その17 読書ノートから、2020年冬

 2020年冬。「社会」から要請される専門仕事の責務はずいぶん少なくなった。2月8日に主宰してきた『市民塾<ひろば>イin四日市』が閉幕し、10.~11日に厳寒・積雪の北海道大学へ講演と学生ゼミ講評に出かけた後は、3月半ばまではかなり自由だ。だからこのところは読書と映画三昧の日々になる。映画はすでに劇場とTV録画・DVDあわせて20本くらい見ているが、映画については次に回して、今日は、多くは文庫や新書ながら、12冊くらいあてどなく読み上げた本のうちから2冊だけを選んで推薦したい。

 小説では、集英社の『戦争と文学』シリーズの1「 ヒロシマ.ナガサキ」。文庫本ながら785ページの大著で、16の中・短篇といくつかの詩歌が収められている。すべてはそれぞれにすぐれた作品であるが、わけても、大田洋子『屍の街』、林京子『祭りの場』、中山志朗『死の影』などは、原爆投下の8月6日、9日とその直後の人びとの被曝による酸鼻を肉体の崩壊と心に巣くう底知れぬ不安を描いて 、私たちをあらためて衝撃に打ちのめす。また、井上光晴『夏の客』、後藤みな子『炭塵の降る町』は被曝者が余儀なくされるすさまじい生きざまをえぐりとる。第5福竜丸の漁民の受難を克明に綴る橋爪健『死の灰は天を覆う』は、戦後反核運動の原点を顧みさせる。
 わけても刮目させられたのは小田実『「三千軍兵」の墓』だ。小田はドイツの強制収容所でのユダヤ人の死、太平洋のクエジリン島で玉砕した日本兵士の死、かつてその島の日本軍の基地建設に動員された朝鮮半島、台湾、東南アジア、島民の死を尋ねて、ひとしく「三千軍兵の墓」に祀る。そして戦後、アメリカは、このブラウン環礁でなんども水爆実験を行って多くの島民を放射能被曝の死に追い込みながら、そうした累々たる屍が重なるクエジリン島にミサイル基地を建設したのだ。小田の思いはさらに阪神大震災の死者たちにも及んでいる。このような時も所も超えた膨大な死者たちの運命を広角レンズ風に視野に収める、庶民の「難死」を反戦の原点にすえる、小田の思想の広さと深さに、深い感動を覚えずにはいられない。
 『戦争と文学』は、記憶すべき過去のアーカイヴスではない。それは平凡な言い方ながら、現時点の「国民必読」の書ということができよう。

 社会・人文科学の分野では、竹内洋『大衆の幻像』を、竹内自身による「大衆の実像」の把握が放棄されているかにみえる点で物足りなく思い、橘玲『上級国民 下級国民』のあまりのいいかげんさにうんざりした後にやっとめぐりあった橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』(河出新書)のみが白眉だった。
 この分野の第1人者、橋本の本書の内容は、すでに読んだことのある2009年および2013年(増補)の『「格差」の戦後史』(河出ブックス)と基本的に同じだ。敗戦から50年代に始まり2010年代に及ぶ<格差>と<階級>の構造と動態が辿られる。本書での修正や加筆はどこか私は検討していないが、今回、新著を通読して学び直し、あらためてその充実ぶりに驚嘆した。無駄のない必要にして十分な叙述。数多いいくつかの命題をどこまでも数値的に立証する手堅さ。格差をつくる多様な要因摘出の視野の広さ。格差の定点的観察とともに、人びとの今のステイタスの肯定と否定に深く関わる階級・階層移動の状況を考察する方法・・・。400ページに及ぶ大著で、ときにまた、それぞれの命題の説明は新書にしては詳しすぎて、読者をもっと端的な断定を求める気にさせるかもしれないけれど、これはまことに「この人にしてこのテーマ」と納得させる、第一級の専門的新書といえよう。終わり近く358-59ページに一表にまとめられた「5つの階級のプロフィール」は、現代日本の構造に関するすぐれた総括表であり、現代日本を語るとき必携の資料ということができる。いつも思うことながら、階級・階層と格差の認識なき日本論・日本社会論はひっきょう虚妄だからだ。
 前回エッセイに書いたように、私は今、非正規労働者にもなれない(失業者でもない)無業者の世代を超えた膨大な累積を凝視すべき課題だと考えている。本書もそこにふれてはいるが、私のこれまでの企業社会論に由来する関心では、無業者がしばしば求職の意欲も失うまでに精神的に打ちのめていることには、正規、非正規を問わず、彼ら彼女らが企業で働いていたときにおける過酷な体験が大きな役割を演じていると思われる。求職意欲を失う無業と企業での就業時の体験との関係性を、橋本には90年代の「企業社会」と「会社主議」を扱う8章2を引き継いで、後章でももう少し論じほしかったという気がする。とはいえ、これは私の好みに偏した、本書の論旨の流れにあまり沿わない「望蜀」の注文かかしれないけれど。いずれにせよ、この本読みは、もう怠惰になっている私にとって久しぶりの勉強であった。

その16【市民塾<ひろば>in四日市】をふりかえって

 2020年2月8日、17年4月から隔月(偶数月)に開いてきたささやかな市民学習会【市民塾<ひろば>in四日市】(以下、「市民塾」と略)がひっそりと幕を閉じた。
 ここで、3年間の軌跡としての綜合テーマ、例会ごとのプログラムをふりかえってみる。
 *R=報告者(所属機関のみ表示))、C=コメンテーター(第1期&第2期)

第1期(2017年4月~18年2月) 「私たちの日常生活と人権」
①女性の生きがたさ ■R・坂倉加代子(四日市男女共同参画研究所)
②貧困者の生存権はいま ■R・深井英喜(三重大学)
③学校のいじめと友だち関係 ■R・山田潤(元定時制高校教員・元関西大学講師)
④サラリーマンの表現の自由――私の銀行体験から ■R・猿爪雅治(名城大学)
⑤過重労働とパワハラ――自死に誘われる若者たち ■R・熊沢誠(塾代表)
⑥大学生の生活と意識 ■R・粟田菜央&山口由貴(三重大学学生)

第2期(2018年4月~19年2月) 「私たちの隣人――無理してるけどがんばってる」
①シングルマザーのゆとりなき日々 ■R・当事者/C・水野有香(名古屋経済大学)
②老親介護のため離職して ■R・予定の当事者は欠席/C・津止正敏(立命館大学)
③仕事と家事・育児の両立はやはりむつかしい? ■R・当事者/C・石田好江(愛知  淑徳大学)
④生活保護受給者のリアル ■R・村田順一(寄添いネットワークみえ)/C・深井英  喜(三重大学)
⑤この日本で働くということ――外国人労働者の体験 ■R・神部紅(みえユニオン)  /C・艶苓(中京大学)
⑥若者の就業――「使い捨てられ」も「燃えつき」もせず ■R・熊沢誠(塾代表)/C  ・橋場俊展(名城大学)

第3期(2019年4月~20年2月) 、女たちの夢と現実――<女性学>入門
①若い女性として生きる――その希望としんどさ ■R・貴戸理恵(関西学院大学)/C  ・山口由貴(三重大学大学院)
②家事・育児・介護の担い手は誰? ――「これまで」と「これから」 ■R・深井英喜 (三重大学)/C・佐藤ゆかり(三重の女性史研究会)
③男女関係にまつわる多様な性暴力 ■R・禿あや美(跡見学園女子大学)/C・坂   倉加代子(四日市男女共同参画研究所)
④貧困化する女性たち――状況、背景、改善の方途 ■R・北村香織(三重短期大学) /C・水野有香(名古屋経済大学))
⑤専業主婦・パートタイム・正社員――それぞれの自由と鬱屈 ■R・熊沢誠(塾代表) /C・石田好江(愛知淑徳大学)
⑥風雨つよくとも屈せず――韓国女性労働者の闘い ■ドキュメント『外泊』上映』/C  (解説文寄稿)・横田伸子(関西学園大学)

 小規模ではあっても、継続的な市民塾の運営にはさまざまの作業が欠かせない。会場設営や資料プリントや司会の作業は、無償で会場を提供したNPO法人・四日市男女共同参画研究所に集うわずかの女性たちによるところが大きい。案内郵送と受付と会計処理はまた別の女性スタッフの担当であった。しかし、企画――具体的なテーマ、報告者・コメンテーターの決定、運営ルールの策定、それにはがき案内・配付資料・例会後の「事務局総括」などの文章作成は、ほとんどすべて代表の私が引き受けた。だから市民塾の内容については全面的に私の責任に属する 以上のテーマ設定にも、私たちの(というよりは私の)塾を立ち上げるに当たっての、当初からの次のような問題意識が色濃く反映している。
 現時点の日本のふつうの人々は、日常的には、職場、学校、家庭、地域などの界隈に属している。その界隈はふつう、いつもの俗論を声高に語るボスと、処世のために「KY」とみなされることを怖れる穏健な多数派で構成されている。そこに立ちこめる忖度の「空気」が強力な「同調圧力」になっている。それゆえ、その空気のなか、人権に敏感な人びが「慣行」をおかしいなぁと感じたとしても、寡黙なままなのではないか。そしてこの同調圧力に反発することで被るある種のいじめや排除に意義を申し立てる「大胆な」発言や行動を結局、放棄してしまっているのでないか。ふつうの人々の間に広がる同調圧力に靡くこの「空気」こそに、日常生活のしんどさや、憲法には保証されているはずの人権尊重や民主主議の空洞化に危機がひそんでいる・・・。
 それゆえ私たちは、「日常の界隈」に生きる「ふつうの」寡黙な人びと、しんどい思いをかかえる、どちらかといえば恵まれない人びとに注目し、彼ら、彼女らの自由な発言を制約している困難な問題をリアルを凝視したうえで、その状況に風穴を空ける手がかりを探ろうと試みたのである。

 運営の方針にもある工夫があった。通常の講演会では講師の語りが長く、質問機会も限られ、その解答もまたくわしすぎて、フロアに欲求不満が残ることが多い。だから市民塾は、報告は1時間に限り、コメントテーターが論点を引き出し、一問一答型式を避けて、できるだけ多数が発言できるように努めた。この運営方式は、討論が多く論点に立ち入ることが特徴として評価された「職場の人権」の体験から学んだことだった。ちなみに会員の年会費は2000円、折々の参加費は500円、会場カンパはなし。講師には5000円、コメンテーターには3000円を、交通実費のほかに支払うことにした。もとより極端な薄謝であったが、幸せなことに、近隣はもとより、東京、大阪、京都、名古屋、津などの、その分野の有力な専門研究者、あるいは問題の当事者の協力を得ることができた。
 しかしながら、組織的な情宣力の乏しさもあって、市民塾は大きくは育たなかった。会員はほぼ30名以下、例会参加者は25~40名に留まった。それぞれのテーマについて大切な論点は総じて指摘されたけれども、フロア討論ということに不慣れな参加者の多い討論はなお不十分で、発言の立ち入った応酬は不十分だったと思う。毎回の学習はそれなりに有意義だったと自負できとはいえ、いささか理想倒れの市民学習会だったかもしれない。ふっつの講演会のほうは気楽だと感じる人もきっとあったことだろう。
日常の界隈における同調圧力のなかでの自由の逼塞という状況は、いま2020年、ますます際立っているかにみえる。その危機は、「令和の御代」と五輪・パラリンピックの「国民的」祝賀ムード、あれほどまで欺瞞と無責任と国政の私物化を続ける安倍内閣の存続、労働組合運動の抵抗の極端な衰退、DVやいじめの蔓延・・・などにまことに明瞭である。それなのに、わずか3年で市民塾を閉じるのはいかにも心残りではある。とはいえ、私など旧世代に偏ったスタッフのいっそうの高齢化あるいは繁忙、新鮮な企画をつくる感性の鈍化、それに遠方から有力な論者を招聘しうる財政の貧弱さ、会計の赤字などのゆえに。情宣力の乏しい市民塾のこれ以上の存続は難しいと判断するほかはなかった。これまでさまざまな協力を惜しまれなかった報告者、コメンテーター、例会参加者の方々には深く感謝したい。
 ここに、ささやかな市民学習会の軌跡と、なお古びてはいないと自負する問題意識(日常のリアルな界隈における自由な発言の逼塞)と、運営方針およびその反省点などを、【市民塾in四日市】の記録として留めおきたいと思う。四日市の地でなくとも、世代を超えるなんらかのグループが、新しい創造的な感性をもって、日常のリアルを見つめる新たな市民塾を組織されんことを願いつつ。