その14 日本的能力主義の解明     (2024年10月10日)

 『日本の労働者像』(筑摩書房、1980年)の出版以降、私は企業社会に生きる労働者の遭遇したさまざまの試練を、職場あるいは特定階層の現代史として、さらには個人の体験史として、具体的に分析・描写することに専念した。東芝府中の人権裁判などへの関わりを通じてパワハラに関心を寄せはじめたのも、遅まきながら女性労働の軌跡に立ち入って性差別の執拗さに注目するようになったのも、この頃からだ。それらの考察は、『職場史の修羅を生きて――再論 日本の労働者像』(筑摩書房、1986年)にまとめられている。
 その過程で痛感したのは、日本の労働組合運動のまぎれもない衰退であった。私にはその衰退は、90年代にはあらわになる賃上げ機能の弱体化にさきがけて、仕事そのものと職場のなかま関係のありかたへの労働者の発言権・規制力の著しい後退、すなわちそれらに対する経営権の浸透を起点とするように思われた。個々の労働者の労働条件の決定についておよそ労働協約の介入を拒む<個人処遇化>と、それは言い換えてもよい。そうした傾向の大元こそはそして、1960年代半ばごろに姿を現し80年代、90年代を経るにつれて次第に定着するにいたる日本的能力主義管理にほかならない。結局、企業社会での従業員の働き方の経営主導性を確立したのは、この日本的能力主義の労働者への要請であり、労働者多数・企業別組合によるその基本的受容であった。
 日本的能力主義管理の労働者への強力なインパクトを私が総合的に検証した著作は、ようやく1997年刊行の『能力主義と企業社会』(岩波新書)である。遅すぎたとはいえこの新書は、当時、先駆的なプロレーバーの能力主義論と評され、私の著作としては最大の10万部以上の販路をもつことができた。その骨格はおよそ次のようである。

 日本企業に特徴的な能力主義管理が従業員に求めるのは、①今の仕事の種類、範囲、標準的な仕事量、勤務地にこだわらない「柔軟な」働きぶり、フレキシビリティと、②そこから派生する「会社の仕事を第一義」とする<生活態度>である。
 ①は要するに、労働者は会社の望むように働けとうことだ。それはすでに述べた<仕事遂行における経営専制=労働者の規制力欠如>の結果でもあり原因でもある。そればかりか、①と②を合わせ考えれば、企業の必要に応じて過重ノルマ・過度の残業・頻繁な転勤などを引受けることができるのは、そうした生活態度でやってゆけるのは、家事、育児、介護など無償のケア労働をまぬかれ、それらを「主婦」にさせている男性正社員のみなのである。この能力主義ははじめから性別役割分業・ジェンダー差別を前提にしているのだ。日本的能力主義管理下のサラリーマン生活はひっきょう、男にとってはもとより女にとっても、きわめて拘束的であった。
 この日本的能力主義にもっとも適合的な賃金システムは、査定つきではあれ年齢照応の年功賃金でもなく、経営側がある局面で導入を試みた職務給でもなく、職能給であった。そこでは、正社員は年功制度に包摂されながらも、「潜在能力」の開発と発揮を個人査定され、いくつかの昇給線上の職能等級の階梯のいずれかに位置づけられて支払われる。職務のグレードアップ、つまり昇進はなくとも、潜在能力の向上によって昇給はある。それは、戦後初期の自動昇給的年功賃金が昔日のものとなった時代における、紛争を回避した高度成長期の労使の大いなる妥結点であった。多くの労働者と企業別組合は、会社本位のフレクシブルな働き方を承認するかわりに、雇用保障とともに、年齢段階別の生活費の上昇を賄う昇給の一定の保障は確保している。経営側にとっても、技術革新に素早く対処するためにも、個々の担務内容の頻繁な変動をそのつど賃金差に結びつけるよりは、大まかな潜在能力と昇給を対応させるほうがよいと判断したのである。
 
 とはいえ、労働者・労働組合の日本的能力主義の受容の土台には、このような労使の戦略的な選択よりも根深い、前回までに論じてきた日本の労働者像の思想と心情が潜んでいるように思われる。くわしくくりかえすことは避けたいが、日本の労働者は、伝統的に、国家の要請への順応だけではない主体的な選択としても、労働者間競争の承認、階層上昇への不断の願い、「下積みの労働者」からの脱出志向、「庶民的開き直り」の忌避、そしてそれらと不可分の「現在の立場のままで生活向上と発言権を獲得する」思想、産業民主主義への信頼の稀薄さにおいて、ある意味で特異な人間像を刻んできた。この勤勉な人びとには、欧米の組織されたブルーカラーに特徴的な、競争主義・個人評価のメリトクラシーにつよく反発する思想はない。日本の労働者は個人の力量やがんばりが評価される能力主義に特有のなじみを感じてきたのだ。戦後の国民平等の思想も、消費生活の標準化要求に留まり、総じて労働現場の働き方の共通規制の樹立志向とは無縁だったということができる。
 多数派労働者の連帯的抵抗をうけなかった日本の能力主義管理はこうして、80年代以降、じりじりと企業社会に浸透し定着していった。その過程で年功制の一要素でもあり能力主義管理と表裏一体のものである人事考課の役割はいっそう強化されてゆく。細かくみれば、多面的な査定項目のうち、とくに客観性の疑わしい「情意」(責任感、積極性、規律遵守、協調性)の比重は弱まり、ノルマ達成の秤量基準となる「実績」の比重が強まったかにみえる。だが「潜在能力」の評価を中核とする評価の3項目はやはり健在であった。そうした多面的な個人査定は、昇給や賞与や昇格に大きく左右するゆえに、従業員の職場内外の生活を支配し続けた。
 そのうえ、やがて人事考課に目標面接制度が加えられたことのインパクトも無視できない。それは、上司との個人面談のなかで労働者が「君ならもう少し背伸びしてもいいじゃないか」などと誘導されて、より高度の能力の開発と達成を「約束」してしまう制度である。典型的な<強制された自発性>の世界。この上司との面談によって、きびしい仕事量も押しつけられたものではなく、労働者の「自己責任」とされるわけだ。この目標面接は、日本企業の誇る作業管理――P(プラン)D(行動)C(チェック)A(改善アクション)の連鎖に組み込まれ、労働時間の法制などをさておけば、働き方についての労働者の連帯的な職場規制をほとんど不可能にしたのである。
 この連鎖への統合は、日本企業の現場レベルのすぐれた効率性確保の完成形態であった。
だが、それこそが過重ノルマ、過度の残業、パワハラの脅威、メンタルクライシス、過労死・過労自殺などの最大の背景にほかならない。くりかえしいえば、それらは労働条件の<個人処遇化>のもと、<個人の受難>として現れ、<個人責任>が問われる。けれども、かつての高度経済成長が昔日のものとなった90年代にもなると、能力主義管理が唆してきた従業員の競争と選別は、正社員のなかに、昇給・昇格もできず、雇用保障も危うい多数の人びとを輩出するようになった。「能力主義を選択した日本にワークシェアリングは無縁ではないでしょうか」と嘯く有能なサラリーマンもなお少なくなかったとはいえ、<個人の受難>は本当はまぎれもなく労働者階級の受難だったのだ。だが、長年、能力主義管理のもとでさしあたり<個人の受難>をまぬかれてきた従業員の多数は、組織的抵抗が必要となる、例えばリストラ期を迎えたとき、それまでの労働者間競争への投企がなかま関係をばらばらに分解しており、連帯的抵抗はもはや不可能であることに突然、気づかされたのである。とどのつまり労働組合運動は存在意義を疑われるようになった。敷衍すれば、近年、およそ「労働問題」の解決者として労働組合運動、産業民主主義の復権に期待する論調は、左派の研究者にも、当の労働者にも、ほとんど見当たらないようである。

 人事考課や能力主義管理の「効用」は、経済政策としての新自由主義の支配のなかでいっそう時代の合意となりつつある。それだけに、日本の主流派の正社員労働組合が、それらに正面から対決することはもうできないだろう。けれども私は、にも関わらず、いやそれゆえにこそ、ユニオニズムへの次のような「後退戦」への期待を述べることをもって、この暗鬱な議論をいったん閉じるほかはない。
 まずは人事考課について。労働組合は、経営の一方的な運用に介入して、少なくとも、「A氏の給料は40万円、B氏の給料は25万円であるが、なかまたちはその差15万円がなぜ生まれるかをわかっており、その根拠を納得している」――そんな査定制度に変えるべきである。
 そして、能力主義管理については、それを絶対視せず、働きやすい職場に向けて次のような3点を追求したい。
 ゆとり:性、年齢、婚姻状態、健康状態を問わず、休暇の法的権利を確保でき、少なくとも70歳ごろまでは働けるようにすること
 なかま:雇用身分を問わず、傍らの同僚と助け合い、庇い合い、誰にとっても職場を居心地のよい界隈とすること
 決定権:遂行している仕事の遂行方法やペースや負荷に関して、現場の職場集団や労働者個人が少なくとも一定の裁量権を確保できること。
 こうしたことは、日々の労働に生きる人びとが自然に願うことだはないだろうか。そのようであれば、私はここに定着し、経験の力を蓄えることができる、と思うのではないか。ちなみに『能力主義と企業社会』の終わりに述べた<ゆとり・なかま・決定権>の三点は、ある有力なコミュニティユニオンの運動方針とされたことがある。
 しかしながら、現代の労働問題を全面的に論じるには、むろん男性正社員の受難の凝視のみではまったく不十分である。それなくして企業社会システムが成立しない階層であり、
能力主義の時代にここでも大きな変化を遂げた階層である女性労働者と非正規労働者について、私なりの考察をつないでゆかねばならない。それが「労働研究回顧」の次回以降のテーマとなる。

その13 日本の労働者像をもとめて(4) 戦後民主主義と労働者思想の転轍

 戦争にまきこまれ、圧倒的多数の国民は、あまりにも悲劇的に、幼少時から教え込まれた天皇制のタテマエに殉じて、かけがえのないほとんどのものを失った。けれども、「民主主義が与えられて」労働組合活動が公認されたとき、労働運動は、「燎原の火」のように燃え広がった。では、その労働運動に日本の労働者はどのような思いを込めたのか? 彼ら、彼女らの戦前から内面化されていた天皇制に対する思想と心情はどのように変わったのか? 日本の労働者像の解明にとって、それは不可欠な検討課題であるが、私の懸命の考察は次のような道行きを辿る。
 一般的にいって、権力体制に文化的な資源、概念、言葉を奪われてきた人びとが、体制が瓦解したとき、それまでの権力の統合理念を、異端の宗教をもって正面から撃つ思想を掲げることは稀である。人民の新しい思想はむしろ、それまでの体制が国民統合に用いてきた論理の欺瞞性、すなわち理念と実態の矛盾を追及するかたちをとるように思われる。
 まして日本の場合、異端のキリスト教に殉じた唯一の大一揆、島原の乱のような叛乱も、ひとり戦前から天皇制の廃棄を掲げてきたコミュニスト主導の革命も、持続的な大衆運動としては考えられなかった。それゆえ、労働運動をふくむ戦後革新思想の現実的なルートは、天皇制のタテマエの平等と、権力者のホンネである徹底して差別的な階序の不平等との懸隔を是正または粉砕することに赴いたのだ。天皇制が四民平等・能力による人材登用、組織のすべての成員の公平な処遇などを唱えるなら、その理念を本当に実現してみよというのである。
 戦後の革新勢力や労働運動がまず要求したのは、それゆえ、まずもって<国民としての平等>であった。戦前では、実態として「職工」は蔑まれ、貧しい生活を強いられ、生活改善に声をあげることは許されなかった。これは「天皇制の理念の裏切りではないのか。労働者も国民としてふつうの生活を!」。それとともに、国民である以上、社会的なミニマムの生活が保障されなければならない・・・。それは当時の世界的な動向である福祉国家論に沿う発想でもあり、天皇制の平等のタテマエを掲げてきた日本の支配層も、「社会主義にまで行かなければ」否定できない考え方であった。皮肉な表現ではない、戦後の労働運動は、「人間宣言」で逃れた昭和天皇をもはや神と信じはしなかったが、天皇制のもと理念上でのみ「平等」だった「臣民」を、実態として「一億総中流」に変えようとしたのだ。政財界も、およそ1980年代後半以降までは、福祉国家や、格差を公認する「階層別ライフスタイル」の否定を公然と唱えることを控えるほかなかった。「貧乏人は麦を食え」は禁句だったのである。

 <国民としての平等>論は、企業社会を基盤とする戦後企業別組合の<従業員としての平等>論により具体的に現れている。その後の推移もふくめ、少し具体的に紹介しよう。
 その1は、高学歴のホワイトカラー「 職員」とブルーカラー「工員」の差別撤廃である。年功制といっても、それまでは両者の間に、賃金の額と形態、労働時間管理、企業内福利施設の利用などに大きな格差と差別があった。これはおかしい。「従業員としてのステイタスを同等にせよ!」 この要求はほぼ実現し、呼称も、さまざまの変遷を経てとはいえ、70年代には「社員」に統合されてゆく。
 その2。戦前の年功制では、年功賃金といっても、社内には雇用身分、学歴、職群、性などによるさまざまの昇給線があり、上司の恣意的な査定による個人格差もあからさまであった。だが、「同じ従業員であるなら同じように生活できる賃金が年齢段階別に保障されなければならない。年功賃金は基本的に同一の、譲歩しても職群別同一の、自動昇給であるべきだ・・・」。年功賃金の戦後労働者的解釈というべきか。生活の維持を重視すれば、賃金は年齢によって上がるのが正当なのだという主張である。
 この年齢別賃金論は、「職工差別撤廃」とは違って、戦後初期の左派労働組合によって一定達成されたとはとはいえ、すぐに昇給線の分断や査定昇給を手放さない経営側の執拗な反撃を受け、紆余曲折を経て、60年代半ば、能力主義管理の一環としての職能別賃金制に収斂し、これが日本の代表的な賃金体系になる。その後、かねてから労働論壇の一角にあった同一労働同一賃金論が、性差別・非正規差別反対運動の台頭とともに「同一価値労働同一賃金論」に発展していっそうの説得性を高めているとはいえ、それはいまだ大企業正社員の職能給とか役割給の堡塁を揺るがせてはいないかにみえる。
 その3。年功制の枢要の輪である終身雇用というタテマエの最大の裏切りは整理解雇である。「この裏切りを許すな!」 戦前の大争議もそうだったが、戦後労働運動史を彩る、国鉄、海員、日立製作所、宇部興産、三井鉱山、日鋼室蘭、三井三池など、いくつかの大ストライキの主要なテーマは解雇絶対反対にほかならなかった。
 これら長期の闘いは、しばしば企業協調的な第二組合の生成をまねき、総じて労働組合側の敗北に終わる。けれども、「大争議は高くつく」ことを学習した企業は、その後、経済成長を迎えたときには、むきだしの整理解雇は控えて、企業経済に必要な労働力の弾力性の確保を、非正規労働者の活用、正社員の残業調整、配転・出向、退職金優遇の希望退職募集などによって賄う労務管理に転じてゆく。そうしたソフトタイプの人減らしは、企業別組合の整理解雇反対闘争の必要性をたしかに低めたが、同時に、その可能性も、労働者が能力主義管理による従業員の選別に順応してゆくにつれなくなった。こうして時が過ぎ、2000年代にふたたびリストラの季節が到来したとき、企業は人員整理を、ほとんど争議なく従業員の「個人処遇」として対処できたのである。

 最後に、以上の<従業員としての平等>の思想と戦略が、女性労働者を包括するものであったかどうかが問われなければならい。
 戦前とは異なり、憲法にも男女平等の理念が謳われた戦後民主主義のもとでは、組合の生活給・自動昇給、解雇反対の要求にも、公式には女性を直接に差別する要素はなく、女性もまた労働運動の新鮮な担い手であった。近江絹糸での労働組合の勝利は、戦前の総じてうつむいた自己表現をためらう「女工」を、人権擁護や女性の独自要求に昂然と頭(こうべ)を挙げるOLに変えたと言えよう。
 とはいえ、女性労働者の多数は、なお引き続き、「寿退社」の短勤続・キャリア展開のない単純労働・いくつかの重層的な要因による低賃金という「三位一体」の働き方のままであった。そして、性別役割分業を基礎にもつこのような間接差別に、「家族責任」をもつ男性労働者も内心では総じて肯定的であり、彼らを中心とする労働組合がこのシステムに挑戦する営みは乏しかったということができる。その見直しが始まるには、フェミニズムが社会的な説得性を高めるとともに、女性の職場進出が本格化し、ひいては年功制の安定性が揺らいで、働く女性が「家計補助」者から「家計の主要なまたは不可欠の支持者」になってゆく1990年代を待たねばならなかった。80年代前半の私もなおジェンダー・ブラインドであった。女性労働者も非正規労働者も40%に及ぶ今、彼女らを包括することがなければ、<労働者像>論の説得性の範囲はきわめて限られたものになるように思う。

 <日本の労働者像>を求めてきた私の思索は、不十分ながらここでひと一区切りとする。
 思えば日本の労働者が身に宿した思想と心情は、日本という国の近代史が彼ら、彼女らに課した過酷な体験の反映そのものであり、それだけに外在的な批評を拒むほど内在的で必然的であった。戦後民主主義の世になって、それは<国民としての平等>、<従業員としての平等>、すなわち平等へのつよい願いとして展開する。
 日本の労働者は長らく、他の先進国とくらべても、実直な仕事に前向きの働き手だった。しかし、この真摯な人びとの思想や心情は、欧米の労働者、とくに組織労働者と著しく対照的である。国家社会の枠組みに軌道を強制されたとはいえ、彼ら、彼女らは主体的な選択としても、労働者間競争の受容、階層上昇への不断の願い、「労働者階級」からの脱出志向、「庶民的開き直り」の忌避、そしてそれらと不可分の「現在の立場のままで生活向上と発言権を獲得する」思想、産業民主主義への信頼の稀薄さにおいて際立った人間像を刻んでいる。
 私の描くこのような労働者像が、戦後史の各段階を通し世代を超えて継承されたということはもちろんできないだろう。経済環境、雇用形態、ジェンダー意識の変化を考慮したより精密な労働者意識の戦後史が必要である。しかし、とりあえずこうは言えるのではないか。
 新自由主義が席巻した1990年代以降、世代的には「団塊ジュニア」以降、伝統の労働者像そのものに大きな分断が生まれたと思われる。2000年代はじめの氷河期の就職戦線に成功して大企業、中堅企業の正社員になった相対的に少数の人びとは、総じて上述の日本に特徴的な思想・心情の多くを保持した。だが、男女を問わず、就職においてが失敗して、労働条件の劣悪な企業や非正規雇用で働くようになった多くの人びとはもう、階層上昇の熱意や階級脱出志向はもたず、どちらかといえば消極的な仕事観で、不安定な下積みの労働を日々引き受けている。といっても「勝ち組」が信奉する競争関係は厳存し、時代の「自己責任論」の常識化によって「この不成功は自分の責任」とみなされるゆえ、「庶民的開き直り」もできないのである。
 けれども、確実なことは、皮肉にも組織労働者であることの多い安定雇用「成功者」にも、未組織の下積み労働者にも、産業民主主義の思想、労働組合運動によって生活と権利を守る思想の稀薄さが、世代を超え、男女を問わず、継承されていることにほかならない。それは日本の労働者の精神史を貫く負のレジェンドということができる。
 格差社会化が深化する新自由主義の支配する、2020年代半ば、抵抗の発言権の弱々しい労働者の世界をみるとき、伝統の日本の労働者像の思想と心情の内在的な由来を理解できるだけに、私はこの労働者像の造型が喪ったものをやみがたく哀惜し、喪ったものの復権をひたすら願うのみである。

その12 日本の労働者像を求めて(3)  日本唯一の労働社会・企業社会への道

 職業社会も地域一般労働社会もなく孤独な稼ぎ人であった日本の労働者を、相対的に安定的な居場所と可視的ななかまを見いだすことができる労働社会に帰属させたものは、直接的には、大正末期から昭和にかけて大企業がうちだした年功序列制・年功的労務管理ということができる。
 その年功制の構成要素は主要には選抜採用された正規従業員の長期雇用の「約束」、勤続や年齢を評価する昇給制、副次的には退職金や企業内福利である。それに、1931年の満州事変の頃から上の諸要素に臨時工制度が加わり、賃金総額と雇用人数の弾力性の要請が満たされるようになって年功制は完成する。もっとも、出稼ぎ後にはふつう帰郷して短勤続のうえ賃金もわずかの時間給の「女工」は、もともと企業社会の外なる存在であり、彼女らが、臨時工とともに、年功的労務管理の対象とされることはなかった。以下、労働者とはもっぱら男性のことと想定して議論を進めよう。 
 年功制の構造的な背景は、外来の近代技術を用いる新旧財閥系の大企業と、都市や農村のマニュファクチュアや手工業に発する多数の中小企業との「二重構造」であり、その間の大きな処遇格差だった。一方、農村からは企業のプル・農家の口減らしのプッシュに応じて地位の不安的な出稼ぎ型、半農型のプロレタリアがにじみ出ていたけれど、農村はいつも潜在的過剰人口が重く滞留する労働力の給源だった。そんななか、選ばれて大企業の養成工となり年功制度に入ってゆくことは、高小卒の若者にとって得がたい成功の道であった。 
 こうしたなか労働者の年功制の受容はまことに自然である。まず、それまであらゆる意味で定着性のなかった労働者は、企業社会ではじめて、集団労働のなかで自分の仕事ぶりが他人の仕事の苦楽と密接に関わっているなかまを見いだすことができた。また、そこでは、明治以来推奨されてきた立身出世主義の、自分にも現実的な成果を、まじめに長勤続して企業の職務階梯・ステイタスを一歩づつ歩むことのうちに見通すことができた。それに、誰にもひとしい加齢にそれなりに報いるという年功制のある種の平等性も、「四民平等」の理念に適合的なように思われた。それになによりも、年功賃金は広汎な低賃金の海のなかに浮かぶ島のような相対的高賃金であり、労働者が貧困の生活を脱出する具体的な方途だったのである。
 けれども、大企業が年功的労務管理のなかに忠実な従業員を取り込もうとしたのは、労働者のもうひとつの結集体である労働組合、とりわけ企業横断の労働組合の団体交渉を断固として排除するためであり、その成功はその排除の結果であることは決して忘れられてはならない。
 たとえば1921年の6月~8月、総同盟神戸連合会傘下の神戸三菱・川崎造船所の労働者は、いくつかの機械企業をも巻きこんで、賃上げや時短とともに「横断組合の承認」を求め、ストライキ、怠業、工場管理をふくむ、約3万人の参加する45日間の闘いを敢行した。この大争議はしかし、産業民主主義をどこまでも拒否する企業と国家に抗い続けることができず、1300人が解雇され、100人もが収監されて「完敗」するにいたる。労働者は結局、企業外に労働社会、なかまの絆をもつことがゆるされなかったのだ。この象徴的な事例、横断組合の承認をめぐる資本の勝利・労働者の敗北が、それ以降の大企業の年功的労務管理の普及に影響し、そこに帰属してゆく労働者の心情にはるかに木魂している。

 日本唯一の労働社会、すなわち年功制度の大企業への服属として形成された企業社会は、イギリスやアメリカの労働社会とはさまざまな点で性格を異にしていた。
 二点ほどにまとめる。ひとつは、工場の塀による、つまり特定企業の正社員身分の有無による構成員の限定である。他企業の労働者、臨時工や社外請負工は、ときに地域の大規模な労働争議のとき連帯行動に加わることが皆無ではなかったとはいえ、日常的には、同じ仕事であっても「可視的ななかま」ではなかった。現在でも基本的に不変の、それは従業員の企業内意識である。
 いまひとつ、労働者の貧民の海からの「離陸」先は、多段階の地位序列をそなえ、本来的に刻苦精励の競争を強いられる企業にほかならならない。そこでは、競争制限や助け合いといった労働者文化の自立性がやはり脆弱だった。言い換えれば、経営者文化と労働者文化が未分化のまま、下層労働者、ベテラン従業員、下級管理者、経営者が一続きになっている。企業内は生得的な意味では無階級社会という想定なのだ。その「未分化」の自然な結果は、低学歴で昇進にも限度がある下積み従業員であっても、競争志向の能力主義になじみをもつようになったことである。こうして、よかれ悪しかれ、「庶民的開き直り」のあまりない労働者像が形成されてくる。「庶民的開き直り」とは、この職場のこの下積みの職務のままで生活を改善し発言権を拡大する、ここで闘うという思想である。こうした考え方の欠如が、「人材登用」・ 出世主義の鼓吹・ 産業民主主義の否認を一体のものとする国家規模の統治政策と適合的であることは、あらためていうまでもあるまい。
 企業に外在的な存在で自立的な労働者文化を培いうる職業社会や地域一般労働社会とは異なる、日本の労働社会・企業社会の負の伝統は、日本の労働者を、一介の労働者であるという立場を人生の一経過点とみなし、絶えざる上昇アスピレーションに身を投じる人びとに造型したということができる。
 もちろん、企業社会の外に放置された、およそ労働社会をもたない人びとがこの「造営」をまぬかれたわけではない。それは日本プロレタリアの共通の性格となった。ふつうの労働者のこの上昇アスピレーション志向は、そして、かたちをかえて、労働者一般にとっても「中流階級的」な生活向上がさほど虚妄でなかった戦後もおよそ90年代頃までは、労働者の心に執拗に生き延びたように思われる。顧みて思えば、労働者思想の自立性とは労働社会の自立性そのものであった。

 さて、労働者像の探求という叙述の流れを外れるけれど、ここで、天皇制のタテマエの理念(顕教)とホンネの実態(密教)との間の矛盾が、権力内部での対立を惹起し、それが体制の瓦解を招いた軌跡を、今では常識に属することだが、ごくかんたんにふりかえっておきたい。次回に述べる戦後民主主義のもとでの労働者思想の転轍を理解するためでもある。 
 国家の諸組織の上位ポストにある権力者たちは、むろん天皇制の「密教」の信者であったが、神である天皇の下では「臣民」は平等という、いわば神話的で幻想的な「顕教」のタテマエを公然と批判することは決してできなかった。それが「下々の者」に教え込んできた道徳の大元だったからだ。だが、この矛盾にに気づきながら沈黙を貫くことは、力ある勢力が、対外危機の局面で、まともにタテマエをホンネと信じこみ、双面神のはらむ欺瞞性を撃つ「密教の顕教征伐」に乗り出したとき、それに有効に対峙できなかった。力ある勢力とは、天皇統治の「補弼」ではなく、天皇専権の統帥権(軍隊を動かす権力)に直属する軍部にほかならない。そこでは天皇親政・国体明徴を奉じる「尉官以下」の軍人が、欺瞞性を突く「皇道派」を形成して暴走することになる。
 天皇制の階序秩序を守ろうとする「佐官以上」の軍人が属する密教信者の「統制派」は、二二六事件の弾圧に見るように「暴走」を一定チェックし、権力を維持しはした。しかし天皇制の理念を公然と掲げる皇道派の論理――といえるかどうか?――は、右翼の思想家や団体ばかりか、富裕層本位の堕落した政治を憤る庶民の応援を得ており、暴走のおそるべき惰力を止めることはできなかった。とどのつまり、統制派は皇道派の論理を表に立てた軍部独裁を通じて、政党政治・立憲議会制を崩壊させる天皇制ファッシズムを樹立する。こうして日本帝国は、判断力を奪われた国民の熱狂と献身に支えられ、「八紘一宇」のアジア侵略を経て無謀な太平洋戦争に突入する。日本人だけでも310万人、アジアでは何千万人もの生命が失なわれた。そして、「国体」維持にこだわって遅きに失した敗戦の結果、天皇制ファッシズムの体制は瓦解し、戦勝国アメリカの占領軍から日本人は民主主義を「与えられる」ことになる・・・。
 閑話休題。では、日本の労働者像の探求に立ち戻ろう。

その11 日本の労働者像を求めて(2) ヤヌスの天皇制と労働者の誘導

 近代日本国家の天皇制は、ヤヌス(双面神)であり、タテマエの理念とホンネの実態という不可分のふたつの相貌をもつ。思想史のタームでは、それは「顕教」vs.「密教」とも表現されている。
 タテマエの理念は、天皇を神とする一方、その下の「臣民」は身分的には「四民平等」であるとする。今ふりかえれば、華族、士族、平民の区別もあり、関東大震災の際の大量虐殺に典型的に見るように、戦前から日本に連行され酷使されていた朝鮮人などは視野の外である。その「平等」の欺瞞性、少なくとも限定性は明かであろう。実のところは実際は神話または幻想ということができる。それでも、「士農工商」というがんじがらめの身分制に生きてきた多くの平民にとって、新しい天皇制のタテマエは、希望の福音にほかならなかった。
 しかし一方、ホンネの実態では、権限や処遇が大きく異なり、上下の命令・服従関係を疑うことが許されない不平等な階序組織の厳存が正当化されている。密教の政治機構では、天皇は実は「機関」にすぎないが、官庁や軍隊では、この階序組織が、顕教の「神」=天皇の意向にしたがって、天皇の統治を「補弼」する、つまり実際の政治運営に権力をふるうのである。官庁や軍隊において、ひいては官営・民営企業でも制度化されてゆくこの階序的で不平等な上下関係は、そもそも権力が絶対に必要としたシステムであった。ここに注目すべきは、こうした天皇制の双面性から、次のような統治政策が自然に打ち出されることである。
 その1。学校教育の内容はきわめて階層的になる。貧しい庶民がふつうそこで学歴を終える初等教育では、顕教のタテマエだけが徹底的に教え込まれた。大多数の下々の「臣民」は「現人神」の下で平等であると学ぶのだ。密教のホンネ、階序組織の不可欠性を学ぶのは、戦前にはまだほんの少数であった中等教育以上に進学する広義のエリートだけである。それゆえ、のちに盲目的にタテマエを信じて暴走した軍部「皇道派」が排撃した天皇機関説などは、ホンネを学んだエリートには、決して公言することは許されなかったとはいえ、実は自明のことであった。
 その2。四民平等の理念と不可欠な階層序列の実態という、本来的に矛盾する要素をなんとか調和的に共存させるためには、なんらかの階層流動性・「人材登用」のシステムが用意されなければならなかった。「天性同体ノ人民賢愚其処ヲ得ベシ」(伊藤博文)。すなわち人を門地や家柄でははなく、能力・業績・努力を評価して人を階序のラダーに位置づける構想である。それは「士農工商」のしがらみを体験してきた庶民を勇気づけ、積極的な前向きの行動エネルギーを引き起こすものだった。ここから、「身を立て名を挙げやよ励めや」の競争的上層志向が鼓舞され、見田宗介が「日本近代の内面的推進力」とみなす「立身出世主義」(『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年)が、全階層的な規模で噴出するのである。私の表現では、こうして、日本の階級形成は「生得的(生まれつき)ではなく結果的(能力と努力の結果)」という性格を帯びることになる。
 とはいえ、明治憲法が近代国家の諸制度を確定してゆくにつれ、現実に立身出世主義の努力の末に相当の権力をもつ階梯上の地位を得ることのできる人はもとより限られてくる。秀才は階層上昇を遂げる原則はあれ――女性の場合は「美人は報われる」というべきか――圧倒的な貧困層の存在ゆえに、中等教育以上への進学者は絶対的に制約されていたからだ。だが、階層流動性の存在への一定の信頼がなければ、国民の永続的な活力を期待することはできない。そこで推奨された国民道徳が「(二宮)金次郎主義」(見田宗介)である。すなわち、どんな下積みの仕事でも実直に刻苦精励すれば、それなりの相対的に優位な地位の生活水準を獲得できるというのである。 
 それは酷薄なまじめさ・実直さの搾取だ。だが、この場合でも庶民は、いつまでも「カエルの子はカエル」ではないという「四民平等」の天皇制の理念・タテマエに殉じたのだ。もし日本の天皇制が平等のタテマエを掲げない、ひとえにブルボン朝やロマノフ朝のような差別と抑圧の絶対主義であったなら、すべての国民がこの「立憲天皇制」に心情的に帰依することはなかっただろう。
 しかしながら、庶民が天皇制のタテマエに帰依し立身出世に賭ける生きざまを選ぶことの代償は大きかった。それは、階層上層の努力の過程では、階序そのものの不平等性を問わぬこと、上位の権力者を批判しないこと、ひいては階層上昇の不成功はみずからの能力と努力の不足のゆえだと覚らされることだった。こうして会社つとめの多くの労働者も、低賃金の仕事に不平を言わず実直に取り組んで企業内の階梯を経上がり、やがては下級管理者や小工場主になることをめざしていた。「職工は人生の経過的なありようとしたい」。この心情は、戦後もなお1950年代頃までは、一般庶民や未組織労働者の心に連綿として生き続けたのである。

 天皇制のはらむ平等の理念(タテマエ)と不平等の実態(ホンネ)の間をなんとか調和的に共存的に調和させる「人材登用」と出世主義の鼓吹。この日本近代の政策の不可欠の一環は、下積みの人びとがその立場のままで貧困の状況改善や権利の拡大を求める思想の徹底した否認にほかならなかった。労働者については、団体交渉やストライキの禁止、すなわち、西欧では19世紀末までには徐々に承認されていた産業民主主義の断固たる否定である。戦前・戦中の日本国家は、失業保険制とともに、どのような争議や要求があっても、ついに労働三権を保障する労働組合法の制定を拒み続けたのである。
 唯一の労働法制は、明治30年代に芽生えた労働組合を根こそぎにした1900年の治安警察法である。それは組合結成およびストライキの「煽動」を禁止し、一切の組合活動に対する官憲の介入を制約なく合法化していた。つまり他の労働者なかまに働きかけてはならないのだ。それゆえ、勇気をもって敢行された非合法の労働争議は、たいてい次のような軌跡を辿った――①過酷な低賃金や長時間労働などの改善、解雇撤回、あるいは団体交渉権を求める労働者の懇願⇒②会社の団交拒否⇒③やむなき非合法のストライキや怠業⇒④右翼団体との乱闘⇒④警察署長や市長による収束の斡旋(生産確保を考慮した一定の譲歩もある)⇒一段落後における争議のリーダーたちの解雇または大量解雇・・・。すべての結末は犠牲を伴う労働者の敗北であった。大成功した実業家、渋沢栄一の言うことには、努力せず怠けて貧苦に陥ったのにひたすら富の平等を叫ぶ「社会党のごときは宜しくない」のだ。   
 この治安警察法に1925年治安維持法が重なる。にもかかわらず、ここではくわしく辿らないが、このような厳冬の時代にあっても、日常の過酷な労働体験から、天皇制の理念と実態の懸隔を凝視し「出世」の虚妄性を痛感してあえて闘いに挑む労働争議が絶えることはなかった。その消長はあるにせよ、昭和初期の大不況期には、労働争議件数は、1928年には379件、争議参加人数はおよそ4.6万人、30年にはそれぞれ906件、8.1万人、31年には998件、6.5万人を記録している。今日とくに忘れないでいたい、「戦後1974年には(労働争議は)5197件もありましたが、2021年の半日以上のストライキはわずか33件です」と『語りつぐ東京下町労働運動史』(2024年)の著者、小畑精武は呟いている。
 戦前の大争議における男女「職工」たちの勇気と侠気、創意ある戦略の工夫などに触れるとき、私はいつも感銘を禁じえない。しかし文脈上「労働者の人間像」に立ち戻るなら、コミュニストを別にすれば、争議の労働者が天皇制にも天皇個人にも弾劾の鉾先を向けることはなかったように思われる。足尾鉱山暴動(1907年)の際、鉱夫たちは明治天皇のご真影を安全な処へ移した上で全山焼きうちをはじめたという。天皇制の「四民平等」の理念は抵抗者の心にも内面化されていた。かつての百姓一揆がしばしば時の道徳である儒教の「仁政」を掲げて苛斂誅求の領主に刃向かったのと同様に、争議の労働者たちは、天皇制の平等のタテマエを信じてこそ、こんな酷い労働条件を「天子さまがお許しなさるはずがない」と感じて労働現場での闘いに赴いたかにみえる。八幡製鉄大争議(1920年)を舞台とする佐木隆三の『大罷業』(1961年)は、この発想を汲み上げてまことに興味ぶかい小説である。もちろん、こうした天皇制のタテマエへの期待は無残に裏切られ、労働者は天皇の官憲によって徹底的に弾圧されるのである。
 天皇制の平等というタテマエへの悲劇的な幻想は、とはいえ、後に述べるように、戦後民主主義が到来したとき、推転してしかるべき役割を果たし、戦後日本の労働者思想の一契機となってゆく。しかしその「推転」に入る前に、企業社会こそが日本型の唯一の労働社会になった理由と、その評価にふれておきたい。

その10 日本の労働者像を求めて(1)  日本プロレタリアの形成ル-トと研究の課題

 イギリス滞在後の1980年代から、私は、英米の労働史とそこから帰納できる限りの労働組合運動論の研究をいったん休止して、75年以降いつも関心を寄せていた<私たちの国の労働者はどのような人びとなのか>というテーマ、つまり<日本の労働者像>の模索に集中して、懸命の勉強を重ねた。
 日本の労働者階級の形成プロセスが、イギリスやアメリカと異なる特質を帯びていたことについては早くから定説があった。近代日本の「殖産興業」によって次々に造られた大小の工場は、むろん多くの工業労働力を需要したが、それに日本の労働者は、農業革命や囲い込みに追われた都市移住によって一挙に、あるいは都市ギルドの解体によってドラスティックに、プロレタリア化した人びとではなかった。むろんアメリカのようなヨーロッパ諸国からの貧困移民でもない。日本では、職人層の熟練工への転身はあれ、「出稼ぎ型」の繊維女工にしても、各種製造業の「半農半工」型の一般労働者にしても、総じて農村を完全には離れることのない稼ぎ人であった。耕地の狭隘な小作農家はいつも潜在的過剰人口のプールだった。そこで会社のプルと貧しい農家の「口べらし」プッシュの合力が、まず娘、二・三男を工場に引き出し、次いで長男や父親を近隣の工場に通勤させたのである。 象徴的にも農家数は長らく変わらなかった。それが本当に減少に転じるのも、もっとふえんすれば、雇用者(労働者)が自営業者や家族従業者を凌駕して有業者の最大比率を占めるのも、戦後の経済成長が始まった50年代後半のことである。要するに日本では、長らく定着プロレタリアの層が薄かったともいえよう。
 もっとも、大工場は早くから先進的な技術を取り入れ、その技能の担い手の企業内養成を図っている。そこに選抜された高等小学校卒の養成工は、後に年功制の労務管理が整備されてゆくにつれて、昇給制や企業内福利をもつ「子飼いの」従業員になってゆくけれども、戦前はそれほど安定的な待遇だったわけではない。昇給も不確かで、なによりも企業はなんらかの不都合があれば容赦なく解雇の自由を行使した。しかし、少なくとも彼らは、離村して会社に定着する条件に恵まれた例外的な存在であった。
 この「例外」が、日本では唯一の労働者の一定の凝集性、<労働社会>(その9参照)をつくることになる。すなわち企業社会である。その負の遺産については後に述べるが、ともあれ日本プロレタリアの大多数は、それぞれに農村に家族的な絆はあるとはいえ、英米にみるような職業社会も、スラムを基盤とする地域一般労働社会ももたなかった。それらを育てる条件はなかった。彼ら、彼女らは、都市では、「生活の必要性と可能性の等しさが可視的な」いかなる労働社会にも帰属しない孤独な稼ぎ人として漂っていた。
  
 しかしながら、日本の労働者像はもとより、上にかんたんに述べた日本プロレタリアの形成過程論をもって十分に把握できるものではあるまい。いくつかの難問が私の前に立ちはだかっていた。例えば次のような考察が必要だと感じられた。
(1)日本の労働者に国際比較的にみて特徴的な性格を刻印した近代史の要因はなにか。こうして召喚された労働者を包摂する、近代日本の国家社会の枠組みはどのようなものか。(2)その枠組みのなかで、日本の労働者はどのような心情や思想を紡いだのか。
(3)こうした心情や思想は、やがて到来した現代史、戦後民主主義のもとでどのように展開したのか
 いずれも容易ではない設問であるけれど、そのいちおうの理解を経て、私はその後、(4)唯一の労働社会となった企業社会において、労働者が職場内外の生活で体験した数々の試練、(5)以上の歴史的体験ゆえに浸透・確立する、日本に特徴的な能力主義管理の特別のインパクト――などを分析することになる。さしあたりは、(1)~(3)をひと続きのテーマとして、おおまかに研究結果を回顧してみよう。ここからしばらくは、前回までのキーワードを窓口にした順不同のエッセイとは筆致が異なる論文風になる。
 私にとってなによりも課題は、周辺領域の学びをふくむ日本の労働史に関する知見の乏しさであった。懸命の文献の読みが始まる。私はむろん大河内一男や隅谷三喜男の概論、兵藤釗や二村一夫の敬服すべき精密な業績に多くを学んだ。しかし、それまでに労働者の仕事・職場・闘争などについて細密かつ濃密に事実を綴る英米の労働社会学に傾倒してしており、労働者の細部にわたる体験や「物語」にこだわる私にとって、社会政策学会系統の学術書ではやはり飽きたらなかった。現在でも同じ気持ながら、たとえばイギリスの労働者文化論の古典、リチャード・ホガース『読み書き能力の効用』(1974年)のような書物がほしかった。労働者の人間像を理解したかったのである。
 ともあれ、その当時の私の勉強は、「労働者像」のイメージをなんとか得るため、学問分野にとらわれず、言ってしまえば手当たり次第に、日本近代史、精神史、労働と職場の調査やルポ、労働運動史、片山潜、鈴木文治、西尾末広などリーダーたちの自伝、そしておよそ働く人びとの体験を活写する文学などを精読または乱読することだった。いずれからもなんらかの示唆に恵まれた。しかし、それぞれの読みの成果をここでくわしく述べることはひかえ、とくに多大の情報と重要な視点を与えてくれたように思われる文献のタイトルだけを思いつくままにふりかえってみよう。例えば次のような著作である。
 横山源之助『日本の下層社会』および『内地雑居後之日本』(1897-98年)。農商務省商工局『職工事情』(1903)。細井和喜蔵『女工哀史』(1925年)。大河内一男/松尾洋『日本労働組合物語』(全五冊)(1965年)。神島二郎『近代日本の精神構造』(1961年)、安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(1975年)。久野収/鶴見俊輔『現代日本の思想』(1956年)。そして労働者の発想を掬う文学としてひとつあげれば佐木隆三『大罷業』(1961年)。
 私はまだ40代のはじめで心身に不安なく、家庭的にもまことに恵まれていた。研究グループはなくひとりだけの研究の営みであったが、それだけにまったく自由に、学問領域の垣根にとらわれずにイメージを膨らませることができたと思う。そんな自由な勉強のいちおうの成果は筑摩書房刊『日本の労働者像』(1981年)にまとめられている。この本と、1986年の『職場史の修羅を生きて 再論・日本の労働者像』のなかから好評であった何篇かを選んで編集した1993年刊行の『新編・日本の労働者像』(筑摩学芸文庫)が、私の研究史中期の代表作ということができる。アメリカで翻訳され、社会政策学会学術賞を受けた作品である。

 以上は<日本の労働者像を求めて>を書き継いでゆく前書きのようなものである。では、回をあらためて。まず設問の(1)日本の労働者に国際比較的にみて特徴的な性格を刻印した近代史上の要因、彼ら、彼女らを包摂した近代日本の国家社会のフレームワークはどのようなものだったのか――について、私の解答を概説しよう。
 それはなによりも、下級武士たちのイニシアティヴによる明治維新後、伊藤博文らが巧みに構築した「神なき国」において国民諸階層を統合する装置、天皇制であった。ふつう労働史、労働研究では重視されないけれども、私には、天皇制こそは、戦前来の労働者の生きざまの選択をつよく規制した無視しえぬ枠組みであったように思われる。では、私はなぜ、労働者像を探る文脈で天皇制にこだわるのか? 

その9 <社会>としての労働組合(2024年6月3日)

 この「連載」は、労働研究における私なりのキーワードの意味するところを、発想の時期にとらわれず思いつくままに綴ってきたが、研究史の中期以降に精力を注いだ日本の労使関係の把握に入ってゆきたい。今回はしかし、生涯にわたって執着した、私に特徴的な――少なくとも日本では――労働組合という組織への視点を示しておきたいと思う。その着想は1976年の『労働者管理の草の根』の所収論文に遡り、後期2013年の『労働組合運動とはなにか』(岩波書店)にいたるまで継承されている。それは、<社会>としての労働組合、という把握である。
 若き日の着想の論文では、ヒントを得たF・タンネンバウム、S・パールマン、A・フランダース、H・A・クレッグなど古典的な文献の引用に満ちている。しかしここでは、2013年の著書の、「原論」の章にみる「社会(学)的にみた労働組合」のくだりからかんたんに説明しよう。
 生産手段を奪われて労働力を商品として売るほかはない労働者階級は、まずアトムとして労働市場に投げ出され、資本家に拾われ棄てられて翻弄される。けれども、労働者はいつまでもばらばらで星雲状態のなかを漂い続けるのでなく、やがては、無意識的にせよ、星雲のなかに「可視的ななかま」、すなわち生活上の具体的な必要性と可能性を共有する他人がいるような、ある境界をもつ領域をきっと見つけるだろう。領域の境界は基本的には仕事の種類や職場や技能、副次的には人種や宗教、性や年齢など多様であり得るが、この領域を私は、まず自然発生的な<労働社会>とよぶ。
 「可視的ななかま」のうちには、助け合いや庇い合いの慣行が自然に生まれている。例えば、なかまの間では決して競争しない、仕事を分け合う、困窮したなかまを扶助する仕組みをつくる、働きと稼ぎにおいてぬけがけしない・・・などである。だが、すぐに疑問が生まれるだろう、こうしたなかまの「黙契」は果たして持続可能なのか?
 自由競争という資本主義体制の「公認の道徳」が浸透している。雇用主は低賃金で働く人を求め、どこまでもなかま同士を競争させようとするだろう。労働者のほうも、緊急の個人生活の必要性に直面してしばしば、それで雇ってくれるならと、進んで、またはやむなく「黙契」を裏切るという現実がある。労働者はそこで、ゆっくりとではあれ、放置すれば風解する「可視的ななかま」の領域や、そのなかでの反競争的な暗黙のルールの意識的な構築を迫られることになる。ユニオニズムが芽生えるのはここからだ。それゆえ、自然発生的な<労働社会>を意識的に組織化したものが労働組合であり、その内部で息づいていた助け合い・庇い合いの黙契を意識したものが労働組合の要求・政策ということができる。私は若き日に、W・M・Leisersonの次のような記述にふれて心底から納得した、その感銘を忘れられない。
 労働組合機能は、公式の組織が賃金労働者の間に現れる遙か以前から存在した、職場労働者の習慣や気質に根を降ろしている・・・われわれの知るような組合規範と団体協約は、事実上労働者の書かれざる習慣と掟の法制化であって、それは習慣法が成文法に対してもつ関係と同じである」(American Trade Union Democracy、1959、P.17)。
  
 一般に<労働社会>の形成の基準は、ひとつは、職業的生涯、異動してもそこには留まるという意味での「定着」の範囲の共通性、今ひとつは、労働者生活における具体的な必要性と可能性の共有である。この<労働社会>の多様性が、労働史上に現出した労働組合のさまざまの組織形態の由来を説明するだろう。このように概念化することができよう。

 A・企業に定着する人
  ――a経営者・管理者へのキャリア展開――企業社会⇒企業別組合
  ――b特定の職種・職場に定着――職場社会⇒産業別組合(職場支部)
 B・職業(専門職・熟練職)に定着する人――職業社会⇒クラフトユニオン
 C・産業・職場・(非熟練)職種への就業が偶然的で流動的な人
  ――特定の地域への定着を経て地域労働社会⇒ジェネラルユニオン(一般組合)
註:もっとも、ABCの分類が同じでも、人種・宗教・性などによって「文化」(もの
  の考え方)があまりにも異なる場合には、組合組織が別になることが十分ありうる  だろう。現代日本では、女性だけのユニオンや非正規労働者の組合の結成はむし   ろ自然である

  日本についても<労働社会⇒労働組合>と把握することは、あるいはいぶかしく思われるかもしれない。しかし企業別組合に帰結させたものは、他の要因も作用すたとしても、ひっきょう日本なりの<労働社会>、企業社会であった。国際比較的にみれば、もちろんその特異性は明かである。企業社会は、黙契にすでに資本の論理が浸透しており、他国の<労働社会>のような反競争性が明瞭ではない。もっと枢要の異常性は、Abの人びとの職場社会がAaの従業員にこそふさわしい企業社会から自立せず、そこに曖昧に吸収されていることだ。こうした企業社会の性格については後にまたふれるけれど、企業別組合といえども、少なくとも1970年半ばくらいまでは、確かに世界共通のユニオニズム的な営みを発揮しなかったわけでなかった。そこを顧みれば、日本の労働組合運動を「世界の常識」を外れた、比較できない異質の運動とみることは、むしろこれからの日本の組合組織の変革の展望を絶望視させることに通じるように思われる
 この項の終わりに、最近、1984年~85年イギリスの炭鉱大ストライキの軌跡を細部にこだわって辿る作業を通じて、<社会としての労働組合>という長年の持論については、ある点で反省を迫られたことを付記したい。新自由主義の嚆矢ともいうべき炭鉱の閉鎖・大合理化に対して、10万人以上の炭坑夫たちは1年にわたって力尽きるまでピケをふくむストライキをもって抗った。その基礎はなによりも男たちの職場社会の結束であった。だが、抵抗力の驚くべき持続は、彼らの家族、女たちのつくる炭鉱ムラ・コミュニティの協力と援助、相互扶助の活動によってこそ支えられていたのだ。職場社会は居住地のコミュニティに抱擁されるとき、いっそう強靱に立つことができる。そういえば日本でも、かつて強靱だった炭鉱組合運動の背後には「炭住」の絆があったことにいまさら気づく。私の労働社会論は、この居住コミュニティの存否ということに関心が薄かったと反省させられたものである。くわしくは、冷静な叙述をもってしかるべき敗北の過程が「哀切を込めて語られている」とも評される、2023年の拙著『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動のレジェンド』(旬報社)の一読を乞う次第である。

大企業のサラリーマンや「OL」も、エンジニアや旋盤工も、教師や医師も、トラックドライバーも看護師も、スーパーのレジ担当パートもファストフードのアルバイト店員も、労働力商品の販売者としてはすべてプロレタリア、労働者階級である。けれども、彼ら・彼女らのそれぞれの<労働社会>は同じではない。日常生活上の必要性と可能性や「可視的ななかま」の範囲が異なるからだ。<労働社会>こそが多様な形態をとる持続的な労働組合の培養器となる。「階級としての労働者」が労働組合をつくるという命題はきわめて一般的な意味では正しいとはいえ、その一般論のみを強調する一部の「左派」研究者や労働運動実践者はしばしば、広くプロレタリアにふくまれとはいえ<労働社会>を異にする労働者さまざまの具体的な生きざまの凝視を怠り、ひいては、労働組合の組織形態にも無関心になりがちである。みんな連帯できる同じ労働者ではないか、そのなかの生活の格差や個々のニーズにこだわるなというわけだ。
 そのよびかけは総じて空しい。もとより、たとえば全国民的な政治課題をめぐる街頭行動とか、ゼネストに近い統一ストライキとか、労働者が<労働社会>の境界を超えて一斉に行動するときは確かにある。それは心の躍る非日常的な祭りだ。だが、祭りが終わるとき労働者の帰る居場所は、やはり職業社会や職場社会や地域一般労働社会であり、それぞれにふさわしい形態の労働組合なのである。
 私が労働組合の役割を経済的機能や政治的機能に限局せず、<社会としての労働組合>に執着するのは、労働組合とは、労働者が誰しも、個人のもつ競争資源の乏しい「孤独な稼ぎ人」たることをまぬかれる、なかまとの絆、相互扶助、、生活擁護を闘う協同の場をもたねばならないという思いに根ざしている。そこは居場所だ。一介の労働者は孤立してはやってゆけない。そこに帰属し、絶えずふりかかる受難に連帯して対応できるような居場所が不可欠なのだ。
 私の議論がさしあたり「ねばならない」という「べき論」であり、ユートピア論にすぎないと受けとられることを、私はよく承知している。たしかにいま現時点の現前にあるものは、従来、労働市場での不成功者の苦境をいくらかは緩衝してきた大家族や地域共同体が著しく衰退したのに、帰属すべき<労働社会>のないまま、過重労働や過少雇用、ひいては孤立貧に呻吟するニッポン・プロレタリアーとの群れである。
 企業のノンリート従業員もかつての職場社会の紐帯を失っている。まして、非正規労働者や低賃金の単身者、稼ぎのよい配偶者を欠く女たちは、まったく助け合いや生活改善に協同できるなかまをもたず、非情の雇用主に拾われ棄てられをくりかえし、文字通りの生活苦はどこまでも続いてゆく。最近の手近な文献では、例えば田中洋子編著『エッセンシャルワーカー』(旬報社)、東海林智『ルポ 低賃金』(地平社)などでその一端を知ることができよう。
 そうした孤立と貧困の深刻化に対して、保守政権の行政の吝嗇な生活支援策に心細く依存するだけでいいのだろうか。やはり当事者たちBY THE PEOPLEの営みが不可欠なのだ。 過重労働や貧困に苦しむ人びと自身が、自己責任論の軛を絶って、帰属する<労働社会>を探り当て、その居場所それぞれにふさわしいかたちの労働組合の意識的な構築につなげること。日本でも、クラフトユニオン、コミュニティユニオン、地域一般組合、企業横断の産業別組合など、もっと多様な労働組合が組織されるべきだ。これまでずっと新自由主義の「悪魔の挽き臼」に粉々にされてきた若い世代、いわゆるZ世代の一部は、そう気づいて、ささやかながらその萌芽を育てはじめているのではないか。私のできることはもうほとんどないけれど、<社会としての労働組合>の必要性論を可能性論に高める方途は、なお模索してゆきたいと思う。

 労働組合の性格把握(2)――労働のありかたをめぐる「蚕食」と「取引」                     (2024年1月24日)

 労働組合の機能は、労働市場での賃金決定の規制に留まらず、人間としての尊厳を踏みにじられない働き方を守るための経営管理への介入に及ぶ。
 この社会では労働力は商品ではあれ、一般的な商品とは異なって、人間としての労働者は、みずからの「商品」の使われ方、すなわち日々の働き、具体的には、職場での作業のスピードや要員に左右される仕事量、残業時間や休暇の程度、それに個々の職務への配置ルールなどについて切実なニーズをもつ。しかし使用者側は、働かせ方をとかく生産管理や労務管理の領域に属する経営の専権とみなすのがふつうだ。ここに「経営権」の範囲をめぐって使用者と労働組合がせめぎあう労使関係の歴史が展開するのである。
 私はもともと労働研究を始めた頃から労働そのもののありかたに深い関心を寄せていた。若い私がいくつかの職場見学を通じて衝撃を受けたのはなによりも、作業上の主体的な裁量権を剥奪され労働の意味を感じることのできない「単純労働」のあまりに広汎な普及であった。そこから仕事を遂行する上での労働者の裁量権の程度に深く関わる熟練というものの内容に考察を進める。そこからまた、初期マルクスの理論、いわゆる労働疎外論への傾倒が始まった。その当時、四つの産業における労働者の仕事遂行の裁量権の規定要因を実証し分析する、原著1964年のR・ブラウナー<佐藤慶幸監訳>『労働における疎外と自由』(新泉社)は、私にとって古典であった。そう、疎外と自由は労働の極と対極なのだ。
 こうした問題意識が胸にともってから、私は、1970年の二著、『産業史における労働組合機能――イギリス機械工業の場合』(ミネルヴァ書房)、『寡占体制と労働組合――アメリカ自動車工業の資本と労働』(新評論)として刊行される労働組合の史的研究に入っている。そして私はその研究過程のなかで、イギリスの合同機械工組合(ASE⇒AEU)と、アメリカ自動車産業労働組合(UAW)が、前者はクラフトマンの伝統的な作業自治の延長として、後者は非熟練労働を支配する経営者の職場専制へのしかるべき抵抗として、それぞれに労働そのものにおける一定の自由を確保するために、自治や団体交渉を通じて、労務管理・生産管理の経営権を蚕食してきたことを確認したのである。もっともUAWの場合、たとえば仕事量に関わるベルトコンベアのスピードそのものを団交事項とすることを経営側は断固として拒みとうし、歴史的なシットダウン・ストライキの帰結としての協約では、過重作業に対する苦情処理制度と、人員配置についての厳密なセニョリティを確保するという線で妥協せざるをえなかったけれども。
 こうして二つの組合史の総括として、組合主義の性格把握において、企業の支払い能力に「外在的」か「内在的」かという軸とともに、労働そのものありかたについて経営権の範囲を限定する「蚕食的」と、仕事のありかたは経営に委ねたうえでもっぱらその報酬を高くする「取引的」という、もうひとつの区分軸を設定したのである。

 そのうえでなお二点ほど語りたいことがある。
 その1。組合機能の「企業の支払い能力への外在的」と「内在的」の区分もそうだが、「蚕食的」と「取引的」の区分も時代によって可変的・流動的である。すべての労働組合が働き方をまったく経営管理の決定に委ね、賃金にのみ関心を限定することはありえないだろう。欧米労働組合は、テイラー・フォードシステムの導入を打ち込まれた後も、作業量や仕事範囲や配置ルールについての労働者のニーズを忘れず、執拗に経営管理の支配に抗ってきた。欧米のいわゆる「ジョブ・コントロール・ユニオニズム」は、高次の経営権の承認は前提とするゆえにとかく「体制容認」の労働組合運動とみなされるけれども、職務はわれわれのものというスタンスをもって、日々の働き方に直接かかわる生産管理・労務管理の下部領域を、執拗に自治や職場交渉の許される「労働条件」に変えさせてきたのだ。イギリスではショップスチュワード、ドイツではの経営評議会(レーテ)の従業員代表などがその担い手であった。1979年にイギリスで、右派組合と目されていた郵政労組の委員長N・スタッグにインタビューしたとき、彼は「ユニオニズムの歴史は経営権蚕食の歴史だ」と語って私は深く共感したが、次いで彼がたしかにジョークの口調でなく、「・・・だから私たちはチャールズ1世の首を切った」と言ってのけたのには驚かされたものである。 
 日本の企業別労働組合の歩みにおいても、例えば1950年代後半から60年末まで展開された「職場闘争」は、炭鉱、私鉄、印刷、国鉄や郵政などのいくつかの産業で、生産コントロール、要員確保、平等な配属(査定の規制)、安全保障などの慣行や協約を獲得していた。私たちはそこに、経過的ながら蚕食的組合主義の一定の浸透をみることができる。だが、その後の展開は一途そこからの後退であった。技術革新と日本的能力主義が浸透し三池闘争や国鉄の分割民営化闘争が敗北する過程で、企業別組合は作業量・ノルマ・要員策定、従業員の異動などに関する集団的な発言権・交渉権をことごとく失っていった。そして今、日本の主流派組合は、自動回転するPDCAシステムのなかにあって、労働者の働き方は経営側の一方的決定のもとにある。国際比較をまつまでもなく、そこには経営権蚕食の片鱗もない。現時点の企業別組合は、取引的組合主義の極北に位置するということができよう。

 その2。労働組合の経営権蚕食とは、現実的には、生産管理・労務管理の下部領域への自治権・団交権の拡大にほかならないが、左翼台頭期のヨーロッパでは、そのかなたに労働組合自身が産業を管理するWorkers’Control論が胚胎していた。1910~20年代イギリスでの公式組合から自立したショップスチュワード運動が生み出したこの思想は、1960~70年代の「管理社会」化の人間疎外を注視するイギリスやフランスのニューレフトに再評価され、そこからは自主管理社会主義の構想が生まれることになる。
 ASE・AEUの軌跡に示唆を受け、またその時期が思想形成期でもあった私は、1976年の論文集『労働者管理の草の根』(日本評論社)に示されているとおり、このワーカーズ・コントロール論に帰依していた。その勉強の過程では、ワーカーズコントロールの文献集ともいうべき大著Ken Coates/Anthony Topham:Industrial Democracy in Great Britain(Macgibbon&Kee、1968)に学ぶとことが多かった。しかし、思想系譜の点でとくに教えられたのは、1969年刊行のダニエル・ベル<岡田直之訳>『イデオロギーの終焉』(東京創元新社、原著1960年)所収の「マククスからのふたつの道」である。 この論文は、マルクスの搾取論と並ぶ疎外論および「労働者における労働者統制(管理)に焦点をすえて、革命ロシアにおける「労働組合反対派」がたどった運命、労働組合の国家管理に帰着する悲劇的な敗北(ソ連共産党による疎外論の搾取論へ上からの埋め込み)をみつめ、ひいてはイギリスやドイツにおけるサンディカリズム的な運動の挫折を冷静に描いている。それでもベルは、それらの軌跡のうちに「疎外を終わらせるためには、労働過程そのものを検討しなければならないという根本的洞察が・・・失われた」と総括し、「労働者の労働生活に直接の影響を与えることがら――労働のリズム・ペース、公正な賃金支払い基準を制定する際の発言権、労働者に対するヒエラルヒーの抑制――に対する職場におけるコントロール」になお「下からの労働者による管理」の決定的な意義を見いだている。そしてそのかけがえのなさの認識は、西欧ユニオニズムでは、人員配置についての経営者の査定を排した先任権、労働者間の正当な賃金格差、労働のぺース・テンポの規制・・・などのかたちでなお生きているという。産業の全体的な管理というアナルコ・サンディカリストの夢は失われた。けれども、 Workers’Controlの発想を受け継ぐ、日常の働きかたに関する労働組合の平等と発言権の要求、すなわち蚕食的ユニオニズムは、今なお私のものである。

その7 労働組合の性格把握(1)
――企業の「支払能力」への外在と内在
(2023年11月2日)

 連載もこれまでは主として研究史中期に意識した私の研究方法の視点・視角のいくつかを紹介してきたが、これからしばらくは初期からの研究内容に関わるキーワードの端的な説明を試みたい。やはり生涯のテーマとなった労働組合運動を理解する勉強からはじめよう。
 労働組合は、労働生活の必要性と可能性を共有する自然発生的なグループ、私のタームでは<労働社会>の組織化であり、その要求は、その<労働社会>のなかに芽生える競争制限的な黙契の意識化である。別項で扱う予定であるが、私はこのように労働組合の原点を構想する。もっとも、この<労働社会>論を定式化できたのは1976年の『労働社会管理の草の根』(日本評論社)であって、それまで研究者としてのごくはじめには、イギリスの合同機械工組合(ASE⇒AEUW)とアメリカの自動車労働組合(UAW)の軌跡を辿ることに専念していた。その際、分析の着眼点は、労働力の技能的性格(基幹職務の熟練の程度)と、b産業の製品市場のありかた(自由競争か寡占か)であった。一方、日本の労働組合の状況には院生時代から絶えず関心を寄せていたが、その際、この国の組合機能がまぬかれない個別企業の「支払能力」の軛というものがいつも念頭を去らなかった。 ふたつの組合の史的研究は、1970年の『産業史における労働組合機能――イギリス機械工業の場合』(ミネルヴァ書房)と、『寡占体制と労働組合――アメリカ自動車工業の資本と労働』(新評論)として刊行される。その結論的な命題として私は、労働組合の基本的課題として、次の二点を導き出している。
 ①個別企業の枠を超えて、その職種、その産業の労働者全体に、賃金や労働条件の標準(ウエッブ夫妻のいう「共通規則」)を獲得すること
 ②仕事のありかたに関する「経営の専権」を労働者自治や団体交渉および協約の範囲拡大によって蚕食してゆくこと
その上で私は、①②の達成の程度によって、労働組合機能の性格を、若書きの生硬な表現で、①A「製品市場外在的」と①B「製品市場内在的」、②A「蚕食的」と②B「取引的」に分類して把握したのである。先の「基本的課題」に照らせば、私が労働組合の理想型を①A、②Aに求めていることは自明であるけれど、組合運動の現実はつねに領域の①でも②でも、Bのありかたを求める資本と体制の働きかけに遭遇し、Aの曖昧化やBへの妥協を余儀なくされている。

 このふたつの評価軸のうち、今回は①軸についてのみ、もう少しコメントを加えよう。 ①A製品市場外在的ユニオニズムは、個別企業の支払能力の格差にかかわらず、職種別組合または産業別組合のストライキや団体交渉を通じて、基本的な労働条件を保障する統一的な労働協約にまとめあげる。ここでは組合機能は個別企業の支払能力に「外在」しており、労働条件は企業経営にとっていわば「与件」とされているのだ。総じて西欧では統一交渉・統一協約、アメリカの大企業界隈ではパターンバーゲニング(まず有力企業に交渉をしかける)・企業単位の協約(他社もほぼ追随する)――という違いはあれ、労働条件決定が雇用主の支払能力に左右されるべきではないという労使関係は、欧米ではノーマルな慣行であり当然のことなのである。
 それに対し、①B製品市場内在的ユニオニズムは、労働組合が組合員を雇用する企業の市場競争上の位置に配慮し、その「支払能力」に忖度して、結果として賃金などの企業間格差を容認する。ここでは個別企業を横断する職種別または産業別協約が欠如しているのが常態である。日本の企業別組合がまさに製品市場内在的組合主義の極北に位置することはいうまでもあるまい。
 とはいえ、このような分類を示して、①Aを推奨し、①Bを批判するだけに留まれば、現実の労働組合運動の分析としてはあまりに表面的にすぎよう。私も初期から意識していた留保点に加えて、その後の動向を瞥見してみよう。まず認識すべきは、どの国でも、資本が労働条件決定を支払能力の(与件ではなく)函数とさせようとする意思の強烈さである、もっとも経営側の唱える「支払能力」はたいてい、その余力を探るさまざまの経営施策を棚上げにした上でのことであるけれども。
 しかし例えば、西欧型の統一協約のばあい、共通規則としての賃金額は総じて最低規制に近いフロアになりがちである。そのとき、支払能力に余力のある企業では、生産性向上に報いようとする経営者と「余力」に応じた加給を求める組合下位組織との企業内交渉によってフロアに+αを加えがちである。ここにいわゆる「賃金ドリフト」が生まれる。また米国型のパターン交渉・パターン協約の場合には、しばしば不況期には、下請企業などでは、大企業でのパターンに従うことの雇用保障への影響などを心配して、パターンから下に乖離する賃金支払いに労使が合意することがありうる。西欧と米国いずれの場合にも、結果は一定の企業間労働条件格差の発生である。その分、現実には、①A・製品市場外在的ユニオニズムはいわば「不純化」するのである。
 そのうえ、新自由主義の台頭に伴う内外の企業間競争の激化と労働運動の一定の後退のなかで、資本側はいっそう企業の枠を超える統一的な労働条件協約の適用範囲を狭める攻勢を強めつつある。統一協約がとくに整然と整備されていたドイツでも、岩佐卓也の『現代ドイツの労働協約』(法律文化社、2015年)がくわしく分析するように、協約拘束範囲の縮小、協約規制の個別企化、協約賃金の低水準化への資本攻勢が強まって、従来型協約の改変がどの程度許されるかをめぐる労使紛争が展開されている。従来の協約形態を守り切ることはこの国の産業別組合の強靱な交渉力をもってしてもひっきょう難しいだろう。グローバルな流れとして、①B製品市場内在的、すなわち個別企業の支払能力を少なくとも一定程度は顧慮する組合機能への傾斜は、さしあたり避けがたいように思われる。

 では、日本の労働組合についてはどうか。
製品市場内在的ユニオニズムの代表格である日本の企業別組合にしても、高度経済成長で人不足の時期には、やはり企業横断的な協約は欠如していたとはいえ、春闘のベースアップ水準の高位平準化というかたちで、結果的に一定の製品市場外在性を示したということができる。60年代末代~70年代はじめにかけては、例えば機械金属産業での高率の賃上げは、ホワイトカラーを含むほとんど全産業の労働者に波及し、私鉄のストを経て公労協の仲裁裁定、はては公務員の人勧にまで影響を及ぼした。「国民春闘」の「相場」が成立していたのだ。この時期、企業の賃金決定要素のうち「支払能力」は著しく比重を低め、あらゆる基準での賃金格差はかなり縮小をみている。
 けれども、低成長時代が到来し、紆余曲折を経たうえでそれが常態化したとき、もともと欧米のような製品市場外在性を保証する協約の制度と慣行をもたなかった日本では、「里帰り」が当然であった。春闘相場は不確かになり、まったき支払能力の支配が復権を遂げた。企業間賃金格差の縮小も進まなくなった。そしておよそ80年代このかた、賃金ベースは支払い能力に代表される企業経営の都合で決まり、個人の賃金は社会的な規範から自由な査定によって決まる――それが疑いを容れない日本の常識となった。現時点では政財界はもとより、主流派組合のリーダーたちでさえ、製品市場外在性という組合機能のあり方なぞ思い及びもしない。
 だが、その徹底した製品市場内在性が多くの労働者階層にもたらす格差と差別の影はあまりに濃い。とはいえ、試練に晒されているにもかかわらず、それでもなおグローバルには、「共通規則」の確保を旨とする製品市場外在性というユニオニズムの原理は、その輝きを失ってはいない。企業規模、雇用形態、性や国籍を問わず、多様な労働者すべての階層についてかならず存在すべき労働条件の社会的規範というものが、経営側のいう「支払能力」によってずたずたにされている日本の労働状況は克服されなければならない。

その6 ノンエリートの自立
(2023年9月12日)

 1960年代末から70年代末という研究史初期の著作のなかで、私は主なテーマであった労働組合について、その形態や機能を把握するいくつかの区分論を提起している。その内容は追々紹介したいが、今回はとりあえず、労働組合の思想の核とみなされる考え方をつかむ私のキーワードを紹介したい。それは1981年の著書(有斐閣)のタイトルにもなった<ノンエリートの自立>である。
 産業社会に不可避の分業体制のなかで、労働者の多くが携わるのは、裁量権は乏しいのに肉体的または神経的な労役を求められ、賃金・労働条件は相対的に劣悪な仕事である。裁量の巾の大きい精神労働を遂行し、そのうえ相対的に高賃金のマネージャーや上級ホワイトカラーの業務とは異なる。後者の「エリート」に対し前者は「ノンエリート」と分けることができる。むろんふたつの区分のなかにも、複数の階層、「可視的ななかま」の範囲(私のいう「労働社会」)を異にするいくつかのグループがあることは確かであろう。しかし労働組合論の場合、私は大きな区分軸としては「階級」を用いない。今日、エリートの一部は定義上の「労働者階級」にふくまれもし、それは新自由主義国ではもとより、「搾取」のないはずの「社会主義国」にも現存して、ノンリート大衆を支配し操作している。労働組合は、体制のいかんに関わらず、エリート層の支配・操作と闘おうとするノンエリート層にとって不可欠なのである。

 どのような意味で不可欠なのか。ノンエリートの立場にあることが耐えがたいとき、人は当然、その立場からの上向脱出を図るだろう。だが、現実を直視すれば、その脱出の過程は、教育課程、「就活」、社内での昇進をめぐる、長期にわたり時には世代を超えて続くしのぎを削る競争の過程である。なによりも心身の消耗、周辺の評価を忖度しての自由の抑制、歓びの享受の不本意なくりのべなどは避けられない。それになによりも、「その3」で書いたように分業の分布が基本的に上部に薄く下部に厚い構造であるかぎり、経済の局面によっていくらか異なるとはいえ、歴史的事実として競争の成功者は総じて少ない。地位を求めて得られず、ということのほうがふつうなのだ。
 そんなことを体験するなかから世界の労働者が選んだ叡智が労働組合運動であった。それは「脱出」を夢見るのではなく、ノンエリートの立場のままで、地味なエッセンシャルワークを担う者のプライドを心に刻み、人間としてのディーセント・ワークを求める闘いである――生活できる賃金、仕事に関する決定参加権、そして労働現場での自由と発言権を! すなわち、エリートの立場と文化への追随を拒む。それが<ノンエリートの自立>の意味するところである。それに現代社会学の知見を加えるならば、エリートの仕事には多分に社会的には「クソどうでもいい」プルシット・ジョブが含まれるのに対し、ノンエリートの仕事は総じて誇るにたるエッセンシャルワークなのである。

 とはいえ、実は事柄はそれほど単純ではない。エリートの立場に経上がることは、ノンエリートたちにとってすぐには否定できない原初的な願いである。それに「権威主義」を脱した近代社会では、権力の側も、人材登用による体制の安定と効率化の必要性から、この「経上がる」機会の開放、一定の機会の平等化を進めるのがふつうである。個人主義が現代社会の通念とってゆくなか、グローバルな規模で、人びとの世智として、<ノンエリートの自立>が容易には多数者の選択にならない理由がここにある。労働者の生活を守る方途の選択も、なかまと協同の労働組合運動よりは、選別の個人間競争への雄々しい投企になりがちなのである。
 とりわけ私たちの国は、<ノンエリートの自立>の思想にとって厳しい風土だったように思われる。その理由は歴史的かつ重層的である。ラフながら説明を試みよう。
 ①明治維新以来、近代日本のタテマエは、階級形成が、門地門閥、生まれつきの「生得的」ではなく、努力と精進しだいの「結果的」であった
 ②人びとはあるいは「立身出世主義」、あるいは「(二宮)金二郎主義」でがんばる道徳を内面化してきた
 ③他方、権力は庶民がその立場のままで闘う労働組合運動を決して容認しなかった
この三者はみごとな相互補強関係を保って、<ノンエリートの自立>の思想、それを体現する産業民主主義の不毛を近代日本の伝統とさせたのである。
 戦後の労働運動は、階層上昇機会の平等化というタテマエをホンネ、つまり実態とさせることを追求し、高度経済成長期には、消費生活のスタイルにおける「一億総中流」をかなり実現させている。けれども労働運動は、戦後民主主議をすぐれて、権力の側も正面から否定するわけではない「機会の平等」と理解したかにみえる。「一億総中流」の成果ゆえにこそというべきか、「機会の平等」の民主主議の陰に潜む日本伝統の<ノンエリートの自立>という思想の希薄さは、十分に意識化されないままであった。労働組合は、機会の平等の不徹底さを批判する告発はしても、「ノンエリートのままで生活と権利を!」という発想が労働運動の思想的基盤になってはいなかったのである。

 この診断は辛辣にすぎるだろうか。だが、私が2020年代という時点で、このような回顧を試みるにはそれなりの理由がある。およそ90年代半ば以降、日本経済「ジャパン アズ ナンバーワン」の時代、「一億総中流」の時代は昔日のものとなった。経済格差は拡大し、増加を続ける非正規労働者を中心に貧困層が累積した。就職氷河期に働き始め、いま社会の中核に位置するロスジェネ世代(40~50代)の多くは、正社員であっても賃金停滞や雇用不安に怯えるノンエリートになり、あるいはかなりの層がいつまでもパート、派遣、アルバイトのまま生活苦に呻吟する。その子どもたちのZ世代(20~30代)のうち、「俺ってすごいな」と自賛するエリート層も輩出しているとはいえ、やはり不安定雇用で都市雑業のなかを流動している若者も数多い。
 Z世代のなかには企業外の労働組合運動によって、労働条件の改善に立ち上がる事例が現れている。それはひとすじの希望だ、だが、端的にいえば、今のままではまともに生活できないノンエリート労働者のこのように広汎な存在は、戦後史上初めての事象であろう。いうまでもなく、<ノンエリートの自立>の思想は、当然の権利としての労働組合運動、ストライキや占拠や会社前抗議などの直接行動の基礎である。個人の受難-個人責任-個人的解決、そう直結させる新自由主義のひずみが極まる現時点なればこそ、この国では長らく少数者のものと私も半ばあきらめていた、80年代以来の<ノンエリートの自立>をいまいちど鼓吹したいのである。ノンエリートがエリートになる機会が増えるのは民主化ではあるけれど、ノンエリートがエリートに支配・操作されることがない社会はもっと根底的に民主主義的なのだ。

その5 民主主義工場の門前で立ちすくむ (2023年8月10日)

 1979年~96年にいたる研究史の中期に提起した私の命題として、ここにもうひとつ、これまでに述べた日本の労働者の主体的なマンタリテ(心情)をめぐる諸概念とは異なる、直截な労働状況の把握に関する私のキーワードを紹介したい。「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」である。
 この言葉はときに私の造語とみなされもする。しかし実は、70年代のイギリス労働党大会におけるジャック・ジョーンズ(運輸一般労働組合の左派リーダー)のスピーチから私が読み取った言葉、Democrasy stops at the factory gate の翻訳である。労働組合の強靱なイギリスでさえ職場はなお労働者の発言権、決定参加権は乏しいと意識されていたのだ。では、日本ではどうか?
 1973年の『労働のなかの復権』(三一新書)、81年の『日本の労働者像』(筑摩書房)における企業社会の探求、もっと直接的には東芝府中人権裁判闘争の記録の精読を通じて私は、日本企業の労務管理の徹底した「異端」へのいじめと排除、ふつうの従業員の行動と発言のおそるべき抑制のようすを思い知った。企業社会はなんという自由と民主主義が不毛の界隈だったことだろう。従業員として労働者たちは、企業のあらゆる要請を呑み込み、<強制された自発性>に駆動されて、黙々と働く存在であった。職場の労働そのものと人間関係に関わる労働組合機能は不在だった。「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」は、その状況への端的な告発である。それは私と同様の危機感を抱く少なからぬ人びとの共感を呼んだと思う。この告発の言葉はそして、いみじくも東芝府中人権裁判闘争についての講演録を巻頭におく1983年の論文集(田端書店)のタイトルになったのである。
 
 それからおよそ40年後の現在、この告発はなお生きているだろうか? 
 今では「工場」というタームはホワイトカラーの事務所、販売店、学校や病院、戸外の作業現場などをふくむ「職場」一般にまでに広げられるべきだが、無愛想に言ってのければ、それらの「職場」における労働者の発言権、決定参加権、つまり民主主義は、以前よりもいっそう不毛になったと思う。ハラスメントとよばれるいじめは訴えの件数だけでも最多項目のまま増加の一途であり、それに対抗すべき職場の労働組合は無力なままである。その意思決定の会議は、あたかもひとつの異論も出ない中国の「全人代」のようだ。例えばかつて教師たちの「職員会議」は談論風発の場であったが、いまは単なる管理者からの意思伝達機関である。2006年まで奉職した大学の教授会でも、90年代頃から私はよく、この議題は、ここ(教授会)で諾否を決定できるものなのか、大学執行部の提案に参考意見を述べるだけのものなのかと問い詰めたものである。要するに提案の決定権というものがふつうの教員から実質的に剥奪されていったのである。
 
 もう少し敷衍して考えてみよう。最近、私が痛感することは、ふつうの人びとが日常的に帰属する界隈――職場、地域社会、子どもたちの教室、NET上の交友関係、PTA、公園のママ友・・・などに瀰漫する強力な同調圧力である。時代の諸変化の合力によって、良かれ悪しかれ、家庭・家族関係のみは例外的に同調圧力が弱まっているかにみえるけれども。
 そんな界隈では、さまざまな理由からおよそ批判精神を失ったロスジェネ(40代~50代前半)の小ボスたちの、とにかく波風を立てまいとする慣行遵守の卑俗な現実主義がまかりとおっている。いくらかは人権や民主主義の感性をもつ人びとが声をあげても、彼ら、彼女らは、まず異端のKYとみなされて、孤立し、ときには排除されてしまう。それゆえ、少数の感性豊かな潜在的な体制批判者も、「そっち系」のKYとみなされる「空気」を怖れ、黙り込むのである。
 職場という界隈は、多くの人びとにとって生活の上で帰属が不可欠であり、容易には離れがたい。だが、その職場とそこに癒着する労働組合こそは、この同調圧力がとくに際立つ場である。そこでの小ボスは、課長や係長といった下級管理者、そして昇進を目前にした精鋭従業員である。その界隈において労働者個人が、過重ノルマ、長時間労働、パワハラ・・・のもたらすメンタル危機や過労死・過労自殺などを、個人責任ではなく経営施策の問題にほかならないと発言するには、並外れた勇気を必要とする。それゆえ、潜在的には必ず存在するだろうこの勇気ある発言者を掬う、企業外からのユニオン、行政、法律の働きかけが絶対になければならない。依然として「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」状況だからである。   
 ちなみに職場を中心とする界隈の「異端者」は、穏健な他のメンバーからは、しばしば、界隈の任務遂行に消極的で、つきあいの悪い人、まぁ「いやな奴」とみなされていることも多い。しかし、以上の総ての叙述から、人権とはすぐれて「いやな奴」のためのものだという命題が導かれよう。「いやな奴」の人権は多少とも制限されても仕方ないと考えるとき、私たちは多様性の否定を旨とするファシストへの道を歩みはじめるということができる。