その28 子どもたちの受難――『存在のない子供たち』/『異端の鳥』     (2021年2月)

 洋の東西を問わず、戦争や災害、貧困や虐待による子どもたちの受難を描く佳作は、いつもそれなりに感動的である。苦境のなかでも発揮される愛らしさ、いたいけなさ、健気さなどに、ごく自然に心を動かされる。けれども、多くの作品では、物語を駆動させるのは総じて社会や歴史のしがらみのなかの大人たちであって、子どもが真の主人公となる名作は、『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン)、『誰も知らない』(是枝裕和)などを例外とすれば、実はそれほど多くないようだ。しかし今年は、子どもたち自身の主体的な行動を凝視する点で新鮮であり、しかも今年のマイベスト首位を争うような2つ秀作に恵まれた。『存在のない子供たち』(ナディーン・ラバキ監督・脚本、レバノン)と、『異端の鳥』(ヴァーツラフ・マルホウル監督・脚本、チェコ・スロヴァキア、ウクライナ)である。作品の卓越性を知るためには、まずは物語を詳しく辿るほかはない。

『存在のない子供たち』の主人公、12歳のゼイン(ゼイン・アル=ラフィーア)は、レバノンのベイルートらしいスラムで両親と弟妹たちと暮らしている。おそらくシリア難民の父親は、無職で障害をもつうえにアル中気味で一家は貧窮のどん底にある。出生届けをする費用も払われず、ゼインには戸籍がない。それでも健気なゼインは、怪しげな自家製ジュースを売ったり、したたかな家主アサードの雑貨店を手伝ったりして家計を助けながら元気だったけれど、父親が11歳の妹サハルをアサードに花嫁として売ったことを許せず、泣きながら家出してしまう。仕事も見つからず食べるものも住むところもなくしたゼインを救ったのは、赤ん坊ヨナスを抱えてレストランで働くエチオピアからの不法難民ラヒル(ヨルダノス・シフェラウ)だった。ラヒルのバラックでゼインははじめて思いやりと配慮というものにふれる。ゼインは勤務につくラヒルの代わりに赤ん坊のケアを引き受けることになる。
 しかし不運にも、ラヒルは滞在許可証の偽造ゆえに拘留されてしまう。そこでゼインは、逃げることなく、ヨナスを買おうとする偽造屋の申出も拒み、嘘をついてミルクをもらい薬局で手に入れた薬を海水で溶かして売るなどして懸命に赤ん坊を守ろうとするのだ。利発で機敏に苦闘に立ち向かうゼインの屈しない姿に拍手したくなる。赤ん坊を乗せ、両脇に鍋をぶら下げた手製のキャリアーを引いてゼインが高速道路を往くシーンなどが忘れられない。だが、ついに限界がくる。ゼインは海外脱出を夢見るようになり、身分証が必要になって生家に戻る。彼はそこで、サハルが少女妊娠のために死んだことを知って、怒りのあまりアサードを刺し、収監されるのである。
 少年刑務所で落ち込むゼインは、難民問題を扱うテレビの生放送番組「自由の風」に電話することを思いつく。起死回生の試みだった。TVの放映と、「育てられないなら産むな」の訴えを込めたゼインの傷害を裁く裁判は大反響を引き起こす。ゼインは情状酌量となり、ドイツへの移住も認められる。そのうえラヒルも釈放されヨナスを取り戻すこともできたのだ。いつも気の抜けない面持ちだったゼインがはじめてにっこりと微笑むラストシーンで、私たちはこのうえない言祝ぎの歓びに恵まれる。。
 この映画がカンヌ国際映画祭で審査員賞を受けたとき、ラバキー監督は、ザグルーダ(舌を小刻みに震わせて放つ女性の甲高い歓びの声)を響かせたという。『存在のない子供たち』は確かにアラブ世界が独自に生み出した作品である、その誇りの表明であった。この映画では、子供の受難という問題意識の視野がアフリカをふくむ第三世界全体にまで及んでいる。もっとも、ここでも究極の解決の場が「ドイツ」に求められていることに、この映画作家の現時点でのリアルな認識もうかがわれよう。

 『存在のない子供たち』が過酷な逆境をリアルに見つめながらもついには明日の希望を示唆するのにくらべれば、『異端の鳥』の印象はまことにすさまじく、重苦しい。
 これは第二次大戦中の東欧の村々を、ユダヤ人の10代の「少年」(ペトル・コトラール)が2年間ほど悪夢のような体験を重ねて彷徨う物語である。収容されている父を求めてさまよう少年を仮住まいさせるのは、次のような総じて野蛮でおよそ知性を欠く、ときに異様な性癖の庶民たちである――預かり先の孤独で終始無言の老婆マルタ。病気になった少年を首まで土に埋める「治療」をする呪い師オルガ。妻の浮気を妄想して嫉妬のあまり使用人の眼を抉り出す粉屋のミレル(ウド・キアー)。鳥売りのレッフ(レフ・ディブリク)は、淫乱な恋人ルドミラが村の少年たちと交わって村人になぶり殺されるのを嘆いて自殺してしまう。また、ナチスに処刑されようとした少年を逃がす老いたドイツ兵(ステラン・スカルスガルド)。さらに放浪は続く。神父から預けられた少年を酷使し、あくなき性的虐待を重ねる農夫ガルボス(ジュリアン・サンズ)。親切ではあれ、日夜を問わず少年を性欲の餌食とする若い女性ムラビーナ。少年はしかし、ソ連軍の反体制的な狙撃兵ミートカ(バリー・ペッパー)からは、つよく生きぬけと励まされる。そして戦争が終わる。少年は孤児院でついに釈放されていた父と巡り会い、冷えた心のもたらす葛藤の末、父と故郷への帰宅の途につくことになる。凍てついた列車の窓に、少年ははじめて自分の名前を書いている・・・。
 それぞれのエピソードは、それ自体がすぐれた短編のような密度の高い物語性を備えている。サスペンスの緩むことない長尺169分。古典絵画のような深みのある黒白の画面である。上にみるように、彷徨の途上、出会う人びとのなかに善意や思いやりを見いだすことはあった。だが、全編を通して、暴力も辞さない酷薄な人びとが、荒涼たる東欧の冬の大地を背景に続々と登場する。流浪する少年は、ドイツ軍やソ連軍の支配・圧政よりも、自分たちと異なる色の髪や皮膚をもつはぐれ者に対する村人たちの徹底した差別と排除によって、地獄の道行きを余儀なくされるのだ。レッフが戯れに1羽の鳥に色鮮やかなペンキを塗って空に放つとグループの鳥たちが襲いかかって墜落させてしまう、そのエピソードが主題を象徴している。
 ふつうの村人たちばかりではない。少年を仮寓させる者の多くは、名優たちによる迫力ひとしおのグロテスクなモンスターであって、少年を生業と家事にこき使い、また虐待してやまない。そこではじめは無抵抗で逃げるだけだった少年も、例えば放火する、策を弄してガルポスを鼠の穴に突き落とすなど、次第にしたたかな復讐者に変わってゆくことになる。監督は、少年のそんな心根や顔つきの変貌が自然になるように、主演コトラールの「成長」を待って撮影を長期間にしたという。
 この作品の原作者、イェジー・コシンスキは、ロシア系亡命ユダヤ人の両親をもち、ナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命して、1965年、この『ペインテッド・バード』(この表題の意味はもう説明するまでもないだろう)を著した。体験と調査にもとづく、世界的に高く評価されたこの大作は、しかし祖国ポーランドでは発禁書となり、彼自身も後に自殺をとげている。その執念を継いで、マルホウル監督は実に11年の歳月をかけてこの映画を世界の届けた。その際、採用された言語は、幾多のスラブ系の国語を超えて用いられるスラヴィック・エスペラントであった。『存在のない子供たち』の場合も、ナディーン・ラバキは、これがレバノン映画と特定されることを避けたものだが、マルホウルも、『異端の鳥』について国や地域を特定されることを拒む意思を示している。いずれの映画作家も、子どもたちの受難という作品の主題と描写が、特定の国や地域、特定の歴史局面のみに当てはまるものではなく、地域と歴史を縦貫する普遍的な意義をもつ、子どもたちと大人たちの確執という人間ドラマとして受けとめられるよう期待しているのだ。その期待は、作品にふれた私たちの衝撃の熱量によって、確かに報われたといえよう。

 このふたつの秀作は、社会構造や歴史的変動そのものを主たる描写の対象としてはいない。とはいえ、普遍的で現代的な意義をもつこれらの映画は、逆説的にも、アラブ世界や東欧の社会と歴史への深い洞察に裏打ちされている。受難の子どもたちの主体的なビヘイビアの凝視にも、こうしたマクロ的な認識が、前提としてどうしても不可欠であることはいうまでもあるまい。ひるがえって現代の日本映画には、やはり社会的・歴史的な背景への関心と洞察を欠く作品が多いように思われる。
 しかしその点をさておけば、現時点の日本にも、子どのたちの受難を微視的ながらきちんと描くいくつかの佳作があった。具体的な主題はすぐれて、ダメ親と子、「毒ママ」と息子の関係である。離婚やひとり親、虐待やDVや育児放棄などの近年の増加が、こうしたテーマの登場を促しているかにみえる。さしあたり『許された子どもたち』(内藤瑛亮)と、『Mother マザー』(大森立嗣)が注目されよう。いずれも「毒ママ」とママが大好きで盲従する息子の絶ちがたい相互依存を克明に描き、切実なやりきれない印象を残す。そのミクロな視野が「社会派」の私には物足りないけれど、現代日本の切実な問題のひとつがそこにあることは、確かに納得させられるのである。
                         (『KOKKO』42号:2021年2月)