わが「フィルムカメラ時代」の映像・
「第3世界」の人びと

Ⅰ はじめに 
 このたび、私がフィルムカメラを使っていた時代の海外旅行(80年代~2007年)
の写真アルバムから、パソコンのわが師匠の助けを借りて電子ファイル化した各
国の、もっぱら当時「第3世界」と呼ばれた国ぐに生きる人びとのいくつかの映
像を選び、年代を追って紹介させていただくことにした。海外旅行で私が撮りた
くなるのはいつも、宗教美術・宗教遺跡と並んで現地の人びとである。働き、
「土に近く」生活し、貧しくとも家族とともに憩うアジアや中東の、たいていは
笑顔の人びと。その人生の軌跡にはおそらく、戦争や抑圧の近代史・現代史の過
酷な試練や、私たちの想像を越える日々の厳しい貧困があったことだろう。現時
点ではその状況の過酷さはいくらか緩和され、明暗さまざまながらそれなりの
「発展」もあって、生活水準も一定程度の改善がみられることだろう。国ぐにの
多様化も進み、今では一律に「第3世界」と呼ぶのは不適当かもしれない。
 とはいえ、これらの素人写真は、80年代~2000年代には確かにあった「豊かな
時代」以前のリアルな生活状況の一端は伝えているだろう。私にとっては、ファ
インダーのなかの人びとは、いつも温かく、懐かしく、人間という存在への私の
愛着を確かなものにしたものだ。ひいてはそれらは、労働研究という仕事のひと
つの糧にもなったように思う。
 紹介の初回はいわばまとまりのない「訓練期間」のもの。順を追って、①
1982年11月のポルトガル、リスボンの「要注意」と聞いていた庶民街アルファマ
地区の家族/②1986年8月のエジプト、カイロ近郊ギザの子どもたち/③同、カイ
ロ、イスラム街の屋台/④1992年2月の中国、上海の露天の鮮魚商/⑤同、見学し
たテレビ工場の女性組立工/⑥1993年2月のタイ、バンコクは巨大なクロントイ・
スラムの路地/⑦同、クロントイ・スラム前の佇まい。

(写真はクリックまたはタップで拡大表示されます)


Ⅱ インド 1995年12月 
 1995年12月、はじめてのインドツアーの際、ベナレス観光を終えてホテルへ戻る途上、街なかを自由に散策したくてたまらなくなり、私と妻は「自己責任の離団申請」を添乗員に提出してホテルに向かうバスを降りた。訪問地の限られたその旅行でも、むろんヒンズーやイスラムや仏教の豊穣な文化の魅力に酔いしれたけれど、もうひとつ惹かれたのは彼の地に群れる<人びと>であった。その実像をどうしてもゆっくりカメラに収めたかったのだ。その街歩きは、私たちの好奇心が思いがけずインドの庶民たちに温かく受け入れられる忘れがいた体験になった。その日々の生活の貧困はおそらくすさまじく厳しかっただろうけれども――あるインテリ風の男なぜあなたはこんなところを撮っているのかと尋ねてきたものだ――ほこりまみれの彼ら、彼女らは家族や仲間たちとともに屈託なくそこにいて、私たちに対する好奇心いっぱいによろこんで被写体になってくれた。すばらしい体験だった。これを契機に、とくにアジアや中東の旅行ではいつも、私は「人びと」の映像を追い求めることになる・・・。
 この旅行での写真は、①風景ひとつ、世界規模でも屈指の美しさを誇るタジ・マハール(アグーラ、1631年)/②深夜のニューデリー駅、母と子どもたち/③悪童たち(都市不明)/④ベナレス、姉妹/⑤同、布団店の男たち/⑥同、仕事休みの男たち/⑦同、小さな商店と修理屋/⑧同、リンゴ店の兄弟/⑨同、お婆ちゃんと/⑩同、ある店の前で、女たち/⑪同、三世代の家族/⑫同、競って集まってくれた13人の子どもたち/⑬ある駅、赤ん坊を抱いて物乞いで稼ぐ毅然とした少年/⑭ジャイプ-ルの路上――地べたの露天果実商、象、TATAのトラック


Ⅲ ネパール 1998年3月 
 98年早春のネパール。現地ガイドつきながら比較的自由のきく、妻と二人の旅行だった。ヒマラヤの高峰を仰ぐなんとも魅力的な寺院の多いいくつかの古都。人びとの生活は圧倒的に貧しく、公衆衛生インフラはほとんど整備されていないかにみえた。例えば下水は家の前の傾斜した土地をちょろちょろと流れる。しかしここでも、家族や親戚や友だちと寄り添って、まさに「土近く」たむろする人びとの界隈に、緊張を感じさせる雰囲気はいささかもなく、温かい印象が刻まれた訪問だった。その後、ネパールは大地震に見舞われて古都も大きく損壊し、コロナ禍も深刻をきわめるいう。懐かしいあの人びとは恙ないだろうか。
 写真は、①風景ひとつ、カトマンズの中心ダルバー広場/②名峰マチャプチャリ(魚の骨)の麓で働く子どもたち/③ポカラからのトレッキングの山道で出会った子どもたち。写真のお礼にキャンディを配っていたら、あるお母さんに「この子はもらっていない」と
言われた/④ポカラ、みんな家族?/⑤同、風が強くほこり舞う街路で。家族と近所のお友だち/⑥同、はからずも絶妙のタイミングになった私の「聖母子」/⑦カトマンズ、わずかの野菜を売る子/⑧同、歩道にびっしりと並ぶ雑業、「レストラン」もある/⑨同、洗濯する女たち/⑩同、ダルバー広場、アンナプルナ寺院の前を行き交う人びと


Ⅳ カンボジア 2001年2月
 今回も現地ガイド付きの二人催行ツアー。主な観光目的はむろんアンコールワットである。その壮麗な美しさ、壁面彫刻の戦争や生活の微細な再現、デバータ(女神)像のスリムで妖しい魅力などに惹かれた。実感ではこの国も最貧国のひとつだったが、その上、ここには貧しさだけではなく、手足を失った傷病者の物乞いの多さなど、戦争や圧政の傷跡が生なましく、しばしばそのリアルな姿に、無遠慮な私でも、カメラを向けるのがためらわれた。そんななか、それでも人びとの屈託なげな逞しさに出会うと救われる。
 写真は、①風景ひとつ、アジアの至宝、アンコールワット(12世紀建立のヒンズー教、16世紀には仏教の大寺院)/②シェムリアップ近郊の家族。ダイニングは自宅前の小橋/③同、くつろぐ母と子/④同、子どもたち。日本の戦後直後の小学生にくらべても、その服装はもっとありあわせで雑多である/⑤アンコールワット近くの村、女と水牛


Ⅴ イラン・トルコ再訪 2001年8月~9月
  それまでいろんな国でふれてその魅力に惹かれていたイスラム文化を、本当に堪能できたのは、この旅行だった。何人かの親友や大学の同僚を口説いて、この充実したツアーをあえて「催行」させた記憶がある。イスファファンやイスタンブールのイスラム建築やモザイクの比類なく精緻な美しさ、まさに奇観というべきカッパドキアなどの魅力。それらを映す写真は数多い。どちらの国でも、人懐っこく、親日的?で、家族に近づけば新しく切った西瓜やチャイや水タバコを勧められもして、暖かだった。美しい写真は数多く撮ったけれど、ここではもっぱらそんな<人びと>の懐かしい映像を紹介する。 
 ①風景:イラン、シルクロードの華・イスファファンのイマーム・モスク(1612~38年。内陣のモザイクの美しさに呆然とする)/②イランの農村、農夫と子どもたち/③テヘランの市場の入り口、さんざめく女たち/④風景:トルコ、イスタンブールのブルーモスク(1646年。オスマントルコ時代のモスク建築の高峰)/⑤トルコ、カッパドキア近く、働く母と娘/⑥イスタンブール、ガラタ橋近くでみかけた行商の女性


Ⅵ ベトナム 2003年2月~3月 
 ベトナムは宗教文化の遺跡が豊富なわけではなく、その関心から訪れたのではない。しかし私の心には、75年まで続いたあのベトナム戦争での究極の勝利の代価としての、数多の悲惨な映像が焼きついている。いちど訪れたかった。水牛車に積まれた野菜の上で昼寝する少年に出会ったり、今だに頻繁なアメリカ人の戦友の遺体探しに村人も手伝うという話を聴いたりすると、わけもなく涙が滲んだ。人びとはみな勤勉で、どことなく毅然とした印象だ。近年の日本はこの国からの技能実習生をとかく安価な労働力として搾取の対象としがちであるけれど、彼ら、彼女らは礼儀正しくも、屈せざるたたづまいを決して失なわないだろう。 
 写真は、①風景ひとつ、フエの王宮(王朝時代1802年)/②ホーチミン(旧サイゴン)市、ごみ収集の女性/③同、飲物屋台の家族/④同、市場にて。東南アジアの市場で働いているのはもっぱら女性である/⑤ハロン湾、小舟で花や果物を商う/⑥ハノイ、公営住宅前で/⑦同、赤いスカーフ(共産党の少女組織のシンボル?)が誇らしい少女たち


Ⅶ ウズベキスタン 2003年9月
旧ソ連に属するウズベキスタン。やはりイスラム文化に憧れて、親友たちをあえて誘って成立させたツアーで訪れた。西端の白く乾いた古都ヒヴァから、「昼食」のサラダは生の小タマネギ、トイレは青空で。延々と続く砂漠を走るバスのそんな長旅を経て、青のモザイクタイルに輝くブハラやサマルカンドにたどり着く。それらオアシスの古都のすばらしい風格は忘れがたい。ここでも人びとの印象も温く快いものだった。
 写真は、①風景ひとつ。サマルカンド、15世紀はじめのビビハニム・モスクそば/ ②ブハラの市場、ナンを売る少女/③バスの窓から。中産階級?の男の子(グッチのT シャツ)と女の子/④サマルカンドの市場、民族衣装の少女たち/⑤同、穀物を商う男(自慢げなアディダスの鞄)/⑥サマルカンドの夜、家族の憩い/⑦同、チムール廟の前でおばさんたちと同行の四日市の旧友と妻


Ⅶ インド再訪 2005年3月 
  今から16年前、私たちが67歳のとき再訪したインドは、数ある海外旅行のなかでも白眉であり、ヒンズー・イスラム・仏教の豊富な遺跡の圧倒的な迫力と、群れ集う人びとのすさまじいエネルギーにおいて、屈指の体験であった。10日間でかなりオールラウンドで経めぐったけれど、もっと滞在したい感じだった。もっとも、例えばエローラ⇒サンチニー⇒カジュラホへの古いバスでの悪路の道行きは、距離も時間も半端ではなく、ツアーといえども体力的に今ではもう無理かもしれない。それだけにひたすら懐かしい。紹介したい写真は、宗教遺跡をカットして人物像に限っても、多すぎてきりもなく、ここには8枚だけ掲げることにする。インドは現在、コロナ感染者3374万人、死者45万人を数える。河川敷にはいつも死者を焼く煙が立ち上るという。「あの人たち」が笑顔を取り戻す日の訪れをひたすら祈らずにはいられない。16年前と同じように元気でいてほしい。
 写真は、旅程の逆順のようだが、①風景ひとつ。カジュラホの寺院(11世紀)の名高い官能的な群像の典型/②ジャイプール、露天の子連れの鉄床屋/③ジャイプール、女たち(もしかすると娼婦たち?)/④サンチニーへの途上の農家/⑤ジャンシー駅、プラットホームの家族。弁当?にキャベツ/⑥カジュラホ観光に来た一族/⑦少年たち、オーランガバード~ジャンシー途上の駅。列車が止まると飛び込んできてコンパートメントを掃除して稼ぐ/⑧オーランガバードの2組の母子。


Ⅸ エジプト 2006年3月 
 大学を退職する年の3月、くりかえし海外旅行をともにした畏友Mさん夫妻をまた誘って、エジプト・ツアーに参加した。20年前はカイロだけの訪問だったが、今回はナイルをさかのぼってルクソールやアブシンベル神殿にまでいたる、あまねく古代遺跡をめぐる旅だ。巨石がみごとに組み合わされた壮大な古代の建造物やそこに刻まれた彫像の写真は、照りつける太陽のもと明暗くっきりと美しい。人物の撮影も多かった。しかしここでもやはり厳選して、自由に散策したカイロのイスラム街の人びとを中心に紹介したい。
 ①風景ひとつ。ギザのピラミッドとスフィンクス(紀元前2500年頃?)と私たち/②ルクソール近郊、農家の家族/③カイロ、イスラム街、果物商/④同、子どもたち/⑤同、あにいもうと/⑥同、元気なお婆さんと孫/⑦カイロの土産物店前、「三密」で寄り添ってくれて。


Ⅹ モロッコ 2007年9月
「フィルムカメラ時代の第三世界の人びと」の最終回として、モロッコを紹介したい。
モロッコは、イスラム中世の文化遺跡の蓄積はさほどではないけれど、各都市のカスバの迷路、オアシスの古い街、あのサハラ砂漠をラクダで訪れる旅行はやはり思い出ぶかいものだった。
 写真のキャプションは、①風景ひとつ、ラパトのモスクと「カメラマン」の私/②カサブランカのカスバ、子どもたち/③砂漠。バスの窓に近づく親子/④フェズ、家族満載のマイ・スクーター/⑤フェズ、ニカーブ姿の祖母に抱かれて/⑥フェズ、有名ななめし革作業場。立ちくらみそうなすごい匂い/⑦マラケシュ、カスバのなか、金属作業の少年たち/⑧マラケシュ「赤い街」の横町

 これ以降、妻と私は、コロナ・パンデミックの始まる2019年まで、デジカメ(ニコンD80)を携えて海外旅行を続けた。新しい分野ではフランス・ロマネスクなどの歴訪も重ねている。はじめから電子ファイルになるそれらの写真は、このHPの「旅行のアルバム」欄に掲載されている。主なテーマは宗教色の濃い遺跡、美術、それにやはり<人びと>であるが、範囲はアジア、中東、ヨーロッパ全域で20カ国ほどに及んでいる。(コロナ禍の後には)また、あるいは、(体力が衰えても)まだ、パスポートを使う日が訪れるだろうか。