消費者」が、私の寄稿した1篇を例外として、登場させていないことは象徴的でさえある。
なぜ国民や市民ではなく(組織・未組織を問わず)労働者なのか、なぜ、80年代以降なのか。ここで述べるいとまはないが、森政稔の本に間接的に触発されて読み返した古い文献、私の初期の労働研究にほとんど決定的な影響を与えた論文を紹介したいと思う。ご存じだろうか、ダニエル・ベル<岡田直之訳>『イデオロギーの終焉――1950年代における政治思想の涸渇について』東京創元新社(1969)所収の「マルクスからのふたつの道――社会主義思想における疎外、搾取、ならびに労働者による統制の諸テーマ」である。 それは、マルクスにおける<搾取⇒失業と貧困の凝視⇒一党独裁の政治革命>という公式のルートとは異なる、<疎外⇒労働そのものの凝視⇒労働者の自主管理>という系統に属する思想の軌跡――1910~20年代ヨーロッパにおける力強い台頭、ソ連におけるその無残な圧殺、その興隆と挫折が現代労働運動に残した示唆・・・を語る雄渾な内容をもつ。終わり近くベルは言う、「労働組合が労働過程に挑戦するなら、社会全体への根本的挑戦を要求されるだろう」。「要求の流れが上から課せられた強制ではなく、労働者自身から生じなければならない」。「労働者の抗議というかつての社会主義的・人道主義的伝統の遺産を再び受け入れるならば、市場ではなくて、職場そのものが労働のペースとテンポを決定する中枢でなければならない」。今では墓どころさえ定かでない古い理想主議である。しかしそれは、今なお労働組合運動が顧みるべき思想の酵母である。

その17 読書ノートから、2020年冬

 2020年冬。「社会」から要請される専門仕事の責務はずいぶん少なくなった。2月8日に主宰してきた『市民塾<ひろば>イin四日市』が閉幕し、10.~11日に厳寒・積雪の北海道大学へ講演と学生ゼミ講評に出かけた後は、3月半ばまではかなり自由だ。だからこのところは読書と映画三昧の日々になる。映画はすでに劇場とTV録画・DVDあわせて20本くらい見ているが、映画については次に回して、今日は、多くは文庫や新書ながら、12冊くらいあてどなく読み上げた本のうちから2冊だけを選んで推薦したい。

 小説では、集英社の『戦争と文学』シリーズの1「 ヒロシマ.ナガサキ」。文庫本ながら785ページの大著で、16の中・短篇といくつかの詩歌が収められている。すべてはそれぞれにすぐれた作品であるが、わけても、大田洋子『屍の街』、林京子『祭りの場』、中山志朗『死の影』などは、原爆投下の8月6日、9日とその直後の人びとの被曝による酸鼻を肉体の崩壊と心に巣くう底知れぬ不安を描いて 、私たちをあらためて衝撃に打ちのめす。また、井上光晴『夏の客』、後藤みな子『炭塵の降る町』は被曝者が余儀なくされるすさまじい生きざまをえぐりとる。第5福竜丸の漁民の受難を克明に綴る橋爪健『死の灰は天を覆う』は、戦後反核運動の原点を顧みさせる。
 わけても刮目させられたのは小田実『「三千軍兵」の墓』だ。小田はドイツの強制収容所でのユダヤ人の死、太平洋のクエジリン島で玉砕した日本兵士の死、かつてその島の日本軍の基地建設に動員された朝鮮半島、台湾、東南アジア、島民の死を尋ねて、ひとしく「三千軍兵の墓」に祀る。そして戦後、アメリカは、このブラウン環礁でなんども水爆実験を行って多くの島民を放射能被曝の死に追い込みながら、そうした累々たる屍が重なるクエジリン島にミサイル基地を建設したのだ。小田の思いはさらに阪神大震災の死者たちにも及んでいる。このような時も所も超えた膨大な死者たちの運命を広角レンズ風に視野に収める、庶民の「難死」を反戦の原点にすえる、小田の思想の広さと深さに、深い感動を覚えずにはいられない。
 『戦争と文学』は、記憶すべき過去のアーカイヴスではない。それは平凡な言い方ながら、現時点の「国民必読」の書ということができよう。

 社会・人文科学の分野では、竹内洋『大衆の幻像』を、竹内自身による「大衆の実像」の把握が放棄されているかにみえる点で物足りなく思い、橘玲『上級国民 下級国民』のあまりのいいかげんさにうんざりした後にやっとめぐりあった橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』(河出新書)のみが白眉だった。
 この分野の第1人者、橋本の本書の内容は、すでに読んだことのある2009年および2013年(増補)の『「格差」の戦後史』(河出ブックス)と基本的に同じだ。敗戦から50年代に始まり2010年代に及ぶ<格差>と<階級>の構造と動態が辿られる。本書での修正や加筆はどこか私は検討していないが、今回、新著を通読して学び直し、あらためてその充実ぶりに驚嘆した。無駄のない必要にして十分な叙述。数多いいくつかの命題をどこまでも数値的に立証する手堅さ。格差をつくる多様な要因摘出の視野の広さ。格差の定点的観察とともに、人びとの今のステイタスの肯定と否定に深く関わる階級・階層移動の状況を考察する方法・・・。400ページに及ぶ大著で、ときにまた、それぞれの命題の説明は新書にしては詳しすぎて、読者をもっと端的な断定を求める気にさせるかもしれないけれど、これはまことに「この人にしてこのテーマ」と納得させる、第一級の専門的新書といえよう。終わり近く358-59ページに一表にまとめられた「5つの階級のプロフィール」は、現代日本の構造に関するすぐれた総括表であり、現代日本を語るとき必携の資料ということができる。いつも思うことながら、階級・階層と格差の認識なき日本論・日本社会論はひっきょう虚妄だからだ。
 前回エッセイに書いたように、私は今、非正規労働者にもなれない(失業者でもない)無業者の世代を超えた膨大な累積を凝視すべき課題だと考えている。本書もそこにふれてはいるが、私のこれまでの企業社会論に由来する関心では、無業者がしばしば求職の意欲も失うまでに精神的に打ちのめていることには、正規、非正規を問わず、彼ら彼女らが企業で働いていたときにおける過酷な体験が大きな役割を演じていると思われる。求職意欲を失う無業と企業での就業時の体験との関係性を、橋本には90年代の「企業社会」と「会社主議」を扱う8章2を引き継いで、後章でももう少し論じほしかったという気がする。とはいえ、これは私の好みに偏した、本書の論旨の流れにあまり沿わない「望蜀」の注文かかしれないけれど。いずれにせよ、この本読みは、もう怠惰になっている私にとって久しぶりの勉強であった。