島原の乱をめぐる断想(2024年6月12日)

 最近、1637~38年の島原・天草の乱(ふつう「島原の乱」と総称される)に関する本をいくつか読んだ。①堀田善衛『海鳴りの底から』(朝日文庫1961年)、②神田千里『島原の乱――キリシタン信仰と武装蜂起』(講談社学術文庫2018年)、③五野井隆史『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館2014年)、そのほか水溜真由美『堀田善衛 乱世を生きる』(ナカニシヤ出版2019年)の第I部五章などの関連文献である。これらのくわしい内容紹介や比較評論は私にはできない。この文章は、こうした読書に触発された気ままな断想にすぎない。
 権力の圧政に抗う民衆蜂起の思想と行動、それは私の終生の関心事であった。世界史・日本史の受験勉強では、詳細な「叛乱年表」を自作したものだ。労働研究という専門分野の選択の背景にもむろん、<蜂起・叛乱に到る、あるいはそこに到ることのできない事情>を凝視したいという思いがあった。また熱烈な映画ファンとしても、私の大好きな作品の一系列はたとえば『七人の侍』『スパルタカス』『アルジェの戦い』『タクシー運転手』などである。もちろん、蜂起・叛乱とはいえない近現代の労働運動、困難ななかでの組合づくりやストライキを活写する『ノーマ・レイ』など傑作たちの忘れられない感銘は、記憶の蔵に犇めいている。
 閑話休題。日本近代史上最大の民衆一揆である島原の乱について、まずは概要を確認しておこう。1637(寛永14)年10月、未曾有の凶作とあまりの苛斂誅求に呻吟した島原・天草の農民・漁民はついに叛乱に転じ、その12月、およそ2万4千人(その家族たちを加えて3万7千人ともいわれる)が、16歳のカリスマキリシタン天草四郎を総大将、かつてのキリシタン大名、有馬家・小西家の家臣たちを戦闘指導者として、みずから修復した島原の原城「春の城」に立てこもる。彼ら・彼女らは、およそ3ヵ月間、幕府軍、諸藩あわせて12万人と、手作りの武器と機略をつくして闘かった末、兵糧攻めのもたらす飢餓状態のなか、38年2月28日、幕軍の砲撃・総攻撃で落城させられ敗北するにいたる。幕府はそして、身分差別の封建道徳と背反する平等の理念を掲げる禁教キリシタンを絶滅すべく、一人の投降者・山田右衛門作を除くすべての籠城者を虐殺するのである。
 この未曾有の人民抹殺は、その前後の、筆舌につくせない残酷な拷問と処刑と地続きである。文献①③が具体的に記述する。1620年代以来の禁教令に伴う宣教師および農民クリスチャンへの火あぶり、斬首、緊縛したキリシタンの海中または雲仙温泉の熱湯への投げ込み、逆さ穴吊り。そして島原、天草での重税を拒む名主の妻の着物を剥ぐ辱め、妊婦の水漬け、竹のこぎりでの斬首、「蓑踊り」(蓑をまとわせ火をつける)・・・。あえて例示した限りでも、拷問と処刑でのこれほどのサディズムは他に例をみないように思われる。

 島原の乱に関する読書を通じて、民衆叛乱の思想と行動という点から、もっと考えたいこと・もっとクリアーに知りたいことなど、さまざまの問いに私は促される。
 その1。最大の問いは、島原の乱は、飢饉の年の重税と苛斂誅求に耐えかねた大規模な百姓一揆なのか、信仰の自由を死守するキリシタンの反抗なのかということだ。そのいずれでもあるというのが通説である。この解釈はしかし、いくらか安易な感じがする。耐えがたい苛斂誅求がはじめにあることは否定できない。だが、籠城した農民たちの宣言と行動はどこまでも禁教キリシタンのそれであった。では、経済・生活と宗教・思想とはこの場合どんな関係にあったのか。神田千里の文献②にヒントがある。神田によれば、過酷きわまる弾圧によって15~20年の間、島原や天草の多くの村では圧倒的多数者になっていたキリシタンのほとんどは、やむなく棄教していた、それにキリシタンはもともと世俗の権力に力で対抗することをむしろ禁じ、その教えを拷問や処刑の受難に耐えぬくつよい主体性を支えるよすがとしてきた。そこで神田が重視するのは、1637年の飢饉・苛斂誅求のとき、15年以上もの棄教の末、「立ち返り」(再入信)のうねりが起こり、「立ち返り」者こそが一揆を起こしたという事実である。
 神田の示唆を私はこう敷衍する――凶作・飢饉・苛斂誅求は農民たちに「この世」で生きる見通しを失なわせた。そのとき彼らは、それまで非常時にも耐える自分という主体をつくってきた信仰を剥奪されているいるということに卒然と気づいたのだ。そして今、禁じられていたかつての信仰を取り戻すことが眼前の苦しみを打開する唯一の方法と考えたのだ。それは、棄教の生きざま、すなわち困難に向き合う自信と勇気を失った人生の拒否だった。とはいえ、「立ち返える」ことはお上に抗うことにほかならず、ひっきょう死はまぬかれない。だが、終末の日までは「もうひとつのこの世」に生きることはできる。こうして彼らはやがて訪れる死を覚悟して、原城のパライソ「かとりかれぷりか」に立てこもったのである。安保闘争のさなかに連載された堀田善衛の①が熱く記すように、3ヵ月の間、そこは農民、漁民、職人、猟師などが、家族とともに犇めいて窮屈ながら、生活感のある「天地同根、万物一体、一体衆生を撰ばず」の界隈であった。人びとは神に祈り、詠唱し、談笑し、乏しい食糧を分かちい、石や弓矢や鉄砲で幕軍をやりこめたことを自慢しあった。そこでの絆の生はやがて終わる、だが死んでもアニマの鳥は飛び立つ――そう思い定めたのである。

 その2。島原南西部・天草東部の多くの村は、全村一家をあげて籠城に参加している。収束後に幕府は村の再建のために大規模に植民せざるをえなかったくらいだ。けれども、籠城者には、強制的に参加させられた者、迫害され恫喝された仏教徒も少なくなかったはずである。それゆえ、その数は資料によってさまざまながら、脱落して落人になった人も確かにいる。籠城者のすべてが「かとりかれぷりか」の理念を内面化していたとはいえないだろう。だが、悔い改めれば咎めなしいう幕府軍の甘言にもかかわらず、降伏者の輩出はなかった。少なくとも2万4000人もが最後に虐殺されるまで明日なき闘いに殉じたことは疑いを容れない。
 ためらって動揺していた非キリシタンは、「降伏しても地獄」と覚悟したのだろうか?籠城の日々の過程で、かつての禁教の教えのなかに、身分差別・性別不平等のこれまでとは異なる「もうひとつのこの世」を垣間みたのだろうか? いずれにしても、組織的抵抗運動のなかの異端の少数者の問題として、ここはもう少し考えてゆきたいテーマである。

 その3。そんななか、唯一生き残った山田右衛門作の「裏切り」の理由はなにか? この人物については、その後の彼の立ち返り(再入信)の真偽をふくめて、これまでいくつかの文学が関心が寄せてきたが、ここでは彼を主人公として扱う堀田善衛の文献①の解釈と評価が興味ぶかい。
 堀田は右衛門作の思考として、①彼は明暗ともども事実をリアルを描く先駆的な油絵の絵師であって、その職業人としての希求が延命を選ばせた、②彼は近代的な思考の合理主義者であって、天草四郎の「秘蹟」などを信じられず、灰燼のなかにキリシタンすべてが死に絶えて信仰のなにが残るのか、空しすぎるという疑問にとらわれた――などをあげている。しかし堀田によれば、③右衛門作は、籠城の過程で、確かにキリシタンの言動のまっとうさ・美しさにうたれ、裏切る自分を最低の人間と自覚したという。この自覚は②と結びついて、ここに、「見ていろ、人として最低のこの俺が、よりによって最低の奴になりさがり、この城にいま在る、もっとも気高いものを世に伝えてやるぞ・・・」という思いに辿り着いたという。
 堀田善衛が右衛門作を否定的な人間像としていないことはいうまでもない。安保闘争のどよめきに原城の祈りの斉唱と同じ「海鳴り」を聴いた堀田は、情感を込めて原城の人びとの群像を描いた。だが、アッツ島やサイパン島の悲劇を知る堀田は、「玉砕」の否定という文脈で原城の「ユダ」に共感したのだ。そればかりか堀田は、水溜真由美が丹念に辿るように、乱世のなかを生き延びてまのあたりにした過酷な事実の記録者になるという知識人の宿命的な役割に自覚的であった。堀田はこうして、「偽装転向」して生き延び酸鼻をきわめる過酷な体験を後世に伝えるという、右衛門作の生きざまを掬い上げたのである。

 私たちはいま、民衆叛乱どころか、まったく合法の街頭行動も、憲法に保障されたストライキなど労働者の直接行動も、欧米や韓国とは違ってまったく枯死している現代日本に生きている。選別の競争に個人として打って出るほかない、それは新自由主義の「この世」である。
 私は2023年9月、おそらく最後の著書として、1984年~85年イギリスの炭鉱大ストライキの軌跡を個人レベルの体験にまで降りて辿る『イギリス炭鉱ストライキの群像』(旬報社)を刊行した。10万人以上の坑夫とその家族が1年間、刑事的・民事的弾圧と貧窮にたえて貫かれたこのストライキは、その後グロ-バルに広がる新自由主義体制への労働運動の最初の闘いであったけれど、坑夫たちと炭鉱労働組合は、あらゆる権力の資源を動員したサッチャー政権にたいして避けがたい敗北を喫するにいたる。
 このたび島原の乱の関連文献を耽読したことに、この拙著の執筆体験はどこかでつながっている。もちろん時代も国も、叛乱の「敵側」の物量も、生死を左右する緊迫度も、両者の間ではまったく異なる。だが、慶長期の島原・天草のキリシタン農民と80年代のイギリスの坑夫とは、貧窮と叛乱を絶滅させる権力諸機関の合力によって、「護るべきもの」に殉じて敗北していったことは同じだ。その共通性から思うことは、敗北後に現出した世界をいくらかでも批判的に検証しようとすれば、かつての闘いにおける敗者の眼の復権が不可欠だということにほかならない。
 新自由主義の世界にその掲げる自由の偽りをみるならば、イギリス炭鉱ストライキの群像はレジェンドとしてふりかえられねばならず、日本国家の近代以降にいたる思想統制と暴力行使に注目するならば、この国の江戸期にこれほどの規模の民衆一揆があり、それが容赦なき大量虐殺で終結させられたことがいつまでも忘れられてはならい。歴史における敗者の眼を掬うことなき体制は、それ自体、民衆の抑圧をまぬかれないそれである。

その9 <社会>としての労働組合(2024年6月3日)

 この「連載」は、労働研究における私なりのキーワードの意味するところを、発想の時期にとらわれず思いつくままに綴ってきたが、研究史の中期以降に精力を注いだ日本の労使関係の把握に入ってゆきたい。今回はしかし、生涯にわたって執着した、私に特徴的な――少なくとも日本では――労働組合という組織への視点を示しておきたいと思う。その着想は1976年の『労働者管理の草の根』の所収論文に遡り、後期2013年の『労働組合運動とはなにか』(岩波書店)にいたるまで継承されている。それは、<社会>としての労働組合、という把握である。
 若き日の着想の論文では、ヒントを得たF・タンネンバウム、S・パールマン、A・フランダース、H・A・クレッグなど古典的な文献の引用に満ちている。しかしここでは、2013年の著書の、「原論」の章にみる「社会(学)的にみた労働組合」のくだりからかんたんに説明しよう。
 生産手段を奪われて労働力を商品として売るほかはない労働者階級は、まずアトムとして労働市場に投げ出され、資本家に拾われ棄てられて翻弄される。けれども、労働者はいつまでもばらばらで星雲状態のなかを漂い続けるのでなく、やがては、無意識的にせよ、星雲のなかに「可視的ななかま」、すなわち生活上の具体的な必要性と可能性を共有する他人がいるような、ある境界をもつ領域をきっと見つけるだろう。領域の境界は基本的には仕事の種類や職場や技能、副次的には人種や宗教、性や年齢など多様であり得るが、この領域を私は、まず自然発生的な<労働社会>とよぶ。
 「可視的ななかま」のうちには、助け合いや庇い合いの慣行が自然に生まれている。例えば、なかまの間では決して競争しない、仕事を分け合う、困窮したなかまを扶助する仕組みをつくる、働きと稼ぎにおいてぬけがけしない・・・などである。だが、すぐに疑問が生まれるだろう、こうしたなかまの「黙契」は果たして持続可能なのか?
 自由競争という資本主義体制の「公認の道徳」が浸透している。雇用主は低賃金で働く人を求め、どこまでもなかま同士を競争させようとするだろう。労働者のほうも、緊急の個人生活の必要性に直面してしばしば、それで雇ってくれるならと、進んで、またはやむなく「黙契」を裏切るという現実がある。労働者はそこで、ゆっくりとではあれ、放置すれば風解する「可視的ななかま」の領域や、そのなかでの反競争的な暗黙のルールの意識的な構築を迫られることになる。ユニオニズムが芽生えるのはここからだ。それゆえ、自然発生的な<労働社会>を意識的に組織化したものが労働組合であり、その内部で息づいていた助け合い・庇い合いの黙契を意識したものが労働組合の要求・政策ということができる。私は若き日に、W・M・Leisersonの次のような記述にふれて心底から納得した、その感銘を忘れられない。
 労働組合機能は、公式の組織が賃金労働者の間に現れる遙か以前から存在した、職場労働者の習慣や気質に根を降ろしている・・・われわれの知るような組合規範と団体協約は、事実上労働者の書かれざる習慣と掟の法制化であって、それは習慣法が成文法に対してもつ関係と同じである」(American Trade Union Democracy、1959、P.17)。
  
 一般に<労働社会>の形成の基準は、ひとつは、職業的生涯、異動してもそこには留まるという意味での「定着」の範囲の共通性、今ひとつは、労働者生活における具体的な必要性と可能性の共有である。この<労働社会>の多様性が、労働史上に現出した労働組合のさまざまの組織形態の由来を説明するだろう。このように概念化することができよう。

 A・企業に定着する人
  ――a経営者・管理者へのキャリア展開――企業社会⇒企業別組合
  ――b特定の職種・職場に定着――職場社会⇒産業別組合(職場支部)
 B・職業(専門職・熟練職)に定着する人――職業社会⇒クラフトユニオン
 C・産業・職場・(非熟練)職種への就業が偶然的で流動的な人
  ――特定の地域への定着を経て地域労働社会⇒ジェネラルユニオン(一般組合)
註:もっとも、ABCの分類が同じでも、人種・宗教・性などによって「文化」(もの
  の考え方)があまりにも異なる場合には、組合組織が別になることが十分ありうる  だろう。現代日本では、女性だけのユニオンや非正規労働者の組合の結成はむし   ろ自然である

  日本についても<労働社会⇒労働組合>と把握することは、あるいはいぶかしく思われるかもしれない。しかし企業別組合に帰結させたものは、他の要因も作用すたとしても、ひっきょう日本なりの<労働社会>、企業社会であった。国際比較的にみれば、もちろんその特異性は明かである。企業社会は、黙契にすでに資本の論理が浸透しており、他国の<労働社会>のような反競争性が明瞭ではない。もっと枢要の異常性は、Abの人びとの職場社会がAaの従業員にこそふさわしい企業社会から自立せず、そこに曖昧に吸収されていることだ。こうした企業社会の性格については後にまたふれるけれど、企業別組合といえども、少なくとも1970年半ばくらいまでは、確かに世界共通のユニオニズム的な営みを発揮しなかったわけでなかった。そこを顧みれば、日本の労働組合運動を「世界の常識」を外れた、比較できない異質の運動とみることは、むしろこれからの日本の組合組織の変革の展望を絶望視させることに通じるように思われる
 この項の終わりに、最近、1984年~85年イギリスの炭鉱大ストライキの軌跡を細部にこだわって辿る作業を通じて、<社会としての労働組合>という長年の持論については、ある点で反省を迫られたことを付記したい。新自由主義の嚆矢ともいうべき炭鉱の閉鎖・大合理化に対して、10万人以上の炭坑夫たちは1年にわたって力尽きるまでピケをふくむストライキをもって抗った。その基礎はなによりも男たちの職場社会の結束であった。だが、抵抗力の驚くべき持続は、彼らの家族、女たちのつくる炭鉱ムラ・コミュニティの協力と援助、相互扶助の活動によってこそ支えられていたのだ。職場社会は居住地のコミュニティに抱擁されるとき、いっそう強靱に立つことができる。そういえば日本でも、かつて強靱だった炭鉱組合運動の背後には「炭住」の絆があったことにいまさら気づく。私の労働社会論は、この居住コミュニティの存否ということに関心が薄かったと反省させられたものである。くわしくは、冷静な叙述をもってしかるべき敗北の過程が「哀切を込めて語られている」とも評される、2023年の拙著『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動のレジェンド』(旬報社)の一読を乞う次第である。

大企業のサラリーマンや「OL」も、エンジニアや旋盤工も、教師や医師も、トラックドライバーも看護師も、スーパーのレジ担当パートもファストフードのアルバイト店員も、労働力商品の販売者としてはすべてプロレタリア、労働者階級である。けれども、彼ら・彼女らのそれぞれの<労働社会>は同じではない。日常生活上の必要性と可能性や「可視的ななかま」の範囲が異なるからだ。<労働社会>こそが多様な形態をとる持続的な労働組合の培養器となる。「階級としての労働者」が労働組合をつくるという命題はきわめて一般的な意味では正しいとはいえ、その一般論のみを強調する一部の「左派」研究者や労働運動実践者はしばしば、広くプロレタリアにふくまれとはいえ<労働社会>を異にする労働者さまざまの具体的な生きざまの凝視を怠り、ひいては、労働組合の組織形態にも無関心になりがちである。みんな連帯できる同じ労働者ではないか、そのなかの生活の格差や個々のニーズにこだわるなというわけだ。
 そのよびかけは総じて空しい。もとより、たとえば全国民的な政治課題をめぐる街頭行動とか、ゼネストに近い統一ストライキとか、労働者が<労働社会>の境界を超えて一斉に行動するときは確かにある。それは心の躍る非日常的な祭りだ。だが、祭りが終わるとき労働者の帰る居場所は、やはり職業社会や職場社会や地域一般労働社会であり、それぞれにふさわしい形態の労働組合なのである。
 私が労働組合の役割を経済的機能や政治的機能に限局せず、<社会としての労働組合>に執着するのは、労働組合とは、労働者が誰しも、個人のもつ競争資源の乏しい「孤独な稼ぎ人」たることをまぬかれる、なかまとの絆、相互扶助、、生活擁護を闘う協同の場をもたねばならないという思いに根ざしている。そこは居場所だ。一介の労働者は孤立してはやってゆけない。そこに帰属し、絶えずふりかかる受難に連帯して対応できるような居場所が不可欠なのだ。
 私の議論がさしあたり「ねばならない」という「べき論」であり、ユートピア論にすぎないと受けとられることを、私はよく承知している。たしかにいま現時点の現前にあるものは、従来、労働市場での不成功者の苦境をいくらかは緩衝してきた大家族や地域共同体が著しく衰退したのに、帰属すべき<労働社会>のないまま、過重労働や過少雇用、ひいては孤立貧に呻吟するニッポン・プロレタリアーとの群れである。
 企業のノンリート従業員もかつての職場社会の紐帯を失っている。まして、非正規労働者や低賃金の単身者、稼ぎのよい配偶者を欠く女たちは、まったく助け合いや生活改善に協同できるなかまをもたず、非情の雇用主に拾われ棄てられをくりかえし、文字通りの生活苦はどこまでも続いてゆく。最近の手近な文献では、例えば田中洋子編著『エッセンシャルワーカー』(旬報社)、東海林智『ルポ 低賃金』(地平社)などでその一端を知ることができよう。
 そうした孤立と貧困の深刻化に対して、保守政権の行政の吝嗇な生活支援策に心細く依存するだけでいいのだろうか。やはり当事者たちBY THE PEOPLEの営みが不可欠なのだ。 過重労働や貧困に苦しむ人びと自身が、自己責任論の軛を絶って、帰属する<労働社会>を探り当て、その居場所それぞれにふさわしいかたちの労働組合の意識的な構築につなげること。日本でも、クラフトユニオン、コミュニティユニオン、地域一般組合、企業横断の産業別組合など、もっと多様な労働組合が組織されるべきだ。これまでずっと新自由主義の「悪魔の挽き臼」に粉々にされてきた若い世代、いわゆるZ世代の一部は、そう気づいて、ささやかながらその萌芽を育てはじめているのではないか。私のできることはもうほとんどないけれど、<社会としての労働組合>の必要性論を可能性論に高める方途は、なお模索してゆきたいと思う。