もう数年も以前、故中岡哲郎先生の薫陶を受けた研究者たちのパーティで、妻の滋子が「私の唯一のアイデンティティは熊沢誠の妻であることで・・・」と自己紹介したことがある。そのとき私は、ああ私はこんなにも滋子の人生を「占有」してきたのだとふりかえり、言いようのない忸怩たる思いに胸を衝かれたものだ。
もっとも、私は60年にわたって一途に労働研究に没頭し、文庫版・新書をふくめ28冊の著書を刊行したけれど、その間いつも、愛妻家であり子煩悩の父親ではあった。膨大なアルバムには家族との楽しい旅、行楽、屈託のないくつろぎの映像に溢れている。とくに息子たちが社会のきびしい現実にふれるまでの80年代末頃までは、これがいつまでも続けばいいと希うほどの父親史の黄金時代だった。わけても、1979年のイギリス留学後と、長男が大学3年、次男が大学1年の1987年に敢行した、いずれも1ヵ月にわたる4人のヨーロッパ旅行は家族史の忘れがい画期だった。思えば1962年の結婚このかた、滋子とはいつも一緒だった。踏査や学会もあわせて63回の海外旅行のうち、53回は妻が同行している。今でもほとんど日常化している劇場と在宅DVDで観賞する映画も、すべて一緒に見ている。数多の小説の読書体験もかなり共通する。一方、滋子は私の研究についても控えめなヘルパーであり、草稿の最初の読者であり校正者でもあった。
それでも、私が性別役割分業という慣行のなかにぬくぬくとしてきたことは間違いない。妻・滋子はいっさいの家事・育児の担い手だった。ある親しいフェミニストから「あの奥様がいなかったらあなたの業績は半分ぐらいだったかも・・・」と言われたこともある。滋子は「精鋭」の専業主婦だった。大学のゼミ卒業生、「職場の人権」のなかまなどときに10人もの来訪者に対しても、彼女は万全の接待に滞りなく、楽しいサロンを用意した。ふたりの息子ばかりではない、滋子は家事はなにもできない研究ひとすじの私も成熟させたのだ。ふと思うに、忍耐づよい彼女の心中には、あるいはこの性別役割分業にあるわだかまりがあったかもしれない。だが、妻がそのことをかこち嘆くことは決してなく、またこれからもないだろう。
私は研究史の初期から分業構造への労働者の配分という視点から女性に深い関心を寄せ、80年代半ばの戦後の女性労働者の歩みの考察を経て、2000年には『女性労働と企業社会』(岩波新書)を著している。フェミニストのきびしい眼は、私の女性労働分析にその個人生活の体験に影響されたある欠落点を見いだすかもしれない。しかし私はこんな確信を一度も手放したことはない――女性労働の凝視なくして労働研究はついに虚妄に終わること。雇用(稼得)労働と家事をふくめて女性がもっぱら担当しているケア労働とは、社会的にまったく等価であること。今後の日本社会の生きやすさ・生きがたさは、家庭の内と外の双方にわたる広義ケアワークの評価と処遇の安定いかんに決定的に左右されるだろう。そうした視点はそしておそらく、私が妻・滋子から受けてきたケアの尊厳の認識に裏打ちされている。
2025年の現在、同年齢の私たちは86歳で、文字通り二人三脚、相互ケアの日々である。
記憶が遠のく老いのみじめさや体力の著しい衰えが痛感される。私のほうは、補聴器に上下の義歯、右膝の痛み、手指で物をつかむ力の弱化、挙措の鈍重、とくに腰を落として座り込んだ姿勢から立ち上がるのに難渋する。そして妻はといえば、私以上に記憶力が衰え、ときどき、私もそうだよと慰めはするけれど、大切なことのあまりの忘却に驚かされる。それに心臓弁膜症に起因する不整脈があり、胸の動悸も起こる。この6月はじめにはCT検査の結果の診断を受ける。おそらくカテーテル施術の見通しである。かつての「精鋭」主婦も、家計関係の書類整理や周到な食事準備など、広義の家事の能力発揮に滞りを見せている。
それでも、妻はまずは病身でなく、庭の草抜きなど筋肉仕事では私よりはるかに持続力がある。なによりも日常の家事の主担当者であることにやはり変わりない。それでも当然、不慣れながら私は家事担当の範囲を徐々に広げてはいる。痛感するのは、じつに多様な家事というものに必要とされる、ときに過剰では?と思われもする細かい配慮だ。あまり些事を記すのもどうかと思われるが、ともあれ書類や食品の整理、物の断捨離、再生ゴミの束ね、窓硝子拭き、汚れた食器の洗いなどは主として私の仕事だ。よく献立の提案もして、夕食は協力して、食欲の衰えがちな妻もおいしいと言うような料理を一緒につくる。野菜の皮むきや処理は任せ、炒め、揚げ、味付けなどは、叱られながらも私が試みるという次第である。
身体を動かさなければすぐに部品が錆びつく感じである。4日に一度ほどは名古屋や四日市などへ映画観賞や散策のため出かける。実にゆっくりと8000歩ほどは歩く。毎日の早朝には40分ほど野道や旧東海道を「上皇夫妻のように」散歩する。電動アシストの自転車でスーパーへ出かけもする。必要なものが店内のどこにあるかなど、今では私のほうがよくわかる。
私が労働問題について社会から執筆や発言を求められることは2024年をもって終わった。遠方に住むふたりの息子はともにどうしてか単身世帯であり、私たちは多くの高齢者の生きがいになっている「孫たちに囲まれて」の大家族の団欒にも恵まれていない。ほかの誰とも会話のない日も多い。「ふたりぼっち」なのだ。それに、例えば海外旅行や高級なグルメなど、体力的にも、また年金外収入がなくなったので家計的にも、できなくなったことが増えている。零落したかつての「中産階級」のつましく地味な生活。貧困層とはいえないとはいえ、それは以前よりはるかに淋しい日々である。
アイデンティティ(identity存在証明)とは、人がそのために生きている理由ということができる。では、現在の私のアイデンティティはなにか。それは、なによりも老妻・滋子のからだの元気と心の平安、不安からの自由を守ってゆくことにほかならない。今なら私も、自己紹介の機会があれば、かつての妻のように「私のアイデンティティは熊沢滋子の夫であること・・・」と語るだろう。いやほどなく「ひとりぼっち」になるかもしれない。心臓疾患を抱える妻はときに「私がいなくなったらね、これはこうするのよ」と話しかけたりする。それはなによりも考えたくないこと、そう言われると私はいつも不機嫌になる。ほんとうは私たちのどちらも、相方を喪えば生きる気力を保つことが難しいのではないか。だから、少なくともあと数年は、相互ケアをお互いの存在証明とする生活を続けてゆこう。それでいい。そう心定めて、私は今日も雨戸を開ける。
蛇足ながら、かつての楽しかった海外旅行のアルバムからいくつかのふたりの写真を紹介する。




