その1「階級連帯の内と外
-『パレードへようこそ』ほか


 昨年の夏、沸き立つような感銘にわれを忘れたのは、イギリス映画『パレードへようこそ』(マシュー・ウォーチャス、2014年)であった。
 1984年7月、20坑もの不採算炭鉱を閉鎖して約2万人の労働者を解雇しようとするサッチャー政権の大合理化策に対する、炭鉱労働者およそ10万人のストライキが4ヶ月を迎えていた。 保守党政権はいっさいの妥協を拒み、さしも強靱な全国炭鉱労組(NUM)のこの闘いも、しのびよる生活苦ゆえに苦戦だった。そんなとき、マーク青年(ベン・シュネッツァー)を中心とするロンドンのゲイ&レスビアンのグループが、炭鉱労働者たちのデモの姿をテレビで見て、弾圧され差別されている点では自分たちも彼らも同じ、共通の敵はサッチャー政権にほかならないと、天啓のようにうけとめ、LGSM(レスビアン・ゲイ炭鉱労働者支援組織)を立ち上げて募金活動をはじめる。この試みは、はじめはNUMのどの支部にも相手にされなかったけれど、南ウェールズはディライス炭鉱組合の人びとによってついに温かく迎えられることになる。
 これは本当にあったことだ。映画は、もともと比類ない階級的連帯の世界に生きながら伝統的にマッチョでゲイ嫌いの地味な炭鉱労働者と、ロンドンの「ケバイ」ゲイグループ若者たちとの、思いがけず結ばれた絆を描く。このプロセスにかかわるに、どことなく影を宿したゲイの仲間たちと、彼らと最初に心を通わせた偏見なき好漢ダイ(パディ・コンシダイン)やゲイを排除する一部の男たちを小気味よくやりこめる感性ゆたかな女性組合長へフィーナ(イメルダ・スタウントン)をはじめとする炭鉱コミュニティの人びと--いずれも「群像」でありながら、それぞれが個性的に息づいている。会話がおもしろく愉快だ。すぐれた脚本(スティーヴン・ベレスフォード)である。とくに明るく聡明で、エイズに倒れるジョナサン(ドミニク・ウェスト)を静かに励まし、彼の示唆にしたがってのちに大学で学び地方議員になったという太ったおばさんのシャン(ジェシカ・ガニング)がすてきだ。この2グループがジョナサンのダンスや、「パンも薔薇も」の合唱で溶け合ってゆく場面は美しくすばらしい。労働歌とともに80年代の代表的なポップスが全篇にあふれているのも、この映画の魅力のひとつである。
 困窮が深まり、LGSMは84年12月、ロンドンの下町キャムデンで史上有名な拠金コンサート「PIT&PERVERTS(炭鉱とヘンタイ)」を成功させる。「ヘンタイ」の「プライド」(これが映画の原名である)宣言でもある。だが、ゲイ排除派の執拗な悪意が再燃してLGSMの協力は難しくなる。別れの抱擁のときがきた。一方、政府はストライキをやめるものだけにボーナスを支給する差別処遇にも踏み切る。そしてついに85年3月、1年も続いたストライキは敗北する。ウエールズの炭鉱夫も組合旗を先頭に立て整然と職場に戻るのである……。

 私はもともと、企業および国家から自立したイギリス的な自治組織を労働組合の「理想型」とし、それを支える組織労働者なかまの職場・地域での協同と連帯の文化を、その退嬰的な側面もふくめて高く評価するスタンスである。この評価の理由についてはいくつかの拙著(代表的には1976年の『国家のなかの国家』日本評論社)の参照を乞いたいが、そんな私にとって、その典型としての炭鉱労働者の階級的連帯を背景とする物語に感動するのは当然であった。そしてその文脈では、今『パレードへようこそ』にふれると、『ブラス!』(マーク・ハーマン、1996年)と『リトル・ダンサー』(スティーヴン・ダルドリー、2000年)という、忘れられないふたつのイギリス映画がすぐに思い起こされよう。
 けれども、今回の新作もふくめて、これらの秀作は実は、組織労働者内部の集合名詞的・集団主義的な生活と思想の謳歌ではない。そうであれば、映画はともすればみずからの立場の鼓吹に終始して自閉的な印象を残したかもしれない。しかしすぐれた映画作品は、多少とも伝統的な連帯の境界近く、または「外」に位置する他者の眼、しかもすぐれて個人の眼をもって、伝統的な炭鉱労働社会の変貌をみつめる物語であったことに気づかされるのである。
例えば、あの大争議後1993年頃のヨークシャー・グリムリー炭坑を舞台とする『ブラス!』。ヤマの存続が危ぶまれる炭坑町コミュニティ、そこでの生活不安と貧困のなか、100年の歴史をもつ労働者のブラスバンドがなんとか全国コンクールで優勝を果たすまでの物語だ。ちなみにブラスバンドは代表的なイギリス労働者文化のひとつである。
 塵肺をもつ元坑夫の老指揮者ダニー(ピート・ポスルウエルス)、生活苦と家庭の不和におちこんでゆく気弱なその息子(スティーヴン・トンプキンソン。そのかなしい葛藤の演技がみごとだ)、故郷に戻ってきて労働者の「敵側」石炭公団の地層測量士になり、存続可能の報告を提出して非情の公団に裏切られるグロリア(タラ・フィッツジェラルド)、立場の違いに悩む幼なじみの恋人(イアン・マクレガー)――それら楽団員らの折りなす濃密なエピソードは切実で、心からの感情移入に誘われる。
 優勝を勝ち得たが、その直前にグリムリー炭坑は閉鎖が決定されていた。ダニーはこれまで音楽のことしか語らなかったけれど、「われわれの仕事、生活、コミュニティのすべてを奪い、明日を無にした」と激烈な政府批判の挨拶をする。ラストシーン。オープンバスの屋上だろうか、ライトアップされたビッグベンを背景にバンドはエルガー作曲の「威風堂々」を演奏する……。そう、イギリス労働者階級は消えてゆく、しかし威厳をもって消えてゆくのだ。ここでは、ブラスバンドの意義と成功に生命をすり減らす退役者ダニーの眼、それにそれまで「公社」側とみなされて敵視されていた良心的な技術者グロリアの心寄せを重ねることによって、衰退してゆく紐帯の場というものの、庶民にとってのかけがえのなさがかえって鮮やかに掬いとられている。

 『リトル・ダンサー』もまた、まことに魅力的な作品である。
 舞台は大争議さなかのイングランド北部のダーラム。連日、組合員とスト破りのせめぎあいが続くなか、少年ビリー(ジェイミー・ベル)は、少女たちが練習するバレエへの憧れがやみがたい。しかし伝統的にマッチョで「男はボクシングかフットボール」と思い込んでいる炭鉱夫のパパと闘士の兄トニーは、「女々しい」ビリーを叱りつけ、ビリーの才能を見出したバレエ教師(ジェリー・ウォルターズ)のバレリーナへの道に進むようにとの勧めを「中産階級」のお節介だと罵倒する。けれどもパパは、息子のダンスの躍動を見て心を動かされ、ついにロンドンのバレエ学校のオーディションを受けさせようと決心して、そのための多額の費用を稼ぐため、スト破りに加わろうとするのだ。必死でそれを止めるトニーにパパは涙ながら言う――ここ(この炭坑界隈)はもうもたないだろう、才能があるかもしれないんだ、ビリーをここに留めることはできない、と。私たちはここに、2006年日本の秀作『フラガール』(李相日)のなかで、もと女坑婦の千代(富司純子)が娘(蒼井優)がうちこむフラダンスをみて心を変え、「これも私たちが知らなかった立派な仕事なんだ」となかまに説く美しい言葉を想起しないだろうか。
 感銘深いことに、組合員なかまやダンス教師のカンパがあって教育費は捻出できることになる……。何年かのち、25歳のビリーが主役を務める「白鳥の湖」ロンドン公演の客席にはパパと兄の姿がある。パパを演じるゲアリー・ルイスのここでの表情は本当に泣かせる。客席にはまた、かつてのビリーに尋常ならざる愛を示していた明眸の少年、ゲイとして成人したマイケルの姿も。『パレードへようこそ』を見たとき思い出したのは、このマイケルという存在の意味であった。

 強固な階級連帯、自然に助けあうなかまのつくる濃密なコミュニティ、そこに抱擁された伝統的な家族、それらが可能にするわれらの領域を死守する組合の営み……。このような炭坑労働者の界隈での生きざまは、時代とともにどうしても労働者の存在としての典型性を喪ってゆく。ここに述べた秀作3編はいずれも、哀惜をもって、たしかに存在した炭坑労働社会の衰退を見つめている。
 抑圧に抵抗できる労働者の連帯はしばしば、他の存在に対するある区別意識、ときにはある排除の色彩さえ帯びる、なかまの間でのアイデンティティ共有の上に成り立っていた。だが、ある時期までは必然的だったこうしたなかまの限定が、「典型性」の崩壊にいっそう棹さすことはいうまでもない。炭坑を舞台にしたイギリスの秀作群は、それゆえ、ブラスバンドに生きる退職者、良心的な技師ホワイトカラー、バレエの才能にかけて労働社会を離脱してゆく若者、そしてなによりもこだわりのない女たち、そしてLGBTのグループなど、伝統の炭鉱労働社会の境界周辺の人びとを主人公としている。いくらかは「外」なるこうした人の眼を大切にすることによって、これらの映画は、階級的連帯の「境界」設定が帯びる限定性・自閉性を撃つとともに、そのことでかえって逆説的にも、労働者が日常的に帰属する界隈の紐帯というもののもつ、働く人びとにとってのかけがえのなさを、そして喪われることのない今日的意義さえも、みごとに描いている。
 連帯を大切にするイギリス労働者の共同性は、境界を開き外なる人びとと連携することによって、以前とは変化したかたちで生き延びてゆくだろう。なぜなら新自由主義の今日、人は共同体のみで生きることはできないけれど、共同体なしで生きることもまたあまりにしんどい。このことは、「私のリストラ」を避けるためにみんなのボーナスをあきらめてほしいと一人で同僚に頼みまわらねばならない、そんな女性労働者(マリオン・コティアール)の孤独を描く2014年のフランス映画『サンドラの週末』(ダルデンヌ兄弟)に鮮やかに描かれている。サンドラはしかし、その心労を経て、「外」にあった契約社員もまた同じなかまとみる、開かれた位相にいたるけれども。

 「パレードへようこそ』のエンディングは、『ル・モンド』紙の言葉を借りれば、信じがたいほど美しい。1985年5月、ロンドンでの「虹のパレード」。マークらのグループは参加者少数が予想されて気勢が上がらなかった。だが、そこに思いがけず、バスを連ねてあのウエールズ・ディライス炭坑の人びと多数が駆けつけたのだ。
 ゲイのなかまと炭鉱労働者はスクラムを組んで、ここでも国会議事堂を背景にウェストミンスター橋を渡ってゆく。マークは87年にエイズ感染症で夭折するけれども、このあと、労働党はゲイやレスビアンへの差別を禁じる決議を採択する。その主要なプロモーターは、党内でなお大きな票数をもつ全国炭鉱労組(NUM)であった。

(初出:『KOKKO』創刊号2015年9月 堀之内出版)