ポーランド紀行

ポーランド紀行(1)──明るい印象の映像 2014.7.4記

ポーランドの初夏。バスの車窓は、畑、牧草地、原野、なんであれ延々と続くなだらかな緑の平原である。南部には森が多く、スロヴァキア国境に近いタトリ山脈のカスプロヴィ山の頂上では残雪もあったけれど、国土の圧倒的な部分は見わたすかぎり平坦である。思うに、いくつかの大河はあれ、この地に、西からナチス・ドイツのタイガー戦車が、巻き返して東からソ連のT-34戦車が侵攻することに地理的な障害はほとんどなかっただろう。
そんな平原のここかしこに、700年~1300年もの歴史をもついくつかの古都が散在する。多くは交通の要所、交易の中心地として栄えた街だ。大教会、市庁舎、商人の館などの織りなす広場の佇まいは、ドイツ・ゴシック風、フランドル・ルネッサンス風、バロック風など、様式はさまざまながら、童話の世界のように美しい。
けれども、トルンやクラクフを別にすれば、これら珠玉のような古都の多く、グダニスク、ワルシャワ、ボズナン、ヴロツワフなどは、ナチスによって、あるいは激しい独ソ戦のために大半が瓦礫と化すまでに破壊された。ポーランド人はしかし、例えばワルシャワの場合、17世紀イタリアの画家カナレットの精密な都市絵画などを参考にして、煉瓦ひとつに至るまで忠実になぞって再建し、かつてのワルシャワの栄光を再現させたのである。
それらの名所では、遠足なのか修学旅行なのか、実に頻繁に、子どもたちのグループに出合った。私はどの国でも人びとの写真を撮ることが好きだが、この国の子どもたちはとりわけ社交的で、歓声を上げ手を振ってカメラの前に集まってくれる。若者たちもそうだ。白い肌、彫りの深い顔立ち、伸びやかな肢体の若い女性たちは、日本と同じような風俗ながら、外国人に対して日本では考えられないほどの笑顔とジェスチャーを示す。その魅力にふんわりと心が明るくなる。
この若者たちは、いま仮に20歳だとすれば、1990年代半ばに生まれている。その頃にはすでに、労働者がはじめて戦後の体制を動揺させた「連帯」運動への弾圧も昔日のものとなり、社会主義体制も「ベルリンの壁」も崩壊している。彼ら、彼女らにはもう、ヒトラーもスターリンも、いやワレサでさえ、なじみ薄い人物なのかもしれない。しかし、生き生きと若さに輝くこの世代は、たとえば、第二次大戦の惨禍、ワルシャワのユダヤ人ゲットーの反乱と市民蜂起、アウシュヴィッツ収容所、カチンの森、レーニン造船所の画期的なストライキに続く戒厳令、警察国家の監視体制・・・などについて、どれほど教えられ、それらを忘れてはならない記憶としているだろうか。

私と妻の海外旅行の好みは、最近ますます、カトリック、ビザンティン東方教会、イスラム教、仏教、ヒンズー教・・・を問わず、宗教文化の濃厚な国々である。フランス・ロマネスクの探訪などはその代表的なものだ。けれども、今回のポーランド旅行は、この国のあまりにも過酷な現代史の体験のあとをみておきたいと思ったことが、その最大の動機であった。それらの体験は、それらを鋭く描く名画たちの記憶とともに、1960年代から90年代を通じて、私の思想形成にとって不可欠の学びの対象だったからである。
私たちの利用した「ユーラシア旅行社」は、ショッピングに時間をとらず徹底して観光を重視する旅行社であり、今回も2週間をかけて、ほとんど北から南までポーランド全土を訪れている。とはいえ、もちろん「ダークツアー」は多くの参加者の希望ではないだろう。たとえばワルシャワ観光は受難の遺産よりは圧倒的に「ショパン」に偏っていたことが不満だった。たとえば、アンジェ・ワイダについて語りあえる参加者はなく、私たちはその点では孤独だった。それでも、想起することはつきない。以下、何回かにわけて不定期にではあれ、それぞれの都市を舞台にしたポーランド人たちの受難の学びを、忘れられない映画作品の紹介もかねてふりかえってみる。なだらかな美しい平原、メルヘンの世界のような古都、若い世代の明るさにふれても、私の思いはどうしてもそこへ傾いてゆく。
とはいえ、確かに現在のポーランドの第一印象は明るい。風景、現在の街の佇まい、人びとの豊かな表情などを示す拙い写真のごく一部をピックアップしてみる。

 


ポーランド紀行(2)──ワルシャワ蜂起の悲劇

ポーランドの人びとは、近代史・現代史のなかで、強大な抑圧者・侵略者のもたらした不幸と悲劇に例外的なまでにくりかえし見舞われてきた。現代史に限れば、抑圧者とは西からはナチス・ドイツ、東からはスターリン治下のソ連である。
美しく明るい今のポーランドを巡るうちにも、私は長年にわたって社会と歴史に関する私の認識に大きな影響を与えてきたこの国のすさまじい受難の数々と、それでも抵抗を放棄しなかった人びとの勇気の物語を想起した。複雑な歴史を正確にくわしく綴ることはできず、記述は雑駁なものにすぎないが、以下は「紀行文」というよりは、忘れられてはならない歴史の暗部をあらためてふりかえるメモのような文章である。

ワルシャワ蜂起記念碑 立ち上がる

ワルシャワ蜂起記念碑 立ち上がる

例えば旅の最終地、ワルシャワの旧市街で三人の兵士がマンホールに入ろうとしているブロンズ像をみたとき、涙が滲んだ。これこそは、ワルシャワ蜂起の記念碑だった。 第二次大戦の嚆矢となったナチスドイツ軍の古都グダニスク侵攻(39年9月)以来、ポーランドはナチスに蹂躙され、亡命臨時政府がロンドンに置かれている。そして独ソ不可侵条約を破棄して、ナチスが対ソ戦をはじめてからおよそ3年後、ようやくソ連軍の反撃が見通せるようになった情勢のもと、44年8月1日、亡命政府の支持も得て、残存のポーランド軍は、女性や未成年をふくむ市民パルティザンとともにワルシャワで蜂起に踏み切ったのだ。
ポーランド側は貧弱な武器しかもたなかったが、長い抑圧の歴史のなかで培われた独立と自由の希求、そして愛国の献身に支えられて、他のナチ占領地域にはみられない規模の強靱な闘いを続けた。だが、遠隔操縦戦車、高性能機関銃、火炎放射器、巨大な600ミリ臼砲などを駆使して、すべての建物を破壊しつくし、兵士・市民を問わず殺戮をためらわない独軍に対しては、この勇気ある人びとにひっきょう軍事上の勝利は不可能だった。瓦礫の山と化したワルシャワは、組織的な反乱がなかったため中世の美しい古都のまま残ったプラハとまことに対照的だ。蜂起は63日後、総計20万人の死者を記録して、10月2日、ついに降伏の調印に至るのである。
すでに敗色が濃くなった8月末から9月にかけて、旧市街に包囲されたポーランド軍と市民の一部は地下水道に逃れる。記念碑はこの姿を刻む。私たちはこの地下水道の道行きのようすを、アンジェイ・ワイダ初期の名作『地下水道』(1956年)に見ることができる。実際には2300人が他地域に逃れたとされるけれども、映画のなかの兵士や市民は、あるいは地上に辿りついたところで捕らわれ、撃たれ、あるいは疲労に斃れ、あるいは狂い、あるいはヴィスワ河傍らの鉄格子のついた出口で力つきる。ほとんど目のみえない傷の兵士にそこまで寄り添ってきた恋人は言う。「河よ(助かったわ)、まぶしいから目を閉じて」と。全篇、鮮烈この上ない胸を剔る映像である。

ワルシャワ蜂起記念碑

ワルシャワ蜂起記念碑 敗色濃く、地下水道に逃れる

ワルシャワの悲劇の最大の原因は、ドイツ軍の残虐さや戦略の不適切さや武器の優劣ではなく、どの勢力からも期待された援助・支援がなかったことにほかならない。
軍事上は無力な在ロンドンの亡命政権と、物資や武器の空輸はするイギリスなど連合軍は、蜂起を励ましながら、近接する新たな同盟国のソ連に進軍を、せめて連合軍の飛行機の給油許可を求めた。しかし、なぜかスターリンのソ連は蜂起軍の壊滅にいささかも心を痛めることがなかった。ここにソ連のおそるべきリアルポリティックスがある。スターリンはおそらく、亡命政権と蜂起軍が民族主義的で、かならずしも共産主義的でないと見通し、戦後ポーランドを意のままになる共産主義国とするために、戦後ポーランドのリーダになりかねない人材の消耗を傍観したのだ。
このアンチ・ヒューマンの政治主義は、もうひとつの想像を超える所業、「カティンの森事件」を検証しても明らかである。ナチスとソ連がまだ同盟関係にあった1940年4月、ソ連は、ナチスとの分割統治のもとで捕虜にしたポーランド軍の将校4410人をソ連東部のカティンの森に拉致し、ソ連内務人民委員部(NKVD)の手で虐殺していたのである。この殺戮を長らくナチスの所業と宣伝し続けたソ連が、自国の犯行と認め謝罪したのは実に1990年、ゴルバチョフ政権のときであった。ちなみにこの衝撃的な事件についても、時代と世代を超えて重層的にその意味を探る、ワイダ2007年のまことに重厚な秀作『カティンの森』がある。ワイダの父は殺された将校の一人だったという。
地下水道の恋人たちがよろめきたどりついた鉄格子のかなた、ヴィスワ河の対岸にはすでにソ連軍が待機していた。まだ言論統制の厳しかった1956年の映画『地下水道』ではむろんソ連軍の姿はない。しかし、ポーランド人ならば、そこに幻のソ連軍がみえるはず、とワイダは語っている。
しばらく後、ソ連はナチスを駆逐し、ポーランドを「解放」する。とはいえ、それはさしあたりヒトラーという独裁者がスターリンというもうひとりの独裁者に変わっただけだった。その点はまた後にふれる。その前に、今度の旅行でその跡をまのあたりにした、ナチスによる現代史上最大の蛮行、ユダヤ人殺戮にふれなければならない。

破壊され修復されたワルシャワ大聖堂のドア

破壊され修復されたワルシャワ大聖堂のドア

 


ポーランド紀行(3) アウシュヴィッツ

国民軍・パルティザン蜂起のおよそ16ヶ月前、43年4月19日、ワルシャワゲットーのユダヤ人たち、約数万人(当時)のなかの志願者が、対独武装蜂起に立ち上がっていた。この都市のゲットーはヨーロッパでも最大規模のもの、一時は45万人が劣悪な生活条件のなかに閉じ込められていたが、42年~43年にかけてナチスは、ユダヤ人絶滅をはかるラインハルト作戦に転じ、多くのゲットー住民をトリブリンカ、マイダネクなどの「絶滅収容所」に送りはじめていた。その方針転換が、慎重な態度だったユダヤ人たちをついに武器による抵抗に駆ったのである。ユダヤ人たちは、地下壕や屋根から火炎瓶や手榴弾で近代兵器で武装されたドイツ親衛隊(SS)軍と頑強に闘ったが、結局ゲットーを完全に破壊され、5月16日には、7000人の戦死または処刑、7000人弱の絶滅収容所送りをもって反乱は終結する。4万人以上の人のゆくえは記録にも残されていない。ユダヤ人はポーランド人からも孤立していた。それでも地下水道に逃れて生き延びた数十名は、44年のワルシャワ蜂起に加わっている。

ポーランドはもともと周辺の諸国よりはユダヤ人の居住に寛容な国であった。それゆえ、ユダヤ人は大戦前には33万人と数多く、例えば東欧の中心に位置する美しい古都クラクフには6.5万人が住んでいたという。しかし41年3月にナチスはここにゲットーを建設し、1.5万人をそこへ送り込んでいる。他は収容所送りであった。
すでに40年5月、クラクフの西54キロのオフィシエンチムに、アウシュヴィッツ強制収容所が開設されていた。そして42年、ラインハルト作戦への転換以後は、ナチスは占領した各国の街やゲットーから貨車で輸送されるユダヤ人、それにロマ、共産主義者、反ナチ活動家、同性愛者などを、まだ働ける者はアウシュヴィッツへ、働けない者は、41年10月にその近くに併設されていた「絶滅収容所」ビルケナウへと選別して収容したのだ。クラクフ・ゲットーの1.5万人は、2年後には10分の1になる。ちなみに戦後には、かつて6.5万人がいたユダヤ人街の居住は150世帯を数えるにすぎない

古都クラクフ(クラコウ)の王宮、壮麗な聖マリア教会、そしてスピルバーグの『シンドラーのリスト』のなかで収容所移送から子どもたちが必死で逃げ惑う、あの背景の旧ユダヤ人街などをみた後、アウシュヴィッツ強制収容所を訪れる。ここではビルケナウとあわせて、そのうち73%強をユダヤ人とする28民族、150万人が処刑、懲罰、疫病、栄養失調、過労などで死んだ。なんというグロテスクな、しかしなくてはならない「博物館」か。言いしれぬ無力感に胸がふさがってくる。
見せられたものだけを列挙しよう(写真はその一端である)──有名な「働けば自由になる」の門。びっしりと高圧電線に囲まれて整然と並ぶ煉瓦造りの居住棟。何枚もの写真にみる拉致される人びとのくらい表情。外された義足、眼鏡、食器、靴、鞄(やがて返されるとの約束で持ち主の名前がある)。人体実験に使われた、骨と皮だけに痩せこけた子どもたちの写真。銃殺の壁。絞首台。横になるスペースも窓もない懲罰独房。天井にチクロンガス噴射の穴をもつガス室。死体焼却炉・・・。
近くにある「絶滅収容所」ビルケナウに移る。そこは敗戦期におけるナチスの証拠隠滅のため、ほとんどなにもないが、残された建物には、粗末な木の三段ベッドの列や、ほとんどお互いの臀部がくっつくまでの間隔で穴だけが穿たれたトイレがある。心に迫るのは、広漠とした土地に死への門をくぐる鉄道引き込み線が延び、働いてから死ぬアウシュヴィッツか、すぐ命を奪われるビルケナウか、移送者のゆくえがわけられる低いホームに、一台の監視塔付の貨車が残されている風景だ。私たちはここで、家族が容赦なく引き離される映像をどれほど見たことだろう。

ここには、もともと近代合理主義の洗礼を受けた人種でも、ひとつの偏見にととらわれると、どれほど狂った行動ができるかの歴史的証明がある。夕べには美しくモーツアルトを弾き朝には平然と大量処刑を命じる将校、どんな残酷な処刑を命じられてもためらいなく命令に従う兵士が、こうした狂気に我が身を委ねた。彼らはいつしか思考する能力を放棄し、人間のモラルがなにかわからなくなっていた。その結果、それ自身は平凡な人間たちによる、おそるべき残虐行為が満ちあふれたのである。
そういうこともありうるのだという認識から、理性とヒューマニズムの信仰に対するシニシズムへの道を決して辿りたくはない。だが、そんなありふれた感想を綴っても、なんら「総括」したという安らぎはない。重い疲労感が残る「観光」であった。
ただ、ひるがえって現時点に思いをいたす。パレスティナに対するイスラエルの圧迫はいくらも批判に値するけれど、イスラエルは、アウシュヴィッツから逃れてつくったこの地の祖国を、いかなる犠牲を払っても死守するだろう。


ポーランド紀行(4)──「連帯」の紡いだ希望 2014.11.記

ツアーの一行とともにグダンスク造船所(旧称レーニン造船所)の門前を訪れたのは、5月の末日というのに小雨まじりの肌寒い午後だった。ここは1980年、抑圧的な旧社会主義国を崩壊に導く決定的な契機となった大規模なストライキがはじまり、独立自主管理労組「連帯」が形成された場所である。前の広場に高い記念碑が立つ。工場の門には「連帯」の文字を記す横断幕があり、続く塀には各国の労働団体から寄せられたさまざまの凝ったデザインのパネルがある。「連帯」の運動は当時、東欧はもとより世界の労働者にとっても、解放の期待を表現していたのだ。
ここでもアンジェ・ワイダの作品、今度は『大理石の男』のラスト近いシーンが甦る。この門前で、若い女性映画監督のアグネシカは、「大理石の男」マテウシの息子マチェックを待っていた。マテウシは、煉瓦積みの驚異的なノルマを達成して大理石の像を刻まれる「労働英雄」に祭り上げられるが、デモ作業中に不慮のやけどに見舞われたことから、反体制の陰謀の加担者とみなされて経歴を捏造され、一切の特権的待遇を奪われて失意のうちに行方不明となる。その軌跡を映像化しようとするアグネシカは、残された息子を探り当て、マテウスはレーニン造船所で働いており、後の叛乱の前駆となる1970年のグダニスク暴動で死んだことを知る・・・。これは1977年の作品であるが、私がこれを岩波ホールで見たのは、すでに「連帯」の運動が世界に知られていた80年代はじめだった。アグネシカがレーニン造船所の門前にたどりつくシーンにふれたとき、私はワイダの予見に驚き、深い感動を覚えたものである。

グダニスク造船所(旧レーニン造船所)前

グダニスク造船所(旧レーニン造船所)前

第二次大戦の後、ポーランドは、スターリン治下のソ連の傀儡に等しいポーランド統一労働者党(共産党)の一党独裁のもと、表現・結社の自由なく、人びとを秘密警察が監視する「社会主義国家」となった。民政軽視の半軍事国家でもあり、労働組合も賃上げストなど許されない統制機関にすぎなかった。東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリーなども大同小異だったたといってよい。だが、それはある意味で、冷戦体制の産物でもある。かつて愛読した傑出した政治評論家、クラクフ出身のアイザック・ドイッチャーなどの分析によれば、戦後を迎えたとき、スターリンと欧米は「平和」ため世界に不可侵の区分線を引いたのだ。すなわち東ではソ連が戦車の力で社会主義国をつくる、そのかわり西では国家が共産主義者を弾圧する、そしてお互いこの種の民主主義の蹂躙には基本的に干渉しない・・・。だから、忘れられてはならない、国ごとにバラエティはあれ、東欧諸国での一党独裁や自由・人権の抑圧と、日本をふくむ西側諸国での広義のレッド・パージとは、極と対極なのだ。
戦後しばらく、ソ連を後楯とする東欧諸国の一党独裁は容易に揺らぐことがなかった。それでもスターリンの死後にはさすがに民主主義を求める波は徐々に高まっている。例えば1956年には、東ベルリンで、厳しい作業ノルマの未達成者の賃金カットに抗議する建設労働者のストにはじまる、4万人以上が参加する暴動が勃発する。このとき在独ソ連軍と東独人民警察の弾圧で383人が死に、106人が即決裁判で処刑された。56~57年には1万7000人の死者を記録した有名なハンガリー動乱があった。鎮圧は結局、ソ連の戦車によるものだった。では、ポーランドではどうか。
ここでも、1956年6月、ポーランド発祥の地といわれるボズナンで、労働強化と給料未払いなどを契機として、「パンをよこせ!」のプラカードを掲げる大規模なデモが勃発し暴動に発展した。商店、警察、刑務所などが襲撃され、軍隊が出動。死傷者は100人を超えた。事件後、政府は経済政策を分権化するなど一定の軌道修正を余儀なくされている。そしてその14年後の1970年12月、さらには76年9月、労働者の集積するグダニスクで、やはり民政軽視、食糧の不足と価格の引上げ、低賃金、抗議行動の弾圧に抗う暴動や抗議デモがくりかえされている。死者は41人を数えた。

ある国の労働組合から贈られたパネル

ある国の労働組合から贈られたパネル

グダンスク1980年には、およそこのような先駆がある。8月14日、レーニン造船所の6000人以上の労働者は、非合法下でたゆみなく組織化運動を進めていた少数の労働者擁護委員会(KOR)のよびかけに応え、解雇された一女性活動家の復職、大幅な賃上げ、70年暴動の犠牲者を悼む記念碑の建立などを掲げて一挙にストライキに入った。その人望ゆえに自然に指導者になったのは、すでに造船所を解雇されていた不屈の電気工レフ・ワレサである。この闘いの画期性はなにか。それは、ポーランド全土の他産業・他企業での連帯ストの波を引き起こし、370の工場・事業所を代表するストライキ委員会が結成され、そこではじめて自由な労働組合の承認、ストライキ権、反体制派の弾圧中止などをふくむ「21箇条」要求がまとめられたことだ。この要求は8月31日、解決に乗り出した副首相との交渉の場でついに獲得される。9月には独立自主管理労組「連帯」が発足するにいたる。その最初の全国大会はそして、自由選挙や検閲制の廃止など、一党独裁下ではほとんど不可能視されていた民主化の政治要求をこめた「自治共和国」綱領さえ採択するのである。
しかしながら、労働運動のこのすばらしい成果に、旧体制を守ろうとする共産党政府が反撃を加えるのは不可避だった。権力側はひたすら経済危機を訴える一方、82年12月、戒厳令を発する。ワレサは「公安警察」の手で逮捕・拘留され、「東の友人」はあなたを生かしておかないと脅され、「連帯」の過ちを認めて各地に頻発するストを中止する声明を出すよう迫られている。けれども、82年11月、スターリン主義者ブレジネフの死とともに事態は急変。戒厳令は突然、解かれた。それ以降の民主化の進展はめざましい。83年ノーベル平和賞を受けたワレサは、88年~89年にかけて、ゴルバチョフのもとでソ連の圧迫をまぬかれた政府との円卓会議で、広汎な民主化を進める合意文書を交わす。そして89年11月の最初の自由選挙では、労働組合でも政党でもある「連帯」が圧勝した。統一労働者党(共産党)は「連帯」に政権を譲り、ここに社会主義政権は終焉を迎えたのだ。この党が解党するのは、ベルリンの壁が崩壊する翌年の90年、ワレサが大統領に就任するのは、その年の暮であった。

グダンスクの運河風景

グダンスクの運河風景

グダンスク1980年の意義は、社会主義政権のもとでもスト権をもつ国家から自立した労働組合が不可欠であること、そこに依る生産点での労働運動こそがおよそ民主化の基礎であることのまぎれもない立証であった。それは、この頃の日本にもまだ健康在であった公式左翼の見解──搾取のある資本主義のもとでのみ労組が必要であるという見解をほぼ粉砕する。どの体制のもとでも現場労働者のニーズを汲む労働組合が不可欠であるとする、いわば「永久労働組合主義」を長年の持論としてきた私にとっては、それゆえ、グダニスクは一つの聖地だったのだ。もちろん、組合の独自的な守備範囲と政党の国民的な課題との、当時のポーランドでは困難であった区分の問題は残っている。ポーランドでも、連帯の政治的イニシアティヴはなお安定的ではない。おそらく市場経済の導入に伴う格差の拡大のゆえであろう、95年の大統領選挙では、旧共産党系の民主左翼連合の候補者が「連帯」のワレサを破っている。しかし97年の下院総選挙では再び「連帯」が優位に立ったという。

造船所前の見学の後、1000年の歴史をもち13~14世紀のハンザ同盟で栄えた古都であり、第二次大戦での破壊を超えて美しく甦ったグダニスクの港湾運河を遊覧船でめぐる。群れをなす女子高校生など若者観光客のはしゃぎようが楽しい。この「紀行文」らしくない生硬な一連の文章のなかで、私はどれほど頻繁に、ナチス・ドイツ、スターリン治下のソ連、その傀儡政権などに抗って命を失った夥しい数の人びとにふれたことだろう。グダニスクのみごとな叛乱にしてももう35年前のことだ。さんざめく若者たちは、信じられないほどの危険な抑圧のなかで自由と平和を求めた旧世代の死者たちの上に「今」があることを顧みることがあるだろうか。そのことを語りかけたい思いに誘われるのである(「ポーランド紀行」終了)。

 

掲載写真一覧はこちらのアルバムをご参照ください。
ポーランド紀行写真集