その17 2017年度洋画の収穫――『夜明けの祈り』ほか/『わたしは、ダニエルブレイク』cf.『リフ、ラフ』

 2017年の外国映画は、圧倒的な名作には恵まれなかったものの、以前に本欄で紹介した『未来を花束にして』(本誌22号)と『残像』(同26号)は別にしても語りたくなる作品が10以上はある収穫の年であった。ここでは、恣意的な選択ながら、歴史的な事実としての人びとの受難に凜として対処したフランスの女性医療関係者の姿を描く感動的な二作と、すでに本誌21号に西口想氏のすぐれた評論がある『わたしは、ダニエル・ブレイク』についてあえて、旧作とも比較しながら書いてみたい。

 はじめに紹介したいのは『夜明けの祈り』(アンヌ・フォンティーヌ)である。
 終戦直後のポーランド。当地の赤十字に勤務するフランスの女医マチルド(ルー・ドゥ・ラージェ)は、ソ連兵の集団レイプで妊娠した7人の尼僧が、修道院の戒律に縛られ、「解放軍」ソ連に従属する政府の意向を忖度する院長の命令もあって、秘密のうちに診療もできず苦しみのなかにあるという思いがけない事実を知らされる。これを黙過できないマチルドは、激務の合間をぬってひとり雪深い修道院に通いつめ、副院長マリア(アガタ・ブゼク)の信頼と協力を得て、修道女らを励まし、治療し、出産させる。沈んだ美しい色調の画面のなか、修道院が赤児の笑顔に笑いの弾ける産院のようになってゆく、女たちが悲劇を生の喜びに転化させてゆくその過程がすばらしい。かつては奔放な女性であったマリアとマチルドの語らいも心に沁みる。そればかりかマチルドは、宿舎の近くを彷徨う戦争孤児たちも修道院に迎え、やがてそこは近隣の住民たちも頻繁に立ち入る、開かれた福祉的ソサイエティに変わってゆくのである。本当にあったことだ。医師の実名はマドレーヌ・ポーリアックという。
 そういえば、2010年の『黄色い星の子供たち』(ローズ・ボッシュ)も、私には初見の収穫であった。ここでのヒロインはフランス赤十字のナース、アネット・モロー(メラニー・ロラン)。1942年7月、ナチス支配下にあったフランスのヴィシー政権は、パり在住のユダヤ人家族1万3000人を冬季競輪場に強制収容する。彼女はそこで、次いで移送されたボーヌの収容所で、ユダヤ人医師(ジョン・レノ)を助けて、劣悪な環境下の子供たちの看護に、ケアに、そして食料改善に文字どおり献身するのである。アネットはポーランドの「絶滅」収容所へ送られるユダヤ人家族と引き裂かれるけれど、終戦後は、奇跡的に生き残ったふたりの子供を抱擁することができた。 これはアウシュヴィッツを体験した近親者をもつボッシュ監督が、この「フランスの原罪」に関する綿密な調査とアネットらへの聴きとりにもとづいてシナリオも書いた執念の作品である。ちなみに官憲の収容目的数は実は2万4000人だったが、1万1000人は非ユダヤ人をふくむパリ市民に匿われたのだ。例えば子どもを抱いて立ちすくむユダヤ人母親にパリの娼婦たちが「こんなとこにいないで飲みに行こう」と誘う。警官が「こんな胸の貧弱な子連れの娼婦がいるもんか」と咎めると、女たちは「あんたは若いからわからないだろうけど、男の好みはいろいろなんだよ」と連れ去るのである。こんな細部に映画ファンの私は泣き笑いしてしまう。

  さて、80歳になるケン・ローチ最後の作品『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、まさに「福祉国家」イギリスの現時点の濃い影を凝視する労作ということができる。
 ダニエル(ディヴ・ジョーンズ)は、愛妻を喪った59歳のもと建具大工。心臓を患い医者から働くことを禁じられた彼は、雇用支援手当(傷病手当)を受けていたが、民間委託機関による再審査--最小限の立居ふるまいができるか?といった冗談みたいな質問--の結果、「就労可能」で無資格と認定されてしまう。それを不服とする問い合わせの受付は電話のみ、それも「サッカーの試合時間ほど」つながらない。業を煮やしたダニエルはやむなく職安に求職手当を申請する。しかし、受付はオンラインを通じてのみで、コンピュータのできない彼は仕方なく教習所で初歩の手ほどきを受け、履歴書・申請書をつくろうとするが、とても受け付けられるような文書はできない。しかもそこで有資格になるには罰則つきの義務として一定時間の求職活動が求められる。乏しい雇用機会のうえにたまたま経験を買われて採用になっても、今度は医者の指示で働けないのだ。家具も売り払った。本当にどうすればいいのか? 
 一方、孤立したダニエルは、過酷な体験を経てロンドンのホームレス宿泊所を経てここニューカッスルに来た極貧のシングルマザー、ケィティと知り合い、あてがわれた彼女のぼろアパートを修繕したり、混血の娘や自閉症気味の息子の友だちになったりして励ますことになる。このふれあいがこの暗い物語の救いである。だが、フードセンターで飢えはしのげるものの、清掃請負の日銭を稼ぐケイティは娘が学校で貧困ゆえにいじめられるのを知って、生理用品の万引きを見逃してくれたスーパーの警備員の紹介でエスコートクラブの娼婦になる。これを知ったダニエルは客を装って訪れ、ひと懐っこい顔をくしゃくしゃにして、貧しくても屈せず尊厳をもてといさめる。
 ダニエルのほうは、役所のあまりに官僚的な仕打ちに対する抗議を壁に大書するデモンストレーションを敢行して拘留される。釈放後、心身の疲弊から家にこもっていたダニエルのドアをノックしたのはケイティの娘だった。「私たちはあなたに助けられた。今度は私たちが助ける番よ」と。ダニエルは気力を取り戻し、ケイティと弁護士とともに傷病手当の再請求をすることにした。これまでの処遇はあまりに理不尽であり、再請求の成功の見通しは明るい。だが、その場に赴く前、ダニエルはトイレで心臓発作で死んでしまうのだ。葬儀の場でケイティは彼の申請書を読み上げる--「私は物乞いでも泥棒でもない。働いて税金も収めてきた市民、ダニエル・ブレイク。いま権利として生活保障を求める・・・」。 
 この映画は、病気なのに傷病手当を受け取れず、求職手当のためには働けないのに求職活動を要求されるダニエルが、雇用・福祉サービスにおける徹底した官僚主義、民営化、経費削減、担当者不足、そして受付のオンライン処理の壁に突き当たって排除され、右往左往をくりかえす姿をまじまじとみつめる。それでもダニエルは、どこまでも自立と尊厳、身近な人びとへの思いやりを失わなわなかった。その貧しいけれど「決して貧しくない」(ケイティの弔辞)彼を哀惜をもって丁寧に描くことによって、新自由主義的な非情の体制への映画作家の激しい怒りがいっそう強く伝わってくる。とはいえ、ケン・ローチ晩年のこの傑作にふれたときの感想は、私にはなぜか淋しいものだった。
 すぐに想起されるのは、同じ監督の初期1991年の傑作『リフ・ラフ』である。
 ここでの主人公である日雇い建築工スティーヴ(ロバート・カーライル)はダニエルの以前の姿であるかにみえる。『リフ・ラフ』は、刑務所を出たばかりの彼が数人のなかまとともに劣悪な労働条件のもと不潔で危険な改築現場で働く日々と、場末や街頭で弾き語りする歌手志望のスーザン(エマー・マッコート)との短い恋を、細部にこだわって描いている。描写は吹き溜まりのような職場内外のリアルな生活に終始する。サッチャー以後の民営化が下層労働者に与えたダメージへのケン・ローチの怒りはすでに明瞭であった。 
 にもかかわらず、私はこの映画にある心の昂揚を覚えたものだ。これは25年後の「ダニエル」とどこが違うのか? 『リフ・ラフ』では、ホームレスだったステーヴを迎え、廃屋ながら住居を用意し、職場ではジョークを交わしながら助け合い、監督者を揶揄し、彼の恋を応援するなかまがいる。そのなかま意識は連帯的抵抗に到らず、このひどい状態を改善するには建築工組合に入ろうと語る正義漢はひとりで経営者に折衝して解雇され、ある者は無残に足場から転落死し、ある者は監督との諍いから逮捕される・・・というわけで分解してゆくけれども、確かになかまはいた。それゆえ、恋と同時になかまを失ったステーヴは事務所に放火してしまうのだ。なかまとともにする労苦のやりすごしと放埒、孤立しては犯罪を辞さない下層労働者のアナーキズム! 組合による抵抗にも絶望し、社会福祉の救済も求めない、ダニエルとは対照的に無名に徹する彼らのアモルフな情念に、私はある共感を寄せずにはいられない。 
 高齢で病身、失職中のダニエルは、ケイティの家族は寄り添うとはいえ、共闘するなかまもなく孤立しており、生活改善の方途は個別折衝の冷ややかな福祉行政に求めるほかはない。そしてこの25年のうちに、その福祉行政も経費削減の方向に大きく傾き、組合的抵抗もいっそうむつかしくなったかにみえる。「私は生活保障を受ける権利をもつ市民、ダニエル・ブレイク」--個人として毅然とする余地はあれ、それが唯一の存在証明となるところに、私は時代の暗転を見いだす。ケン・ローチがダニエルを最後で死なせたことには、あるいは、傷病手当の受給などでこんな時代・こんな制度が許されてたまるかという思いがこめられているのかもしれない。
      KOKKO30号:2018年3月