その21 企業告発における「外部」と「内部」――『空飛ぶタイヤ』/ 『七つの会議』

 企業社会における労働の考察をひとつの専門領域としてきたのに、私はこれまで会社の内部を扱う小説や映画やTVドラマにあまり関心がなく、感銘を受けることも少なかった。これら諸分野の作品は、今ではプロレタリア文学や労働映画よりはるかに「市民」に人気があるのに、私の知りたいところにふれることがほとんどなかったからだ。それらのうち、中小企業のものづくり魂、巨大な企業悪に職場で立ち向かう正義派従業員の苦闘などをリアルに描くものには、むろん佳作もある。とはいえ、総じてこれら「企業もの」では、主人公たちはまず「長」のつく上層ホワイトカラーに限られ、企業内階層の上下関係や激しい昇進競争はもちろん視野に収められるけれども、ふつうの労働者やOLたちの日常が存在感をもって描かれることはまずない。もっぱら非正社員や派遣の女性を描けというほど私は偏狭ではないけれど、事務や販売の前線で主として命令されて働かされる者たちの拘束感、心身の疲弊、やりきれなさなど、端的にいえば「労働問題」は、まして困難ななかでのこれら「ぺーぺーたち」の助け合いや連帯の抵抗などは、まったく視野の外なのである。

 最近の映画では、たとえば人気作家・池井戸潤の原作による『七つの会議』(福澤克雄監督、2019年)などは、観客の入りは上々だったらしいけれど、典型的な駄作と思われる。
「東京建電」という会社は、親企業(確かゼロックス? 原作ではソニック)からの締めつけのもと、コスト切り下げと販路拡大のため、事務所・鉄道車輛・航空機用のイスの部品として安全基準以下で強度不足のネジを下請業者から納入させていた。多額の出費を伴うリコールを避けるための長年にわたるこの営業の秘密を知る者は、無責任な宮野社長(橋爪功)、居丈高にノルマを督励する北川営業部長(香川照之)、成績抜群の坂戸営業1課長(片岡愛之助)、それに北川と同期ながらかつてこの措置に疑問を呈して疎まれ営業係長に留まっている八角民夫(野村萬斎)だけである。この八角は秘密を知るゆえに、営業会議でもいびきをかいて居眠りしても、上司に横柄な態度で接しても、のんべんだらりと働いても見逃されている。
 全体に説得性を欠く物語の運びをあえて辿ると、ほどなく坂戸は八角に対する仕組まれたパワハラを理由に(隠蔽の責任をとらされて)役職を解かれる。これを不自然に感じた後任のまじめな原島(及川光博)が、退職前OLの浜本(朝倉あき)とともに八角の握る秘密を探りはじめ、斜に構えていた八角も頭こうべをあげて、不良ねじのイスがもたらしかねない危険性をもう見過ごせないと、会社にリコール宣言をさせるよう働きかけはじめる……。とどのつまり、親企業社長の徳田(北大路欣也)の統べる「御前会議」が開かれる。そこでの徳田の最終決定はしかし、隠蔽の継続であった。八角はそこでついに、マスコミにリコール隠しの事実と責任者の実在を暴露し、自社の命運を社会制裁に委ねることになる。
 この映画では、シラケ・鬱屈から正義の告発に至る八角の心の軌跡がきちんと辿られていない。名優・野村萬斎もここでは処を得ていない。はじめの自由と放埒さ、それ以降の、コンプライアンスの欠如した会社の責任逃れへの激しい追及――いずれの表現も大仰で、台詞回しはあたかも歌舞伎の粋なため口か見せ場の大見得のようだ。それに反抗の気概を秘めた会社員が営業会議で高いびきをかくなんて不自然きわまる。むしろ表面的にはまじめに身を潜めているはずではないか。最後に検事に事件の背景を問われて八角は要旨およそ、日本の企業人は封建的な「お家大事」、「上司盲従」の気持をまぬかれず……といった長広舌をふるう。ここは映画と同様に駄作の原作にもないくだりだが、「働く事」の正義とは? という惹句を掲げるこの映画のメッセージはしょせんこの程度の「反封建」なのかと、その視点の古さにうんざりもする。

 しかしながら、同じ池井戸潤の原作でも昨年の『空飛ぶタイヤ』(本木克英監督、2018年)はちがう。これは、『七つの会議』のような絵空事ではない、上々の佳作といえよう。
 2002年1月、横浜市内を走行中の三菱自工製造の大型トレーラーのタイヤが外れ飛び、若い母親が死亡し幼児が軽傷を負った。映画『空飛ぶタイヤ』は、この衝撃的な事件の経過をくわしく追う原作にもとづいている。映画の物語は次のように展開する。
 事故の原因「調査」を委ねられた「ホープ自動車」(以下、「ホープ」)は、この事件の原因はトレーラを運行する赤松運送の整備不良だと国土交通省に報告し、警察もこの調査結果を鵜?みにしたため、赤松運送と赤松徳郎社長(長瀬智也)は、道路交通法違反または業務上過失致死の罪に問われかねない苦境に追い込まれる。超大企業ホープ自動車への「社会的信用」ゆえに、すべての関係者が一方的に赤松運送を指弾した。大手取引先は発注をキャンセルし、ホープ銀行は「社会的コンプライアンス」の名目で融資を断ったばかりか、後にはそれまでの負債すべての返済まで迫ってくる。遺族は赤松を「それでも人間か」となじり、息子は学校で「父親は人殺し」といじめられる。
 だが、赤松運送の整備係門田(阿部顕嵐)の車両整備は万全であった。この茶髪の若い整備係への信頼を発条として、赤松は事故の真因を探る、ホープ自動車との長く困難な闘いに入ってゆく。実はこの数年のうちにホープ自動車のトラックは、車軸とタイヤをつなぐハブとタイヤが外れる事故を50件以上も起こしており、そのすべてが、「ホープ」の調査によってひとえに整備不良とみなされてきた。運送業者たちは大企業に抗えず、泣き寝入りを余儀なくされていたのだ。赤松は当然「ホープ」にも接触を試みる。むろん門前払いであった。「ホープ」はハブ不良という真因を知りながら、多額の費用を要するリコールを避けるべく、事故を調査する品質保障部を支配する狩野常務(岸部一徳)の統制のもと、隠密の「T(タイヤ)会議」をつくって真因を徹底的に隠蔽する体制を固めていたのである。
 時系列に沿ったくわしい経過は省略しよう。絶望的にさえみえた赤松の対「ホープ」戦線は、かねてから事故の処理に疑問を感じていた高崎の運送業者野村(柄本明)、技術者の執念をもって真因を突き止めていた北陸の整備士相沢(佐々木蔵之介)、野村の紹介によって寛容な金融支援を惜しまなかったはるな銀行、事件の真相を取材しようとし、記事掲載が阻まれると調査した事故一覧表を赤松に渡す週刊誌記者(小池栄子)……などの協力があってようやく動き始める。さらに興味深いのは、「ホープ」内部の動揺である。赤松には剣もほろろの対応であったけれど、会社のかねてからのリコール隠しに疑問を抱いていた販売部カスタマー戦略課長・沢田(ディーン・フジオカ)は、社長にT会議の批判を直訴する。会社は沢田を花形部署の商品開発部に転属させるが、そこではいくら意欲を燃やしてもいっさい自由な仕事をさせてもらえない。やはり隠微な懲罰であった。そこで沢田は、赤松から突きつけられた遺族の手記にも動かされてついに跳ぶ。沢田は、T会議の出席者で内部告発者として大阪配転される品質保証部の杉本(中村蒼)から託された会議記録を保存するパソコンを、担当刑事の高幡(寺脇康文)に密かに渡すのだ。T会議での事故原因のすり替えを明示する、それは決定的な証拠であった。ホープと狩野らは起訴され、赤松運送は救われる。それが赤松徳郎の長い闘いの結末であった。

 長編の原作は、一進一退の複雑な事件の経過と、多くの登場人物たちの私利や上司への忖度、あるいは仕事なかまへの義理に従った言動のゆえんをきわめて具体的に描写している。そこでの赤松運送、ホ-プ自動車、そして真相発覚後に自動車会社を救済するか否かをめぐって対立する「ホープ銀行」、学校のPTA……それら界隈での群像描写など興味はつきない。映画はそれら事件の周辺をあっさりとなぞっているため、たとえばはるひ銀行のこれほどの赤松支援の理由など、説得性に不足するところもある。だが、ここには、「いい社長」をいただく働きやすい中小企業でのブルーカラー人間関係と併行して、大企業ホワイトカラーの階層間権力格差への配慮や「社内政治」のいやらしさなどが生々しく描かれている。ホワイトカラーの業務では、それが内容的にやりがいがあるか否か以上に、組織内の上司、同僚、部下の織りなすしがらみのなかでいかに自己を調整するかが枢要であることを、私はあらためて学ぶことができた。仕事上の正義感がときに他の従業員の仕事にケチをつける、つまりなかまを裏切ることにもなりうるのだ。
 最後に、亡くなった主婦の墓前で赤松と沢田が偶然にであう。彼女の死がふたりの行動を結びつけた。だが、どこまでも組織の内部で生きようとするクールな沢田は、問われてもT会議の決定的資料を警察に渡したことを赤松に決して伝えない。この人情ゆたかな小企業社長はひっきょう外部の者だからだ。こうして企業社会の内部と外部は、お互い「もう会いたくないな」と訣れてゆく。粋なラストシーンである。
         KOKKO 35号:2019年5月