その13 日本の労働者像をもとめて(4) 戦後民主主義と労働者思想の転轍

 戦争にまきこまれ、圧倒的多数の国民は、あまりにも悲劇的に、幼少時から教え込まれた天皇制のタテマエに殉じて、かけがえのないほとんどのものを失った。けれども、「民主主義が与えられて」労働組合活動が公認されたとき、労働運動は、「燎原の火」のように燃え広がった。では、その労働運動に日本の労働者はどのような思いを込めたのか? 彼ら、彼女らの戦前から内面化されていた天皇制に対する思想と心情はどのように変わったのか? 日本の労働者像の解明にとって、それは不可欠な検討課題であるが、私の懸命の考察は次のような道行きを辿る。
 一般的にいって、権力体制に文化的な資源、概念、言葉を奪われてきた人びとが、体制が瓦解したとき、それまでの権力の統合理念を、異端の宗教をもって正面から撃つ思想を掲げることは稀である。人民の新しい思想はむしろ、それまでの体制が国民統合に用いてきた論理の欺瞞性、すなわち理念と実態の矛盾を追及するかたちをとるように思われる。
 まして日本の場合、異端のキリスト教に殉じた唯一の大一揆、島原の乱のような叛乱も、ひとり戦前から天皇制の廃棄を掲げてきたコミュニスト主導の革命も、持続的な大衆運動としては考えられなかった。それゆえ、労働運動をふくむ戦後革新思想の現実的なルートは、天皇制のタテマエの平等と、権力者のホンネである徹底して差別的な階序の不平等との懸隔を是正または粉砕することに赴いたのだ。天皇制が四民平等・能力による人材登用、組織のすべての成員の公平な処遇などを唱えるなら、その理念を本当に実現してみよというのである。
 戦後の革新勢力や労働運動がまず要求したのは、それゆえ、まずもって<国民としての平等>であった。戦前では、実態として「職工」は蔑まれ、貧しい生活を強いられ、生活改善に声をあげることは許されなかった。これは「天皇制の理念の裏切りではないのか。労働者も国民としてふつうの生活を!」。それとともに、国民である以上、社会的なミニマムの生活が保障されなければならない・・・。それは当時の世界的な動向である福祉国家論に沿う発想でもあり、天皇制の平等のタテマエを掲げてきた日本の支配層も、「社会主義にまで行かなければ」否定できない考え方であった。皮肉な表現ではない、戦後の労働運動は、「人間宣言」で逃れた昭和天皇をもはや神と信じはしなかったが、天皇制のもと理念上でのみ「平等」だった「臣民」を、実態として「一億総中流」に変えようとしたのだ。政財界も、およそ1980年代後半以降までは、福祉国家や、格差を公認する「階層別ライフスタイル」の否定を公然と唱えることを控えるほかなかった。「貧乏人は麦を食え」は禁句だったのである。

 <国民としての平等>論は、企業社会を基盤とする戦後企業別組合の<従業員としての平等>論により具体的に現れている。その後の推移もふくめ、少し具体的に紹介しよう。
 その1は、高学歴のホワイトカラー「 職員」とブルーカラー「工員」の差別撤廃である。年功制といっても、それまでは両者の間に、賃金の額と形態、労働時間管理、企業内福利施設の利用などに大きな格差と差別があった。これはおかしい。「従業員としてのステイタスを同等にせよ!」 この要求はほぼ実現し、呼称も、さまざまの変遷を経てとはいえ、70年代には「社員」に統合されてゆく。
 その2。戦前の年功制では、年功賃金といっても、社内には雇用身分、学歴、職群、性などによるさまざまの昇給線があり、上司の恣意的な査定による個人格差もあからさまであった。だが、「同じ従業員であるなら同じように生活できる賃金が年齢段階別に保障されなければならない。年功賃金は基本的に同一の、譲歩しても職群別同一の、自動昇給であるべきだ・・・」。年功賃金の戦後労働者的解釈というべきか。生活の維持を重視すれば、賃金は年齢によって上がるのが正当なのだという主張である。
 この年齢別賃金論は、「職工差別撤廃」とは違って、戦後初期の左派労働組合によって一定達成されたとはとはいえ、すぐに昇給線の分断や査定昇給を手放さない経営側の執拗な反撃を受け、紆余曲折を経て、60年代半ば、能力主義管理の一環としての職能別賃金制に収斂し、これが日本の代表的な賃金体系になる。その後、かねてから労働論壇の一角にあった同一労働同一賃金論が、性差別・非正規差別反対運動の台頭とともに「同一価値労働同一賃金論」に発展していっそうの説得性を高めているとはいえ、それはいまだ大企業正社員の職能給とか役割給の堡塁を揺るがせてはいないかにみえる。
 その3。年功制の枢要の輪である終身雇用というタテマエの最大の裏切りは整理解雇である。「この裏切りを許すな!」 戦前の大争議もそうだったが、戦後労働運動史を彩る、国鉄、海員、日立製作所、宇部興産、三井鉱山、日鋼室蘭、三井三池など、いくつかの大ストライキの主要なテーマは解雇絶対反対にほかならなかった。
 これら長期の闘いは、しばしば企業協調的な第二組合の生成をまねき、総じて労働組合側の敗北に終わる。けれども、「大争議は高くつく」ことを学習した企業は、その後、経済成長を迎えたときには、むきだしの整理解雇は控えて、企業経済に必要な労働力の弾力性の確保を、非正規労働者の活用、正社員の残業調整、配転・出向、退職金優遇の希望退職募集などによって賄う労務管理に転じてゆく。そうしたソフトタイプの人減らしは、企業別組合の整理解雇反対闘争の必要性をたしかに低めたが、同時に、その可能性も、労働者が能力主義管理による従業員の選別に順応してゆくにつれなくなった。こうして時が過ぎ、2000年代にふたたびリストラの季節が到来したとき、企業は人員整理を、ほとんど争議なく従業員の「個人処遇」として対処できたのである。

 最後に、以上の<従業員としての平等>の思想と戦略が、女性労働者を包括するものであったかどうかが問われなければならい。
 戦前とは異なり、憲法にも男女平等の理念が謳われた戦後民主主義のもとでは、組合の生活給・自動昇給、解雇反対の要求にも、公式には女性を直接に差別する要素はなく、女性もまた労働運動の新鮮な担い手であった。近江絹糸での労働組合の勝利は、戦前の総じてうつむいた自己表現をためらう「女工」を、人権擁護や女性の独自要求に昂然と頭(こうべ)を挙げるOLに変えたと言えよう。
 とはいえ、女性労働者の多数は、なお引き続き、「寿退社」の短勤続・キャリア展開のない単純労働・いくつかの重層的な要因による低賃金という「三位一体」の働き方のままであった。そして、性別役割分業を基礎にもつこのような間接差別に、「家族責任」をもつ男性労働者も内心では総じて肯定的であり、彼らを中心とする労働組合がこのシステムに挑戦する営みは乏しかったということができる。その見直しが始まるには、フェミニズムが社会的な説得性を高めるとともに、女性の職場進出が本格化し、ひいては年功制の安定性が揺らいで、働く女性が「家計補助」者から「家計の主要なまたは不可欠の支持者」になってゆく1990年代を待たねばならなかった。80年代前半の私もなおジェンダー・ブラインドであった。女性労働者も非正規労働者も40%に及ぶ今、彼女らを包括することがなければ、<労働者像>論の説得性の範囲はきわめて限られたものになるように思う。

 <日本の労働者像>を求めてきた私の思索は、不十分ながらここでひと一区切りとする。
 思えば日本の労働者が身に宿した思想と心情は、日本という国の近代史が彼ら、彼女らに課した過酷な体験の反映そのものであり、それだけに外在的な批評を拒むほど内在的で必然的であった。戦後民主主義の世になって、それは<国民としての平等>、<従業員としての平等>、すなわち平等へのつよい願いとして展開する。
 日本の労働者は長らく、他の先進国とくらべても、実直な仕事に前向きの働き手だった。しかし、この真摯な人びとの思想や心情は、欧米の労働者、とくに組織労働者と著しく対照的である。国家社会の枠組みに軌道を強制されたとはいえ、彼ら、彼女らは主体的な選択としても、労働者間競争の受容、階層上昇への不断の願い、「労働者階級」からの脱出志向、「庶民的開き直り」の忌避、そしてそれらと不可分の「現在の立場のままで生活向上と発言権を獲得する」思想、産業民主主義への信頼の稀薄さにおいて際立った人間像を刻んでいる。
 私の描くこのような労働者像が、戦後史の各段階を通し世代を超えて継承されたということはもちろんできないだろう。経済環境、雇用形態、ジェンダー意識の変化を考慮したより精密な労働者意識の戦後史が必要である。しかし、とりあえずこうは言えるのではないか。
 新自由主義が席巻した1990年代以降、世代的には「団塊ジュニア」以降、伝統の労働者像そのものに大きな分断が生まれたと思われる。2000年代はじめの氷河期の就職戦線に成功して大企業、中堅企業の正社員になった相対的に少数の人びとは、総じて上述の日本に特徴的な思想・心情の多くを保持した。だが、男女を問わず、就職においてが失敗して、労働条件の劣悪な企業や非正規雇用で働くようになった多くの人びとはもう、階層上昇の熱意や階級脱出志向はもたず、どちらかといえば消極的な仕事観で、不安定な下積みの労働を日々引き受けている。といっても「勝ち組」が信奉する競争関係は厳存し、時代の「自己責任論」の常識化によって「この不成功は自分の責任」とみなされるゆえ、「庶民的開き直り」もできないのである。
 けれども、確実なことは、皮肉にも組織労働者であることの多い安定雇用「成功者」にも、未組織の下積み労働者にも、産業民主主義の思想、労働組合運動によって生活と権利を守る思想の稀薄さが、世代を超え、男女を問わず、継承されていることにほかならない。それは日本の労働者の精神史を貫く負のレジェンドということができる。
 格差社会化が深化する新自由主義の支配する、2020年代半ば、抵抗の発言権の弱々しい労働者の世界をみるとき、伝統の日本の労働者像の思想と心情の内在的な由来を理解できるだけに、私はこの労働者像の造型が喪ったものをやみがたく哀惜し、喪ったものの復権をひたすら願うのみである。

その12 日本の労働者像を求めて(3)  日本唯一の労働社会・企業社会への道

 職業社会も地域一般労働社会もなく孤独な稼ぎ人であった日本の労働者を、相対的に安定的な居場所と可視的ななかまを見いだすことができる労働社会に帰属させたものは、直接的には、大正末期から昭和にかけて大企業がうちだした年功序列制・年功的労務管理ということができる。
 その年功制の構成要素は主要には選抜採用された正規従業員の長期雇用の「約束」、勤続や年齢を評価する昇給制、副次的には退職金や企業内福利である。それに、1931年の満州事変の頃から上の諸要素に臨時工制度が加わり、賃金総額と雇用人数の弾力性の要請が満たされるようになって年功制は完成する。もっとも、出稼ぎ後にはふつう帰郷して短勤続のうえ賃金もわずかの時間給の「女工」は、もともと企業社会の外なる存在であり、彼女らが、臨時工とともに、年功的労務管理の対象とされることはなかった。以下、労働者とはもっぱら男性のことと想定して議論を進めよう。 
 年功制の構造的な背景は、外来の近代技術を用いる新旧財閥系の大企業と、都市や農村のマニュファクチュアや手工業に発する多数の中小企業との「二重構造」であり、その間の大きな処遇格差だった。一方、農村からは企業のプル・農家の口減らしのプッシュに応じて地位の不安的な出稼ぎ型、半農型のプロレタリアがにじみ出ていたけれど、農村はいつも潜在的過剰人口が重く滞留する労働力の給源だった。そんななか、選ばれて大企業の養成工となり年功制度に入ってゆくことは、高小卒の若者にとって得がたい成功の道であった。 
 こうしたなか労働者の年功制の受容はまことに自然である。まず、それまであらゆる意味で定着性のなかった労働者は、企業社会ではじめて、集団労働のなかで自分の仕事ぶりが他人の仕事の苦楽と密接に関わっているなかまを見いだすことができた。また、そこでは、明治以来推奨されてきた立身出世主義の、自分にも現実的な成果を、まじめに長勤続して企業の職務階梯・ステイタスを一歩づつ歩むことのうちに見通すことができた。それに、誰にもひとしい加齢にそれなりに報いるという年功制のある種の平等性も、「四民平等」の理念に適合的なように思われた。それになによりも、年功賃金は広汎な低賃金の海のなかに浮かぶ島のような相対的高賃金であり、労働者が貧困の生活を脱出する具体的な方途だったのである。
 けれども、大企業が年功的労務管理のなかに忠実な従業員を取り込もうとしたのは、労働者のもうひとつの結集体である労働組合、とりわけ企業横断の労働組合の団体交渉を断固として排除するためであり、その成功はその排除の結果であることは決して忘れられてはならない。
 たとえば1921年の6月~8月、総同盟神戸連合会傘下の神戸三菱・川崎造船所の労働者は、いくつかの機械企業をも巻きこんで、賃上げや時短とともに「横断組合の承認」を求め、ストライキ、怠業、工場管理をふくむ、約3万人の参加する45日間の闘いを敢行した。この大争議はしかし、産業民主主義をどこまでも拒否する企業と国家に抗い続けることができず、1300人が解雇され、100人もが収監されて「完敗」するにいたる。労働者は結局、企業外に労働社会、なかまの絆をもつことがゆるされなかったのだ。この象徴的な事例、横断組合の承認をめぐる資本の勝利・労働者の敗北が、それ以降の大企業の年功的労務管理の普及に影響し、そこに帰属してゆく労働者の心情にはるかに木魂している。

 日本唯一の労働社会、すなわち年功制度の大企業への服属として形成された企業社会は、イギリスやアメリカの労働社会とはさまざまな点で性格を異にしていた。
 二点ほどにまとめる。ひとつは、工場の塀による、つまり特定企業の正社員身分の有無による構成員の限定である。他企業の労働者、臨時工や社外請負工は、ときに地域の大規模な労働争議のとき連帯行動に加わることが皆無ではなかったとはいえ、日常的には、同じ仕事であっても「可視的ななかま」ではなかった。現在でも基本的に不変の、それは従業員の企業内意識である。
 いまひとつ、労働者の貧民の海からの「離陸」先は、多段階の地位序列をそなえ、本来的に刻苦精励の競争を強いられる企業にほかならならない。そこでは、競争制限や助け合いといった労働者文化の自立性がやはり脆弱だった。言い換えれば、経営者文化と労働者文化が未分化のまま、下層労働者、ベテラン従業員、下級管理者、経営者が一続きになっている。企業内は生得的な意味では無階級社会という想定なのだ。その「未分化」の自然な結果は、低学歴で昇進にも限度がある下積み従業員であっても、競争志向の能力主義になじみをもつようになったことである。こうして、よかれ悪しかれ、「庶民的開き直り」のあまりない労働者像が形成されてくる。「庶民的開き直り」とは、この職場のこの下積みの職務のままで生活を改善し発言権を拡大する、ここで闘うという思想である。こうした考え方の欠如が、「人材登用」・ 出世主義の鼓吹・ 産業民主主義の否認を一体のものとする国家規模の統治政策と適合的であることは、あらためていうまでもあるまい。
 企業に外在的な存在で自立的な労働者文化を培いうる職業社会や地域一般労働社会とは異なる、日本の労働社会・企業社会の負の伝統は、日本の労働者を、一介の労働者であるという立場を人生の一経過点とみなし、絶えざる上昇アスピレーションに身を投じる人びとに造型したということができる。
 もちろん、企業社会の外に放置された、およそ労働社会をもたない人びとがこの「造営」をまぬかれたわけではない。それは日本プロレタリアの共通の性格となった。ふつうの労働者のこの上昇アスピレーション志向は、そして、かたちをかえて、労働者一般にとっても「中流階級的」な生活向上がさほど虚妄でなかった戦後もおよそ90年代頃までは、労働者の心に執拗に生き延びたように思われる。顧みて思えば、労働者思想の自立性とは労働社会の自立性そのものであった。

 さて、労働者像の探求という叙述の流れを外れるけれど、ここで、天皇制のタテマエの理念(顕教)とホンネの実態(密教)との間の矛盾が、権力内部での対立を惹起し、それが体制の瓦解を招いた軌跡を、今では常識に属することだが、ごくかんたんにふりかえっておきたい。次回に述べる戦後民主主義のもとでの労働者思想の転轍を理解するためでもある。 
 国家の諸組織の上位ポストにある権力者たちは、むろん天皇制の「密教」の信者であったが、神である天皇の下では「臣民」は平等という、いわば神話的で幻想的な「顕教」のタテマエを公然と批判することは決してできなかった。それが「下々の者」に教え込んできた道徳の大元だったからだ。だが、この矛盾にに気づきながら沈黙を貫くことは、力ある勢力が、対外危機の局面で、まともにタテマエをホンネと信じこみ、双面神のはらむ欺瞞性を撃つ「密教の顕教征伐」に乗り出したとき、それに有効に対峙できなかった。力ある勢力とは、天皇統治の「補弼」ではなく、天皇専権の統帥権(軍隊を動かす権力)に直属する軍部にほかならない。そこでは天皇親政・国体明徴を奉じる「尉官以下」の軍人が、欺瞞性を突く「皇道派」を形成して暴走することになる。
 天皇制の階序秩序を守ろうとする「佐官以上」の軍人が属する密教信者の「統制派」は、二二六事件の弾圧に見るように「暴走」を一定チェックし、権力を維持しはした。しかし天皇制の理念を公然と掲げる皇道派の論理――といえるかどうか?――は、右翼の思想家や団体ばかりか、富裕層本位の堕落した政治を憤る庶民の応援を得ており、暴走のおそるべき惰力を止めることはできなかった。とどのつまり、統制派は皇道派の論理を表に立てた軍部独裁を通じて、政党政治・立憲議会制を崩壊させる天皇制ファッシズムを樹立する。こうして日本帝国は、判断力を奪われた国民の熱狂と献身に支えられ、「八紘一宇」のアジア侵略を経て無謀な太平洋戦争に突入する。日本人だけでも310万人、アジアでは何千万人もの生命が失なわれた。そして、「国体」維持にこだわって遅きに失した敗戦の結果、天皇制ファッシズムの体制は瓦解し、戦勝国アメリカの占領軍から日本人は民主主義を「与えられる」ことになる・・・。
 閑話休題。では、日本の労働者像の探求に立ち戻ろう。

その11 日本の労働者像を求めて(2) ヤヌスの天皇制と労働者の誘導

 近代日本国家の天皇制は、ヤヌス(双面神)であり、タテマエの理念とホンネの実態という不可分のふたつの相貌をもつ。思想史のタームでは、それは「顕教」vs.「密教」とも表現されている。
 タテマエの理念は、天皇を神とする一方、その下の「臣民」は身分的には「四民平等」であるとする。今ふりかえれば、華族、士族、平民の区別もあり、関東大震災の際の大量虐殺に典型的に見るように、戦前から日本に連行され酷使されていた朝鮮人などは視野の外である。その「平等」の欺瞞性、少なくとも限定性は明かであろう。実のところは実際は神話または幻想ということができる。それでも、「士農工商」というがんじがらめの身分制に生きてきた多くの平民にとって、新しい天皇制のタテマエは、希望の福音にほかならなかった。
 しかし一方、ホンネの実態では、権限や処遇が大きく異なり、上下の命令・服従関係を疑うことが許されない不平等な階序組織の厳存が正当化されている。密教の政治機構では、天皇は実は「機関」にすぎないが、官庁や軍隊では、この階序組織が、顕教の「神」=天皇の意向にしたがって、天皇の統治を「補弼」する、つまり実際の政治運営に権力をふるうのである。官庁や軍隊において、ひいては官営・民営企業でも制度化されてゆくこの階序的で不平等な上下関係は、そもそも権力が絶対に必要としたシステムであった。ここに注目すべきは、こうした天皇制の双面性から、次のような統治政策が自然に打ち出されることである。
 その1。学校教育の内容はきわめて階層的になる。貧しい庶民がふつうそこで学歴を終える初等教育では、顕教のタテマエだけが徹底的に教え込まれた。大多数の下々の「臣民」は「現人神」の下で平等であると学ぶのだ。密教のホンネ、階序組織の不可欠性を学ぶのは、戦前にはまだほんの少数であった中等教育以上に進学する広義のエリートだけである。それゆえ、のちに盲目的にタテマエを信じて暴走した軍部「皇道派」が排撃した天皇機関説などは、ホンネを学んだエリートには、決して公言することは許されなかったとはいえ、実は自明のことであった。
 その2。四民平等の理念と不可欠な階層序列の実態という、本来的に矛盾する要素をなんとか調和的に共存させるためには、なんらかの階層流動性・「人材登用」のシステムが用意されなければならなかった。「天性同体ノ人民賢愚其処ヲ得ベシ」(伊藤博文)。すなわち人を門地や家柄でははなく、能力・業績・努力を評価して人を階序のラダーに位置づける構想である。それは「士農工商」のしがらみを体験してきた庶民を勇気づけ、積極的な前向きの行動エネルギーを引き起こすものだった。ここから、「身を立て名を挙げやよ励めや」の競争的上層志向が鼓舞され、見田宗介が「日本近代の内面的推進力」とみなす「立身出世主義」(『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年)が、全階層的な規模で噴出するのである。私の表現では、こうして、日本の階級形成は「生得的(生まれつき)ではなく結果的(能力と努力の結果)」という性格を帯びることになる。
 とはいえ、明治憲法が近代国家の諸制度を確定してゆくにつれ、現実に立身出世主義の努力の末に相当の権力をもつ階梯上の地位を得ることのできる人はもとより限られてくる。秀才は階層上昇を遂げる原則はあれ――女性の場合は「美人は報われる」というべきか――圧倒的な貧困層の存在ゆえに、中等教育以上への進学者は絶対的に制約されていたからだ。だが、階層流動性の存在への一定の信頼がなければ、国民の永続的な活力を期待することはできない。そこで推奨された国民道徳が「(二宮)金次郎主義」(見田宗介)である。すなわち、どんな下積みの仕事でも実直に刻苦精励すれば、それなりの相対的に優位な地位の生活水準を獲得できるというのである。 
 それは酷薄なまじめさ・実直さの搾取だ。だが、この場合でも庶民は、いつまでも「カエルの子はカエル」ではないという「四民平等」の天皇制の理念・タテマエに殉じたのだ。もし日本の天皇制が平等のタテマエを掲げない、ひとえにブルボン朝やロマノフ朝のような差別と抑圧の絶対主義であったなら、すべての国民がこの「立憲天皇制」に心情的に帰依することはなかっただろう。
 しかしながら、庶民が天皇制のタテマエに帰依し立身出世に賭ける生きざまを選ぶことの代償は大きかった。それは、階層上層の努力の過程では、階序そのものの不平等性を問わぬこと、上位の権力者を批判しないこと、ひいては階層上昇の不成功はみずからの能力と努力の不足のゆえだと覚らされることだった。こうして会社つとめの多くの労働者も、低賃金の仕事に不平を言わず実直に取り組んで企業内の階梯を経上がり、やがては下級管理者や小工場主になることをめざしていた。「職工は人生の経過的なありようとしたい」。この心情は、戦後もなお1950年代頃までは、一般庶民や未組織労働者の心に連綿として生き続けたのである。

 天皇制のはらむ平等の理念(タテマエ)と不平等の実態(ホンネ)の間をなんとか調和的に共存的に調和させる「人材登用」と出世主義の鼓吹。この日本近代の政策の不可欠の一環は、下積みの人びとがその立場のままで貧困の状況改善や権利の拡大を求める思想の徹底した否認にほかならなかった。労働者については、団体交渉やストライキの禁止、すなわち、西欧では19世紀末までには徐々に承認されていた産業民主主義の断固たる否定である。戦前・戦中の日本国家は、失業保険制とともに、どのような争議や要求があっても、ついに労働三権を保障する労働組合法の制定を拒み続けたのである。
 唯一の労働法制は、明治30年代に芽生えた労働組合を根こそぎにした1900年の治安警察法である。それは組合結成およびストライキの「煽動」を禁止し、一切の組合活動に対する官憲の介入を制約なく合法化していた。つまり他の労働者なかまに働きかけてはならないのだ。それゆえ、勇気をもって敢行された非合法の労働争議は、たいてい次のような軌跡を辿った――①過酷な低賃金や長時間労働などの改善、解雇撤回、あるいは団体交渉権を求める労働者の懇願⇒②会社の団交拒否⇒③やむなき非合法のストライキや怠業⇒④右翼団体との乱闘⇒④警察署長や市長による収束の斡旋(生産確保を考慮した一定の譲歩もある)⇒一段落後における争議のリーダーたちの解雇または大量解雇・・・。すべての結末は犠牲を伴う労働者の敗北であった。大成功した実業家、渋沢栄一の言うことには、努力せず怠けて貧苦に陥ったのにひたすら富の平等を叫ぶ「社会党のごときは宜しくない」のだ。   
 この治安警察法に1925年治安維持法が重なる。にもかかわらず、ここではくわしく辿らないが、このような厳冬の時代にあっても、日常の過酷な労働体験から、天皇制の理念と実態の懸隔を凝視し「出世」の虚妄性を痛感してあえて闘いに挑む労働争議が絶えることはなかった。その消長はあるにせよ、昭和初期の大不況期には、労働争議件数は、1928年には379件、争議参加人数はおよそ4.6万人、30年にはそれぞれ906件、8.1万人、31年には998件、6.5万人を記録している。今日とくに忘れないでいたい、「戦後1974年には(労働争議は)5197件もありましたが、2021年の半日以上のストライキはわずか33件です」と『語りつぐ東京下町労働運動史』(2024年)の著者、小畑精武は呟いている。
 戦前の大争議における男女「職工」たちの勇気と侠気、創意ある戦略の工夫などに触れるとき、私はいつも感銘を禁じえない。しかし文脈上「労働者の人間像」に立ち戻るなら、コミュニストを別にすれば、争議の労働者が天皇制にも天皇個人にも弾劾の鉾先を向けることはなかったように思われる。足尾鉱山暴動(1907年)の際、鉱夫たちは明治天皇のご真影を安全な処へ移した上で全山焼きうちをはじめたという。天皇制の「四民平等」の理念は抵抗者の心にも内面化されていた。かつての百姓一揆がしばしば時の道徳である儒教の「仁政」を掲げて苛斂誅求の領主に刃向かったのと同様に、争議の労働者たちは、天皇制の平等のタテマエを信じてこそ、こんな酷い労働条件を「天子さまがお許しなさるはずがない」と感じて労働現場での闘いに赴いたかにみえる。八幡製鉄大争議(1920年)を舞台とする佐木隆三の『大罷業』(1961年)は、この発想を汲み上げてまことに興味ぶかい小説である。もちろん、こうした天皇制のタテマエへの期待は無残に裏切られ、労働者は天皇の官憲によって徹底的に弾圧されるのである。
 天皇制の平等というタテマエへの悲劇的な幻想は、とはいえ、後に述べるように、戦後民主主義が到来したとき、推転してしかるべき役割を果たし、戦後日本の労働者思想の一契機となってゆく。しかしその「推転」に入る前に、企業社会こそが日本型の唯一の労働社会になった理由と、その評価にふれておきたい。

その10 日本の労働者像を求めて(1)  日本プロレタリアの形成ル-トと研究の課題

 イギリス滞在後の1980年代から、私は、英米の労働史とそこから帰納できる限りの労働組合運動論の研究をいったん休止して、75年以降いつも関心を寄せていた<私たちの国の労働者はどのような人びとなのか>というテーマ、つまり<日本の労働者像>の模索に集中して、懸命の勉強を重ねた。
 日本の労働者階級の形成プロセスが、イギリスやアメリカと異なる特質を帯びていたことについては早くから定説があった。近代日本の「殖産興業」によって次々に造られた大小の工場は、むろん多くの工業労働力を需要したが、それに日本の労働者は、農業革命や囲い込みに追われた都市移住によって一挙に、あるいは都市ギルドの解体によってドラスティックに、プロレタリア化した人びとではなかった。むろんアメリカのようなヨーロッパ諸国からの貧困移民でもない。日本では、職人層の熟練工への転身はあれ、「出稼ぎ型」の繊維女工にしても、各種製造業の「半農半工」型の一般労働者にしても、総じて農村を完全には離れることのない稼ぎ人であった。耕地の狭隘な小作農家はいつも潜在的過剰人口のプールだった。そこで会社のプルと貧しい農家の「口べらし」プッシュの合力が、まず娘、二・三男を工場に引き出し、次いで長男や父親を近隣の工場に通勤させたのである。 象徴的にも農家数は長らく変わらなかった。それが本当に減少に転じるのも、もっとふえんすれば、雇用者(労働者)が自営業者や家族従業者を凌駕して有業者の最大比率を占めるのも、戦後の経済成長が始まった50年代後半のことである。要するに日本では、長らく定着プロレタリアの層が薄かったともいえよう。
 もっとも、大工場は早くから先進的な技術を取り入れ、その技能の担い手の企業内養成を図っている。そこに選抜された高等小学校卒の養成工は、後に年功制の労務管理が整備されてゆくにつれて、昇給制や企業内福利をもつ「子飼いの」従業員になってゆくけれども、戦前はそれほど安定的な待遇だったわけではない。昇給も不確かで、なによりも企業はなんらかの不都合があれば容赦なく解雇の自由を行使した。しかし、少なくとも彼らは、離村して会社に定着する条件に恵まれた例外的な存在であった。
 この「例外」が、日本では唯一の労働者の一定の凝集性、<労働社会>(その9参照)をつくることになる。すなわち企業社会である。その負の遺産については後に述べるが、ともあれ日本プロレタリアの大多数は、それぞれに農村に家族的な絆はあるとはいえ、英米にみるような職業社会も、スラムを基盤とする地域一般労働社会ももたなかった。それらを育てる条件はなかった。彼ら、彼女らは、都市では、「生活の必要性と可能性の等しさが可視的な」いかなる労働社会にも帰属しない孤独な稼ぎ人として漂っていた。
  
 しかしながら、日本の労働者像はもとより、上にかんたんに述べた日本プロレタリアの形成過程論をもって十分に把握できるものではあるまい。いくつかの難問が私の前に立ちはだかっていた。例えば次のような考察が必要だと感じられた。
(1)日本の労働者に国際比較的にみて特徴的な性格を刻印した近代史の要因はなにか。こうして召喚された労働者を包摂する、近代日本の国家社会の枠組みはどのようなものか。(2)その枠組みのなかで、日本の労働者はどのような心情や思想を紡いだのか。
(3)こうした心情や思想は、やがて到来した現代史、戦後民主主義のもとでどのように展開したのか
 いずれも容易ではない設問であるけれど、そのいちおうの理解を経て、私はその後、(4)唯一の労働社会となった企業社会において、労働者が職場内外の生活で体験した数々の試練、(5)以上の歴史的体験ゆえに浸透・確立する、日本に特徴的な能力主義管理の特別のインパクト――などを分析することになる。さしあたりは、(1)~(3)をひと続きのテーマとして、おおまかに研究結果を回顧してみよう。ここからしばらくは、前回までのキーワードを窓口にした順不同のエッセイとは筆致が異なる論文風になる。
 私にとってなによりも課題は、周辺領域の学びをふくむ日本の労働史に関する知見の乏しさであった。懸命の文献の読みが始まる。私はむろん大河内一男や隅谷三喜男の概論、兵藤釗や二村一夫の敬服すべき精密な業績に多くを学んだ。しかし、それまでに労働者の仕事・職場・闘争などについて細密かつ濃密に事実を綴る英米の労働社会学に傾倒してしており、労働者の細部にわたる体験や「物語」にこだわる私にとって、社会政策学会系統の学術書ではやはり飽きたらなかった。現在でも同じ気持ながら、たとえばイギリスの労働者文化論の古典、リチャード・ホガース『読み書き能力の効用』(1974年)のような書物がほしかった。労働者の人間像を理解したかったのである。
 ともあれ、その当時の私の勉強は、「労働者像」のイメージをなんとか得るため、学問分野にとらわれず、言ってしまえば手当たり次第に、日本近代史、精神史、労働と職場の調査やルポ、労働運動史、片山潜、鈴木文治、西尾末広などリーダーたちの自伝、そしておよそ働く人びとの体験を活写する文学などを精読または乱読することだった。いずれからもなんらかの示唆に恵まれた。しかし、それぞれの読みの成果をここでくわしく述べることはひかえ、とくに多大の情報と重要な視点を与えてくれたように思われる文献のタイトルだけを思いつくままにふりかえってみよう。例えば次のような著作である。
 横山源之助『日本の下層社会』および『内地雑居後之日本』(1897-98年)。農商務省商工局『職工事情』(1903)。細井和喜蔵『女工哀史』(1925年)。大河内一男/松尾洋『日本労働組合物語』(全五冊)(1965年)。神島二郎『近代日本の精神構造』(1961年)、安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(1975年)。久野収/鶴見俊輔『現代日本の思想』(1956年)。そして労働者の発想を掬う文学としてひとつあげれば佐木隆三『大罷業』(1961年)。
 私はまだ40代のはじめで心身に不安なく、家庭的にもまことに恵まれていた。研究グループはなくひとりだけの研究の営みであったが、それだけにまったく自由に、学問領域の垣根にとらわれずにイメージを膨らませることができたと思う。そんな自由な勉強のいちおうの成果は筑摩書房刊『日本の労働者像』(1981年)にまとめられている。この本と、1986年の『職場史の修羅を生きて 再論・日本の労働者像』のなかから好評であった何篇かを選んで編集した1993年刊行の『新編・日本の労働者像』(筑摩学芸文庫)が、私の研究史中期の代表作ということができる。アメリカで翻訳され、社会政策学会学術賞を受けた作品である。

 以上は<日本の労働者像を求めて>を書き継いでゆく前書きのようなものである。では、回をあらためて。まず設問の(1)日本の労働者に国際比較的にみて特徴的な性格を刻印した近代史上の要因、彼ら、彼女らを包摂した近代日本の国家社会のフレームワークはどのようなものだったのか――について、私の解答を概説しよう。
 それはなによりも、下級武士たちのイニシアティヴによる明治維新後、伊藤博文らが巧みに構築した「神なき国」において国民諸階層を統合する装置、天皇制であった。ふつう労働史、労働研究では重視されないけれども、私には、天皇制こそは、戦前来の労働者の生きざまの選択をつよく規制した無視しえぬ枠組みであったように思われる。では、私はなぜ、労働者像を探る文脈で天皇制にこだわるのか? 

この頃のこと(2024年8月10日)

 私はもともと酷暑・酷寒にはつよいはずだったが、7月半ばからの異例の猛暑は、私たちの体力の衰えのせいか耐えがたく、この頃は元気なくクーラーの中へ引きこもりがちで、シェスタのあとは、秘蔵の名画のDVD、小説の読書、室内の断捨離、食欲の出そうな食事の工夫などで過ごす。雑草に覆われる庭の草取りや枝切りに外へ出るのもためらわれる。なにしろ桑名や名古屋は、連日40度近いのだ。まして心臓弁膜症で投薬・経過観察中の妻には無理をさせられない。
 それでも本能的に、ときどきは外出したほうがいいと思う。以下、スナップは、ひとり気を吐く白のサルスベリ/7.4滋子86歳の誕生日・都ホテルの懐石レストラン/ 7.15四日市。韓国映画『密輸1970』をみた後、鰻丼の夕食までの時間を過ごした博物館でのツーショット/7.21、すでにFB投稿で紹介したが、四日市のシンポジウム「日常生活での憲法の空洞化を問う」で発言する私/ 7.28名古屋での「関生労働組合弾圧を許さない東海の会」で、早口ながら表情とゼスチャー豊かに魅力的な講演を聴かせた望月衣塑子さんと私(関西生労組関係者の写真は非公開とのこと)/8.3桑名の酷く蒸し暑い8.3の夜、あえて出かけたコンチキチンの石採祭り――である。

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オリンピック雑感(2024年8月15日)

 なによりもまず、パリ・オリンピックのNHK報道にはいつもいらいらした。それは競技のそのものよりは、もっぱら日本人選手の活躍についてのアジテーションをくりかえすみたいな報道だったからだ。前提として動かないのは、日本人すべては日本のメダル獲得に我を忘れて熱狂しているはずだという思い込みである。日本選手の勝利をとくに切望しているわけでない私なぞ「非国民」」なのだろう。とはいえ、日々の暮らしがままならぬ人びと、例えばこの猛暑のなかクーラーもつけられないでテレビをみるほかない人びとにとって、メダル・ラッシュなどはなにほどのこともないだろう。大会関係者もアスリートも、「日本に勇気と感動を与える」ためがんばったと思わないほうがい
 メダルラッシュと言うけれど、いまメダルの金を三点、銀を二点、銅を一点として計算すると、総得点はアメリカ(240)、中国(195)、フランス(118)、イギリス(113)、オーストラリア(104)の順番であって、日本(91)は6位である。まぁそんなことはどうでもいいが、報道は日本の強さを過大評価させるように思われる。
 ついでに言うと、競技後、メダル受章者は国旗をまとって小走りするが、彼ら、彼女らには国からの報奨金がある。ナショナリズム鼓吹の強弱の差なのか、報償は国によって大きな格差をもつ。『フォーブス』誌の東京オリンピックでのメダル獲得の報奨金報道によれば、国別のベスト10は、①イタリア、907万ドル(約10億円):金10、銀10、銅20/②アメリカ、784万ドル:金39、銀41、銅33/③フランス、651万ドル:金10、銀12、銅11/④ハンガリー、564万ドル:金6、銀7、銅7/⑤台湾(チャイニーズ台北)、492万ドル:金2、銀4、銅6/⑥日本、403万ドル:金27、銀14、銅17/⑦スペイン、255万ドル:金3、銀8、銅6/⑧トルコ、226万ドル:金2、銀2、銅9/⑨セルビア、201万ドル:金3、銀1、銅5/⑩香港、193万ドル:金1、銀2、銅3。一方、イギリス、ニュージーランド、ノルウェー、スウェーデンはなどは報奨金ゼロだ。日本は6番目に報償の大きい国である。選手たちが闘うのはむろんカネのためではなく、多額の報酬でその純粋さが損なわれるわけではないけれど、このことにマスメディアがいっさい触れないのはやはり問題であろう。
 私は、格闘技一般と、それに、たとえば水中で逆立ちするとか頭を下にして身をくねらせるとか、人がふつうやらない軽業めいた競技が嫌いだ。TVの実録、録画をあれこれさがして見るのは、日本選手の活躍報道に比較的偏しない陸上競技、それも走りと跳びである。そこにみるの肉体の躍動はとても美しい。それでも、しなやかな美のきわまる棒高跳びの放映は結局なかったのではないか。
 走りは距離にかかわらず緊張感がただようけれど、印象深いのは、長距離ではアフリカ在住の黒人、中距離、短距離ではアメリカはもとより、フランス、イギリス、イタリアなどの先進国に移民・定着した黒人が主力スターであることにほかならない。鞭のようにしなやかな汗に光る黒い肌の疾走は、セクシーですらあり魅力的だ。心から愉快になる。そしてそこであらためて痛感されるのは、国籍と人種の著しいずれである。日本でもその傾向は徐々に進んできたと思う。国家ごとに競技を競うというオリンピックの建前は、いずれもたなくなるのではないだろうか。

四日市市民シンポジウム 私なりの報告(2024年7月21日)

 7月21日(日)、猛暑の四日市で、「戦争させない・憲法壊すな よっかいち市民ネット」主催のささやかなシンポジウム、<日常生活での憲法の空洞化を問う! 草の根の護憲運動にむけて>が開かれた。くりかえしFBで情宣してきたように、私たちが日常的に属している「界隈」、具体的には学校や家庭や職場やSNS交信におけるルールや慣習にみる憲法の無視や蹂躙をみつめ、その界隈での強力な同調圧力に従う生きざまを反省的にふりかえる――そんな趣旨の企画であった。

 名古屋や京都から駆けつけて下さった方々をふくめて参加者はほぼ30人。学校、家庭、SNS交信、職場と労働運動の状況について4人の無償のパネラー(全員が女性)が各15分、体験や現状を語り、その後、1時間ほど10人以上の方の発言で質疑・討論を繰り広げた。

 ここにアンケートの回答をピックアップしてみる――日常から問題を問う方法論はとても良いと思う/それぞれの場での人権問題について経験や意見が共有され交流できるこのような機会は貴重だ/すべてのパネラーの話からコミュニケーションの重要さと現実のなかでのその難しさがわかった/SNSについて若い世代の思いが聴けてよかった/参加者が自由に発言できるのがいい/思ったよりも楽しかった/自分にとっての自由やともすればネグレクトしがちな「自分の痛み」を考えるよすがにしたい・・・と、おおむね好評であった。けれども、時間がたりない/それぞれ重要な問題のつながりを示す発言はあっても、もっと掘り下げた議論がほしかった/会場の都合でマイクがなく聞き取りにくかった・・・という、いくらか批判的な指摘も複数あった。

 主として企画・準備・運営にあたった私としては、日常の界隈における同調圧力の深刻さ、SNSの光と陰などの問題は一定共有されたとはいえ、日常生活を支配している界隈のルールや慣習、それに対する世智にもとづく人びとの適応を凝視する議論の掘り下げは、やはり道半ばに終わったように思う。すぐれて主催者の責任であるが、企画の趣旨を浸透させるにはなお「力業の無理」があったというべきだろう。アンケートの末尾には、「意見交換と討論を中心にした」「同じようなテーマのシンポジウムをくりかえしてほしい」との励ましの声もあったけれど、四日市の市民団体がこのようなイヴェントを「くりかえす」ことは人的にも財政的にも、もうむつかしいだろう。

2024年夏、私たちの外出        (2024年7月6日)

 7月4日、連日の猛暑のなか、妻・滋子は私より2ヵ月半ほど早く86歳になった。この頃、私たちは、体力的にも経済的にも「まだできること」を確かめながら日々を過ごしている。そんな私たちふたりの典型的な外出のなかみは、名古屋へ出て、季節に応じて公園の花々を楽しみ、かならず映画をみて、書店をのぞき、8000~10000歩ほどウォーキングして、リーズナブルな行きつけのレストランで夕食をとることだ。先月末には、名駅地下街の「廣寿司」で数量限定特価1000円の「にぎわい弁当」を昼食とし、伏見のミリオン座で『ホールドオーバーズ』と『あんのこと』(6.29のFB投稿参照)の二本を観て、伏見から名駅まで歩き、ミッドランドの「文化洋食」でオニオンスープとハヤシライスの夕食をとった。この日、歩いたのは7500歩、総経費は17000円ほどだった。
 交通費、わけても近鉄の値上げが痛い。名古屋への往復だけで2400円ほどかかる。高齢者の外出を勧めるなら交通機関のシルバー料金制度をつくるべきだろう。しかし、心臓弁膜症で投薬・経過観察中の妻も、この日も、スピードは遅いが歩き通した。「典型的な外出」はまだできるようだ。とにかくふたりとも身体を動かしたほうがいい。
 それにしても「もうできなくなった」ことはあまりに多い。2019年が最後だった海外旅行、ハイキング、筋力や耐久性やバランスの要る庭や屋内での作業はもうできない。ふたりとも認知能力や整理能力や記憶力が衰えて、いつももの探しをしている。小1時間ほどのシェスタは不可欠だ。幸い腰、膝、脊柱などの障害も重い内臓疾患もまぬかれていて、散歩や愛用の電動アシスト自転車でのショッピングはまだ可能だが、全体に行動はのそのそしている。外食は頻繁だが、年金以外の収入が皆無になった今は、後10年ほどのありうる大きな出費――このところ相次ぐ不可避の耐久材の買替え、できなくなった庭作業などの外注、必要になるかもしれない多額の医療費など――に備える貯蓄が心配で、2人で3万円ほどかかる懐石やフレンチのレストランには、よほどのハレの日でなければ脚が遠のく。その「ハレの日」が来る見通しはさしあたりない。
 当面の私の最大にしてほとんど唯一の関心は、いつも二人三脚なのに、もう十分に元気とは言えない妻・滋子の心臓弁膜症のゆくえである。どうしても相互ケアの生活が続く。いま私は、午前中は日本の精神史などの書物を繙くけれど、午後からは、いまだ家事の担い手とは言えないまでも、家事修業、家事手伝いの日々である。それもいい。このところ、わが師、同世代の方々、信頼する若い友人たちの逝去、深刻な病苦、コミュニケーションのできないひきこもりなどの報にしきりに接する。私たちはまだ恵まれているのかもしれない。私たちは残存能力を探り当ててなお生き延び、この世がどこまで生きづらくなるかを見届けよう。私が担当する洗いものをしながら、そんな思いが胸に去来する。

最近のスクリーンから――『罪深き少年たち』/『MISSINNG』 /『あんのこと』     (2024年6月29日)

 映画は、小説ともに私には「ご飯みたい」なもので、劇場、DVDをあわせてシャワーを浴びるように観る。しかしこの頃はさすがに、短いショットの「瞬間認知能力」や囁かれる台詞を聞きとる聴力の衰え、感性の鈍磨などを自覚せざるをえない。そのためか、しばしば世評高い新作のいくつかも、DVDでの忘れられない名画再訪のときほどにはときめかなくなっている。
 例えば、リアリズムの毒が回ってしまっている私には、ゴシックSF技法の『哀れなるものたち』はなじめなかったし、『ヨーロッパ新世紀』は、移民差別というテーマへの切り込みはすばらしいとはいえ、最後がひとりよがりのようで感銘がうまく着地しない。『オッペンハイマー』はといえば、複雑な政治ドラマのようで、オッパンハイマーの自負と悔恨の入り混じる人間像の彫りが不鮮明だ。あの『関心領域』にしても、強制収容所のユダヤ人を焼殺する煙や叫びのかたわらで優雅に暮らすヘス一家の、おそるべき無関心の酷薄というの空気はわかるとはいえ、私たちを慄然とさせるはずの小道具のクローズアップやヘス一家には些細な残酷のエピソ-ドの具体的な描写が技法的に排除されていて、なかなか感情移入ができなかった。私にはこれは上質のホラー映画のような印象である。
 わかりやすい映画がいい。さらに私の好みでは、物語の過程での人間という愛しい存在の確かな変化と成熟がみえる映画がいい。その点で、評論家の評価はともかく、ふつうの映画ファンである私が勧めたい近作は次の3作である。

罪深き少年たち(韓国22年、チョン・ジヨン監督、チョン・サンヒョブ脚本)
 定年間近の不屈で嫌われ者の刑事(ソン・ギョング)が、前科をもつ知恵遅れの少年3人を、ずさんな捜査、拷問、恫喝をもって「自白」させ冤罪を捏造したエリート刑事、追随する同僚、検事たちと、左遷というの挫折をふくむ16年の間、徹底的に抗い、女性弁護士らの協力も得て、ついに法廷での真犯人(すでに時効である)から真相の証言を引き出して3人を救う物語である。正義と権力への拝跪、真実と欺瞞、勇気と逡巡の葛藤がくっきりとリアルに描かれて感動的だ。妻たち、女たちがいったん希望を失う刑事や証言をひるむ真犯人の背中を押すのも、最後に、立ちすくむ証言した真犯人に勝訴記念写真に加わるよう、刑事がふと手をさしのべるのもいい。99年参礼ウリスーパー事件の事実にもとづく作劇という。

MISSING(吉田恵輔監督・脚本)
 愛娘・美羽が失踪して見つからぬままの母・沙織里(石原さとみ)の煉獄のような日々を描く。街頭で続ける空しいよびかけ。言動の控えめな夫(青木崇高)との諍い。失踪日にたまたまアイドルのライヴのために出かけていたことを容赦なく誹謗するNET。その日に娘を預かっていたやや言語障害の弟(森優作)を犯人扱いしようとするマスコミ。誰かを美羽と見間違えては泣き叫び、わめき、食ってかかる、そんな狂おしい母の姿をすっぴんで、魅力のポイントの唇にもルージュも引かない石原さとみが体当たりで演じている。
 それでも沙織里は、他家が遭遇した同様の失踪事件の解決に協力し、その子が見つかると「よかった!本当によかった」と涙を流す。美しいシーンである。そしてその母子が沙織里らの街頭キャンペインの場に現れて感謝を述べ、これからはあなた方の運動に協力したいと申し出ると、傍らの夫がはじめて慟哭するのである。 
 2年後を描くラストシーン。沙織里は交通整理のボランティアをはじめ、通過してゆく子どもたちをいとおしく見つめている。かなしみの煉獄を経て、なお人を信じて生きてゆこうとするみごとな成熟をここにみることができる。 

あんのこと(入江悠監督・脚本)
 あん(河合優美)は、ホステスで娼婦の母親(河合青葉)に虐待されて育ち、12歳のときからその母の手引きによって身体を売って、中学も中退。21歳の今、ウリとシャブの常習犯である。救いようがないかにみえるあんはしかし、型破りの刑事・多々羅(佐藤二朗)と出会い、彼の主催する薬物更生グループに加わり、彼に寄り添われ、グループを取材するジャ-ナリスト(稲垣吾郎)の協力もあって、DVシェルターに起居し福祉施設の介護職にもつくようになる。日記もつけはじめた。周囲の大人はみんな親切だった。
 だが、職員のミスから居所を知った母親が職場に現れて暴れる、コロナ禍で非正規職を失う、さらに多々羅のグループ参加者への性加害が暴露されて逮捕されるなどのトラブルが続き、あんはまた出口のない絶望に落ち込む。そんなとき突然、シェルターの隣人の女性が赤ん坊をあんに一方的に預けて失踪してしまった。あんはそこで、卒然と赤ん坊の万全のケアに没入するのだ。けれども、ここでまた母親に捕まり思いがけない至福のときが終わる。この毒ママは、あんを身体で稼いで来いと追い出し、その間に赤ん坊を児童相談所に引き取らせてしまう。帰宅したあんは、怒りのあまり母親を殺そうと包丁を構えるが、ついに刺すことはできなかった。あんはシェルターに帰り、子どものアレルギーになる食品と献立を記したページだけを残して日記を焼き捨て、ベランダから身を投げるのである。
 あんは、介護施設の利用者に慕われ、赤ん坊の十全なケアに生きがいを見いだす優しい女性であり、ひたすら識字に励み、グループで自省をこめて過去を率直に語れるようにもなった真摯な少女であった。こんな女性がなぜ自死しなければならなかったのか? 薄氷を踏む思いで経過をみつめてきた私にはどうしようもなく悔しい思いがつきまとう。いっそこの比類ない毒ママを刺してしまえばよかったのではないか!と感じさえする。これも現代日本、2020年の実際の事件をベースにした映画であるが、ストーリーの中には、あんの本来の優しさと、逆境の中での成熟の歓びがちりばめられていて胸が熱くなる。
 ちなみに今年、女性の受難を描く佳作・名作は、たいてい生家や婚家での育児放棄や虐待やDVを扱う。その点では『あんのこと』も戸田彬弘の『市子』や成島出の『52ヘルツのクジラたち』(原作・町田そのこ)と共通するところがある。『あん・・・』には、悪女としてしたたかに立ち上がる『市子』ほどはサスペンスフルでなく、性的少数者者との揺るぎない愛を発条として孤独なクジラの叫びを聴く、人間の絆を取り戻す『52ヘルツ・・・』ほどの物語の文学的な広がりはない。とはいえ、『あんのこと』がもたらす切実きわまりない衝迫はまた、この作品を今年の収穫のひとつとしている。

 島原の乱をめぐる断想(2024年6月12日)

 最近、1637~38年の島原・天草の乱(ふつう「島原の乱」と総称される)に関する本をいくつか読んだ。①堀田善衛『海鳴りの底から』(朝日文庫1961年)、②神田千里『島原の乱――キリシタン信仰と武装蜂起』(講談社学術文庫2018年)、③五野井隆史『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館2014年)、そのほか水溜真由美『堀田善衛 乱世を生きる』(ナカニシヤ出版2019年)の第I部五章などの関連文献である。これらのくわしい内容紹介や比較評論は私にはできない。この文章は、こうした読書に触発された気ままな断想にすぎない。
 権力の圧政に抗う民衆蜂起の思想と行動、それは私の終生の関心事であった。世界史・日本史の受験勉強では、詳細な「叛乱年表」を自作したものだ。労働研究という専門分野の選択の背景にもむろん、<蜂起・叛乱に到る、あるいはそこに到ることのできない事情>を凝視したいという思いがあった。また熱烈な映画ファンとしても、私の大好きな作品の一系列はたとえば『七人の侍』『スパルタカス』『アルジェの戦い』『タクシー運転手』などである。もちろん、蜂起・叛乱とはいえない近現代の労働運動、困難ななかでの組合づくりやストライキを活写する『ノーマ・レイ』など傑作たちの忘れられない感銘は、記憶の蔵に犇めいている。
 閑話休題。日本近代史上最大の民衆一揆である島原の乱について、まずは概要を確認しておこう。1637(寛永14)年10月、未曾有の凶作とあまりの苛斂誅求に呻吟した島原・天草の農民・漁民はついに叛乱に転じ、その12月、およそ2万4千人(その家族たちを加えて3万7千人ともいわれる)が、16歳のカリスマキリシタン天草四郎を総大将、かつてのキリシタン大名、有馬家・小西家の家臣たちを戦闘指導者として、みずから修復した島原の原城「春の城」に立てこもる。彼ら・彼女らは、およそ3ヵ月間、幕府軍、諸藩あわせて12万人と、手作りの武器と機略をつくして闘かった末、兵糧攻めのもたらす飢餓状態のなか、38年2月28日、幕軍の砲撃・総攻撃で落城させられ敗北するにいたる。幕府はそして、身分差別の封建道徳と背反する平等の理念を掲げる禁教キリシタンを絶滅すべく、一人の投降者・山田右衛門作を除くすべての籠城者を虐殺するのである。
 この未曾有の人民抹殺は、その前後の、筆舌につくせない残酷な拷問と処刑と地続きである。文献①③が具体的に記述する。1620年代以来の禁教令に伴う宣教師および農民クリスチャンへの火あぶり、斬首、緊縛したキリシタンの海中または雲仙温泉の熱湯への投げ込み、逆さ穴吊り。そして島原、天草での重税を拒む名主の妻の着物を剥ぐ辱め、妊婦の水漬け、竹のこぎりでの斬首、「蓑踊り」(蓑をまとわせ火をつける)・・・。あえて例示した限りでも、拷問と処刑でのこれほどのサディズムは他に例をみないように思われる。

 島原の乱に関する読書を通じて、民衆叛乱の思想と行動という点から、もっと考えたいこと・もっとクリアーに知りたいことなど、さまざまの問いに私は促される。
 その1。最大の問いは、島原の乱は、飢饉の年の重税と苛斂誅求に耐えかねた大規模な百姓一揆なのか、信仰の自由を死守するキリシタンの反抗なのかということだ。そのいずれでもあるというのが通説である。この解釈はしかし、いくらか安易な感じがする。耐えがたい苛斂誅求がはじめにあることは否定できない。だが、籠城した農民たちの宣言と行動はどこまでも禁教キリシタンのそれであった。では、経済・生活と宗教・思想とはこの場合どんな関係にあったのか。神田千里の文献②にヒントがある。神田によれば、過酷きわまる弾圧によって15~20年の間、島原や天草の多くの村では圧倒的多数者になっていたキリシタンのほとんどは、やむなく棄教していた、それにキリシタンはもともと世俗の権力に力で対抗することをむしろ禁じ、その教えを拷問や処刑の受難に耐えぬくつよい主体性を支えるよすがとしてきた。そこで神田が重視するのは、1637年の飢饉・苛斂誅求のとき、15年以上もの棄教の末、「立ち返り」(再入信)のうねりが起こり、「立ち返り」者こそが一揆を起こしたという事実である。
 神田の示唆を私はこう敷衍する――凶作・飢饉・苛斂誅求は農民たちに「この世」で生きる見通しを失なわせた。そのとき彼らは、それまで非常時にも耐える自分という主体をつくってきた信仰を剥奪されているいるということに卒然と気づいたのだ。そして今、禁じられていたかつての信仰を取り戻すことが眼前の苦しみを打開する唯一の方法と考えたのだ。それは、棄教の生きざま、すなわち困難に向き合う自信と勇気を失った人生の拒否だった。とはいえ、「立ち返える」ことはお上に抗うことにほかならず、ひっきょう死はまぬかれない。だが、終末の日までは「もうひとつのこの世」に生きることはできる。こうして彼らはやがて訪れる死を覚悟して、原城のパライソ「かとりかれぷりか」に立てこもったのである。安保闘争のさなかに連載された堀田善衛の①が熱く記すように、3ヵ月の間、そこは農民、漁民、職人、猟師などが、家族とともに犇めいて窮屈ながら、生活感のある「天地同根、万物一体、一体衆生を撰ばず」の界隈であった。人びとは神に祈り、詠唱し、談笑し、乏しい食糧を分かちい、石や弓矢や鉄砲で幕軍をやりこめたことを自慢しあった。そこでの絆の生はやがて終わる、だが死んでもアニマの鳥は飛び立つ――そう思い定めたのである。

 その2。島原南西部・天草東部の多くの村は、全村一家をあげて籠城に参加している。収束後に幕府は村の再建のために大規模に植民せざるをえなかったくらいだ。けれども、籠城者には、強制的に参加させられた者、迫害され恫喝された仏教徒も少なくなかったはずである。それゆえ、その数は資料によってさまざまながら、脱落して落人になった人も確かにいる。籠城者のすべてが「かとりかれぷりか」の理念を内面化していたとはいえないだろう。だが、悔い改めれば咎めなしいう幕府軍の甘言にもかかわらず、降伏者の輩出はなかった。少なくとも2万4000人もが最後に虐殺されるまで明日なき闘いに殉じたことは疑いを容れない。
 ためらって動揺していた非キリシタンは、「降伏しても地獄」と覚悟したのだろうか?籠城の日々の過程で、かつての禁教の教えのなかに、身分差別・性別不平等のこれまでとは異なる「もうひとつのこの世」を垣間みたのだろうか? いずれにしても、組織的抵抗運動のなかの異端の少数者の問題として、ここはもう少し考えてゆきたいテーマである。

 その3。そんななか、唯一生き残った山田右衛門作の「裏切り」の理由はなにか? この人物については、その後の彼の立ち返り(再入信)の真偽をふくめて、これまでいくつかの文学が関心が寄せてきたが、ここでは彼を主人公として扱う堀田善衛の文献①の解釈と評価が興味ぶかい。
 堀田は右衛門作の思考として、①彼は明暗ともども事実をリアルを描く先駆的な油絵の絵師であって、その職業人としての希求が延命を選ばせた、②彼は近代的な思考の合理主義者であって、天草四郎の「秘蹟」などを信じられず、灰燼のなかにキリシタンすべてが死に絶えて信仰のなにが残るのか、空しすぎるという疑問にとらわれた――などをあげている。しかし堀田によれば、③右衛門作は、籠城の過程で、確かにキリシタンの言動のまっとうさ・美しさにうたれ、裏切る自分を最低の人間と自覚したという。この自覚は②と結びついて、ここに、「見ていろ、人として最低のこの俺が、よりによって最低の奴になりさがり、この城にいま在る、もっとも気高いものを世に伝えてやるぞ・・・」という思いに辿り着いたという。
 堀田善衛が右衛門作を否定的な人間像としていないことはいうまでもない。安保闘争のどよめきに原城の祈りの斉唱と同じ「海鳴り」を聴いた堀田は、情感を込めて原城の人びとの群像を描いた。だが、アッツ島やサイパン島の悲劇を知る堀田は、「玉砕」の否定という文脈で原城の「ユダ」に共感したのだ。そればかりか堀田は、水溜真由美が丹念に辿るように、乱世のなかを生き延びてまのあたりにした過酷な事実の記録者になるという知識人の宿命的な役割に自覚的であった。堀田はこうして、「偽装転向」して生き延び酸鼻をきわめる過酷な体験を後世に伝えるという、右衛門作の生きざまを掬い上げたのである。

 私たちはいま、民衆叛乱どころか、まったく合法の街頭行動も、憲法に保障されたストライキなど労働者の直接行動も、欧米や韓国とは違ってまったく枯死している現代日本に生きている。選別の競争に個人として打って出るほかない、それは新自由主義の「この世」である。
 私は2023年9月、おそらく最後の著書として、1984年~85年イギリスの炭鉱大ストライキの軌跡を個人レベルの体験にまで降りて辿る『イギリス炭鉱ストライキの群像』(旬報社)を刊行した。10万人以上の坑夫とその家族が1年間、刑事的・民事的弾圧と貧窮にたえて貫かれたこのストライキは、その後グロ-バルに広がる新自由主義体制への労働運動の最初の闘いであったけれど、坑夫たちと炭鉱労働組合は、あらゆる権力の資源を動員したサッチャー政権にたいして避けがたい敗北を喫するにいたる。
 このたび島原の乱の関連文献を耽読したことに、この拙著の執筆体験はどこかでつながっている。もちろん時代も国も、叛乱の「敵側」の物量も、生死を左右する緊迫度も、両者の間ではまったく異なる。だが、慶長期の島原・天草のキリシタン農民と80年代のイギリスの坑夫とは、貧窮と叛乱を絶滅させる権力諸機関の合力によって、「護るべきもの」に殉じて敗北していったことは同じだ。その共通性から思うことは、敗北後に現出した世界をいくらかでも批判的に検証しようとすれば、かつての闘いにおける敗者の眼の復権が不可欠だということにほかならない。
 新自由主義の世界にその掲げる自由の偽りをみるならば、イギリス炭鉱ストライキの群像はレジェンドとしてふりかえられねばならず、日本国家の近代以降にいたる思想統制と暴力行使に注目するならば、この国の江戸期にこれほどの規模の民衆一揆があり、それが容赦なき大量虐殺で終結させられたことがいつまでも忘れられてはならい。歴史における敗者の眼を掬うことなき体制は、それ自体、民衆の抑圧をまぬかれないそれである。