『日本の労働者像』(筑摩書房、1980年)の出版以降、私は企業社会に生きる労働者の遭遇したさまざまの試練を、職場あるいは特定階層の現代史として、さらには個人の体験史として、具体的に分析・描写することに専念した。東芝府中の人権裁判などへの関わりを通じてパワハラに関心を寄せはじめたのも、遅まきながら女性労働の軌跡に立ち入って性差別の執拗さに注目するようになったのも、この頃からだ。それらの考察は、『職場史の修羅を生きて――再論 日本の労働者像』(筑摩書房、1986年)にまとめられている。
その過程で痛感したのは、日本の労働組合運動のまぎれもない衰退であった。私にはその衰退は、90年代にはあらわになる賃上げ機能の弱体化にさきがけて、仕事そのものと職場のなかま関係のありかたへの労働者の発言権・規制力の著しい後退、すなわちそれらに対する経営権の浸透を起点とするように思われた。個々の労働者の労働条件の決定についておよそ労働協約の介入を拒む<個人処遇化>と、それは言い換えてもよい。そうした傾向の大元こそはそして、1960年代半ばごろに姿を現し80年代、90年代を経るにつれて次第に定着するにいたる日本的能力主義管理にほかならない。結局、企業社会での従業員の働き方の経営主導性を確立したのは、この日本的能力主義の労働者への要請であり、労働者多数・企業別組合によるその基本的受容であった。
日本的能力主義管理の労働者への強力なインパクトを私が総合的に検証した著作は、ようやく1997年刊行の『能力主義と企業社会』(岩波新書)である。遅すぎたとはいえこの新書は、当時、先駆的なプロレーバーの能力主義論と評され、私の著作としては最大の10万部以上の販路をもつことができた。その骨格はおよそ次のようである。
日本企業に特徴的な能力主義管理が従業員に求めるのは、①今の仕事の種類、範囲、標準的な仕事量、勤務地にこだわらない「柔軟な」働きぶり、フレキシビリティと、②そこから派生する「会社の仕事を第一義」とする<生活態度>である。
①は要するに、労働者は会社の望むように働けとうことだ。それはすでに述べた<仕事遂行における経営専制=労働者の規制力欠如>の結果でもあり原因でもある。そればかりか、①と②を合わせ考えれば、企業の必要に応じて過重ノルマ・過度の残業・頻繁な転勤などを引受けることができるのは、そうした生活態度でやってゆけるのは、家事、育児、介護など無償のケア労働をまぬかれ、それらを「主婦」にさせている男性正社員のみなのである。この能力主義ははじめから性別役割分業・ジェンダー差別を前提にしているのだ。日本的能力主義管理下のサラリーマン生活はひっきょう、男にとってはもとより女にとっても、きわめて拘束的であった。
この日本的能力主義にもっとも適合的な賃金システムは、査定つきではあれ年齢照応の年功賃金でもなく、経営側がある局面で導入を試みた職務給でもなく、職能給であった。そこでは、正社員は年功制度に包摂されながらも、「潜在能力」の開発と発揮を個人査定され、いくつかの昇給線上の職能等級の階梯のいずれかに位置づけられて支払われる。職務のグレードアップ、つまり昇進はなくとも、潜在能力の向上によって昇給はある。それは、戦後初期の自動昇給的年功賃金が昔日のものとなった時代における、紛争を回避した高度成長期の労使の大いなる妥結点であった。多くの労働者と企業別組合は、会社本位のフレクシブルな働き方を承認するかわりに、雇用保障とともに、年齢段階別の生活費の上昇を賄う昇給の一定の保障は確保している。経営側にとっても、技術革新に素早く対処するためにも、個々の担務内容の頻繁な変動をそのつど賃金差に結びつけるよりは、大まかな潜在能力と昇給を対応させるほうがよいと判断したのである。
とはいえ、労働者・労働組合の日本的能力主義の受容の土台には、このような労使の戦略的な選択よりも根深い、前回までに論じてきた日本の労働者像の思想と心情が潜んでいるように思われる。くわしくくりかえすことは避けたいが、日本の労働者は、伝統的に、国家の要請への順応だけではない主体的な選択としても、労働者間競争の承認、階層上昇への不断の願い、「下積みの労働者」からの脱出志向、「庶民的開き直り」の忌避、そしてそれらと不可分の「現在の立場のままで生活向上と発言権を獲得する」思想、産業民主主義への信頼の稀薄さにおいて、ある意味で特異な人間像を刻んできた。この勤勉な人びとには、欧米の組織されたブルーカラーに特徴的な、競争主義・個人評価のメリトクラシーにつよく反発する思想はない。日本の労働者は個人の力量やがんばりが評価される能力主義に特有のなじみを感じてきたのだ。戦後の国民平等の思想も、消費生活の標準化要求に留まり、総じて労働現場の働き方の共通規制の樹立志向とは無縁だったということができる。
多数派労働者の連帯的抵抗をうけなかった日本の能力主義管理はこうして、80年代以降、じりじりと企業社会に浸透し定着していった。その過程で年功制の一要素でもあり能力主義管理と表裏一体のものである人事考課の役割はいっそう強化されてゆく。細かくみれば、多面的な査定項目のうち、とくに客観性の疑わしい「情意」(責任感、積極性、規律遵守、協調性)の比重は弱まり、ノルマ達成の秤量基準となる「実績」の比重が強まったかにみえる。だが「潜在能力」の評価を中核とする評価の3項目はやはり健在であった。そうした多面的な個人査定は、昇給や賞与や昇格に大きく左右するゆえに、従業員の職場内外の生活を支配し続けた。
そのうえ、やがて人事考課に目標面接制度が加えられたことのインパクトも無視できない。それは、上司との個人面談のなかで労働者が「君ならもう少し背伸びしてもいいじゃないか」などと誘導されて、より高度の能力の開発と達成を「約束」してしまう制度である。典型的な<強制された自発性>の世界。この上司との面談によって、きびしい仕事量も押しつけられたものではなく、労働者の「自己責任」とされるわけだ。この目標面接は、日本企業の誇る作業管理――P(プラン)D(行動)C(チェック)A(改善アクション)の連鎖に組み込まれ、労働時間の法制などをさておけば、働き方についての労働者の連帯的な職場規制をほとんど不可能にしたのである。
この連鎖への統合は、日本企業の現場レベルのすぐれた効率性確保の完成形態であった。
だが、それこそが過重ノルマ、過度の残業、パワハラの脅威、メンタルクライシス、過労死・過労自殺などの最大の背景にほかならない。くりかえしいえば、それらは労働条件の<個人処遇化>のもと、<個人の受難>として現れ、<個人責任>が問われる。けれども、かつての高度経済成長が昔日のものとなった90年代にもなると、能力主義管理が唆してきた従業員の競争と選別は、正社員のなかに、昇給・昇格もできず、雇用保障も危うい多数の人びとを輩出するようになった。「能力主義を選択した日本にワークシェアリングは無縁ではないでしょうか」と嘯く有能なサラリーマンもなお少なくなかったとはいえ、<個人の受難>は本当はまぎれもなく労働者階級の受難だったのだ。だが、長年、能力主義管理のもとでさしあたり<個人の受難>をまぬかれてきた従業員の多数は、組織的抵抗が必要となる、例えばリストラ期を迎えたとき、それまでの労働者間競争への投企がなかま関係をばらばらに分解しており、連帯的抵抗はもはや不可能であることに突然、気づかされたのである。とどのつまり労働組合運動は存在意義を疑われるようになった。敷衍すれば、近年、およそ「労働問題」の解決者として労働組合運動、産業民主主義の復権に期待する論調は、左派の研究者にも、当の労働者にも、ほとんど見当たらないようである。
人事考課や能力主義管理の「効用」は、経済政策としての新自由主義の支配のなかでいっそう時代の合意となりつつある。それだけに、日本の主流派の正社員労働組合が、それらに正面から対決することはもうできないだろう。けれども私は、にも関わらず、いやそれゆえにこそ、ユニオニズムへの次のような「後退戦」への期待を述べることをもって、この暗鬱な議論をいったん閉じるほかはない。
まずは人事考課について。労働組合は、経営の一方的な運用に介入して、少なくとも、「A氏の給料は40万円、B氏の給料は25万円であるが、なかまたちはその差15万円がなぜ生まれるかをわかっており、その根拠を納得している」――そんな査定制度に変えるべきである。
そして、能力主義管理については、それを絶対視せず、働きやすい職場に向けて次のような3点を追求したい。
ゆとり:性、年齢、婚姻状態、健康状態を問わず、休暇の法的権利を確保でき、少なくとも70歳ごろまでは働けるようにすること
なかま:雇用身分を問わず、傍らの同僚と助け合い、庇い合い、誰にとっても職場を居心地のよい界隈とすること
決定権:遂行している仕事の遂行方法やペースや負荷に関して、現場の職場集団や労働者個人が少なくとも一定の裁量権を確保できること。
こうしたことは、日々の労働に生きる人びとが自然に願うことだはないだろうか。そのようであれば、私はここに定着し、経験の力を蓄えることができる、と思うのではないか。ちなみに『能力主義と企業社会』の終わりに述べた<ゆとり・なかま・決定権>の三点は、ある有力なコミュニティユニオンの運動方針とされたことがある。
しかしながら、現代の労働問題を全面的に論じるには、むろん男性正社員の受難の凝視のみではまったく不十分である。それなくして企業社会システムが成立しない階層であり、
能力主義の時代にここでも大きな変化を遂げた階層である女性労働者と非正規労働者について、私なりの考察をつないでゆかねばならない。それが「労働研究回顧」の次回以降のテーマとなる。