その5 『明日へ』の『外泊』
  ─韓国の非正規女性労働者


 今回、ぜひとも紹介したい作品は、韓国イーランド社傘下、大手スーパーマーケット、ホームエバーの女性労働者たちの闘いをつぶさに描くドキュメントの秀作『外泊』(キム・ミレ監督、2009年)と、この体験にもとづく2014年の劇映画『明日へ』(プ・ジヨン監督)である。しかし、事実の経過は複雑で、映画を一見しただけでは容易には理解し難いだろう。映画紹介としては異例ではあれ、まずは最小限の解説を試みたい。

 2007年6月30日、ホームエバーの女性労働者数百人は、巨大店舗の上岩(サンアム)での籠城・占拠に突入する。なぜ、そのような闘いが必要で可能だったのか。
 韓国では、その年の7月1日から施行される「非正規職保護法」が、2年以上勤務の非正規雇用者を正規雇用に転換することを義務づけた。しかし、その直前、非情にもイーランドはレジ部門を外注化し、そこで働いてきたすべての非正規労働者を解雇する労務を強行しようとした。それまで弾圧のなかでようやく労組を結成し、18ヶ月の勤務で正規雇用化をはかる労働協約も獲得していた労働者たちは、この協約も地方労働委員会の雇用確保の命令も無視して、容赦なく「ふつうのおばさん」たち500人もの生活権を奪おうとする会社に対して、1週間前からストライキに入ったが、くりかえし団交を拒否され、ついにシットダウンに踏み切ったのだ。今回の突然の解雇は、賃金やボーナスや雇用期間にみる非正規差別の頂点ではあれ、怒りの対象はそれのみではない。従業員のすべてが、繁忙時にはトイレにも行けない忙しさ、顧客のどんなクレームにも笑顔で対応しなければならないストレス、服装や化粧の厳しいチェック、全般的な態度評価のモニタリング制度と個人査定などのゆえに、息苦しさを感じ、重い鬱屈を抱えていた。それゆえ、占拠に加わった女性の半数は正規雇用者でもあった。
 このシットダウンは20日間で排除されるとはいえ、ストライキは、街頭デモ、ホームエバー他店への一時的な占拠、テント内での137日の座り込み……をまじえて翌年まで続く。けれども、はじめは支援していた民主労働組合総連盟の腰くだけ、民主労働党の分裂、そしてなによりも生活苦と「夫の無理解」など家族のしがらみからくる脱落ゆえに、闘い続ける人びとは孤立を迫られ、2008年10月、韓国労働史上で最長の510日のストライキは苦い結末を迎えることになる。
 とはいえ、これはとうてい完敗といえまい。ホームエバーを引き継いだホームプラス・サムスンテスコ社との間で結ばれた妥結協約では、リーダー層12人の復職はかなわず、労使関係の平和条項も規定されたけれども、最後まで闘った186人をふくむ入社して16ヶ月以上の非正規労働者の自動的な無期雇用化が獲得され、2000人以上の雇用が保障されたのだ。その成果は、韓国の女性たちが非正規雇用で働く世界の人びとに届けた希望そのものにほかならなかった。

 『外泊』の映像でうたれるのは、まずもって、売り場を占拠した「おばさん」たち――みずからはそう呼ぶが労働界のボスがそう呼べば抗議する――の歓びが弾ける表現である。彼女らは、レジ台の間に段ボールを敷いて寝泊まりし、一緒に食事をし、歌い、踊り、交々楽しげに職場や家庭の体験をスピーチする。彼女らにとって、そこは企業による女性蔑視と統制に彩られた窮屈な職場の日常からの解放の空間であるとともに、「フロ、メシ、ネル」としか言わない夫、すなわち家父長的な抑圧からの解放の空間であった。実際これがはじめての「外泊」だったのだ。そこに彼女らのこれまで知らなかった自立と仲間意識、権力に抗う不屈の意志が育ってゆく。立ち並ぶ機動隊の前で静かにもやしを洗う一女性の姿が眼に焼きつく。随所に女性監督キム・ミレの心からの共感があふれ、私たちは沸き立つような感動を贈られるのである。
 彼女らは激しく抗いながらごぼう抜きされて、職場から放逐され、何人かは逮捕され、解雇される。それからも長く続くストライキのうちに、女たちは、あるいは彼女らの収入が目前の生活に不可欠なことを顧み、あるいはどこかに残っていた夫や子どもたちに申しわけないという気持ちから、テント籠城から脱落してゆく。資本主義の韓国社会の空気をリアルにみつめたその描写には、胸のふさがる思いがする。終末、リーダーたちもみんな一緒に復職したかったのに! と泣き叫ぶ女たちに、戦術の適否論を超えた労働運動の思想の輝きを見ることができよう。退職した不屈の副委員長が、自宅で化粧しながら、ずっと外にいたからね、日焼けして染みができてしまったよ、でも、後悔なんかしないと、淡々と語る、そのラストシーンもまた印象的である。

 『外泊』がホームエバー闘争の全過程の事実を丹念に辿るのに対し、『明日へ』は、その過程の前半を扱い、ふたりを中心とする関係者たちの個人事情と、「女性らしい」心の軌跡に関心を寄せる。それはそれで、劇的な感動に私たちは誘われる。
 物語の背景や経過については基本的に、この闘争をめぐる事実にほぼ依拠しているゆえ、ここではもっぱら、大手スーパー「ザ・マート」の闘いを担った主要な人びとのありようを語ることにしよう。レジ係のソニ(ヨム・ジョンア)は、出稼ぎの夫と高校生の息子テヨン(ド・ギョンス)と同居する優良社員で、近く正社員になることが約束されている。他社でのマタハラや解雇の経験をもつシングルマザーのヘミ(ムン・ジョンヒ)は、気丈で権利意識に鋭い。そのほか、ぶれない清掃係のスルレ(キム・ヨンエ)、大卒ながら「いい仕事」に就職できない若い女性ミジン(チョン・ウヒ)、それに会社のあまりの非情さに憤ってストライキの側に転身する人事担当者の男性カン・ドンジュ(キム・ガンウ)……。闘争のはじめには、凜としたヘミが万事にリーダーシップを発揮するけれども、テントに乱入した暴漢によって最愛の息子を意識不明の重体にされると、気落ちして戦線を離脱し、レジ仕事の就業に戻ってしまう。一方、はじめ消極的だったソニは、ついに反抗的だったテヨンと心の交流を取り戻し、自信を得て前線の責任を担う任務に踏み出す。そんな家族のしがらみを抱えた女たちのためらいと励まし合いが、紆余曲折の闘いの日々を織りなしてゆくのである。
 『明日へ』が『外泊』よりも重視したのは、なによりも母子関係の切実さだ。それゆえ、韓国社会の空気に沿って、これは一種の「母もの」の様相を帯びている。主演ふたりの心の変化はこの「母の思い」と仲間同士の友情を動因にしているかにみえる。
 その反面、『明日へ』が『外泊』のもつ貴重で多様な側面を大胆に省略していることが、この物語をいくらか単純にしているようだ。例えば、『外泊』の最大の魅力の一つである店舗占拠中の女たちが示す、二重の解放の歓びの息吹は、ここではかなり希薄である。それは、家族のしがらみのうち、『明日へ』が夫の妻への支配、すなわち端的なジェンダー差別の問題を捨象していることにも関わる。ヘミはシングルマザー、ソニの夫は出稼ぎで日常的には不在という設定は、この点やや便宜的なのである。また上部団体の右往左往ぶりがいっさいカットされていることも、この物語をある意味で社会的に閉じたものにしている。私見では、論争の絶えないこれら厄介な問題をやりすごすことによって、この映画作家は、終結後の数年を経て忘れられつつあるホームエバー闘争の意義に「国民的な」理解が及ぶように、商業主義的・興行的に成功しやすいソフトに洗練されたストーリーを仕立てたのだ。著名なEXOのメインボーカル、ド・ギョンスをソニの息子に起用したのも同じ努力の産物であろう。ちなみに日本の劇場では、入場者に彼のブロマイドが配られていた。
 しかしながら、甘口の商業主義にしては、この映画のラストシーンは、誤解の余地なくきっぱりしている。
 闘いの継続を決意したソニは、しばらくは家に帰れない(逮捕覚悟ということだ)とテヨンに告げて、職場を放逐された仲間の一人ひとりを訪ねて再結集をはかる。レジ台のヘミにも携帯電話で、あなたの最初のよびかけと行動がどんなに私を変えたかを感謝すると優しく語る。そして仲間とともに顧客を装って店舗に入り、自分たちの要求は正当であり、再び売り場を占拠しようと訴えるのである。機織台に立つあの『ノーマ・レイ』(マーチン・リット監督、1979年)が想起されよう。もちろん駆けつけた機動隊が彼女らを排除する。しかしソニは、職場から飛び出してきたヘニと手を携えて、激しい放水を浴びながら、機動隊の楯の列にカート――この映画の原題は店で荷物を運搬する台車、カートである!――を何度も激突させるのだ。それを真正面から撮る。この美しい映像をあえてラストシーンにする、韓国映画作家の気概に私は心をうたれる。
 日本上映のタイトルをつけた人は、カートの激突の「明日」がさしあたり弾圧の苦しみであること、結末は苦い譲歩を余儀なくされたこと、とはいえ、本当の「明日」は、職場でも家庭でも忍従することをもう拒みきる、非正規雇用・女性たちの気づきと自己肯定にほかならないことを、どれほど透視していただろうか。
『KOKKO』6号(2016年2月)

ドキュメンタリー「外泊」(公式サイトより・韓国語)