その10  かけがえのない出会いに賭ける――『怒り』&『悪人』

 スケールが大きいうえ人間のドラマとしても深みのある映画には、二つの不可欠な特徴があるように思う。ひとつはそれぞれに存在感のある登場人物が多様なことであり、いまひとつは彼ら/彼女らが物語の過程である変化を遂げてゆくことだ。その点で映画ファンの私は、『怒り』(李相日監督・脚本、吉田修一原作、2016年)に堪能した。今年の邦画の収穫ということができる。
 猛暑のある日、八王子市で凄惨な殺人事件があった。現場には「怒り」の血文字が残されている。後に明らかになることに、犯人は派遣の建築工。どれも同じような中流の住宅が建ち並ぶなか、働くべき家を探しあぐね、派遣元も不親切このうえなく、消耗してある家の門口でうなだれていたところ、彼に親切にも冷たい麦茶を振る舞った主婦とその夫をどうしてか惨殺したのだ。犯人は全国指名手配されるが、整形手術をして逃げ延びる。その1年後、千葉と東京と沖縄で、そこに生きる人びとがそれぞれに素性の知れない男と出会い、無関係な他人とはみなせない関係に陥ることになる。
 千葉の外房では、魚市場の管理人らしい洋平(渡辺謙)が、家出して新宿の歌舞伎町の風俗店で心身ボロボロになっていた愛娘の愛子(宮﨑あおい)をやっと連れ戻し、陰口から庇いながら慈しんでいた。「お父ちゃん」に弁当を運んでいた愛子はやがて、洋平に拾われて市場で働いている経歴不明の寡黙な「田代」(松山ケンイチ)と心を通わせるようになる。洋平の不安を押し切って二人は同棲に入ってゆく。
 東京ではIT会社で働くゲイの優馬(妻夫木聡)がそれなりに優雅な生活を楽しんでいたが、新宿のゲイクラブで放浪者「直人」(綾野剛)に巡り会って、はじめて本当に惹かれ、素性を怪しみながらも自宅マンションでともに生活をはじめる。
 そして米軍機の轟音が響く沖縄では、男関係のため本土から逃げてきた母親を尊敬できない女子高生の泉(広瀬すず)が、同級生の辰哉(作久本宝)と一緒に訪れた離島で、ひとり廃墟で隠れ住むバックパッカー「田中」(森山未來)と出会って親しくなる。田中は辰哉の両親が営む民宿の厨房で働くようになった。泉、田中、辰哉の奇妙な友情の関係は、しかし、遊びに出かけた那覇で泉が米兵にレイプされるという事件で終わりを告げる。その事件を辰哉は、そして実は田中も目撃していたのだ。しかし父親たちの辺野古移設反対運動を冷ややかに見ていた辰哉は、うちしおれて引きこもる泉のためにもなにもできない。なにかと自信ありげだった田中も、泉と辰哉のためになにかできると言いながらも本当はなにもできない怒りに暴れ回る……。
 やがて八王子事件の犯人の整形手術後の写真が3 枚公表される。それらは「田代」にも「直人」にも「田中」にもどこか似ている。その公表によって、洋平と愛子も、優馬も、辰哉もみずからに問わざるをえない。それぞれにかけがえのない人となった素性の知れない男は殺人犯の山神ではないと信じられるか。その疑惑はみずからにはねかえる――彼を信じたい、けれどあえて信じようとする自分をどこまでも信じられるか。愛執と信頼、不安と疑惑の間できしむ葛藤に苦しみぬき、愛子と優馬はついに愛する男を守りきることに賭けられなかった。彼を、そして自分を信じきることのできなかったことへの我が身をさいなむ悔恨がくる。だが、その悔恨の煉獄を通して、ようやく再生が訪れもするのだ。とはいえ、沖縄の辰哉は、自分もレイプを目撃していながら口先だけで泉と辰哉への救いと連帯を語るばかりで、自暴自棄になって離島に隠れてしまう田中に対し、裏切られたという激しい怒りの感情に突き動かされて、思いがけない行動に出ることになる。すべてを知った泉は、はじめて我に返り、海に向かって号泣する。これが沖縄での再生のかたちなのである。
 すべてのエピソードの人間関係を密度高く描く、このすぐれた原作、脚本、演出のもとでは、すべての出演者が名優のようになる。とりわけ、頼りなく父親に甘えているようでいながら自分の愛のかけがえのなさは決して見失わない愛子を演じる宮﨑あおいの、脱力、愛の歓び、希望、不安、絶望、悔恨、そして最後の充足感までを刻む表情の変貌に泣かされてしまう。なんと表現力ゆたかな女優だろう。
「怒り」とは、まずは非正規雇用者、性風俗業、性的マイノリティへの差別、沖縄の米軍支配など、すぐれて社会的な意味をもつことがらへの怒りだ。だが、この作品のテーマとしての怒りはなによりも内面的にとらえられている。このような社会的な情況が人びとの愛に課す息苦しさに抗い続けることはあまりにしんどく、ともすれば鬱屈に閉じこもってしまう。怒りとは、そんな自分の不甲斐なさや焦慮に対する言いしれぬ憤りであるように感じられるのである。

 周知のように、李相日-吉田修一のカップルは、すでに2010年、『悪人』(脚本:李+吉田)を世に送り出している。この機会にこの作品も、近年の邦画の佳作によくみられる「癒し系」の域を超える秀作としてぜひ紹介しておきたい。見終わったとき心に沈殿する感動の重さはなまなかのものではない。
 ストーリーとテーマのわかりやすさは『怒り』をしのぐかもしれない。長崎近くの漁村で土木作業員として鬱屈の日々を送っていた主人公の祐一(妻夫木聡)は、出会い系サイトを通じて知り合った有償のセックスフレンド、福岡の保険会社OLの佳乃(満島ひかり)を、彼女が非情のプレイボーイ学生の圭吾(岡田将生)にふられて邪険に車外に突き落とされたとき、慰めようとしてかえって反発されたはずみで殺してしまう。その思いがけない犯罪の直後、祐一はやはり出会い系サイトによって、佐賀の国道沿いの紳士服店で働きながら孤独をかこっていた光代(深津絵里)と巡り会った。そして二人は、はじめて寄り添うことのできるかけがえのない「人に出会った」と感じて、逃避行をともにすることになる。本当の愛を知ることによって祐一は、あらためて佳乃を殺したこと、そして光代との出会いの遅すぎたことの痛恨にさいなまれるけれど、それは緊張に満ちてはいても幸せな道行きだった。しかしついに逮捕の迫ったとき、祐一は、自首ではなくむしろ逃避行を勧めた光代が罪を問われずに生きてゆけるようにあえて「悪人」を装う。とはいえ、二人の心から最後の逃亡先の灯台でともに眺めた夕日の輝きが消えることはない……。
 祐一の祖母(樹木希林)、佳乃の父(柄本明)もふくめて、すべての人物が、リアルな現状認識があってはじめて描写が可能になる存在感をもって息づいている。傑出したドラマの特質ともいうべきディテールの説得性は比類ない。おそらくはただひとり嫌悪感さえ覚えさせる圭吾をのぞけば、ゆきどまり感が凝縮された祐一の鬱屈も、いつも一人だった光代の骨を噛む孤独も、それゆえに二人が「他のなにものか」を装うことなく惹かれあう理由も、同僚に「肉体労働系の」祐一とではなく「旅館の跡継ぎになる」圭吾とつきあっていると装う軽薄な佳乃の階層意識や上昇志向も、すべてが納得でき、すべての人にいとおしい気持ちがこみ上げてくる。出演者の演技もすばらしい。二枚目・妻夫木聡のやつしようも、この出会いにすべてを賭ける地味なアラフォーになる深津絵里の懸命さもかなしいほどみごとだった。ある意味でいやな女を演じる満島ひかりの才能にはじめて刮目したのも、この映画においてだった。
 最後近く、真に糾弾すべき者として圭吾を追いつめる佳乃の父は「あんた、大切な人はおるね?……今は、大切な人もおらん人間が多すぎる。自分には失うものがないち思い込んで、それでつよくなった気になっとう」と言う。『悪人』の原作と映画は、現代日本の名もない人びとの生きる環境をたじろがず凝視することを通じて、いま人が人に本当に出会うことの難しさと、それだけにそれを求める思いの切実さを鮮やかに描いている。こうした出会いのかけがえのなさというヒューマンなメッセージは、エピソードがより広角レンズ風に広がり、かつ問いかけが心のより内面に及んだ『怒り』にも受け継がれている。もっともこの新しい特徴のゆえにだろうか、人びとのしんどさや願いの社会階層的な把握は『怒り』ではいくらか希薄になっているかにみえる。
 ともあれ、2013年の例外的な凡作『許されざる者』を別にすれば、2006年の『フラガール』、2010年『悪人』、2016年『怒り』と続けば、映画というものの真正のおもしろさを贈ってくれる当代きっての日本映画の作家として、李相日にオマージュを捧げたいと思う。                  (『KOKKO』2016年12月号)