仕事ノルマの決定権の所在を問わなければ、労働時間短縮・残業削減の実効性は乏しく、裁量労働制拡大の適否も判断できない。FB投稿としては長すぎるが、この小文ではそのあたりの関係を考えてみたい。ノルマの考察からはじめよう。
【ノルマの軛】
企業が従業員に要請する仕事量・作業量のかたちのうち、経営側が一方的・強制的に与えるものを狭義の「ノルマ」とよび、目標面接などによって、その決定に従業員の意向が多少とも反映されるものを広義の「目標」とよぶ。ノルマや目標の適用範囲はまず工場、課、班などの集団であるが、多くの場合、その数値は労働者個人に分割された責務として割当てられる。だから、ノルマも目標も従業員個人にとってまこと強力なインパクトになる点では同じだ。その達成の成否は、人事考課の成績評価によって査定され、その結果はかならず、昇格、昇給、賞与、配置などに及び、サラリーマン人生の明暗を大きく左右するからである。それゆえ、ここでは個人に割当てられる仕事量をノルマと総称しておくことにする。ノルマの語源は、かつてソ連がシベリア抑留者に課した過重な仕事量・作業量を表すロシア語である。
ノルマには職域によってさまざまのかたちがある。例えばライン作業の組立工ならばタクトタイム(目標生産量÷ライン稼働時間)、すなわち一人の作業遂行の許容タイム。さまざまの配達員のアルゴリズムに支配された1日の郵便や荷物の個数。コールワーカーの1日の問い合わせ処理件数。各種営業スタッフの顧客訪問数、成約の件数や金額。前期より例えば12%増の金額ノルマ達成は、多くのホワイトカラー職場ではなじみの責務である。それに研究開発やシステム設計の「専門職」には厳しい納期がある。それら分刻みの処理作業、ゆとりのない訪問や接遇、迫り来る納期の重圧などは、査定結果への当然の忖度を通じて、労働者のサービス残業、休暇の権利放棄、総じて長時間労働を招き、悪くすれば過労、ストレス、メンタル危機、病休、さらに悪くすれば退職や過労死さえもたらす。ノルマこそ「職場の人権」の危機の源にほかならない。そればかりか社会的にも、よく報じられる会社組織あげての法的不正やコンプライアンス違反の背景は、決まって過重な収益ノルマなのである。
愛知県の作家・伊藤浩睦は、ある憲法記念日の翌日、朝日新聞「声」欄に次のような投書を寄せている。<私たちにとって、憲法はとても遠いものに思える。学校では、憲法上の権利を口にすれば、「憲法なんか生徒には関係ない。校則がすべてだ」と言われ、会社では、「社員である限り社則やノルマが最優先だ。憲法上の権利なんか関係ない」と言われた。庶民と憲法の関係なんてそんな遠いものだと思っていた>。
「社則やノルマ」が「社員」の憲法上の権利を空洞化させているという把握は、突飛でないばかりか卓見であろう。表面の過酷さにとらわれなければ、ソ連型の抑圧は現代日本の労働者にとってそう遠いわけではない。
労働者はそもそも仕事量・作業量を対抗的にチェックできないものだろうか?
欧米の労働組合、とくにブルーカラーのそれは、この分野にそれなりの実績を積み重ねてきた。職人的熟練工のクラフトユニオンはもともと仕事の仕方が自立的であって、作業量を含む自前の標準的な働きかたに固執してきた。大量生産で作業方法の裁量権が奪われてからも、彼らは、ジョブユニオニズムを体現するショップスチュワード運動によって、出来高賃金制度下で達成と稼ぎの競争をそそる単位作業時間の短縮を拒んだ。コンベアラインでは、コンベアスピードを団体交渉するまでにはいたらずとも、無理な作業については、本人とショップスチュワードと会社の担当者がその作業をストップウォッチで再計測して是正するという苦情処理制度を設けている。そしてなによりも、各職場での要員確保に力を尽くし、人員削減に抵抗する。彼らに比べれば、総じて「経営側」に属し、未組織従業員も(労働時間)エクゼンプション適用者も多いホワイトカラーの場合、確かに仕事量決定はもっと経営専制的であるかにみえる。アメリカではとくにそうだ。しかし、欧米では、雇用者の階層を超えて私生活重視の哲学が定着している。欧米の労働者文化は、日本よりはるかに多い休暇を完全に消化し残業を忌避して、長時間労働を受けつけない。過労死・過労自殺がなお日本固有の現象であるのもゆえなきことではない。
私たちの国では、もちろん労働組合は労働時間の短縮を求めてきた。けれども改めて精査すべきことながら、70年代後半以降に職場の労働運動が衰退する以前から、一部の公労協の職場を別にすれば、仕事量・作業量そのものは、労働組合の守備範囲とみなされていなかったようである。そして現在では、過重ノルマに耐えられなければ、退職が唯一の選択肢になっているとさえいえよう。
【裁量労働制拡大の攻防】
いま高市政権と経団連は、従来の残業時間制限を緩和して「もっと働こう」の改革を画策している。経済成長に必要な生産性向上のため、一部の労働者のなかにひそんでいるというこの方向を支持する意欲に応えるためという。この施策においてひとつの焦点となっている項目が裁量労働制の適用拡大である。
一定の「みなし労働時間」を前提にして日々・月々の労働時間管理をなくす裁量労働制には、法的な労働者保護を緩和または免除する「定額働かせ放題」制度にほかならないとして、労働側はむろん警戒的である。それゆえ、この制度の適用は、新技術の研究開発、情報処理システムの設計、新聞や放送の記者、編集者、制作ディレクターやプロデューサー、あるいは資格をもつ弁護士、税理士、建築士などの「専門業務」と、事業運営上の重要な決定を行う企画、立案、調査、分析などに携わる「企画業務」、そのふたつの雇用者グループに限定されてきた。すなわち、仕事の手順・方法、時間配分において上司の細かい指示を受けることなく労働者が裁量権をもつ仕事だ。そして裁量労働制の適用にはあくまで本人の同意と、企業による健康配慮が必要であった。
とはいえ、もともと職務区分の不明瞭な日本の企業社会には、専門業務や企画業務の周辺に、少なくともそれらの一部を遂行しうる、経験を積んだ意欲的なベテラン従業員がかなり存在する。そうした従業員層に企業が裁量労働制への移行を誘うことは許されよう。いまのところ労働組合の連合は裁量労働制の拡大には、過労死や長時間労働をまねくとして反対の立場である。確かに統計上も、裁量労働で働く雇用者は一般よりも長時間労働者の比率が高い。けれども、経験豊富な従業員を対象にした裁量労働制への企業の誘いに、現在の労働組合はどこまで抵抗できるだろうか? 労使関係の現状といまの企業社会の雰囲気を考慮すれば、少なくともふたつの危惧を指摘することができよう。
その1。裁量労働制が許容される業務の条件は、仕事の手順・方法や時間配分の労働者の裁量権である。だが、私が感心を寄せる仕事のノルマについての労働者の裁量権はどうなるのか。拡大論者は口をつぐみ、反対の組合側も、労使関係でノルマの規制などを試みたことがないためか、あるいははじめからそれは無理と悟っているためか、あえて問題としない。だが、作業ノルマや目標が過重であれば、仕事の手順・方法や時間配分についても、実質上、ゆとりある自由選択はできないのだ。忙しくて十分に生徒と語り合えない教師のことを想起するだけでよい。裁量労働制や長労働時間のインパクトを考えるならば、労働組合は古くて新しい課題として、仕事ノルマの規制や要員確保の政策を樹立すべきなのである。
その2。本人の承諾が不可欠であるゆえに、経営側の裁量労働制への誘いはかならず、個人面接の場で、あえていえば「褒め殺し」のように持ち上げる。あなたはもう命令されて働くだけの労働者ではなく、みずから主体的に企業経営に関わるビジネスマンの一員に加わるべきだ、われわれはそう期待している、と語りかける。企業社会の内部での「成長」に人生を託してきた当人は、舞い上がり、はじめは私にできるでしょうかとためらっても、説得がくりかえされるうちに、規制されないノルマの水準に不安はあれ、結局、やってみます、やらせてくださいと言ってしまうのである。日本特有の<強制された自発性>にもとづく、それは経営者への自己責任の「約束」にほかならない。
「就職氷河期」の成功者である大企業の正社員と、その有利さを引き継いだZ世代の若者たち。彼ら、彼女らはなお、そのアイデンティテイ形成を企業の価値との一致に頼る人びとであるかにみえる。その推定に大過なしとすれば、裁量労働制の拡大はやはり危険である。

