9月21日は私の87歳の誕生日だった。70人以上のFBお友だちから温かいお祝いのメッセージを頂いた。心急いていて個別の返信を失礼したが、ただ感謝するばかりである。
同年齢の妻は7月4日に誕生日を迎えている。何度も身辺雑記に記したが、その翌々日、私は転倒して頭と顔を強打し、病院に緊急搬送されて外傷性くも膜下出血と診断されて12日の安静・入院を余儀なくされた。回復はきわめて順調で、7月17日は退院している。しかし滋子のほうは、8月25日、持病の大動脈弁狭窄症で市立四日市病院(CYH)に入院、27日、カテーテル手術(TAVI)を受ける。これまた回復は順調で、9月3日に退院した。その間、常軌を逸した酷暑が続き、お互いを見舞う頻繁な病院がよいも相当しんどかった。思えば私の人生で、こんな試練が2ヵ月も続いたことはない。そして退院後20日ほどを、私は<戦後処理の20日>とよんで、妻が静養できるような生活スケジュールで静かな日々を送るよう努めた。私は8月から9月にかけて1週間ほど、なぜか味覚・嗅覚を失って悩んだが、それもほどなく回復した。一方、転倒の後遺症として上の義歯が破損したので、それを新調する歯科治療もはじめた。
9月15日、私は<野党各党の労働政策を聴く>をテーマとする「職場の人権」(於 大阪府立労働会館)に久しぶりに会場参加した。詳細は省略するけれど、立憲、共産、社民、れいわの政治家から、共通点が多いけれどそれぞれの独自性もないではない報告を興味深く聴くことができ、最後に総括的な感想と持論を組み合わせたまとめ発言もいちおうこなすこともできた。その後、歓迎してくれたなじみのスタッフとのイタリアンの会食もあり、思いがけずご馳走にもなった。そのうえ翌16日、CYHで血液検査・エコー・心電図検査などを経て、執刀の外科医から<なんの問題もない>と診察された。やった! 事実、滋子は日に日に生気を取り戻している。そして、21日、この日はコーラスグループに属している妻の従妹から頂いたベートーヴェンの第九のコンサートを聴くことができた。どんな地味な余生でも、胸をはって生きてゆこうとする勇気を思い起こしたものである。
そして昨日22日、私たちはすでにこれまでと変わらないような気持になっていて、四日市で、朝からシネコンで3時間以上の大作『宝島』をみた。怒鳴りが多く難聴ぎみの私たちには台詞が聞きにくく、細部がわかりにくい展開もあったが、沖縄の若者たちの20年にわたる、沖縄の苦難のなかに生きた心をうつ物語だ。そのあとスタバで軽食をとり、CYHに赴いて、最後まで気になっていた主治医・内科医の術後診察を受けた。予想通りここでも<なんの問題もなかった>、<自由に行動されたい>! この日、病院の費用は280円のみ(ただ50日分の薬代は5000円を超える)。元気を得て、私たちはなんと、誰にもいぶかしがられたのに、かつての私たちのように、30分以上をかけて駅近くのアピタまで歩いてみたのだ。サンマルクカフェで長時間の休息。夕方から私たちなりの祝膳として、玄品ふぐでCPのよいとらぶぐコースを楽しんだ。計7600歩の歩きも完食も、滋子はもう平気だった。
11月初旬にもういちど外科医と内科医の診察があり、新しい義歯の装着は30日に持ち越した。けれども、7月はじめ以来、心身の疲労、とりわけ大きな心労と、高額医療費支払限度制によって助けられたとはいえ、それでもかなりの「戦費」を余儀なくされた私たちの余生のための闘いは、こうして終わった。
私たちはこれまでのような、なにかにつけてできないことの多くなった地味な日々に戻る。なお我家にこの秋、迫られている課題としてもうひとつ、ウィンドウズ10と、従来の一太郎の終了に伴うパソコンの更新がある。10月はじめには深刻化する、私ひとりでは対処できないこの難題についてはいずれ別の投稿に記したいと思う。
この間のスナップの説明を簡単に。①病院食にうんざりしていた滋子が、退院の日の昼食、とろろ定食を「おいしい!」と顔をほころばせる/②9.15「職場の人権」会場/③社民党の大椿ゆうこさんと/④立憲民主党の尾辻かな子さんと/⑤温かいスタッフたちとの食事会/⑥9.21近鉄デパート内のカレー店で/⑦9.22映画館での私/⑧ふぐ料理店の滋子。



























































