その24 格差社会を抉るふたつの秀作――『ジョーカー』/『家族を想うとき』      (2020年2月)

 およそ1980年代以来、多くの先進国で格差社会の状況が深刻化しつつある。最近、その惨状を凝視する2つの秀作を相次いで観賞することができた。アメリカの『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督・共同脚本)と、イギリスの『家族を想うとき』(ケン・ローチ監督、ポール・ラヴァティ脚本)である。映画全体の印象はほとんど対照的なまでに異なるとはいえ、背景と問題意識が通底し、ともに物語の密度が高く、リアルな切迫感が息もつかせない。要するに本当に「おもしろい」作品だ。後にいくらか対比を試みるけれども、まずはストーリーの展開を紹介してみよう。

『ジョーカー』の舞台は、財政難で清掃夫の長期ストライキによって街中にゴミが溢れ、人心も荒む81年の「ゴッサムシティ」。主人公の貧しい道化師アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は幼児期に母ペニー(フランセス・コンロイ)の情夫の暴行によって、緊張すると高笑いが弾け、ときに惨めな現実を忘れさせる妄想に陥るという脳障害に苛まれている。彼は本来は心優しく、「人を楽しませる」スタンディング・コメディアンになる夢を抱きつつ、心臓と精神を病むペニーを日々介護する、万事控えめなアダルトだった。そのアーサーは、サンドイッチマンの仕事中ストリートギャングの若者たちから過酷な暴行を受け、同僚のランドルから「身を守る」拳銃を何気なく借り受けるが、そこから事態は急変することになる。幼稚園で拳銃を取り落とす失敗、責任を問われての解雇……。落ち込むアーサーはそして、ピエロの姿のまま地下鉄で、女性をからかい、またアーサーの高笑いを咎めてここでも執拗に暴行を加える3人の証券マンを撃ち殺してしまうのである。
 そこでアーサーははじめて異様な心の高揚を感じて、グロテスクながらなんとも迫力に満ちたダンスに興じる。しかも迷宮入りとなったこの犯罪は傲慢な「勝ち組」に怨念を抱く下積みの人びとの喝采を受け、匿名のピエロは英雄的な「私刑人」とみなされてゆく。昂揚したアーサーは、妄想のうちに近所の魅力的なシングルマザー(ザジー・ビーツ)と(後に妄想だったとわかる)恋仲にもなる。それからも、坂を転げ落ちるようにアーサーの人殺しは続いた。裏切った母のペニーを。かつては証券会社の経営者で民衆政治家として立つ有力者トーマス・ウェイン(ブレット・カレン)のメイドであり、アーサーはウェインの実子だとくりかえすペニーの言うことが心を病んだ母の妄想であり、しかもアーサーは養子だったとわかったからだ。同僚のランドルを。拳銃を「買った」のはアーサーだと警察に通報したからだ。そしてあこがれの人気コメディキャスター、マレー(ロバート・デ・ニーロ)を。マレーはあるクラブの舞台で高笑いするアーサーをTVショウに招いてくれたのだが、それはピエロ姿のろくに才能もない彼を侮蔑して嗤うためだったと感じたからだ。折しも街は富裕層を襲うピエロと仮面の大群衆の蜂起の最中だった。セールスマン殺しまでTVで告白した彼を逮捕し護送するパトカーは事故を起こして頓挫し、群衆はアーサーを救い出す。彼はボンネットに立って解放の踊りに身をよじる。拘留された彼はさらに、万事投げやりの態度だった女性カウンセリングも殺戮し、逃亡を図る……。
 こうして排除と侮蔑、ときに公然たる暴行に苛まれてきたアーサーは、人を幸せにする笑いの裏にひそむどうしようもない人間の悲しみを理解できない恵まれて気楽な者たちに、高笑いしつつ暴力的に復讐する、悪魔「ジョーカー」に変身したのである。

 一方、『家族を想うとき』は、10年前に住宅金融組合破綻の余波でローンの積み立てを失い、転々とした建設労働の雇用も途絶えた貧しい父親のリッキー(クリス・ヒッチェン)が、がんばる好機と感じて「自己責任で自由に稼げる」というふれこみの宅配便配達のフランチャイズ契約に入ることから、その家族―妻の訪問福祉介護士アビー(デビー・ハニーウッド)、16歳の息子セブ(リス・ストーン)、12歳の娘ライザ・ジェーン(ケイティ・プロクター)が崩壊の臨界に到る、社会意識の鋭いホームドラマである。
 舞台はおなじみのニューカッスル。リッキーの働き方は、ウーバーなどを好例とするいわゆるギグワークだ。ここでは、契約運転手が集配所で自前もしくは会社レンタルのバンに荷物を積み込み、携行する通信機器に現在位置を監視されながら時間ぴったりに顧客に届ける。稼ぎはすべて個人別の配送数によって決まる。最低賃金も決まった労働時間も安全保障もない。「雇用労働者」ではないからだ。「自由」の代わりに、あらゆる突発休み(契約違反!)や機器の損傷には容赦なく罰金が課せられる。十分に稼ごうとすれば労働時間が長くなる。リッキーの場合は日に14時間・週6日労働であった。アビーの仕事もまた、十分に利用者との交流の時間がとれない細切れの訪問ごとに報酬が支払われ、移動費は自腹という不安定なオンコール方式である。リッキーが割高な会社レンタルを避けて自分のバンを買うためアビーがそれまで使っていたクルマを売ったことから、バスで移動するアビーの帰宅は極端に遅くなった。夫婦ともともかく時間のゆとりがまったくない。
 リッキーは家族のために黙々と働く父親、アビーは忍耐づよくて優しく、ライザは聡明で快活、セブはいささか辛辣で学業よりはデザインに凝ったペンキ落書きが好きな若者であったが、暖かい家庭であった。父親の仕事に同行した際のライザの機知。狭い借家のリビングで肩を寄せ合って楽しむテイクアウトのインド料理。夜の急な呼び出しに応じるアビーをバンで送り届けてはしゃぎ歌う家族たち。だが、両親があまりに仕事に忙殺されることから、セブがまじ
めの軌道を逸れはじめる。セブはペンキを買うため高価なジャケットを勝手に売り払い、学校で喧嘩して相手を怪我させ、万引きをして警察に拘束される……。だが、学校面接や出頭要請に応じてその日の仕事を休むなら、代わりのドライバーを自分で見つけない限り、違約金100ポンドを支払わねばならない。リッキーはついにキレてセブのすべてが込められたスマホを取り上げ、セブは家を飛び出す。バンの鍵がなくなっていて仕事ができないリッキーはいらだつが、これは今の仕事さえなければ家族が戻ると考えたライザの切実な行為だった。
 そしてまもなくリッキーは、溲瓶がわりのペットボトル(!)を使用中に、ここでもチンピラたちに襲われて、所持品を強奪され、通信機器を壊され、暴行で重傷を負わされてしまう。病院はひどい混雑で3時間待たねばならない。配送センターの監督はそこへ電話をかけてきて、容赦なく諸々あわせて計何千ポンドもの賠償を請求する。電話を引き取ったアビーはついに罵詈雑言の抗議をたたきつけ、決してケアワーカーが言ってはならない言葉だったと反省して泣く。リッキーがやむなく自宅で床についたところへ、アビーからスマホを返されたセブが戻ってきて不器用に父親をいたわる。早朝リッキーは、懸命に引き止めるセブやアビーを振り切って、バンを出す。斃れること覚悟の稼ぎの出勤なのか、自殺行なのか。切実な余韻を残すラストシーンである。実際にも2018年1月、宅配会社DPDとフランチャイズ契約をしてクリスマスの最繁忙期に激務をこなした糖尿病もちのドライバー、ドン・レーンが過労死したという。

 あらすじの紹介がつい長くなったのは、両作品とも時間枠のなかにぎっしりと詰まったエピソードの所以がきちんと描かれているからだ。それが良い映画の必須の資格である物語の納得性を保証している。両作品とも、格差社会の底辺にある「弱者」が被る、貧困、差別、排除、そして暴力――暴力を行使する若者たちもまた底辺の弱者であることがかなしい――というリアルな受難の連鎖を見せつけられて息苦しくなる。
 両作品はさまざまの点で対照的である。『ジョーカー』はSF的リアリズム。物語は予想を超えて展開する。主演のホアキン・フェニックスは歌舞伎の名優のような表情と所作。毒々しくグロテスクな魅力が惹きつける。他方、『家族を想うとき』はドキュメント風の静謐なリアリズム。選ばれた俳優たちもけれんみなく庶民的である。ケン・ローチやポール・ラヴァティがふつうの人びとの日常の細部に注ぐまなざしが冴えわたる。
 状況を撃つ「出口」も対照的だ。『ジョーカー』は狂気のテロリズム・暴力による復讐に奔る。それは格差を克服するにあたって民主主義的・議会主義的な方法はもうあまり期待できないと感じている一定数の人びとの「気分」にほかならず、それゆえに私もまた、あるカタルシスを禁じえない。他方、『家族を想うとき』では、再生した核家族の紐帯に依って闘えるのか、なにとどのように闘うのか、その問いが投げ出されたままだ。このラストシーンは、長男との究極の絆を確かめた絶望のセールスマン、ウィリー・ローマンの死出行(アーサー・ミラー『セールスマンの死』)さえ、私に想起させる。84年の炭坑ストに協力した体験をもつ老女モリーが、介護者アビーの労働条件の不当性を糺すくだりが示唆的である。とはいえリッキーの一家は、そして私たちは結局、絶望的にみえる戦局のなかで上の問いへの解答を模索してゆくほかないのである。ちなみに、われらの国の巨匠、同世代の山田洋次にくらべて、ケン・ローチが83歳にしてなお絶望に向き合う勇気を喪っていないことに、私は深い感銘を覚える。
  『KOKKO』38号:2020年2月