読書と映画観賞は、私の現在の生活でもなお大きな比重をもつ。その享受のうち印象に残った「収穫」の作品3作ほどを、今年から四半期にわけて略記することにした。主として私自身の記憶確認のためだが、諸兄姉のなんらかの参考になれば望外の幸せである。
<社会・人文科学、歴史、一般書>
①ジョン・ダワー<三浦陽一、高島良一訳>
『増補版 敗北を抱きしめて―第二次大戦 後の日本人』岩波書店、2004年
②鈴木貴宇
『サラリーマンの文化史―あるいは「家族」と「安定」の近現代史』青弓社、2022年
③小泉悠
『現代戦争論―ロシア・ウクライナから考える世界の行方』筑摩新書、2026年
名著①への共感と感銘についてはすでに記した。HP(26.1.21)の参照を乞う。
②は、明治期から1950年代までのサラリーマンの心情と背景の社会状況を、写真、漫画、映画、文学など広範な文化表象を通して考察する。博引旁証、実におもしろく読める。しかし、階層として工場労働者と区別されるホワイトカラーの仕事、職場、階層意識、労使関係などの考察は手薄であり、そのかぎりでは私の期待した内容ではなかった。
③は、すぐれたロシアの専門研究者で自称「軍事オタク」によるロシアのウクライナ侵略の多方面からの徹底的な分析。この書の卓越性は、「どっちもどっち」の中立論を排し、ロシア側の論理と侵略の理不尽さ・非道さを、戦争継続のためのロシア国内での貧しい辺境への犠牲転嫁もふくめて詳細に論じ、プーチンの望むかたちでの即時停戦が領土奪取にとどまらないウクライナ人の人権抑圧の「構造的暴力」をむしろ増加させるという、明瞭なスタンスにある。この悲惨をロシアの勝利に終わらせてはならないのだ。異論もありうるだろうが、精緻な分析者が抑えがたい怒りに殉じてきっぱりと判断する姿勢に私は共感する。
番外としては、青木理『百年の挽歌 原発、戦争、美しい村(集英社)が心をうつ好著だった。美しい飯舘村で自然と共生し、勤勉で実直な農夫として生きてきた102歳の古老が、福島原発事故のため避難を求められた2011年3月に自死するまでの、国策に翻弄された軌跡を哀惜を込めて綴っている。
<小説 ①と②は再読>
①宮部みゆき『理由』朝日新聞社、1998年
②真藤順丈『宝島』講談社、2018年
③永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』新潮文庫、2025年
東京の豪華マンションで6人の「家族」の死が確認される。ところがその死者たちはマンションの所有者でも仮の借家人でもなく、お互い家族でもなかった。①は、この不思議な事件にかかわる、いずれも住宅問題に悩み抜いた庶民たちのやむなき事情を懇切に優しくみつめてゆく。宮部ワールドの傑作である。
②は、最近の映画作品に触発された8年後の再読であるが、やはり映画以上にすばらしい。1952年~72年の沖縄、コザ。戦果アギャー(米軍基地や物資貯蔵所から盗み出した食品や衣料や薬品を沖縄住民に配る若者たち)の英雄オンちゃんが嘉手納基地侵入後に行方不明になる。それか30年にいたる、恋人ヤマコ、親友グスク、弟レイの三人、加えて孤児のウタの波瀾万丈の軌跡を色濃く描く。グスクは刑事になって頻発する米兵の性加害の解決に、ヤマコは教師として組合運動、祖国復帰運動、孤児たちのケアに、レイはアウトロウとして身を隠してテロを辞さない反米実力行使に奮闘するけれど、彼らの前には米国の巨大な権力や日本政府の追随や旧憲兵たちからなる隠密の思想統制グループによる弾圧、ヤクザや密貿易集団の暴力などが立ちはだかり、懸命の苦闘はなんども挫折する。しかし彼ら、彼女らはまたなんども立ち上がる。そんななか、基地撤廃という人びとの願いをあまりに踏みにじる祖国復帰の虚構性がついにコザ暴動を勃発させる・・・。その折、レイたちの基地爆破をめざす突入行動のゆくえが、結局、オンちゃんの失踪の真相と彼の残した希望のメッセージを明日に伝えることになる。さぁ、起きらんね、「また始めよう。そろそろ本当に生きるときがきた」と。沖縄の言語世界と文化の豊穣さ、庶民たちの絆、絶えることなき実力行動を辞さないタックルセ!(やっつけろ!)の叫びが全編を貫いて、愛と革命の色彩がまばゆく、響き渡るカチャーシーの歌舞音曲が心にしみる。
③の物語では、それぞれに厳しい不遇の体験を経ていま芝居小屋にたむろし、芝居づくりに不可欠なそれぞれの専門技能を発揮する者たちが協力して、若い武士に強いられる筋違いの不本意な仇討ちの掟をからくりで鮮やかに無化してしまう。愉快な人情ものだ。最近の映画作品ははらはらさせるエピソードを加えてエンタメ性を増しているが、それぞれ役割を果たす人びとの経歴の深みと人情の濃密さの点では小説の方がよい。
なお、3月に入ってからは、限られた時間ながら、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳、光文社5冊)と、『平家物語』(中山義秀現代語訳、河出文庫3冊)に読みふけっている。紹介・感想は次の機会に譲るけれど、いずれも壮大な物語の流れに入るのが毎日の楽しみである。
さて、映画はといえば、このところ、劇場での新作は、私が時代のセンスについてゆけなくなったためか、今ひとつなじめないものが多くなり、感銘は勢い大好きな名作・佳作の再観賞に偏っている昨年などは、私の生涯ベストクラスの作品を10本以上も堪能したが今年に入ってからも傾向は同じで、邦画はすべて、洋画はほとんど旧作である。私の好みは時代遅れかもしれないけれど、ともかく順不同で記すことにする。
<日本映画>
①流浪の月(2022年) 李相日(+脚本)、
主演:広瀬すず、松坂桃李、横浜流星
②フラガール(2006年) 李相日(+脚本)、
主演:青井優、松雪泰子、富司純子、岸部 一徳、豊川悦二
③赤ひげ(1965年) 黒澤明、脚本:小国英雄、菊島隆三、井手雅人
主演:三船敏郎、 加山雄三、仁木てるみ、土屋喬夫、杉村春子
凪良ゆうの小説を原作とする①は、従兄弟からの性加害をふくむ虐待に鬱屈していた11歳の家内更紗(長じては広瀬すず)と、「ロリコン」で孤独な学生・佐伯文(松坂桃李)との15年以上に及ぶ、世間からは理解されず犯罪とされて指弾されるような寄り添いの軌跡を描く。文の下宿への少女時代の寄寓、変質者の「誘拐」としての逮捕、15年後の再会、どうしようもなくまた惹かれあうふたり。そんなふたりを理解できず、更紗の恋人(横浜流星)は憤って暴力をふるい、彼の特異性は理解する文の許嫁(多部未華子)もいらだちが昂じて押しかける。そのうえ社会的には徹底的に非難され排除されて、結局、ふたりは流浪の生きざまを選ぶことになる。登場するすべての人間像のリアルな描写は説得的であるだけに哀しい。またそれだけにふたりの愛のあてどない道行きは、誰にも理解されないとはいえ、まぎれもなく実在する、性を超えた愛の真実を私たちに語りかける。
②は、1965年、衰退し縮小される常磐炭鉱において、地熱を利用したハワイアンセンターとフラダンスの興業をもって地域再生をめざす懸命の過程を描く周知の名作である。主要な登場人物は、フラダンスの踊り手に応募する紀美子(青井優)ほか小百合(山崎静代)ら炭鉱の娘たち。チームの指導にあたる、もとSKDの花形ダンサーまどか(松雪泰子)。事業の中心的なスタッフ(岸部一徳)。紀美子の家族、母千代(富司純子)と兄(豊川悦二)など。この映画のすばらしさは、伝統的にマッチョで、娘たちが肌をさらして踊るなどまともな仕事ではないと白眼視していた炭鉱界隈の男たちが、みずからも選炭婦だった千代が紀美子の懸命の練習にふれ、これもこれからの娘たちの立派な労働だと省みることを契機に、すべてのヤマの人びとがなにごとにも積極的に協力するにいたる、その変化の描写にある。はじめは娘たちの不器用を軽蔑していたアル中のまどかも、やがてみずからの責務と娘たちとの絆に意義と歓びを感じてゆく。これまでの炭鉱生活を維持する困難さをみすえて新しい生き方に挑戦しようとする庶民たちの姿を活写する、いくつかの名場面が感動の涙を誘う。そして実にさまざまのトラブルを乗り超えてフラダンスショウ開幕の日がくる。紀美子らのフラダンスは華やかで美しい。人びとは熱狂し、まどかは幕袖で涙ぐむ。本当にいい映画だった。
1965年公開の③は、思うにその後の大作群のいずれも及ばない、この巨匠の最後の傑作である。舞台は江戸期の小石川療養所。「赤ひげ」とよばれる名医・新出去定(三船敏郎)と、長崎で蘭学を学び高位の典医たらんとしていたのに、不本意に汚らしい庶民たちが押しかけて入院するこの療養所に送り込まれた青年・保本登(加山雄三)が相互の理解に辿りつく物語だ。はじめはなにかと不貞腐れていた登は、周囲の苦患者たちを凝視するなかで貧民を救う医術とはなにかに目覚めてゆく。そして無愛想で傲慢ながら、洞察力にとみ、医術、武術、富裕者からのふんだくりにも長けた赤ひげに傾倒するようになり、ついにはここを自分の生きる場所と心定めるにいたるのである。
黒澤の話法はやはり冴えている。ひとつだけ挙例しよう。女郎屋でこき使われ心身を病んでいた少女おとよ(仁木てるみ)が療養所に引き取られる。赤ひげから診療を託された登は、かたくなに診療を拒むおとよの病気に必死に取り組み、過労で倒れてしまう。だが、昏睡から目覚めれば、快癒したおとよが、かつて女郎屋でさせられていたのと同じ動作で(同じ動作であるところに演出の冴えがある)登の部屋を拭き掃除をしているのだ。懸命の介抱の過程で、おとよが悴んだ手で窓の雪を掬って登のおしぼりを冷やすシーンの美しさは比類ない。この場面ひとつだけでもこの映画はみるに値するのである。
<外国映画 順不同>
①声もなく(韓国、2020年)ホン・ウィジョン(+脚本)、
主演:ユ・アイン
②揺れる大地(イタリア、1948年)ルキノ・ヴィスコンティ(+脚本)
③ミシシッピー・バーニング(アメリカ、1988年)アラン・パクラ、
脚本:クリス・ジ ェロルモ、
主演:ジ-ン・ハックマン、ウィレム・デフォー、フランシス・マクドーマンド
④ナースコール(スイス/ドイツ、2025年)ペトラ・フォルベ (+脚本)、
主演: レオニー・ベネシュ
①:死体処理などヤクザの汚れ仕事をする、少し知恵遅れで言語障害の鈍重な感じの若者テイン(ユ・アイン)は、あるときボスから、誘拐したのに冷淡な親が身代金を払わないため処理に手こずっていた聡明な少女(ムン・スンア)を、ボロボロの自宅で面倒をみるように頼まれる。しかしそこではじめてテインは、妹をふくめて3人の「家族」らしい人間の絆の歓びを知ることになる。そしてやがて「処分」を命じられたとき、彼は少女を伴って逃亡し、小学校で彼女を教師に託すまで守りぬくのだ。小品ながらまことに心をうつ物語ということができる。
②:当時は左翼だった巨匠ヴィスコンティの初期1948年の作品。イタリアはシシリアの漁夫一家は、魚の仲買人に過酷に搾取され、反抗して追放されて鰯工場の労働者になるが、起死回生の鰯の缶詰づくりの事業にも失敗してすべてを失う。だが、浜辺で出合った少女に思いがけず励まされて、船主になった仲買人の嘲りに耐えて頭を下げ、彼の漁船で劣悪な賃金の漕ぎ手として再び働き始める。俳優はすべてシシリア人の素人、言語はシシリア方言という。すべての細部は社会構造の認識に裏打ちされてきちんと描かれ、総じて暗い物語ではあれ、明日の希望がほのみえる。戦後リアリズム映画の古典とみることができよう。
1964年ミシシピー州の小都市での公民権運動の活動家3人の隠蔽された殺人を捜査するFBI捜査官、高学歴の正義派アラン・ウォード(ウィレム・デフォー)と、もと南部人でヴェテラン刑事のルパート・アンダーソン(ジ-ン・ハックマン)。①はふたりが地域のあらゆる厚い壁と闘って、ついに真相を暴くまでのスリリングな物語である。厚い壁とは、町長、キュー・クラックス・クラン(KKK)の陰のリーダーたる実業家、保安官、副保安官(ブラッド・トゥリフ)らの有力者および体制順応の一般白人が行使する黒人に対する徹底した差別と偏見、放火・暴行であり、当の黒人自身のおびえである。捜査の過程では、まじめで非暴力主義のアランと、それを「きれいごと」として恫喝、暴力、策略も辞さないルパートの間に諍いが絶えない。だが結局、副保安官夫人で美容師のベル(フランシス・マクドーマンド)の心に潜む良心に気づいて彼女に接近し親密になるルパートこそが、ついに彼女から決定的な証言(副保安官のアリバイ、死体を埋めた場所)を引き出すのだ。殺人を実行した者、知りながら黙認し隠蔽した者たちすべてが逮捕される。アランがあえて目をつむる、逮捕過程でのルパートらの恫喝や暴力やKKKを装うまでの策略の具体的な行動は愉快このうえない。ラストシーン。悪の仲間を「裏切った」として激しい暴行を受けて傷つき、退院後に壊された自宅に立ちすくむベル夫人と、そこで別れを告げるルパート。このふたりの名優の顔芸とさりげない台詞がいい。でも私はこの町が好きでここにいる、いい人もたくさんいる、次の派遣地からのお便りはいらないから・・・とベルは言う。その自立心がすがすがしい。エンタメ性、サスペンス、「きれいごと」ではすまない悪を撃つ実力行使などすべてをふくめて、これは私の大好きな映画だ。数ある黒人差別告発ものの白眉ということもできる。
④はこの欄の唯一の新作。スイスの州立病院で、極端な人員不足のため文字通り寸暇を惜しんで働く看護師フロリア(レオニー・ベルシュ)の遅番勤務の1日を淡々と描いている。子持ちでおそらく40代のフロリアは、感謝とともに実にさまざまの苦情を訴える多くの患者の見廻り、病状のチェック、薬の調合、点滴や注射、救急患者の搬送などを熟練のスピードと正確さをもってまったく寸暇なくこなす。患者たちに過剰に媚びず、激さず、それでいて慰め励ます。その感情コントロールのみごとさ。これら驚異的な激務への没入をみているといつしかじーんとしてくる。だが、そんな彼女も、たまたま焦慮の理由が重なって、ジュースをもってくるのが遅いとなじる裕福な患者に思わずかっとなって彼の高価な腕時計を窓から投げ捨ててしまう。この不祥事は偶然に解決をみることになるが一方、あまりの人不足のため見廻りがゆきとどかず、患者のトルコ人の母親が死んでしまう事件がフロリアを打ちのめす。泣きながら彼女はトルコのスカーフで美しく死者を装う。ようやく退勤になり疲れ果て帰宅のバスに乗る。背後からの撮影だが、隣の席にあのスカーフの女性が座る。でもあなたはよくやってくださったと伝える死者の幻だろうか。いつも凜としていたフロリアはその女性にもたれかかる。ドキュメント風のこの映画の、それは唯一ファンタスティックな美しいラストシーンである。