おもしろい映画とは、物語の構想はユニーク、個性豊かな多様な登場人物の関係は複雑で緊迫感にあふれ、役者たちも魅力いっぱい、そして最後には、爽快感とともに忘れがたい感銘を残す作品の謂いである。たとえ「名画」でなくとも、私が偏愛するそんな映画は枚挙に暇がないが、今日はそのなかから、若い世代にはほとんど知られていない60年代のいくつかのアメリカ映画を任意に選んで紹介しよう。
ひとつは、ジョージ・シートン監督・脚本の『36時間』(1964年)である。第二次大戦中の1944年、連合軍のノルマンディ上陸の詳細を連絡する使命をもつ米軍将校ジェフ(ジェームズ・ガーナー)が、リスボンでドイツ軍に襲われて記憶を失った。そして目覚めれば、すでに1950年、アメリカの陸軍病院で、精神科の軍医ウォルター(ロッド・テイラー)と、ナチスの収容所体験と性暴力のため一切の感情が凍ったままの看護師、記憶喪失期のジェフの妻と想定されているアンナ(エヴァ・マリー・セント)による記憶回復治療を受けている。2人はジェフの深層に潜むノルマンディ作戦の詳細を思いださせようと腐心している。病院内は総て英語、新聞もラジオも戦後のニュースである。だが、このすべては、連合軍のノルマンディ上陸の直前のこと。ナチスがジェフから作戦の完全な情報を得るための周到な虚構だったのだ。
その後は、ある些細なことから虚構に気づいて脱出を計るジェフ、彼に心を開いてゆくアンナ、ジェフとの間に友情の絆を結び彼とアンナを助けようとする冷静なウォルター、彼の科学的アプローチを嗤いすぐにでも拷問に奔ろうとした品性下劣なナチス親衛隊将校の思惑が実に複雑に絡み合う緊迫の展開となる。結局、ウオルターの命を賭けた反ナチの抵抗に外部の協力もあって、ジェフとアンナは危うくスイスに逃れることができた。再会を約して2人が別れるとき、アンナの瞳にはじめて涙が光る・・・。キーパーソンたちの造型が鮮やかであるだけに、すべての経緯がすとんと胸に落ちる佳作である。
もうひとつは、リチャード・ブルックス監督・脚本の『プロフェッショナル』(1966年)。メキシコ革命当時1917年頃のテキサス洲を舞台とする傑出した西部劇?である。
メキシコ革命戦に破れた山賊ラザ(ジャック・バランス)一味に新妻マリア(クラウディア・カルディナーレ)を誘拐され身代金を要求されている油田もちの富裕なベラミーが、妻を取り戻そうと4人の戦争の専門家を雇う。知謀に長けたリコ(リー・マーヴィン)、弓の名人ジェイク(ウッディ・ストロード)、馬つかいのハンス(ロバート・ライアン)、そしてダイナマイト屋のビル(バート・ランカスター)である。
曲折に満ちた細かい経緯は省略するけれど、4人はそれぞれのプロ性をいかんなく発揮して山塞を攻略し、首尾よくマリアを拉致し、ラザとなかまに追われながら帰途につく。しかし、その間、マリアは懸命に脱出を計る。実はマリアはもともとラザの恋人であり、奪ったのは実はベラミーだったのだ。4人は追いつめられて危機に瀕し、3人がともかく帰途を急ぐ一方、ビルが岩山を爆破して殿(しんがり)として1人追っ手と闘うことになる。ビルもかつてはメキシコ革命戦の参加者であり、ラザや部下たちとも旧知の間柄だった。銃撃のはざまに2人が交わす会話がなんともいい。今は無頼のビルはあの頃の生きがいを語り、ラザは「革命は女と同じだ、深くつきあえば淫売みたいだとわかる。しかしまた惚れる・・・」と見果てぬ革命の夢を語る。しかし結局、ビルは負傷したラザを馬に乗せてなかまのもとへ帰り着く。
よろこんだベラミーは、多大の報酬を約束し、マリアを確保して、ラザをすぐに殺せと命じた。だが、ここが愉快だ。ビルをはじめ4人のプロは言う、「女を持ち主の元へ返す契約だった」と。無頼の男たちにとってマリアははじめて出会った「本当の女」」だったのだ。彼らは傷ついたラザを乗せたマリアの馬車をメキシコに向けて駆らせる。足を踏ん張って手綱を握るクラウディア・カルディナーレの表情の輝きがすてきである。
さて、リチャード・ブルックス監督・脚本、バート・ランカスター主演といえば、どうしても名作『エルマ・ガントリー 魅せられた男』(1960年)を語りたくなる。
アメリカの1920年代、陽気で雄弁な無頼のセールスマン、エルマ・ガントリー(バート・ランカスター)は、当時の信仰復興運動のキリスト教団の教祖シャロン(ジーン・シモンズ)にぞっこん惚れ込んだ。虚言を辞さない野放図な熱情と型破りの説教をもって彼は悩める大衆を魅了して、著名な牧師たちや新聞の妨害をはねのけて教団を大勢力に押し上げてゆく。ガントリーにはもともと信仰心はなく、彼をを突き動かすのは純粋に神の存在を信じるシャロンへの愛のみである。しかし結局。、いくつかのスキャンダルに見舞われたうえ、シャロンの夢の新教会の火災事故によってシャロンは死んでしまう。
大筋ではこんな単純な物語(シンクレア・ルイス原作)ながら、この映画は、ガントリーの雄弁のうちに、たとえ神はなくとも、愛の祈りを核とする信仰は美しいということを、若い私の心に刻み込んだものだ。無頼の男が惚れ込んだものにひたすら身を投じる情熱の無償性と、それが潰えたときのさわやかな成熟を表現するバート・ランカスターは、言葉にできないほどの迫力だった。この監督もさることながら、これ以降、数え切れないほどの出演作をみたが、バート・ランカスターはいつもいつも存在感があって、私にとって大スターであり続けた。
これら3つの作品、どこかで探してみてほしい。楽しめること請け合いである。権威づけるわけではないが、その年のアカデミー賞をみれば、『プロフェッショナル』では、監督賞、脚色賞、撮影賞でノミネート、『エルマ・ガントリー』では、作品賞でノミネート、脚色賞、主演男優賞、助演賞で堂々の受章だった。ついでにいうと、このとき助演賞のシャーリー・ジョーンズは、有名になったガントリーを強請ろうとする、かつて彼に誘惑されて捨てられた娼婦ルル役である。そのルルに対するガントリーの姿勢も、そこはかとなく彼の心意気を感じさせるのである。
ときどきはこうした「おもしろい映画」を紹介したい。テーマをしぼって、例えば「鉄道もの」なら、J・フランケンハイマーの『大列車作戦』(1964、これもバート・ランカスター主演)と、トニー・スコット『アンストッパブル』(2011)などがすぐに思い浮かぶ。