はじめに
もう80代半ば近い私がどこまで執筆のエネルギーを持続できるかはわからないけれど、これから、ホームページの場で60年以上にもなる労働研究の回顧――考察の視角やキーワード、著作の簡単な紹介、その時代的・私生活的な背景、それにまつわるエピソ-ドなどを、不定期だがほぼ月1回、とりとめなく書き綴ってゆきたいと思う。それは私個人の忘れ残りの覚え書きであり、それが現時点の社会的または学問的な要請からみて意義ある文章であるかどうかは問わないことにしよう。
2023年2月、名古屋で隔月50回も続けて労働文献研究会を閉じるにあたって、チューターだった私は最終例会において「私の労働研究のキーワード」なる報告を試みた。それぞれの「系論」をふくめて25ほどのキーワードや諸概念、分析枠組みなどを概説した報告であった。その報告が今回の「連載」執筆の契機となった。そのとき思い出すままにレジメに記した項目を手がかりにすれば、時系列の順序は前後するが、これまで労働研究で私が重視してきた事柄はかなり網羅できるのではないか。そう考えたのである。説得的な語りになるかどうかはわからないけれど、そのレジメにしたがってともかく書きはじめてみよう。
その1 労働研究は<個人の受難>の凝視にはじまる
産業社会の体制や構造の権力はかならず<個人の受難>として現れる
それゆえ
①なによりもまず<個人の受難>をみつめ
②その実像の把握を通じて体制や構造の認識にいたる
要請されるのは①と②を往還する分析である
権力構造としての体制にまきこまれそこに適応せざるを得ない個人のリアルなありようをみつめることから考察をはじめる。およそ社会問題にアプローチする際に私が忘れまいとしてきた発想ルートはこれである。もちろん、このような視角は私に独自的なものではあるまい。ホワイトカラーをテーマとする学生時代のゼミの共同研究の際、私はライト・ミルスの著『ホワイトカラー』にみる人間像への洞察に深い感銘を受けた。そのミルスは後年、『社会学的想像力』1959年、邦訳1965年)のなかで、私なりの上記のまとめと同様または類似の発想ルートを、精緻に、アカデミックに展開している。
けれども、いま思えば、私が労働研究においてこうした発想ルート・視角を重視するようになった遠い原因としては、50年代から60年代にかけて、「下士官」として参加した学生運動の体験があったように思う。トップのリーダーたち(はじめは共産党、後にはニュレフト諸派)の一般学生への働きかけは、政治情勢から説き起こす政治主義のアプローチだった。人びとの生活と意識の実態に関心があった私は、そのアジテーションに加担しながらも、どこか違和感をもち続けていた。要するに「大所高所」論になじめなかった。そう、体制・構造をつくる権力アクターよりも、そこに従わされる個人の実像こそが枢要の問題なのだ・・・。労働研究を専門分野に選んだのも、そんな思いからだった。
もっとも、労働研究において「個人の受難」を重視するとするようになったのは、研究史の中期(1979~96年)である。80年代にそこに到るには二つの契機がある。ひとつは、初期1972年の拙著『労働のなかの復権――企業社会と労働組合』の読者であった富士銀行勤務の河部友美との交流である。河部は78年、痛ましい事故死を遂げたけれど、私は河部の残した詳細な日記を読んで、銀行業務の合理化のなかで、「真摯な銀行員」と「左派の組合活動家」との矛盾に苦悩しながら23年の職業生活を続けた彼の軌跡を追う叙述に取り組むことになった。河部の痛ましい事故死(78年)そして今ひとつは、東芝府中工場で、会社人間に造型されることを拒んで、すさまじいいじめを受けた板金工・上野仁の体験記録にふれ、上野と「隠れキリシタン」のような少数のなかまたちによる、81年に始まる「東芝府中人権裁判」に、10年近く協力したことである。
河部友美についての82年の論文「ある銀行労働者の20年」は、86年の『職場史の修羅を生きて』を経て、最後には、中期の「代表作」ともいうべき93年の『新編 日本の労働者像』(ちくま学芸文庫)に収められた。スタインベックの『怒りの葡萄』に習って、変貌する銀行の職場史と葛藤をまぬかれなかった河部個人の苦悩の体験を撚り合わせて綴っている。93年の学術文庫は、後に海外で翻訳されたこともあって、この論文はアメリカの研究者からの賛辞に恵まれもした。
上野仁と東芝の労務管理については、その講演録が83年の『民主主議は工場の門前で立ちすくむ』に収録された。この人権裁判闘争が社会的な広がりをもつ一助にはなったと思う。その後、裁判記録などを資料として、私は日本の企業社会を深掘りする論文2篇を執筆し、86年の前掲『職場史の修羅を生きて』、89年の『日本的経営の明暗』)にそれぞれ収められた。これらは、その後の私の日本型企業社会の構造分析と、現時点も絶えることのない職場のパワー・ハラスメントへの批判作業い引き継がれている。
研究史中期の80年におけるこれらの論文・著書は、ほとんどが筑摩書房の岸宣夫氏の編集担当で刊行された。そこに示された「個人の受難」を凝視する分析視角に、私はいつまでも執着した。例えば、研究史後期(1997年以降)に属する2010年の大著『働きすぎに斃れて――過労死・過労自殺の語る労働史』(岩波書店、のち『過労死・過労自殺の現代史--働きすぎに斃れる人たち』とタイトルを変えて2018年の岩波現代文庫)。ここでは50人もの労働者の死に到る職場体験を、やはり裁判記録を主資料として、細部にわたって具体的に描いている。個人の些細なエピソ-ドのもつ切実な意味をあきらかにしたかったのだ。また、ごく最近、私は<イギリス炭鉱ストライキ(1984-85)の群像>(未公刊)を書き下ろしたが、おそらく最後になるこの大きな執筆においても、私の関心は、なによりも、坑夫や家族たちの思想・心性や行動の具体像であった。
社会や国家にふれるにしても、もっぱら個人のありようを凝視するのは文学の常道である。もともと文学好きの私はその発想ルートに引きずられてるのかもしれない。社会科学としての労働研究に必要なレーバー・エコノミストの性格が私の著作には欠けているというありうる批判は甘んじて受けたい。とはいえ、文学的であれ、経済学的であれ、およそ状況分析に不可欠な要素は、人間生活のリアルな把握にほかならない。私には、個々の労働者の存在感の希薄な労働研究には、情報は豊富であっても今ひとつ惹かれないのである。