憲法を空洞化させる日常の「界隈」(2024年5月18日)

 愛知県の作家・伊藤浩睦氏が、憲法記念日の5月4日、朝日新聞「声」欄に次のような投書を寄せている。
<私たちにとって、憲法はとても遠いものに思える。学校では、憲法上の権利を口にすれば、「憲法なんか生徒には関係ない。校則がすべてだ」と言われ、会社では、「社員である限り社則やノルマが最優先だ。憲法上の権利なんか関係ない」と言われた。庶民と憲法の関係なんてそんな遠いものだと思っていた>
 数多い良識的な護憲論はほとんど立ち入ることがないとはいえ、およそ現時点の護憲論がなによりも直視すべき枢要の問題を剔る、これはとてもすぐれた発言だと思う。本当にその通りである。ふりかえってみよう。それぞれが日常的に帰属する「界隈」において普通の人びとの発言やビヘイビアを律しているものは、憲法に保証された人権尊重や思想・表現・行動の自由と無関係な、たいていはそれらを蹂躙する、その界隈の公然・非公然のルールまたは慣行にほかならない。
 こうして学校では、「生徒らしい」服装や過剰な生徒指導の校則が若者の学校内外の自由を束縛する。職場では、過重なノルマ達成度や仕事態度を多面的に評価する査定の労務管理が、サラリーマンに「社員の掟」を内面化させ、彼らを萎縮させている。家庭では、なおしたたかに残る性と世代のジェンダー慣行が、それぞれの家族たち、とくに妻や母親にいいようのない鬱屈をもたらしている。社会運動の場でも、自治体は「中立」の名の下に運動にわずかでも「政治的」なにおいをかぎつければ、市民の営みに便宜を図ることをかならず拒む。ネットや公園に集うママ友の交友関係などでも、話題は「いやがられないように」無難なものに留めるという。
 私の言う「界隈」に働くのは、まさに憲法の条文などかかわりない「界隈」独自のルールへの強力な同調圧力である。そして「界隈」の多数者は「空気」を読んでこの同調圧力に靡くだろう。構成員が憲法の条文に殉じて異議を申し立てるならば、その少数者はそれなりの受難を蒙ることになる。たとえば、学校の生徒が求めてやまない自由に固執して校則指導への反抗に転じるならば、サラリーマンが労働基準法を楯としてサービス残業を拒み休暇の自由な取得を主張するならば、労働組合員が労働組合法にもとづいて労使一体ムードの企業でストライキの必要性を訴えるならば、「対等の人格権」を内面化した妻が性別分業に居すわる夫を許さないならば、町内会の集まりで住民の誰かが信教の自由を唱えて神社への寄付の慣行に従わないならば、それらの勇気ある少数者は「波風立てるな」を旨とする多数者から「そっち系のひと」とみなされ、以降、無視され、つきあいで差別され、悪くすれば「界隈」から排除されてしまうだろう。排除されてもかまわない、その方が「すっきりする」場合もあるかもしれないけれど、多くの場合、一介の庶民は「界隈」から排除されてはやってゆけないのである。
 こうしてニッポン2020年代では、憲法の保証する多様な個人の人権尊重、表現と行動の自由、労働基本権などは空洞化し、普通の市民の日常にまさにかかわりないものに堕しているのだ。この点を直視し、政治思想、政治運動論に留まらない「界隈」の民主化、すくなくともそこでの表現・発言の自由を達成する方途が探られなければ、護憲論は市民の生活に届かない。その方途の模索は容易ではないけれど、それぞれの「界隈」の少数者を「界隈」の境界を超えて横につなぐ営み、いわば外なる「界隈」の形成が、その出発点になるだろう。構想することができる、そしてすでに着手されてもいる例して、学校の枠を超える生徒会、Me tooの女性運動体、そして企業横断的な職種別・産業別労働組合の構築などをあげることができる。