2025年の収穫・読書と映画      (2026年2月5日)

『敗北を抱きしめて』 共感と感銘      (2026年1月21日)

スクリーン雑感 晩秋~冬 (2025年12月24日)

読書のたのしみ 晩秋~冬にかけて   (2025年12月21日)

●新書ア・ラ・カルト(2025年10月28日)

酷暑に閉じ込められて(2025年8月21日)

『ハマータウンの野郎ども           ――学校への反抗・労働への順応』再読    (2025年4月20日)

<なぜ今、労働組合なのか>を語るなら・・・ (2025年2月2日)

 労働組合運動の実践者であれ研究者であれジャーナリストであれ、<なぜ今、労働組合なのか>を問うならば、この課題はおよそ次のように解いてほしいと思う
 まずは、日本の労働組合の現実の営みをみつめ、先進国の水準に照らしてその実態を忌憚なく批判することからはじめるべきであろう。そのためには、連合や傘下単産(これは産業別組合ではない!)の幹部スタッフたちの「検討中の構想」にもまして、財政的にも決定権においても枢要の存在である単組、企業別組合の現実のビヘイビアが問われなければならない。
 着眼点としてはなによりも、労働者が日々不安やしんどさを痛感している職場の諸問題――主として正社員のパワハラや過重ノルマ、全人格的な査定の強いる競争と選別、ひいては過労死・過労自殺、主として非正規労働者では広範囲の処遇の被差別が掬われねばならない。個人レベルの受難とされているこれら日常の諸問題こそが、企業の労務管理との対決を避けて、いま企業別組合が守備範囲外として傍観している事柄なのだ。それこそが一般の労働者が労働組合というものにもう期待しなくなっている最大の理由である。
 カスハラ対策や「生産性の高い部門」への労働移動の斡旋や保障、中小企業の人件費アップの価格転嫁の公的支援、労働協約の拡張適用など、労働運動のフロンティア拡大を国の施策とともに計る上部組織のボスたちの構想は、それ自体むろん望ましい。だが、企業別組合が、例えば所属企業に下請単価のコスト転嫁を認めさせる、非正社員に正社員と同じ賃金システムや同一価値労働同一賃金を適用させるなど、労使対決が不可避になる実践を迫られない限り、単組は批判の外にあり、そこでのボスたちは労使協力に安んじることができる。自治労福岡の非正規水道検針員への労働協約の拡張適用といったすばらしい実例はないわけではないけれども、「単組はなにをしているか」の検証を避けたフロンティア構想の言説はどうしても実践例の紹介を欠き、実例は総じて欧米の出来事になる。
 どのような論者であれ、日本の労働組合論の取材対象は連合、連合系単産、またはその流れに親和的な研究者に限られてはならない。視線が偏ると、「分析」の彫りは浅くなる。取材対象は、全労連、全労協、連合系ハートフルユニオン以外のコミュニティユニオン、労働弁護士や今の労使関係に批判的な論者にも及ばねばならない。いわゆる「左翼」の排除は偏狭だ。なぜなら、職場の日常の受難、非正規労働者の差別撤廃、中小企業の労働条件向上などのために体を張ってきたのは、すぐれてそうした担い手だったからである。
 取材対象としての「左派」の包括は、労働組合の大衆的な行動形態、例えばストライキの可能性にもっと関心を払うことに通じる。例えばほどほどの賃上げが是認される今の春闘論議でも、労働組合のボスたちもマスコミの報道も、ストライキの可能性を口走る者は誰もいない。周知のように日本でのストライキの異様な僅少さは先進国では異例ではないだろうか。欧米の組合運動に学ぶべきは、組合員以外の市民・住民との連携ばかりでなく、最近における組合のしかるべき産業内行動(ストライキ、ピケ、ボイコット、街頭行動)の著しい復権である。日本ではすでになぜそれが想定外になっているかを、国民思想の課題として立ち入って考えねばならない。
以上のコメントは、ジャーナリスト・藤崎麻里の『なぜ今、労働組合なのか――働く場所を整えるために必要なこと』(朝日新書、2025年)という近著への全面的な批判にほかならない。さよう、藤崎著書は、上記で「・・・ねばならない」「・・・べきである」というところにことごとく背反する。労働組合の意義がまったく見失われている日本に、藤崎は労働組合って捨てたもんじゃない、こんなこともできるよと語っている。組合運動に希望をつなごうとしている意欲と善意には深く共感する。できれば温かい感想を寄せたかったと思う。しかし、目前の労働組合の現実にあまりに無批判で、パワハラもノルマにも、非正規労働者のなかに増えつつある貧困層の生活実態にも言及されない藤崎本の内容は、連合や単産の幹部たちには迎えられるかもしれないけれども、普通のサラリーマンやOL、ブラック企業との闘いに苦闘する「非正規春闘」のコミュニティユニオンの担い手たちにとってはまことに期待外れというほかはない。錯誤の善意というべきだろうか。

2024年の収穫 読書と映画

(1)社会・人文系の書物
 労働と社会の研究からの撤退を自覚した2024年、本当に勉強しなくなった。この分野の読書はまことに貧弱で、いろんな関心はあっても、読むのは主として新書を中心とした小著ばかり。こうした「収穫」の紹介は今年をもって終わった方がいいように思われる。
 それに、新しいことをキャッチする感性のアンテナが錆びたのか、老人性が薨じて「こらえ性」がなくなったのか、テーマに惹かれても読み進めるうちにすぐになにかの不満でいらいらすることが多くなった。以下、むしろ一般的には社会的な意義があり高い評価も受けた良書が多いけれど、そのいくつかへの私なりの不満を書いてみる。
 例えば田中洋子(編著)『エッセンシャルワーカー 社会に不可欠な仕事なのに、なぜ安く使われるのか』(旬報社)や、斎藤幸平、松本卓也編『コモンの「自治」論』(集英社)は、問題意識の的確さと編者の叙述の充実を痛感する一方、多くの(多すぎる!)寄稿者の文章が総じてものたりない。原武史『象徴天皇の実像――「昭和天皇拝謁記」を読む』(岩波新書)は、裕仁のあまりの無責任、自省の欠如、非人間的なまでの人格の軽さに対する嫌悪と軽蔑がつきまとい不愉快だった。一方、麻田雅文『日ソ戦争――帝国日本最後の戦い』(中公新書)は、その克明さにおいてすぐれた戦史であるが、ソ連、米国、日本の政治的思惑やそれぞれの戦闘の作戦、用兵、指揮の判断などの日毎の詳細な記述などは、そこまで知りたいとは思わないよと感じて退屈もした。それとは逆に、橘木俊詔『資本主義の宿命――経済学は格差とどう向き合ってきたか』(講談社現代新書)は、格差是正をめざす社会民主主義のスタンスに同感でき、ピケティ登場の意義について教えられたとはいえ、全体に分析が簡単にすぎて浅い。くわしくは数多い自著を参照せよと言うわけだ。それに、なによりも、格差是正の営みや社会民主主義体制の構築に占める労使関係、労働組合運動に徹底的に無関心であることが致命的である。それから近藤絢子『就職氷河期世代』――データで読み解く所得・家族形成・格差』(中公新書)。かねてから「私は団塊ジュニア」に当たるこの世代の成功者と不成功者の分化に深い関心があって、すぐに読んだけれど、その内容は、この世代の重要性の相対化を明らかにする官庁統計の無味乾燥の報告に徹し、人びとのナマの生活にはふれられず、私の関心とあまりにずれがあってつまらなかった。
 社会的にはおそらく意義深い良書について身勝手な不満を書きつらねてしまったが、そんなわけで結局、今年、私なりに「おもしろく」、示唆的で勉強になったこの分野の著作は次の通りである。24年以前の作品のみ発刊年を記載した。
①黒川創 鶴見俊輔伝(新潮社)2018年
②五野井隆史 島原の乱とキリシタン(吉川弘文館)2014年
③上野千鶴子・江原由美子編著 挑戦するフェミニズム――ネオ リベラリズムとグローバ リゼーションを超えて(有斐閣)
④満薗勇 消費者と日本経済の歴史――高度成長から社会運動、 推し活ブームまで(中公新書)
⑤上杉忍 アメリカ黒人の歴史(増補版)――奴隷貿易からオバ マ大統領、BLM運動まで(中公新書) 
かんたんなコメント加える。
 ①:戦後日本を代表する哲学者・思想家についての初めての本格的な評伝という。筆者自身が鶴見に近すぎる感もあって、もう少し突き放した批評もほしいと思うところはあるが、それだけに解像度は高く、滅法おもしろい大冊である。
 ②:小説もふくめてこのところ集中的に読んだ島原・天草の欄について歴史書として最も説得的だった書物。本の紹介もふくめて、日本近代史最大の民衆叛乱については、HPエッセイ「読書と映画」欄(24年6月24日)の考察を参照してほしい。
 ③:12人の女性研究者が、現時点でフェミニズムが挑戦しなけれならない課題を新自由主義とグローバリゼーションと定め、総論・各論を寄稿する著作である。私は、この分野の外国文献に不案内で、文献に依拠する寄稿には理解できないところもあったけれども、能力主義・競争主義への帰依と性差別への反発が裏腹になっている新自由主義的フェミニズムへの批判の必要性はかねてからの持論でもあって、共感を禁じえなかった。その主題を中心に、本書の中で私があらためて教えられた寄稿は、さすが!という感じで総論の上野千鶴子、生活保障システムへのジェンダー分析の大沢真理、いま枢要のケア問題を語る山根純佳、私にはなじみの日本的能力主義管理下の女性労働を論じた金井郁のものだった。
 ④:消費生活・消費者という視点で高度成長以降の経済史を辿った作品。消費にまつわる概念が登場する時代ごとの特徴把握など、私には新鮮な好著だった。
 ⑤:きわめて多くを学びながら同時にもっとも感動的だった著作。「またトラ」の直後、あらためてアメリカの黒人の体験についてくわしく知りたくて繙く。16世紀の黒人奴隷の導入以来の長年にわたる南北の白人たちの狡猾な思惑、あまりにも非道の虐殺や圧迫の詳細を教えられた。そしてなにより、1831年のナット・ターナーの叛乱を始めとして現時点のBLM運動にいたるまで、筆舌に尽くしがたい困難のなか、黒人たちが自由のためにこのようにも多様な創意に満ちた抵抗を続けてきた勇気にふれたことに深い感銘を受けた。今なお都市コミュニティでの黒人の下層は、貧困、犯罪、麻薬、投獄がくりかえされる、絶望的なまでに重層的な「出口なし」の状況にある。彼ら、彼女らはとはいえ、基本的にはもう屈せざる人びとなのである。民主党も専門職エリートに肩を入れすぎたが、さりとてトランプでいいのか?と思ったりする。

(2)小説
 いつも読んでいる小説は選ぶのに難儀するけれど、そのリアルさ、荒唐無稽ではないグロテスクさ、サスペンスに満ちた展開、あるいは切実さきわまるゆえについ夜更かししてしまうほどおもしろい作品7作ほどを、あえて選んで書きとめる。
①金原ひとみ マザーズ(新潮文庫)2014年
②ジョージ・オーウェル<高橋和久訳> 一九八四年(早川文庫) 2009年。原著は1949年
③加賀乙彦 湿原( 朝日新聞社)1985年
④石牟礼道子 完本 春の城(藤原書店)2017年
⑤ケイト・クイン<加藤洋子訳> 狙撃手ミラの告白(ハーパーbooks)2023年
⑥津村記久子 つまらない住宅地のすべての家 双葉文庫 2024年
⑦津村記久子 水車小屋のネネ 毎日新聞出版 2023年

➀:同じ保育園に通う幼児をもつ作家、モデル、専業主婦という三人の、夫から任された育児の苦しみの過程をぎりぎりと描く。心身の疲労のきわみ、孤独と不安、虐待・・・。その果てに3人はそれぞれに心の危機に陥り、幸せなはずの家庭も崩れてゆく。その筆致の迫力に、女ひとりの育児とはこのようにもすさまじいものか、それを思い知れと突きつけられる思いだった。こんな小説を読まないフェミニストは信用できない。
②:徹底した管理社会に閉じ込められた恋人たちが、表現と行動の自由の束縛ばかりでなく内面的な心の従属をも強いられてゆくようすを描く。迷路のようなもの語りを通じて恐怖の近未来を警告する古典。彼のもうひとつの政治的パロディの傑作『動物農場』(早川文庫)のほうが、わかりやすいけれど、深みはこの作品のほうにある。 
③:1960年代末の社会運動の激動期を背景にした、中年の自動車整備工と鋭い感性の女子大生との長年の愛の軌跡がテーマである。新幹線爆破計画の冤罪で投獄される二人は不屈の抵抗の何年かの末に法廷闘争に勝利し、かつてその愛を確かめあった清冽な釧路湿原に旅立ってゆく。若い日に惹かれた雄渾な大作の再読である。
④:島原の乱を描く数ある文学作品のうち、叛乱者たちにもっとも寄り添う美しく温かい大作。キリスト者以外の仏教徒の参加者や、その後、天草の代官として死者を手厚く弔い、生き残った島民が生きてゆけるよう田畑の甦りに献身した鈴木重成も、理解と敬意を込めて記述している。数多の無名の人びとの生活と闘いに注がれるそのまなざしこそ、水俣病とその告発に身を投じた石牟礼道子のそれである。
⑤:『亡国のハントレス』や『戦場のアリス』のおもしろさで定評あるケイト・クインが、第二次大戦中のソ連軍で並外れた能力を発揮した実在の狙撃手ミラ・パヴィリチェンコの波瀾万丈の体験を活写する。くりかえす戦闘、度重なる負傷、同士との愛、性差別者の夫との確執・・・。これも巻おくあたわざるという感じである。
⑥:かねてからなぜか惹かれて大のファンである津村記久子の近作から二つを選んだ
⑥では、ある住宅地に、実は悪辣さにほど遠い女性脱獄者が向かっているという報が入り、10家族の住民が手分けして見張りをはじめることになる。その過程で、それぞれしんどい「事情」を抱えていた人びとが交流と理解を深め、それ以前には目論まれていた厄介な家族への非情の処置や、他家への悪意の「犯罪」が自然に忘れられてゆく。辛辣さを思いやりに変えてゆくそのささやかな目覚めの表出が、いかにも津村らしいのである。
⑦:実家を出奔した理沙と律の姉妹が、信州らしい川辺の村で、1981年から2021年まで地味に生きて成熟してゆく物語である。81年、高校を卒業したばかりの理沙は、溜めていた進学資金を母が許嫁の男に貢いでしまったことに憤り、虐待されていた8歳の律を連れて家出し、この村に来て、老舗の蕎麦屋の手伝いと、驚くべき反復力でほとんど人と会話ができ、蕎麦粉を轢く水車の稼動をチェックもできる鳥(ヨウム)ネネの世話をして暮らすことになる。10年ごとの語りの内に、手芸に長けた理沙は現地の縫製工場でも働き、怜悧な律は大学にも進学して農産物商社で働いたり、塾を開いて子どもたちに教えたりする。具体的に描かれるのは、家財のない二人の貧困のようすや、18歳が8歳の保護者になる大きな不安だった(第1話)が、それ以降は、蕎麦屋での食事、そばづくり、ネネとのふれあい、時折の些細な事件などの淡々とした静謐な日常の描写に終始する。10年ごと状況が4つの章を刻む。大切なのは、彼女らに関わる、象徴的にも、蕎麦屋夫妻のほかはすべてが「健全な家庭」から疎外されたもともとは孤独な周囲の人びととの関わりである。みんなネネが大好きでなにかといえば水車小屋に集う――妻を亡くした地元発電所の社員と律の親友の娘。挿絵画家の老女。自動車部品工場をやめて発電所の清掃係になり後に蕎麦屋の仕事もネネの世話もする聡。彼は後に理沙と結婚し、外国人労働者の保護をするボランティア団体のスタッフになる。それに成人した律に助けられて進学して建設会社に勤め、東北大震災の地へ進んで赴任するため去って行く研司。さらに過酷な親子関係に苦しみながら徐々に律と心を通わせる美咲。律の小学校の担任で、困った人には惜しみなく身銭を切る女教師の存在も見逃せない。
 こうした人びとに、姉妹はいつもさしでがましくなく(自立を損なう干渉なく)思いやられ、二人はこうして生きてこられたのだとふりかえり、人を思いやる歓びこそ生きる意味なのだと心に刻む成熟の途を歩むのだ。2021年のエピソードでは、美咲が蕎麦屋の後身であるカフェで働き、久しぶりに息子たちを連れて村に帰った研司を迎える。みんなして水車小屋に向かう。ネネとは人びとの絆の神のごとくである。そこにはヒロイン、48歳になった律が微笑んでいる・・・。静かな感動が潮のように満ちてくる。
 この淡々たる起伏のない物語になぜこうも惹かれるのか自分でもわからない。谷崎潤一郎の『細雪』を読んだとき、このような大阪の豊かな老舗商家の姉妹のくりかえす縁談などの些事を延々と綴る物語がなぜこんなにおもしろいのかいぶかしく思ったものだが、ある意味で『水車小屋のネネ』は『細雪』に似ている。だが、この姉妹の些事は、現代のふつうの家族からの疎外にいちどは打ちのめされ、思いやられ・思いやりのうちに生きる意味を見いだした無名の貧しい庶民が営む生活の些事である。ちなみにこの作品は谷崎潤一郎賞を受けている。

(3)映画
 2024年は、テーマに関心をもって名古屋の映画館に足を運ぶことが少なくなったせいもあって、邦画、洋画とも「生涯ベスト」に数えられるような作品に恵まれなかった。世評高い映画ながら、おそらく時代遅れの私の感性にしっくりこない作品もいくつかあった。それでも、私なりにああ見てよかったと思った映画をいくつか記録しておこう。24年初公開とは限らない。番号は観賞順でランク付けではない。ごく簡単にコメンを加える。

 【日本映画】
➀Perfect Days ヴェム・ヴェンダース(脚本とも)/主演:役所広司
②市子 戸田彬弘(原作戯曲とも)/主演:杉咲花
③52ヘルツのクジラたち 成島出/原作:町田その子/主演:杉咲花、至尊淳
④罪の声 土井裕泰/原作:塩田武士/主演:小栗旬、星野源 
⑤missing ミッシング 吉田恵輔(脚本とも)/主演:石原さとみ、青木崇高、森優作
⑥あんのこと 入江悠(脚本とも)/主演:河合優美、佐藤二朗、稲垣吾郎
⑦正体 藤井道人(脚本とも)/原作:染井為人/主演:横浜流星、山田孝之

➀:姪の訪れというさざ波はあれ、終始、公衆トイレの清掃する役所広司の毎日を淡々と描く。その静謐な自足の微笑。さすが巨匠は、観る者にもそれなりの自足をもたらす。
②&③:いずれも過去にDVなどジェンダー的に過酷な体験を負う女性(いずれも杉咲花)の軌跡を描く。こうした物語は今では数多いが、②ではそこからしたたかな悪女として立ち上がるユニークな設定がすぐれておもしろく、対照的に③では、切望と孤独と果てに、ひたすら絆を求めて泣くクジラの12ヘルツの声を聴きとり、寄る辺ない少年とともに生きる力を取り戻す。感動的な作品である。
④:幼児のころの声の録音が重大な犯罪に使われれたことを知った洋服職人(星野源)が、真相を探る記者(小栗旬)とともに、隠蔽の闇に分け入って、零落し自死しようとしていたもう一人の声を使われ男(宇野祥平)をついに救い出す。なによりもストーリーが魅力的で、好演するの星野と小栗ふたりの交歓が温かい印象を残す。
⑤&⑥:いずれも紹介済み。私のHPのエッセイ「読書と映画」欄(24年6月24日)を
参照されたい。MISSSINGの石原さとみの切実な感情が大きく起伏する演技が光る。
⑦:冤罪の死刑囚(横浜流星)が必死に逃亡し、変装しさまざまの仕事で生き継ぐ。その過程で、建設現場の同僚や各職場の女性たちが彼の「正体」の優しい美質に気づいてゆく。別件逮捕された男が凄惨な事件の真犯人と知った彼は、意識朦朧の被害者家族がいる施設に潜り込んで本当に目撃したことを思い出させようとするが、そのさなかについに逮捕されてしまう。しかし冤罪の疑いは司法界にも広がり再審が始まった。孤児として育ち、なんの人生体験もなかった彼は、逃亡してはじめて愛を知り、人間として自由な生活ができた歓びを語る。そこが心をうつ。そして警察上層部はあくまで冤罪や誤認逮捕の隠蔽を計るけれど、自由を求めた彼についに無罪の判決が下るのである。最近では稀なサスペンスに満ちた骨太のヒューマンドラマである。

 【外国映画】
➀アイアンクロー(US) ショーン・ダーキン(脚本とも)/主演:ザック・エフロン
②人間の境界(23ポーランドほか) アグネシュカ・ホランド/主演:ジャラル・アルタウィル、マヤ・オスタフシェカ
③関心領域(23.US、英、ポーランド) ジョナサン・グレーザー(脚本とも)/原作: マーティン・エイミス/主演:クリスチャン・フリーデル、サンドラ・ヒュラー
④罪深き少年たち(22韓) チョン・ジヨン/脚本:チョン・サンヒョブ/主演:ソル・ギョング、コ・ジェンサン、チン・ギョン、ホ・ソンテ、ヨム・ヘラン      
⑤ぼくの家族と祖国の戦争(23.デンマーク) アンダース・ウォルター(脚本とも)/主演;ビル・アスベック、ラッセ・ピーター・ラーセン
⑥サウンド・オブ・フリーダム(23.US) アレハンドロ・モンテベルデ(脚本とも)/主演:ジム・カヴィーゼル、ミラ・ソルヴィノ、ビル・キャンプ 
 
➀:「鉄の爪」の異名をとる強豪ボクサー、フリッツ・フォン・エリックの4人の息子たちが、ヘビー級チャンピオンの座を願う父(ホルト・マッキャラニー)の慫慂によって、当初の希望コースに関わらずボクサーに仕立て上げられてゆく。筋肉を鍛えろという父の教えは絶対で、息子たちはそのために、痛みを鎮痛剤で抑え、ステロイド剤を打ち、意欲を保つためコカインを吸ったリもする。兄弟は一時は無敵の家族チームとして成功するかにみえたけれど、穏和で人望ある次男(ザック・エフロン)はやがて限界を覚って身を引き、期待の三男(ハリス・デッキンソン)は急病死、将来を嘱望された四男(ジェレミー・アレン・ホワイト)はバイク事故で足首を切断、五男(スタンリー・シモンズ)は試合中の負傷から後遺症を患ってしまう。そのように悲劇的な、それでも愛し合う家族の道行きをみつめるのはいたたまれない。それでもこれは切実な傑作ということができる。
②:ベラルーシからEUに入れるという噂を信じたシリア難民たちが、ポーランドとベラルーシのいずれにも駆逐され、どこにも安住を許されない。その絶望のなか、ポーランドの女性活動家たち(マヤ・オスタフシェカら)が危険をおかして細々と脱出の途を開く。第三世界の多様な人びとの困窮のリアルな描写が冴え、シスターフッドの勇気が輝いて感動に誘う。
③:ユダヤ人強制収容所のすぐ裏にすむ収容所所長と家族たちの平然たる優雅な生活を描く。まことに傑出したユニークなテーマだ。広く注目された本作はしかし、行為を説明する台詞がほとんどない、大切な小道具がクローズアップされない、ときにノン・リアルなアニメ的映像が挿入されるという独特の演出手法ゆえに、感性の鈍磨した私には細部がわかりにくく、名作の特徴である鮮烈な印象が残らなかった。
④:1999年韓国で少年犯罪をでっちあげた「三礼ウリスーパー事件」に対する一刑事の長年の闘いを描いて感銘ぶかい傑作。すでに紹介ずみ。HPのエッセイ「読書と映画」欄(24年6月24日)にくわしい。
⑤:1945年4月、ナチス・ドイツの占領下のデンマークで。市民大学の学長ヤコブ(ピル・アスベック)はドイツ軍司令官の命令で、ドイツを逃れた500人もの難民を学校の体育館に受け入れる。多くの子どもを含む難民は飢餓と感染症の蔓延で日々死亡し病苦に苦しんでいた。ヤコブと妻リス(カトリーヌ・グライス=ローゼンタール)は、難民の生命と健康を救おうと苦闘する。それはしかし反ナチの市民にとって裏切り行為だった。祖国愛か人間愛か、夫妻は選択を迫られる。だが、その折、12歳の息子が、死に瀕したドイツ人少女を絶対に救いたいと必死に訴え、一家は禁を犯して都市の病院に赴く。少女は救われた。戦争は終わった。しかし、「親ナチ」とつまはじきされたこの家族は、結局この街を去らねばならなかった。今年もっともまっすぐに、愛国心を超えるヒューマニズムを謳う作品であった。
⑥:米国土安全保障省捜査官ティム(ジム・カヴィーゼル)が、はじめに救いだした幼児から姉を取り戻してほしいと懇願され、通常の任務の枠を超えて、南米コロンビアに赴く。彼は当地の実業家や侠気あるもとやくざの協力のもとに、奥地で誘拐した子どもたちを奴隷のように搾取する有力なギャング団の集落に潜入し、生命を賭してついに姉を、多くの少女たちとともに救い出す。終始サスペンスあふれる、ある意味で無謀ながら正義感と勇気に満ちたティムの行動は実話という。サウンド・オブ・フリーダムとは、救い出された少女たちの歓びの歌声だ。協力する訳ありの男たちにもそれぞれに存在感があっておもしろい。この作品、本当に見てよかった!

 外出の少なくなった後期高齢の私たちにとって、DVDによる大好きな映画の再訪は今年いっそういっそう頻繁になった。あまりに数多いが、そのうちから厳選したいくつかのタイトルと監督のみを記す。どれも珠玉の作品であり語るにつきない。若い世代の方はこのうちいくつご存知だろうか。
【洋画】:ペーパーバード 幸せは翼にのって(スペイン、エミリオ・アラゴン)/フライド・グリーン・トマト(US、ジョン・アブネット)/罪の手ざわり(中国、ジャー・ジャンクー)/未来を花束にして(英、サラ・ガヴロン)/灰とダイアモンド&地下水道&カチンの森(いずれもポーランド、アンジェイ・ワイダ)/ジュリア(US、フレッド・ジンネマン)/ミシッシピー・バーニング(US,アラン・パーカー)/心の旅路(US,マーヴィン・ルロイ)/ドクトル・ジバゴ(英、デヴィッド・リーン)/8 1/2(伊、フェデリコ・フェリーニ)/明日の少女(韓、チョン・ジュリ)/野いちご(スウェーデン、イングマール・ベルイマン/かくも長き不在(仏、アンリ・コルピ)/サラの鍵(仏、ジル.パケ=フランネール)
【邦画】七人の侍(黒澤明)/八日目の蝉(成島出)/ 名もなく貧しく美しく(松山善三)/フラガール(李相日)/砂の器(野村芳太郎)

最近のスクリーンから――『罪深き少年たち』/『MISSINNG』 /『あんのこと』     (2024年6月29日)

 映画は、小説ともに私には「ご飯みたい」なもので、劇場、DVDをあわせてシャワーを浴びるように観る。しかしこの頃はさすがに、短いショットの「瞬間認知能力」や囁かれる台詞を聞きとる聴力の衰え、感性の鈍磨などを自覚せざるをえない。そのためか、しばしば世評高い新作のいくつかも、DVDでの忘れられない名画再訪のときほどにはときめかなくなっている。
 例えば、リアリズムの毒が回ってしまっている私には、ゴシックSF技法の『哀れなるものたち』はなじめなかったし、『ヨーロッパ新世紀』は、移民差別というテーマへの切り込みはすばらしいとはいえ、最後がひとりよがりのようで感銘がうまく着地しない。『オッペンハイマー』はといえば、複雑な政治ドラマのようで、オッパンハイマーの自負と悔恨の入り混じる人間像の彫りが不鮮明だ。あの『関心領域』にしても、強制収容所のユダヤ人を焼殺する煙や叫びのかたわらで優雅に暮らすヘス一家の、おそるべき無関心の酷薄というの空気はわかるとはいえ、私たちを慄然とさせるはずの小道具のクローズアップやヘス一家には些細な残酷のエピソ-ドの具体的な描写が技法的に排除されていて、なかなか感情移入ができなかった。私にはこれは上質のホラー映画のような印象である。
 わかりやすい映画がいい。さらに私の好みでは、物語の過程での人間という愛しい存在の確かな変化と成熟がみえる映画がいい。その点で、評論家の評価はともかく、ふつうの映画ファンである私が勧めたい近作は次の3作である。

罪深き少年たち(韓国22年、チョン・ジヨン監督、チョン・サンヒョブ脚本)
 定年間近の不屈で嫌われ者の刑事(ソン・ギョング)が、前科をもつ知恵遅れの少年3人を、ずさんな捜査、拷問、恫喝をもって「自白」させ冤罪を捏造したエリート刑事、追随する同僚、検事たちと、左遷というの挫折をふくむ16年の間、徹底的に抗い、女性弁護士らの協力も得て、ついに法廷での真犯人(すでに時効である)から真相の証言を引き出して3人を救う物語である。正義と権力への拝跪、真実と欺瞞、勇気と逡巡の葛藤がくっきりとリアルに描かれて感動的だ。妻たち、女たちがいったん希望を失う刑事や証言をひるむ真犯人の背中を押すのも、最後に、立ちすくむ証言した真犯人に勝訴記念写真に加わるよう、刑事がふと手をさしのべるのもいい。99年参礼ウリスーパー事件の事実にもとづく作劇という。

MISSING(吉田恵輔監督・脚本)
 愛娘・美羽が失踪して見つからぬままの母・沙織里(石原さとみ)の煉獄のような日々を描く。街頭で続ける空しいよびかけ。言動の控えめな夫(青木崇高)との諍い。失踪日にたまたまアイドルのライヴのために出かけていたことを容赦なく誹謗するNET。その日に娘を預かっていたやや言語障害の弟(森優作)を犯人扱いしようとするマスコミ。誰かを美羽と見間違えては泣き叫び、わめき、食ってかかる、そんな狂おしい母の姿をすっぴんで、魅力のポイントの唇にもルージュも引かない石原さとみが体当たりで演じている。
 それでも沙織里は、他家が遭遇した同様の失踪事件の解決に協力し、その子が見つかると「よかった!本当によかった」と涙を流す。美しいシーンである。そしてその母子が沙織里らの街頭キャンペインの場に現れて感謝を述べ、これからはあなた方の運動に協力したいと申し出ると、傍らの夫がはじめて慟哭するのである。 
 2年後を描くラストシーン。沙織里は交通整理のボランティアをはじめ、通過してゆく子どもたちをいとおしく見つめている。かなしみの煉獄を経て、なお人を信じて生きてゆこうとするみごとな成熟をここにみることができる。 

あんのこと(入江悠監督・脚本)
 あん(河合優美)は、ホステスで娼婦の母親(河合青葉)に虐待されて育ち、12歳のときからその母の手引きによって身体を売って、中学も中退。21歳の今、ウリとシャブの常習犯である。救いようがないかにみえるあんはしかし、型破りの刑事・多々羅(佐藤二朗)と出会い、彼の主催する薬物更生グループに加わり、彼に寄り添われ、グループを取材するジャ-ナリスト(稲垣吾郎)の協力もあって、DVシェルターに起居し福祉施設の介護職にもつくようになる。日記もつけはじめた。周囲の大人はみんな親切だった。
 だが、職員のミスから居所を知った母親が職場に現れて暴れる、コロナ禍で非正規職を失う、さらに多々羅のグループ参加者への性加害が暴露されて逮捕されるなどのトラブルが続き、あんはまた出口のない絶望に落ち込む。そんなとき突然、シェルターの隣人の女性が赤ん坊をあんに一方的に預けて失踪してしまった。あんはそこで、卒然と赤ん坊の万全のケアに没入するのだ。けれども、ここでまた母親に捕まり思いがけない至福のときが終わる。この毒ママは、あんを身体で稼いで来いと追い出し、その間に赤ん坊を児童相談所に引き取らせてしまう。帰宅したあんは、怒りのあまり母親を殺そうと包丁を構えるが、ついに刺すことはできなかった。あんはシェルターに帰り、子どものアレルギーになる食品と献立を記したページだけを残して日記を焼き捨て、ベランダから身を投げるのである。
 あんは、介護施設の利用者に慕われ、赤ん坊の十全なケアに生きがいを見いだす優しい女性であり、ひたすら識字に励み、グループで自省をこめて過去を率直に語れるようにもなった真摯な少女であった。こんな女性がなぜ自死しなければならなかったのか? 薄氷を踏む思いで経過をみつめてきた私にはどうしようもなく悔しい思いがつきまとう。いっそこの比類ない毒ママを刺してしまえばよかったのではないか!と感じさえする。これも現代日本、2020年の実際の事件をベースにした映画であるが、ストーリーの中には、あんの本来の優しさと、逆境の中での成熟の歓びがちりばめられていて胸が熱くなる。
 ちなみに今年、女性の受難を描く佳作・名作は、たいてい生家や婚家での育児放棄や虐待やDVを扱う。その点では『あんのこと』も戸田彬弘の『市子』や成島出の『52ヘルツのクジラたち』(原作・町田そのこ)と共通するところがある。『あん・・・』には、悪女としてしたたかに立ち上がる『市子』ほどはサスペンスフルでなく、性的少数者者との揺るぎない愛を発条として孤独なクジラの叫びを聴く、人間の絆を取り戻す『52ヘルツ・・・』ほどの物語の文学的な広がりはない。とはいえ、『あんのこと』がもたらす切実きわまりない衝迫はまた、この作品を今年の収穫のひとつとしている。