その14 日本的能力主義の解明     (2024年10月10日)

 『日本の労働者像』(筑摩書房、1980年)の出版以降、私は企業社会に生きる労働者の遭遇したさまざまの試練を、職場あるいは特定階層の現代史として、さらには個人の体験史として、具体的に分析・描写することに専念した。東芝府中の人権裁判などへの関わりを通じてパワハラに関心を寄せはじめたのも、遅まきながら女性労働の軌跡に立ち入って性差別の執拗さに注目するようになったのも、この頃からだ。それらの考察は、『職場史の修羅を生きて――再論 日本の労働者像』(筑摩書房、1986年)にまとめられている。
 その過程で痛感したのは、日本の労働組合運動のまぎれもない衰退であった。私にはその衰退は、90年代にはあらわになる賃上げ機能の弱体化にさきがけて、仕事そのものと職場のなかま関係のありかたへの労働者の発言権・規制力の著しい後退、すなわちそれらに対する経営権の浸透を起点とするように思われた。個々の労働者の労働条件の決定についておよそ労働協約の介入を拒む<個人処遇化>と、それは言い換えてもよい。そうした傾向の大元こそはそして、1960年代半ばごろに姿を現し80年代、90年代を経るにつれて次第に定着するにいたる日本的能力主義管理にほかならない。結局、企業社会での従業員の働き方の経営主導性を確立したのは、この日本的能力主義の労働者への要請であり、労働者多数・企業別組合によるその基本的受容であった。
 日本的能力主義管理の労働者への強力なインパクトを私が総合的に検証した著作は、ようやく1997年刊行の『能力主義と企業社会』(岩波新書)である。遅すぎたとはいえこの新書は、当時、先駆的なプロレーバーの能力主義論と評され、私の著作としては最大の10万部以上の販路をもつことができた。その骨格はおよそ次のようである。

 日本企業に特徴的な能力主義管理が従業員に求めるのは、①今の仕事の種類、範囲、標準的な仕事量、勤務地にこだわらない「柔軟な」働きぶり、フレキシビリティと、②そこから派生する「会社の仕事を第一義」とする<生活態度>である。
 ①は要するに、労働者は会社の望むように働けとうことだ。それはすでに述べた<仕事遂行における経営専制=労働者の規制力欠如>の結果でもあり原因でもある。そればかりか、①と②を合わせ考えれば、企業の必要に応じて過重ノルマ・過度の残業・頻繁な転勤などを引受けることができるのは、そうした生活態度でやってゆけるのは、家事、育児、介護など無償のケア労働をまぬかれ、それらを「主婦」にさせている男性正社員のみなのである。この能力主義ははじめから性別役割分業・ジェンダー差別を前提にしているのだ。日本的能力主義管理下のサラリーマン生活はひっきょう、男にとってはもとより女にとっても、きわめて拘束的であった。
 この日本的能力主義にもっとも適合的な賃金システムは、査定つきではあれ年齢照応の年功賃金でもなく、経営側がある局面で導入を試みた職務給でもなく、職能給であった。そこでは、正社員は年功制度に包摂されながらも、「潜在能力」の開発と発揮を個人査定され、いくつかの昇給線上の職能等級の階梯のいずれかに位置づけられて支払われる。職務のグレードアップ、つまり昇進はなくとも、潜在能力の向上によって昇給はある。それは、戦後初期の自動昇給的年功賃金が昔日のものとなった時代における、紛争を回避した高度成長期の労使の大いなる妥結点であった。多くの労働者と企業別組合は、会社本位のフレクシブルな働き方を承認するかわりに、雇用保障とともに、年齢段階別の生活費の上昇を賄う昇給の一定の保障は確保している。経営側にとっても、技術革新に素早く対処するためにも、個々の担務内容の頻繁な変動をそのつど賃金差に結びつけるよりは、大まかな潜在能力と昇給を対応させるほうがよいと判断したのである。
 
 とはいえ、労働者・労働組合の日本的能力主義の受容の土台には、このような労使の戦略的な選択よりも根深い、前回までに論じてきた日本の労働者像の思想と心情が潜んでいるように思われる。くわしくくりかえすことは避けたいが、日本の労働者は、伝統的に、国家の要請への順応だけではない主体的な選択としても、労働者間競争の承認、階層上昇への不断の願い、「下積みの労働者」からの脱出志向、「庶民的開き直り」の忌避、そしてそれらと不可分の「現在の立場のままで生活向上と発言権を獲得する」思想、産業民主主義への信頼の稀薄さにおいて、ある意味で特異な人間像を刻んできた。この勤勉な人びとには、欧米の組織されたブルーカラーに特徴的な、競争主義・個人評価のメリトクラシーにつよく反発する思想はない。日本の労働者は個人の力量やがんばりが評価される能力主義に特有のなじみを感じてきたのだ。戦後の国民平等の思想も、消費生活の標準化要求に留まり、総じて労働現場の働き方の共通規制の樹立志向とは無縁だったということができる。
 多数派労働者の連帯的抵抗をうけなかった日本の能力主義管理はこうして、80年代以降、じりじりと企業社会に浸透し定着していった。その過程で年功制の一要素でもあり能力主義管理と表裏一体のものである人事考課の役割はいっそう強化されてゆく。細かくみれば、多面的な査定項目のうち、とくに客観性の疑わしい「情意」(責任感、積極性、規律遵守、協調性)の比重は弱まり、ノルマ達成の秤量基準となる「実績」の比重が強まったかにみえる。だが「潜在能力」の評価を中核とする評価の3項目はやはり健在であった。そうした多面的な個人査定は、昇給や賞与や昇格に大きく左右するゆえに、従業員の職場内外の生活を支配し続けた。
 そのうえ、やがて人事考課に目標面接制度が加えられたことのインパクトも無視できない。それは、上司との個人面談のなかで労働者が「君ならもう少し背伸びしてもいいじゃないか」などと誘導されて、より高度の能力の開発と達成を「約束」してしまう制度である。典型的な<強制された自発性>の世界。この上司との面談によって、きびしい仕事量も押しつけられたものではなく、労働者の「自己責任」とされるわけだ。この目標面接は、日本企業の誇る作業管理――P(プラン)D(行動)C(チェック)A(改善アクション)の連鎖に組み込まれ、労働時間の法制などをさておけば、働き方についての労働者の連帯的な職場規制をほとんど不可能にしたのである。
 この連鎖への統合は、日本企業の現場レベルのすぐれた効率性確保の完成形態であった。
だが、それこそが過重ノルマ、過度の残業、パワハラの脅威、メンタルクライシス、過労死・過労自殺などの最大の背景にほかならない。くりかえしいえば、それらは労働条件の<個人処遇化>のもと、<個人の受難>として現れ、<個人責任>が問われる。けれども、かつての高度経済成長が昔日のものとなった90年代にもなると、能力主義管理が唆してきた従業員の競争と選別は、正社員のなかに、昇給・昇格もできず、雇用保障も危うい多数の人びとを輩出するようになった。「能力主義を選択した日本にワークシェアリングは無縁ではないでしょうか」と嘯く有能なサラリーマンもなお少なくなかったとはいえ、<個人の受難>は本当はまぎれもなく労働者階級の受難だったのだ。だが、長年、能力主義管理のもとでさしあたり<個人の受難>をまぬかれてきた従業員の多数は、組織的抵抗が必要となる、例えばリストラ期を迎えたとき、それまでの労働者間競争への投企がなかま関係をばらばらに分解しており、連帯的抵抗はもはや不可能であることに突然、気づかされたのである。とどのつまり労働組合運動は存在意義を疑われるようになった。敷衍すれば、近年、およそ「労働問題」の解決者として労働組合運動、産業民主主義の復権に期待する論調は、左派の研究者にも、当の労働者にも、ほとんど見当たらないようである。

 人事考課や能力主義管理の「効用」は、経済政策としての新自由主義の支配のなかでいっそう時代の合意となりつつある。それだけに、日本の主流派の正社員労働組合が、それらに正面から対決することはもうできないだろう。けれども私は、にも関わらず、いやそれゆえにこそ、ユニオニズムへの次のような「後退戦」への期待を述べることをもって、この暗鬱な議論をいったん閉じるほかはない。
 まずは人事考課について。労働組合は、経営の一方的な運用に介入して、少なくとも、「A氏の給料は40万円、B氏の給料は25万円であるが、なかまたちはその差15万円がなぜ生まれるかをわかっており、その根拠を納得している」――そんな査定制度に変えるべきである。
 そして、能力主義管理については、それを絶対視せず、働きやすい職場に向けて次のような3点を追求したい。
 ゆとり:性、年齢、婚姻状態、健康状態を問わず、休暇の法的権利を確保でき、少なくとも70歳ごろまでは働けるようにすること
 なかま:雇用身分を問わず、傍らの同僚と助け合い、庇い合い、誰にとっても職場を居心地のよい界隈とすること
 決定権:遂行している仕事の遂行方法やペースや負荷に関して、現場の職場集団や労働者個人が少なくとも一定の裁量権を確保できること。
 こうしたことは、日々の労働に生きる人びとが自然に願うことだはないだろうか。そのようであれば、私はここに定着し、経験の力を蓄えることができる、と思うのではないか。ちなみに『能力主義と企業社会』の終わりに述べた<ゆとり・なかま・決定権>の三点は、ある有力なコミュニティユニオンの運動方針とされたことがある。
 しかしながら、現代の労働問題を全面的に論じるには、むろん男性正社員の受難の凝視のみではまったく不十分である。それなくして企業社会システムが成立しない階層であり、
能力主義の時代にここでも大きな変化を遂げた階層である女性労働者と非正規労働者について、私なりの考察をつないでゆかねばならない。それが「労働研究回顧」の次回以降のテーマとなる。

立憲民主党雑感(2024年9月26日)

 早朝、ようやく咲いた彼岸花の小堤や旧東海道を散歩しながらこんなことを考えた。
 野田佳彦と側近たちは、「中道保守」路線をとれば「国民は安心して」投票してくれると考えているらしい。これからの立憲は、集団自衛権・敵基地攻撃能力強化・軍事費増額・沖縄の辺野古基地建設・原発回帰などについて自民党に対決することはないだろう。維新や国民民主や連合幹部はいっそう、一緒にやりたいなら「もっとこちらへ(右へ)おいで」と流し目で誘惑する。立憲が自民党と違うところは、裏金・金権政治の打破と夫婦別姓の制度化くらいになるのだ。前者は議会秩序を危うくするほどの大胆さがなければ闘えず、後者は、安倍の亡霊の巫女のごとき高市早苗が明日まかり間違って自民党総裁にならない限り、争点ではなくなるだろう。
 そもそも政策において野党が支配政党とあまり変わらなくなれば、国民が野党を支持する理由がない。選択の判断が同じような政策課題を達成するにどちらが技術的に長けているかになる、そうなれば官界に「顔を効かす」経験をもつ今の支配政党のほうが望ましいという結果になるからだ。この憂鬱な関係に逆転をもたらす隘路は、支配政党が極端な「へま」を犯すことである。立憲民主は裏金問題こそがその隘路であり、国民の怒りが沸騰している今こそその隘路を通ることができると読んでいるかにみえる。
 この判断は甘いと思う。韓国ならば、度しがたい裏金への憤激は連日の何万という大デモを引き起こしただろう。だが、長年の自民党の金権政治に慣れっこになってしまったシニカルな日本国民の裏金への怒りの熱量は、大規模な市民行動を呼び起こすほどではなかった。いま野党共闘の困難はさておいても、政策上の対抗性の乏しい野党が自民党支配を覆す「隘路」を進みうる可能性は乏しい。来たるべき総選挙で政権交代が生まれる見通しは、遺憾ながらほぼ絶望的である。
 ほんとうのところ、生活改善のため政治行動や労働組合運動の方途を見出せていない中下層の国民多数は、貧窮に呻吟し、根深い生活保障と戦争への不安に苛まれている。その方途を見いだせれば、多くの国民の「中道保守」への投げやりな支持は一気に雲散霧消するだろう。議会制民主主義のいずれの国でも、国民は「穏健」や「中道」を支持するとは限らないのだ。さしあたり「出口なし」に見えるとはいえ、理想を旨とする野党はいま、敵失を期待した隘路ではなく、オルタナティヴの正道こそを追求すべきだろう。それゆえ、せめて立憲民主に残るリベラル・左派の枝野派は、「代表代行」などに祭り上げられることに甘んることなく、立憲民主本来の政策理念に固執して野田支配に対して絶えず叛乱するよう期待したい。そして、その本来の政策理念をかなり共有する社民党や共産党との共闘をやはり模索してほしいと願うものである。
(付記:この記述は石破政権成立直前のものだが基本的に主張内容の変更は必要あるまい)

誕生日を迎えて(2024年9月23日)

 9月21日、86歳の誕生日を迎えた。このたびの「認知症基本法」によればこの日は「認知症の日」らしい。苦笑するほかはない。まぁ同じ年の妻とともにMCI(軽度認知傷害)の門口には来ているのかなぁと思うこの頃だからだ。FBではほぼ70人ほどの方から誕生日メッセージを頂いた。そのうち15人ほどの友人の言葉には、総じて「老いの一徹」みたいな私の発言にもまだなにがしかの意味はあるのかもと感ることができて、元気づけられる。
 それでも、この1年ほどの間に、私の社会との公的な関わりはすべて終わったと思う。著書の刊行、論文や書評の執筆、マスメディアのインタビューなどの、おそらく最後の機会は、不思議にこの1年に集中した。もう社会的な発言が求められる可能性はほぼないだろう。今後はエッセイ「労働研究回顧」などをFBやHPに気ままに綴るだけである。ただ、この10月はいささか緊張して迎える。月初に懸案の妻の不整脈・心臓弁膜症の治療方針(検査入院、施術など)が決まるばかりか、中旬には社会政策学会書評分科会で最後の著書『イギリス炭鉱ストライキの群像』(旬報社)が取りあげられるのにかこつけて妻とささやかな観光を楽しむため、大分旅行を「敢行」する予定だからである。
 そのために、当面は、ふたりの体力を維持するため、相互ケアのパンクチュアルな日々を送る。30分~1時間ほどの早朝ウォーキング、時間を限定した庭の草取り、食欲の出るような食事の用意、週にいちどほどの外出・・・といった、まことに地味な生活である。TVで見るのは1時間以内のドキュメントが多いけれど、かなり貯蔵しているDVDで2.5時間~4時間近い名画の大作を見るのは私たちの大きな楽しみだ。そういえば、21日、「誕生日記念」として深夜まで見たのは、愛着このうえない『ドクトル・ジバゴ』だった。その起伏に満ちた物語の魅力、その語りの完全な説得性、ラーラ(ジュリー・クリスティ)の優しさと心意気、美しい風景と音楽。なんというすばらしい作品か。今回あらためて注目したのは、D・リーン監督の細部の心配りとともに、ロバート・ボルトのシナリオの卓越であったが、思えば私は半世紀も、こんな映画に人間と社会の光を教えられて生きてきたのだ。ともあれ、雨戸をあけ雨戸を閉める間に、日記に何か特記できることをひとつはやりたいと思う。
 最近のスナップ写真をいくつか。①9.15脱原発四日市行動でリレートークする私/② 名古屋の地下鉄で知り合ったネパール人家族/③大好きな喫茶店、名古屋芸文センターならびの倉式珈琲でのランチ/④矢場町のセンチュリー劇場で時間待ち/⑤書斎の日常。2011年ミャンマー旅行で買ったTシャツをまだ着ている。