その19 仮構の家族の絆と危うさ――私の『万引き家族』鑑賞

 是枝裕和(監督、原案、脚本)の『万引き家族』は、おそらく本年度の邦画のベストワンとなるだろう。テーマにみる問題意識の現時的な意義、物語の独創性、細部をゆるがせにしない演出とシナリオなど、どこを論じてもこれは秀作というほかはない。
 この広義「ホームドラマ」の比類ないおもしろさを論じることは、しかし、容易ではない。細部にわたってリアルに描写されているとはいえ、その「ホーム」は常識を超えるひとつの仮構だからだ。そこでまず、東京下町のマンションの谷間にへばりつく古い平屋に同居する、誰ひとり血縁関係のない「家族」の構成を、あらかじめ紹介しておくほうが物語を理解しやすいだろう。
 まず40代後半の治(リリー・フランキ-)と30代後半の信代(安藤サクラ)の夫婦。ふたりはかつてDV男の信代の夫を(正当防衛と判示されたとはいえ)殺して埋めたことがあり、一方的に自分を離縁した夫の年金で暮らす70代末の初枝(樹木希林)に拾われて、その古家に同居している。治はもともと日雇い建設工だが、働く意欲がなく、無責任で倫理性のかけらもないダメ男だ。クリーニング工場の非正規労働者の信代は、治のダメぶりにいらだちながらも、「決して殴らない」治に寄り添い、家事万端をとり仕切るしたたかな女である。この信代の主体性が物語を牽引する。それに初枝の前夫の孫娘、21歳の亜紀(松岡茉優)も、家庭になじめず家出して初枝に引き取られている。彼女は「JK見学店」で顔を見せずに自慰行為を見せるというアルバイトで稼ぐ。また「長男」は、幼児の頃パチンコ店の駐車場で夏の日にクルマに放置されていて「死にそうだった」ところを拾われた11歳の祥太(城檜吏)。知的な向上心をもつ祥太のある成熟と離反が後にこの「家」のゆくえを決めてゆく。さらに、映画のはじめに、近所の団地でDVを受け育児放棄されている5歳のりん(佐々木みゆ)が治に拾われることから、以上5人の同居の日々が綴られてゆくのである。
「家族」の収入源は、11万円ほどの初枝の年金、時給850円ほどの信代の給料、それに治と、彼に「技術」を伝授された祥太、やがてりんも手伝う万引きである。この「家族」は、ある意味でふつうの道徳規範をまったく顧慮せず、危うくもふてぶてしい。だが、上の紹介からわかるように、それぞれはすべて、現時点の日本の貧困、離縁、育児放棄、とりわけDVなどを通じて「まっとうな家庭」から棄てられた者たちであり、そうした家庭棄民たちがお互いを「拾い」あってつくった仮構の家庭を居場所として寄り添っているのだ。既存の家族主義と闘う「反体制」というより、それは制度的ルールの外にある、国家に認められない、役所に未登録の「家族」である。子どもたちは学校に通わず、病気になっても医療保険などに頼ることはできない。

 物語は、信代が「あんな家」に返すものかと決心してりんを、ごちゃごちゃと手狭な古家、たいていはカップラーメンの粗食、信代の給料を別にすれば、万引きなどいかがわしいみんなの「生業」の日常に引き入れることに始まる。やがて信代が行方不明がようやく報道されたりんにつよい母性愛を感じるようになったことを中心に、それぞれがあらためて「絆」を強めてゆく。信代とりんがお互いのDVの傷跡をいたわりあう入浴の場面がとても美しい。したたかな信代がここではじめて涙ぐむ。縁側に集う「家族」がビルの谷間の夜空を見上げて音だけの花火を楽しむ、みんながはじめて海水浴に出かけてはしゃぐ、亜紀がはじめて顧客の自傷癖のある失語症の青年(池松壮亮)に愛情を覚える――それらの場面があまりに切実で忘れられない。
 けれども、やがてアウトロウの「家族」を必然的に崩壊させる「社会」の掟が迫ってくる。祥太は、りんに手伝わせた万引きを察知した雑貨店の店主(柄本明)に「妹にはさせるなよ」と告げられて動揺し、それを伝えてもまともに取り合わない無責任な治に、ひいては万引きそのものに不信と疑問を募らせてゆく。信代は、工場での人減らしリストラの際、りんのことを暴露しないと約束する同僚に職を譲ることになる。さらに、海水浴の浜辺ですべてに満ち足りた表情だった初枝が、翌朝、絶え入るように死んでしまう。葬儀費を賄うこともできない「家族」は、これ以後の年金の詐取の必要もあって、信代の「提案」で遺体を床下に埋めてしまうのだ。
 ついに決定的な破局がくる。万引きはもうやめるつもりだった祥太は、賞味期限切れの食品を受け取りに訪れたスーパーで、愛しはじめた「妹」のりんの万引きをみて、それを庇おうとしてミカンをつかんで逃げだし、逃れられずに陸橋から飛び降りて大けがをした。彼の入院を知った治らはそこで、夜逃げしようとして逮捕されてしまう。そして刑事の宮部(池脇千鶴)と前園(高良健吾)による一人ひとりの取り調べによって、みんなの本当の家族と本名、治と信代の過去、祥太とりんの「誘拐」、それになによりも初枝の遺体遺棄など、すべてが明らかにされるのである。
 みずからも堅実な母親であるらしい有能な宮部は、初枝が亜紀を引き取ったのは命日ごとに押しかけて父親から受け取っていた月3万円のためだったと語り、亜紀の沈黙を崩して決定的な自白を引き出す。「偽りの母」とみなした信代にはとくにきびしかった。みずからの過酷な体験から今度は本当に母親になろうとした気丈な信代も、子どもたちはあなたを「お母さん」と呼ばなかったでしょうと宮部に責められ、ついに打ちのめされて無言の涙を流すのである。一方、これまでも拾った教科書を押し入れで密かに読み継いでいた祥太は、学校でしか学べないことって?(いろんな人との)出会いかなぁ、と語る優しい前園に心を開いてゆく。グループホームから本当は行きたかった学校に通う――祥太は社会のルールのなかに入ってゆく心を定めたのだ。そして幼いりんは、服は買ってくれるけれどやはり実母のDVがやまない「本当の家族」のもとに戻される……。初枝の遺体発見のときTVレポーターは、「家族になりすましていた人たちが、いったいなにを目的にこの家に集まっていたのかは、いまだ謎に包まれたまま」と解説する。そう、是枝裕和は、日本の社会と家族の日常に潜む欺瞞性を凝視したうえで、この映画をあげてこの「謎」に答えようしたのである。

 信代はすべての罪を引き受け、5年ほどの刑に服することになる。半年後、なぜか拘束を免れた治と祥太が面会に訪れたとき、信代は、「俺の分まで」と詫びる治に、いいのよ、「私は楽しかったからさ、おつりが来るくらい」とさらりと語り、祥太に本当の親を探す手がかりも教える。「もう、わかりなよ、私たちじゃダメなんだよ。この子には」そう言い残して獄舎に戻ってゆく信代の笑顔がさわやかに映える。その夜、祥太は、孤独な治を思いやって治の部屋に泊まり、以前と同じようにカップラーメンとコロッケで最後の食事をとり、折からの雪のなか雪だるまをつくる。翌朝、治がおそらく「おじさん」はもう会えないと言おうとしたとき、バスが来る。祥太はふりかえらず去り、ついにお父さんと呼ばれなかったこの無頼の男は、無様にバスを追いかけてゆく。ラストシーン。ベランダで祥太にもらったビー玉で所在なく遊んでいたりんが、ふとなにかに気づいて手すりから外を見る……。
 全体に言葉少なく、「絆」を語る美しい言葉もいっさい排した作劇ながら、宮部の尋問の巧みさひとつを見ても、なんというすぐれたシナリオだろう。そして安藤サクラなど名優たちのみごとな所作と表情を引き出す演出の、なんという冴えだろう。すべての細部にリアルなヒューモア(おかしくもかなしい)があふれている。犯罪に手を染めるアウトロウの「家族」であるゆえに、どんなことがあってもルールの改善など求めて闘えないもどかしさもあって、この映画は、美しくもやるせなく、終始、薄氷を踏むような思いに誘われるのである。
 ちなみに是枝がほぼ同時に刊行した小説版『万引き家族』は、シナリオそのものではなく、家族たちの折々の思いをより明瞭に文字にしている。これを読めば、映画のほうは実は、とても淡泊な描写に徹していたのだということがわかる。感銘深いいくつかの例をあげる余裕はないが、西欧風の濃厚なリアリズムが好きな私は、この映画が情感の深みは映像から想像せよと投げ出していることを、そのほとんどを理解させる淡泊なリアリズムの力に感じ入りながらも、いささか評価にためらうところがある。
 しかし、ラストシーンについてはやはりふれておきたい。小説はこう書く――りん(本名じゅり)が「誰かに呼ばれたような気がして」ベランダの手すりから身を乗り出すと、「小さな雪だるまがゴミ置き場の脇に置かれている。誰かが走ってくる足音がきこえたような気がし」た。「誰かの声にならない声が冬の曇った空に響いた」「呼んで。声に出して呼んで」と。ぼかした筆致ながら、ここには、社会に巣立ってゆく「お兄ちゃん」が、りんを忘れてはいないよと、訪れたことを暗示している。仮構の家族は必然的に儚さと脆さをまぬかれないけれど、そのなかで芽生えた絆はほんものであり、これからは欺瞞に満ちた現実の社会で生きてゆく若い世代にとって、それは確かな勇気のよすがになる、是枝はそのように餞(はなむけ)のメッセージを贈っているかにみえる。

                                        KOKKO33号:2018年11月