その7『わたしを離さないで』
──限られた生の証をいとおしむ

2016年の3月に終わったテレビの連続ドラマには、私としてはかなりめずらしく惹かれた作品が二つあった。ひとつは貧しくもひたすらに思いやりに満ちた介護職員と引っ越し作業員の愛の曲折を社会と生活のしがらみのなかで描く、わが敬愛する坂元裕二脚本の『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』であるが、もうひとつは、カズオ・イシグロ原作・森下佳子脚本の『わたしを離さないで』である。
後者は、同じ原作、同じストーリーのイギリス映画『私を離さないで』(2010年、原作は2005年刊)を直ちに思い起こさせる。この日本のTVドラマとマーク・ロマネク監督作品との違いが興味ぶかい。しかしその比較は後述するとして、まずは深い感銘を受けた映画のほうを紹介したいと思う。ちなみにカズオ・イシグロ原作の映画では、すでに1993年の『日の名残り』(ジェームズ・アイヴォリー監督)がある。オックスフォードの名門貴族の館を舞台に、執事という裏方の職務の完遂のために、メイド(エマ・トンプソン)への愛もふくめて、すべての情感を抑制的に律しぬく中年男(アンソニー・ホプキンス)を描く、それはいぶし銀のような名作だった。この裏方の心の抑制というスタンスは、映画『わたしを離さないで』ともどこか共通しているかにみえる。

主な登場人物は、語り手のキャシー(キャリー・マリガン)、トミー(アンドリュー・ガーフィールド)、ルース(キーラ・ナイトレイ)。三人は幼児期から18歳まで、海辺の広大な敷地をもつ寄宿学校ヘールシャムで育てられる。悲しいほど愛らしい彼女らは、十分健康に配慮され、楽しげな学生生活ではあれ、なぜか市民権も家族もなく、学校外に出ることを許されず、社会から完全に隔離されている。そして赴任した異端の教師ルーシー(サリー・ホーキンス)に教えられるのだが、寄宿生たちの明日は過酷きわまりない……。彼ら、彼女らは実は1952年以後とされる医療技術革命によってつくられたクローン人間であり、成人後は一般人に臓器提供を繰り返し、たいていは三度目の提供で死を迎える宿命なのである。この犠牲ゆえに、物語のはじまる1978年には平均寿命は100歳を超えていたという。
この異様な設定のもと、物語の展開そのものは単純である。聡明で思いやり深いキャシーと問題児だったトミーは幼児期から惹かれあっていた。しかし、奔放なルースは、大好きなキャシーに嫉妬も感じ、ライバル意識もあって、積極的にトミーに接近する。そして、18歳でヘールシャムを卒業して大きな農家に数人で自由に暮らす――そこで臓器提供の「お迎え」を待つ――ようになったとき、ルースは、トミーが愛しているのはキャシーだとわかっていながら、強引に性的な意味でも恋人にしてしまうのである。万事ひかえめなキャシーは、疎外された孤独に耐えられず、彼女らに許される唯一の職業である臓器提供者の看護人への道に旅立ってゆくことになる。
それから9年の後、有能な看護人として働いていたキャシーは、ある街で二度の臓器提供のあと病み衰えたルースに再会する。ルースは懐かしさのあまり、やはり二度の臓器提供を経て別の病院にいるトミーを誘ってヘールシャムの廃校跡を訪ねようと慫慂(しょうよう)する。そしてルースは、荒涼たる海岸、打ち上げられた破船の陰で、孤独が怖くて、キャシーとトミーの間を裂いたことを謝罪し、本当に愛し合っている二人なら、例外として臓器提供の「お迎え」に猶予が認められるという噂に賭けて、二人してかつての校長(シャーロット・ランプリング)を訪ねるように、少しでも長く生きて長年の恋を成就するようにと訴える。その沈んだ色調の、黄昏の海岸でのやつれたキーラ・ナイトレイの語りの場面がとても美しい。
ほどなくルースは三度目の「提供」で従容として死を迎える。残された二人ははじめて男と女として抱き合い、校長を訪ねるけれど、「死の猶予」は噂にすぎなかった。そしてまたほどなく、キャシーはほほえみながら死にゆくトミーを見守る……。その2週間後、ようやく「通知」が届いたキャシーは、広漠とした原野にたたずみ、トミーを愛したことを短い生の証としていとおしみ、静かに涙を流すのである。

イシグロが、このように人権というものがまったく顧みられることのない「市民以下」の一階層を想定したのはなぜだろうか。類推すれば、あるいはナチス支配下のユダヤ人とか、かつてのアメリカの黒人奴隷のような存在を想起してのこと、あるいは近未来に起こりうる遺伝子工学の残酷な展開を予感してのことだろうか。その種の深読みは、文学や映画に固有の魅力を語る際あまり意味をもたないが、ともあれ現代イギリスでは、これはもちろんSF的な物語にすぎない。けれども、こうしたSF的想定の上では、美しいイギリスの地方を背景とする三人の情愛はリアルにきめ細かく描かれており、その限りある生のなかでのささやかな歓びと深い悲しみがじんじんと伝わってくる。主人公たちの運命を甘受する静謐さがかえって、いつしか他人事とは思えない不思議に切実な感情移入を誘うのだ。鬼気迫る凄みと、逆説的にまさに人間的な普遍性を併せもつ文学の力を、この映画はよく写しとっているといえよう。もちろん映画固有のもつ魅力も大きい。三人のたゆたう心情がこめられた、その陰影ゆたかな言葉と俳優たちの表情は、あまりにみづみづしい。「命につく名前を心と呼ぶ」という中島みゆきの歌がきこえてくるようだ。とくに天使のようなやさしさを備えながらも過酷な状況をきっぱりとみつめ、どうしようもない孤独に耐えてゆくキャシーを演じる、キャリー・マリガンがすばらしい。

この映画には、非人間的な「社会的排除」を構造化している権力の姿がまったく見えないばかりか、状況に対する、なまじっか心を与えられただけに予想されるクローン人間たちのしかるべき反抗もまったくない。「猶予」が噂にすぎないとわかった帰路、トミーが号泣するほかは、すべては死、というよりは、抹殺の運命の従容とした受容に終始する。その従容さがかえって、そこに潜む構造の残酷さを際立たせているともいえるけれど、ともあれ、原作のラストでのキャシーは、地平線に浮かぶトミーの姿が自分によびかける空想が「それ以上進む」ことをみずから禁じ、涙を流しながらも泣きじゃくりはせず、車に戻って「行くべきところに向かって出発」するだけだ。一方、映画のほうはそこで「私たちと臓器提供を受ける人たちの間にどれほどの違いがあるのか」と彼女に自問させ、ほのかな批判の芽生えを暗示している。
このラストの処理もふくめて、最後に2016年日本のTVドラマがこの物語に加えたいくつかの改変にもふれてみよう。
あわせれば放映時間が長いこともあって、TVドラマではまず、主人公三人の人間関係がより激しく、起伏も大きく描かれている。ルース=美和(水川あさみ)のキャシー=恭子(綾瀬はるか)に対する愛憎はほとんどレスビアンのそれを思わせ、恭子のトミー=友彦(三浦春馬)に対する慕情と別離の淋しさの表現もより濃密である。「従容」にほど遠く激しく抗いながら最後の「提供」手術に運ばれてゆくとき美和は恭子に、美和に励まされて二人で生きようと決意したとき恭子は友彦に、いずれも「わたしを離さないで!」と叫び、それらのふれあいのみが生きてきた証であることを抱きしめようとしている。そのほかTVドラマでは、ヘールシャム=陽光学園の校長(麻生祐未)は、寄宿生にその宿命を甘受させるため、欺瞞的にも、ひたすら「みなさんは人を救う天使なのです」と説いてやまない。
最大の違いは、TVドラマでは、豊かな人間性は確実に育てられているクローン人間たちによる理不尽な人権抑圧からの解放運動のありか、そして当局の厳しい監視と抵抗への弾圧が明示されていることだ。恭子にいつも生きることの意義を説き、解放運動に身を投じて街頭で「市民」に訴えながら壮絶な自死を遂げる、親友まなみの存在もTVに独自的である。また、かつて寄宿生たちに宿命の真実を語って学校を追われる教師(伊藤歩)も、以前からその解放運動の実践者であった……。現代日本の映像作家たちは、やはり従容たる運命の受容では納得できなかったかにみえる。それはそれで、素直な感動をもたらす優れたドラマつくりだったということができる。
だが、抵抗のありかを掬うだけに、TVドラマでは、友彦が従容として死を迎えうるのは、「みなさんは人を救う天使です」という位置づけをついに内面化したゆえであったという結末になる。最後の海辺のシーン。愛しい人をすべて失った恭子は、「もうそちらに行っていいよね」とつぶやいて入水しようとする。けれども、そこへ友彦の手放すことのなかったサッカーボールが流れ着き、思い直すのだ。そして、どんなに孤独でも生きてゆくのだ、明日へ、と、また歩みはじめる……。原作と映画を改変して、恭子にはまだ「お迎え」が来ないという設定にしたことは、「明日へ」となにか関わるのだろうか。ともあれ、シナリオを書く森下佳子が、残酷な宿命を受容する静謐な諦念を超えたなにかを求めようとしたことは、よく理解できる。
(『KOKKO』第10号:2016年6月)