『あしたの少女』の勇気とまっとうさ (2023年8月27日)

 最近の『怪物』(是枝裕和)や『波紋』(萩原直子)の魅力をさておけば、加齢による感性の鈍化のゆえなのか、最近の「名作」とされる映画には、主題がわかりにくくていらいらすることもままある。しかし8月25日夜、名古屋で観賞した韓国映画『あしたの少女』(チョン・ジュリ監督・脚本)は、まっすぐに感情移入できる感銘ぶかい作品だった。
 モダン・ダンスに打ち込んでいた高校生のソヒ(キム・シウン)は、教師のつよい勧めで大手通信会社の下請け企業のコールセンターで「実習生」として働くことになった。そこは地獄のような職場だった。顧客との契約、上手な苦情処理、過大な違約金をちらつかせての解約防止に厳しい数値ノルマがある。個人別の達成グラフが掲示され、その順位によって(実は二重契約によって実習生には支払いが棚上げされるのだが)「成果給」が異なる。顧客の無理難題にキレたりすれば、みんなの連帯責任であるこの事務所の実績評価を落とす気かと上司に面罵されるのである。
 そんななか、怒鳴られるソヒを庇ってくれた男性班長が業務の実態や実習生の処遇の過酷さを遺書に残して自殺する。会社は彼の死の原因を「賭博と女」と公表、遺族を買収して黙らせ、従業員には箝口令を敷いて、班長の死は業務に無関係であるとの文書に署名すれば一時金を出すという措置とる。。葬儀に参加し文書を無視したのはソヒただ1人だった。そのソヒも、いったんは周囲の圧力に靡き、しばらくは開き直って非情な従業員となる。だが、もともと良心的なソヒはその後、賃金のごまかしに抗議し、顧客の正当な解約依頼を承諾し、顧客の執拗なセクハラ電話に憤って怒鳴りつけ、それらを厳しく咎める新任の班長を殴りつけて、結局、休職扱いとされてしまうのだ。教師の叱正もあって辞めることはできない。孤立と絶望のうちにソヒはついに死をえらぶにいたる・・・。ここまでは、2017年に実際に起こったというソヒ自殺事件の、労働ジャーナリストの取材にもとづくリアルな再現である。
 後半、鬱屈を抱えて無愛想な、しかしソヒの死が「ただの自殺」をされることにわりきれぬ欺瞞を感じとる鋭敏な女性刑事ユジン(ベ・ドウナ)が登場し、なぜか「深入り」を禁じる警察の上司に抗いながら事件の背景を追及してゆく。徐々に明らかにされることは、あまりに過酷な労働現場の実態。親企業の圧力にによる下請けコールセンターの「実習生」搾取。ひたすら卒業後の就職先確保のために労働実態に眼を閉じて若者たちを「実習」に送り込む実業高校。地域の高校の就職率によって補助金が左右されるゆえにその慣行を黙認する教育行政である。問題は構造そのものにある。そして構造を運営する責任者たちは、班長やソヒの自死は個人的な性格の特殊性や異常性によるものとすることで口をそろえる。われわれに責任はない、むしろ被害者なのだ、なぜなら・・・と言い募るコールセンターの上司や経営者、副校長などの欺瞞と言い分けの数々。たとえば「過度の残業はノルマを果たして稼ぎたい実習生が自発的にやっていること」。どこかで聞いたこと!と私は苦笑する。それをにらみつけるユジンの鋭い瞳がそれだけで共感を呼びおこす。
 ソヒ事件は実は、韓国で「次のソヒ防止法」ともよばれる、非正規労働者保護法の成立に大きな役割を果たしたという。映画ではしかし、一刑事が構造の改善にまでは進めないことを示唆している。見つけ出したソヒのスマホにわずかに残されていた、激しいダンス・レッスンにひとり取組む画像を見て、ユジンがはじめて静かに涙を流す美しいシーンで終わるのである。
 登場人物たちが激しく非難し合う、ときに殴打にいたるところに韓国的な特殊性を見いだせるかもしれない。だが、コールセンターの労働や「(技能)実習生」の人権蹂躙、それらの構造的背景については、私たちの国も基本的に同じである。今日の日本ではしかし、このような「労働映画」はほとんど期待できない。そこをたじろがず凝視する韓国の映画作家の勇気とまっとうさにあらためて敬意を表したいと思う。ちなみに監督チョン・ジュリ、主演ベ・ドウナのコンビは、同性愛という「罪」のために漁村に左遷された教師が、DVといじめに苦しむ少女にどこまでも寄りそうという、より重層的で複雑な作品『私の少女』(2014年)を踏襲している。これも私がつよく再見を願っている名作のひとつである。

「あしたの少女」公式サイト