2023年のマイベスト 映画と読書(2023年12月21日)

恒例の「今年の収穫」を記す。この年齢になるといっそう、なによりも、この一年間なにに心を動かされたかを確認しておきたい気にとらわれるからだ。もう私がふれた作品は限られているが、Ⅰ外国映画、Ⅱ日本映画、Ⅲ社会科学&一般書、Ⅳ文学・小説の順に紹介を進める。映画について「+S」とは「監督がシナリオも」の意味である。

Ⅰ【外国映画】
①小さき麦の花(23中国)リー・ルイジン(+S) 

舞台は現代中国の貧しい寒村。非情な親族によって厄介払いのように結婚させられた知恵遅れの青年と言語障害を負う娘は、寄り添って懸命の農作業で生きぬいていくが、土地活用の利権に奔る工都に住む地主が容赦なく二人の将来を閉ざす。不遇のふたりの愛のコッミュニケーションはあまりに美しく切実なゆえ、その悲劇的なゆくえに心が抉られる。

②エンパイア・オブ・ライト(22英)サム・メンデス(+S)
イギリスの80年代、海辺の古い映画館でスタッフとして働く心を病む孤独な中年女性と、人種差別にさらされる新任の優しい黒人青年との曲折に満ちた恋の物語。女性が失恋と精神の破綻を経て、同僚の抱擁によって職場に戻るプロセスが温かい。なんとも美しい作品。

③あしたの少女(22韓国)チョン・ジュリ(+S)
2017年の韓国で高校実習生のコールワーカーの少女ソヒが3ヵ月後に自殺するまでの過酷きわまる職場状況を、怒りをひそめた無愛想な表情で女性刑事が追及してゆく。後にソヒの名を冠した労働保護法を達成させた実話にもとづく。日本でもこんな作品が待たれる。よりくわしくはHPエッセイ(23年8月)参照。

④She Said その名を暴け(22US)マリア・シュライダー
あたかもジャーニーズ事件よろしく、ハリウッドの大物プロデユーーサー、ハーベイ・ワインスタインの幾多の女優志願者や女性スタッフに対する性的加害を、二人の女性記者が根気よく被害者をさぐりあて、彼女らに逡巡をこえてついに実名の証言をさせるまでを丹念に描いて感動的だ。この告発は後にグローバルな波となる#MeToo運動のきっかけになったという。

⑤トリとロキタ(22ベルギー、仏)ダルデンヌ兄弟(+S)
アフリカからベルギーに流れ着いた少女ロキタと少年トリが、姉弟のようにひたすら助け合いつつ、難民認定がかなわぬまま収容所を脱走して、生活のため危険な仕事に巻きこまれ、無残にもロキタが殺されてしまう。ダルデンヌ姉弟の演出と脚本は間然するところがない。  

⑥蟻の王(22伊)ジャンニ・アメリオ(+S)
同性愛が許されなかった60年代のイタリアでの、蟻研究者・劇作家・詩人として著名なアルド・ブランパンティと、彼を崇拝する青年エットレの受難の過程を描く。傑作のすくなくないゲイ映画のなかでも白眉の重厚な作品である。

ほか語りたい作品は枚挙に暇ないが、わけても⑦ペルシャン・レッスン――戦場の教室(20露、独)バディム・パールマンと、⑧それでも私は生きてゆく(22仏)ミア・ハンセン=ラブ(+S)が印象に残った。なお、これらのすぐれた作品では、監督がシナリオ執筆をかねる場合が多いことが近年とくに目立つように思う。また、紙数の関係上ふれなかったが、主演俳優たち魅力が忘れがたいことはいうまでもない。たとえば疲れや鬱屈をもみごとに表現する②のオリヴィア・コールマンや④のキャリー・マリガン。⑧でシングルマザーを演じるレア・セドウなどは、表情の豊かさだけで私を惹きつける。ちなみに私がアニメを好きになれないのは、アニメ顔ではやはり多様性や変化の表現に決定的な限界があると思うからである。

Ⅱ【日本映画】
①福田村事件(23)森達也 脚本:佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦
くわしくは、高知県の薬行商人たちは「朝鮮人と間違えられて惨殺されたのではない」と考察する評論(HPエッセイ2023年10月)にゆずりたい。日本映画ではまれにみる大きな構えでの日本人の負の心性に深く迫る秀作というほかない。

②怪物(23)是枝裕和 S:坂本裕二
二人の少年の失踪までの過程を複数のぐるりの人びとそれぞれの体験として辿る「藪の中」風の語り口のため、二人の行動の鍵となる(ありえないとされる)同性愛に、最後に教師(永山瑛太)が気づくまで真相がつかめないもどかしさが残る。とはいえ、問題を糊塗しようするふつうの大人たち(安藤サクラや田中裕子)の鈍感さや欺瞞がふたりを追いつめるシナリオや俳優たちの演技はすばらしく、こんなに「おもしろい」映画はめったにない。

③ヴィレッジ(23)藤井道太(+S)
巨大なゴミ処理所のある寒村。無気力だった作業員の若者(横浜流星)が帰村した幼なじみの聡明な女性(黒木華)に励まされてこうべをあげ、村おこしの宣伝係として大活躍する。ゴミ処理の不正を隠蔽するため彼を利用しようとする有力者(古田新太)、女性に横恋慕するその息子・・・などが絡み合い結局、青年は破滅的な犯罪にいたる。村共同体の濃い影を凝視するスリリングでグロテスクな傑作である。

④波紋 萩原直子(+S)
ある主婦(筒井真理子)が、重病で失踪から帰宅した身勝手な夫(三石研)、生活苦、おしつけられた老親の介護、息子(磯村勇斗)の恋人への障害者差別などの絶え間ないトラブルのなかで新興宗教に頼り、そこでまた搾取される。だが最後には自立を取り戻し、忘れていたフラメンコを踊リ狂う。経過は終始いらいらさせるけれど、結末は爽快である。

⑤キリエのうた 岩井俊二(+S)
過去の不遇の体験ゆえ今は街頭でうたうほかはなにも喋らない放浪のキリエ(アイナ・ジ・エンド)と、彼女にひたすら寄り添ってマネージャーになるやばい過去をもつ女性いつ(広瀬すず)との経年のシスターフッドを辿る。キリエの大成功の日、駆けつけようとして、いつは昔の男の凶弾にたおれてしまう。ぼろぼろながら切実な青春の音楽映画。理屈ぬきにある魅力がある。

このほか、相模原事件をモデルにした石井裕也(原作は辺見庸)の⑥月、幕末期江戸のスラムの汚物処理の若者ふたりと、寺子屋で「せかい」に眼を開くおきくの青春を描く坂本順治の⑦せかいのおきくが佳作と思われた。今年の邦画は、私好みの「社会派」作品においては豊作であった。 

付録:旧作瞥見
私は今年、以上のマイベストを含む88作を映画館で見ている。しかし私の映画生活はこれに留まらず、自作または購入のDVDストックから自宅で55作を楽しんでいる。総て秀作、名作、すくなくとも佳作であるが、いくつかをピックアップしてタイトルだけを紹介したい。機会があれば見てほしいと思う
■秀作・名作――万引き家族かぞくのくにそこのみにて光輝く/大地と自由/家族の庭/アンダーグラウンド/道/僕たちは希望という列車に乗った神々の深き欲望
■ともかくも大好きな作品――ベニスに死す/エルマ・ガントリー追憶草原の輝き/赤い風車/駅馬車/カサブランカ/豚と軍艦テルマ&ルイーズプロフェッショナル
こう書いてくると、秀作・名作と「大好きな作品」との区別はあまり意味がないように思われてくる。ちなみにゴチ体のものが邦画、アンダーラインのものがこれまで著書『スクリーンに息づく愛しき人びと』(耕文社)、あるいはFB投稿、HP.収録などで紹介したことのある映画である。ひとつひとつについてまたどこかに書きたくなるかもしれない。映画の楽しみはいくつになっても捨てられない。

Ⅲ【社会科学&一般書】
9月に旬報社から刊行された『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動』の修正・加筆と校正の繁忙で、この分野での私の読書量はまことに貧弱だった。要するにあまり勉強しなかった。それでもあえて多くを教えられた5点を紹介したい。。

①石田光男 仕事と賃金のルール――「働き方改革」の社会的対話に向けて(法律文化社
当代もっとも慧眼の労働研究者の泰斗が、長年の内外の踏査の成果にもとづいて、日本と英米の仕事と賃金のルールを、労使関係当事者の観念だけでなくその具体像にまで及んで比較検討し、彼我の懸隔を実にクリアーに提示する、小著にしてはあまりに内容豊富な労働研究者必読の文献。私は英米と日本それぞれの労使関係の実態の把握ではまったく石田に同意するが、その英米と日本それぞれの労使関係の価値判断では、労働者の自由と発言権という観点から対照的な関係に立つ。しかしこの点、石田にもおそらく揺らぎがあって、それがいつも石田の著作を魅力的にしている。

②マイケル・リンド<寺下滝郎訳> 新しい階級闘争――大都市エリートから民主主義  を守る(東洋経済社)
眼前の「階級対立」の構造を明示する好著。くわしくはHPエッセイ読書と映画欄(23年5月)に譲る

③ジョージ・オーウェル<土屋宏之、上野勇訳> ウィガン波止場への道(筑摩学芸文庫、原著1937年)
再読したすぐれた労働者ルポルタージュの古典。生粋の文人オーウェルが、貧しく重労働に耐えていた炭鉱労働者の職場内外の生活の光と陰を、センシティヴかつ徹底的にみつめ、そのやむない距離感もふくめて階級というものに対する知識人の自省を吐露している。

④菊池史彦 沖縄の岸辺へ――五十年の感情史 1972-2022(作品社)
沖縄の膨大な記憶と体験――「反復帰論」の相貌、豊かな文化の諸相、基地問題をめぐる内部の分断と本土との軋轢・・・。実に多角的な視点と事実の渉猟を特徴とする菊地がそうした沖縄の「岸辺に小舟を漕ぎ寄せる」。みずからを顧みて、総じて深い共感に誘われた。

⑤高階秀爾 名画を見る眼(カラー版)Ⅰ油彩画誕生からマネまで/Ⅱ印象派からピカソまで(岩波新書)  
美術館ファンながらほとんど「鑑賞力」をもたなかった私に、随所でなるほどそうだったのかと気づかせた。この分野の第一人者による最良のガイド。

Ⅳ【文学・小説】 
小説は、主として疲れている就寝前に読むため、以前よりはるかに読破のスピードは落ちたとはいえ、いつも手放すことがなかった。読了したのはおよそ50冊。うち現代小説として印象に残った3作品を順不同で紹介する。

①中村文則『逃亡者』(幻冬舎文庫)。不気味な反動の権力に追いつめられる青年の彷徨を辿りながら、キリシタン迫害、第二次大戦、現代を縦貫し、日本とベトナムを横断して日本人の精神史の深層にわけいる労作。

②山本文緒『自転しながら公転する』(新潮文庫)東京から茨城県牛久に帰り地元のモールで働く32歳の女性が、職場の問題、経済力が心配な青年との恋、母の介護・・・となにかとトラブル続きで悩み、くるくる自転しながらそれでもなんとか生きぬいて公転してゆく、そんな日常をみつめる。

③朝井リョウ『正欲』。「まとも」すぎて不登校の息子と意思疎通のできない検事の苦しみ、「ふつう」でなく世間の暗黙の差別に萎縮していた女性たちの、必死につながりを求めた試みの挫折。それらを通じて、自分が想像できる「多様性」だけに理解を示して秩序を整えようとするる社会の問題性を剔っている。
  
若い日に夢中で読んだ大江健三郎を60年を経て再読した。
①大江健三郎 個人的な体験(新潮文庫、原著1964年)
②万延元年のフットボール(講談社文芸文庫、1967年))
③短編:他人の足、飼育、人間の羊、不意の唖、闘いの今日(新潮文庫、原著1958年)

とくに惹かれかつて線を引きまくった作品ばかりである。今では、美しくはあれ形容句や副詞句の多い文章の長い文体に辟易することは稀にあったが、長編では、曲折ののちついに到達する精神の位相の高みと深みにやはり揺り動かされる。短編では登場する若者たちのある発見の昂揚、怯懦、逡巡、そして勇気の表現がすごいほどで他に類を見ない。なんという瑞々しい感性だろう。

若い日にやはり愛読したチェホフの中編・短編も、2冊の作品集(小笠原豊樹訳の新潮文庫、松下裕訳の岩波文庫)からとくに大好きなものを選んで再読した。①谷間、②いいなづけ、③箱に入った男、④すぐり、⑤恋について。わけても工業化の始まるある村での女たちの忍従と放埒を活写する1900年の①も、古い家を捨てて新しい世界に旅立つ若い女性に期待をこめる1903年(チェーホフの死の前年、ロシア革命の前夜)の②もすばらしい。しかし若い私に大きな影響を与えたのは、牢固たる慣習、庭にすぐりの木を植えるというちっぽけな生活目標、そして人妻という恋人の身分など、総じて人間が秩序のために自由を失う姿を痛切に悔いる、そんな連作③④⑤であった。なつかしい。「すぐり」の一節を私は1972年の著書『労働のなかの復権』の終章の扉に引用している。

今年はまた、長期間をかけてふたつの大長編小説に読みふけった。
①加賀乙彦 永遠の都【岐路・1988年、小ぐらい森・1991年、炎都・1993年】(新潮社)
昭和10年代から戦後の50年代にいたる4家族・3世代・登場人物およそ25人の波瀾万丈の軌跡を、二二六事件、太平洋戦争、東京大空襲、戦後初期を通して描く大河小説。日本版「戦争と平和」ともいわれる。核となるのは、貧しい家から身を起こして海軍軍医になり、やがて一代にして東京三田に大外科病院をつくりあげた、多方面に怪物的な能力を発揮する外科医時田利平である。その周辺に星座のように配された妻の菊江、孫たち(その一人は加賀自身である)、利平の愛人たちとその隠し子たち、二人の娘の夫と愛人、親戚の軍人・脇恵助と文化人・脇晋助の兄弟・・・などが、利平とともに体験の語り手となり、それぞれの運命に翻弄される。ときに煩雑にすぎると感じられもする近現代史のエポックメイキングな事件の詳細な記録も興味深く、ファシストとリベラル、機会便乗と反時代的、誠実と欺瞞など、それぞれの人物の多様な立ち位置も納得的である。ヴォリュームは文庫本にして7冊にもなるが、まずは昭和の事件史・精神史の金字塔のごとき労作ということができる。

②アレクサンドル・デュマ<山内義雄訳> モンテクリスト伯(1)~(7)(岩波文庫)
少年時代に古い改造社版の世界文学全集で「これほどおもしろいものはない」と感じた小説。アマゾンで買った文庫本の活字の小さいのに閉口しながら、年末、『モンテクリスト伯』を再読した。ロシアやフランスやアメリカの名作たちのリアリズムの洗礼を受けた今では、さすがに善人と悪人の峻別、主人公のあまりの超人性、変装の通用性、死者を甦がえらせる薬効などが「ほんとかな」と気になる。痛快なSF風の少年文学のようだと感じられもした。とはいえ、この読書がやはり巻おくあたわざるほどおもしろかったことには変わりない。 

『福田村事件』の達成 (2023年10月2日)

 1923(大正12)年、関東大震災直後、多数の朝鮮人が虐殺される異様な状況のなか、千葉県福田村で9月6日、在郷軍人会にあおられた村民たちが、香川県からきた被差別部落民の薬行商人9人を殺戮した。映画『福田村事件』は、この惨劇の史実にゆたかな想像性を加えて作劇されている。監督は森達也、脚本は佐伯俊道・井上淳一・荒井晴彦。日本近代史の暗部を語ろうとしない権力の歴史意識。今日ふたたび「ふつうの」市民のなかに根をはりつつある恵まれない少数者への差別と排除への同調圧力。この風潮を報じるはずのマスメディアの鈍感さ・・・。この映画の作り手たちは、おそらくそうした現時点の日本の思潮対する激しい嫌悪とつよい警戒心に突き動かされて、ここに100年前をふりかえる、2023年の私たちに必見の作品を贈ることができた。そのテーマとメッセージだけをみても、これは本年度邦画のベストワンをうかがう収穫ということができる。

 だが、この映画の美質はもちろんその社会的意義ばかりではない。すぐれた群像劇の条件ともいうべき登場人物の多様性とドラマ進行過程での変化が興味深く、いささかも137分の長尺を飽きさせない。私には短すぎるくらいだ。名うての脚本家たちが加害の村人、被害の行商メンバー双方にわたり個別の人間像をくっきりと際立たせている。
 たとえば、かつて朝鮮での教職時代に朝鮮人29人の虐殺(1919年提岩里協会事件)に通訳として加担させられて深く傷つき、いつも悩みながら「見ているだけ」の人として福田村に帰ってきた沢田智一(井浦新)。そんな夫にいらだつ自由で奔放なモガスタイルの妻・静子(田中麗奈)。大正デモクラシーの空気を求める良心的な田向村長(豊原功補)。沢田や田向の甘さを嗤い、大日本帝国の天皇崇拝・植民地主義・「鮮人」差別に狂奔する在郷軍人会長の長谷川(水道橋博士、怪演!)。「英霊」の未亡人として村に帰る島村咲江(コムアイ)と、そのひそかな愛人である戦争嫌い・軍人嫌いの渡しの船頭・倉蔵(東出昌大)。そして東京の震災避難者を迎えもてなしながらも、徹頭徹尾、お上の要請や朝鮮人が「井戸に毒を投げ入れている」という風聞に無批判に同調する多くの村人男女・・・。
 一方、薬行商のグループの描写も単純ではない。部落差別ゆえに土地を持てず、流浪の行商を続けるこの人びとは、もっと弱い人、ライ病患者たちを騙すのもやむなしとするしたたかさを備え、なかには「われらは朝鮮人より上」と言い募る者もいる。だが、リーダーの沼辺新助(永山瑛太)は、不屈で明るい性格であり、部落差別の体験ゆえにこそ朝鮮人差別も許されないとする思想の高みに達している。それにもうひとつ、この映画が、新聞の使命を心に深く刻み、朝鮮人飴売りの殺戮をまのあたりにもして、「野獣のごとき鮮人暴動 魔手帝都から地方へ」といった自社の「報道」に耐えられず、事なかれ主義の編集長と激しく対立する千葉日日新聞の女性記者・恩田楓(木竜麻生)を配していることの意義も見逃されてはならないだろう。
 これらの人びとの、歯に衣を着せない鋭く端的な発言が、それぞれの立ち位置を浮き彫りにするとともに、物語の重層性とサスペンスを保証している。終始、目を離せない。ドキュメンタリーの巨匠・森達也の演出も、なんども練り直されたというベテランたちのシナリオも、俳優たちの演技も間然するところがない。まことに秀作というほかはない。

 この映画には、とはいえ、いくらか曖昧で推論を求められるところはあるように思う。
 植民地朝鮮の過酷きわまる抑圧と支配、それに対する果敢な三・一独立運動、そこにみる朝鮮人たちの怒りの噴出への怯え、それらが大震災時に朝鮮人が「暴動」に奔るかもしれないという各レベル権力の過剰の警戒心を生み、それらが震災後の不安に増幅された荒唐無稽な「暴動」の風評を生み、ついには付和雷同の警察や庶民による自衛のための6000人もの殺戮になった・・・。この一般的な背景はよく描かれており、十分に理解できる。だが、私を考えこませるのは、香川から流れてきた被差別部落民の薬行商人たちが、朝鮮人でないのに、なぜ虐殺されたのかである。「日本人」である部落民、いわゆる「穢多」(エタ)は、あの環境下の権力も殺していいとは認めていないはずだったからである。
 薬売りたちは朝鮮人と間違われたというのがふつうの解釈であろう。興奮して取り囲んだ在郷軍人たちや村人の間には、彼らを朝鮮人とみなしたいという偏見の空気が漲っていた。だが、彼らから「湯の花」を買ったことのある沢田夫妻や倉蔵の口添えも、日本人としての常識や発語テストの文句ない「合格」も、行商鑑札の真偽調べを待てという村長の説得もあって、一時は「あの人たちが日本人だったらどうするんだよ・・・日本人殺すことになんだぞ」という倉蔵の総括的な判断がひとときはその場の雰囲気を鎮めたかにみえる。
 だが、そのとき、新助の発した「鮮人なら殺してええんか」という叫びが事態を急変させる。それは新助にしてはじめて発しえた、この非道を根底的に撃つことのできる思想の表明だった。しかしそのとき、子どもを負った農婦のトミが進み出て、鳶口で新助の頭蓋を一撃して倒す。トミの夫は東京の本所の飯場に出稼ぎに赴いていたが消息不明で、トミは東京からの避難民から朝鮮人の暴虐の数々(の噂)を聞いて、夫は朝鮮人に殺されたと信じていたのだ。このトミの一撃が引き金になって、おそるべき惰力が働き、結局、おそらく10人ほどの村人が9人の行商人を惨殺してしまうのである。
 トミにしても行商人たちを朝鮮人と信じていたわけではないだろう。トミも、おそらく他の殺戮者たちも、長谷川がいつも、逡巡する他人をそれぞれの負の経歴を引き合いに出してなじるように、なんらかの意味で朝鮮人を庇う者たち、朝鮮人を同等の人間とみなす人たちを「非国民」として許せなかったのだ。このおそるべき排外主義を媒介にして、「非国民」は、現実には「日本人」であっても朝鮮人にひとしい者、すなわち殺してよいものとみなされてしまう。朝鮮人とみなしたい人びとの抹殺がこうして正当化される。この映画は、思えば、この事件が「間違い殺人だった」という解釈を疑問視させるゆえに、いっそう「ふつうの」庶民の間の不気味な同調と付和雷同がもたらす人権蹂躙のとめどなさの危険性を突き出しているように思われる。

 この映画は内容豊富であり、このほかにも紹介は割愛したけれど考えてみたいエピソードがいくつもある。例えば、この映画の震災前の映像には、村に「押し売り、浮浪人、不正行商人に注意せよ」とうい貼紙があり、殺戮の直前には長谷川が「こいつらは行商の香具師だ、(日本人テストの模範解答を)口上で覚えているだけだ。」とわめいていることの意味、つまり定着農民が漂流民に抱く本来的な差別意識の問題も意識されている。また、惨劇を体験した人びと――村を逃れて死出の漂流に赴く(かにみえる)沢田夫妻、倉蔵と咲江の恋人たち、「この事件の総てを書きます」と宣言する恩田記者、難を逃れて香川に帰りガールフレンドのミヨの顔をみつめて言葉が出ない行商隊の少年など――が、その深い傷跡からどのような生の営みを紡いでゆくのかについて、憶測と希望を語りたい気にもなる。いずれにせよ、日本映画界がついにこのような本当に大きい作品をもつことができたことを、私たちは幸せとせねばならない。

『あしたの少女』の勇気とまっとうさ (2023年8月27日)

 最近の『怪物』(是枝裕和)や『波紋』(萩原直子)の魅力をさておけば、加齢による感性の鈍化のゆえなのか、最近の「名作」とされる映画には、主題がわかりにくくていらいらすることもままある。しかし8月25日夜、名古屋で観賞した韓国映画『あしたの少女』(チョン・ジュリ監督・脚本)は、まっすぐに感情移入できる感銘ぶかい作品だった。
 モダン・ダンスに打ち込んでいた高校生のソヒ(キム・シウン)は、教師のつよい勧めで大手通信会社の下請け企業のコールセンターで「実習生」として働くことになった。そこは地獄のような職場だった。顧客との契約、上手な苦情処理、過大な違約金をちらつかせての解約防止に厳しい数値ノルマがある。個人別の達成グラフが掲示され、その順位によって(実は二重契約によって実習生には支払いが棚上げされるのだが)「成果給」が異なる。顧客の無理難題にキレたりすれば、みんなの連帯責任であるこの事務所の実績評価を落とす気かと上司に面罵されるのである。
 そんななか、怒鳴られるソヒを庇ってくれた男性班長が業務の実態や実習生の処遇の過酷さを遺書に残して自殺する。会社は彼の死の原因を「賭博と女」と公表、遺族を買収して黙らせ、従業員には箝口令を敷いて、班長の死は業務に無関係であるとの文書に署名すれば一時金を出すという措置とる。。葬儀に参加し文書を無視したのはソヒただ1人だった。そのソヒも、いったんは周囲の圧力に靡き、しばらくは開き直って非情な従業員となる。だが、もともと良心的なソヒはその後、賃金のごまかしに抗議し、顧客の正当な解約依頼を承諾し、顧客の執拗なセクハラ電話に憤って怒鳴りつけ、それらを厳しく咎める新任の班長を殴りつけて、結局、休職扱いとされてしまうのだ。教師の叱正もあって辞めることはできない。孤立と絶望のうちにソヒはついに死をえらぶにいたる・・・。ここまでは、2017年に実際に起こったというソヒ自殺事件の、労働ジャーナリストの取材にもとづくリアルな再現である。
 後半、鬱屈を抱えて無愛想な、しかしソヒの死が「ただの自殺」をされることにわりきれぬ欺瞞を感じとる鋭敏な女性刑事ユジン(ベ・ドウナ)が登場し、なぜか「深入り」を禁じる警察の上司に抗いながら事件の背景を追及してゆく。徐々に明らかにされることは、あまりに過酷な労働現場の実態。親企業の圧力にによる下請けコールセンターの「実習生」搾取。ひたすら卒業後の就職先確保のために労働実態に眼を閉じて若者たちを「実習」に送り込む実業高校。地域の高校の就職率によって補助金が左右されるゆえにその慣行を黙認する教育行政である。問題は構造そのものにある。そして構造を運営する責任者たちは、班長やソヒの自死は個人的な性格の特殊性や異常性によるものとすることで口をそろえる。われわれに責任はない、むしろ被害者なのだ、なぜなら・・・と言い募るコールセンターの上司や経営者、副校長などの欺瞞と言い分けの数々。たとえば「過度の残業はノルマを果たして稼ぎたい実習生が自発的にやっていること」。どこかで聞いたこと!と私は苦笑する。それをにらみつけるユジンの鋭い瞳がそれだけで共感を呼びおこす。
 ソヒ事件は実は、韓国で「次のソヒ防止法」ともよばれる、非正規労働者保護法の成立に大きな役割を果たしたという。映画ではしかし、一刑事が構造の改善にまでは進めないことを示唆している。見つけ出したソヒのスマホにわずかに残されていた、激しいダンス・レッスンにひとり取組む画像を見て、ユジンがはじめて静かに涙を流す美しいシーンで終わるのである。
 登場人物たちが激しく非難し合う、ときに殴打にいたるところに韓国的な特殊性を見いだせるかもしれない。だが、コールセンターの労働や「(技能)実習生」の人権蹂躙、それらの構造的背景については、私たちの国も基本的に同じである。今日の日本ではしかし、このような「労働映画」はほとんど期待できない。そこをたじろがず凝視する韓国の映画作家の勇気とまっとうさにあらためて敬意を表したいと思う。ちなみに監督チョン・ジュリ、主演ベ・ドウナのコンビは、同性愛という「罪」のために漁村に左遷された教師が、DVといじめに苦しむ少女にどこまでも寄りそうという、より重層的で複雑な作品『私の少女』(2014年)を踏襲している。これも私がつよく再見を願っている名作のひとつである。

「あしたの少女」公式サイト

アメリカ映画「恋愛もの」の双璧――
「思いやりの再会」というエンディング          (2023年7月8日)

 良質の恋愛映画には心惹かれるラストシーンがある。家族や生活のしがらみ、世俗の通念などなんらかの事情で訣れを余儀なくされ、ふたたび結ばれる条件を失った恋人たちが、時を経て巡り会うくだりだ。恋を喪って、かわりにひとつの成熟を遂げた二人は、ほほえみあい、お互いのしあわせを願って、さりげなく別れてゆく。たとえ恋の成就はなくとも青春というもののかけがえのなさが集約されるその場面が、映画ファンを魅了し、甘酸っぱく切ない余韻を残すのである。
 先日、TV録画でジャック・ドウミ監督・脚本のフランス映画『シェルブールの雨傘』(1964年)を観た。これはミュージカル仕立てでもあり、「しがらみ」や「通念」の重さの描写もほどほどの軽い作品であるが、エンディングはこの「思いやりの再会」タイプの典型であった。そこで、ああ、ここでもガソリンスタンドの場面だと思い出したのは、1930年代の広津和郎原作による75年1月放映のNHK銀河テレビ小説、『風雨強かるべし』だった。もう半世紀もまえの観賞なので細部の記憶は定かではないが、反体制の非合法地下活動に入ってゆくヒロイン・ハル子(栗原小巻)と、名家の息子の帝大生(篠田三郎)との恋が引き裂かれる物語である。そのラストシーン、風雨のなかガソリンスタンドで雨合羽を着て働くハル子の前に、元カレの乗用車が止まるのである。当時コマキストだった私にとって、その折の栗原小巻の明眸に滲む豊かな情感は忘れがたいものだった。

 恋愛ものは長期間の物語にかぎる。若者たちの切実な恋の歩みはたいてい、その過程で否応なしに降りかかる、大きくは社会的・世間的な、身近かには経済的または家族的な、二人を引き裂く圧力との闘いの軌跡だからだ。恋の名作とは、そこをたじろがず凝視する作品にほかならない。そんな基準から選んで、今回は、私がアメリカ恋愛ものの双璧とみなす二作品を紹介したいと思う。シドニー・ポラック監督、アーサー・ローレンツ原作・脚本の『追憶』(1973年)と、エリア・カザン監督、ウィリアム・インジ原作・脚本の『草原の輝き』(1961年)である。 
 もっとも『追憶』については、拙著『私の労働研究』(堀之内出版、2015年)の第六章「スクリーンに輝く女性たち」のなかですでにかなりくわしく紹介しているので、今回はかんたんにふれるだけにしよう。1930年代末の学生時代から一貫して左翼活動に携わってきた真摯なケイティ(バーブラ・ストライサンド)は、政治とはつねに距離を保つスポーツ万能で文才あるハベル(ロバート・レッドフォード)にどうしようもなく惹かれ、戦後、曲折を経てついにシナリオ作家になったハベルの愛を獲得して、ハリウッドでひとときしあわせな生活に入る。だが、「赤狩り」を座視できない彼女の抗議行動がハベルの仕事を危うするまでになったとき、ケイティは誕生した赤ん坊とともにハベルの元を去った。彼女は黙して愛に縋るのではなく結局、どこまでも毅然としてその思想性に生きる孤独な自立を選んだのだ。
 この小文のテーマでもある「思いやりの再会」のエンディングだけはくりかえしたい。何年かのち、水爆実権反対キャンペーンの街頭で、ケイティは妻を伴ってニューヨークのホテルに現れた今は放送作家のハベルに再会する。まことに自然なハグのあと、ハベルは奥様と我が家へきてという誘いをそれはできないと告げ、ケイティは「そうね(その方がいい)」とうなずく。最後に「まだ(政治活動を)続けてるんだね」と尋ねられたとき、ケイティは。「そう、私は負け上手なのよ」(I am a good loser)と返す。アメリかの政治的現実と失った恋が重ね合わされるこの台詞はなんてすてきなことだろう。そしてハベルが去るとすぐに、彼女は「水爆実験反対」と声をあげて、行き交うひとにビラを手渡すのである。政治活動家の不器用でひたむきな愛の仕草をみごとに演じたバーブラ・ストライザンドは、むろんすぐれた歌手でもある。その歌うThe way we wereの美しい旋律が高まってゆく。

エリア・カザンの秀作『草原の輝き』は、『追憶』ほど知られていないだけにいっそう語りたい気持に駆られる。
 映画は前半、1920年代のカンサス州は地方都市の高校に通う恋人たち、ディーン(ナタリー・ウッド)とバッド(ウォーレン・ベイティ)のはげしいキスと抱擁をぎりぎりと描く。ふたりは性の営みへの禁忌に縛られているだけに、愛の仕草は身もだえするようだ。その禁忌は主として二人の親たちから課せられている。富裕な石油業者のバッドの父エースは、息子にエール大学に入り都会の大手石油会社に就職する期待に執着し、ディーンが好きならやがて結婚させてやるが、今は彼女に深入りして責任をとらされるような羽目になるな、女がほしいならその手の商売女を抱けばいいと言う。名優パット・ヒングルの演じるエースの説得の迫力はすさまじいほどだ。一方、庶民的なディーンの家族は、エールの会社の株をもち、その時代の株価上昇に有頂天である。伝統的で世俗的の価値観に徹した母親は、溺愛する娘の将来のバッドとの良縁を望むだけに、「一線を越えれば飽きられて捨てられるだけ」と、二人の交際に干渉し監視を怠らないのである。
 物語は、ふたりの一時的な別れ、バッドのコケティシュな同級生との浮気、ディーンの焦慮と鬱屈・・・と展開する。ディーンは、「どうしたの? バッドに汚されたの?」と問い詰める母に、「いいえ、なにもされていない、触れてもくれないわ」と叫ぶ。そしてそのみじめさの自覚からついに禁忌の不自然さに気づき、卒業パーティに押しかけてバッドを今すぐ抱いてと誘う。だが、おそらくエースの期待を忖度して、バッドは拒んだ。その直後、ディーンは迫ってくる別の同級生の求めをはねつけ、滝に身を投じてしまうのである。助けられたが心の平衡は失った。駆けつけたバッドは、ディーンと結婚して地元の農業大学に進んで、牧場で働くとエースに決心を告げるけれど、手遅れだった。ディーンは、万事控えめだった父親が株を売って得たた資金で精神病院に入ることになった。
 バッドはエール大学では目的を失った自堕落な生活だったが、行きつけのピザ店で働く明るいアンジェリーナ(ゾーラ・ランバート)には心を開いた。1929年、株価が大暴落してエールは破産した。エールはニューヨークのキャバレーに呼び寄せたバッドに、お前だけが頼りだが、もう精神病院にいる女とは結婚できないだろう、見ろ、あのダンサーのひとり、ディニーとよく似てて彼女と変わらないだろう、抱かせてやる!と、舞台に近づいてゆく。その深夜、バッドは、エールがホテルの高層から飛び降り自殺したと知らされる。
 ディーンは順調に回復していた。手術に失敗した経験をもつシンシナティの医師との間に、バッドのときとは異なる静かな愛を育て婚約もした。退院して故郷に戻ったディーンは、バッドに会わせまいとする母親に逆らって、訪れた親友たちとともに、牧場で働くバッドを訪ねる。主治医もそうアドヴァイスし、父親も彼のアドレスを教えたのだ。バッドは貧しいながら妻のアンジェリーナと子どもとしあわせに暮らしていた。なにが語られるわけでもないのに必要にして十分な「思いやりの再会」。帰途、ディーンはワーズワースの詩を思い起こす。かつて心の危機のころ、この詩の解釈を求められて泣き崩れ、教室を飛び出したのだった。
<草原の輝き、花の栄光、ふたたび還らず、嘆くなかれ、その奥に秘めたる力を信じよ>
 
 エリア・カザンは、終始一貫、端的に鋭く、青春の身に宿る抑えがたい愛の欲求とその試練をみごとに映像化している。ナタリー・ウッドのやみがたい身もだえも、ウォーレン・ベイティのゆとりを失うまいとしてそれができない戸惑いもよくわかる。それに短いショットや台詞でくっきりと印象づけられる周辺の人々の存在感。抗いがたい世俗の迫力を体現するエースは母親はもとより、例えばアンジェリーナにしても、登場するのはピザ屋の1場面のみだが、それでいて彼女がやがて失意のバッドの妻となり、汗染みた普段着で調理のフォークをもったままディーンを招き入れる佇まいがこのうえなく自然なのである。もちろん。ヒューマンな作家、インジの脚本も総て驚くほど説得的である。村上春樹は川本三郎との共著本で、この映画はなんど見ても泣いてしまうと語っているという。
 私ごとながら、この映画のDVDを観賞したのは妻、滋子の85歳の誕生日の翌日だった。私は高校時代に滋子と出会い、その後、何度も別れそうになったけれど、結局また戻って、大学院時代の1962年に結婚した。『草原の輝き』を初めて見たのはその前後だったと思う。鮮烈な体験だった。抑えがたい性の欲求も、ソフトではあったが親の圧力も身につまされた。私たちは別れることなく、まさに「共白髪」で60年以上生活をともにしたが、それは、それほどに性の禁忌にとらわれず、61年頃には、滋子が私のぼろアパートに3日ほどは滞在するという、いくらか同棲に近い生活をはじめたからだと思う。でなければ何年か後には、私たちも「思いやりの再会」をすることになったことだろう。ともあれ、『草原の輝き』はわが青春の映画である。初見の時の場面のいくつかは決して忘れることがなかった。ワーズワースの詩の訳も当時の記憶にもとづく。DVDでは、もっと平易な口語訳であった。 

こんな映画、文句なしにおもしろい!(2023年5月21日)

 おもしろい映画とは、物語の構想はユニーク、個性豊かな多様な登場人物の関係は複雑で緊迫感にあふれ、役者たちも魅力いっぱい、そして最後には、爽快感とともに忘れがたい感銘を残す作品の謂いである。たとえ「名画」でなくとも、私が偏愛するそんな映画は枚挙に暇がないが、今日はそのなかから、若い世代にはほとんど知られていない60年代のいくつかのアメリカ映画を任意に選んで紹介しよう。
 ひとつは、ジョージ・シートン監督・脚本の『36時間』(1964年)である。第二次大戦中の1944年、連合軍のノルマンディ上陸の詳細を連絡する使命をもつ米軍将校ジェフ(ジェームズ・ガーナー)が、リスボンでドイツ軍に襲われて記憶を失った。そして目覚めれば、すでに1950年、アメリカの陸軍病院で、精神科の軍医ウォルター(ロッド・テイラー)と、ナチスの収容所体験と性暴力のため一切の感情が凍ったままの看護師、記憶喪失期のジェフの妻と想定されているアンナ(エヴァ・マリー・セント)による記憶回復治療を受けている。2人はジェフの深層に潜むノルマンディ作戦の詳細を思いださせようと腐心している。病院内は総て英語、新聞もラジオも戦後のニュースである。だが、このすべては、連合軍のノルマンディ上陸の直前のこと。ナチスがジェフから作戦の完全な情報を得るための周到な虚構だったのだ。
 その後は、ある些細なことから虚構に気づいて脱出を計るジェフ、彼に心を開いてゆくアンナ、ジェフとの間に友情の絆を結び彼とアンナを助けようとする冷静なウォルター、彼の科学的アプローチを嗤いすぐにでも拷問に奔ろうとした品性下劣なナチス親衛隊将校の思惑が実に複雑に絡み合う緊迫の展開となる。結局、ウオルターの命を賭けた反ナチの抵抗に外部の協力もあって、ジェフとアンナは危うくスイスに逃れることができた。再会を約して2人が別れるとき、アンナの瞳にはじめて涙が光る・・・。キーパーソンたちの造型が鮮やかであるだけに、すべての経緯がすとんと胸に落ちる佳作である。

 もうひとつは、リチャード・ブルックス監督・脚本の『プロフェッショナル』(1966年)。メキシコ革命当時1917年頃のテキサス洲を舞台とする傑出した西部劇?である。
 メキシコ革命戦に破れた山賊ラザ(ジャック・バランス)一味に新妻マリア(クラウディア・カルディナーレ)を誘拐され身代金を要求されている油田もちの富裕なベラミーが、妻を取り戻そうと4人の戦争の専門家を雇う。知謀に長けたリコ(リー・マーヴィン)、弓の名人ジェイク(ウッディ・ストロード)、馬つかいのハンス(ロバート・ライアン)、そしてダイナマイト屋のビル(バート・ランカスター)である。
 曲折に満ちた細かい経緯は省略するけれど、4人はそれぞれのプロ性をいかんなく発揮して山塞を攻略し、首尾よくマリアを拉致し、ラザとなかまに追われながら帰途につく。しかし、その間、マリアは懸命に脱出を計る。実はマリアはもともとラザの恋人であり、奪ったのは実はベラミーだったのだ。4人は追いつめられて危機に瀕し、3人がともかく帰途を急ぐ一方、ビルが岩山を爆破して殿(しんがり)として1人追っ手と闘うことになる。ビルもかつてはメキシコ革命戦の参加者であり、ラザや部下たちとも旧知の間柄だった。銃撃のはざまに2人が交わす会話がなんともいい。今は無頼のビルはあの頃の生きがいを語り、ラザは「革命は女と同じだ、深くつきあえば淫売みたいだとわかる。しかしまた惚れる・・・」と見果てぬ革命の夢を語る。しかし結局、ビルは負傷したラザを馬に乗せてなかまのもとへ帰り着く。
 よろこんだベラミーは、多大の報酬を約束し、マリアを確保して、ラザをすぐに殺せと命じた。だが、ここが愉快だ。ビルをはじめ4人のプロは言う、「女を持ち主の元へ返す契約だった」と。無頼の男たちにとってマリアははじめて出会った「本当の女」」だったのだ。彼らは傷ついたラザを乗せたマリアの馬車をメキシコに向けて駆らせる。足を踏ん張って手綱を握るクラウディア・カルディナーレの表情の輝きがすてきである。

 さて、リチャード・ブルックス監督・脚本、バート・ランカスター主演といえば、どうしても名作『エルマ・ガントリー 魅せられた男』(1960年)を語りたくなる。
 アメリカの1920年代、陽気で雄弁な無頼のセールスマン、エルマ・ガントリー(バート・ランカスター)は、当時の信仰復興運動のキリスト教団の教祖シャロン(ジーン・シモンズ)にぞっこん惚れ込んだ。虚言を辞さない野放図な熱情と型破りの説教をもって彼は悩める大衆を魅了して、著名な牧師たちや新聞の妨害をはねのけて教団を大勢力に押し上げてゆく。ガントリーにはもともと信仰心はなく、彼をを突き動かすのは純粋に神の存在を信じるシャロンへの愛のみである。しかし結局。、いくつかのスキャンダルに見舞われたうえ、シャロンの夢の新教会の火災事故によってシャロンは死んでしまう。
 大筋ではこんな単純な物語(シンクレア・ルイス原作)ながら、この映画は、ガントリーの雄弁のうちに、たとえ神はなくとも、愛の祈りを核とする信仰は美しいということを、若い私の心に刻み込んだものだ。無頼の男が惚れ込んだものにひたすら身を投じる情熱の無償性と、それが潰えたときのさわやかな成熟を表現するバート・ランカスターは、言葉にできないほどの迫力だった。この監督もさることながら、これ以降、数え切れないほどの出演作をみたが、バート・ランカスターはいつもいつも存在感があって、私にとって大スターであり続けた。
 これら3つの作品、どこかで探してみてほしい。楽しめること請け合いである。権威づけるわけではないが、その年のアカデミー賞をみれば、『プロフェッショナル』では、監督賞、脚色賞、撮影賞でノミネート、『エルマ・ガントリー』では、作品賞でノミネート、脚色賞、主演男優賞、助演賞で堂々の受章だった。ついでにいうと、このとき助演賞のシャーリー・ジョーンズは、有名になったガントリーを強請ろうとする、かつて彼に誘惑されて捨てられた娼婦ルル役である。そのルルに対するガントリーの姿勢も、そこはかとなく彼の心意気を感じさせるのである。
 ときどきはこうした「おもしろい映画」を紹介したい。テーマをしぼって、例えば「鉄道もの」なら、J・フランケンハイマーの『大列車作戦』(1964、これもバート・ランカスター主演)と、トニー・スコット『アンストッパブル』(2011)などがすぐに思い浮かぶ。

社会科学の三冊(2023年5月1日)

 最近では私の読書も新書や小説が多く、率直にいって社会科学や歴史の専門書を精読することはあまりない。それでもこの2月から4月にかけては、私にとって次の三冊ほどが、情報において貴重、社会や歴史の認識について示唆的だった。本当は読後にすぐ、くわしい内容検討をふくむ批評めいたものを記すべきかもしれないけれど、退役の研究者でたんに読書人の気軽さで、以下、思い出すままに簡単な紹介を試み、いくらかの感想を記したい。。
 
(1)マイケル・リンド<寺下滝郎ほか訳>
『新しい階級闘争――大都市エリートから民主主義を守る』東洋経済新報社、2022年

 この書は、荒削りながら、現在のアメリカや西欧諸国に顕在化している階級闘争を規定している基本的な対立軸というものを明示している。それは、かつてのような<資本家対労働者>ではなく、<大都市で働く高学歴の管理者・経営者や専門技術者からなるテクノクラート新自由主義者の上流階級(インサイダーのエリート>と、<土着の国民と移民からなる大多数の労働者階級(アウトサイダー)>の断絶と対立である。そしてアトム化して政治・経済・文化の諸領域において発言の場を失った下層の労働者階級は、カリスマ的なデマゴーグの扇動に靡く右派ポピュリズムの台頭に棹さしていると著者はいう。
 リンドのいう断絶と対立の基本軸の把握は十分に了解できる。トランプ大統領の登場以来のアメリカの世論に感じてきたわかりにくさが、この把握で解けた思いがする。リンドはまた、サンダース支持の高まり、1対99を拒むウォール街のオキュパイ運動、ブラック・マターズ、Me Tooなどの果敢な大デモなど、知的な若者たちをふくむ、従来の選挙中心の政治活動の枠にはまらない左派ラディカリズムの台頭も見つめている。
 リンドはしかし、反テクノクラートの双生児のような右派ポピュリズムと左派ラディカリズムをわかつ基準を語らず、これらはともに、あらゆる新自由主義的権力を行使しうるテクノクラート・インサイダーを無力化することはひっきょうできないとみているようだ。そこで真の民主主議のための拮抗力としてリンドが唱えるのは、新自由主義の進行が衰退させたところの、それまでは市民や労働者階級を守ってきた労働組合、宗教団体、地域政党、市民団体などの再確立、つまり「民主的多元主義」の再生である。一見すれば伝統的で穏健なこのオルタナティヴの提示を、それでも私はやはりつよく支持する。私なりの表現では、それは 産業民主主議の復権にほかならない。近年のアメリカやイギリスにおける大規模なストライキにみる労働運動の再活性化の息吹きは、労働組合のような典型的な多元的帰属集団がなお庶民の自治と抵抗のよすがになる可能性を示している。

(2)吉見義明『草の根のファッシズム――日本民衆の戦争体験』岩波現代文庫、2022年
原著は、日本帝国が侵略したアジア諸国での日本軍兵士の膨大な戦争体験記を読み込み、微妙な心の揺らぎをふくみもって陰影ふかい民衆の戦争意識を凝視した1987年の名著。日本人のすべてが記憶に刻むべき、それはまことに敬服すべき周到な考察である。
 ただ私がメインタイトルに期待したことは、実利の点からときに離反の志向を示したとはいえ総じて天皇制ファッシズムに帰依し、侵略戦争に加担した戦場および銃後の民衆の意識形成に、天皇制の「四民平等」という建前(いわゆる民衆向けの「顕教」)がどのような役割を果たしたのか、あるいはさして役割を果たさなかったのかの分析であった。例えばナチズムは「国家社会主義」として国民の平等処遇と生活向上を建前とした。では天皇制下の日本ファッシズムは、どこに民衆を内的に鼓舞できる独自性があったのだろうか。「平和日本」でも、天皇制はかたちを変えて民衆の敬愛の対象であり続けているだけに、そのあたりの深掘りが吉見の著書に対する、いわば「ないものねだり」なのである。

(3)三吉勉
『個別化する現代日本企業の雇用関係――進化する企業と労働組合の対応』 ミネルヴァ書房、2023年

 著者・三吉勉は、民間電機会社の技術者、企業内労組専従役員の経歴をもつ68年生まれの研究者である。三吉はまず、現代日本では、労働者の仕事態様や労働条件が、グローバルな動向とくらべても、際立って、個別企業ごとに、ひいては個人別に決定されている。つまり<労働>のありかたが徹底して個別化していると言う。その環境のもとで、では、もともと集団的・統一的な規制を旨としてきた労働組合は、どのような役割を果たしうるのかと著者は問う。そのうえで、三吉は、おそらく自分自身が所属したA社・A労働組合を実証研究の舞台として、労働を個別化させる生産・労務管理と、労働組合の対応をくわしく説明する。内容は多岐にわたるが、私なりに単純化して要点を紹介すると、例えば次のようである。
 ①「個人別の仕事を決定するルール」では、上からはPDCA(計画・実行・チェク・改善活動)における企業レベルから職場レベルへのブレークダウン、横からは目標面接におけるチャレンジ促進的な業務目標設定を通じて、個人の日々の業務割当てにまで及ぶ。
 ②実績評価の比率を極度に高めつつある賃金の増減には、目標面接で設定された個人業務目標の達成度の査定が大きく影響する。
 ③企業別組合は、上の基本的に経営主導的なPDCAを大きく変更させることはないが、経営の各級レベルにおかれた労使協議の場で発言し、部分的にはささやかな修正をさせることもある。
 仕事内容や労働条件の<個人処遇化>は、『能力主義と企業社会』(岩波新書、1997年)を刊行した頃から長年にわたる私の問題意識でもあった。それゆえ、三吉の視角とテーマ設定に私は満腔の賛意を表したい。この環境下で見失われがちな企業別組合の役割を探ること、それはいわば労働研究の未踏の分野だった。そう、私もそこが知りたかったのだ。これほどに問題意識とテーマに惹かれて繙いた労働研究書も少ない。それが一般にはなじみにくいこの書をあえて推す理由である。
 しかしながら、忌憚なく言って、読後、これほど失望した書物も少ない。過剰な概念操作や文章の生硬さはさておいても、いくつかの理由がある。なによりも、これは基本的に制度の説明であって、確かにうなずかせる生なましい実態の解明には達していない。著者はPDCAのブレークダウンの現場にも、労使交渉のテーブルにもいたはずである。そんな場での、具体的な製品や数値を示す実例を知りたかった。また、著者も従業員にチャレンジ精神を求める目標面接の体験をもつはずだ。演劇のト書きほどでなくとも、そこで上司との間でどんな会話がなされたかも知りたい。さらに、組合の発言によってルールの運用がどう変わったかの記述は、法令が厳しい労働時間については比較的具体的であれ、ほかは全編を通じて、わかったのは査定結果による賃金ランク降級の部分的是正と、ある職場での一人の要員増を数えるにすぎない。皮肉な言い方だが、記述の抽象性は、PDCAにも、まして目標面接には、組合規制がほとんど及んでいない証拠のように思われる。
 こうして、どうしても外在的な批判に導かれてゆく。思うに分析がこうなったのは、三吉をふくむ企業別組合の幹部たちが、A社のニーズを内面化し、その生産と労務の施策に労働者処遇の不当性をほとんど感じていないからであろう。過労死や過度の残業やハラスメントなどはここでは皆無であるかにみえる。三吉の組合機能観は、それゆえ、組合の承認した経営施策への、コミュニケーションを通じての労働者の「納得」の取り付けである。この「納得」獲得の努力は、基幹正社員の能力向上とキャリアー・アップの欲求にも応えるものとされている。今日、日本の企業社会に不可欠の、総じて未組織の非正規労働者が、この大団円の世界の外にあることはいうまでもない。PDCAの外部は、企業別組合とは無縁なのである。
 もしかすると、、三吉勉もこんなことはすべてわかっていて、内心では分析はなお具体性を欠き、企業別組合はその名に値する組合機能を果たていないと思っているのではないか。ふとそう思われもする。しかし美吉は、より具体的な個別事例を活字にすることをおそらくA社やA組合に禁じられ、あるいはみずからもその非公開性に納得して、折角のテーマをめぐる考察を、このような制度論に留めたのだのではないか。もっとも、企業の内部情報・個人情報の開示を不可欠とするこのテーマを私が期待するほどに具体的・数値的に分析することは、企業社会に「革命」でもない限りできないかもしれない。そう考えると、誰の探索によるものであっても、この枢要の問題領域の立ち入った研究はさしあたり難しいと予測されて、絶望的な思いにとらわれてしまう。

  なお、この春に読んだ社会・人文関係書では、以上のほか、川端康雄『ジョージ・オーウェル――「人間らしさへの賛歌」』(岩波新書)と小泉悠『ウクライナ戦争』(ちくま新書)が、プロの力量を見せつけておもしろかった。また、後半の理論篇が未完成の印象はまぬかれないが、前半で著者が過酷な障害者差別とそれに対する闘いの半生を率直に語る高見元博『重度精神障害を生きる――精神病とは何だったのか 僕のケースで考える』(批評社)を、真摯な良書として推したい。

20233年1月の映画、中島みゆき賛歌(1月25日)

 新年になって劇場でみた映画のうち、惹かれた作品は、順不同で①『非常宣言』(ハン・ジェリム、韓国)、②中島みゆき 劇場版ライヴ・ヒストリー2』、③ペルシャン・レッスン 戦場の教室』(ヴァディム・パールマン、ロシア・ドイツほか)、④『She Said その名を暴け』(マリア・シュライダー、US)の4本だった。
 ①は、ウィルス・自爆テロリストの侵入による、文句なしに終始おもしろい韓国の航空パニックもの。③は、ナチスの強制収容所で、ペルシャ人と偽って、ペルシャ贔屓のヒューマンなナチ将校にでたらめのペルシャ語を教えることで生き延びるユダヤ青年のサスペンスに満ちた物語。彼は終戦直後アメリカ軍の調べの際、収容者の名簿記録が焼却されているいるにもかかわらず、ペルシャ語をでっちあげるために用いて記憶し暗記している収容者4000人もの名前を次々に挙げる。そこが感動的だ。信じられないけれど事実にもとづくという。また④は、ハリウッドの大物プロデューサーの女優やスタッフへのあくなきセクハラを、口ごもる被害者の心をついに開いて実名証言の記事にする、NYタイムズのふたりの女性記者ミーガンとジョディの困難な取材を描く佳作。この不屈の行動が、グローバルな Me too運動の先駆けになったという。ミーガンを演じるキャリー・マリガンの疲労と心労、決意と気概こもごもの表情の豊かさが実に印象的である。
 中島みゆきの2004年、07年、12年、15年、そして最後2020年の「ラストツアー」の4コンサートでの15曲の歌唱を映像化する②には、やはりもっとも魅せられた。『銀の龍の背に乗って』や『命の別名』の凛としたメッセージの力強さ。『with』『ホームにて』『蕎麦屋』などに流れる比類ない優しさ。『化粧』に聴く自虐の底からなんとか立ち上がろうとする気力。そして、孤立と絶望のなかにあっても生まれてきたことへの人びとの祝福を思い起こせとよびかける『誕生』。阪神大震災のあと、通勤途上の瓦礫の間を歩きながら、私はいつもウォークマンでこの名曲を聴いていたものだ。
 中島みゆきは、切望や落ち込みや気力喪失を「けれども」で大きく転轍して、玲瓏たる歌唱のサビの展開のうちに、明るさ、勇気、希望のよびかけにつないでゆく。彼女の歌詞がしばしば命令形とるのも、この前半の暗くリアルの認識ゆえに実に自然なのだ。この映画では、こうしたみゆきの美質がもっとも明瞭にみてとれる、私の原点ともいうべき『ファイト!』がなかったことだけが心残りだった。
 一見してなお少女風の中島みゆきも首筋や目尻にわずかに老いがほのみえる。そして最後近くに例外的にはさまれるリハーサル風景での素顔のみゆきは、もう優しいお婆さんのようだ。1952年生まれの彼女は2020年にはすでに70歳近いということに突然気づかされる。それでも「ラストツアー」では、むしろ少女風の衣装で『誕生』を絶唱する。これが最後のコンサート映像なのだろうか。文字通り半世紀近く彼女の数え切れないほどの歌に励まされてきた私はそこになぜか、老いてもあえて若きを演じる、世阿弥のいう「華」を感じて胸がいっぱいになる。ありがとう、中島みゆき、なお命長かれ。