その8『64 ロクヨン』の厚みと熱さ


もう半世紀以上も前のことだが、鋭利な社会評論で知られた清水幾太郎が、アメリカのテレビドラマの傑作『ベン・ケーシー』と比較して、日本のドラマはなぜつまらないかを論じたことがある。要旨およそ、日本のドラマでは、登場人物同士の確執が、それぞれが背負っている容易ならざる事情に制約された「対立」ではなく、多くは率直に話せば溶けるたぐいの「誤解」とされているかにみえる、それゆえ、曖昧な対立軸がなくなる結末も、「物語を通じて人が変わる」という要素が希薄で、総じて緊張を欠くというのである。当時、アーサー・ミラーの『るつぼ』や『セールスマンの死』、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』などの、対立の緊迫感に満ちた演劇に傾倒していた私には、その評論はとても説得的だった。ちなみに上に上げた戯曲はすべて映画化されている。どれも佳作であるが、わけても秀作は、エリア・カザン『欲望という名の電車』(1951年)である。

横山秀夫の小説『64(ロクヨン)』(2012年)を読み、最近の映画化(監督:瀬々敬久、脚本:久松真一/瀬々敬久)を見て、思い起こしたのは、清水のいうおもしろいドラマにおける、登場人物間の対立設定の不可欠さであった。とにかくおもしろい作品だ。万人に推挙できる。この映画のおもしろさは、なによりも原作の傑出したストーリーからくるものであろう。横山の推理作家としての力量は、あまたのテレビドラマのなかでの「横山秀夫作」例えば『第三の時効』一本だけをみてもすぐにわかる。それに『ロクヨン』は、この横山が、長年の構想を経て、心筋梗塞や記憶喪失を超え、くりかえし彫琢して生み出した傑作なのだ。しかしここでは、まず映画に即して、どのような物語かを紹介したい。もっとも推理ものという性質上、ネタバレを避けるため、事件の真相は伏せておく。

主人公は16歳の愛娘あゆみの失踪に悩みながら、警察の情報秘匿を非難してやまない新聞記者たちとの関係づくりに腐心するD県警の広報官三上(佐藤浩市)である。そのD県警には、14年前の1989年に、誘拐された少女が殺されて身代金を奪われた上、犯人逮捕もできなかったという昭和64年の、署内では「ロクヨン」と呼ばれる大失態がある(三上は当時その捜査担当の一員であった)。そこで警察庁(本庁)は、この失態をむしろ奇貨とし、ロクヨンの無念の父親・雨宮(永瀬正敏)を長官が謝罪訪問することを契機に、県警刑事部長のポストを本庁の直轄人事としようと謀る。それはD県警の刑事すべての将来の夢をつぶす措置であり、刑事部の激しい反発を招く措置だ。物語は、広報官vs報道関係者(瑛太ほか)、本庁vs県警、県警内の刑事部vs警務部(広報官はここに属する)、ロクヨン時の失態を隠蔽しようとする刑事部長・荒木田(奥田瑛二)vs失態を告発しようとして追放され、スーパーの警備をしながらなお雨宮に寄り添うもと刑事幸田(吉岡秀隆)……などの、錯綜する対立軸がきしみながら進行する。そればかりか、新聞記者たちの間の東京本社と地元の違いや、報道官の女性スタッフ美雲(榮倉奈々)の補助労働だけを割り当てられることへの不満、娘への対応を巡る三上と妻・美那子(夏川結衣)の確執なども物語の視野の内にある。犯罪捜査ものにもしばしば喜劇的人物を加えるような「肩のこらない軽さ」が迎えられる昨今、これほど誰一人にこやかならず、怒りに満ちて緊張した対話が交わされる映画も少ないだろう。
そんななか、三上がようやく雨宮の了解を取り付けて、警察庁長官の訪問が予定された日の前日、ロクヨンの模倣かと思われる、また長官訪問を妨害する偽装誘拐かと疑われかねない新たな誘拐事件が発生し、すべての関係者を緊張のるつぼに投げ込む。三上は、捜査の指揮を執る刑事第一課長松岡(三浦友和)に指揮車に同乗することを許され、少女の父親・目崎(緒形直人)が身代金を抱えて、娘の携帯電話を用いた犯人の指示に従い、ロクヨンとまったく同じルートで引き回されるようすを、情報秘匿への激しい抗議に沸き立つ記者会見の場に伝えることになる。そして目崎はやはりロクヨンと同じ指示の最終地点に到る……。
犯人は誰か、目崎は偶然の被害者なのか? 実は松岡は、物証はともかくとすれば、すでに真相を把握していた。それはなぜか。ここにロクヨンを横山秀夫の最高傑作とさせるほどの卓抜な着想がある。次の2点のヒントから真相が推測できるだろうか。
1.ロクヨン時の失態とは、テープレコーダーの突然の故障のため、警察が犯人の声を収録できず、それを聞いたのはたまりかねて受話器を取った雨宮のみだったこと(この事実を伝える幸田のレポートが、県警の世間的評価を第一に考える歴代刑事部長によって秘匿されてきたのだ)
2.2002年のその頃、ここ玄武市では、所帯主の名がマ行の家に数多くの無言電話があった。男性が電話に出るまでなんどもかかり続ける。三上家もその電話を受けて、家出したあゆみからの連絡と思い、夫妻は「帰ってきて!」と必死で呼びかけている
それぞれ無関係であるかにみえる事実のすべてが、説得的な〈原因―影響〉関係に結ばれてゆく構成はみごとというほかはない。
『ロクヨン』はまた、卓越した推理ものというにとどまらない、厚く、熱い人間ドラマでもある。主人公の三上は、警察業務を社会に開くという広報の理念と警察組織の論理との矛盾に悩み、隠蔽と統制と事なかれ主義に奔る県警上層部に憤る。下積みで地を這うヒューマンな刑事たちへの敬意を忘れない。一方、私人としては、ストーリーの推移の内に、仕事中心志向のうえみずからの規範をおしつけがちで、妻や娘の心の陰影に無理解であったありようを顧みてゆく。佐藤浩市の熱演を通して、そんな三上の心象風景が丹念に描かれている。涙を流してかつての県警の失態とその隠蔽を雨宮に詫びる三上と、娘あゆみの失踪を密かに知っているかのように彼をいたわる雨宮とのふれあいが印象的だ。また、警察業務を徹底して非情な組織のしがらみのうちに描く点では、これはビジネスものの赴きもあるけれど、そのしがらみのなかにある人びとが時折ふとにじませる心映えにじーんとさせられもする。
映画の結末は原作といくらか異なる。原作では、ロクヨンと新しい「誘拐」のすべての真実が明らかになっても、さしあたり誰も逮捕されず、深い余韻を残して647ページが閉じられるけれども、映画では、気持ちの収まらない三上がロクヨンの真犯人の証拠固めをもう少し進める行動にふみきるとともに、新しい「誘拐」の犯人たちが従容として自首に赴くことになる。また、今度は本当に失踪した娘からの電話かと思わせて、最後に三上の不在の家にベルが鳴り響く。原作ではしかし、ひたすら電話を待って引きこもり気味であった美那子が、「あゆみにとって本当に大切なのは、私たちじゃない誰かかもしれないって思うの。……きっとどこかにいるんだと思う。ああなってほしいとか、こうなってもらいたいとか望まずに、ありのままのあゆみを受け入れてくれる人が。そのままでいいよって、黙って見守ってくれる人が。そこがあゆみの居場所なの。……」と語り、三上とともに祈りつつ生きてゆく心境に踏み出すのである。私自身をふくめて多くの父親の心に響くこの語りが、映画にはない。原作の改変は、物語全体を、父の娘に対するわかちがたい愛情でまとめ上げ、かつ希望をもたせる作劇法ながら、いくらか蛇足のように感じられもする。
ちなみに、この映画は前篇と後篇にわけて上映されている。「休憩」の入る欧米の大作になじんできた私などは大いに不満だ。私の知る多くの映画ファンもそう苦情を述べる。日本映画界は、一回の上映、つまり一回の料金で、例えば3時間余の作品を見せるゆとりをもう喪っているのだろうか。興行的にはむしろ逆効果だと思う。

さて、この作品に関する瀬々敬久監督の独自の功績に関しては、演出は可もなく不可もないと記憶する08年の『感染列島』や11年の佳作『アントキノイノチ』を知るだけの私には、評論の自信がない。現代の日本では、「癒しもの」の名監督は、是枝裕和をはじめとして少なくないけれど、このような骨太で構成の複雑な物語を緊迫感あふれる映像にできる監督はもう少ないのではないだろうか。
そういえば、『ロクヨン』に匹敵する過去の誘拐劇の傑作は、黒澤明1963年の『天国と地獄』(原作:エド・マクベイン、脚本:菊島隆三、小国英雄、久板栄二郎)くらいしか思い出せないことに気づく。横浜のスラム街で鬱屈する医学生(山崎努)が、丘の上に大邸宅を構える傲慢な製靴会社の社長(三船敏郎)の子と間違えて運転手の息子を誘拐してしまう。余儀なく社長は身代金の支払いに応じることになるが、そこからはじまる警察(仲代達矢ら)の地道な捜査、新幹線のトイレの窓からの身代金の投下、犯人による協力者の抹殺……といった逮捕に到るまでの全過程を、黒澤はいささかのたるみも見せずダイナミックに描いている。私見では、黒澤もまた65年の『赤ひげ』の後はある衰えを避けられなかったけれど、この映画ではなお、比類ないストーリーテラーとしての才能が遺憾なく発揮されており、文句なしにおもしろい。しかし今回の『ロクヨン』も、生身の刑事を縛る硬直的な警察組織、下積みの庶民の警察権力への距離感、切実きわまる家族の絆などの要素がこめられた重層的な物語であり、クールな『天国と地獄』とは別様の感銘を残す。現代の日本映画にとって、これはひとつの収穫といえよう。
(『KOKKO』第12号:2016年8月)