その9〈労働〉のリアルをみる憂鬱――『ティエリー・トグルドーの憂鬱』&『ナビゲーター』


必見のすぐれた映画なのに、スペクタクルやサスペンスの要素も、最後に物語の閉塞感が一掃されるようなカタルシスもなく、「かならずしも楽しい映画見物ではなかった」という印象を残す作品がたまにある。2015年フランスの『ティエリー・トグルドーの憂鬱』(ステファヌ・ブリゼ監督・脚本)がそうだ。主人公のT・トグルドー(ヴァンサン・ランドン)とともに、私たち観客もまた深いメランコリーにとらわれてしまう。
熟練機械工であった51歳のトグルドーは、リストラのため失業して1年半になる。4ヶ月のクレーン操作の訓練を受けたのに就職口はない。解雇のなかまたちは、経営上は不可避の人員削減ではないとして裁判闘争に結集しようと話しあうけれど、「心が折れてしまった」トグルドーは離脱して、妻と障害をもつ高校生の息子との生活を支えるため孤独な求職活動を続けている。ある会社のスカイプ画面での面接では、彼のもつ技能の古さや自己アッピールのまずさが不利に働き、模擬面接のようすを参加者が批評しあうグループコーチングでは、彼の表情から態度・物腰にいたるまで酷評される。思うにそれまで労働組合に守られたブルーカラーであったトグルドーは、それなりに自立のありように固執して社交性に恵まれず、接遇仕事に需要の多い現在の働き口に向かないのである。
やがて失業手当も減額される。トグルドーは相談した銀行員に、残された唯一の財産である持ち家を売ることを勧められるけれど、それは拒み、代わりに16年も大切にしてきたトレーラーハウスを売ることにする(それはフランスの労働生活に特徴的な大型バカンスの享受をあきらめたことの象徴だ)。しかし現れた買い手は大幅な値下げを要求して、契約交渉も決裂することになる。
トグルドーがようやく得た仕事は、それまでの経験とは無関係の、主として万引きを取り締まる大手スーパーの警備であった。そこでは定年まで勤め上げた女性店員への暖かい歓送のイヴェントもあって、いつも感情をかみ殺したトグルドーの表情も和らぎ、その夜は妻と息子と、ひととき公民館で習っているダンスを不器用に楽しみもする。だが、日常の仕事はひっきょう憂鬱だった。監視カメラの映像で携帯電話の充電器の盗みを摘発されても嘘の弁解で開き直る若者、肉を盗む一人暮らしの極貧の老人などを控え室で調べ、時には警察に引き渡すやりきれなさ。そのうえ26年勤続の「働き者」の従業員・レジ係のアンセルミが、ボーナスに当てられる割引クーポンを不正取得して即刻解雇され、その直後に店内で自殺してしまう。この事件に対し本社人事部長は、彼女は麻薬中毒の息子がいてお金に困っていたが、「退職」後の事件なので、私たちにはまったく責任はないと説明する。従業員たちはなにも声を上げなかった。
そしてアンセルミの葬儀後まもなく、今度はまたレジ係の黒人女性が、ポイント加算10倍の日に、自分のポイントカードを不正にスキャンさせていたとして控え室に拉致されてくる。調べのさなか、たまたま他に誰もいないとき、彼女は「あなたでも上司に報告する?」と尋ねる。そのときトグルドーは、黙って部屋を出てロッカーで私服に着替え、車でスーパーを去るのである。このラストシーンにのみ音楽が添えられている。
総じてドキュメントタッチである。寡黙なまま、状況を堪え忍ぶ憂鬱を表情に張り付かせていたトグルドーは、自分と等しい弱者を取り締まるような仕事を拒む自立についに殉じたのだ。だが、なんとすさまじく孤独な、そして展望のない自立だろうか。

この映画の憂鬱な印象は、2001年のイギリス映画、ケン・ローチの『ナビゲーター ある鉄道員の物語』を見たときの、打ちのめされた感想に匹敵するものだった。
1993年、保守党政権のもと、イギリスの国鉄(BR)は部門ごとに民営化され、南ヨークシャーの保線労働者は、社名が転変するような請負小企業で働く憂き目をみる。新しい職場では、BR時代からの労働協約がなお適用されるはずであったが、企業間競争が激しく、ひたすら人件費削減をめざす雇用主は、出勤・退勤管理、安全確保の要員配置、昇給・・・総じて職場の諸問題をめぐる労働者の発言権などについて、倒産とリストラの可能性をちらつかせながら、容赦なくかつての協約・慣行を踏みにじってゆく。ストーリーは、いつもなかま同士のジョークに気を紛らわせながらも、結局、この非情の労務管理に翻弄されてゆく保線労働者の群像を活写している。経営方針の転換によるリストラ、権利抑圧と低賃金ゆえの「自発的」退職のもたらす失業も、彼らの生活の傍らにある。やめるな、水準は低くても定額の賃金、離職手当、有給休暇、病気手当、そして組合の交渉権……を守ろうと説く年配労働者と、「そんなのもういらない」と当面のわずかに多い稼ぎを求めてやめてゆく若い労働者との論争が切実に響く。
そしてあるとき、ばらばらになったかつてのベテラン保線なかまたちは、久しぶりに一緒に働ける信号機据え付けの請負仕事をできることになった。彼らは勢い込んで作業にかかるけれど、それは安全要員不足の、急ぎの夜間作業だった。その作業で、一人作業を担当していたなかまが列車にはねられて瀕死状態になる。しかし事故の詳細が明らかにされれば、鉄道の安全規則違反で摘発され、依頼主も労働者も責任を問われ、明日の仕事確保は危うい。失業前は安全確保を主張してもっとも譲らなかったミック(トム・クレイグ)の必死の説得で、彼らは列車事故を道路上の自動車事故と偽ることにする。そのため救急車の要請が遅れ、はねられたなかまは死んでしまうのである。

すぐれた労働映画の資格は、まずもっていつの時期にも避けられない職場や労働者生活にまつわる深刻さをきちんと描くことにある。その深刻な状況はしかし、しばしば労働者たちの連帯する抵抗の闘いを引きおこす。現実を写しとる映画が、それらの闘いのみごとな勝利に終わることは、アメリカの『ノーマ・レイ』(1979年、マーティン・リット)などを例外とすればむしろ少ないだろう。とはいえ、当面の闘いは敗北であっても、それは人間としての労働者の従属をついには拒む精神のありかを明示し、ひとすじの希望の光を私たちの心に届ける。この連載の初回に紹介したイギリスの炭鉱を背景にした3作品も、エミール・ゾラ原作の『ジェルミナル』(1993年、クロード・ベリ)も、本誌6号に発表した韓国の『明日へ』(2014年、プ・ジョン)もそんな映画だった。
それだけに、今回とりあげた2作の物語の暗さと鑑賞後の憂鬱は、私には衝撃的なまでだった。私なりの理由もある。80年代以降の新自由主義の政策は労働者の連帯や労働運動にとってまことに厳しい風土と季節をもたらしたとはいえ、イギリスやフランスのブルーカラー労働者は、なお強靱な労働組合機能を擁しており、職場では労働時間、要員、保安、リストラなどを巡る専制的な労務管理はかなり規制されていた。『ナビゲーター』も暗黙裏にBR時代に鉄道労組が労働者に保障していた発言権のありかを示している。そうした発言権はいま、この映画に見るほど雲散霧消したのだろうか? 企業の枠を超えた労働組合運動の支援はもう絶望的なのだろうか? またフランスでの失業対策を特徴づける、組合主導の時間短縮・ワークシェアリングは、トグルドーにはまったく無縁なのだろうか? それに両国では、日本の水準をぬいて失業業手当の支給期間の長さなどの社会保障も充実している。これまで西欧労働運動や社会保障と対比して日本の労働世界を批判的に分析してきた私は、この2作が暗い状況の描写に心憎いまでにすぐれているだけに、モデルを喪って困惑してしまう。現実にはヨーロッパの労働者の抵抗力は総じて、ここまで落ち込んではいないようにも推測される。
映画作家が見つめるのは、なによりも企業間・労働者間の競争にチェックがきかなくなった時代における労働者・庶民のすさまじい孤立である。ここを凝視すれば、政治や社会保障や労働運動に安易に期待を寄せることは、とりあえず物語世界の結構を崩すものとして排除されたのかもしれない。もっともケン・ローチは、2000年には、アメリカ西海岸のラティーノ・清掃労働者の組織化の闘いを描く感動的な作品『ブレッド&ローズ』を贈っており、彼の視野は決して限られてはいないけれども。
ともあれ、この2作に関するかぎり、職場を去ってゆくトグルドーの小さなマイカーに、もうなかま同士のジョークの雰囲気はなく肩をすぼめて帰途につく保線労働者たちの背中に、明日の展望を見ることができないのは確かだ。ここに感じる憂鬱は、およそ格差社会の構造や労働者の受難になお立ち向かおうとする人びとが引き受けなければならない憂鬱であろう。
では、アベノミクスで「成長」する日本はまだ幸せなのだろうか? この地では労働現場のリアルはもう商業映画の素材にならず、したがって幸せにも、人びとがスクリーンで〈労働〉を見つめて暗い気持ちになる必要はない。                                               (『KOKKO』第14号:2016年10月)