ケン・ローチは、周知のように、長年にわたりイギリス労働者階級の生活の受難と体制に抗う困難な闘いを、透徹したまなざしで凝視してきた。『オールド・オーク』(2023年)は、この巨匠が87歳にして、このたびも脚本に携わる盟友ポール・ラヴァティとともに、分断と排斥の現世に贈る、静かなリアリズムに徹しながらもほのかな希望をこめる「最後」のメッセージである。
北東部イングランドは炭鉱閉山後の寂れたダーラム州の小都市。この街の住宅街に中央政府によってたくさんのシリア難民が送られてくる。貧しい住民たちの界隈にはしかし、この突然の隣人となったアラブ人たちを排斥するすさまじいヘイトの気運が漲る。そんな街で、ぼろぼろのパブ、「オールド・オーク」を営むもと坑夫のTJ・バランタイン(ディヴ・ターナー)は、なにかと生活に不如意で、家族もなく、サッカーチームを指導するなどのボランティア活動にももう気力をなくして、彼を自死から救ってくれた愛犬だけを溺愛する孤独な初老だった。しかし、それでも彼の心には人びとの連帯への究極の信頼が潜んでおり、なんとか難民たちを助けようとする。そこに彼の再生の兆しがあった。
その契機になったのは、難民キャンプで英語と人権思想を学び、シリアに留まって反アサド派で闘う父を敬慕するカメラ・ウーマンのヤラ(エブリ・マリ)との、ヘイト青年に壊されたカメラの修繕の手助けを通じてのふれあいだった。ヤラは、閉ざされたパブの二階広間に飾られた、落盤事故で死んだTJの父が撮ったというかつての坑夫たちの生活と、1984-85年の閉山に抗う大ストライキの写真を食い入るように見つめる。当時の坑夫たちの相互扶助や炊き出しの映像や、「共に食事し、共に持ちこたえ、共に闘う」というスローガン。ヤラは自分たちシリア人の塗炭の苦しみとイギリスの庶民のかつての受難との共通性に気づき、心にとどめたのだ。
闊達なヤラは美容院など市井の日常にカメラを向けて、徐々に人びととの間に親密な関係を築きはじめる。こだわらない人柄の地域慈善団体職員・ローラも駆けつけて、貧窮のシリア人家族に支援物資を届ける。少女が自転車を喜んで受け取ったとき、イギリスの少年たちが「僕もこれが欲しかったのに」と羨む姿が印象的だ。TJとヤラとローラは、閉ざされたパブの広間を改築してシリア人のための無料の食事会を開くまでになる。大聖堂をはじめさまざまの慈善団体から続々と食品給与がくる。だが、かねてから「オールド・オーク」にいつもたむろしていたやはりもと坑夫たち、TJの老いた旧友たち4人は、なお強烈なレイシストだった。彼らは自分たちが提案した移民排斥住民集会のためにTJが閉ざされた広間の使用を拒んだのにまさにそこでシリア人の食事会を開くのは、われわれの唯一くつろげる居場所を奪うことだと、TJを激しく非難する。そして変わってゆく界隈のなか疎外感に苛まれた彼らは、ついに電気工事を操作して、パブの2階の床を致命的に破壊する陰謀に手を染めることになる。資金ゼロで修復・再開のめどはなく、愛犬もすでに殺されている。絶望したTJは、かつて海底切羽のあった海に向う再度の自死に赴く。
けれども、その直前にヤラの父が拷問のあげく獄死したという報が入る。すると思いがけず、街の人たちが家族とともにひきもきらず訪れてヤラの家の前に花束を捧げたのだ。そのなかにはパブ破壊に加担したTJの旧友チャーリーと家族の姿もあった・・・。そしてエンディング。どのようなイヴェントなのか、シリア人を交えたイギリスの庶民たちの延々たるデモの隊列が街路を埋める。中央近くにTJとヤラ、そして写真展示会のあと、ヤラたちが贈った「みなさんの組合旗をまねた」大きな旗がある。「強靱さ、連帯、抵抗」の文字が英語とアラビア語で刺繍されている。後ろには「ダーラム地区パレスティナ連帯行動」の旗もみえる。参加者はまったくくつろいだ祭りのような印象だが、私には、炭鉱ストライキ当時の坑夫と家族たちのデモとどこか似ているように感じられる。
『オールド・オーク』は、炭鉱の衰退によって寂れた地方都市の貧困化した人びとが、押しつけられたシリア移民に対する、いわば自然に生まれたヘイト・排斥の言動を乗りこえて、新しい隣人への連帯に希望をつなぐヒューマンな物語である。それ自体としては、労働者思想とか労働運動のゆくえを問う作品ではない。とはいえここに、実質上の原作者であるポール・ラヴァティがこの映画にふれてこう語っていることに注目したい。
「過去」こそが私たちの映画登場人物であるべきだ・・・(中
略)。 炭鉱ストライキ時の炊き出しに象徴される共同体の連帯
は、どうして孤立と絶望へと形を変えてしまったのか?(中略)
・・・かつて組織化されていた労働者階級の人びとと、闘争的な労
働組合は、なぜ労働生活のあらゆる瞬間を計測するアプリに縛
られながらも、自由市場の物語を受け入れ、自らを運命を司る
主人公だと考えていた『家族を想うとき』の主人公リッキーの
ような世界へと追いやられたのか?『わたしは、ダニエル・ブ
レイク』の主人公・・・は、なぜ孤独に追い詰められ、最も弱い立
場にある人びとを標的にする国家官僚機構の組織的な残酷さの
犠牲になったのか?
この語りを掲載するパンフレットにみるどの評論も労働者思想や炭鉱労働組合の現況に言及してはいない。またケン・ローチもラヴァティも、かつての大ストライキやそこでのなかま相互の扶助の営みをそのものとしては描くことの空しさを、十分に知悉していたことだろう。だが、「過去」の連帯と闘いの喪失が現在の状況をもたらしたという把握が、そしてその喪失へのかぎりない哀惜が、ラヴァティの語りに明らかなように、物語の暗黙の背景であることは疑いを容れない。
では、格差と分断と孤立の2016年(物語の想定時点)の今、『わたしは、ダニエル・ブレイク』や『家族を想うとき』の絶望から脱する希望はどこに求められるだろうか。
それはやはり古くて新しい人びとの伝説、労働者の連帯にほかならない。とはいえ、それは競争と孤立ゆえに風解した「同じような人びと」・組織労働者たちのもとのままの団結ではなく、排他性を克服した「異質な人びと」の包摂でなければならない。ここに来て、現実を見つめ、ケン・ローチとポール・ラヴァティは、排斥されるシリア人との間の連帯の構築に希望を求めたのだ。「過去」の労働社会のレジェンドは、無料の食堂、組合旗を模したのぼり旗、大規模なデモ、そしてさまざまのシーンやなにげない会話にちりばめられている。
ヤラの父の死に際しての人びとの献花の連なりと最後の大デモの間になお避けられなかっただろう幾多の対立や困難については、描写はない。それゆえ、ラストシーンはふと希望の幻想かもしれないと思われもする。けれども、『イギリス炭鉱ストライキの群像』の著者としての私は、幻想をふくむものであっても、彼らの希望のメッセージを、深読みするまでに感得する。ああ、いい映画を観たと想う。
ちなみにTJとヤラは、かつて炭鉱祭りには坑夫たちが集い、今たくさんの食品カンパを寄せたダーラム大聖堂を訪れる。私もついに訪れることのなかった1135年創立のすばらしいノルマン様式の教会だ。ヤラはそこで「こんなに美しいものが残っているんだ。故国のパルミラ神殿はISに壊されてしまったのに!」と涙を流す。いくつかの忘れられないシーンのひとつである。