恒例の「紅白」は毎年見ることにしている。総じてつまらなく見終わればいつも後悔する。それでも、「政治ぬき」で楽しませる主旨のこの大イヴェントは、その都度、NHKが国民意識をおよそどんな方向にまとめようとしているかを透視させる。日本社会のありように無関心でありえない寄せる者としては、そこから目を背けたくなかったのだ。だからまたうかうかと見てしまった。だが、とくに「ザッツ、ニッポン!」と銘打つ2015年末の「紅白」に感じた違和感は、なまなかのものではなかった。
空疎な歌の内容をダンスで糊塗する若者たち。聴きあきた名歌を厚化粧のように誇張して歌うベテランたち。新曲が少なく「メドレー」が多かったのも今回の特徴と思われた。そして間合いをびっしりと埋める信じられないほどのおふざけとNHK人気番組の自己宣伝・・・。現代日本の歌謡文化の質の、なんという低劣さだろう。
そればかりではない。今回の紅白「ザッツ、ニッポン!」は、みんな集まれ、格差や貧困の苦しみなんか忘れよ、日本の明日にひそむ危機なんか気にするな、この人情豊かな大国日本に誇りと希望をもとう、やがて有力なアスリートたちが勇気をくれるオリンピックも近づく・・・と謳う。舞台や審査員席の有名人が、津波被災地──原発事故の福島は別である──に駆けつけたというエピソードを紹介するにも、ぬかりはない。テレビの前の、テレビしか楽しみのないしんどい生活の人びとが、カメラがその表情をとらえることのない会場の視聴者が、こんな紅白を心から楽しみ、明日に希望をもてるとは私には思えない。本当に「盛り上がっている」のは、まぎれもない成功者である舞台上の人だけではないだろうか? もうおことわりだ。
たかが紅白、目くじらを立てるほどのことではないかもしれない。されど紅白である。客観的にはこれは、体制メディアNHKの仕掛ける、2015年夏秋の政治的危機の峠を越えた安倍政権の「一億総活躍社会」に国民一丸となって協力しようという、すぐれて政治的なメッセージであるかにみえる。そして、そこは個人的な心象風景にすぎないけれど、この紅白にふれることで、この紅白にふれることで私の昨年以来の憂鬱がいっそう深まってゆく。この「ザッツ、ニッポン!」のどこに私は着地すればいいのだろう。これからなにを学び、なにを発信できるのだろう。それがわからない鬱屈と焦慮が、まずは新年の所感なのである。
私はおよそここ3年ほど、自分が大切だと思うことと、社会的に発言を求められることとの大きな懸隔を感じてきた。例えばそれは、およそ労働問題を考えるにあたっての産業民主主義の不可欠性、労使関係の営みや労働組合運動の復権の枢要性である。このあたりは、日本の民主主義擁立論のなかでもなお関心は低く、2016年には、社会的な発言の機会の著しい縮小が見通される。率直にいって、労働研究者としてはもう「賞味期限切れ」のようだ。引退して、寡黙な余生に入るべきなのかもしれない。 それもいい。今のささやかな願いとしては、私のこれまでの著作が後続の研究者、労働運動の実践者、市民の方々によく読まれることだけである。まだ広く読者を得ていない二著がとりわけそうだ。過労死等防止法なった今にこそふさわしい職場生活の軌跡の叙述『働きすぎに斃れて──過労死・過労自殺の語る労働史』(岩波書店、2010年)と、研究史の自伝的回顧と現時点の労働分析やエッセイを収めた『私の労働研究』(堀之内出版、2015年)である。ちなみに後者について、若い世代3人の立ち入った評論と充実したフロア討論を収めた『職場の人権』誌93号が昨年末に刊行されたことは、現在の私にとってはこの上ない贈りものであった。
けれども、やはり心にわだかまるのは、こんな「ザッツ、ニッポン」でいいのかという思いである。労働研究者としては一線を退くとはいえ、なおあがきたい気持がある。その文脈でこれからも学びたいことのラフ・プランを書きとめるなら、その問題意識の契機は、前回、前々回のエッセイに書いた私なりの2015年夏秋の総括、「情勢論(1)(2)」にある。ごく簡単に再論しよう。
2015年9月27日の安倍政権による戦争法の強行、立憲主義の蹂躙に対する広汎な諸階層の抗議行動は、組織の動員ではなくすぐれて個人の自発的な参加によるものであった。私はしかし、そのことのまぎれもない光に伴う影の領域にも注目する。その影とは、人びとが非日常的な国会前の結集から帰るところ、日常的な界隈に働く強力な同調圧力、その「空気」に抗う者のKYとみるという現実である。「日常的な界隈」とは、例えば、家庭、学校、友だちとの親密圏、公園やレストランのママ友グループ、そしてなによりも企業社会の内なる職場にほかならない。そして、ここに言う「同調圧力」の空気に濃くただようものは、次のような粒子である。
・社会運動なんかで支配構造が変わるものかというシニシズム
・「政治的中立」とよばれる政治的無関心、ひいては支配権力への客観的な追随
・エコノミックアニマルの実利主義。就職や会社人生での成功へのひたすらな願い
・スポーツやオリンピックで醸成されつつある美しくつよいニッポンへの愛国主義
ヘイトスピーチや「自虐史観」非難をあえてする極右はなお庶民のものではあるまい。しかし、上の「常識」に抗う者は「サヨク」=KYとして、界隈のボスの主導のもとに公然と、または暗黙裡に排除する思潮は、確実に高まっているように思われる。
こうして庶民の住む日常的な界隈を支配する保守的な同調ゆえに、安倍政治はなお安定的である。だが、なぜ現代日本では、界隈の民主主義──排除の怖れなき成員の自由な発言権、多様な存在・多様な意見の許容──が弱いのだろう。もともと戦後このかたそうなのか。最近とみに弱くなったのか。いずれにせよ、そんなことを考えてゆきたい。私はそう思い定めて、人びとの生活の近現代史、意識と思想の軌跡、なにかを感じとった人びとの挑戦と挫折の評伝などをあらためて学ぼうとしている。この領域はしかし、私にとって新奇なものではない。思えば私のこれまでの労働研究も、労働問題の事象の背後にひそむ、生活実態を凝視してやまない労働者の主体意識というものを把握しようと、つねに努めてきたからである。
最後に、すでにはじめているこの系統の読書のうち、2015年、とくに感銘を受けた作品のいくつかを紹介しておきたい。例えば、近世日本における最大規模の民衆蜂起としてかねてから関心を寄せてきた天草・島原の乱を考察する玉野井隆史『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館、2014年)。強靱な自由な精神をもって戦前・戦中・戦後の逆境を生きた女たちの評伝集、澤地久枝『完本 昭和史のおんな』(文藝春秋、2003年)。細井和喜蔵の内妻だった人の不屈の生涯を伝える自伝、高井としを『私の「女工哀史」』(岩波文庫、2015年)。また私にとって最大の収穫だったのは、加藤典洋『戦後入門』である。広汎な文献渉猟と精密な考察の満たされたこの作品は簡単な紹介になじまないけれど、加藤本によって、私はアメリカの原爆投下と無条件降伏論の意義、安保条約と軍事基地の意味するもの、日本人が保革を問わずなぜ対米従属からの離脱を本格的に追求できなかったかなどをしたたかに教えられた。結論として加藤は、レーニンの「平和に関する布告」以来のひとすじの理想主義を受け継ぐ国連への協力を断固として選択する、いわゆる「左折の改憲論」をとる。国連への信頼についてもちろん留保はありうるけれど、それは、安倍の復古路線はもちろん九条擁護論者さえも免れない対米関係についてのあるジレンマを突くものであり、加藤説は護憲の陣営においても十分に検討されなければならない。
もうひとつ、岩波書店が『人びとの精神史』なる9巻のシリーズ刊行をはじめている。戦後を九期にわけ、意義ぶかい営みを紡いだ人びと、有名、無名あわせてほぼ100人の思想の軌跡を、分析者・執筆者も約100人を擁して辿る大きな試みである。私が昨年読んだのは、1巻から3巻、栗原彬/吉見俊哉編『敗戦と占領 1940年代』、テッサ・モーリス・スズキ編『朝鮮の戦争 1950年代』、栗原彬編『六〇年安保 1960年前後』の三册である。書き手の現代的な問題意識と、対象者との距離の微妙さによって、感銘の程度はさまざまではあれ、総じてとてもおもしろい寄稿が多く、きわめて有意義な企画であると感じた。今年の読書はこの続刊からはじめるだろう。ちなみに私は近刊の第6巻、『列島改造 1970年代』に、「小野木祥之──労働のありかたを問う労働組合運動の模索」という文章を寄せている。とはいえ、全体として労働問題という視点への関心の希薄さは、戦後民主主義の言説を代表するこの出版社の企画においても典型的にうかがわれる。