春から初夏にかけて、私たちふたりの、花園を散策する外出や古都の名刹を訪れる小旅行はかなり頻繁だった。
4月はじめには名城公園の藤やネモフィラ。月末には福山、鞆の浦、倉敷をめぐる自由旅行。5月はじめには桑名の諸戸邸・六華苑。中旬には伊豆・箱根の1泊旅行。これはCT社の衰退ぶりが明らかな、富士山の雄姿だけが印象的で内容控訴なツアーだった。月末には鶴舞公園の豊富な薔薇と花菖蒲。6月上旬には、京都の高山寺、西明寺、神護寺。仏教文化の濃密な雰囲気はやはりすばらしかったが、神護寺のあまりといえばあまりの石段の長さに私の脚力が及ばず、なんども這いつくばる始末、やはり無理だったのかなぁと反省させられたものだ。そして6月11日には、久居の郊外に「かざはやの里」を訪れ、絢爛たる紫陽花の丘の連なりと、個々の紫陽花の宝石のような色彩のモザイクを堪能した。
たまに四日市での、主として名古屋での映画観賞はもちろん続けている。公園散策の後だったり、映画だけなら2本を組み合わせる。よく通う伏見ミリオン座から名駅までは適度のウォーキングである。ふつう実にゆっくりと休み休みしながらではあれ、外出時には6000歩から1万5000歩ほどは歩く。ちなみに観光スポットではよくツーショットの撮影を依頼するが、苦笑するのは服装がふたりとも10年とほぼ同じであることだ。
なぜ、こんなに執拗に遠出するのか。「社会」や人びとへの好奇心をなくして閉じこもってしまえば、老い込んでしまうと感じるからでもある。しかしもっと大きな理由は、こんな行動が、こんな歩きがまだできるかを試そうとしているからだ。今年ともに88歳になる私たちは、最近とくに体力の衰えを痛感する。8月に大動脈弁狭窄症の術後1年の検診を受ける妻・滋子はは今は私以上に元気で、庭の草取りの持続時間など驚くほどだが、初期認知障害?みたいにもの忘れが著しく、万事ゆっくりとした所作である。私はといえば、行動の企画力、表現意欲、読書力、雑事遂行のの効率性などはまだ「健全」と思われるけれども、身体のバランス維持、安定した手指の力、聴力、即時の判断力などが危うい。そしてふたりとも全体に疲れやすく、昼食後の昼寝は欠かせない。
しかし、歩けるうちは死なない、「棺桶まで歩こう!」という。それに繁華街に出れば、老夫婦は肩で風切る若者に無視されてぶつからないようによろよろ歩いている感じであり、スマホ万能時代であらゆる場所での人的接遇が少なくなったことにも困惑することが多くなってもいる。都心は変に疲れる。だからこそ、私たちは、これで最後かも・・・と思いながら、ゆっくり歩けるところへ出かけるプランを今日も模索する次第である。
近況報告までに、最近の行楽・小旅行のスナップのごく一部を、最近の紫陽花観賞を中心に紹介したい。鞆の浦、倉敷旅行、桑名六花苑、神護寺、風早の里の紫陽花の順である。
こんなこと、私たちにもなお可能であれと祈りつつ。























