学校と教師――問題領域間の関連について(2023年10月23日)

 

文部科学省は最近、学校の諸相について、たとえば次のよう調査報告を発表している。        

①2022年、小中学校の不登校は約22.9万人、いじめは約68.2万件、暴力行為は約9.5万件。いずれも過去最多であった(朝日新聞23.10.4)。不登校は子どもたちにとってかならずしも否定されるべき選択ではなく、いじめの増加は「認知」が網羅的になったことがその一因であるとはいえ、社会問題として浮上する「学校問題」が深刻化の一途を辿っていることは疑いない。
②教師は平日、小学校では11時間23分、中学校では11時間33分も働く。22年、残業時間は、小学校で月に82時間、中学校で100時間であった(NET情報)。教師の精神疾患の激増はすでに旧聞に属する。教職は現在、もっとも長時間労働の職業のひとつということができる。
③公立学校教師の労働組合組織率は、21年、30.4%、新規教員の加入は23.4%、日教組組織率は20.8%である。いずれも76年,77年このかた連続的な低下をみている(NET情報)。むろん組織率の動向は表層的な現象だ。明かなのは教師自身の発言力の著しい低下にほかならない。

 このエッセイは、いずれも重層的な原因のある①②③それぞれの状況を立ち入って考察するものではない。私がここで問いたいのは3者の関連であり、その関連についてのマスメディアと「世論」(国民、あるいは子どもの保護者)、そして教師自身の認識である。それらをかりに「世論」と総称しておこう。「世論」はむろん①を深刻な問題と意識し、②は「先生の志望者を減らしもする」劣悪な労働条件として憂慮する。けれども、教師の過重労働が生徒たちとの豊かなコミュニケーションの時間や、学校でのトラブルに対する教師たちの協同対処のゆとりを奪っていることにはなかなか思い及ばない。すなわち②の労働問題が①の学校問題=社会問題が棚上げされるひとつの有力な原因であるという理解は、なお稀薄なのである。
 だが、①②③の無視できない関連に関する「世論」について私がもっとも批判的に検討したいポイントは、現時点の日本における③教師の労働組合運動への徹底的な無関心にほかならない。今日では、「世論」のなかに、③ふつうの教員の発言権・決定参加権が②教師の労働問題のありようを左右するはずという認識すらすでにない。いや当の教師たち自身でさえ、「教師という労働者・職場としての学校」という観点をすでに失っているかにみえる。 

 およそ1980年代以降、もともと労働三権が剥奪されていたうえに、行政⇒教育委員会⇒校長と下降する管理体制が強化され、教員個人への人事考課が浸透するなかで、教師たちは教育実践と学校経営に関する連帯的な自治の慣行を次々に失っていった。「教育の荒廃」を日教組の「偏向教育」のゆえとする自民党右派の圧力もこれに棹さした。活発な討論の場であった職員会議はいまや管理者からの単なる伝達機構に堕している。教師間の助け合いの協同精神も風化し、教師たちは、個別の査定を怖れ、「私の教室に起こっている問題をむしろ同僚や校長に知られたくない」という気持から、社会のひずみの反映にほかならない学校問題に、誰に相談することもなく孤独に対処するようになった。教師の組合離れはそのひとつの結果である。要するにふつうの教師は今日、学校の労働についての主体的な発言権を失っているのだ。もし教師たちが学校においてみずから労働者としてのニーズや、日ごろ夢想する「教育の理想」の一端でも主体的な連帯行動に噴出させることができれば、それが②労働条件にも③学校問題=社会問題の改善にも大きな役割を果たすことができるのはいうまでもない。
 たとえばアメリカ・ロサンジェルスの公立学校の教師たちは2019年、学校の民営化に抗議し、担当生徒数の抑制、新しいカリキュラム創造、極貧家庭の子弟への支援などの要求も掲げて「合法」とはいえないストライキを敢行している。そのピケ(!)には、保護者や子どもたちも加わった。そんな投企もありうるのだ。私たちの「先生方」の発言と行動のあまりの萎縮を、アメリカやイギリスで頻発する教員ストはふと顧みさせる。そういえば、今の教師たちは、「政治的偏向」とみなされるのを極度に怖れて、社会の暗部について生徒たちにみずからの見解を決して語らず、権力と闘う姿の背中を次世代に見せることはまずないという。

 もういちどいえば、「世論」は、①の事象に現れる社会問題化した「学校問題」に危機感を抱き、②教員の過重労働を望ましくないと認識するけれど、ふたつは別個の問題であるかのように感じ、両者の関係には深く立ち入らない――日本の低賃金に関して労働組合の行動の不十分さ、たとえばストライキのまったき欠如を問うことがないのと同様に。そして③教育労働運動の衰退にみる教師の主体的な営みの萎縮については、いまや完全に関心の外にある。それは①にはもとより、②にさえも無関係であるとみなされている。
 そうした多数の常識の帰結は、①も②も、その克服や改善の期待はすべて行政や法律に委ねられることだ。今の広義の教育問題の現状を規定しているのは予算決定を采配する政権の政策である。それゆえ、現状の改革を望む勢力の戦略は結局、政権交代、その方途は選挙での勝利に収斂するのである。どんな政権のもとでも、労働運動が学校を含むおよそ労働現場での労働者の発言権・決定参加権を与件とさせる、そんな欧米ではふつうのありようへの絶望が、すでに私たちの国の「空気」だからである。

 いくらかふえんすれば、ことは教育・学校の問題ばかりではない。医療にせよ介護にせよ生活保護にせよ、事業体のサービスの質と量の不備・不足は、対人サービス職労働者の要員不足や低賃金や雇用の不安定や離職によって引き起こされている。その所以はそして確かに、予算、制度、法律など上部の利権関係や権力構造に求められる。それゆえ、今の日本に軍備拡張などのゆとりはない、広義の福祉に資金を回せという政治の場での追及はまぎれもなく正当であろう。だが、その政治的追及の熱量も、しかるべき労働条件とディーセントなサービスを求める現場の対人サービス担当者の連帯的な産業内行動(industrial action)、ときには叛乱によってこそ保証されるのだ。そうした労働運動は、利用者のニーズをみつめ続けることにおいて市民運動と連携することもできる。現時点の日本では総じて、この労働現場からの突き上げが欠けている。それゆえ、たとえば訪問介護ヘルパーが人権尊重的な介護のために一人の利用者にさきうる時間を延長する努力は、選挙のとき福祉を重視する政党に投票することに限局されるのである。
 エッセンシャル・ワーカーとしての対人サービス職の人びとがますます増えてゆく時代である。そうした労働者は、日常的に、直接的に、仕事を続けてゆける労働条件と、公共サービスの利用者・受給者のヒューマンなニーズを汲む仕事の遂行を求める。そのために
は組合づくりの営みが不可欠となるだろう。「世論」はさしあたり寒々としているけれど、そう願うのは、いつまでも、私のような産業民主主義の信奉者のみではあるまい。

『福田村事件』の達成 (2023年10月2日)

 1923(大正12)年、関東大震災直後、多数の朝鮮人が虐殺される異様な状況のなか、千葉県福田村で9月6日、在郷軍人会にあおられた村民たちが、香川県からきた被差別部落民の薬行商人9人を殺戮した。映画『福田村事件』は、この惨劇の史実にゆたかな想像性を加えて作劇されている。監督は森達也、脚本は佐伯俊道・井上淳一・荒井晴彦。日本近代史の暗部を語ろうとしない権力の歴史意識。今日ふたたび「ふつうの」市民のなかに根をはりつつある恵まれない少数者への差別と排除への同調圧力。この風潮を報じるはずのマスメディアの鈍感さ・・・。この映画の作り手たちは、おそらくそうした現時点の日本の思潮対する激しい嫌悪とつよい警戒心に突き動かされて、ここに100年前をふりかえる、2023年の私たちに必見の作品を贈ることができた。そのテーマとメッセージだけをみても、これは本年度邦画のベストワンをうかがう収穫ということができる。

 だが、この映画の美質はもちろんその社会的意義ばかりではない。すぐれた群像劇の条件ともいうべき登場人物の多様性とドラマ進行過程での変化が興味深く、いささかも137分の長尺を飽きさせない。私には短すぎるくらいだ。名うての脚本家たちが加害の村人、被害の行商メンバー双方にわたり個別の人間像をくっきりと際立たせている。
 たとえば、かつて朝鮮での教職時代に朝鮮人29人の虐殺(1919年提岩里協会事件)に通訳として加担させられて深く傷つき、いつも悩みながら「見ているだけ」の人として福田村に帰ってきた沢田智一(井浦新)。そんな夫にいらだつ自由で奔放なモガスタイルの妻・静子(田中麗奈)。大正デモクラシーの空気を求める良心的な田向村長(豊原功補)。沢田や田向の甘さを嗤い、大日本帝国の天皇崇拝・植民地主義・「鮮人」差別に狂奔する在郷軍人会長の長谷川(水道橋博士、怪演!)。「英霊」の未亡人として村に帰る島村咲江(コムアイ)と、そのひそかな愛人である戦争嫌い・軍人嫌いの渡しの船頭・倉蔵(東出昌大)。そして東京の震災避難者を迎えもてなしながらも、徹頭徹尾、お上の要請や朝鮮人が「井戸に毒を投げ入れている」という風聞に無批判に同調する多くの村人男女・・・。
 一方、薬行商のグループの描写も単純ではない。部落差別ゆえに土地を持てず、流浪の行商を続けるこの人びとは、もっと弱い人、ライ病患者たちを騙すのもやむなしとするしたたかさを備え、なかには「われらは朝鮮人より上」と言い募る者もいる。だが、リーダーの沼辺新助(永山瑛太)は、不屈で明るい性格であり、部落差別の体験ゆえにこそ朝鮮人差別も許されないとする思想の高みに達している。それにもうひとつ、この映画が、新聞の使命を心に深く刻み、朝鮮人飴売りの殺戮をまのあたりにもして、「野獣のごとき鮮人暴動 魔手帝都から地方へ」といった自社の「報道」に耐えられず、事なかれ主義の編集長と激しく対立する千葉日日新聞の女性記者・恩田楓(木竜麻生)を配していることの意義も見逃されてはならないだろう。
 これらの人びとの、歯に衣を着せない鋭く端的な発言が、それぞれの立ち位置を浮き彫りにするとともに、物語の重層性とサスペンスを保証している。終始、目を離せない。ドキュメンタリーの巨匠・森達也の演出も、なんども練り直されたというベテランたちのシナリオも、俳優たちの演技も間然するところがない。まことに秀作というほかはない。

 この映画には、とはいえ、いくらか曖昧で推論を求められるところはあるように思う。
 植民地朝鮮の過酷きわまる抑圧と支配、それに対する果敢な三・一独立運動、そこにみる朝鮮人たちの怒りの噴出への怯え、それらが大震災時に朝鮮人が「暴動」に奔るかもしれないという各レベル権力の過剰の警戒心を生み、それらが震災後の不安に増幅された荒唐無稽な「暴動」の風評を生み、ついには付和雷同の警察や庶民による自衛のための6000人もの殺戮になった・・・。この一般的な背景はよく描かれており、十分に理解できる。だが、私を考えこませるのは、香川から流れてきた被差別部落民の薬行商人たちが、朝鮮人でないのに、なぜ虐殺されたのかである。「日本人」である部落民、いわゆる「穢多」(エタ)は、あの環境下の権力も殺していいとは認めていないはずだったからである。
 薬売りたちは朝鮮人と間違われたというのがふつうの解釈であろう。興奮して取り囲んだ在郷軍人たちや村人の間には、彼らを朝鮮人とみなしたいという偏見の空気が漲っていた。だが、彼らから「湯の花」を買ったことのある沢田夫妻や倉蔵の口添えも、日本人としての常識や発語テストの文句ない「合格」も、行商鑑札の真偽調べを待てという村長の説得もあって、一時は「あの人たちが日本人だったらどうするんだよ・・・日本人殺すことになんだぞ」という倉蔵の総括的な判断がひとときはその場の雰囲気を鎮めたかにみえる。
 だが、そのとき、新助の発した「鮮人なら殺してええんか」という叫びが事態を急変させる。それは新助にしてはじめて発しえた、この非道を根底的に撃つことのできる思想の表明だった。しかしそのとき、子どもを負った農婦のトミが進み出て、鳶口で新助の頭蓋を一撃して倒す。トミの夫は東京の本所の飯場に出稼ぎに赴いていたが消息不明で、トミは東京からの避難民から朝鮮人の暴虐の数々(の噂)を聞いて、夫は朝鮮人に殺されたと信じていたのだ。このトミの一撃が引き金になって、おそるべき惰力が働き、結局、おそらく10人ほどの村人が9人の行商人を惨殺してしまうのである。
 トミにしても行商人たちを朝鮮人と信じていたわけではないだろう。トミも、おそらく他の殺戮者たちも、長谷川がいつも、逡巡する他人をそれぞれの負の経歴を引き合いに出してなじるように、なんらかの意味で朝鮮人を庇う者たち、朝鮮人を同等の人間とみなす人たちを「非国民」として許せなかったのだ。このおそるべき排外主義を媒介にして、「非国民」は、現実には「日本人」であっても朝鮮人にひとしい者、すなわち殺してよいものとみなされてしまう。朝鮮人とみなしたい人びとの抹殺がこうして正当化される。この映画は、思えば、この事件が「間違い殺人だった」という解釈を疑問視させるゆえに、いっそう「ふつうの」庶民の間の不気味な同調と付和雷同がもたらす人権蹂躙のとめどなさの危険性を突き出しているように思われる。

 この映画は内容豊富であり、このほかにも紹介は割愛したけれど考えてみたいエピソードがいくつもある。例えば、この映画の震災前の映像には、村に「押し売り、浮浪人、不正行商人に注意せよ」とうい貼紙があり、殺戮の直前には長谷川が「こいつらは行商の香具師だ、(日本人テストの模範解答を)口上で覚えているだけだ。」とわめいていることの意味、つまり定着農民が漂流民に抱く本来的な差別意識の問題も意識されている。また、惨劇を体験した人びと――村を逃れて死出の漂流に赴く(かにみえる)沢田夫妻、倉蔵と咲江の恋人たち、「この事件の総てを書きます」と宣言する恩田記者、難を逃れて香川に帰りガールフレンドのミヨの顔をみつめて言葉が出ない行商隊の少年など――が、その深い傷跡からどのような生の営みを紡いでゆくのかについて、憶測と希望を語りたい気にもなる。いずれにせよ、日本映画界がついにこのような本当に大きい作品をもつことができたことを、私たちは幸せとせねばならない。