2024年の収穫 読書と映画

(1)社会・人文系の書物
 労働と社会の研究からの撤退を自覚した2024年、本当に勉強しなくなった。この分野の読書はまことに貧弱で、いろんな関心はあっても、読むのは主として新書を中心とした小著ばかり。こうした「収穫」の紹介は今年をもって終わった方がいいように思われる。
 それに、新しいことをキャッチする感性のアンテナが錆びたのか、老人性が薨じて「こらえ性」がなくなったのか、テーマに惹かれても読み進めるうちにすぐになにかの不満でいらいらすることが多くなった。以下、むしろ一般的には社会的な意義があり高い評価も受けた良書が多いけれど、そのいくつかへの私なりの不満を書いてみる。
 例えば田中洋子(編著)『エッセンシャルワーカー 社会に不可欠な仕事なのに、なぜ安く使われるのか』(旬報社)や、斎藤幸平、松本卓也編『コモンの「自治」論』(集英社)は、問題意識の的確さと編者の叙述の充実を痛感する一方、多くの(多すぎる!)寄稿者の文章が総じてものたりない。原武史『象徴天皇の実像――「昭和天皇拝謁記」を読む』(岩波新書)は、裕仁のあまりの無責任、自省の欠如、非人間的なまでの人格の軽さに対する嫌悪と軽蔑がつきまとい不愉快だった。一方、麻田雅文『日ソ戦争――帝国日本最後の戦い』(中公新書)は、その克明さにおいてすぐれた戦史であるが、ソ連、米国、日本の政治的思惑やそれぞれの戦闘の作戦、用兵、指揮の判断などの日毎の詳細な記述などは、そこまで知りたいとは思わないよと感じて退屈もした。それとは逆に、橘木俊詔『資本主義の宿命――経済学は格差とどう向き合ってきたか』(講談社現代新書)は、格差是正をめざす社会民主主義のスタンスに同感でき、ピケティ登場の意義について教えられたとはいえ、全体に分析が簡単にすぎて浅い。くわしくは数多い自著を参照せよと言うわけだ。それに、なによりも、格差是正の営みや社会民主主義体制の構築に占める労使関係、労働組合運動に徹底的に無関心であることが致命的である。それから近藤絢子『就職氷河期世代』――データで読み解く所得・家族形成・格差』(中公新書)。かねてから「私は団塊ジュニア」に当たるこの世代の成功者と不成功者の分化に深い関心があって、すぐに読んだけれど、その内容は、この世代の重要性の相対化を明らかにする官庁統計の無味乾燥の報告に徹し、人びとのナマの生活にはふれられず、私の関心とあまりにずれがあってつまらなかった。
 社会的にはおそらく意義深い良書について身勝手な不満を書きつらねてしまったが、そんなわけで結局、今年、私なりに「おもしろく」、示唆的で勉強になったこの分野の著作は次の通りである。24年以前の作品のみ発刊年を記載した。
①黒川創 鶴見俊輔伝(新潮社)2018年
②五野井隆史 島原の乱とキリシタン(吉川弘文館)2014年
③上野千鶴子・江原由美子編著 挑戦するフェミニズム――ネオ リベラリズムとグローバ リゼーションを超えて(有斐閣)
④満薗勇 消費者と日本経済の歴史――高度成長から社会運動、 推し活ブームまで(中公新書)
⑤上杉忍 アメリカ黒人の歴史(増補版)――奴隷貿易からオバ マ大統領、BLM運動まで(中公新書) 
かんたんなコメント加える。
 ①:戦後日本を代表する哲学者・思想家についての初めての本格的な評伝という。筆者自身が鶴見に近すぎる感もあって、もう少し突き放した批評もほしいと思うところはあるが、それだけに解像度は高く、滅法おもしろい大冊である。
 ②:小説もふくめてこのところ集中的に読んだ島原・天草の欄について歴史書として最も説得的だった書物。本の紹介もふくめて、日本近代史最大の民衆叛乱については、HPエッセイ「読書と映画」欄(24年6月24日)の考察を参照してほしい。
 ③:12人の女性研究者が、現時点でフェミニズムが挑戦しなけれならない課題を新自由主義とグローバリゼーションと定め、総論・各論を寄稿する著作である。私は、この分野の外国文献に不案内で、文献に依拠する寄稿には理解できないところもあったけれども、能力主義・競争主義への帰依と性差別への反発が裏腹になっている新自由主義的フェミニズムへの批判の必要性はかねてからの持論でもあって、共感を禁じえなかった。その主題を中心に、本書の中で私があらためて教えられた寄稿は、さすが!という感じで総論の上野千鶴子、生活保障システムへのジェンダー分析の大沢真理、いま枢要のケア問題を語る山根純佳、私にはなじみの日本的能力主義管理下の女性労働を論じた金井郁のものだった。
 ④:消費生活・消費者という視点で高度成長以降の経済史を辿った作品。消費にまつわる概念が登場する時代ごとの特徴把握など、私には新鮮な好著だった。
 ⑤:きわめて多くを学びながら同時にもっとも感動的だった著作。「またトラ」の直後、あらためてアメリカの黒人の体験についてくわしく知りたくて繙く。16世紀の黒人奴隷の導入以来の長年にわたる南北の白人たちの狡猾な思惑、あまりにも非道の虐殺や圧迫の詳細を教えられた。そしてなにより、1831年のナット・ターナーの叛乱を始めとして現時点のBLM運動にいたるまで、筆舌に尽くしがたい困難のなか、黒人たちが自由のためにこのようにも多様な創意に満ちた抵抗を続けてきた勇気にふれたことに深い感銘を受けた。今なお都市コミュニティでの黒人の下層は、貧困、犯罪、麻薬、投獄がくりかえされる、絶望的なまでに重層的な「出口なし」の状況にある。彼ら、彼女らはとはいえ、基本的にはもう屈せざる人びとなのである。民主党も専門職エリートに肩を入れすぎたが、さりとてトランプでいいのか?と思ったりする。

(2)小説
 いつも読んでいる小説は選ぶのに難儀するけれど、そのリアルさ、荒唐無稽ではないグロテスクさ、サスペンスに満ちた展開、あるいは切実さきわまるゆえについ夜更かししてしまうほどおもしろい作品7作ほどを、あえて選んで書きとめる。
①金原ひとみ マザーズ(新潮文庫)2014年
②ジョージ・オーウェル<高橋和久訳> 一九八四年(早川文庫) 2009年。原著は1949年
③加賀乙彦 湿原( 朝日新聞社)1985年
④石牟礼道子 完本 春の城(藤原書店)2017年
⑤ケイト・クイン<加藤洋子訳> 狙撃手ミラの告白(ハーパーbooks)2023年
⑥津村記久子 つまらない住宅地のすべての家 双葉文庫 2024年
⑦津村記久子 水車小屋のネネ 毎日新聞出版 2023年

➀:同じ保育園に通う幼児をもつ作家、モデル、専業主婦という三人の、夫から任された育児の苦しみの過程をぎりぎりと描く。心身の疲労のきわみ、孤独と不安、虐待・・・。その果てに3人はそれぞれに心の危機に陥り、幸せなはずの家庭も崩れてゆく。その筆致の迫力に、女ひとりの育児とはこのようにもすさまじいものか、それを思い知れと突きつけられる思いだった。こんな小説を読まないフェミニストは信用できない。
②:徹底した管理社会に閉じ込められた恋人たちが、表現と行動の自由の束縛ばかりでなく内面的な心の従属をも強いられてゆくようすを描く。迷路のようなもの語りを通じて恐怖の近未来を警告する古典。彼のもうひとつの政治的パロディの傑作『動物農場』(早川文庫)のほうが、わかりやすいけれど、深みはこの作品のほうにある。 
③:1960年代末の社会運動の激動期を背景にした、中年の自動車整備工と鋭い感性の女子大生との長年の愛の軌跡がテーマである。新幹線爆破計画の冤罪で投獄される二人は不屈の抵抗の何年かの末に法廷闘争に勝利し、かつてその愛を確かめあった清冽な釧路湿原に旅立ってゆく。若い日に惹かれた雄渾な大作の再読である。
④:島原の乱を描く数ある文学作品のうち、叛乱者たちにもっとも寄り添う美しく温かい大作。キリスト者以外の仏教徒の参加者や、その後、天草の代官として死者を手厚く弔い、生き残った島民が生きてゆけるよう田畑の甦りに献身した鈴木重成も、理解と敬意を込めて記述している。数多の無名の人びとの生活と闘いに注がれるそのまなざしこそ、水俣病とその告発に身を投じた石牟礼道子のそれである。
⑤:『亡国のハントレス』や『戦場のアリス』のおもしろさで定評あるケイト・クインが、第二次大戦中のソ連軍で並外れた能力を発揮した実在の狙撃手ミラ・パヴィリチェンコの波瀾万丈の体験を活写する。くりかえす戦闘、度重なる負傷、同士との愛、性差別者の夫との確執・・・。これも巻おくあたわざるという感じである。
⑥:かねてからなぜか惹かれて大のファンである津村記久子の近作から二つを選んだ
⑥では、ある住宅地に、実は悪辣さにほど遠い女性脱獄者が向かっているという報が入り、10家族の住民が手分けして見張りをはじめることになる。その過程で、それぞれしんどい「事情」を抱えていた人びとが交流と理解を深め、それ以前には目論まれていた厄介な家族への非情の処置や、他家への悪意の「犯罪」が自然に忘れられてゆく。辛辣さを思いやりに変えてゆくそのささやかな目覚めの表出が、いかにも津村らしいのである。
⑦:実家を出奔した理沙と律の姉妹が、信州らしい川辺の村で、1981年から2021年まで地味に生きて成熟してゆく物語である。81年、高校を卒業したばかりの理沙は、溜めていた進学資金を母が許嫁の男に貢いでしまったことに憤り、虐待されていた8歳の律を連れて家出し、この村に来て、老舗の蕎麦屋の手伝いと、驚くべき反復力でほとんど人と会話ができ、蕎麦粉を轢く水車の稼動をチェックもできる鳥(ヨウム)ネネの世話をして暮らすことになる。10年ごとの語りの内に、手芸に長けた理沙は現地の縫製工場でも働き、怜悧な律は大学にも進学して農産物商社で働いたり、塾を開いて子どもたちに教えたりする。具体的に描かれるのは、家財のない二人の貧困のようすや、18歳が8歳の保護者になる大きな不安だった(第1話)が、それ以降は、蕎麦屋での食事、そばづくり、ネネとのふれあい、時折の些細な事件などの淡々とした静謐な日常の描写に終始する。10年ごと状況が4つの章を刻む。大切なのは、彼女らに関わる、象徴的にも、蕎麦屋夫妻のほかはすべてが「健全な家庭」から疎外されたもともとは孤独な周囲の人びととの関わりである。みんなネネが大好きでなにかといえば水車小屋に集う――妻を亡くした地元発電所の社員と律の親友の娘。挿絵画家の老女。自動車部品工場をやめて発電所の清掃係になり後に蕎麦屋の仕事もネネの世話もする聡。彼は後に理沙と結婚し、外国人労働者の保護をするボランティア団体のスタッフになる。それに成人した律に助けられて進学して建設会社に勤め、東北大震災の地へ進んで赴任するため去って行く研司。さらに過酷な親子関係に苦しみながら徐々に律と心を通わせる美咲。律の小学校の担任で、困った人には惜しみなく身銭を切る女教師の存在も見逃せない。
 こうした人びとに、姉妹はいつもさしでがましくなく(自立を損なう干渉なく)思いやられ、二人はこうして生きてこられたのだとふりかえり、人を思いやる歓びこそ生きる意味なのだと心に刻む成熟の途を歩むのだ。2021年のエピソードでは、美咲が蕎麦屋の後身であるカフェで働き、久しぶりに息子たちを連れて村に帰った研司を迎える。みんなして水車小屋に向かう。ネネとは人びとの絆の神のごとくである。そこにはヒロイン、48歳になった律が微笑んでいる・・・。静かな感動が潮のように満ちてくる。
 この淡々たる起伏のない物語になぜこうも惹かれるのか自分でもわからない。谷崎潤一郎の『細雪』を読んだとき、このような大阪の豊かな老舗商家の姉妹のくりかえす縁談などの些事を延々と綴る物語がなぜこんなにおもしろいのかいぶかしく思ったものだが、ある意味で『水車小屋のネネ』は『細雪』に似ている。だが、この姉妹の些事は、現代のふつうの家族からの疎外にいちどは打ちのめされ、思いやられ・思いやりのうちに生きる意味を見いだした無名の貧しい庶民が営む生活の些事である。ちなみにこの作品は谷崎潤一郎賞を受けている。

(3)映画
 2024年は、テーマに関心をもって名古屋の映画館に足を運ぶことが少なくなったせいもあって、邦画、洋画とも「生涯ベスト」に数えられるような作品に恵まれなかった。世評高い映画ながら、おそらく時代遅れの私の感性にしっくりこない作品もいくつかあった。それでも、私なりにああ見てよかったと思った映画をいくつか記録しておこう。24年初公開とは限らない。番号は観賞順でランク付けではない。ごく簡単にコメンを加える。

 【日本映画】
➀Perfect Days ヴェム・ヴェンダース(脚本とも)/主演:役所広司
②市子 戸田彬弘(原作戯曲とも)/主演:杉咲花
③52ヘルツのクジラたち 成島出/原作:町田その子/主演:杉咲花、至尊淳
④罪の声 土井裕泰/原作:塩田武士/主演:小栗旬、星野源 
⑤missing ミッシング 吉田恵輔(脚本とも)/主演:石原さとみ、青木崇高、森優作
⑥あんのこと 入江悠(脚本とも)/主演:河合優美、佐藤二朗、稲垣吾郎
⑦正体 藤井道人(脚本とも)/原作:染井為人/主演:横浜流星、山田孝之

➀:姪の訪れというさざ波はあれ、終始、公衆トイレの清掃する役所広司の毎日を淡々と描く。その静謐な自足の微笑。さすが巨匠は、観る者にもそれなりの自足をもたらす。
②&③:いずれも過去にDVなどジェンダー的に過酷な体験を負う女性(いずれも杉咲花)の軌跡を描く。こうした物語は今では数多いが、②ではそこからしたたかな悪女として立ち上がるユニークな設定がすぐれておもしろく、対照的に③では、切望と孤独と果てに、ひたすら絆を求めて泣くクジラの12ヘルツの声を聴きとり、寄る辺ない少年とともに生きる力を取り戻す。感動的な作品である。
④:幼児のころの声の録音が重大な犯罪に使われれたことを知った洋服職人(星野源)が、真相を探る記者(小栗旬)とともに、隠蔽の闇に分け入って、零落し自死しようとしていたもう一人の声を使われ男(宇野祥平)をついに救い出す。なによりもストーリーが魅力的で、好演するの星野と小栗ふたりの交歓が温かい印象を残す。
⑤&⑥:いずれも紹介済み。私のHPのエッセイ「読書と映画」欄(24年6月24日)を
参照されたい。MISSSINGの石原さとみの切実な感情が大きく起伏する演技が光る。
⑦:冤罪の死刑囚(横浜流星)が必死に逃亡し、変装しさまざまの仕事で生き継ぐ。その過程で、建設現場の同僚や各職場の女性たちが彼の「正体」の優しい美質に気づいてゆく。別件逮捕された男が凄惨な事件の真犯人と知った彼は、意識朦朧の被害者家族がいる施設に潜り込んで本当に目撃したことを思い出させようとするが、そのさなかについに逮捕されてしまう。しかし冤罪の疑いは司法界にも広がり再審が始まった。孤児として育ち、なんの人生体験もなかった彼は、逃亡してはじめて愛を知り、人間として自由な生活ができた歓びを語る。そこが心をうつ。そして警察上層部はあくまで冤罪や誤認逮捕の隠蔽を計るけれど、自由を求めた彼についに無罪の判決が下るのである。最近では稀なサスペンスに満ちた骨太のヒューマンドラマである。

 【外国映画】
➀アイアンクロー(US) ショーン・ダーキン(脚本とも)/主演:ザック・エフロン
②人間の境界(23ポーランドほか) アグネシュカ・ホランド/主演:ジャラル・アルタウィル、マヤ・オスタフシェカ
③関心領域(23.US、英、ポーランド) ジョナサン・グレーザー(脚本とも)/原作: マーティン・エイミス/主演:クリスチャン・フリーデル、サンドラ・ヒュラー
④罪深き少年たち(22韓) チョン・ジヨン/脚本:チョン・サンヒョブ/主演:ソル・ギョング、コ・ジェンサン、チン・ギョン、ホ・ソンテ、ヨム・ヘラン      
⑤ぼくの家族と祖国の戦争(23.デンマーク) アンダース・ウォルター(脚本とも)/主演;ビル・アスベック、ラッセ・ピーター・ラーセン
⑥サウンド・オブ・フリーダム(23.US) アレハンドロ・モンテベルデ(脚本とも)/主演:ジム・カヴィーゼル、ミラ・ソルヴィノ、ビル・キャンプ 
 
➀:「鉄の爪」の異名をとる強豪ボクサー、フリッツ・フォン・エリックの4人の息子たちが、ヘビー級チャンピオンの座を願う父(ホルト・マッキャラニー)の慫慂によって、当初の希望コースに関わらずボクサーに仕立て上げられてゆく。筋肉を鍛えろという父の教えは絶対で、息子たちはそのために、痛みを鎮痛剤で抑え、ステロイド剤を打ち、意欲を保つためコカインを吸ったリもする。兄弟は一時は無敵の家族チームとして成功するかにみえたけれど、穏和で人望ある次男(ザック・エフロン)はやがて限界を覚って身を引き、期待の三男(ハリス・デッキンソン)は急病死、将来を嘱望された四男(ジェレミー・アレン・ホワイト)はバイク事故で足首を切断、五男(スタンリー・シモンズ)は試合中の負傷から後遺症を患ってしまう。そのように悲劇的な、それでも愛し合う家族の道行きをみつめるのはいたたまれない。それでもこれは切実な傑作ということができる。
②:ベラルーシからEUに入れるという噂を信じたシリア難民たちが、ポーランドとベラルーシのいずれにも駆逐され、どこにも安住を許されない。その絶望のなか、ポーランドの女性活動家たち(マヤ・オスタフシェカら)が危険をおかして細々と脱出の途を開く。第三世界の多様な人びとの困窮のリアルな描写が冴え、シスターフッドの勇気が輝いて感動に誘う。
③:ユダヤ人強制収容所のすぐ裏にすむ収容所所長と家族たちの平然たる優雅な生活を描く。まことに傑出したユニークなテーマだ。広く注目された本作はしかし、行為を説明する台詞がほとんどない、大切な小道具がクローズアップされない、ときにノン・リアルなアニメ的映像が挿入されるという独特の演出手法ゆえに、感性の鈍磨した私には細部がわかりにくく、名作の特徴である鮮烈な印象が残らなかった。
④:1999年韓国で少年犯罪をでっちあげた「三礼ウリスーパー事件」に対する一刑事の長年の闘いを描いて感銘ぶかい傑作。すでに紹介ずみ。HPのエッセイ「読書と映画」欄(24年6月24日)にくわしい。
⑤:1945年4月、ナチス・ドイツの占領下のデンマークで。市民大学の学長ヤコブ(ピル・アスベック)はドイツ軍司令官の命令で、ドイツを逃れた500人もの難民を学校の体育館に受け入れる。多くの子どもを含む難民は飢餓と感染症の蔓延で日々死亡し病苦に苦しんでいた。ヤコブと妻リス(カトリーヌ・グライス=ローゼンタール)は、難民の生命と健康を救おうと苦闘する。それはしかし反ナチの市民にとって裏切り行為だった。祖国愛か人間愛か、夫妻は選択を迫られる。だが、その折、12歳の息子が、死に瀕したドイツ人少女を絶対に救いたいと必死に訴え、一家は禁を犯して都市の病院に赴く。少女は救われた。戦争は終わった。しかし、「親ナチ」とつまはじきされたこの家族は、結局この街を去らねばならなかった。今年もっともまっすぐに、愛国心を超えるヒューマニズムを謳う作品であった。
⑥:米国土安全保障省捜査官ティム(ジム・カヴィーゼル)が、はじめに救いだした幼児から姉を取り戻してほしいと懇願され、通常の任務の枠を超えて、南米コロンビアに赴く。彼は当地の実業家や侠気あるもとやくざの協力のもとに、奥地で誘拐した子どもたちを奴隷のように搾取する有力なギャング団の集落に潜入し、生命を賭してついに姉を、多くの少女たちとともに救い出す。終始サスペンスあふれる、ある意味で無謀ながら正義感と勇気に満ちたティムの行動は実話という。サウンド・オブ・フリーダムとは、救い出された少女たちの歓びの歌声だ。協力する訳ありの男たちにもそれぞれに存在感があっておもしろい。この作品、本当に見てよかった!

 外出の少なくなった後期高齢の私たちにとって、DVDによる大好きな映画の再訪は今年いっそういっそう頻繁になった。あまりに数多いが、そのうちから厳選したいくつかのタイトルと監督のみを記す。どれも珠玉の作品であり語るにつきない。若い世代の方はこのうちいくつご存知だろうか。
【洋画】:ペーパーバード 幸せは翼にのって(スペイン、エミリオ・アラゴン)/フライド・グリーン・トマト(US、ジョン・アブネット)/罪の手ざわり(中国、ジャー・ジャンクー)/未来を花束にして(英、サラ・ガヴロン)/灰とダイアモンド&地下水道&カチンの森(いずれもポーランド、アンジェイ・ワイダ)/ジュリア(US、フレッド・ジンネマン)/ミシッシピー・バーニング(US,アラン・パーカー)/心の旅路(US,マーヴィン・ルロイ)/ドクトル・ジバゴ(英、デヴィッド・リーン)/8 1/2(伊、フェデリコ・フェリーニ)/明日の少女(韓、チョン・ジュリ)/野いちご(スウェーデン、イングマール・ベルイマン/かくも長き不在(仏、アンリ・コルピ)/サラの鍵(仏、ジル.パケ=フランネール)
【邦画】七人の侍(黒澤明)/八日目の蝉(成島出)/ 名もなく貧しく美しく(松山善三)/フラガール(李相日)/砂の器(野村芳太郎)

その17 経済・社会体制論の試み

 前回の末尾、この連載は「その16」をもって幕を閉じると記した。しかしその後、狭義の労働問題研究ではないにせよ、ソ連崩壊の直後、さまざまの文献を集中的に精読し、懸命にまとめた私なりの「体制論」を、今ふりかえっておく必要があると思うようになった。そのころの私論が、最後の著書『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動のレジェンド』(旬報社、2023年)の最終章「思想的・体制論的な総括」の内容に直結していることに気づいたからでもある。
 ソ連・東欧の社会主義諸国の崩壊のなか、左翼論壇は、ではこれからどのような経済体制を選択すべきかについて根本的に考え直すことを迫られていた。その頃、属していた大阪の研究者・労働運動実践家が協同する「社会主義理論センター」でも、その視点を定める目的で長時間の討論集会が開かれ、中岡哲郎、山口定の両氏とともに、私も主要報告者の一人になった。そのことが、それまでこのような「大状況」について論じることのなかった私が逡巡ののちこの大きなテーマに挑戦した契機である。『国家のなかの国家――労働党政権下の労働組合.――1964-70』(日本評論社、1976年)などそれまでのイギリス産業社会の研究をふまえて、労働問題の枠を超える広汎な分野の懸命の勉強を経て試みたこの講演は、労働研究者以外の方々の間でも予想外の好評だった。当時の社会党構造改革派のグループに招かれて語りもしている。そこで私は講演録を、徹底的に修正・加筆したうえで、1993年刊行の『働き者たち泣き笑顔――現代日本の労働・教育・経済システム』(有斐閣)に収めた。いまふりかえっておきたいのは、この本の最終章「よりヒューマンな経済社会システム――体制の選択・序説」の概要にすぎない。 

 私の特徴的な関心は、社会主義、社会民主主義(ソーシャル・デモクラット、以下SD)、新自由主義(ネオ・リベラリズム、以下NL)など、代表的な体制論の系譜とか定義(理想型としての「本来論」)ではなかった。どの体制も深刻な矛盾や問題点をはらんでいると感じていたからだ。私はもうユートピアはないという前提で、その頃10年~15年ほどの各国の体制変動のなかで浮かび上がってきた、否定できない、どれも蹂躙また無視することが許されない諸価値を摘出することから出発した。諸価値は次の「4指標」に具体化される。
 ①人びとの自由、とりわけ表現と結社の自由
 ②混合経済の不可避性。生産性向上とともに価格が下がりうる「普通材」を市場競争を通じて供給する民間部門と、供給が限られており、かつ誰であれその享受ができなければ人権を損なう、インフラやライフ・ラインのサービス(稀少財、人権材)を供する公共部門のと共存。わけても不可欠な公共部門の護持
 ③社会保障(公的補助や社会保険)の安定的な水準維持
 ④狭義の議会政治にとらわれない民衆運動、とりわけ労働組合運動(産業民主主義)の自由の承認
 この確認から導かれる「よりヒューマンな体制」は、私見では戦後ヨーロッパの、とりわけ左派政党の政権担当時にみられた社会民主主義(SD)であった。これにくらべれば、既存または現存の社会主義国では、③はともかく、まず①において完全に失格である。実質上独裁の共産党の施策――例えばロシアのウクライナ侵略――に異議を申し立てる人びとやメディアは、無数の挙例を待つまでもなく徹底的に弾圧され、基本的に表現・結社の自由はない。④についても労働組合は国家機関と化し、民衆の街頭行動も暴力行使や逮捕の憂き目に遭い、しばしば政府・党から独立しているとはいえない司法によって有罪とされ投獄される。②に関しては私に正確な知見はないが、ピケティらの『世界不平等レポート2018』によれば、ロシアや中国で「上位10%の所得が国民所得に占める割合」は41~46%である(ちなみに北米は47%、ヨーロッパは37%)という。それはおそらく党員の高級官僚や「財閥」の特権が、まっとうな市場競争をゆがめるとともに格差と不平等を固定化させている社会なのである。
 一方、80年代以降、欧米の福祉国家的な要素を後退させてイギリス、アメリカ、日本、など先進諸国の政権を奪取した新自由主義(NL)は、社会主義の崩壊によって90年代にはいわば「ひとり勝ち」であった。では、このNL席巻のもと、上の「4指標」はどのような扱いになっただろうか。
 反全体主義の「民主主義」を謳う限り、NLも「4要素」を制度として公然と否定することはできない。しかしながら、国によっていくらかの違いはあれ、NLは「小さな政府」、企業間・個人間(労働者間)競争の開放と規制撤廃、成功・不成功の自己責任論・・・を核とする思想である。ここから②領域での公共部門の民営化、民間委託、③領域での「甘すぎる」支出制限は当然の帰結であった。そして④領域では、個人の能力や努力よりも「衆の力」つまりなかまとの連帯に頼る民衆運動は忌避せよという道徳律が鼓吹された。非暴力であっても「行きすぎた」デモの弾圧や、大規模なストライキの規制、 産業民主主義の制限が正当化されることになる。
 NL浸透の深刻な帰結のひとつは、具体例を挙げるまでもなく80年代以降にどの国でも顕著になった(ジニ係数の高まりに代表されるような)所得と資産の格差拡大と、貧困者の累積であった。そしてもうひとつは、格差拡大と自己責任論による庶民の孤立化・アトム化であり、連帯行動への結集の緩みだった。成功者の支持するNLの道徳律は、それ不成功者をふくむ多くの人びとのやむおえない生きざまとなってゆく。こうして多くの先進国で組合組織率は低下し、ストやピケなどの産業内行動は衰退、少なくとも沈静化した。要するに、NLは、「4指標」を真っ向から否定したとは言えないまでも、それら諸価値のもつ役割を減殺し、それらを空洞化させたのである。
 以上から、私はとりあえず結論する―― 否定しえぬ「4指標」のいずれをも蹂躙することなく、その意義や価値に固執しようと苦闘した「よりヒューマンな経済・社会体制」は、端的にいえば社会民主主義(SD)にほかならない。

 講演録「よりヒューマンな経済社会システム」は、「4指標」の理想を描くのではなく、生起するさまざまの難問を指摘してもいる。そのひとつは、「4指標」それぞれが内部にはらむ幾多の意見対立である。現時点のこともふくめて考えれば、例えば、➀表現・結社の自由については、ある人びとの人権を損なう唾棄すべきヘイト発言やフェイクに満ちたSNS発信をどこまで禁止するかが論争点になるだろう。③社会保障にしても、医療や介護の保障の財源を国庫(税金)とするか社会保険料とするか、金銭またはサービスが支給される資格としてのナショナルミニマムをどの水準に設定するかについて、大きな選択の幅がある。こうして最低賃金額とか公的補助としての生活補助の基準や貧困層の補足率などは、「福祉国家」のなかでもかなり格差をもつわけである。
 意見対立によってもっとも選択の幅が大きく変動を免れないのは③混合経済の領域である。社会民主主議(SD)の下でも、政府は財政逼迫のとき、市場経済への規制を嫌う経済界や可処分所得の増加を求めて増税に反対する中・上層国民の圧力に応えて、公共部門の圧縮に赴きもする。そもそも、サービス供給のどこを公共部門に、どこを民間企業にするかの議論についての論争は限りない。SD勢力のなかでも右派、左派の対立は否定できず、「保守中道」の右派が力を得ることがあれば、政府は、新自由主義(NL)に接近して、人権材の供給も、平等な安定的享受の危うい市場競争・利益志向の民間(委托)企業に委ねがちなのである。その結果は教育や医療や安寧の享受における階層間格差の拡大にほかならない。、
 いまひとつの、より深刻な問題は、「4指標」のいずれも蹂躙しないとすれば、それゆえにこそ政府が逢着する「4指標」間の共存の困難である。例えば③社会保障の継続的な充実は、国家財政を逼迫させ、②領域で、公共部門の「人権材」供給の護持という原則を後退させ、それを民間(委託)企業に移行させる可能性がある。②と③の間に矛盾が生まれるわけだ。だが、もっとも共存がむつかしいのは、国民経済の健全さ、インフレなき成長をめざす政府と、産業内行動・産業民主主義に執着する強靱な労働組合との間であう。NLの先駆者たるイギリスのサッチャーと炭鉱労働組合との1年の闘いはこの共存の困難を象徴している。けれども、本来的に 草の根の産業民主主義を否定するNLのみではない。SDの政権にとっても、「つよすぎる労働組合」は国民経済の運営にとってまことに厄介なのだ。そこでたいていのSD政権は、労働三権は護持しながらも、労働組合を国民経済に配慮する、つまり 産業民主主義を万能視せずに産業内行動を慎重に抑制する組織に導こうとする。現在の日本はNLのなかまにほかならないが、労働組合運動がすでに他国に例を見ないほど労使協調に飼い慣らされているゆえ、政府は資本主義経済を運営する労苦を大いに免れているといえよう。

 思えば「インフレは民主主義のコスト」(グンナー・ミュールダール)という見方はまことに真実をうがっている。国民の各層、労働者や貧困層や年金生活者などの強靱な要求行動に規制や禁止がなければ、政府は紛争を避けて譲歩せざるをえない。分権的圧力の合力の結果がインフレになるというわけだ。敷衍しよう。75年以降、戦後社会民主主(SD)の性格を帯びた先進ヨーロッパ諸国の「イギリス病」ともいわれるスタグフレーション(インフレ高進+失業増加」)の原因のひとつは、「4指標」、➀表現・結社の自由、②エッセンシャルな公共部門サービスの護持、③社会保障の充実、④自由な市民運動や労働運動の承認――そのいずれをも無視または蹂躙しなかったことにあるかにみえる。あわせてイギリスのように規制なき要求行動が「官民横断」であったことも見逃せない。「4指標」のすべてを尊重することが生産性向上や成長を鈍化させ、SD政権の国民経済の運営をもたもたさせたのだ。企業間・個人間の競争を至上とする新自由主義(NL)は、SDのこの資本主義経済のパフォーマンスの衰えをついて、支配の座を奪ったのである。そこで現出した産業社会が「4指標」のいくつかを空洞化させたシステムであることはすでに述た。
 ヒューマンな諸価値に固執したSDの、それは栄光ある敗北であった。しかし私たちは、資本主義経済のパフォーマンスの優越をもって望ましい体制と評価することができるだろうか? その後NL支配下での格差拡大、貧困層の累積、自己責任論では救われないアトム化した庶民が連帯の要求行動を容易に見出せない鬱屈、産業民主主議の衰退などを体験するなか、すでに90年代半ばには、日本を例外とする先進諸国においてSD志向が再生しつつある。SDが再生しても経済運営はやはりもたもたするだろう。けれども、ヒューマンな諸価値・「4指標」すべてを、相互のコンフリクトや、妥協を余儀なくされる紛争なく満たしうる「大思想」を唱えることはもうできないのである。
 「マルクスが構想した本来の社会主義は・・・」とユートピアを語ることは空しい。サッチャーにとって攻撃の的は「Socialist Britain」であり、トランプの放言?では統一的な医療保険の主張者は「過激な社会主義者」なのだ。それが今ここにある現実である。しかし、その現実の政治では、多くの人びとのニーズにもとづく社会運動や総選挙によっては、NLがSDの、SDがNLのある要素を取りこむことが十分にある。とはいえ、思想的にはやはり両者は峻別される。資本主義の経済運営がより効率的な新自由主義か、よりヒューマンな価値に固執する社会民主主義か。私たちはひっきょういずれかの選択を迫られている。   

2024年 晩秋から初冬、京都への旅

 10月末、私たちはふたりとも発熱、診察を受けるとコロナに感染していた。自宅静養を余儀なくされる。微熱が続き、味覚と食欲がない。体がだるい。何を読んでも集中できず、秘蔵のDVDで大好きな映画をぼんやり観るばかりだった。しかし11月8日、食欲不振を訴えて漢方薬が変わった頃から、不思議にぐんぐん回復した。いつも平熱となり、食欲と味覚が戻った。早朝に30分から40分ほど散歩をするようになった。なにかしようとするする意欲が猛然と戻った。11月23日、はじめは欠席するつもりだった名古屋労働会館での<関生労組の弾圧を許さない東海の会>主催の、京都事件公判報告&パネルディスカッションにもパネラーのひとりとして参加した。もっとも準備不足と病み上がりで発言は持論に留まり精彩制裁を欠いたと思う。それでも、11月26日~27日には、ふたりして、長年の女友だちとともに紅葉を観る京都への旅を敢行した。
 26日は、旧友KやS・I(敬称略)と、勧修寺、醍醐寺、永観堂、真如堂の4古刹をめぐり、会食・歓談することができた。午後は雨だったが、すばらしく充実した観光ができ本当に幸せな1日だった。それというのも、敬愛する労働運動家T・Iが、細かいコースと食事処と時間の周到な計画にもとづいて、レンタカーでご案内をしてくださったからだ。みごとな道選びと時間設定だった。煩雑な会計事務その他もすべて旧友たちに任せた。よぼよぼの老親みたいな私たちを歓待してくださったみなさんに、どれほどお礼を言ってもつくせない。その夜はまたYさんのご紹介で古民家風「自主管理」の民宿に宿泊した。
 27日は、晴天に恵まれ、ふたりで夕方まで、休み休みしながら実にゆっくりと東山を散策した。京都市役所からバスで銀閣寺前⇒哲学の道⇒法然院⇒また哲学の道⇒永観堂(門前のみ)⇒「料庭」八千代での昼食⇒南禅寺という懐かしいコース。法然院のあたりから次第に紅葉が濃密になる。陽光に輝くその美しさに魅せられた。南禅寺では方丈を拝観し、紅葉が彩る庭園の続く長い回廊をめぐる。こんなことがまだできるのね!と妻がつぶやく。彼女は幸せと感じればそれでいい・・・。境内に出てまた夕陽に輝く紅葉を見納め、疲れた足を引きずって地下鉄蹴上を経て京都駅に至る。近鉄を乗り継いで帰宅したのは20時前だった。今日は16000歩ほども歩いている。
 11月27日の二人の散策をくわしく書いたのは、もうこんな機会は、私たちのつましい余生にはもうないかもしれないと感じたからだ。この間の紹介したいスナップは、23日のイヴェント、26日のみんなとの観光・会合などいくらもあるけれど、きりもなくここでは27日の京都の紅葉などに限りたい。

 写真の紅葉の背景は、順を追って、永観堂/哲学の道、川向こう/法然院の門/哲学の道、川向こう/永観堂/同上/同上/南禅寺下の料庭「八千代」で/南禅寺、正因庵白壁に被さる紅葉/南禅寺法堂前のふたり/南禅寺、方丈の庭/南禅寺境内ふたたび、法堂前/同上、背景は三門/蹴上への途上で 

その16 非正規労働者――被差別の状況を超えて(2024年12月6日)

 パートタイマー、アルバイト、契約社員、派遣労働者などの非正規労働者は、2023年には雇用者の37%、男性でも22%、女性では54%にもなる。正規雇用者に対する非正規雇用者の賃金格差は、時給で2021円vs.1337円の66%、年収で531万円vs.306万円の58%(22年厚労省)という。だが、この場合の非正規従業員は多少とも常用的な人びとであろう。年収が200万円に届かない不安定雇用の非正規労働者が数多く存在することは、年収200万円以下のワーキングプアが労働者の22.9%になる(国税庁調査2023年)ことからも明かなのだ。不安定雇用・低賃金の非正規労働者こそは、累積する貧困層の中心的な地層であることは自明である。
 ちなみに相対的貧困率(所得の中位の半分以下の人の比率)は21年には15.4%で、Gセヴンのなかの最高位である。日本は今や堂々たる貧困大国であるといえよう。

 2018年5月、自民党安倍内閣(当時)は、①残業の法的制限を主内容とする長時間労働の是正とともに、②「同一労働同一賃金」(以下EPEW)の導入による非正規労働者の処遇改善を図る「働き方改革」を唱えた。そのゆくえは、①長時間労働の是正も高度プロフェショナル制度の導入にみるようにかなり欺瞞的であったが、②はいっそう空疎だった。以下、横田伸子/脇田滋/和田肇編著『「働き方改革」の達成と限界――日本と韓国の軌跡をみつめて』(関西大学出版会、2021年)寄稿の最近の論文「安倍内閣「働き方改革」の虚実」をベースに議論を進めよう。
 安倍晋三は当初「日本から正規・非正規という言葉をなくしたい」と揚言した。なんという舞い上がりようか。そんなことが政府にできるなら苦労しないと、私は苦笑を禁じえなかった。安倍はこの差別的な雇用形態が、日本企業の労務管理の重要な堡塁であることがわからないほど鈍感だった。企業側はしかるべく安倍のEPEW論を一蹴したのである。
 企業は、正社員Aと非正社員Bが日常的に遂行している仕事が同じであっても、両者を同等に評価し同一賃金を支給することは決してない。Aの職務にはしばしば財務上または人事管理上の「責任」が付加されているからだけではない。Aの仕事は明日のキャリア展開のための経過的な課業とみなされるが、Bのそれは総じて「袋小路」の担務なのだ。Aがはじめからフレキシブルに働きキャリアを歩む従業員として「期待」されて採用されているのに対して、Bはそのように「期待」されることなく、必要に応じた定型的または補助的な働き手handsとして拾われているのである。両者に同じ賃金決定ルールを適用することは企業にとって不合理なのだ。こうした雇用形態・採用方針・人材活用の従業員間の差別は、分業配置上および経営コスト上、大きな企業利益をもたらす。ここには企業利益と能力主義的選別の間にあるwin-winの関係はない。雇用形態差別の経済性は、がんばれる女性を旧来の性差別意識ゆえに活用しないことの非経済性と対照的でさえある。
 この財界の堡塁を前にして、安倍晋三はいつしか、EPEWとか非正規雇用の撤廃とかを謳わなくなる。のちの法制が、非正規労働者の処遇改善において、賃金、賞与、その決定方式を統合する改革は姿を消し、休暇・休日取得、福利厚生などにおける可視的な差別の是正のみを規定するに堕したのも当然であろう。そして正社員を組織する企業別組合がこうした道行きに異を唱えることもなかった。
 
 近年の講演などで私がよく用いた分析軸は、ときに過労死・過労自殺にいたるまでの正社員の心身の疲弊と年収200万にも満たない非正規労働者の貧困との相互連環・相互補強関係であった。非正規の貧困体験を経た人は、ようやく正規雇用として採用されると、課せられる過重労働を拒むことなく引き受ける。だが彼ら、彼女らはしばしば過重労働ゆえの心身に不調を来たし、退職してまた非正規労働市場に入ってゆく。被差別雇用をくりかえすうちに求職の気力も失うかもしれない・・・。正規雇用と非正規雇用は地続きなのだ。いずれにせよ、はじめから正社員就職できなかった人をふくめて 非正規労働者男女の部厚い層が堆積しつつある現状である。
 このことから次のように言える。第1に、非正規労働者と正社員それぞれのしんどさは表裏一体のものである。状況批判は両者を同時に視野に入れる必要がある。第2に、非正規労働者の問題は、どちらかといえば女性においてより深刻であることは確かながら、それはすでにノンエリート男女に共通する問題にほかならないことだ。
 では、ノンエリ-ト男女に共通するこの受難に対して、どのような改善の方途が考えられるだろうか。当の非正規労働者の選択に応じて方途はふたつである。
 
 特定の企業や職場への定着を望む常用型の非正規労働者は、やはり正社員化をめざし、正社員としての処遇の平等化を、なによりも賃金体系・賃金決定方式の正社員との統合を求めるべきであろう。従来の非正社員も一般職正社員の昇給線を辿る。職務の違いはあっても、彼ら、彼女らはすでに多くの産業で「その作業なくしては業務遂行ができない」という意味での基幹労働である。正社員としての拘束性や上昇の「天井」はあるにせよ、昇給・昇格・キャリア展開が閉ざされているのは、まことに不平等にほかならない。
 けれども、どの企業、どの職場でも働ける非正規労働者は、専門技能の有無を問わず、非正規雇用のままでいい、しかし物乞いのような求職と食えない賃金は絶対に拒む、それゆえ、非正規雇用も働き続け生活できるまでの「自立」を求める途を追求する、そんなありようを追求したい。そのために必要なことは、企業外でみずからが打ち立てた一定の働くルールや賃金、職種別レートや最低賃金を、そのとき働く企業に持ち込ませるのである。
 空理空論ということはできまい。現在でも、労働条件の水準をさておけば、地方労働市場の実情に応じて多くの企業や公共部門でそのような処遇がなされている。残されている課題は、「企業外でみずからが打ち立てた一定のルールや賃金」を、その慣行に加えることである。それができるためには、欧米の一角にみられるように、彼ら、彼女らが産業別または職種別労働組合に加入し、またはそうした企業外組合の連帯を構築し、個別企業また業界を相手とする団体交渉や要求行動を実践できる思想をわがものとしなければならない。その萌芽は、図書館司書・非常勤教員など公共部門専門職の連帯行動、コミュニティユニオンの協同による非正規春闘の展開、ファストフード店員・アマゾンスタッフ・自動販売機係員など労働条件改善行動、大都市での最低賃金即時1500円獲得などの共闘に現れている。それらは可能性としてまことに広大なフロンティアをもつ。ここに希望がある。
 ふたつの途に共通する非正規労働者の状況改善のため日本に不可欠の労働運動上、政治・行政上の戦略ポイントは、前回「女性労働」で述べたところといくつか重なって、すでに十分に意識化されている。
 まずもって、企業のいう労務管理視点の「同じ労働」論議にとらわれない「同一価値労働同一賃金」論。職務評価によってそれぞれの賃金額の「正当な格差」を設定するこの手法を用いれば、しばしば男性の半分ほどの女性の賃金は8割ほどには高まるという。例えば、この理論に立脚して商社について克明に職務を分析した森ます美、木下武男、居城舜子、高嶋道枝らの報告書(ペイ・エクイティ研究会『商社における職務の分析とペイ・エクイティ』1997年)によれば、男性と女性の正当な(その水準に是正されるべき)賃金格差は、100vs.89であった。この格差是正論はむろん、雇用形態間の賃金格差の是正にも適用されるべきなのである。
 また、日本ではなお不在の、非正規雇用が許容される条件を規定する「入り口規制」の法制化が絶対に必要だ。ドイツや韓国では厳しい許容条件があるのに、日本では非正規労働者の「活用」は企業の思いのままである。さらに、今日、枢要のエッセンシャル・ワークであるのに、経営状態が零細で、雇用や契約の枠組みが多様で、処遇があまりにも劣悪なケアワーカーのありように鍬入れがなければならない。この不可視の草の根の働き手の公務員化を視野に入れた労働条件と生活水準の公的保障が喫緊の課題といえよう。
 いずれにしても、正規・非正規の差別の「堡塁」は、社会運動の性格を帯びた労働運動によって撃破されなければならない。堡塁のなかの城兵がさしあたり撃破に加担することはない。とはいえ、彼ら、彼女らのノンエリート化した層は、拘束感とともに将来不安も抱えており、より社会的な保障を求めてもいる。堡塁が揺らげばひそかな謀反が期待できるかもしれない。

 私なりの労働研究キーワードを手がかりに、とりとめなく精粗さまざまに綴ってきた<労働研究回顧>は、これでいちおう幕を閉じることにする。多少とも私に独自的なコンセプトは、主として60年代~90年代までの案出であり、2000年代はじめの上記<正社員の心身の疲弊と非正規労働者の差別と貧困の相互>をもって、ほぼつきたからである。
 2010年前後、私はいずれも岩波書店から、それまでの研究を集約・総括するような著書をいくつか刊行している。多様な格差を内包した労働状況を全体的に分析した『格差社会ニッポンで働くということ』(2007年)、長年の労働組合研究のすべてを網羅した『労働組合運動とはなにか』(2013年)、そして企業社会における労働者の極北の受難、過労死・過労自殺を凝視して、個人体験のレベルにまで降りて克明に辿った『働きすぎに斃れて』(2010年、2018年「岩波現代文庫」に収録)である。けれども、それらは、産業民主主義の復権へのあくなき執着、<強制された自発性>を軸とする労働者の主体性の重視、労働者個人と階層全体との往還的考察など、研究史の初期・中期に培った思想や分析視角を、手放さず彫啄して貫いた作品にほかならない。方法論としての新しさはない。研究者は「処女作に向かって成熟する」という。「成熟」した自信はなく、もっと考究したい多くのテーマを抱えたままながら、以上をもって連載を閉幕とする次第である。
 なお、本格的な労働研究から撤退した後、私はさらに2023年まで、市場性は乏しいけれど、長年の読者からは「いかにも私らしい」と愛好されもした3冊の本を出版している。これらについては、しかし書くとすれば、<労働研究回顧>の補論とすべきであろう。