その29 ホワイトカラーの従属と自立――『アパートの鍵貸します』/『私が棄てた女』(2021年5月)

本誌の創刊以来6年ほど、もう30回近く重ねてきた私の映画ものがたり「スクリーンに息づく愛しき人びと」。その最終回にとりあげたいテーマや作品はなお犇めいている。例えばわが生涯ベストテンに属し一度は挑戦してみたかったテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』『ユリシーズの瞳』、あるいはフェデリコ・フリーニの『甘い生活』『8 1/2』などがある。しかし前者は過酷な歴史と人間の運命への洞察があまりに徹底的でひたすら畏敬するばかり、後者はどんな心の葛藤があっても結局は生きる歓びを謳う官能の映像に惑溺させられるばかりで、拙いにしてもおよそ「評論」に自信がない。また邦画の回なので、「時代劇・私のベストスリー」として黒澤明『七人の侍』小林正樹『切腹』溝口健二『近松物語』を選び、それらへの賛辞を綴ろうと思いもしたが、これも複数の映画を比較しながら特定の問題に接近するというこれまでの連載作法からすると、どうしてもとりとめない感じをまぬかれない。こうして迷いに迷った末、やはりタイトルのような、私の身の丈に合った古くて新しいテーマと作品を選択することにした次第である。

 1960年代はじめ、ホワイトカラーの存在と意識の考察をもって労働研究をはじめた大学院生の私に、生涯にわたる示唆を刻まれたアメリカ映画との出会いがあった。ビリー・ワイルダー監督・脚本の『アパートの鍵貸します』(1960)である。
 主人公は大保険会社で「電算機」と電話で営業に携わるバクスター(ジャック・レモン、通称バド)。学歴も「精鋭」の仕事能力もない彼は、出世につながる人事考課を求めて上役たちの情事にアパートの自室を貸している。そのためには必要もなく残業し、ときには寒夜の戸外に追い出されさえしたものだ。ところがクリスマスの夜、「契約時間」後に部屋へ戻ったバドは、彼がひそかに思いを寄せていたエレベーター係のフラン(シャーリー・マクレーン)が、その日の部屋の借手である女たらしのシェルドレイク部長の不実に絶望して自殺をはかり瀕死状態にある姿を見いだした。隣に住む医師の治療よろしくフランは危機を脱し、バドはそれから数日、心をつくしてフランを介抱する。それはバドがはじめて経験する、長年の痛切な孤独から救われる幸せの日々だった。彼はそして、家族団欒のなかの部長にはいささかも下層OLたるフランへの愛がないことを知り、今や自分が本当に愛するようになった思いやり深いフランと結婚する決心をする。
 一方、「功績」が評価されてバドは念願の若手重役のポストを獲得した。けれども、大晦日になって、バドが晴れ晴れとフランと結婚すると告げようとした矢先、部長は、秘書の密告によって妻と喧嘩別れになったこともあり、またフランとの今夜のため平然とバドにアパートの鍵を貸すよう求める。人として生きようと、バドはそこで転生に跳ぶ。こんな会社では働けない。彼はアパートの鍵ではなく重役用トイレの鍵を叩きつけるのである。
 この映画は、コメディタッチながら、ペーソスを込めて温かく、大都会のホワイトカラーの寄る辺ない従属と孤独、その鬱屈のなかで見いだした愛の歓びを、みごとな演出と磨きぬかれた台詞で間然するところなく描写している。この映画は五部門(作品・監督・オリジナル脚本・編集・美術監督)でアカデミー賞を獲得する。まことに井上ひさしのいう「難しいことを易しく・・・深いことをおもしろく」を地で行く境地である。
 ラストシーンはそれがきわまってすばらしい。華やかなレストランで部長がフランにぼやく――少し遠くだがやっとホテルがとれたよ、なにしろバドが突然もう部屋を貸さない、とくに私とときみには絶対に、というものだから。フランの顔にゆっくりと歓びの色が漲ってくる。そしてなにかをつぶやく。えっ、なんだって? そう、あなたにわかる言葉がないのよ・・・。そのとき新年が来る。ざわめきの後、気がつくとフランはもういない。椅子にはパーティの飾り帽子が残されている(この帽子は、夕方にバドが捨てた「若重役型」の帽子に対応する)。次の短いシーン。高まるあの美しい映画音楽のなか、フランが雪交じりの歩道をバドのアパートに向かって走っている。その表情の輝きが忘れられない。

 ホワイトカラーの自立は総じて、つよい階層脱出・「出世」の欲求を根にもつ組織や上役への人格的従属からの離脱というかたちをとる。アメリカでは、階層差別も出世志向も従業員が生活を守る方途の個人性もいっそう明示的であるゆえ、この離脱はきっぱりとドライになる。しかしそれらがもう少し曖昧な私たちの国、とくに60年代頃の日本では、ホワイトカラーの自立はもう少し錯綜したかたちをとるかにみえる。そこに分け入った希有の邦画として、ここでぜひ語りたい作品は、あの名作『キューポラのある街』を残して夭折した浦山桐郎の『私が棄てた女』(1969年、山内久脚本)である。
 高度経済成長期の60年代、かつて安保闘争に参加して権力の抗いがたさに気づかされた吉岡努(河原崎長一郎)は今、同族経営の自動車部品会社で働いている。庶民階級の出身で上昇志向を抱く吉岡は、ダーティな営業取引にも手を染め、ソフトに彼を侮蔑する経営者一族の私的な使役にも応じる忠実な社員であるとはいえ、どうしようもなくある韜晦と鬱屈にとらわれている。「転向」のゆえばかりではない。彼は、学生時代にペンフレンドして出会った女、一途に純情ながら、福島は相馬出身でずんぐりして見栄えのしない「女工」森田ミツ(小林トシ江)を、もっぱら性欲に駆られて関係したうえで捨てた、その自責を払拭しきれないからだ。しかしそんな吉岡に、一族のなかでは異端の存在であった専務の姪、美貌のマリ子(浅丘ルリ子)は「なにか」を感じ、母の危惧を顧みず吉岡との結婚に踏み出そうとしている。こうした状況のもと物語は複雑に展開する。
 捨てられたミツは、妊娠中絶を余儀なくされ、頼ってきた工場の旧友で今は売春斡旋をするしま子(夏海千佳子)にこき使われて、一時は心身ボロボロだったけれど、自殺しようとした老婆を救ったことを契機に立直り、老人ホームの真摯な職員として働きはじめる。吉岡は偶然ミツと再会するが、その後はマリ子との結婚もあって、謝罪し償う暇がなかった。そこでしま子が、接待営業で知己を得た吉岡をミツと逢うよう画策する。その場でミツは、吉岡を責めることなく、ただ「ぶら下がろうとした」自分を顧みて償いの援助も拒み、別れを告げる。吉岡は、ミツの変わらぬ愛と思いやりの深さにうたれて去りがたく、二人は衝動的に抱き合ってしまう。だが、この邂逅はしま子の無頼の夫によって撮影されており、しま子らは写真とミツの昔の手紙をマリ子に送って強請をかける。激しくなじるマリ子に接したミツは、しま子のアパートに赴き写真のネガを奪ってストーヴで燃やした後、しま子らともみ合い、そのあげく、追いつめられて三階の窓から転落死するのである。
 警察では「行きずりの女」としらを切ったけれど、吉岡は老人ホームでの葬儀の場でミツの遺影を抱いて慟哭する。自分という存在から決して切り離せないなにかを喪ったのだ。マリ子は吉岡から強請の真相を聞かされたけれど、彼の卑劣さをきつく責めて去ってゆく。生活のアイデンティティを打ち壊すまでの懊悩と悔恨と自責に吉岡は苛まれる・・・。 
 どれほど後のことだろうか。会社を辞め「2級ボイラーマン」として生きようとしてぃる吉岡の元へ、マリ子は戻っている。妊娠80日と診察された日、マリ子は強請の写真と手紙を燃やして、こう独白する――ミッちゃん、あなたはなぜ死んだの。なぜ生きて私を責め続けなかったの。あなたをもっと知ればよかった・・・。次いで、私にも衝撃的だったほどきっぱりした言葉が続く――私は今、あなたを殺したものたちを確かめ、それらと闘ってゆかねばならない、愛する者と生き続けるために。
 「あなたを殺したもの」とはなにか。いくらか深読みにすぎるかもしれないが、それは、出身や学歴や職業や見栄えなどによってつくられる階層というものではないだろうか。それが人びとの生きざまを支配するとき、上層の者は下層の者を軽蔑し利用しつくそうとし、下層の者は這い上がろうとして、上層の者に「ぶら下がろう」とし、あるいは自立なく卑屈に追従しようとする。貧乏ながら大学生の吉岡は東北出身の「女工」ミツより「上」であり、従業員の吉岡はブルジョワ一門の社長や専務の「下」であった。「ぶら下がろう」していたことを顧み、寄る辺ない孤老たちに慕われる働き手として再生しようとしながら、ミツはなお愛する吉岡を庇おうとして死んでしまうけれど、その「死によって、吉岡に「ミツは私だ」と気づかせ、彼を「上」への従属を絶つ自立への途に導いたのだ。そしてマリ子もまたきっぱりと一族から離反して吉岡とともに生きるにいたる。
 『私が棄てた女』でのホワイトカラーの自立は、自覚されたかけがえのない愛が発条となる点では同じながら、バクスターやフランのように軽やかでなく、安保闘争敗北後の企業社会への「転向」、地方の庶民階級出身者のある不器用さ、日本に特徴的な「生得的というよりは結果的な階層形成」といった重層的な諸要因もあって、いっそうどろどろした韜晦の印象をまぬかれない。だが、多くの要素を取り込んだ重層的でリアルな物語(それは遠藤周作の原作の視野を超えている)への挑戦ゆえにこそ、この映画には、粋でみごとな『アパートの鍵貸します』にも、貧しい少女の心の成長と階層脱出の拒否との間に生じうる矛盾を乗り超えた『キューポラのある街』にもない独自の美質が鈍く光っている。格差社会の深化する現在、マリ子の最後の独白の鮮烈さに私はあらためてうたれる。60年代の邦画はこのようなメッセージを私たちに贈ってもいたのだ。ふかい感銘を禁じえない。
           (『KOKKO』43号:2021年5月)