ケン・ローチは、周知のように、長年にわたりイギリス労働者階級の生活の受難と体制に抗う困難な闘いを、透徹したまなざしで凝視してきた。『オールド・オーク』(2023年)は、この巨匠が87歳にして、このたびも脚本に携わる盟友ポール・ラヴァティとともに、分断と排斥の現世に贈る、静かなリアリズムに徹しながらもほのかな希望をこめる「最後」のメッセージである。
北東部イングランドは炭鉱閉山後の寂れたダーラム州の小都市。この街の住宅街に中央政府によってたくさんのシリア難民が送られてくる。貧しい住民たちの界隈にはしかし、この突然の隣人となったアラブ人たちを排斥するすさまじいヘイトの気運が漲る。そんな街で、ぼろぼろのパブ、「オールド・オーク」を営むもと坑夫のTJ・バランタイン(ディヴ・ターナー)は、なにかと生活に不如意で、家族もなく、サッカーチームを指導するなどのボランティア活動にももう気力をなくして、彼を自死から救ってくれた愛犬だけを溺愛する孤独な初老だった。しかし、それでも彼の心には人びとの連帯への究極の信頼が潜んでおり、なんとか難民たちを助けようとする。そこに彼の再生の兆しがあった。
その契機になったのは、難民キャンプで英語と人権思想を学び、シリアに留まって反アサド派で闘う父を敬慕するカメラ・ウーマンのヤラ(エブリ・マリ)との、ヘイト青年に壊されたカメラの修繕の手助けを通じてのふれあいだった。ヤラは、閉ざされたパブの二階広間に飾られた、落盤事故で死んだTJの父が撮ったというかつての坑夫たちの生活と、1984-85年の閉山に抗う大ストライキの写真を食い入るように見つめる。当時の坑夫たちの相互扶助や炊き出しの映像や、「共に食事し、共に持ちこたえ、共に闘う」というスローガン。ヤラは自分たちシリア人の塗炭の苦しみとイギリスの庶民のかつての受難との共通性に気づき、心にとどめたのだ。
闊達なヤラは美容院など市井の日常にカメラを向けて、徐々に人びととの間に親密な関係を築きはじめる。こだわらない人柄の地域慈善団体職員・ローラも駆けつけて、貧窮のシリア人家族に支援物資を届ける。少女が自転車を喜んで受け取ったとき、イギリスの少年たちが「僕もこれが欲しかったのに」と羨む姿が印象的だ。TJとヤラとローラは、閉ざされたパブの広間を改築してシリア人のための無料の食事会を開くまでになる。大聖堂をはじめさまざまの慈善団体から続々と食品給与がくる。だが、かねてから「オールド・オーク」にいつもたむろしていたやはりもと坑夫たち、TJの老いた旧友たち4人は、なお強烈なレイシストだった。彼らは自分たちが提案した移民排斥住民集会のためにTJが閉ざされた広間の使用を拒んだのにまさにそこでシリア人の食事会を開くのは、われわれの唯一くつろげる居場所を奪うことだと、TJを激しく非難する。そして変わってゆく界隈のなか疎外感に苛まれた彼らは、ついに電気工事を操作して、パブの2階の床を致命的に破壊する陰謀に手を染めることになる。資金ゼロで修復・再開のめどはなく、愛犬もすでに殺されている。絶望したTJは、かつて海底切羽のあった海に向う再度の自死に赴く。
けれども、その直前にヤラの父が拷問のあげく獄死したという報が入る。すると思いがけず、街の人たちが家族とともにひきもきらず訪れてヤラの家の前に花束を捧げたのだ。そのなかにはパブ破壊に加担したTJの旧友チャーリーと家族の姿もあった・・・。そしてエンディング。どのようなイヴェントなのか、シリア人を交えたイギリスの庶民たちの延々たるデモの隊列が街路を埋める。中央近くにTJとヤラ、そして写真展示会のあと、ヤラたちが贈った「みなさんの組合旗をまねた」大きな旗がある。「強靱さ、連帯、抵抗」の文字が英語とアラビア語で刺繍されている。後ろには「ダーラム地区パレスティナ連帯行動」の旗もみえる。参加者はまったくくつろいだ祭りのような印象だが、私には、炭鉱ストライキ当時の坑夫と家族たちのデモとどこか似ているように感じられる。
『オールド・オーク』は、炭鉱の衰退によって寂れた地方都市の貧困化した人びとが、押しつけられたシリア移民に対する、いわば自然に生まれたヘイト・排斥の言動を乗りこえて、新しい隣人への連帯に希望をつなぐヒューマンな物語である。それ自体としては、労働者思想とか労働運動のゆくえを問う作品ではない。とはいえここに、実質上の原作者であるポール・ラヴァティがこの映画にふれてこう語っていることに注目したい。
「過去」こそが私たちの映画登場人物であるべきだ・・・(中
略)。 炭鉱ストライキ時の炊き出しに象徴される共同体の連帯
は、どうして孤立と絶望へと形を変えてしまったのか?(中略)
・・・かつて組織化されていた労働者階級の人びとと、闘争的な労
働組合は、なぜ労働生活のあらゆる瞬間を計測するアプリに縛
られながらも、自由市場の物語を受け入れ、自らを運命を司る
主人公だと考えていた『家族を想うとき』の主人公リッキーの
ような世界へと追いやられたのか?『わたしは、ダニエル・ブ
レイク』の主人公・・・は、なぜ孤独に追い詰められ、最も弱い立
場にある人びとを標的にする国家官僚機構の組織的な残酷さの
犠牲になったのか?
この語りを掲載するパンフレットにみるどの評論も労働者思想や炭鉱労働組合の現況に言及してはいない。またケン・ローチもラヴァティも、かつての大ストライキやそこでのなかま相互の扶助の営みをそのものとしては描くことの空しさを、十分に知悉していたことだろう。だが、「過去」の連帯と闘いの喪失が現在の状況をもたらしたという把握が、そしてその喪失へのかぎりない哀惜が、ラヴァティの語りに明らかなように、物語の暗黙の背景であることは疑いを容れない。
では、格差と分断と孤立の2016年(物語の想定時点)の今、『わたしは、ダニエル・ブレイク』や『家族を想うとき』の絶望から脱する希望はどこに求められるだろうか。
それはやはり古くて新しい人びとの伝説、労働者の連帯にほかならない。とはいえ、それは競争と孤立ゆえに風解した「同じような人びと」・組織労働者たちのもとのままの団結ではなく、排他性を克服した「異質な人びと」の包摂でなければならない。ここに来て、現実を見つめ、ケン・ローチとポール・ラヴァティは、排斥されるシリア人との間の連帯の構築に希望を求めたのだ。「過去」の労働社会のレジェンドは、無料の食堂、組合旗を模したのぼり旗、大規模なデモ、そしてさまざまのシーンやなにげない会話にちりばめられている。
ヤラの父の死に際しての人びとの献花の連なりと最後の大デモの間になお避けられなかっただろう幾多の対立や困難については、描写はない。それゆえ、ラストシーンはふと希望の幻想かもしれないと思われもする。けれども、『イギリス炭鉱ストライキの群像』の著者としての私は、幻想をふくむものであっても、彼らの希望のメッセージを、深読みするまでに感得する。ああ、いい映画を観たと想う。
ちなみにTJとヤラは、かつて炭鉱祭りには坑夫たちが集い、今たくさんの食品カンパを寄せたダーラム大聖堂を訪れる。私もついに訪れることのなかった1135年創立のすばらしいノルマン様式の教会だ。ヤラはそこで「こんなに美しいものが残っているんだ。故国のパルミラ神殿はISに壊されてしまったのに!」と涙を流す。いくつかの忘れられないシーンのひとつである。
「読書と映画」カテゴリーアーカイブ
『未明の砦』へのオマージュ (2026年5月26日)
太田愛の長編小説『未明の砦』(2026年角川文庫版)は、過酷な労働の現実に真正面から抗った若者たちを活写する、現代の日本ではテーマと思想性においてまことに独自的な達成ということができる。一読、その感銘は「社会派」の類書でもまず望みえない。
とりあえず物語をくわしく辿る。20代半ばから30歳の非正規労働者、派遣工の矢上達也と秋山宏典、期間工の脇隼人と泉原順平は、大手自動車企業ユシマの生方第3工場の部品備品組付けコンベアラインで働いている。エアコンなく夏期には40度にもなる環境で、汗を拭う暇もないタクトタイムの単純作業をくりかえす。週ごとに変わるシフト(1直6:00~15:15、2直16:15~1:09)の実働7時間。各45分の食事時間と3回の10分休憩があるとはいえ、しばしば残業もあって、仕事が終われば完全に消耗し、ホットドックにかぶりついて寮の部屋に倒れ込むだけだ。労働そのものが過酷なだけではない。ユシマは、5年勤続で正社員の資格を得る改正労働契約法が適用されないように、非正規労働者の雇用契約を2年11ヶ月としている。非雇用の期間が半年になれば過去の経験年数もクーリングオフされるというわけだ。勤怠管理も細部にわたり厳しい。非正規工はもとより、班長以下は同じラインで働き、頻発する過労死さえ隠蔽される正社員も、ユシマでは使い捨てられる素材にすぎなかった。従業員、とくに非正規労働者は、解雇を怖れ、人間として当然の不満や抗議の声を上げることをあきらめた、個々に孤立した群像であった。
そんななか、例外的にヒューマンな班長の玄羽昭一が、夏期休暇に家族の絆のない矢上ら4人を、海辺の笛ヶ浜にある亡妻の実家に滞在させ歓待する。彼らは海辺の共同生活のうちにうちとけ、父親の暴力、母の淫蕩と育児放棄、母の情夫の妹への手出しを避けるための家出、大卒後いくつもの正社員職での挫折と父の叱正など、それぞれ帰省できない事情をはじめて語り合う。「自分のことをこんなに人に話したのは・・・人が自分のことを話すのをこんなに聞いたのも、初めてだった。・・・胸の奥にずっとあった硬い塊が溶けていくような気がした」と矢上は感じた。
はじめてなかまを見出した歓び、それが彼らのそれからのすべての営みの起点だった。彼らはそれ以降、玄羽の示唆もあって、自分たちの労働生活の不当さ、惨めさを語り合い、次第にユシマへの怒りと抗う気持ちを育ててゆく。そして休暇の後半、批判的な知性をもつ玄波の義従姉・崇像朱鷺子の「文庫」に入り浸って、憲法、労働法の歴史と内容、日本の労働問題、外国の社会運動の歴史などの文献を懸命に学ぶ。こうした主体形成のあと工場に戻ってまもなく、彼らは、玄羽の過労死を知る。彼は親友の息子であり、少し前に脳動脈破裂で過労死した技術者・小杉圭太の未亡人の行政訴訟(労基署による労災不認定の取消しを求める提訴)の裁判で証人に立つ予定であり、そのため会社は玄羽を「監視」していた。それもあってか、虚血性心疾患(いわゆる心筋梗塞)で倒れた玄羽は休憩室に長く放置され、死後あわただしくユシマ病院に運ばれたのだ。むろん労災認定外の扱いだった。
衝撃を受けた矢上らは、慕っていた玄羽の死の非情な扱われ方の真相をつきとめる。その動きに会社大事で非正規差別にこりかたまった正社員・村上らはかねてからのいじめといやがらせを強めた。だが4人はもう屈従しない。ペットボトルで彼らをうちのめしもする。けれども、これからどうすればいいか?そのとき、いくらか独断先行ながら行動派の脇隼人が3人を企業外ユニオン「はるかぜユニオン」に案内する。そこで初老で歴戦の相談員・國木田莞慈に、過労死隠蔽などユシマの状況に対する闘い方を尋ね、國木田の示唆によって4人にはそれまで疎遠だった労働組合というものの可能性にはじめて気づくことになる。それでも、どんな組合をつくるのか?4人は諍いをともなう激論の末、当時に提案されていた新日本型賃金制度(一律の昇給を完全に撤廃する/個人評価によって賃金・賞与が大きく上下に変動する/要するに査定による賃金に統合する制度)への従業員たちの大きな不安も考慮して、正社員をふくむ、名付けて<ともに闘う人間の砦 労働組合>、略称<ともとり労組>を設立する決意を固めるのである。
従来のユシマの正社員労組は、工場長の五十畑を幹部とするような完全な御用組合であった。<ともとり労組>の設立準備はむろん極秘の内に進められたが、同志を装って接近したスパイ、非正規工・来栖の注進もあって、組合づくりは会社の知るところとなる。驚愕した会社のトップたちは、嗤いながらも背景の事情にも思い当たるゆえにそれなりに危機意識をもち、社内の警戒と監視を強化する一方、献金のコネをもつ与党の重鎮を通じて警察庁警備局、警視庁組織犯罪対策部との連携を準備する。一方、<ともとり労組>は最初の団体交渉を応諾させる。機略に富むやりかたで本社に現れ、新車展示に集まった市民たちのなかで自分たちの作業を再現して見せたあと、豪奢な貴賓室に乗り込み、人事部長と、以降指揮を執る副社長・板垣直之を相手に、組合活動の承認、新日本型賃金制度の撤廃、組合員の人事異動の協議・合意、労働契約法の趣旨に反する期間工の契約方式の廃止、小杉圭太、玄羽昭一の過労死の詳細の関係官庁への報告、一時間ごとの給水補給の可能なタクトの設定・・・などの要求を突きつける。
その準備の周到さに驚愕した会社側は、まだ正社員の組合員がいない、君たち非正規には従業員全体の労働条件に関わる権利がない・・・などと主張し、具体的な回答は2週間後のことになった。だが、ともとり労組は、パソコン技術にもデザイン感覚にも長けた美大卒の泉原を中心に、ホームページを立ち上げ、また泉原が巧みに撮影した貴賓室での団交写真も明示するビラをつくって、会社の妨害を切り抜けて従業員たちに届ける。天下のユシマの若者の労働運動の再生は全社に、社会に知られたのである。
会社が本当にユシマに代表される現体制に対する危機意識をもったのはここからだ。ビラ撒きを道路交通法違反として4人を一時拘留したばかりではない。会社の意向を汲んだ公安警察は、警視庁組織犯罪対策部を実行部隊として、こともあろうに、かねてから試用を目論んでいた共謀罪を、組織犯罪処罰法に新設された<テロ等準備罪>という形で適用しようとしたのだ。理由は、ユシマの4人の非正社員は、問題の國木田莞慈の指導の下に組合を組織しようとしたがうまくゆかず、業を煮やして工場に対する破壊工作を計画したというのである。4人は犯罪者として逮捕されることになる。
ここからは少し終幕を急ぐ。最初の逮捕を免れた4人は、笛ヶが浜の崇像朱鷺子のもとで休息し、いずれ逮捕されるだろうが最後にやると決めたことがあると彼女に伝えた。そしてすでに手配済みの警察の目をくぐって困難な山越えを経て、成田空港に近い佐倉の雑木林にやっとたどり着く。インド出張の柚島庸蔵社長がまもなく帰国する。やはり柚島へのテロ襲撃かと想像される。しかし、これは警察を欺く陽動作戦だった。彼らは翌朝、6時間も歩いてローカルな船橋法典駅から一挙に南下して、生方の工場へ来て自分たちの労働現場に侵入したのだ。短い休業時間。矢上は部品ケース上に立って呼びかける――
<ユシマは・・・俺たちが体験したこと、感じたことすべて、俺たちの記憶まで書き換え られると、ユシマの思い通りにできて当たり前だと考えている。それでも黙ってされるままになるのか>
<俺たちは心と感情を持った生きた人間なんだ。・・・ユシマが俺たちの求めるものを何 一つ与えないのであれば、俺たちもユシマが求めるものを与えない。・・・ユシマが労働者は人間だということを思い出すまで、俺たちは労働力を与えない>
<労働者が本気でなにかを求めるならば共謀罪を使って黙らせる。そんなやり方がいっ たん通用すれば、すぐにそれが当たり前の世の中になる。・・・そんな世の中になるなるかどうかは、今ここにいる人間たちにかかっているんだ。このラインで毎日数え切れないほどのボルトを締めて、車にドアやシートを取り付けてきた俺たちひとりひとりにだ
今ならまだ間に合う。ここにいる全員で声を上げてストライキを決行しよう>
非正規風情がなにを偉そうに言うか、取り替えのきく俺たちにはなにができるってんだ、家族もないものが世迷い言を言うな・・・といった反発もあった。だが、労働者多数は身じろぎもせずうつむいて聴いた。展望デッキの五十畑も無言で立ちすくんでいた。駆けつけた警備員が機械調節ボックス前の脇を引っ立て、稼働再開のスィッチを入れた。工員たちは本能的に位置について工具を手にする。だが、誰ひとり作業を始めようとはしなかった。作業を加えられない車体が空しく流れるベルトコンベアはほどなく止まるだろう。
『未明の砦』は、主人公たちのほか何人かの興味深い脇役が登場し、終わり近くの事態の推移に影響を及ぼす。3人に限って紹介しよう。例えば、板垣副社長のアドバイザーであるエリート課長の日夏康明。彼はある体験から異議申し立てすることを抑制してきたが、彼にすがってきた来栖の内通でとりとも労組の情報すべてを把握し、あの4人の行動によって「殺してしまった自分の一部」が息を吹き返したように感じる。日夏はその後、矢上に電話して逮捕予定の情報を伝えて最初の逮捕を妨ぎ、スト決行後は南多摩署の刑事たちとともに、ストライキを報道する週刊誌の取材に、なかったことにされようとしたとりとも労組の本当の実績を確認させる。それが結局、警察庁公安の萩原琢磨にみずからが指揮を執った共謀罪適用を取り消させるのである。
また南多摩署組織犯罪対策課の初老の刑事・藪下哲夫。警察用の公安が所轄署の頭ごなしに4人を共謀罪で捜査することに異様さを感じた藪下は、独自に4人の軌跡をたどり、笛ヶ浜の宗像「文庫」での彼らの懸命の学習内容を調べる。そのくだりで、小説としては異例ながら、日本の労働法と労働問題、世界の社会運動の現状が、彼の戦後民主主義への思い入れをまじえて詳しく紹介されるのだが、それはとりもなおさず、太田愛自身の労働問題の勉強内容でもあるだろう(本書はきわめて多くの労働研究の参考文献を添えている)。そして藪下は、日夏とともに週刊誌「真実」の報道にも助力し、最後には、4人の「ユシマの息を止める」真意を知って、彼らが工場へいたることを間接的に擁護するのだ。
それに警備室で働く派遣清掃員・仙波南美。若い彼女も過去の切実な体験からぼんやりと目的なく日を過ごしていたが、とりとも労組の4人の行動になぜか惹かれ、団交を見守り、その報告会にも参加して、私もゴミじゃないと感じるようになる。そして彼女は、とりともの活動をなかったことにすると決まって、団交に出席した板垣副社長が慌てて不十分にシュレッダーに投じた団交記録を、清掃時に引き抜いて密かに保存していた。それが優しい上司の派遣警備員・山崎を通して週刊誌の手にわたり、日夏情報と共に公安と会社の嘘を決定的に暴くことになる。
その仙波南美は、ストライキ翌日(?)の未明、日の出前30分、徹夜でつくった美しいプラカードを抱えて生方工場に向かっていた。工場前集会に参加するためだ。ユシマの労働者や「はるかぜユニオン」のスタッフだけではなく、一般市民をふくむ世代を超えたさまざまの人びとがすでに集いつつある・・・。
本書は労働者の状況や企業および警察権力の対応の論理をきわめて具体的に描くだけに、ときに生硬な筆致もある。また矢上以下4人のスピーチはあまりに情理をつくして雄弁にすぎるという気もする。とはいえ、階層の上下を網羅する人びとの多様性(バラエティ)と、彼ら、彼女の変化(チェンジ)との共存という物語の本質的な魅力を、『未明の砦』は備えている。とりわけ、4人以外にも、厳しい環境や執拗なトラウマに閉じこもっていた何人かの労働者が、ためらいながら人間らしさを取り戻してゆく変化はの軌跡は心をうつ。それに時点の倒叙による推理もの風の筆致も、登場人物のポリフォニー(多声)による頻繁な場面転換を用いた映画的な描写も、この小説を一気に読ませる要素になっている。。
『未明の砦』は、とりわけ現時点の日本社会にとって際だって思想的に意義ぶかい作品であるように思われる。最後に、その独自的な寄与について、私なりに気づいたことを2点あげたい。
その1.矢上らの学んだことのひとつに、イギリスの1920年代、はじめて女性参政権を求めて建物破壊や放火まで辞さなかった「女性社会政治同盟」、サフラジェットの活動がある。「女性が立法活動に参加できない以上、私たちはあなたたちの法律には従わない。・・・法律を作る権利を自分たちに与えるためにこそ、私たちは法を破るのだ」、それが破壊活動を肯定する彼女らの論理だった。そしてサフラジェットのように、4人も後に「ルールを守らないやり方で闘うこと。法律やルールを都合のよいようにつくったり変えたり無視したりできるユシマを相手に、こちらだけがルールを守って闘ういわれはない。またルールを守って勝てるわけがない・・・」と申し合わせている。企業内に張り巡らされている、合憲制も疑わしい「社則」や労務管理については本当にそのとおりである。
けれども、現在の日本では、ときに体制の秩序やルールを超えようとするスタンスは、度しがたい「過激派」のそれとみなされよう。それでも本書は、ひいては太田愛は、あえてこのようなラディカリズムの姿勢を突き出す。正当なピケが「威力業務妨害」とみなされるような今、このようなラディカリズムは、サフラジェットも否定した人身攻撃でないかぎり、捨てることのできない発想ということができる。
その2。労働研究書には、また社会派の文学には、非正規労働者の惨苦を凝視する作品もいくつか見受けられる。けれども、それらとくらべて『未完の砦』には類書と異なる特徴がある。ほかでもない、それは、深刻な労働問題を解決する手段として、行政への救済申請や提訴による司法判決ではなく、労働者自前の労働組合運動が、それも、労働現場でのストライキが決定的であるとされていることにほかならない。
日本の労働状況を多少とも知る者にとって、こうしたユニオニズムへの凝視と期待が、さしあたりどれほど「反時代的」であるか、とりあえず国民多数の「人気」を博したいならば、それがどれほど大胆な言説であるかは自明であろう。とはいえ、長年の私の持論をここでまたくりかえすまい、<ともとり労組>のような労働現場のユニオニズムなしには、労働者の日々の不安や鬱屈や心身の疲弊はひっきょう軽減されはしないのだ。そこを避けることなく直視した太田愛の勇気と、労働の現実を可視的に再現した力量に、私はオマージュを捧げることをためらわない。まだ「未明」ではあっても、この作品が「反時代的」とみなされない明日の陽光はかならず訪れる。
2026年1月~3月のベスト作品――3月28日
読書と映画観賞は、私の現在の生活でもなお大きな比重をもつ。その享受のうち印象に残った「収穫」の作品3作ほどを、今年から四半期にわけて略記することにした。主として私自身の記憶確認のためだが、諸兄姉のなんらかの参考になれば望外の幸せである。
<社会・人文科学、歴史、一般書>
①ジョン・ダワー<三浦陽一、高島良一訳>
『増補版 敗北を抱きしめて―第二次大戦 後の日本人』岩波書店、2004年
②鈴木貴宇
『サラリーマンの文化史―あるいは「家族」と「安定」の近現代史』青弓社、2022年
③小泉悠
『現代戦争論―ロシア・ウクライナから考える世界の行方』筑摩新書、2026年
名著①への共感と感銘についてはすでに記した。HP(26.1.21)の参照を乞う。
②は、明治期から1950年代までのサラリーマンの心情と背景の社会状況を、写真、漫画、映画、文学など広範な文化表象を通して考察する。博引旁証、実におもしろく読める。しかし、階層として工場労働者と区別されるホワイトカラーの仕事、職場、階層意識、労使関係などの考察は手薄であり、そのかぎりでは私の期待した内容ではなかった。
③は、すぐれたロシアの専門研究者で自称「軍事オタク」によるロシアのウクライナ侵略の多方面からの徹底的な分析。この書の卓越性は、「どっちもどっち」の中立論を排し、ロシア側の論理と侵略の理不尽さ・非道さを、戦争継続のためのロシア国内での貧しい辺境への犠牲転嫁もふくめて詳細に論じ、プーチンの望むかたちでの即時停戦が領土奪取にとどまらないウクライナ人の人権抑圧の「構造的暴力」をむしろ増加させるという、明瞭なスタンスにある。この悲惨をロシアの勝利に終わらせてはならないのだ。異論もありうるだろうが、精緻な分析者が抑えがたい怒りに殉じてきっぱりと判断する姿勢に私は共感する。
番外としては、青木理『百年の挽歌 原発、戦争、美しい村(集英社)が心をうつ好著だった。美しい飯舘村で自然と共生し、勤勉で実直な農夫として生きてきた102歳の古老が、福島原発事故のため避難を求められた2011年3月に自死するまでの、国策に翻弄された軌跡を哀惜を込めて綴っている。
<小説 ①と②は再読>
①宮部みゆき『理由』朝日新聞社、1998年
②真藤順丈『宝島』講談社、2018年
③永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』新潮文庫、2025年
東京の豪華マンションで6人の「家族」の死が確認される。ところがその死者たちはマンションの所有者でも仮の借家人でもなく、お互い家族でもなかった。①は、この不思議な事件にかかわる、いずれも住宅問題に悩み抜いた庶民たちのやむなき事情を懇切に優しくみつめてゆく。宮部ワールドの傑作である。
②は、最近の映画作品に触発された8年後の再読であるが、やはり映画以上にすばらしい。1952年~72年の沖縄、コザ。戦果アギャー(米軍基地や物資貯蔵所から盗み出した食品や衣料や薬品を沖縄住民に配る若者たち)の英雄オンちゃんが嘉手納基地侵入後に行方不明になる。それか30年にいたる、恋人ヤマコ、親友グスク、弟レイの三人、加えて孤児のウタの波瀾万丈の軌跡を色濃く描く。グスクは刑事になって頻発する米兵の性加害の解決に、ヤマコは教師として組合運動、祖国復帰運動、孤児たちのケアに、レイはアウトロウとして身を隠してテロを辞さない反米実力行使に奮闘するけれど、彼らの前には米国の巨大な権力や日本政府の追随や旧憲兵たちからなる隠密の思想統制グループによる弾圧、ヤクザや密貿易集団の暴力などが立ちはだかり、懸命の苦闘はなんども挫折する。しかし彼ら、彼女らはまたなんども立ち上がる。そんななか、基地撤廃という人びとの願いをあまりに踏みにじる祖国復帰の虚構性がついにコザ暴動を勃発させる・・・。その折、レイたちの基地爆破をめざす突入行動のゆくえが、結局、オンちゃんの失踪の真相と彼の残した希望のメッセージを明日に伝えることになる。さぁ、起きらんね、「また始めよう。そろそろ本当に生きるときがきた」と。沖縄の言語世界と文化の豊穣さ、庶民たちの絆、絶えることなき実力行動を辞さないタックルセ!(やっつけろ!)の叫びが全編を貫いて、愛と革命の色彩がまばゆく、響き渡るカチャーシーの歌舞音曲が心にしみる。
③の物語では、それぞれに厳しい不遇の体験を経ていま芝居小屋にたむろし、芝居づくりに不可欠なそれぞれの専門技能を発揮する者たちが協力して、若い武士に強いられる筋違いの不本意な仇討ちの掟をからくりで鮮やかに無化してしまう。愉快な人情ものだ。最近の映画作品ははらはらさせるエピソードを加えてエンタメ性を増しているが、それぞれ役割を果たす人びとの経歴の深みと人情の濃密さの点では小説の方がよい。
なお、3月に入ってからは、限られた時間ながら、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳、光文社5冊)と、『平家物語』(中山義秀現代語訳、河出文庫3冊)に読みふけっている。紹介・感想は次の機会に譲るけれど、いずれも壮大な物語の流れに入るのが毎日の楽しみである。
さて、映画はといえば、このところ、劇場での新作は、私が時代のセンスについてゆけなくなったためか、今ひとつなじめないものが多くなり、感銘は勢い大好きな名作・佳作の再観賞に偏っている昨年などは、私の生涯ベストクラスの作品を10本以上も堪能したが今年に入ってからも傾向は同じで、邦画はすべて、洋画はほとんど旧作である。私の好みは時代遅れかもしれないけれど、ともかく順不同で記すことにする。
<日本映画>
①流浪の月(2022年) 李相日(+脚本)、
主演:広瀬すず、松坂桃李、横浜流星
②フラガール(2006年) 李相日(+脚本)、
主演:青井優、松雪泰子、富司純子、岸部 一徳、豊川悦二
③赤ひげ(1965年) 黒澤明、脚本:小国英雄、菊島隆三、井手雅人
主演:三船敏郎、 加山雄三、仁木てるみ、土屋喬夫、杉村春子
凪良ゆうの小説を原作とする①は、従兄弟からの性加害をふくむ虐待に鬱屈していた11歳の家内更紗(長じては広瀬すず)と、「ロリコン」で孤独な学生・佐伯文(松坂桃李)との15年以上に及ぶ、世間からは理解されず犯罪とされて指弾されるような寄り添いの軌跡を描く。文の下宿への少女時代の寄寓、変質者の「誘拐」としての逮捕、15年後の再会、どうしようもなくまた惹かれあうふたり。そんなふたりを理解できず、更紗の恋人(横浜流星)は憤って暴力をふるい、彼の特異性は理解する文の許嫁(多部未華子)もいらだちが昂じて押しかける。そのうえ社会的には徹底的に非難され排除されて、結局、ふたりは流浪の生きざまを選ぶことになる。登場するすべての人間像のリアルな描写は説得的であるだけに哀しい。またそれだけにふたりの愛のあてどない道行きは、誰にも理解されないとはいえ、まぎれもなく実在する、性を超えた愛の真実を私たちに語りかける。
②は、1965年、衰退し縮小される常磐炭鉱において、地熱を利用したハワイアンセンターとフラダンスの興業をもって地域再生をめざす懸命の過程を描く周知の名作である。主要な登場人物は、フラダンスの踊り手に応募する紀美子(青井優)ほか小百合(山崎静代)ら炭鉱の娘たち。チームの指導にあたる、もとSKDの花形ダンサーまどか(松雪泰子)。事業の中心的なスタッフ(岸部一徳)。紀美子の家族、母千代(富司純子)と兄(豊川悦二)など。この映画のすばらしさは、伝統的にマッチョで、娘たちが肌をさらして踊るなどまともな仕事ではないと白眼視していた炭鉱界隈の男たちが、みずからも選炭婦だった千代が紀美子の懸命の練習にふれ、これもこれからの娘たちの立派な労働だと省みることを契機に、すべてのヤマの人びとがなにごとにも積極的に協力するにいたる、その変化の描写にある。はじめは娘たちの不器用を軽蔑していたアル中のまどかも、やがてみずからの責務と娘たちとの絆に意義と歓びを感じてゆく。これまでの炭鉱生活を維持する困難さをみすえて新しい生き方に挑戦しようとする庶民たちの姿を活写する、いくつかの名場面が感動の涙を誘う。そして実にさまざまのトラブルを乗り超えてフラダンスショウ開幕の日がくる。紀美子らのフラダンスは華やかで美しい。人びとは熱狂し、まどかは幕袖で涙ぐむ。本当にいい映画だった。
1965年公開の③は、思うにその後の大作群のいずれも及ばない、この巨匠の最後の傑作である。舞台は江戸期の小石川療養所。「赤ひげ」とよばれる名医・新出去定(三船敏郎)と、長崎で蘭学を学び高位の典医たらんとしていたのに、不本意に汚らしい庶民たちが押しかけて入院するこの療養所に送り込まれた青年・保本登(加山雄三)が相互の理解に辿りつく物語だ。はじめはなにかと不貞腐れていた登は、周囲の苦患者たちを凝視するなかで貧民を救う医術とはなにかに目覚めてゆく。そして無愛想で傲慢ながら、洞察力にとみ、医術、武術、富裕者からのふんだくりにも長けた赤ひげに傾倒するようになり、ついにはここを自分の生きる場所と心定めるにいたるのである。
黒澤の話法はやはり冴えている。ひとつだけ挙例しよう。女郎屋でこき使われ心身を病んでいた少女おとよ(仁木てるみ)が療養所に引き取られる。赤ひげから診療を託された登は、かたくなに診療を拒むおとよの病気に必死に取り組み、過労で倒れてしまう。だが、昏睡から目覚めれば、快癒したおとよが、かつて女郎屋でさせられていたのと同じ動作で(同じ動作であるところに演出の冴えがある)登の部屋を拭き掃除をしているのだ。懸命の介抱の過程で、おとよが悴んだ手で窓の雪を掬って登のおしぼりを冷やすシーンの美しさは比類ない。この場面ひとつだけでもこの映画はみるに値するのである。
<外国映画 順不同>
①声もなく(韓国、2020年)ホン・ウィジョン(+脚本)、
主演:ユ・アイン
②揺れる大地(イタリア、1948年)ルキノ・ヴィスコンティ(+脚本)
③ミシシッピー・バーニング(アメリカ、1988年)アラン・パクラ、
脚本:クリス・ジ ェロルモ、
主演:ジ-ン・ハックマン、ウィレム・デフォー、フランシス・マクドーマンド
④ナースコール(スイス/ドイツ、2025年)ペトラ・フォルベ (+脚本)、
主演: レオニー・ベネシュ
①:死体処理などヤクザの汚れ仕事をする、少し知恵遅れで言語障害の鈍重な感じの若者テイン(ユ・アイン)は、あるときボスから、誘拐したのに冷淡な親が身代金を払わないため処理に手こずっていた聡明な少女(ムン・スンア)を、ボロボロの自宅で面倒をみるように頼まれる。しかしそこではじめてテインは、妹をふくめて3人の「家族」らしい人間の絆の歓びを知ることになる。そしてやがて「処分」を命じられたとき、彼は少女を伴って逃亡し、小学校で彼女を教師に託すまで守りぬくのだ。小品ながらまことに心をうつ物語ということができる。
②:当時は左翼だった巨匠ヴィスコンティの初期1948年の作品。イタリアはシシリアの漁夫一家は、魚の仲買人に過酷に搾取され、反抗して追放されて鰯工場の労働者になるが、起死回生の鰯の缶詰づくりの事業にも失敗してすべてを失う。だが、浜辺で出合った少女に思いがけず励まされて、船主になった仲買人の嘲りに耐えて頭を下げ、彼の漁船で劣悪な賃金の漕ぎ手として再び働き始める。俳優はすべてシシリア人の素人、言語はシシリア方言という。すべての細部は社会構造の認識に裏打ちされてきちんと描かれ、総じて暗い物語ではあれ、明日の希望がほのみえる。戦後リアリズム映画の古典とみることができよう。
1964年ミシシピー州の小都市での公民権運動の活動家3人の隠蔽された殺人を捜査するFBI捜査官、高学歴の正義派アラン・ウォード(ウィレム・デフォー)と、もと南部人でヴェテラン刑事のルパート・アンダーソン(ジ-ン・ハックマン)。①はふたりが地域のあらゆる厚い壁と闘って、ついに真相を暴くまでのスリリングな物語である。厚い壁とは、町長、キュー・クラックス・クラン(KKK)の陰のリーダーたる実業家、保安官、副保安官(ブラッド・トゥリフ)らの有力者および体制順応の一般白人が行使する黒人に対する徹底した差別と偏見、放火・暴行であり、当の黒人自身のおびえである。捜査の過程では、まじめで非暴力主義のアランと、それを「きれいごと」として恫喝、暴力、策略も辞さないルパートの間に諍いが絶えない。だが結局、副保安官夫人で美容師のベル(フランシス・マクドーマンド)の心に潜む良心に気づいて彼女に接近し親密になるルパートこそが、ついに彼女から決定的な証言(副保安官のアリバイ、死体を埋めた場所)を引き出すのだ。殺人を実行した者、知りながら黙認し隠蔽した者たちすべてが逮捕される。アランがあえて目をつむる、逮捕過程でのルパートらの恫喝や暴力やKKKを装うまでの策略の具体的な行動は愉快このうえない。ラストシーン。悪の仲間を「裏切った」として激しい暴行を受けて傷つき、退院後に壊された自宅に立ちすくむベル夫人と、そこで別れを告げるルパート。このふたりの名優の顔芸とさりげない台詞がいい。でも私はこの町が好きでここにいる、いい人もたくさんいる、次の派遣地からのお便りはいらないから・・・とベルは言う。その自立心がすがすがしい。エンタメ性、サスペンス、「きれいごと」ではすまない悪を撃つ実力行使などすべてをふくめて、これは私の大好きな映画だ。数ある黒人差別告発ものの白眉ということもできる。
④はこの欄の唯一の新作。スイスの州立病院で、極端な人員不足のため文字通り寸暇を惜しんで働く看護師フロリア(レオニー・ベルシュ)の遅番勤務の1日を淡々と描いている。子持ちでおそらく40代のフロリアは、感謝とともに実にさまざまの苦情を訴える多くの患者の見廻り、病状のチェック、薬の調合、点滴や注射、救急患者の搬送などを熟練のスピードと正確さをもってまったく寸暇なくこなす。患者たちに過剰に媚びず、激さず、それでいて慰め励ます。その感情コントロールのみごとさ。これら驚異的な激務への没入をみているといつしかじーんとしてくる。だが、そんな彼女も、たまたま焦慮の理由が重なって、ジュースをもってくるのが遅いとなじる裕福な患者に思わずかっとなって彼の高価な腕時計を窓から投げ捨ててしまう。この不祥事は偶然に解決をみることになるが一方、あまりの人不足のため見廻りがゆきとどかず、患者のトルコ人の母親が死んでしまう事件がフロリアを打ちのめす。泣きながら彼女はトルコのスカーフで美しく死者を装う。ようやく退勤になり疲れ果て帰宅のバスに乗る。背後からの撮影だが、隣の席にあのスカーフの女性が座る。でもあなたはよくやってくださったと伝える死者の幻だろうか。いつも凜としていたフロリアはその女性にもたれかかる。ドキュメント風のこの映画の、それは唯一ファンタスティックな美しいラストシーンである。
2025年の収穫・読書と映画 (2026年2月5日)
総選挙情勢を追ってこのうえなく憂鬱。ここでいったん離れてひと休み。「収穫」の紹介はタイトルのみ。●印は25年中にFB・HPですでに言及した作品。ランキングは厳密ならず。総じて「勉強」不足、初見の外国映画は不作の1年だったなぁ。ともあれ・・・
□社会・人文・歴史書 7冊――サブタイトル、最近刊の年度は省略
*鶴見俊輔 現代日本思想史 筑摩書房1991年●
*辻知子・水溜真由美編著 労働をめぐるシスターフッド 北大出版会
*ポール・ウィリス ハマータウンの野郎ども<山田潤、熊沢誠・訳>
ちくま学芸文庫1996年(原著は1977年)●
*田中将人 平等とはなにか 中公新書●
*ジョセフ・ステグリッツ<山田美明訳> 資本主義と自由 東洋経済新報社●
*林博史 沖縄戦 集英社新書●
*鄭玹汀 木下尚江――その生涯と思想 平凡社
□小説 10作(旧刊の再読をふくむ)
*ハン・ガン<井出俊作訳> 少年が来る kkクオン●
*ハン・ガン<斉藤真理子訳>) 別れを告げない 白水社●
*ガルシア・マルケス<鼓直訳> 百年の孤独 新潮文庫●
*吉田修一 国宝 朝日文庫●
*ケイト・クイン<加藤洋子訳> 戦場のアリス/亡国のハントレス ハーパーBOOKS
*桐野夏生 グロテスク 文春文庫2003年
*津村記久子 ワーカーズ・ダイジェスト/オノウエさんの不在 集英社2011年
*角田光代 対岸の彼女 文藝春秋2004年/坂の途中の家 朝日文庫2018年●
□洋画 5作品――監督・脚本・原作、主演など
*愛を耕す人(デンマーク)/ニコライ・アーセル(脚本も)
/ミック・マケルセン、ア ダ・コリン●
*西部戦線異状なし(1930年US)) ルイス・マイルストン/
原作:エリック・マリア ・レマルク/脚本:マクスウェル・アンダーソン
/ルイス・エイアース●
*シービスケット(US) ゲイリー・ロス(脚本も)/トビー・マクガイア、
ジェフ・ブリッジェス、クリス・クーパー
*リー・ミラー 彼女の瞳の写す世界(US) エレン・クラス
/脚本:リズ・ハンナほか/ケイト・ウィンスレット
*神は銃弾(US) ニック・カサヴェデス/原作:ボストン・テラン
/ニコライ・コス ター=ワルド、マイカ・モンロー●
□邦画 5作品――監督・脚本・原作・主演など
*国宝 李相日 原作:吉田修一/脚本:奥寺佐渡子/吉沢亮、横浜流星、渡部謙
*平場の月 土井裕泰/原作:朝倉かすみ/脚本:向井康介/堺雅人、井川遙●
*宝島 大友啓史(脚本も)/原作:斉藤順丈/脚本:高田亮ほか
/広瀬すず、妻富木聡
*花まんま 前田哲/脚本:北敬太/原作:朱川湊人/鈴木亮平、有村架純●
*室町無頼 入江悠(脚本も)/原作:坂根涼介/大泉洋
『敗北を抱きしめて』 共感と感銘 (2026年1月21日)
厳寒1月の2週間ほどかけて、ジョン・ダワー<三浦洋一/高杉忠明訳>『増補版 敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人』(岩波書店、2004年)を読み終わった。最近これほどに引き込まれて耽読した戦後史はない。
本書は、戦後1945年から52年に生起した未曾有の重大な出来事すべての詳細を縦糸とし、軍事国家の解体と民主化を一方的な命令によって推進したアメリカ占領軍、免責されて生き延びた天皇をはじめとする日本の戦前・戦中以来のエリート権力者、これまでの言動への自責と芽生えた希望の狭間で苦悩する文化人、茫然自失を経てマッカーサーに従属し、それでも、飢餓に苦しみながらさまざまの新しい営みをアナーキーに始めた無名の民衆――そうした全階層・両性の多くの人びとの懸命の対応を横軸として、戦後日本の混沌の実相を活写する、大きな絵図が刺繍されたような織物をみごとに縫いあげている。まことに視野の広い資料の渉猟、数えきれなほどの興味深いエピソードの犇めき、有名・無名の人物たちについて功罪と明暗の両面を凝視するバランスのとれた分析、そして折にふれてダワー自身の彼らへの愛着と嫌悪がふと現れもする雄勁で文学的な筆致。(上)(下)併せて830頁ほどの大著ながら憑かれたように読み続けさせる。政治史・社会史・生活誌、文化史という性格を併せもつ史書ということもできる。なお「増補版」で加えられた随所での多くの写真が、この壮大な物語にいっそう生々しい可視性を添えている。
細かくみれば時勢に即した微妙な変化はあれ、主要な三主体の言動の底流にある基本的な性格を、ダワーは次のように的確に把握している。帝王マッカーサー以下のアメリカ占領軍は、平和と民主主義を上から日本の地に移植しながらも、その統治上の判断で否定できない天皇ヒロヒトの戦争責任をあえて免責することを通じて、日本人にみずからの戦争責任を、なかんずく中国および東南アジアへの加害責任を忘れさせることに手を貸した。また日本の支配と統制には終始、勝者の傲慢による「白人優位」(いわば有色人種差別)のスタンスがつきまとった。典型的には、検閲制度ではいっさいのアメリカ軍批判などを嗤うべき細部の厳密さで禁止し、東京裁判では、軍部上層の罪状から天皇は無関係とこじつけ、未曾有の戦争犯罪たるアメリカの原爆投下にはいっさいふれなかった。それに冷戦と朝鮮戦争の勃発後、占領軍は、みずからが与えた平和と民主主義も投げ捨て、過酷な弾圧の対象を一挙に、超国家主義から左翼・共産主義、闘う労働運動へと転換している。
では、終生ただの一度もみずからの戦争責任を語ったことのない無自覚な昭和天皇と、高級官僚ら日本の権力エリートはどうか。彼らは結局,本質的にはなにも変わらなかった。この輩は軍部がまだ独走していなかった段階の明治憲法体制をなお望ましい「国体」とみなし、「軍政」ではない「間接統治」を奇貨として、日本陸軍の圧力は排除された政治の界隈で狡猾に従来の権力を温存したのだ。冷戦到来後の占領政策の「逆コース」化をたとえば吉田茂らが歓迎したことはいうまでもない。
それでも、日本の民衆は、戦前にはまったく奪われていた自由を享受し、なお戸惑いながらも、「与えられた」新憲法に込められた非戦・絶対平和主義と民主主主義をゆっくりと「抱きしめ」てゆく。ここにこそ、アメリカと日本の権力者を忌憚なく批判し、なによりも無名の人びとの哀歓のありかを掬おうとしたダワーの期待があった。この新憲法擁護の民衆意識はそして、おそらく80年代にいたるまでは、革新政党や市民運動の良識として生き続けた。穏健保守さえ総じてその陣営に属した。けれども世界の反戦平和と民主主義が思いがけず存亡の淵に立たされた2026年の今、豊かな時代を体験した日本の「国民」多数はなお、この憲法理念を、倫理的衝迫として、「抱きしめて」いるだろうか? 共感と感銘のうちに本書を閉じたとき、そんな不安にとらわれる。
スクリーン雑感 晩秋~冬 (2025年12月24日)
映画への愛執はいつまでも捨てられない。今でも3日にいちどは観る。しかし最近、痛感するのは、劇場での新作には、テーマが特殊にすぎ時空的なスケールが狭いなどの点で、どこかなじめず、少し前の『愛を耕す人』のように素直に感動に着地させる作品が少ないことである。それでも、邦画の①『平場の月』(土井弘泰監督、朝倉かすみ原作)、洋画の『殺しのプロット』(マイケル・キートン監督・主演)、③『プラハの春』イジー・マードル監督・脚本)などは観てよかった。
①では、地方都市の40歳ほどのまじめな写植印刷工(堺雅人)が高校時代の同窓生に再会し、そのひたむきな愛がいちどはわけありの過去にこだわってかたくなだった女性(井川遙)の心を開かせるけれど、彼女は病死してしまう。全編、自転車の相乗りに象徴される質素な中年男女の生活感がにじみ、それだけに結末には深い寂寥の思いにとらわれる。②は、記憶喪失になった殺し屋の父親が、最後の仕事として息子の殺人をみごとに自分の犯罪と偽装し、罪人として安んじて忘却の世界に入ってゆく。物語のユニークさが光る。そして③は、68年チェコの自由化に対して侵攻したワルシャワ条約軍の弾圧のもと、ラジオ報道の自由を守りぬこうとした放送局員(ヴォイチェフ・ヴォドホッキー、スタニスラフ・マイエル、タチアネ・バウホーフォヴァー)らの姿を活写する。13年後の東欧革命の先駆となった抵抗の人びとの勇気と創意に、やはり感動を禁じえなかった。
一方、居間を劇場としてTV録画と、自作または購入のDVDで観る映画は、ときにマカロニウェスタンの『夕陽のガンマン』(セルジオ・レオーネ監督)など、物語の質が低く、弱者への軽蔑的な人間観がいやで、観なきゃよかったと後悔する作品もたまにはあるとはいえ、もちろん総じて名作・佳作ぞろいである。たとえば、ドラマの隙のない緊密性によってサスペンスフルな『暗くなるまで待って』(テレンス・ヤング監督、オードリー・ヘップバーン)。稀代の映画人チャップリンの名人芸を楽しめ、人間愛に満ちた『チャップリンの独裁者』。日本軍人の理不尽な精神主義の犠牲を正面から描く『八甲田山』(守谷志郎監督、高倉健、北大路欣也、三国連太郎主演)。ちなみに苦境を乗り超えた高倉隊が地元の女性ガイド(秋吉久美子)に敬礼を捧げる場面が、別小隊の将校(三国連太郎)の傲慢な民衆軽蔑と対比させて、この映画のメッセージを象徴して美しい。そしてルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐』は、快楽主義のダンディなオーストリア軍士官(ファーリー・グレンジャー)がイタリアの貴婦人(アリダ・ヴァリ)を誘惑し利用してすべてを奪う、その非情さをリアルに描いて、名匠の人間観照の冴えを見せつける。
とはいえ、このたび私が双手をあげて推奨したい作品は、あまり知られていない、古くからの映画ファンだからわかるかにみえる、次の6本の名作である。ごく簡単な紹介を加えて紹介しよう。
*ミッシング(1982年アメリカ):コスタ・ガヴラス監督・脚本
軍事政権下のチリ。保守的で決まりきった考えのアメリカのビジネスマン、エド・ホーマン(ジャック・レモン)が、行方不明になった息子を、彼と一緒に抵抗運動に協力していた妻のベス(シシー・スペイクス)とともに探す。チリとアメリカの権力による隠蔽のため捜査は難航し、息子は早々に殺されていたことがようやく判明するけれど、その過程でエドは、酸鼻をきわめる拷問や殺戮の実相を知り、息子夫婦のレジスタンスの意義に目覚め、それまでぎくしゃくしていたベスに敬意を覚えるように変わってゆく。彼が傷心のベスを支えるように寄り添って帰国の途につくラストシーンがとても美しい。『Z』など優れた政治ドラマの作家、コスタ・ガヴラスの傑作である。なお、昨年の日本映画に同じタイトルの作品(吉田恵輔監督、石原さとみ主演)がある。これも心をうつ作品である。
*ミスティック・リバー(2003.アメリカ:クリント・イーストウッド監督
幼い3人が路上で遊んでいたとき、ひとりが幼児性愛癖の老人に拉致される。長じて3人は、顔役風のジミー(ショーン・ペン)、刑事シーン(ケビン・ベーコン)、拉致された少年は気弱で情動不安定なデイヴ(ティム・ロビンス)に「成長」する。物語はその3人の体験と交流と関係のもつれをていねいにたどり、挙げ句の果てジミーがデイヴを殺してしまうという悲劇になる。情動不安のデイヴを懸命に支えながら思いがけず彼を死に向かわせることになる妻セレスタ(マーサ・ゲイ・ハーデン)の佇まいがかなしく心に迫る。C・イーストウッド主演の作品、彼の監督作には凡作も多いけれど、暗い色調のこの映画は、私見では、『チェンジリング』、『父親たちの星条旗』とともにベストスリーに位置すると思う。
*西部戦線異状なし(1930.アメリカ):ルイス・マイルストン監督
第1次大戦下のドイツ。教師の熱狂的な愛国主義に煽られて従軍したパウル(ルー・エアーズ)は、あまりに過酷な戦場体験に打ちのめされる。帰郷しても心の居場所がなく、かつての教師を激しく非難して生徒たちに志願の拒否を勧め、みずからはまた戦場に戻ってゆく。そして塹壕の外に舞う蝶を捕らえようと身を乗り出し、狙撃されて死ぬ。「その日、西部戦線異状なし」とアナウンス。戦争の実態の徹底してリアルな描写がすさまじい。原作はレマルクの名作。優れた反戦映画の白眉であり、先駆的な古典ということができる。
*イミテーションゲーム エニグマと天才数学者の秘密(2014年、アメリカ、イギリス):モルティン・ティドウム監督
ケンブリッジの天才数学者アラン・チューリング(名演のベネディクト・カンパーヴィッチ)は、陸軍の暗号解読機関のチーフに抜擢され、はじめは彼の強烈な自尊心を嫌っていた同僚たちとも協同して、ドイツ軍のすぐれた暗号システム・エニグマをついに解読して、連合軍の勝利に大きく貢献した。だが、アランはホモセクシュアルであり、その行為で当時は非合法であった同性愛の罪で投獄される。そして過酷なホルモン投与の「治療」で生きる気力を奪われ、54年にはみずから命を絶ってしまう。やがてイギリスは97年から2013年にかけて同性愛の合法化と権利擁護に歩を進め、エリザベス女王は後のコンピューターの基礎となるチューリング・マシンの研究を死ぬまで続けていた彼に謝罪して、名誉回復を講じたという。余韻を残すエピローグである。
なお物語のなか、アランの同僚であり、かりそめの妻となった闊達で聡明なジョーン(キーラ・ナイトレイ)が忘れられない。彼女は、偏屈なアランと同僚たちの関係を温かく取りもち、死の前には、憔悴したアランを訪れて、あなたはどれほどたくさんの市民の命を救ったことでしょう、あなたが必要なの、自分の主催する研究所の所長になって!と励ますのだ。その瞳も、その言葉も美しく、老いた映画ファンを涙ぐませるに十分だった。
*ヴィレッジ(2023年、邦画):藤井道人監督・脚本)
巨大なゴミ処理所と伝統的な能舞台のある寒村を舞台に、殺人・放火・自殺の父をもつ無気力な片山優(横浜流星)、帰郷して優をいたわり励ます中井美咲(黒木華)、主人公を取り込んで支配する顔役の大橋修作(古田新太)、優に嫉妬して美咲につきまとう無頼の息子・大橋透(一ノ瀬ワタル)などの愛憎がくりひろげられる。その過程で、優の村の宣伝役としての華やかなマスコミ登場、嫉妬のあまり優を暴行して痛めつける透の美咲によるやむをえない殺人、ゴミ処理所で続けられてきた医療ゴミ不法投棄の隠蔽工作・・・などが複雑に錯綜し、すべてが破綻する。その挙句、優はすべてを隠蔽して後継者になれと迫る修作を、父のように殺人し放火するにいたるのである。物語の基調にある暗さや暴力性ゆえに、あまり喧伝されないけれど、これは傑作『新聞記者』を贈った藤井道人のもう一つの労作であり、そのストーリーの緊密さがもたらすサスペンスは、今の日本映画にはあまり例をみないように思う。
*ええじゃないか(1981年.松竹・今村プロ):今村昌平監督、今村昌平・宮本研脚本
1966(慶応2)年の江戸東両国は、離村の農民、職人、浪人、娼妓、芸人・・・が群れ、異国の象までも練り歩く喧噪の界隈。そこで展開されるのは、アメリカに漂流して一時滞在し送還された農民の源次(泉谷甫)と見世物小屋に売られた妻イネ(桃井かおり)との一筋の愛が、機をみるに敏な金貸し(三木のり平)、薩摩藩武士(寺田農)、フランス軍に武器を売りながら打ち壊しによる略奪を画策する顔役・金蔵(露口茂)・・・などの支配と操作に翻弄されて、別れと再会を続ける物語である。そのほか、琉球で薩摩藩に妻子を虐殺されたイトマン(草刈正雄)の復讐など、多様な登場人物やエピソードも興味深いが、ここではあえて割愛する。そして、東両国に蓄積されていた民衆のエネルギーはここにきて煮詰められ、沸き起こったアモルフな「ええじゃないか」のかけ声と踊りとデモが沸騰し、ついに両国橋を越え、東にあふれ出すのだ。女たちの「尻をまくる」抵抗の後、しかし、洋装の幕府陸軍の発砲は源次や金蔵など何人かの死をまねき、人びとは東両国に押し戻されるのである。宿願を果たしたイトマンの琉球への舟出を送ったあと、イネは虐殺の場の血染めの土をかきむしり、またやるよ、やめないよう・・・と泣き伏す。
ゾラの『ジェルミナール』(フランス革命暦での「芽生え」の月)での蜂起の描写が想起される。江戸下町の新旧ごった煮の風物の濃密さ、群衆シーンにみる民衆エネルギーの熱量、そのアナーキーな「革命」志向の鮮明さ。このような映画を今の薄味の日本映画界はもうつくれないだろう。今村昌平の秀作群のなかではイチオシとはされないが、これはわが愛執の一篇にほかならない。
読書のたのしみ 晩秋~冬にかけて (2025年12月21日)
10月に<新書ア・ラ・カルト>をFB投稿・HP収録をすませて以来の社会・人文科学系の読書体験は乏しい。本当に勉強しなくなったと思う。しかし、近刊の「軽い」本ばかりだが、そのうちでは、次に挙げる①石田陽子『不屈の人――物語「女工哀史」』(岩波書店)、②ナオミ・クライン<星野真志訳>『楽園をめぐる闘い』(堀之内出版)、③若月澪子『ルポ過労シニア――高齢労働者はなぜ激増したのか』(朝日新書)が良書だったと思う。
①は、細井和喜蔵と生活をともにした高井としおの生涯を描く評伝。としおは紡績女工を続けながら病身の細井を支え、名著『女工哀史』を完成させる。しかし公式の妻でなかったゆえに印税取得ができず、貧困のうちに関東大震災や弾圧や戦争の激動の時代を生きぬき、戦後はみずからも従事した画期的な「ニコヨン」の自由労働組合を立ち上げた。そのいつも権力に屈しない凜とした不屈の生きざまに感動を禁じえない。②は、コスタリカの民衆が、アメリカ帝国主義の強いる植民地経済ゆえの貧困と抑圧に対して、農民自前の自然農法のコミュニティを基盤に自由と自立を取り戻してゆくすばらしい営みを語る。
③は、清掃、警備、駐車場管理、倉庫での運搬、工場での箱詰め・・・などの職場で働く高齢非正規労働者の実情の報告である。高齢労働者は文字どおりの単純労働であり、給料はほとんど地域最低賃金水準である。胸に迫るのは、なお続く息子や娘の奨学金返済、彼ら、彼女らの就業時の過酷な体験に起因する引きこもりや労働意欲の喪失(もっとも深刻な80-50問題!)、みずからの病気ゆえの医療費・・・といった働かざるをえない動機である。短時間の不安定雇用で年収も150万円ほどにとどまる。例えば「E」さんは、派遣社員として、大手通販会社の物流倉庫で、カートから商品をとり、通路の両側に並ぶ引出しを選び、バーコードを確認して引出しにしまうという一連の作業を9秒以内に終えよと「指導」されている。そのスピードノルマの達成度は翌朝に掲示され、作業員はランクづけされるという。経歴上から無年金のまま、慢性腎不全で人工透析を続けながら、若者やフィリッピン女性などに遅れをとらないように彼は必死で頑張る。時給は1300円だ。このような多くの不遇の高齢労働者は、低学歴ではじめから非正規雇用として雑業のパノラマのなかを浮遊している。なんという「老後」だろうか。このようなルポは、研究は引退してもやはり読み続けたい。
④欧米のように管理者と労働者の峻別がなく、両者が職務上もキャリア展開上も連続的な日本的雇用慣行のなかで管理者を法的にいかに取り扱うか。濱口桂一郎『管理職の戦後史――栄光と受難の80年』(朝日新書)は、労働法学者、官僚、実務者などの時代ごとの言説を丁寧に引用して、この難問への挑戦の軌跡を克明にたどる研究である。管理者という存在の明暗がさして具体的に描かれるわけでなく、文献引用で埋め尽くされた内容なので、かならずしもおもしろく読める本ではないが、法制に弱い私にはしたたかに勉強になった。今後このテーマにふれるならば、まず参照されるべき労作ということができる。
⑤テーマに惹かれて繙いても、期待していたことが軽視されていて、立派な研究かもしれないがなじめない書物がある。私の場合、池本大輔『サッチャー 「鉄の女」の実像』(中公新書)がその典型例であった。
1984-85年のイギリス炭鉱労働者の長期ストを最後の著書とする私にとって、ストライキに徹底的に対抗して勝利を収めたサッチャーが、なじみある人間像であることはいうまでもない。けれども、本書は、70~80年当時のイギリスの政局、閣僚人事、外交、なかんづくアメリカやEUへの彼女の対応について過剰なほど詳細に記述する一方、サッチャーの施策が労働者や庶民の生活と文化に与えたインパクト、彼らからみた「鉄の女」への「期待」と嫌悪がほとんど具体的に描かれない。炭鉱大ストライキについても卑俗なタッチで大雑把にふれるだけだ。だが、あの大ストライキは、労働者・労働組合の発言権のゆくえ、彼らが大切に守ってきた生活のこれからのありよう、ものの考え方という意味での文化の存廃をめぐる闘争ではなかっただろうか。政治過程・外交過程論に偏った池本の著書は、庶民の生活意識、労働者階級の思想と文化、代表的には産業民主主義の意義についてあまりにも無関心なのである。その結果、サッチャーという個人の哲学も、その新自由主義的な政治が資本主義経済に一定もたらした「光」と普通の人びとが競争の生活に追い込まれるという「影」も、かならずしもすっきりしないままであるように思われる。
さて、いつも手放すことのない小説に目を転じよう。、この時期に特記すべきは、相次いで角田光代をいずれも楽しんで読んだことである。男に捨てられ妊娠して故郷の島に帰った女性が、すべてに無関心で大音響のロックに浸っていた認知症気味の母が産声に号泣するという短編 「ロック母」(講談社文庫2010年の初期短編集所収)にはなぜか泣かされ、何ごとも包み隠さず」がルールである京橋家の家族みんながそれぞれに秘密を抱えていて、本当は虚構の一体性が鬱陶しいけれど、結局「家族」は持ち直すという物語『空中庭園』(文春文庫、原著2002年)もおもしろかった。しかしここでは、とくに①『対岸の彼女』(文藝春秋社、2004年)と、②『坂の途中の家(朝日文庫、原著2016年)に注目しよう。ストーリーを細部まで再現できないが、①は、大学時代の友人・シングルの楢橋葵が経営する旅行斡旋・委託清掃の零細企業で働くようになった主婦・小夜子と葵、葵と高校時代に家出と心中未遂までともにした家族関係に恵まれないナオコ、その二つの交流でのある時の訣れと絆をきめ細かく描いている。②では、家事と幼い女児の育児を担って家庭に縛られていた里紗子がたまたま、幼い娘を殺してしまった水穂を裁く裁判員になり、その過程で水穂と自分の生活条件の共通性を心に刻む、水穂は私だ、と。
①と②の主人公の主婦はともに、実の祖母にも、夫びいきの義母にも、また理解あるようにみえるけれど本心ではとかく自分を低く侮蔑的にみる夫にも、抑圧と緊張を感じている。また育児にも周囲の「標準」に照らして賞賛されず、自信をもつことがない。つまり家族との関係ではつねに重い鬱屈を抱えている。経済的にも自由になるお金が乏しい。つまり評判の「良妻賢母」や「幸せな専業主婦」ではない。これらの作品には、時間の余裕がない日常生活の細部が実に細かく、例えば選んで買う惣菜の値段、夫の心ない言葉、(①では就業してからの)清掃業の仕事作法などが丹念に書き込まれている。就業時や外出時に義母に幼い娘を預け、息せき切って引き取りに行ってたとき持たされる義母のつくる食事パックが疲れた身に重すぎるつらさがくりかえし語られる。育児や家事の専担を強いられる女性に日々のリアルな描出が、フェニミニズムの理論に疎い私の心にも響くのである。
だが、角田光代の魅力は、その鬱屈がシスターフッドによって切り裂かれる爽快さだ。そう、女性同士のお互いのやりきれなさの理解や相互扶助の連帯。①では、かつてひとみしりだった葵は奔放なナオコに惹かれ、主婦規範にとらわれていた小夜子は時間を気にせず遊びに誘う葵に惹かれ、何でも話し合い、笑いさんざめき、自由と万能感を得る。「楢橋さんといっしょだと、なんだか何でもできそうな気がする」と小夜子は葵に言う。それは葵がかつてナオコに語ったのと同じ言葉なのだ。後に失踪するわけありのナオコの、ときに「まじめ」の規範を超えるまでの自由と闊達は、それを内面化した葵を経て小夜子に伝わる。そして、しがらみをもつ私は縛るもののない葵とは違うんだといったんは葵を離れた小夜子は、やはり葵との協同の職場に戻ってゆく。そして夢想のうちに小夜子は、対岸の葵とナナコに呼びかけられて、両岸をつなぐ橋に駆けよるのである。
②の里紗子は、裁判員として水穂の生活背景への理解を真摯に述べた後、懲役9年の判決を聞いて涙ぐむ。裁判所を去るとき、里紗子は、誰かに呼ばれた気がしてふり返る。誰もいないが「里紗子はたしかにみる。・・・白いワンピースを着てじっとこちらをみている女を。里紗子は一礼する。さようなら。小さくつぶやく」。誰かいた?と同行の女性に聞かれ、里紗子は答える。「よく知っている人が」。その終幕の美しさが私の心に浸みる。 その直前、娘を預けている義母や夫との関係も、里紗子が自立的なそれに変えようとすることも示唆されている。角田光代はこうして<シスターフッドによってこそ培われる女性のエンパワーメント>を鮮やかに描き出し、草の根のフェミニズムの確かさを抱きしめようとしているかにみえる。
●新書ア・ラ・カルト(2025年10月28日)
今年の夏以降は、くりかえし投稿してきたように、私と妻の入院や手術が続いて、心のゆとりをもてない「余生のための闘い」の日々だった。それでも、一方では酷暑に閉じ込められて外出を控えたことのうえ、とくに「闘い」が一応終わってからは午前の一定時間、習性の社会・人文・歴史分野の読書にふけることができた。といっても、もう専門の労働研究の浩瀚な専門書ではなく、主として新書である。ずいぶん冊数を数えたが、そのうち7月以降に繙いた作品について、よかれあしかれ印象に残った新書いくつかについて、精密な紹介とはいえない簡単な感想を、気ままに記したい。私自身の読書ノートでもある。
まず、そのクリアーな問題意識、共感できる視角、新書に不可欠な素人にも理解可能な叙述の具体性などにおいて、「読んでよかった」労作もがいくつかある。
その筆頭は林博史『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』(集英社)である。県民の4人に1人の死は「戦争だったから」としてしまうのはゆるされない。日本軍、地方政府、校長など地域ボスが、根こそぎの、投降を許さぬ督戦によって、膨大な沖縄人を絶望的な戦場に送り込み、あるいは不確かな「スパイ」容疑でみずから手にかけたのだ。林は、豊富なエピソードを重ねて、「日本の常識」にとってあまりに耳の痛いこうした命題を実証している。この本を読んだ感銘は、深く私の心に刻まれている。
次に今野晴樹『会社は社員を二度殺す 過労死問題の闇に迫る』(文藝春秋)。私にもなじみ深い過労死・過労自殺の事例紹介それだけで有意義であるが、本書の特質は、本人の死後、遺族たちが遭遇する会社や行政の対応の非情さに注目するところにある。そこに長きにわたり相談活動に携わってきた今野の強みが生かされている。また、階級分析の第一人者の橋本健二は、『新しい階級社会 最新データが明かす<格差拡大の果てに>』(講談社)において、みずから実施した大規模調査の詳しい紹介を通じて、5階級の経済状態、生活水準、意識などあらゆる面での格差の状況についてみごとな俯瞰図を与えている。これまでの橋本の類書と比べての本書の特徴は、①非婚ゆえにみずからは再生産しないけれど中流階級の没落によってその規模は一定維持される、非正規雇用者中心の「アンダークラス」厳存の確認、②性別格差という視点の重視、③階級所属や支持政党からは相対的に独立した思想のクラスターの摘出と、「リベラル」「伝統保守」「平和主義」が連携して、少数だが政治的権力のつよい「新自由主義右翼」に対抗するという路線の提起であろう。
そのほか、藤原辰史『給食の歴史』(岩波)は、なじみの制度でありながら、その現実があまり知られていない給食の明暗を、貧困や災害のインパクト、関係者の運動、教育効果といった諸点を考慮し、その歴史的展開をふまえてきちんと描く。初版は7年前であるが、類書のない、このテーマの必読文献である。
ほか岩波新書の近著では、友松夕香『グローバル格差を生きる人びと 「国際協力」のディストピア』と、吉田敏活『ルポ 軍事優先社会――暮らしの中の「戦争準備」』がおもしろかった。前者は、西アフリカ・ガーナの体験が中心の考察ながら、善意ある先進国の「国際協力」・「開発援助」が、避けがたい供与国・被供与国の上で関係の中でどのようにゆがんでゆくかを描いている。ユニークな視点で学ぶところが多かった。後者は、安保三文書と敵基地攻撃能力の宣言以来、南西諸島や本土で、ミサイル基地や弾薬庫の整備、オスプレイの配備、自衛隊に「若者名簿」を提出する自治体の輩出、自衛隊と米軍の一体化、空港や港湾の軍事利用の可能化などが、いかに人びとの福祉と生活を圧迫し、表現と行動の自由にインパクとなるかを明らかにする。『世界』と『前衛』に連載されたものであり、革新系野党の主張に慣れた読者にはすでになじみのものという感は否めないけれど、網羅的で目配りがよく、これはやはりいま私たちが直視すべき危機のきっぱりした提示ということができよう。
さて、新書との出会いがいつもすばらしいとは限らない。「その2」では、私の方の見識不足や感性の鈍化せいかもしれないが、確かに労作と認めはしても、よんでみてなんらかの意味で不満を感じたいくつかを紹介したい。
例えば井上寿一『新書 昭和史――短い戦争と長い平和』(講談社)。グローバリゼーション、格差、デモクラシーという「三つの観点」から、1926年~2025年を、戦前・戦中を4期、戦後を4期にわけて描く野心的な大作であるが、主内容は、天皇、政治家、作家、文化人、一般国民など階層や思想的スタンスがきわめて多様な日本人の行動や証言の集成である。博引旁証で興味深いエピソードも少なくない。しかし私には、「集成」がいささかとりとめなく、鋭い問題意識に貫かれた歴史のなかのひとすじの底流の把握が不明瞭だと思われる。「おわりに」の総括でも、推測される井上の保守中道的スタンスのゆえか、日本の近・現代史の負の遺産を凝視して、なお現在の深刻な状況を超える方途の示唆は不明瞭だ。吉本隆明『追悼私記』(筑摩2000年)や斉藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』(岩波2017年)のような、本来とりとめなさが許される種類の新書ならそれはそれでいい。しかし日本人の現代史体験にとりくむ作品はそうはいかないのである。
新書に不可欠なことは、誰にも理解できる具体的な事実の提示をもって著者の擁する論理や思想を諄々と説くことだと思う。主内容がふつうはあまりなじみのないアカデミックな、あるいは「マニアック」な文献紹介の解読であるような作品は私のようなその分野の素人にはすべてを理解できない。広く読まれている鶴見太郎『ユダヤ人の歴史――古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(中央公論)と、小川公代『ケアの物語 フランケンシュタインからはじめる』(岩波)がそうだった。
前者は、「3000年の歴史をもつユダヤ史を雄大なスケールで描く」。この惹句によれば私もふくめて読者が期待するのは、歴史を通じて数多の権力国家に翻弄されてきたユダヤ人の具体的な体験史であろう。いくつかの大国に離散・放逐・あるいは被差別的ながらも抱擁されてきたユダヤ共同体の自治、適応、面従腹背の物語も確かに描かれる。しかしその具体像の記述は本書では比較的あっさり描かれ、詳細に紹介されるのは、古い文献による共同体の地域間の相違、分派、それぞれの内部での法典・戒律の解釈と実践、いわば宗教学的な分析であり、私のように予備知識のない者には、用語からして難しく、ダイナミックな大筋を理解しがたいのである。例えばいま、ホロコースト体験をもつユダヤ人が、歴史上もっとも彼らに寛容であったムスリムを殺戮してやまない悲劇はなぜ生じるのか。そんな素朴な知識欲が満たされない。
後者は、性、人種、階級、性的志向、障害、あるいはそれらの重なりなどによって「弱者」とされる者たちの人生を掬う思いやり、すなわちケアの大切さを、東西古今の文学、映画、アニメなどの渉猟を通じて語ろうとするユニークなアプローチである。けれども、ロマン主義文学を専門とする小川がもっぱらページを割くのは、これら弱者の具体的な状況ではなく、上の差別要因のほとんどにふれているという「フランケンシュタイン」を中心とした、多くは私には未知の小説やアニメのストーリー紹介である。ときには、はたと膝を打たせる指摘にも遭遇する。たとえば、諸差別要因の「加算」にとどまらない重合の大きな役割、「インターセクショナリティ」などがその例である。しかししばしば、すべての記述を納得して内面化できない戸惑いが続く。介護ルポなどに慣れた者には、これが「ケアの物語」と言われても困惑するのだ。本書はむしろアカデミックな研究書として刊行されるべきだったと思う。
最後に、蛇足ながら、ほぼトータルに反発を感じた稀な書物として、エマニュエル・トッド『西洋の敗北と日本の選択』(文藝春秋)をあげておく。この御仁は世界的に著名な歴史人口学、家族人類学の泰斗らしいが、この本は主として文春編集部(翻訳も編集部)に語った七つの講話を寄せ集めた、なくもがなの本というほかはない。
トッドは言う――「西欧民主主義」はいま、労働倫理はもとより、自由、知性、批判的思考・・・といった理想や価値観の消滅によって崩壊しつつある。トランプのアメリカをみれば確かにそうかもしれない。彼はしかし、道徳の崩壊に加えて技術(エンジニアや熟練労働者)、製造業、さらに軍事力の衰退などをみてアメリカの行方を絶望視する惰力として、日本はもう頼りにできない日米同盟を脱し、自衛のために静かに核武装すべきだと論じて、私たちを仰天させる。
トッドはまた、ウクライナ戦争においても生産力と周到な世界戦略を保つロシアが勝利するだろうと言う。その見通しはともかく、私が決して承服できないのは、ウクライナ戦争を引き起こしたのはロシアの強い警告を無視してNATOの拡大を画策したアメリカであり、ロシアは自衛のための軍事作戦に着手せざるえをえなかったという、アメリカ元凶論である。正当な議論だろうか?
長年、ソ連・ロシアに犠牲を強いられてきたウクライナがNATO志向になるのは当然であろう。プーチンのロシアは、おそらく過剰の警戒心を襲われて、ウクライナを一方的に侵略し、住居や病院を破壊し、家財を略奪し、人びとを殺戮し、拷問し、子供たちを連れ去った。あらゆる戦争犯罪が行われている。多くのウクライナ人は、むろん西欧の援助を受けてではあれ、犠牲を顧みず抵抗し続けている。彼ら、彼女らは、かつての横暴なロシア、そして眼前で蛮行をくり返すロシア、そのような国になりたくないのだ。ロシアの支配に屈したくないのだ。現実の選択として、いつかは領土割譲などの現実的な妥協を迫られるかもしれないけれど、今は以上のこと、それのみが私たちが依拠すべき真実なのである。
時代を認識すべき知識人のはずのトッドは、ロシアによる多くの市民の殺戮をはじめとする戦争犯罪について、ウクライナ人の心情や選択についてなにひとつ語らない。かりに西欧の現実が絶望的だとしても、なぜここまでロシアに無批判になれるのだろうか? 本書は、日本でもときに聞かされる「ロシアもアメリカも、どっちもどっち」論よりも偏った放言である。これを刊行する編集者の見識が疑われる。
酷暑に閉じ込められて(2025年8月21日)
ごく最近、わずかに緩和されたように思われるが、この観測史上最高と言われるこの夏の酷暑には正直まいっている。午前6時台から40分ほど散歩するだけがやっとで、日中4000歩も歩けばなんとなく足取りは心許なく、基本的に外出はかなわない。けだるく食欲がいまひとつ。必要な四日市への病院通い、それと同時の買物、夕方1時間にかぎりの庭の草取り・枝払いのほかは、クーラーの部屋に閉じ込って、妻の25日の入院と27日のカテーテル手術(TAVI)を待つのみの日々である。萎縮している。憂鬱で、冴えない。
しかし、それだけにこの間、わりとよく本が読め、DVDですぐれた映画を再見することができた。いずれ内容紹介と「推す」理由を記したいと思う。しかし今はその気力も余裕もなく、ここでは厳選した作品のタイトルとランクだけをメモするに留める。書物では、いずれも内容が豊富かつクリアー、叙述スタンスにも共感でき、結局「おもしろい」名著または好著であり、映画では、いずれもサスペンスに冨み、リアルで切実な悲しみに満ち、最後にはかすかな光を感じて、あらためて感銘を禁じえなかった作品である。
<一般書>
①林博史『沖縄戦――なぜ20万人が犠牲になったのか』集英社
②鄭玹汀『木下尚江 その生涯と思想』平凡社
③ジョセフ・E・ステグリッツ<山田美明訳>『資本主義と自由』 東洋経済新報社
④今野晴樹『会社は社員を二度殺す――過労死問題の闇に迫る』(文春新書)
<小説>
①桐野夏生『グロテスク(上)(下)』文春文庫(2024年・原著03年)
②ケイト・クイン<加藤洋子訳>『 戦場のアリス』ハーパーBOOKS
③吉田修一『国宝(上)(下)』朝日文庫(初版2021年)
<日本映画>
①ヒミズ(フィルムパートナーズ・2011)園子温(+脚本)、主演:染谷将太、二階堂ふみ
②ひろしま(53.日教組プロ、1953)関川秀雄、脚本:八木保太郎、主演:岡田英次、山田五十鈴、加藤嘉、月丘夢路
③放浪記(宝塚・1962)成瀬巳喜男、原作:林芙美子、脚本:井手敏郎、田中澄江、主演:高峰秀子、室田明、加藤大介
<外国映画>
①善き人のためのソナタ(独・2006))フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク(+脚本)、主演:ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ゲッデック
②ジョーカー(米.2019) トッド・フィリップス(+脚本)、主演:ホアキン・フェニックス
③ドキュメント・灰となっても(香港、英・2013年)アラン・ラウ(+撮影&編集) *この項唯一の劇場観賞
④日の名残り(英、US・1994) ジェームズ・アイヴォリー、原作:カズオ・イシグロ、主演:アンソニー・ホプキンズ、エマ・トンプソン
⑤バベットの晩餐会(87デンマーク・1987)ガブリエル・アクセル(+脚本)、原作:アイザック・ディネーセン、主演:ステファーヌ・オードラン、ビビ・アンデルセン
⑥別離(イラン、2011)アスガル・ファルハーディ(+脚本)、主演:ベイマン・モアディ、レイラ・ハタミ、シャファフ・ホセイン、サレー・バヤト
『ハマータウンの野郎ども ――学校への反抗・労働への順応』再読 (2025年4月20日)
(1)イギリス労働者階級の子どもたち
このたび、24刷に到ったロングセラー、ポ-ル・ウィリス『ハマータウンの野郎ども――学校への反抗・労働への順応』(ちくま学芸文庫、1996年、原著LEARNING TO LABOURは1977年刊)を、ある必要性を感じてあらためて精読した。翻訳者はすぐれて畏友・故山田潤。私の関わりは「共訳」者の名に恥じるほど限定的であり、出版交渉、部分的な翻訳修正アドヴァイス、読みやすい訳文へ修正などにすぎない。
本書は、イギリスにおける公立中等教育機関の底辺、労働者階級の11歳~16歳の子弟の大半が通う「セカンダリー・モダン・スクール」を舞台に、学校に反抗する「野郎ども」グループのビヘイビアを、学校に順応する「耳穴っこ」などと比較しながら、前半ではその生活誌を語り、後半ではその反抗の意味と評価の明暗を分析する、文化人類学・社会学研究の名著である。とりあえず充実この上ない本書の内容の「概要の概要」を、いくらかは私の思い入れもくわえて紹介してみよう。
野郎どもは、階級差別感のない教師たちが懸命に提供しようとする知識、秩序と実直への躾、個人としての能力開発と努力の将来的な効用・・・などを無視し、からかい、やりすごす。学校文化への順応は、今ここにある自由、なかまと共有する悪戯の楽しみや絆を捨てることになるゆえ窮屈なのだ。彼らは学校に順応して、進学コースのグラマースクールや、熟練工の徒弟になる過程としての「テクニカル」に赴く耳穴っこをなかまから排除し、ひそかに軽蔑している。その結果、野郎どもは卒業後はいわば必然的に分業構造の底辺に位置する肉体労働に就く。しかし野郎どもは従容として底辺の仕事に順応するのである。
野郎どもが打ちのめされないのはなぜか。ウィリスはそこには学校教育の効用が及ばない資本主義的階級社会に普及する労働のある現実についての、彼らなりの「洞察」があるという。大半の労働はどれも同じ無意味な営みであり、大切なのは労働の内容ではなく代価としての稼得である、それに、底辺労働から上への脱出可能性は限られており、そのための努力のために当面の自由や「やつら」に対する自律性や消費の楽しみを繰り延べて我慢することはない・・・。それになんといっても底辺の肉体労働は(今流行のタームでいえば)エッセンシャルな仕事なのであり、それを俺が担うのだ・・・というわけである。
ここにもうひとつ、注目すべきことは、野郎どもの反学校文化や就職スタンスについてのある自信が、父親やその職場に根を張る労働者文化に抱擁されていることだった。ウィリスは美しい文章でくこう書いている。
一般に労働階級の職場文化は・・・きびしい労働条件や他律的な服務にもかかわらず、労働する人びとがそこになんらかの肯定的な意味を見いだそうとし、独自の行動規範を打ち立てようとする事実のうちに本来的な根拠を置いている。他人によってどれほどきびしく管理される場合であっても、職場の労働者たちは自分たちでなしうることを実行に移し、その自前の実践のうちに楽しみを見つけ出す。それ自体は生気のない干からびた労役の間をぬって、およそ敗者の泣き言とはほど遠い文化が生きているのである。よそよそしい力が支配する状況を自分たちの論理でとらえかえす・・・
そこには、一定範囲での労働者自治による環境の読み替えがある。例えば自動車のエンジン加工ラインで働く野郎どもの父親のひとりは語る――職場を仕切ってるのはおれたち。職長が配置を決めるのでなく、おれたちが担当職務を輪番で遂行する。ラインには4つほど厄介な担務がある。それを仲間たちが交替でやる。いちど職長が勝手に配置を命令しようとしたので、おれたちはストライキをした・・・。
私見では、これは多分イギリス特有のやまねこ(非公式)ストライキであり、その背景にはその当時(70年代)・その地域(バーミンガムに近い工業都市)で強靱であった労働組合、おそらく非熟練工を中心とする運輸一般労働組合(TGWU)が盤踞していただろう。日本では考えられないほどの仕事配置に関する労働者の自治的支配ということができる。ともあれ、そんな父親の体験談を聞き育ってきた野郎どもは、これは学校で自分たちでやってきた「環境の読み替え」と同じだ、だから自分たちは、働くようになっても、こんなふうにやってゆけると感じるのである。
とはいえ、ウィリスはここから反転して「洞察」の批判、その光を曇らせる「制約」の考察に立ち入る。野郎どもの情念には、アジア系移民に対する差別意識とともに、ぬきがたく男性中心主義、ある女性蔑視にもとづく性別役割分業意識がまとわりついている。それがマッチョな筋肉労働の重視と過剰な誇り、仕事の精神労働的側面や事務労働の役割の軽視を導き、ひいてはそれぞれの職業の多様性の尊重や、仕事そのものでの裁量権拡大の意義を見失わせることになる。長年の徒弟経験の上で一定の裁量権を享受する熟練労働なぞは耳穴っこの仕事、机の事務労働なぞは女の仕事というわけである。そしてこうした「制約」は結局、なかまの限定を通じて、大元で労働者階級全体を支配する資本主義のピラミッド型の分業構造を撃つことなく、むしろその再生産に寄与するのだ。皮肉にも、そして悲劇的にも、支配を拒む野郎どもは与えられる底辺労働に従容として順応することによって、彼らが歯牙にもかけぬ体制の企図する階層的分業への人びとの「しかるべき配置」に協力するにいたるのである。
こみいった考察ながら、なんという明晰な、この上なく密度高い叙述だろう。ほとんどの文章にサイドラインを引きたくなる。この充実の内容を伝える山田潤の訳業はまことにみごとである。山田と私は、1979年、イギリス労働組合のヒアリング調査で協同し、帰国してからそれぞれがほとんど同時期に原書を読んだ。私はこの本につよく惹かれたが、私の英語読解力ではいかにも心許なく、抜群の英語力をもち、高校教諭で教育問題にもくわしい山田を頼み、彼の訳で出版するよう筑摩書房に交渉した。いま再読して、山田の訳業の周到さにあらためて舌を巻き、2022年7月、74歳で他界してしまったこの盟友のことをしきりに追想したものである。
私たちの訳業の動機のひとつは、私たちの国の教育・労働関係の状況が、1970年代のイギリスとあまりに対照的であることに気づいた衝撃であった。しかし両国の状況はもちろん不変ではあるまい。そうしたことなどを、原著の時点、翻訳出版の時期、そして現時点について考えるみることが、このエッセイ後半のテーマである。
(2)<教室と職場>・日本におけるその関係の推移をめぐって
私と山田潤が、LEARNING TO LABOUR(1977年)の訳業を思い立った動機は、すでに(1)で述べたように。かねてから深い関心を寄せていた学校生活と就職との関係のありかたにみるイギリスと日本の大きな違いにひとつの衝撃を受けたからである。
私たちの国では長らく、<よい学校への進学⇒良好な学業成績⇒有利な就職⇒スムーズな昇進>というコース選択が、普通の国民意識であり、それがまた教育熱心な親、「まじめな」子弟の願いであった。そして高度経済成長期には、この個人主義的で能力主義的な選択はかなり成功が約束されていたかにみえる。翻訳をはじめた90年代半ば、中学卒の38%は高校へ、高校卒の45%は大学へ進学している。おそらく産業社会の要請する多くの職務に必要な学力や知識の総量がこの学歴水準の膨張をもたらしたわけではない。けれども、人びとは学校が評価する勉学の態度(例えばに嫌いな科目でも真剣に取り組む姿勢)、秩序への順応、実直さなどが、私見では配置のフレキシビリティに応じうる<生活態度>という日本的能力主義の要請に適合的であることを把握していたのである。
1970年代をピ-クとして管理教育に反発する生徒たちの暴力的反発もあり、いつの時期にも学業についてゆけない生徒たちの輩出があった。だが、イギリスの「野郎ども」のように、親たちもさして気にとめない反学校文化の生徒たちが層として形成されることはなかったように思われる。日本では学校文化に順応する「耳穴っこ」が圧倒的であり、そうでない生徒は「落ちこぼれ」であった。広義の「落ちこぼれ」は総じて孤独であり、打ちのめされていて、野郎どものように仲間との黙契に従って朗かに、したたかに学校生活を過ごし、従容として底辺労働に赴くビヘイビアはない。年々増える一方の理不尽ないじめやしかるべき不登校は、学校という権威の限界を示すものとはいえ、それらは若者たちの自信とユーモアをふくむ反学校文化とはいえないのである。
なぜそうなるのか。イギリスの野郎どもが学校での評価を気にしないのは、背後にある伝統の労働者文化に抱擁されており、どんな底辺労働についてもその抱擁のなかで「環境を読み替えて」結構やってゆけると感じているからだ、過酷な労働条件に遭遇しても、労働者の仲間に入れば、権力に抵抗できる一定の自治的な営みができる、と。しかし対照的にも、ある意味ですでに「国民的」で、労働者階級の文化はまず不在であり、底辺労働の界隈で産業民主主義的な抵抗を見通せない日本では、いいかえれば学校での評価が職場での明暗に直結している日本では、学校での落ちこぼれは打ちのめされたまま、あえていえば3k(危険で・汚い・きつい)仕事、あるいはなかま間の競争と能力主義の熾烈な職場に赴くほかないのである。学校の落ちこぼれは胸を張って就職することができない・・・。
このような日英・彼我の違いには、では2020年代なかばのいま、なにか変化が見られるだろうか。
イギリスも変貌を遂げている。国際的な経済競争への対応と産業構造の変化に迫られたこの国において、1980年代以降、新自由主義の旗手サッチャーは、70年代まで強靱さを誇った労働組合運動に挑戦して勝利を収め、その背後にあった労働者階級の絆に支えられた労働者文化の建材を危うくもした。進出した日系企業の「日本的経営」のインパクトもあって、就職した野郎どもにそれでもやってゆけると感じさせた労働者の自治的規制の余地も狭くなったといえよう。一方、学校についても中等教育の一元化が進められ、個人の競争的ながんばりによって将来の仕事の明暗が決まる兆しが現れている。私はこの分野の見識に乏しいが、イギリスもその点では、国民規模で競争が展開される「単線教育」の支持者が多い日本に接近したとはいえよう。
では、私たちの国ではどうか?1970年代後半、低成長時代の到来とともに親の期待が達成される余地が狭まり、限られた有利な就職・順調な昇進と昇給のポストという成功を求める進学熱・受験競争がいっそう熾烈化する。しかし「失われた20年」を象徴する就職氷河期(1993年~2004年)は、「一流」大学を卒業して努力した競争の勝者に大企業正社員や公務員や各種の専門職のポストを獲得させる一方、他方では就職戦線での多数の敗者を多様な非正規雇用者、正社員でも「ブラック企業」の従業員、都市サービス産業の雑業などに追い込んだ。平等なはずの国民は、「団塊ジュニア」の世代においてこうして明瞭に格差をもつ階層に分断されたのである。
そしてこの階層化が進行するなか、次世代「Z世代」のうち敗者の家庭で育った若者の多くは、不遇の親たちの勉学の督励も空しいと感じ、学校の提供する知識のまじめな習得が卒業後の企業や職種の選択に大きな意義をもつとは信じられなくなっている。2024年の時点では、中卒の99%は高校に進学し、高卒の59%は大学に進む。しかしそれ自体も質的レベルにおいて階層化されている高校でも大学でも、その「下半分」では徹底した勉強離れと学力不足に多くの教員たちは空しく手をこまねいている。大学によっては学生はほとんどフリーアルバイターといえよう。全体として野郎どもが輩出し耳穴っこの層が薄くなったという点に限ってはイギリス化が生じたといえないこともない。
だが、制度としての学校の空洞化以上に本当に深刻なことは、若者の勉強離れ・学力不足のもたらす知性、とくに批判的知性への徹底的な忌避というおそるべきモメンタムにほかならない。スマホのSNSしかみない、TVでは深刻な番組は避ける、本や新聞は読まない、いや万事「タイパ」志向で、フェイクを正確に暴く書物などは読まないばかりか、もう読むことができなくなっているという。それは扇動政治に易々と靡く悪しきポピュリズムの土壌と断じることができる。
「落ちこぼれ」が就くことになる仕事やどれも似たような一般労働であり、学業の努力は刻苦精励に値しないという認識は、野郎どもの「洞察」と同じかもしれない。だが、ここでふたたび注目すべきは、日本においてはイギリスでは学校離れを抱擁した労働者文化は、依然として不在であり、いっそう不可視であることにほかならない。団塊ジュニア世代の成功者は競争と結果的格差を肯定する能力主義の鎧を身にまとったけれども、不成功者たちは新自由主義の掟である自己責任論で問責され、アトムのまま不遇に絶え続ける。その子弟は、真実エッセンシャルワークであるか否かを問わず、就業可能だった労働条件の劣悪な仕事群に、「従容として」にはほど遠く、やむなく、あるいは自暴自棄で入ってゆくのだ。その界隈で「環境を読み替える」仲間の絆も、それができる労働組合運動もさしあたりないからである。
このように暗い考察のうえで私はどのような希望を紡ごうとしているのか? 具体的な提言にはほど遠いが、発想の方向としては、要点はふたつである。
ひとつには、産業規模であれ、職種横断であれ、シスターフッドであれ、地域ごとであれ、生活と権利の必要性と可能性が可視的な範囲にあるなかまが、共通の文化(ものの考えかた)を育てることのできるソサイエティ、例えば地域の企業横断労働組合や市民運動グループなどの凝集体を、いかにしても構築し広げること。
いまひとつには、その対話と学習活動を通じて、ソサイエティのメンバーが権力やエリートからの加圧――誘導や操作や統制に抵抗できるまでの批判的知性を培うこと。そのためには、公教育の巨大な資源を、視野のひろい教員たちの協力のもとに活用すること。
あながち時代遅れのロートル・レフトの空想論ではない。さらに論を進めることはもう私にはできないけれど、なお支配的な新自由主義のなか社会的格差が深化しているのに、社会民主主義ばなれした「保守中道」のかたちでアモルフな国民を統合しようとするナショナリズムの風が吹きはじめている現代日本でも、そのゆくえを危ういと感じる人びとの試みる、こうした萌芽はかならずあるはずである。
