その9  「同一労働同一賃金」
―その日本的なハードルを超えて


 安倍内閣はこのほど「一億総活躍社会」への政策の一環として、「わが国の雇用慣行には十分に留意しつつ」「同一労働同一賃金」の実現に踏み込むと表明した。日本で際立つ正社員と非正規労働者の巨大な賃金格差を国際相場の2割ほどまでに是正するため、労働契約法、パート労働法、労働者派遣法の改正にも「ちゅうちょなく」着手するという。
 この政策表明は、安倍晋三にしては上出来ながら、どこまで有効で、どこまでほんものだろうか?
 たとえばファミレスでは、ふつうA正社員の男性店長とB女性のパートやアルバイトが、普段の時間内ではフロアスタッフとして同じ接客業務に携わっている。しかしそのケースでも、企業側はおそらく次のように言い立てて、AとBの時給の均等化せよという要求を断固としてはねつけるだろう。
 理由1:両者の職務範囲は違う。Aの仕事には、接客のほか顧客の苦情処理、財務や在庫の管理、パート要員の変動調整などの人事管理・・・がある。多くは時間外の作業だ。
 理由2:だから普段の作業を遂行する「負荷(しんどさ)」はともかくとしても、AはBよりも仕事の「責任」が重く、求められる「技能・知識」も高い。
 理由3:残業や転勤の要請も、正社員A場合、非正規労働者とは違ってほとんど拒否できないまでにつよい。
 要するに企業側の賃金決定に関する評価では、一見「同じ仕事」でもA正社員とB非正規労働者とは「同一労働」ではないのだ。BとAの一部が組立工でAが班長の工場や、Bがデータ入力や受付作業でAがデータ出力と企画業務のオフィスでは、「職務範囲が違う」論理はより説得的だろう。その説得性は、言葉の素朴な意味で「同一労働同一賃金」を適用できる範囲を著しく狭める。だが、正規・非正規の賃金格差にまつわる問題の本当の深刻さは、そこにあるのだろうか?
 「同一労働同一賃金」の指針は、「同一価値労働同一賃金」(以下、ペイ・エクイティ=PEと略)へのあゆみを伴わないかぎり、Aに対するBの不当な賃金格差の正否または適否を問うことを棚上げにしてしまいかねない。現代日本における非正規労働者にとって枢要の要求は、それゆえ、「同一労働同一賃金」ではなく、賃金格差の「正否または適否」を問題にしうる賃金決定方式、すなわち、企業が安んじてBを被差別的低賃金にとどめうる慣行を撃つことのできるPEの思想と制度なのだ。ちなみに現存する所定内賃金格差を一瞥しておこう。男性正社員を100とすれば「正社員以外」の男性は63%、同じく女性は51%(賃金センサス、2012年)。すべての要素をこみにした非正規労働者の年収は正社員の36%にすぎない(国税庁所得調査、2012年)。

 70年代末以降の欧米諸国で普及したPE制度とは、さまざまに異なる仕事を、その担当者の属性を問わず、必要な技能・知識、精神的・肉体的負荷、課せられる責任、作業環境の4要素で職務評価し、秤量されたその評価点にもとづいて報酬の高低を決める賃金決定方式である。正社員と非正規労働者の仕事の評価点がたとえば100vs80であれば、ここでは両者の賃金格差が2割を超えることは許されない。こうした制度の導入が枢要の争点になる。実は安倍晋三も、「同一労働同一賃金」としながらも正規・非正規の賃金格差を100vs80ほどにと唱える以上、現行格差の程度の見直しを無視する経済界よりは、「仕事が異なる」とみなされる場合の賃金格差是正の必要性、つまりPE制導入の必要性をうすうす感じているのかもしれない。政府批判の側は、折角の「同一労働同一賃金」表明を偽りなきものにさせるためには、「同一価値労働同一賃金」・PEをどこまでも追求しなければならない。

 日本においてPEを制度化するに際しての難問は、実はこの先に待ち伏せしている。問題は複雑であるが、回避できない論点をできるだけわかりやすくまとめてみよう。
 非正規労働者の担当職務(個人に割り当てられる単位仕事)が総じて限定・特定されているのに対して、正社員はふつう、多段階の職能ランクのいずれかに属する複数の担当職務のいずれかを遂行している。しかもその担当職務の範囲や種類は業務の要請に応じてしばしば変動する。単純にいえば非正規労働者は職務給、正社員は職能給である。ファミレスの例に戻れば、非正規労働者の接客と同じようにみえる店長の接客とは、もともと異なる賃金処遇制度のもとにあって直裁に比較できない、店長の当面の担当職務に対する賃金は、非正規労働者のそれとは違って、昇格・昇給を予定される次のキャリアの職能ランクに属する担当職務ができるかどうかを判断する、「潜在能力」や経験的技能や業務態度などを総合的に評価して決められるべきだ--経営側はこのように主張する。
 端的にいえば、正社員の賃金は、そのときの担当職務に対する支払いではなく、類似の仕事も包括する職能ランクに対する支払いなのだ。非正規労働者の賃金を正社員の賃金と均等にするにせよ、納得しうる格差の線で均衡化をはかるにせよ、立ちはだかるハードルは、この担当職務を比較するフレームの欠如、少なくともその曖昧さにほかならない。もともと仕事別賃金システムの欧米では免れている、それはまことに日本的な困難である。

 この高いハードルを超えるなんらかの方途を、日本の労使関係はどこかに見いだせるだろうか。賃金システムは決して革命的に変革することはできない。私には、労働組合員に適用者が多い職能給を、職務評価制を取り入れた職務給的なかたちに漸次的に変えるほかないように思われる。
 まず非正規労働者にも昇格可能な1~3ほどの職能・技能ランクをもうけて、そのなかの担当職務を意識的に確定し、職務評価を試みる。ここではランクに属する仕事の種類が多くないゆえに、これはそれほど難しい作業ではあるまい。正社員の場合はいくらか厄介ではあれ、次のような手続きを踏みたい--既存の職能・技能ランクのそれぞれに属する担当職務(群)をここでも意識的に設定する、その複数の担当職務のそれぞれを職務評価して、その平均点をもってそのランクの担当職務の職務評価とする。そうすれば、正社員の初期の職能・技能ランクのいくつかは非正規労働者の職能・技能ランク1~3とはじめて比較可能となるだろう。さしあたり正社員のみが昇格可能な中期、後期(管理職段階)の職能・技能ランクの賃金は、以上の職務評価点を基準にして決められる・・・。
 職種別賃金の欧米でも、実はそれぞれの賃金ゾーンに、そこに属する具体的な職名をすべて列記した技能ランク別賃金協約を締結している産業が数多い。上に述べたような「改革された職能給は」、正社員のばあい、日本企業の「フレキシブルな働かせ方」の現実に妥協して、なお個々の担当職務に対する賃金ではなく職能・技能ランク別の賃金にとどまっている。けれども、人に対する支払いをできるだけ仕事に対する支払いに変えてゆく営みを続けるならば、日本の賃金決定も、正規vs非正規、男性vs.女性の不当な格差を是正しうる欧米の技能ランク別賃金や、昇格によって仕事が変わり昇給もする範囲職務給に近づくのである。

 以上に述べたところをまとめてみる。
 (1)欧米の水準を超える正社員と非正規労働者、ひいては男性と女性の大きな賃金格差を是正するためには、「仕事が違う」と門前ではねつけられることの多い「同一労働同一賃金」の空しい表明より、格差の程度の正否または適否を問うことのできる、職務評価を前提にした「同一価値労働同一賃金」・ペイエクイティの営みが追求されなばならない。
 (2)日本で正規雇用、非正規雇用の担当職務の比較そのものを難しくしている、前者は職能給、後者は職務給という異なる賃金決定方式への鍬入れが不可欠である。このハードルを超えるためには、たとえば職能ランク別に所属する複数職務の平均評価点の設定を使った職能給の職務給化をはかるほかはない・・・。
 ここではさしあたり、非正規労働者のキャリア展開、すなわち仕事もより充実する昇格の保障とか、すべてを根本的に変える、非正規雇用そのものの廃止を目指す雇用関係そのものの改革については論じていない。とはいえ、賃金決定の具体的な改革は結局、公務員の世界を別にすれば、政府の施策や法律によって果たされるものではない。だとすれば、雇用関係の差別的な枠組みのなかでも、労働者が現行の巨大な賃金格差を容認するものでないかぎり、労働組合の責務はとても大きい。
 日本の労働組合は、PEの思想をわがものとして、ともかく、正社員=組合員と非正規労働者の賃金を一括して、できれば両者の賃金決定方式を同一にする要求をこめて、交渉や労使協議にあたるべきである。スウェーデンやイギリスにおいて、従来の組織労働者の範囲を超え、なによりも政府の施策の直接的な影響が及ばない民間部門でも総じてPEを達成されていることには、労働組合が枢要の枠割りを果たしているのだ。この問題に対して政府がもっとも着手すべきは、「同一価値労働同一賃金」の理念法を成立させるとともに、正社員・非正規労働者を包括した賃金交渉を労使に義務づけることであろう。その後者ができるか否か。安倍政権の財界からの自立または従属の程度がそれでわかる。
                                2016.5.21記