6.22のFB投稿で紹介したように、今年の晩夏か初秋、旬報社から新著『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動・1980年代のレジェンド』が刊行されることになった。あと本に転載したい写真へのイギリスの許諾という問題は残っているが、6月下旬、私の当面なすべき作業は総て終えた。
このテーマを書き残そうと思い立って内外の文献の再精読とノートづくりをはじめたのは昨年の5月、構想をまとめたうえで執筆したのは84歳の誕生日の9月21日から年末まで。今年に入ってからは出版依頼の働きかけの難航。敬愛する拙著担当の元編集者のアドヴァイスを容れた改稿。4月末に刊行が決まってからは旬報社のしかるべき指摘に従う小修正や略年表づくりその他の作業で例外的な繁忙が続いた。
この1年あまり、2010年代までのように週に6日ほどパソコンやデスクにへばりつく「労働」は体力的にもうできなかった。FBにたびたび紹介したように、間遠な講演、時折の研究会や市民運動への参加、行楽、新書や小説の読み、そしてとくに夜の映画観賞などは欠かすことなく、週4日~5日ほど、フルタイム(午前と午後)とパートタイム(午前のみ)を組あわせて働くだけだった。とはいえ、それはイギリスの坑夫たちの実像を掬おうとすることでいつも頭がいっぱいの心労の日々だったことは間違いない。早朝覚醒がつづき、それゆえのシェスタは毎日のこと。 20分ほどのストレッチ体操や散歩は日常のこととしたが、少しやり始めていた家事手伝いもしなくなり、庭の花木の手入れもしなくなった。そしていちおう「任務完了」になった今、疲労の蓄積のゆえか著しく体力が衰えていることに突然気づく。さあ、遊びに出かけよう、迫られている本格的な断捨離をしよう、家事も手伝おうという気力が涌いてこないのである。例えば6月30日午前、私は同志社大学に招かれて2コマの講義をする予定であるが、以前ならば、前泊の29日と30日の講義の後に古刹などを訪れる予定を立てるのが常であったが、交通の便や今の脚力などを考えると今は億劫なのである。こんなことは他人の知ったことではないが、この時期の備忘録として仕事後の体調を書いておこう。
要するに身体がだるい。わずかの時間、歩いたり庭木の枝を刈り込んだりしただけでひどく疲れ、日に何度も昼寝したくなる。前に座骨神経痛の診断を受けてそのあと忘れていた左膝の痛みが再発した。もっとも憂鬱なのは歯の不具合だ。かんたんな経過として、上の5枚の差歯が緩んだので行きつけの歯科医の勧めで取り外し、いったん仮付けしたのだが、その後1週間ほどは激痛でまともに食事ができなかった。約1ヵ月後、痛みはなくなったが、その後に崩落、その後何度つけなおしても2日後くらいにはころりと落ちる。最近、医者は方針を変えて下部と同じく入歯にすることに決め、それが取り付けられる27日まで前歯なしの状態なのだ。なんかとても老けた感じと妻は言う。それは仕方ないが、長いもの、硬いものが噛めず、意気阻喪して食欲がない。さらに不愉快なのは、体調とは無関係ながら、窓口負担が2割になって、何回もの「治療」に、これも値上げになった交通費に加えて1回3000~4000円はかかることである。この頃、諸物価高騰で私たち年金生活者はとかく節約志向になっている。万事、加齢が進むとなにかとみじめ感に誘われる。
程度の違いはあれ、同年齢の妻と同様、物忘れや難聴も進んでいる。しかし思えば、これまで少なくとも役場の検診では内臓疾患を免れてきた私たちは、まだ恵まれているのかもしれない。頻繁に休みながらだが、まだ1万歩くらいは歩ける。もともと猛暑酷寒に相対的につよい私は、少しゆっくりすればまた元気なると信じたい。しかしいずれにせよ、今年後半は人生の転機となるだろう。手入れなく荒れた庭に咲く紫陽花やノウゼンカツラが心に和む。
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身辺雑記―2023年の梅雨空
戦争の危機――問われるべき国民意識 (2023年6月16日)
戦後の日本人にとって憲法9条こそはすべての人倫の基礎である。幼少の頃からそう信じてきた私は80歳代半ばになったいまはじめて、日本は本当に戦争に巻きこまれるかもしれない、あるいは戦争を始めるかもしれないという不安にとらわれている。2015年安倍内閣によるアメリカに対する集団自衛権行使の約束と、岸田内閣による敵基地攻撃能力整備・軍備倍増の安保三文書の閣議決定を併せ考えると、専守防衛の原則をふみにじって日本が海外においてさえ軍事行動を起こす可能性は明かだからだ。それは過剰の危機意識でもたんなる杞憂でもない。
だが、いっそう不安なのは、ふつうの戦争のできる国への歩みに対する国民の危機意識の希薄さや欠如である。世論調査は時期や設問タームによって変動するとはいえ、2022年から23年初夏にかけて、敵基地攻撃能力保持については賛成が56%、反対が38%であり、しかも若い世代ほど支持率が高い(朝日新聞23.1.6)。「防衛力強化」に関する質問では賛成は68%、反対は23%(読売新聞22.11.6)。憲法9条を改正して自衛隊を軍隊と明記することについては、賛成51%、反対33%である。女性よりは男性のほうがはるかに賛成が多いことが印象的だ(朝日新聞22.7.4)。国民は増税に反対するけれども、軍事費大拡大には抵抗するわけではない。その背景にあるものは多分、実に80%の人が賛成するという、覇権主義的な動きを示す中国を「脅威」とみる(読売新聞22.11.6)おそらく過剰の警戒感であろう。
それにしても、少なくとも20%強から40%弱の国民はなお、以上の戦争準備に反対の立場である。問題は、この少数とはいえない反対勢力が、選挙運動以外の反戦・憲法擁護の社会運動を、力強い質量をもって展開できないでいることであろう。ここから思うに、いま諸組織のリーダー層は、1970年~84年生まれの40歳から50歳代前半のいわゆるロスジェネ世代である。91年~2001年の就職氷河期に社会に出たこの世代は、それからの生活の明暗が階層的にくっきり分かれる存在であるが、成功者も不成功者も、それぞれにその生活条件は自己責任とみなされるゆえに、厳しい選別のなか競争に生きてきた。その惰力は、連帯の労働運動や社会運動によって体制の構造を批判し、自己責任論を乗り越えてゆく発想をもたなかったことである。ロスジェネ世代は、その思想形成期にそのような連帯の運動の営みを経験したことも、みたこともないのだ。その世代が、今や、人びとが日常的に属する界隈――職場や地域や学校の保護者会や地方行政における小ボスである。この小ボスの卑俗な現実主義に支えられる慣行が、総じて強力な同調圧力を瀰漫させる。個人の受難を見過ごさず社会の構造的矛盾を指摘しようとする少数者は、KY、空気が読めないものとみなされ孤立させられることを怖れて黙り込むのである。職場での、労働組合の会議での、ボスの提案に対する批判の完全な欠如は、その典型的な姿にほかならない。
では、このロスジェネ世代の子どもたちである10代、20代の若者の意識状況はどうか。青年男女は一見、体制に逆らわず競争社会に順応するようにとの両親の説教を無視するかのようにみえる。だが、現時点の学校では、社会の構造的矛盾や日本近現代史の暗部については教えられ、学ぶことはもうほとんどない。そればかりか彼ら・彼女らが日常的に属する教室がすでに強力な同調圧力の界隈なのだ。社会や政治の深刻な問題を友だちに語りかける若者は変わり者の「そっち系」として疎外される。そんななか、若者の間では、およそ社会を批判すること自体が、自己責任や自分の努力不足を忘れて他を責めるはしたない行為と受け止められているかにみえる。「中立」の名目をひとつ覚えとする教師もまた、この傾向に棹さしている。学校では、街頭の市民団体のビラを決して受けとらないように「指導」しているという。
各地にみることができる、非正規労働者たちの、さまざまの被差別当事者たちの社会運動に私は希望を見いだす。だが、他の主要国とくらべれば、その厚みの無さ、若者参加の乏しさは否定できない。こうして私の日本の国民意識の評価は絶望に近づく。そしてこれ以上、私は議論を進めることはできないのである。
とはいえ、労働研究の眼から見れば、50代になっても非正規労働者のままであり、ひきこもりも増えているロスジェネの不成功者も、ブラック企業のいじめと収奪に翻弄される若者も、苦しみの根源は労働問題にほかならない。その根源への挑戦はひっきょう企業の枠を超えた地域別、産業別、職業別労働組合によってしか果たされないだろう。働く人びとが、自己責任論の虚妄性に気づき、多様な労働組合運動の営みをはじめる日がきっと来る。それが市民運動と連携して<非戦・当事者発言権・侵されない人権>を掲げる護憲運動の器にもなる。その確信を私はまだ捨てていない。
*(図版はマルク・シャガール「戦争」)