マイ・アイデンティティ2025年     (2025年5月8日)

 もう数年も以前、故中岡哲郎先生の薫陶を受けた研究者たちのパーティで、妻の滋子が「私の唯一のアイデンティティは熊沢誠の妻であることで・・・」と自己紹介したことがある。そのとき私は、ああ私はこんなにも滋子の人生を「占有」してきたのだとふりかえり、言いようのない忸怩たる思いに胸を衝かれたものだ。
 もっとも、私は60年にわたって一途に労働研究に没頭し、文庫版・新書をふくめ28冊の著書を刊行したけれど、その間いつも、愛妻家であり子煩悩の父親ではあった。膨大なアルバムには家族との楽しい旅、行楽、屈託のないくつろぎの映像に溢れている。とくに息子たちが社会のきびしい現実にふれるまでの80年代末頃までは、これがいつまでも続けばいいと希うほどの父親史の黄金時代だった。わけても、1979年のイギリス留学後と、長男が大学3年、次男が大学1年の1987年に敢行した、いずれも1ヵ月にわたる4人のヨーロッパ旅行は家族史の忘れがい画期だった。思えば1962年の結婚このかた、滋子とはいつも一緒だった。踏査や学会もあわせて63回の海外旅行のうち、53回は妻が同行している。今でもほとんど日常化している劇場と在宅DVDで観賞する映画も、すべて一緒に見ている。数多の小説の読書体験もかなり共通する。一方、滋子は私の研究についても控えめなヘルパーであり、草稿の最初の読者であり校正者でもあった。

 それでも、私が性別役割分業という慣行のなかにぬくぬくとしてきたことは間違いない。妻・滋子はいっさいの家事・育児の担い手だった。ある親しいフェミニストから「あの奥様がいなかったらあなたの業績は半分ぐらいだったかも・・・」と言われたこともある。滋子は「精鋭」の専業主婦だった。大学のゼミ卒業生、「職場の人権」のなかまなどときに10人もの来訪者に対しても、彼女は万全の接待に滞りなく、楽しいサロンを用意した。ふたりの息子ばかりではない、滋子は家事はなにもできない研究ひとすじの私も成熟させたのだ。ふと思うに、忍耐づよい彼女の心中には、あるいはこの性別役割分業にあるわだかまりがあったかもしれない。だが、妻がそのことをかこち嘆くことは決してなく、またこれからもないだろう。
 私は研究史の初期から分業構造への労働者の配分という視点から女性に深い関心を寄せ、80年代半ばの戦後の女性労働者の歩みの考察を経て、2000年には『女性労働と企業社会』(岩波新書)を著している。フェミニストのきびしい眼は、私の女性労働分析にその個人生活の体験に影響されたある欠落点を見いだすかもしれない。しかし私はこんな確信を一度も手放したことはない――女性労働の凝視なくして労働研究はついに虚妄に終わること。雇用(稼得)労働と家事をふくめて女性がもっぱら担当しているケア労働とは、社会的にまったく等価であること。今後の日本社会の生きやすさ・生きがたさは、家庭の内と外の双方にわたる広義ケアワークの評価と処遇の安定いかんに決定的に左右されるだろう。そうした視点はそしておそらく、私が妻・滋子から受けてきたケアの尊厳の認識に裏打ちされている。

 2025年の現在、同年齢の私たちは86歳で、文字通り二人三脚、相互ケアの日々である。
 記憶が遠のく老いのみじめさや体力の著しい衰えが痛感される。私のほうは、補聴器に上下の義歯、右膝の痛み、手指で物をつかむ力の弱化、挙措の鈍重、とくに腰を落として座り込んだ姿勢から立ち上がるのに難渋する。そして妻はといえば、私以上に記憶力が衰え、ときどき、私もそうだよと慰めはするけれど、大切なことのあまりの忘却に驚かされる。それに心臓弁膜症に起因する不整脈があり、胸の動悸も起こる。この6月はじめにはCT検査の結果の診断を受ける。おそらくカテーテル施術の見通しである。かつての「精鋭」主婦も、家計関係の書類整理や周到な食事準備など、広義の家事の能力発揮に滞りを見せている。
 それでも、妻はまずは病身でなく、庭の草抜きなど筋肉仕事では私よりはるかに持続力がある。なによりも日常の家事の主担当者であることにやはり変わりない。それでも当然、不慣れながら私は家事担当の範囲を徐々に広げてはいる。痛感するのは、じつに多様な家事というものに必要とされる、ときに過剰では?と思われもする細かい配慮だ。あまり些事を記すのもどうかと思われるが、ともあれ書類や食品の整理、物の断捨離、再生ゴミの束ね、窓硝子拭き、汚れた食器の洗いなどは主として私の仕事だ。よく献立の提案もして、夕食は協力して、食欲の衰えがちな妻もおいしいと言うような料理を一緒につくる。野菜の皮むきや処理は任せ、炒め、揚げ、味付けなどは、叱られながらも私が試みるという次第である。
 身体を動かさなければすぐに部品が錆びつく感じである。4日に一度ほどは名古屋や四日市などへ映画観賞や散策のため出かける。実にゆっくりと8000歩ほどは歩く。毎日の早朝には40分ほど野道や旧東海道を「上皇夫妻のように」散歩する。電動アシストの自転車でスーパーへ出かけもする。必要なものが店内のどこにあるかなど、今では私のほうがよくわかる。

 私が労働問題について社会から執筆や発言を求められることは2024年をもって終わった。遠方に住むふたりの息子はともにどうしてか単身世帯であり、私たちは多くの高齢者の生きがいになっている「孫たちに囲まれて」の大家族の団欒にも恵まれていない。ほかの誰とも会話のない日も多い。「ふたりぼっち」なのだ。それに、例えば海外旅行や高級なグルメなど、体力的にも、また年金外収入がなくなったので家計的にも、できなくなったことが増えている。零落したかつての「中産階級」のつましく地味な生活。貧困層とはいえないとはいえ、それは以前よりはるかに淋しい日々である。
 アイデンティティ(identity存在証明)とは、人がそのために生きている理由ということができる。では、現在の私のアイデンティティはなにか。それは、なによりも老妻・滋子のからだの元気と心の平安、不安からの自由を守ってゆくことにほかならない。今なら私も、自己紹介の機会があれば、かつての妻のように「私のアイデンティティは熊沢滋子の夫であること・・・」と語るだろう。いやほどなく「ひとりぼっち」になるかもしれない。心臓疾患を抱える妻はときに「私がいなくなったらね、これはこうするのよ」と話しかけたりする。それはなによりも考えたくないこと、そう言われると私はいつも不機嫌になる。ほんとうは私たちのどちらも、相方を喪えば生きる気力を保つことが難しいのではないか。だから、少なくともあと数年は、相互ケアをお互いの存在証明とする生活を続けてゆこう。それでいい。そう心定めて、私は今日も雨戸を開ける。

 蛇足ながら、かつての楽しかった海外旅行のアルバムからいくつかのふたりの写真を紹介する。

結婚記念日に歩く(2025年4月2日)

新年1月(2025年1月21日)

 朝6時ごろ起床。雨戸を開ける。新聞を精読する。午前中は40分ほど近隣を二人で散歩し、読書したり(このところは『なぜ今、労働組合なのか』というなにかとものたりない新書とか胸を剔るようなハン・ガンの小説とか)、思いつくままにエッセイを書いたりする。昼食後のシェスタは欠かせない。それからは、日によって、ワンコーナーの断捨離、書類や食品の整理、再生ゴミづくり、簡単な庭作業、ときに好きな映画のDVD(最近では大戦中イタリアの村でのナチスの虐殺を背景にした秀作『やがて来たる者へ』)などで過ごす。そして夕食準備の手伝い。炒めたり揚げたり味付けしたり。野菜の処理は妻に頼むので、調理はまだ修行中である。洗いものでは主役だ。夜はTVでドキュメントや連ドラを2本ほどみて22時には床につく。2週間に3度ほどはふたりで外出するが、検診・診察のほかは、総じて義務のない映画観賞やカジュアル・グルメやウォーキングだ。しかし在宅日でも、日にひとつは「なにか」をしたい・・・。
 妻の心房細動・心臓弁膜症、物価高騰によるまったくの年金生活のゆくえ、なによりも全般的な体力の衰え、そして「トランプが怖い」などいくつかの不安はある。とはいえ、今のところは総じて、心の高揚はともかくとすれば、まずは平穏な毎日である。旧東海道や野道を実にゆっくり歩いているこの80代半ばのふたりに幸あれ!

2025年新春 賀状に代えて       (2025年1月1日)

 あけましておめでとうございます。
 労働研究者としての熊沢誠の仕事は昨年をもって終わりました。FB・HPの場で、その時期の課題、身辺のあれこれ、読書と映画などについてエッセイを綴ることは続けますが、私たちふたりはともに87歳を迎えます。日常的には、ともに体力や記憶力の衰え、時代の激変についてゆけない感性の鈍化を嘆きながらも、いたわり合い助け合って、とくに滋子のよわくなった心臓に気を配りながら、時折のささやかな「祭り」を楽しみつつ、ゆっくりと、もう遠くまでゆけないけれど、歩んでゆきます。
 予想されるところ、世界でも日本でも、平和と民主主義は危うく、生活水準の維持・保障も心もとない2025年。焦慮と鬱屈が募りますが、もうなにもできなくて、その点では個人としてやりすごす心の砦を築くほかありません。しかし、なお発信と行動の機会にも能力にも恵まれたみなさまには、勝手ながら期待させてください――今こそ思い定めてラディカルな思想の営みを!

 末枯の野をわたりゆく日の遠さ 加藤楸邨

熊沢誠/滋子 HP<夢もなく怖れもなく> https://kumazawa.main.jp

大分国東の長安寺にて

2024年 晩秋から初冬、京都への旅

 10月末、私たちはふたりとも発熱、診察を受けるとコロナに感染していた。自宅静養を余儀なくされる。微熱が続き、味覚と食欲がない。体がだるい。何を読んでも集中できず、秘蔵のDVDで大好きな映画をぼんやり観るばかりだった。しかし11月8日、食欲不振を訴えて漢方薬が変わった頃から、不思議にぐんぐん回復した。いつも平熱となり、食欲と味覚が戻った。早朝に30分から40分ほど散歩をするようになった。なにかしようとするする意欲が猛然と戻った。11月23日、はじめは欠席するつもりだった名古屋労働会館での<関生労組の弾圧を許さない東海の会>主催の、京都事件公判報告&パネルディスカッションにもパネラーのひとりとして参加した。もっとも準備不足と病み上がりで発言は持論に留まり精彩制裁を欠いたと思う。それでも、11月26日~27日には、ふたりして、長年の女友だちとともに紅葉を観る京都への旅を敢行した。
 26日は、旧友KやS・I(敬称略)と、勧修寺、醍醐寺、永観堂、真如堂の4古刹をめぐり、会食・歓談することができた。午後は雨だったが、すばらしく充実した観光ができ本当に幸せな1日だった。それというのも、敬愛する労働運動家T・Iが、細かいコースと食事処と時間の周到な計画にもとづいて、レンタカーでご案内をしてくださったからだ。みごとな道選びと時間設定だった。煩雑な会計事務その他もすべて旧友たちに任せた。よぼよぼの老親みたいな私たちを歓待してくださったみなさんに、どれほどお礼を言ってもつくせない。その夜はまたYさんのご紹介で古民家風「自主管理」の民宿に宿泊した。
 27日は、晴天に恵まれ、ふたりで夕方まで、休み休みしながら実にゆっくりと東山を散策した。京都市役所からバスで銀閣寺前⇒哲学の道⇒法然院⇒また哲学の道⇒永観堂(門前のみ)⇒「料庭」八千代での昼食⇒南禅寺という懐かしいコース。法然院のあたりから次第に紅葉が濃密になる。陽光に輝くその美しさに魅せられた。南禅寺では方丈を拝観し、紅葉が彩る庭園の続く長い回廊をめぐる。こんなことがまだできるのね!と妻がつぶやく。彼女は幸せと感じればそれでいい・・・。境内に出てまた夕陽に輝く紅葉を見納め、疲れた足を引きずって地下鉄蹴上を経て京都駅に至る。近鉄を乗り継いで帰宅したのは20時前だった。今日は16000歩ほども歩いている。
 11月27日の二人の散策をくわしく書いたのは、もうこんな機会は、私たちのつましい余生にはもうないかもしれないと感じたからだ。この間の紹介したいスナップは、23日のイヴェント、26日のみんなとの観光・会合などいくらもあるけれど、きりもなくここでは27日の京都の紅葉などに限りたい。

 写真の紅葉の背景は、順を追って、永観堂/哲学の道、川向こう/法然院の門/哲学の道、川向こう/永観堂/同上/同上/南禅寺下の料庭「八千代」で/南禅寺、正因庵白壁に被さる紅葉/南禅寺法堂前のふたり/南禅寺、方丈の庭/南禅寺境内ふたたび、法堂前/同上、背景は三門/蹴上への途上で 

誕生日を迎えて(2024年9月23日)

 9月21日、86歳の誕生日を迎えた。このたびの「認知症基本法」によればこの日は「認知症の日」らしい。苦笑するほかはない。まぁ同じ年の妻とともにMCI(軽度認知傷害)の門口には来ているのかなぁと思うこの頃だからだ。FBではほぼ70人ほどの方から誕生日メッセージを頂いた。そのうち15人ほどの友人の言葉には、総じて「老いの一徹」みたいな私の発言にもまだなにがしかの意味はあるのかもと感ることができて、元気づけられる。
 それでも、この1年ほどの間に、私の社会との公的な関わりはすべて終わったと思う。著書の刊行、論文や書評の執筆、マスメディアのインタビューなどの、おそらく最後の機会は、不思議にこの1年に集中した。もう社会的な発言が求められる可能性はほぼないだろう。今後はエッセイ「労働研究回顧」などをFBやHPに気ままに綴るだけである。ただ、この10月はいささか緊張して迎える。月初に懸案の妻の不整脈・心臓弁膜症の治療方針(検査入院、施術など)が決まるばかりか、中旬には社会政策学会書評分科会で最後の著書『イギリス炭鉱ストライキの群像』(旬報社)が取りあげられるのにかこつけて妻とささやかな観光を楽しむため、大分旅行を「敢行」する予定だからである。
 そのために、当面は、ふたりの体力を維持するため、相互ケアのパンクチュアルな日々を送る。30分~1時間ほどの早朝ウォーキング、時間を限定した庭の草取り、食欲の出るような食事の用意、週にいちどほどの外出・・・といった、まことに地味な生活である。TVで見るのは1時間以内のドキュメントが多いけれど、かなり貯蔵しているDVDで2.5時間~4時間近い名画の大作を見るのは私たちの大きな楽しみだ。そういえば、21日、「誕生日記念」として深夜まで見たのは、愛着このうえない『ドクトル・ジバゴ』だった。その起伏に満ちた物語の魅力、その語りの完全な説得性、ラーラ(ジュリー・クリスティ)の優しさと心意気、美しい風景と音楽。なんというすばらしい作品か。今回あらためて注目したのは、D・リーン監督の細部の心配りとともに、ロバート・ボルトのシナリオの卓越であったが、思えば私は半世紀も、こんな映画に人間と社会の光を教えられて生きてきたのだ。ともあれ、雨戸をあけ雨戸を閉める間に、日記に何か特記できることをひとつはやりたいと思う。
 最近のスナップ写真をいくつか。①9.15脱原発四日市行動でリレートークする私/② 名古屋の地下鉄で知り合ったネパール人家族/③大好きな喫茶店、名古屋芸文センターならびの倉式珈琲でのランチ/④矢場町のセンチュリー劇場で時間待ち/⑤書斎の日常。2011年ミャンマー旅行で買ったTシャツをまだ着ている。

この頃のこと(2024年8月10日)

 私はもともと酷暑・酷寒にはつよいはずだったが、7月半ばからの異例の猛暑は、私たちの体力の衰えのせいか耐えがたく、この頃は元気なくクーラーの中へ引きこもりがちで、シェスタのあとは、秘蔵の名画のDVD、小説の読書、室内の断捨離、食欲の出そうな食事の工夫などで過ごす。雑草に覆われる庭の草取りや枝切りに外へ出るのもためらわれる。なにしろ桑名や名古屋は、連日40度近いのだ。まして心臓弁膜症で投薬・経過観察中の妻には無理をさせられない。
 それでも本能的に、ときどきは外出したほうがいいと思う。以下、スナップは、ひとり気を吐く白のサルスベリ/7.4滋子86歳の誕生日・都ホテルの懐石レストラン/ 7.15四日市。韓国映画『密輸1970』をみた後、鰻丼の夕食までの時間を過ごした博物館でのツーショット/7.21、すでにFB投稿で紹介したが、四日市のシンポジウム「日常生活での憲法の空洞化を問う」で発言する私/ 7.28名古屋での「関生労働組合弾圧を許さない東海の会」で、早口ながら表情とゼスチャー豊かに魅力的な講演を聴かせた望月衣塑子さんと私(関西生労組関係者の写真は非公開とのこと)/8.3桑名の酷く蒸し暑い8.3の夜、あえて出かけたコンチキチンの石採祭り――である。

(写真はクリックすると拡大表示されます)

2024年夏、私たちの外出        (2024年7月6日)

 7月4日、連日の猛暑のなか、妻・滋子は私より2ヵ月半ほど早く86歳になった。この頃、私たちは、体力的にも経済的にも「まだできること」を確かめながら日々を過ごしている。そんな私たちふたりの典型的な外出のなかみは、名古屋へ出て、季節に応じて公園の花々を楽しみ、かならず映画をみて、書店をのぞき、8000~10000歩ほどウォーキングして、リーズナブルな行きつけのレストランで夕食をとることだ。先月末には、名駅地下街の「廣寿司」で数量限定特価1000円の「にぎわい弁当」を昼食とし、伏見のミリオン座で『ホールドオーバーズ』と『あんのこと』(6.29のFB投稿参照)の二本を観て、伏見から名駅まで歩き、ミッドランドの「文化洋食」でオニオンスープとハヤシライスの夕食をとった。この日、歩いたのは7500歩、総経費は17000円ほどだった。
 交通費、わけても近鉄の値上げが痛い。名古屋への往復だけで2400円ほどかかる。高齢者の外出を勧めるなら交通機関のシルバー料金制度をつくるべきだろう。しかし、心臓弁膜症で投薬・経過観察中の妻も、この日も、スピードは遅いが歩き通した。「典型的な外出」はまだできるようだ。とにかくふたりとも身体を動かしたほうがいい。
 それにしても「もうできなくなった」ことはあまりに多い。2019年が最後だった海外旅行、ハイキング、筋力や耐久性やバランスの要る庭や屋内での作業はもうできない。ふたりとも認知能力や整理能力や記憶力が衰えて、いつももの探しをしている。小1時間ほどのシェスタは不可欠だ。幸い腰、膝、脊柱などの障害も重い内臓疾患もまぬかれていて、散歩や愛用の電動アシスト自転車でのショッピングはまだ可能だが、全体に行動はのそのそしている。外食は頻繁だが、年金以外の収入が皆無になった今は、後10年ほどのありうる大きな出費――このところ相次ぐ不可避の耐久材の買替え、できなくなった庭作業などの外注、必要になるかもしれない多額の医療費など――に備える貯蓄が心配で、2人で3万円ほどかかる懐石やフレンチのレストランには、よほどのハレの日でなければ脚が遠のく。その「ハレの日」が来る見通しはさしあたりない。
 当面の私の最大にしてほとんど唯一の関心は、いつも二人三脚なのに、もう十分に元気とは言えない妻・滋子の心臓弁膜症のゆくえである。どうしても相互ケアの生活が続く。いま私は、午前中は日本の精神史などの書物を繙くけれど、午後からは、いまだ家事の担い手とは言えないまでも、家事修業、家事手伝いの日々である。それもいい。このところ、わが師、同世代の方々、信頼する若い友人たちの逝去、深刻な病苦、コミュニケーションのできないひきこもりなどの報にしきりに接する。私たちはまだ恵まれているのかもしれない。私たちは残存能力を探り当ててなお生き延び、この世がどこまで生きづらくなるかを見届けよう。私が担当する洗いものをしながら、そんな思いが胸に去来する。

さくら花幾春かけて老いゆかん・・・(2024年4月)

 敬愛する大野夫妻に誘われて富田の十四川堤での観桜が4月5日。翌6日には、名古屋は鶴舞公園の満開の濃密な桜を満喫した。すさまじい数のグループがさんざめき、人々は花見さえあれば幸せという感じ。私たちもほっこりした気持になる。そこから伏見へ回ってミリオン座で、『アイアンクロー』という映画を観賞。栄光のレスラー一家の息子たちの名声を求めての相次ぐ悲劇を描く、なかなか切ない佳作だ。そこから名古屋駅まで歩き、高島屋の「ビューレ・ノアゼット」でリーゾナブルなフレンチのコース(いつものように別々の料理でシェア)を楽しむ。とくに仔羊がおいしかった。結局、休み休みだったが、この日は1万歩以上歩いている。まだこうした外出ができるということを確認したかった。
 そして4月8日、桑名医療センターでの妻・滋子の心臓診察に付き添った。18日間の投薬の経過観察の後である。血液、尿、エコー、食事指導のあと循環器内科の診察を受ける。医師は、腎臓機能はOK、肝機能数値は少し改善したが、4年前より不整脈を伴う心臓弁膜症は悪くなっていて「中程度」とのこと。エコー検査結果には、「壁運動評価」はnormalだが、僧帽弁は「石灰化:後尖」、大動脈弁は「石灰化:三尖とも。開放制限(+)」診断は「中程度AS?疑い」、明かなasynergy(-)と書かれている。少し落ち込んだ。ただ急を要する症状ではなく、減塩の食事療法とともに、前と同じ利尿剤アゾセミド錠、スピノロラフトン錠を服用して、さらに50日の経過を見る。それでよくならなければ半年~1年のうちに、可能なら約2週間の入院を要するカテーテル施術も考える。それが担当医の結論だった。その他、特段の生活指導はない。
 妻の心臓弁膜症がどの程度深刻なのか、この医師の処置が適切なのか、本当のところわからないけれど、まだまだ大丈夫と信じたい。前の投稿に記したように、滋子を疲れさせないように心がけて、ゆるやかに生きてゆきたいと思う。それでいい。
 昨9日は、妻に指導・監督されながら昼食に炒飯を、夕食にハンバーグ、味噌汁、にんじんのグラッセなどをつくった。近隣の桜堤を散歩し、DVDで『ア・ヒュー・グッドメン』というアメリカの軍事法廷ものを観た。まぁ、ふたりの生活のありようは、専門研究の仕事がなくなった早春以来の常態とあまり変わらないだろう。
 馬場あき子の名唱「さくら花幾春かけて老いゆかん・・・」の後段は「・・・身に水流の音ひびくなり」と続く。80代後半はまさに「余生」である。それでもなお「身に水流の音」は聴きつづけたい。

春立つ日の結婚記念日に (2024年3月25日)

 3月17日~18日、伊勢志摩に遊ぶ。国指定重要無形民俗文化財となっている安乗の人形芝居(浄瑠璃)観賞と、安乗ふぐ、的矢牡蠣のコース、賢島宝生苑での伊勢エビやアワビの懐石コースの味覚を中心にした実にゆったりしたツアーだった。神社の境内で上演される人形芝居は、ヒロインたちの微妙な表情も微細な手指の動きもみごとに表現して、八百屋お七が恋のため御法度の火の見櫓の半鐘をうつ狂乱(伊達娘恋緋鹿子)も、実の娘と知りながら巡礼おつるを突き放すほかない母・お弓の嫋嫋たる悲しみの悶え(傾城阿波の鳴門)も、心に沁みる。本当に得がたい体験だった。
 しかしそれはともかく、神社から登って半キロの、「喜びも悲しみも幾年月」で有名な安乗灯台に妻・滋子は疲れて同行できなかった。3月20日にも、名古屋の労働会館で行われた「関西生コン労働組合つぶしの弾圧を許さない東海の会」主催の「学習と交流のつどい」にも、妻ははじめて同行せず休息をとった。なぜこんなことをわざわざ書くかというと、私たちはこれまで、ひとりで行くといぶかしがられるほど、どこへ行くのも一緒だったからだ。
 この2月から、妻は不整脈・心房細動が続き、肝臓機能指標の数値が上昇するなど体調が不良だった。息切れ、めまい、むくみなど目立った症状はないけれど、疲れやすく、長距離や早足の歩きができなくなった。私につかまってゆっくり歩く。海鮮グルメはともかく総じて食欲不振もある。3月21日には、ふたりして電動アシスト自転車でかかりつけの医院の紹介状を受けとり、そのまま桑名の医療センター(KMC)の循環器内科に赴いた。午前9時に受付け、血液採取、レントゲン、心電図の検査を経て診察を受ける。KMCは組織的な手続きの効率性にすぐれた大病院だが、家族に付き添われた高齢の患者がとても多く、今日の診察には予約がなかったためもあって、待ちに待ち、すべてが終わったのは実に午後3時すぎだった。外来診療の予定は正午まで。しかし丁寧な対応である。勤務医という仕事はこうして過重になるのだと痛感したものである。ちなみに薬代をふくむすべての軽費は、2割負担で6000円弱だった。
 診察結果は、心房細動は続いており、心不全や心臓弁膜症の可能性もあり、肝機能の衰えもある、(予想外だったが)利尿剤を投与して(肝臓と関わる?)心臓の負担の軽減を図り、三週間ほど様子見して、よくならなければ、高齢であることも考慮しながら手術も視野に入れる――というものである。私たちが正確に理解した自信はないが、信頼できそうな医師だった。次の予約診察は4月8日である。
 事態がどれほど憂慮すべきものかよくわからないけれど、私たちがこれから安静の生活に入るほかないことは疑いを容れない。心臓が大丈夫でないのは怖い。私の当面の最大の、いや唯一の関心事は妻・滋子の心臓である。ふたりして緊張のない相互ケア中心の生活に入っていくことになる。妻に任せっきりだった家事もできるだけ担っていきたい。対処すべきことに対処した3月21日はが私たちの62年目の結婚記念日であったことに気づいて苦笑する。
 幸いというべきか、著書の刊行はもとより、研究論文や書評の執筆も、講演も、その記録の修正・校閲も、おそらくこの早春をもって、私には最後の機会になるだろう。朝日新聞3.15掲載の、日本の人事考課を語るインタビューに多くの働く人びとから共感のメッセージが相次いだことは、そんな私にとって最後の光芒であるように思われる。 
 *写真は上記、安乗の人形浄瑠璃。簡易カメラの望遠でときにピントが甘い。