研究会「職場の人権」が甦る

2022年3月30日

 2022年3月26日、研究会「職場の人権」は、19年8月以来およそ2年半の冬眠を経て目覚め、大阪北浜の大阪経済大学の教室で、その再生記念シンポジウムを開くことができた。ハイブリット形式で、参加者は会場で20名あまり、オンラインで全国から約30名であった。司会は、この間、再興準備の中心だった伊藤大一(敬称略)、報告者は研究者3人(萩原久美子、本田一成、私)、それに労働運動の担い手4人(POSSE・総合サポートユニオンの坂倉昇平、全国建設運輸連帯労働組合関生支部の西山直洋、大阪全労協の竹林隆、サポートユニオンwith YOUの島野正道)である。
 テーマは<「職場の人権」の過去・現在・未来>であったが、主催者の狙いは、差別やハラスメントなど労働現場での人権抑圧も「個人の責任」とみなされて孤立のうちに打ちのめされがちな労働者が、居場所と相互扶助のなかまを見いだすことのできるような、さまざまの企業横断的な労働組合のありかたの模索にほかならなかった。

 今日の大学における信じがたいほどの民主主議の空洞化(萩原)、ゼンセンの画期的な労働協約拡張の営み(本田)、東京の若い専門職・サービス労働者へのおそるべきいじめ処遇の実態(坂倉)、いま権力の攻撃のさなかにある関生支部という組合のすぐれた特質(西山)、労働相談にうかがわれる絶えざる人権抑圧(竹林)、高校生に対する労働組合というものの不可欠性についてのねばりづよい語り(島野)など、報告はいずれも興味深く、質疑・討論は実に活発だった。私の「まとめ」発言はとりとめなかったけれど、強調したかったことは、ハラスメントという抑圧が以前にもましてあまりにも恒常化していることのほか、ユニオニストたちの組織形態や「系統」を異にする他の組合の活動に対する関心であった。たとえば、西山は「私たちの直接の雇用関係のない労働者への関生支部の働きかけ」はゼンセンの協約拡張と同じ営みと語っている。本田や竹林の東京の総合サポートユニオンはなぜそのような運動ができるかの質問も注目に値する。「労働者の人権」をベースにした、多様な労働運動の担い手たち相互の交流こそが、今もっとも必要なのだ。

 私ははじめに、1999年9月に発足した<「職場の人権」のこれまで>を反省を込めて報告した。発足時の問題意識は、【能力主義管理の浸透⇒労働条件決定の個人処遇化⇒受難の「個人責任視」⇒個人処遇に立ち入らない労働組合のありよう】という連鎖のくびきに閉じ込められて、いま労働現場の普通の労働者が日常的に人権の危機に痛感しているという認識である。注目したのは、一概に「非合法」とはいえない選別的な労務のありかたであり、それゆえ、労働現場の人権問題を克服する方途として重視したのは、産業民主主議・労働組合運動の復権であった。以降20年、泰山義雄らの不屈の事務作業もあって、私たちは224回の例会をもち、記録担当の笠井弘子の献身もあって、例会の報告と討論の内容を詳しく伝える107の会誌を残している。日本の労働の状況に関する、これは分厚いアーカイヴスということができよう。最盛期には全国で会員440名を数えたこの研究会も、19年夏には、人的・財政的な資源不足、あるいは企画の限界?などによって幕を閉じた。だが、例えばハラスメントの苦しみが労働者の最大の訴えに浮上している現在――その点では皮肉にも私たちの問題意識はある意味で「先駆的」であった――「職場の人権」はやはり再興されるべきだった。伊藤大一、笠井弘子、若村青児ら、IT技術にも長けたスタッフの工夫と努力が実り、ここに再興が実現したことは本当によろこばしい。
 私自身も、研究者と実践者が協同するこのユニークな研究会から学んだことははかりしれない。私の60代、70代はまさに「職場の人権」とともにあった。最大の友人たちもそこにいる。83歳になった今、これからの研究会の企画と運営は、再起を具体化させたメンバーの方々に自然に委ねられるだろう。またしばらく併用されるオンライン方式は、以前よりも遙かに地域的に広汎な人びとの関心を呼び起こすかもしれない。
 3月26日、喫茶店での歓談を終え、畏友、伊藤正純に送られて帰途、夜の近鉄特急に乗車したとき、深い疲れのうちに、ああ終わったという感慨に胸が満たされた。春が訪れている・・・。
  *『私の労働研究』堀之内出版、2015)所収の2012年秋の段階での「職場の人権」    の中間総括も参照

その24 2021年の収穫
 映画と読書のマイ・ベスト

 その1 日本映画 
なんという映画好きなのか、われながら驚く。とくに21年は、コロナ禍で外出のイヴェントが少なくなったこともあって、劇場観賞(たいていは2本をみる)、自宅でのTV録画とDVD、そのすべてをあわせると実に200本の作品にふれている。映画というものの魅惑は語るにつきないが、例年の慣例に従い、そのうちの新作に限って「マイベスト」、をあげてみる。世評とはかなり異なる偏りは、もういたしかたない。

 今年の邦画の新作では、昨年以上に収穫は乏しかった。わずかにあげれば、ほとんど順不同で次の4作である。いずれも映画の第一の魅力である「おもしろさ」にあふれている。

 ①護られなかった者たちへ(瀬々敬久+S)
 ②ヤクザと家族{藤井道人+S)
 ③空白(吉田恵輔+S)
 ④明日の食卓(瀬々敬久)

 これらはなによりも、社会的な視野をもつストーリーが充実していており、納得のうちに感動に誘われる。①は大震災後、温かい老婆(倍賞美津子)に慈しまれて成人したかつての孤児ふたり(佐藤健、清原佳那)による、病んだ老婆の生活保護獲得をめぐる非情の役所との闘いと、その果ての凄惨な犯罪への軌跡を描く。②は、シブイ風格の組長、彼に愛されたヤクザ(綾乃剛)、その愛人(尾野真千子)、その息子相互の切実なかかわりを時代の経過のなかで辿る異色のヤクザもの。③は万引きした娘を交通事故死に追いやったまじめなスーパーの店長(松坂桃李)を理不尽に追いつめる、父親(古田新太)の再生への心の変化をみつめる。④は同じ名前の息子をもつ階層さまざまの3組の母(菅野美穂、高畑充希、尾野真千子)と子らとの複雑な関係を巧みに描いて飽かせない。
 ほかには、敬愛する好きな作家の関わる2作品、坂元裕二シナリオの『花束みたいな恋をした』(土井裕泰)と、津村記久子原作の『君は永遠にそいつらより若い』(吉野竜平)に、やはり心惹かれるところがあった。いずれも現代日本の若い世代の愛と挫折、反発と順応の交錯がくっきりと切りとられている。 
 この後、「2021年の収穫」は、その1に次いで、外国映画、3分野に分けた読書という順序で綴ってゆく。アッピールや推薦というよりは、記憶をみずからに刻むためである。

 その2 外国映画
 2021年は、洋画についても、大きな社会的・歴史的な背景をもつ壮大な名作にはめぐりあわなかった。しかし次のような作品はやはり記憶に値する。ここでも3位以下は順不同であげる。国籍は物語の舞台、使用言語、主要出資国である。
 
①悪なき殺人(仏、ドミニク・モル)
②ファーザー(米、フロリアン・ゼレール監督・原作・脚本)
③モーリタニアン 黒塗りの記録(米・英、ケヴィン・マクドナルド)
④アンモナイトのめざめ(英、フランシス・リー)
⑤プロミッシング・ヤングウーマン(米、エメラルド・フェネル)
⑥アウシュヴィッツ・レポート(スロヴァキア、ペラル・ヘブヤク)
⑦金陵一三釵(中国、チャン・イーモウ)
⑧サムジン・カンパニー(韓国、イ・ジョンビル)

①は、アフリカからのネットを駆使した女性紹介詐欺がフランス中部の寒村の孤独な5人の男女を翻弄して、思いがけない謎の犯罪を引き起こす。悲惨でグロテスクながら傑出した物語。おもしろさは比類ないが、言いしれぬ寂寥の印象を残す。②は、現実と幻想の間を彷徨う認知症の老人(アンソニー・ホプキンス)が、現実と記憶、悲哀と安らぎの間を彷徨う姿を鋭くみつめる。この種の作品ではこれ以上は望めない名作といえよう。③では「人権派」弁護士(ジョディ・フォスター)と米軍の検察官(ベネディクト・カンパービッチ)が、テロリストとみなされたアフリカ人の冤罪をついに覆して感動的。④はイギリスの海岸で古生物の発掘に生きる孤独な女性(ケイト・ウィンスレット)とロンドンの中流の人妻(シャーシャ・ローナン)の愛と離反)のプロセスを辿る。なぜか心に沁みるものがある。⑤は医学生くずれの若い女性(キャリー・マリガン)が、友人の性暴力・自殺を契機に、男たちに捨て身の復讐をする、戦闘的フェミニズムの物語。カタルシスがある。⑥では、塗炭の困難を経てアウシュヴィッツから脱出し世界に地獄の状況を訴えた二人のスロヴァキアの青年の勇気の軌跡を追う。⑦は日本では劇場公開されなかった傑作。南京事件を背景に、アメリカ人の偽の牧師が日本軍に逮捕される女子学生たちを、同じ避難所にいた同数の娼婦たちの身代わりによって脱出させるという、心をうつ作品。 ⑧は、大企業の汚染水垂れ流しの公害を、3人の高卒OLが、それぞれの仕事の精通を武器に(ここがいい!)がみごとに告発しきる。サクセスストーリー的なエンディングが少し不満だが、なんといっても爽快である。

 このほか今年は、総じて外出自粛でもあり、また今春に『スクリーンに息づく愛しき人びと――映画に教えられた社会のみかた』という、社会派的な、また自分の精神形成史的な映画評論の拙著が刊行されることもあって、シャワーを浴びるように、これまでのマイベストに属するような名作・佳作を見続けた。くわしく紹介することはできないが、ここに21年に再見した作品を厳選して、タイトルのみあげる。
 
 邦画:野良犬/切腹/私が棄てた女/流れる/悪人
 洋画:さらばわが愛 覇王別姫/ギルバート・グレイブ/ドクトル・ジバゴ/
    愛を読む人/アパートの鍵貸します/旅芸人の記録/追憶/
     テルマ&ルイーズ/ アルジェの戦い/カティンの森/蜘蛛女のキス

 その3 小説・文芸評論
 もともと小説は大好きで、毎日のように開いているが、映像エンタメに時間をとられすぎて、21年には35冊ほどしか読めなかった。それでも印象的だった作品を摘記してみる。
 ①山田詠美『つみびと』(中公文庫)――最近は家庭の悲劇的な崩壊、親子間の軋轢や児童虐待などをしかるべくみつめる佳作が少なくない。林真理子『小説 8050』、町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』、湊かなえ『未来』などすべては、その凝視を経て新しい出会いによる再生を見いだす感動的な作品だ。しかし育児放棄してふたりの子を餓死させた事件を扱う山田作品は、その母、その子、その祖母の三視点で、それぞれの事情と内面を剔りぬいて、その深さのもたらす切実さの衝撃において他の追随を許さない。もう鈍感になった私も泣き出したいような気持に誘われた。
 ②ケイト・クイン<加藤洋子訳>『亡国のハントレス』(ハーパーBOOKS)――750ページを超える大作ながら、ほんとうにおもしろい。イギリスの戦場ジャーナリスト、社交的で数カ国語を操るアメリの元兵士、ソ連軍の爆撃手だった型破りの魅力的な女性という、いずれも愛する人を喪った三人が、逃亡してアメリカの中流家庭に潜り込んだナチの虐殺者の美女を追いつめる壮大な物語。それぞれの過酷な体験も克明に描かれてゆるみなく飽かせない。彼女の養女になるカメラマン志望の娘の勇気と英知もさわやかである。
 ③永田和宏『近代秀歌』/『現代秀歌』(いずれも岩波新書)――小説ではないが、俳句や短歌の好きな私には、日本を代表する歌人の永田が、近代と現代の秀歌を選び抜き、観賞のポイントを示唆するこの二著は、この上ない楽しい本だった。なじみの短歌に出会ってはうん、うんと頷き、未知の短歌に出会っては新しい宝石の発見にうれしくなる。

 蛇足をつけくわえる。恥ずかしながら今年はじめて谷崎潤一郎『細雪』(上・中・下、新潮文庫)を読み通した。物語の骨子は三女・雪子の挫折をくりかえす縁談話であるが、率直に言ってあの姉妹はいずれも、いささか奔放な末娘・妙子をさておけば、およそ理想とか夢とかには無縁の徹底的に卑俗なもののみかたの持ち主であり、誰も好きになれなかった。彼女らの美学も共感にほど遠い。だが、それでいて、その卑俗な佇まいの、改行も句読点もあまりない延々たる描写が、なぜだろう、おもしろくて、やめられないのだ。ところで私は、この大作の最後の最後の一文が、やっとまとまった縁談で上京する雪子の下痢が、「とうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた」――であることにとても興味をそそられる。この文豪はなぜ、こんな、呪詛の込められたようにさえみえるエンディングにしたのだろうか。

 その4 一般書&専門書
 読了した冊数としてはわずか36冊ほどにすぎないが、その分野は多岐にわたっている。紹介する方法に苦しむけれど、好著の多くも省略し、私の関心の深い分野ごとに、とくに示唆的だった良書10冊ほどを、ほとんど内容の検討や批判に到らない短い感想のみを加えて、順不同であげてみたいと思う。

(1)労働問題
①今野晴貴 賃労働の系譜学――フォーディズムからデジタル封建制へ(青土社 2021)②坂倉昇平 大人のいじめ(講談社現代新書 2021)
③竹信三恵子 賃金破壊――労働運動を「犯罪」にする国(旬報社 2021)

 ①は、「ブラック企業」論で知られる今野晴貴が、たゆまぬ労働相談活動の体験と内外の労働史研究の読みにもとづいて、日本の労働問題の「現在地」、企業別組合の外に生起するある新しいストライキの特徴、これからの労働組合の組織と戦略、「ポストキャピタリズムと労働の未来」までを一望に収める野心的な力作。読み応えがある。高い評価が予想されるだけに、ここでは労働研究の「先輩面をして」あえてもう少しつめてほしい疑問点を挙げる。a「底辺専門職」と雑業的手作業を「一般労働」として一括する把握。 b「ポスト資本主義」の諸概念の具体的なイメージ。cジョブ型ユニオニズムの「労働市場規制」と新しい社会をつくる「労働の質への介入」をつなぐ環は? この結合の期待にはいささか「力業の無理」がある、 ここはショップスチュワード運動・ワーカーズコントロ-ル論の史的な追跡が必要なのではないか。本書はとはいえ、過酷な現実を労働運動の理想につなぐ、久方ぶりに遭遇した雄勁な作品であった。
 ②は、現代日本のいじめを分析するまたとない好著。この書については、後の追記{2}を参照されたい。また③は、現代日本にあまりみられないまともな労働組合、全日建連帯労組・関生コン関生支部への、国家(警察・検察・裁判所)による常軌を逸した刑事弾圧の諸相を、現場観察、インタビュー、経過の回顧など通じ、具体的な事実に即して説得的に告発する。関生支部の活動の女性非正規労働者への恩恵を重視するのも、竹信の「関ナマ」論の特徴である。

(2)日本近代の思想史・精神史
①西成田豊 日本の近代化と民衆意識の変容――機械工の情念と行動(吉川弘文館 2021)
②大田英昭 日本社会主義思想史序説――明治国家への対抗思想(日本評論社、2021)

 いずれも定評ある研究者による、方法意識が明示されたうえでの手堅く克明な史的実証の著作。今後このテーマに分け入るとき誰しも避けることのできない書物といえよう。①の筆致は硬質だが、目配りは「鉄工」の日常の些事に及んでおもしろい。②からはこれまで私があまり知らなかった堺利彦、木下尚江、田添鉄二らの「社会主義」論の意義を教えられた。ただ初出論文の再編であるため、若干のの内容の重複が気になる。
 
(3)日本の現代史が民衆に負わせた過酷な体験
 いつも忘れずにいたいこの領域では、次の新旧二著が印象的だった。
①三上智恵 証言・ 沖縄スパイ戦史(集英社新書 2020)
②石牟礼道子 流民の都(大和書房、1973)/天の魚(筑摩書房 1974)

 三上は、戦時中に沖縄の人心収攬のために陸軍中野学校から派遣された二人の将校の硬軟さまざまの働きかけの軌跡と沖縄人の対応を、視力鮮やかな複眼をもってみつめて、ふかい感銘に誘う。いのちの重みを抱えて近代「東京」の資本権力に裸身で抗う水俣病の人びとの心にも行動にも寄り添い続けた石牟礼のエッセイ集は、日本の産業社会が踏みにじってきたものを照射して、今なおそれを刺し通す力きを失っていない。

(4)そのほかの分野
①アリス・ゴッフマン<二文字屋脩、岸上卓史訳> 逃亡者の社会学――アメリカの都市 に生きる黒人たち(亜紀書房2021)
②斎藤幸平 人新世の「資本論」(集英社新書、2020)

 欧米の社会学者によるFACTSのぎっしり詰まった叙述は、これまでも私の労働研究に
とって最大の恩師だった。①は労働研究ではないが、アメリカの都市貧民窟に息づく黒人たちの生態――とくに家族、友人、恋人、そして警察官との人間関係の光と陰を、参与観察の域を超え、若い白人の女性社会学者には困難なまでの生活体験の共有を通じて描きつくす。「犯罪」が彼らの生活にもつ決定的な意味などが鋭く抉り出されている。
 世評高い②について。後期マルクスの読み方を論じる学史的な部分に私はほとんど関心がない。気候危機を(一定)考慮したサスティナブルな安定成長論とも言うべきSDGsを「大衆のアヘン」と切り捨てる立論にもなお戸惑うところがある。だが、コミュニズムを「コモンの奪還・その市民営」とする思想はまぎれもなく正当であろう。斎藤は、「脱成長コミュニズムの柱」は、使用価値経済への転換、労働時間の短縮とワークシェア、画一的な分業の廃止・作業負担の平等なローテーション、「アソシェーション」による生産手段の共同管理・労働者による生産の意思決定、そして労働集約型のエッセンシャルワーク・ケア労働の尊重――をめざすべきだという。ひそかに労働者管理・自主管理社会主義の夢を抱いてきた私は、このまっとうな理想主義にふかい共感を禁じえない。先に紹介した今野晴貴の議論にも影響を与えていると思う。

 その5 追記(1)
 ボリュームが大きくなりすぎて書物の紹介の部分には書かなかったけれど、実のところ、私が2021年にかなりの時間を費やしたのは、1984年~翌年にかけてのイギリスの炭鉱大ストライキ関係の英書4冊ほどの読みであった。この問題に関する唯一の邦文文献である早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』(お茶の水書房 2010)なども再読した。
 イギリスの「炭鉱労働組合(NUM)のメンバーおよそ10万人は、国家の政治・警察・財政権力を動員したサッチャー政権の炭鉱閉鎖・人員削減の合理化プランに抗して、刑事弾圧と貧困に耐えて1年間のストライキを敢行している。エネルギー革命、政府側の弾圧の豊富な資源、それに内部の地域的分裂もあって、闘争は敗北する。それは80年代におけるグローバルな規模での新自由主義の支配、労働運動の後退の契機であった。この闘いは、とはいえ、坑夫たちの不屈の連帯ばかりでなく、他産業の労働者、家族やふつうの女たち、さらにはエコロジストや性的マイノリティに広がった共感と助け合いの心うつ記録を残したのだ。
  1980年代は、世界的にも日本でも、現代史の転換点だったと思う。確かに炭鉱とともに坑夫の労働者としての典型性は昔日のものとなり、ストライキやピケを辞さない労働運動は少なくなった。だが、労働者の個人化、労働組合離れ、その結果としての格差と貧困が進行する今、この大ストライキの体験から、例えば日本の働く人びとが汲みとるべきものはもうないのだろうか? 伝統とは死者にも投票権を与えること、今に生きる思想とは敗者の眼を忘れないこと。そうつぶやきながら、論文執筆や刊行のあてもないのに、私は炭坑夫とその家族たち苦闘をたどたどしく読み続けた。新しい年には、イギリス1984-85年の意義について、できるならばせめて長編のエッセイなりとも記したい。それができる気力と残存能力に恵まれたい。

 その6 追記(2)  坂倉昇平『大人のいじめ』(講談社現代新書)を推す
 老いの傲慢というべきか、企業社会のひずみを批判的に考察する書物にはある既視感を覚えてしまうことが多かった。そんな私とって、POSSEや総合サポートユニオンでの相談活動の豊富な経験をもつ坂倉昇平の近著『大人のいじめ』は、いくつかの点で新鮮で、あらたに教えられるところも多い好著だった。
 本書ではむろん、物流や情報、保育や介護など、さまざまな職場での凄惨なまでのいじめやハラスメントの実例がきわめて具体的に語られている。だが、立ち入った書評ではないこの小文では、本書の特徴的な美質と思われ、ふかく共感できる諸点についてのみ簡単に記すことにしたい。 
 ①坂倉はなによりも、職位上の上役による「ハラスメント」とはいくらか異なる、職場のなかま・同僚による「いじめ」の激増を、最近の傾向として重視し、その内容と心情を考察する。私は、ふつうの人びとが日常的に属する「界隈」を支配する<同調圧力>を現代日本のもっとも危険な「静かなファッシズ」ム」的な兆候とみなすけれも、職場こそがその典型であることがここに確認される。
 ②それでも坂倉は、それゆえにこそ、ハラスメントやいじめの克服には、法律や行政や「遵法」の企業労務は限界があり、ひっきょう労働者自身・労働組合の役割が不可欠であるとする。労働政策論の忘れがちなポイントである。
 ③類書はよく、深刻な労働問題の解決は労使にとってWIN-WINであると説く。坂倉はしかし、中間管理職のハラスメントや同僚のいじめの暗黙の承認が、経営にとっていくつかの「効用」があることを指摘し、この種の説得に靡かない。それは、今ではいじめの対象が社会的な範疇の「弱者」に限られず、企業による従業員の「能力」選別や「生産性」の個別評価を前提にして、同僚が自分だけは生き延びるために「自分とは違う」と排除する「不適格者」にまで広がっていることへの洞察が可能にするものにほかならない。
 現代日本の暗部に眼を背けないならば、坂倉昇平『大人のいじめ』を読まれたい。
     (2022年1月4日編集)

その23 連合幹部の政治的立場を問う

1

 現代日本の労働組合運動に対する私の根本的な批判の要点は、①非正規労働者の被差別的処遇の改善の傍観と、②いじめ・パワハラ・長時間労働、過重ノルマ、過労死など心身を疲弊させる労働現場の苦しみを<個人の受難>とみなすことによる、組合としての連帯的規制の放棄である。くわしくは、さしあたり動画欄の短い講演「存亡の危機に立つ労働組合運動」の参照を乞いたい。しかし、このエッセイで扱いたいのは、もっとトピカルなこと、芳野友子連合会長の最近のあまりに無定見な政治的発言である。周到な準備のない思いのままの叙述である。より専門的な分析と見解をお持ちの方には忌憚ない修正や批判をいただきたいと思う。
 芳野友子は、今日、「労働問題は多様」だから、各政党とは「是々非々」でつきあいたいと述べている。皮肉にもこれは組合の政党支持自由の原則に通じる考え方であり、それはそれで正しい。だが、むろん連合幹部の真意は、立憲・国民(民主党)支持を軸としながらも、場合によっては「新しい資本主義」を掲げる自民とも手を組む(事実、トヨタ労組はその方向に進んでいる)こと、そしてなによりも共産党を排除するということにほかならない。
 枢要のポイントは、政権への接近を前提にする、最大野党・立憲の共産党との絶縁の要求である。読売新聞オンライン(11.24)「総選挙総括」の報道によれば、芳野友子はすでに総選挙の敗因として、連合はもともと共産党とは相容れないのに、今回は立憲が共産に接近しすぎた?、共産党が「のさばって」「現場の」組合員に戸惑いが生まれ、立憲の選挙運動の「動員」に混乱があった――などと口走っている。端的に言えば、芳野の連合は決定的に右傾化しつつある。ファシズム化が共産党の排除にはじまるのは、戦前日本のみならず、世界的にもいくつかの実例があることをここで想起しておきたい。

 では、連合はなぜこれほど共産党の進出を怖れるのだろうか。そもそも共産派が「閣外からの限定共闘」を前提にして、市民連合を媒介にした立憲・共産・社民・れいわの共通要求のため、選挙運動に「入り込む」のはまったく自由ではないか。思うに連合は、共産派の「動員手当」なき総じて献身的な立憲支持の選挙運動が、労働者の共産党アレルギーを中和し、連合の「反共」の大前提を揺るぐことが心配なのだ。
 いや、そもそも共産党の綱領や基本政策が相容れないのだと連合幹部は主張するかもしれない。だが仮定として、立憲中心の政権が実現した暁に、新しい政府が、閣外協力の共産党に引きずられて、共産党の綱領にあるとみなされているという安保条約や自衛隊や天皇制などの廃棄・廃止に着手すると想定するのは、例えば政権交代を超える外交の一定の連続性という政治過程の常識ひとつに照らしても、あまりに非現実的であろう。自民党がなお貼りたがる「敵の出方次第では暴力革命」というレッテルにいたっては笑うほかない。共産党はすでに一党独裁を否定する議会主義の政党である。もし、非暴力の圧倒的な質量の大衆運動が議会を取り巻き、議会が大きな変革の決議を余儀なくされる場合、それは厳密な意味での暴力革命といえないだろう。それに幸か不幸か、今の共産党は体制変革をめざす労働運動や民衆運動に依拠しようとする思想性を備えてはいない。
 共産党について、現代史上いくつかの歪みや誤りを避けられなかった故事来歴をあげることはさしてむつかしくない。また私自身も、現在の共産党については、「ジェネレーション・レフト」的な立場から、基本的な綱領上の政策にも、民主集中制の運営にも注文をつけたいところがいくつかある。だが、かつて率直な碩学R・ド-アが個人的な会食の席で語ったことだが、共産党はいまもっともまじめな社会民主主義の政党だということができる。もちろん共産党も、来たるべきあらゆる政治勢力による息苦しい包囲網を突破するためには、人びとの伝統的な疑問や危惧のイメージを払拭するために、国内外のありかたに関わる大きな路線選択について、今こそ忌憚なく真意を明らかにすべきであろう。中国や北朝鮮の非難に留まってはならないのだ。しかしいずれにせよ、くりかえせば、私たちは民主主議の名において、連合幹部の鼓吹する反共主義・共産党排除を決してゆるしてはならないのである。

 芳野友子は、とはいえ、労働界の真の権力者ともいうべき民間大単産・大企業別組合のボスたちに祭り上げられた傀儡なのではないかという気もする。ボスたちは世論の反発を予想して自分ではいえない本音を、ボスたちの意向を忖度してしゃかりきに存在感を示そうとする初の女性会長に語らせようとしているかにみえる。事実、上にみた連合の総選挙総括は、旧総評系の官公労労働組合から当然、一定の反発が予想されるだろう。
 しかしそんな私の「忖度」よりも大切なことは、上のような芳野の反共主義・共産党排除は本当にふつうの組合員の共感を得ているのだろうかということである。
 この点は、はじめに述べた根本的な批判の②にも関わる。今日、同僚のハラスメントや過労死自殺について沈黙を守るのと同様に、職場のふつうの組合員は政党選択や個々の政治課題についても、つよい<同調圧力>のなかにあって、連合や当該組合の勧めるラインとは異なる見解を自由に表明することがためらわれる状況におかれているのではないだろうか。例えば共産党の言う、例えば政党支持の自由や、最低賃金1500円論は正しいとあえて語る従業員は、暗黙の統制によって職場で「そっち系」の者とみなされ、その後ある不利益をまぬかれないように思われる。そうして口をつぐむ。この「空気」が、手当を受けとって選挙運動には動員される労働者の自立的な政治意識を空洞化させているのだ。私がそう推定するのは、野党統一候補の主張が「共産より」で危険などというボスたちの表明が、市民でもある労働者の日常意識に内面的に定着しているとは思えないからである
 私はかねがね、連合や単産は、政党選択や野党各党の個々の具体的政策について、第三者機関による匿名性の保証されたアンケート調査を実施し、その結果を公表してほしいと主張してきた。それができないかぎり、芳野友子らの政治的発言は、表現の自由を拘束した上での「労働者大衆の見解」の僭称であり、今後、その線に沿う選挙活動の資金支出は組合費の不当な流用とさえいうことができる。     2021年11月25日記

その22 2020年のマイベスト 映画と読書

 (1)日本映画
コロナウィルスが猛威をふるう2020年。映画ファンの私は新作・旧作、劇場・自宅をふくめて実に165本ほどの映画をみている。外出自粛期の最大の恵みは、アンゲロプロス、フェリーニ、ベルトリッチ、D・リーン、今井正などの名作をふくむ、まさに「生涯ベスト」に属するような作品群のDVD観賞であった。そのうち『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ)、『真昼の暗黒』/『ここに泉あり』(今井正)などについては、国公労連の雑誌『KOKKO』連載の映画評論の場でくわしくその感銘を綴っている。しかしこのFB投稿では、劇場でみた新作に限ってベストを紹介することにしよう。 日本映画からはじめる。注目に値する佳作たちであるが、③以下はほとんど順不同である。

①スパイの妻(黒沢清)
②罪の声(土井裕彦)
③風の電話(諏訪敦彦)
④許された子どもたち(内藤瑛亮)
⑤糸(瀬々敬久)
⑥MOTHER マザー(大森立嗣)
⑦朝が来た(河瀬直美)

①は、戦時下の1940年、満州で目にした日本帝国の非道を知り、それを世界に公表しようと渡米を試みる貿易商(高橋一生)が、とまどいの末、彼に寄り添って生きようとする妻(蒼井優)ともどもスパイとみなされ、悲劇的な結末を迎える物語。歴史の闇をみつめる最近の邦画には稀にみる壮大な優品。女の心の変化を表現する蒼井優がすばらしい。②は子ども時代に犯罪に加担させられた人の生きてゆく苦しみを描いてかなしくも温かい。③は東北の津波であまりにも打ちのめされた少女が、人びととふれあうなかで成熟した女性として頭(こうべ)を上げるまでを描いて感動的。主演のモトーラ世里奈がとてもいい。④と⑥はともに、常軌を逸した「毒ママ」とママが大好きな息子との相互依存を描いて切実な佳作。⑥の長澤まさみは、評判の熱演ながら、なおいささか堅い感じ。⑥は高校時代に運命的に惹かれあった平成元年生まれの菅田将暉と小林菜奈が、時代の諸相に翻弄されて多くの失敗の体験を重ねた末ついに結ばれるというメロドラマながら、古今東西を通じたすぐれた恋愛映画が共有する、変化しながらも愛し続けるという特徴を備えている。

 (2)外国映画

①異端の鳥(バーツラス・マルホウル)――チェコ、ポーランド、ウクライナ 
②存在のない子供たち(ナディア・ラバキ)――レバノン
③パラサイト 半地下の家族(ポン・ジュノ)――韓国
④コリーニ事件(マルコ・クロイツパイントナー)――ドイツ
⑤オフィシアル・シークレット(ギャリン・フット)――イギリス
⑥カセットテープ・ダイアリーズ(グリンダ・チャーター)――イギリス
⑦レ・ミゼラブル(ラジ・リ)――フランス
⑧ジョジョ・ラビット(タイカ・ワイティティ)――アメリカ
⑨ジュデイ 虹の彼方に(ルパート・グールド)――イギリス
⑩スペシャルズ(エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ)――フランス

ミクロな視点で小粒の佳作からなる邦画にくらべて、外国映画のベスト作品群は、それそれの地域での歴史的悲劇や社会の格差構造への深くマクロな洞察を背景に人間の歓びや悲しみを鋭く描き出す。例え短文でもこの場ですべてを紹介し解説することは難しいので、上位作にのみふれると、①は戦時下の東欧、②は現代のアラブ世界を舞台に、少年の過酷な受難を徹底的に抉るまれにみる秀作。映像の美しさと対照的に、リアルでグロテスクな圧迫者たちのすさまじさ、ふつうの庶民たちが重ねる差別と排除の酷薄さに打ちのめされる。③は『ジョーカー』や『家族を想うとき』にくらべればいくらかけばけばしいけれども、韓国格差社会の様相を「おもしろく」語って飽かせない。④は、ナチスの残酷さをもういいだろうと黙過しようとする現代ドイツの法曹界を告発する感動的な物語。⑤は事実にもとづく。アメリカのイラク戦争に関わる極秘通信を傍受したイギリスのNASA勤務の女性が、その反戦思想ゆえにあえてジャーナリズムに暴露する。そこに始まる周囲の非難、拘束、行為の意味を考慮した裁判の末、ついに無罪になるまでのプロセスが描かれる。毅然たるヒロイン、キーナ・ナイトレイがさわやかに美しい。現代イギリスのパキスタン人、フランス・パリのアラブ人の苦境や成長、屈しない抵抗の姿を描く⑥と⑦も注目に値する。ああ、もっと語りたいけれど。・・・。

 (3)読書――社会・人文・歴史
 
 建設運輸連帯労組関生支部への刑事訴追裁判の鑑定意見書の執筆のために、夏秋には、多くの裁判資料ほかの精読に忙殺されたとはいえ、私の2020年の読書体験は貧弱だった。小説以外の分野で読了した冊数こそ38だったものの、そのうち労働研究の専門書はごく少なく、多くはルポや新書である。しかしともかく、テーマが意義深く、視角が新鮮、情報が豊富で学ぶところ多かった良書を摘記してみよう。

①デヴィッド・グレーバー<酒井隆史、芳賀達彦。森田和樹訳>
 『ブルシット・ジョブ  クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)
②森政稔『戦後「社会科学」の思想 丸山真男から新保守主義まで』(NHKブックス)
③片山夏子『福島原発作業員日誌 イチエフの眞実、9年間の記録』(朝日新聞出版)
④橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』(河出新書)
⑤山口慎太郎『「家族の幸せ」の経済学 データ分析でわかった結婚、出産、子育ての眞実』(光文社新書)
⑥本田由紀『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)
⑦藤野裕子『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)

 ①は稀にみる収穫であった。ブルシット・ジョブ(BJ)とは、本田由紀の巧みな紹介によれば、イ誰かに媚びへつらうだけの仕事。ロ誰かを脅したり騙したりする仕事、ハ組織の欠陥を取り繕う仕事、ニ形式的な書類をつくるだけの仕事、ホ誰かに仕事を割り振るだけの仕事だ。本書は、不思議に増えてゆくBJのくだらなさを、自分でもうんざりしている担当者からの詳細な聞き取りを通じて徹底的に暴露し、その由来を尋ねる。BJよりも遙かに労働条件の悪い真に不可欠な仕事の担い手たちへの共感が調査・分析の根底にある。私たちの常識を根底から揺るがせる、これはすばらしく示唆的な必読の大著といえよう。②はとても役に立つ平易な研究史。私にも懐かしいいくつかの書物の示唆を再認識させた。③は原発作業員の実態を報告する数多い文献中の白眉である。④は橋本ワールドになれた人にはいささか新味を欠くけれど、なんといっても「このテーマにはこの人」。研究の蓄積がゆるぎない信頼性を保証する。同じことは⑥についても言える。⑤は、左派、フェミニズムとは立場を異にしながら、統計の駆使によってクールに、常識的な女性への提言を一蹴する好著。また、テーマに惹かれて繙いた⑦は、近代史における民衆暴力の光と、直視すべき破壊的な暴力や排除という陰を描いている。読後感は私にはいささか苦い。
 ほかに文芸評論の分野では、当の作家の作品を広く読んでいるわけではないゆえ短評も難しけれど、①水溜真由美『堀田善衛 乱世を生きる』(ナカニシヤ出版)、②清真人『高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り』(藤原書店)、佐藤秀明『三島由紀夫 悲劇への欲動』(岩波新書)の3点が労作と感じられた。私の好きなジャンルであり、いずれも興味深く読むことができた。

(4)読書――小説

 いつも手放すことのなかった小説の読みも少なくなって、2020年には34冊ほどだった。そのなかでとくに惹かれた作品をいくつか紹介し推薦する。 

①川上未映子『夏物語』(文藝春秋)
②ジョゼ・サマラーゴ<雨沢泰訳>『白の闇』(河出文庫)
③『セレクション戦争と文学1 ヒロシマ・ナガサキ』(集英社文庫)
④『セレクション戦争と文学8 オキナワ 終わらぬ戦争』(集英社文庫)
⑤桐野夏生『日没』(岩波書店)
⑥『平家物語』(上)(中)(下)<中山義秀現代語訳>(河出文庫

 ①はイチオシ。中年近くセックスはいや、東京でひとり住まい、冴えない作家の夏子が、いらいらさせるほどあれこれと逡巡したのち人工受精で赤ちゃんを産むまでの物語。こう書けば身も蓋もないが、そこにいたるまでの間、大阪でのどん底の貧乏をともにした寛容な姉、クールな編集者、辛辣ながら情愛ゆたかなシングルマザーの流行作家、人工受精で生まれ実父を求める心やさしい男性、厳しいフェミニストのその恋人――そんなそれぞれに個性的な人びととふれあうようすや、度しがたい男のエゴイズムに遭遇してきた彼女らのドストエフスキー的な語りの迫力がリアルでどうにもおもしろい。女が人生の過程で選択を迫られる諸課題がいかに重く複雑なものか、その思いがずっしりと心に残る。
 ②は、すでにHPエッセイ(20年6月)ですでにふれているが、感染のすさまじさ、人びとの受難の耐えがたさ、そこから這い上る希望の歩み・・・などの描写においてまさにパンデミック文学の白眉といえよう。③と④は、ヒロシマ、ナガサキ、そしてオキナワに関する数多い秀作の短編集。とくに私の心をうつ作品は、③では大田洋子、林京子、井上光晴、後藤みなこ、小田実、④では長堂栄吉、大立正裕、吉田スエ子、日取眞俊、桐山襲の作品であった。⑥についてもいつかHPエッセイでふれたように、私はいくつもの現代語訳になじんだ「平家」好きで、物語は細部までわかっているが、なお、生々流転のなかにあるすべて固有名詞のある男たち、女たちの折々の立ち居振舞いに惹かれる。歌舞伎十八番のように私の古典である。⑤は、体制の「良識」に背反する女性作家が一方的に拘束され、虐待され、転向を迫られ、精神病者にされ、破滅するというこわい物語だ。あまりの「人権無視」に、グロテスクなおもしろさを超えて心がふさがってくる。これは現在のリアルではなく近未来のSFではある。しかし果たして「今」とは違うだろうか? 桐野夏生のそんなメッセージが耳の奥にきこえてくる。

その21 『労働情報』廃刊の風土と季節

 イギリスの労働組合運動がきわめて強靱だった70年代末か80年代初めの頃だったか、私の記憶に深く刻まれているこんな出来事があった。
 ロンドンのあるブティック。女性店員Jが上司から執拗なセクハラを受け、それを拒むと解雇通知を受けた。悩んだJが親友のKにどうしたらいい?と相談をもちかけたところ、KはそのことをTGWU(運輸一般労組)の活動家だった兄に話した。TGWUは座視しなかった。ブティックの新装開店の朝、ドアを開くと、路地はそこに抗議のためシットダウンする、女性たちばかりかトラック運転手や工場労働者さえふくむTGWU組合員でいっぱいだった。ブティックは困り果て、Jを復職させてセクハラ上司のほうを解雇した・・・。
 今ではもう資料出所が定かではないけれども、私がこのエピソードにふれたとき感じたのは、こんなことも可能なのだという感銘とともに、日本ではとてもこんな連帯の発揮は難しいだろうという、あきらめの混じった羨望であった。
私たちの国でこれと類似の営みを担ってきたのは、主流派の企業別組合の組合員ではなく、地域コミュニティユニオンなど企業外の広義「ユニオン」の人びとである。その主要な役割は、解雇、賃下げ、パワハラなど、選別の労務がもたらす<個人の受難>を、団交や門前行動を通じて救うことだったと思う。その成果の度合い、個別労働紛争の解決率は、労働委員会、裁判所、労働局、労基署など公の機関よりも遙かに高いことを、ユニオンの活動家は誇りにしてよい。とはいえ、当のユニオンも知悉していることながら、「紛争」の結末は、たいてい受難の本人へのバックペイや解雇撤回や会社の謝罪であり、その人が実際にそこで働き続けることも、会社の労務の基本を変えることもできなかったという限界はまぬかれなかったということができよう。
 その限界を突破できる条件は、受難者を擁護するなかまが職場内で増えること、そうした人びとの言動の自由を外から守るユニオンがTGWUのような力を備えていることである。そう考えると、私たちはどうしても国民意識に、わけても若者たちの日常意識に、忌憚なくいえば、どう批判的に切り込むかを問われることになる。日本ではなぜアメリカのように、マクドナルドの店員のストライキに呼応して、ケンタッキーフライドチキンやダンキンドーナツの若者が街頭にあふれ出さないのか。

 若者に限らず現時点の日本のふつうの人びとは、日常的には、職場、学校、ネット上の友だち関係などの「界隈」に属している。その界隈では総じて、権力に無批判な俗論を声高に語るオピニオンリーダーに、ふつうの多数派は「KY」とみなされることを怖れ、「なにもとがったことを言わなければ大丈夫」と悟って追随する。そこには、忖度の「空気」濃厚なつよい「同調圧力」が働いている。だから、その空気のなか、人権に敏感な誰かがあるとき、追随するのはおかしいなぁと感じたとしても、(若者言葉の)「そっち系の人」とみなされれば、いじめやハラスメント、排除の憂き目に遭うと怖れて、何があっても寡黙のまま行動しないのだ。それに棹さして、街頭で政治関係のビラは受けとらないようにと「指導」するふぬけの教師もあるという。結局、労働生活の軌道を外れないサラリーマンやOL(その一部は企業別組合のメンバーだ)、教室での孤立を怖れる中高生、就職を心配する大学生、「ママ友」を失うまいとする主婦・・・などにとって、ストライキや激しい団交で企業労務に抗うユニオンや、政府の施策に抗議してデモやスタンディングをする、いうならば「労働情報系」のおじさん・おばさんは、できればかかわりたくない「そっち系」の人たちなのである。

 しかしながら、正社員の働きすぎと非正規労働者のワーキングプア化の相互補強関係に閉じ込められる現代日本の労働状況が、とりわけ若者のそれが「大丈夫」でないことは、今さらいうまでもない。そんなとき、結局は逃れられない労働の現場を働き続けられる居場所とする労働組合運動を若者が忌避し続けるとすれば、それは悲劇的というほかあるまい。また労働者に限らず、若者をふくむふつうの人びとの界隈に、同調圧力に靡く「空気」が瀰漫し続けるならば、日常生活のしんどさに深く関わっている、憲法には保障されているはずの人権尊重や民主主議の空洞化はあきらかなのだ。その空洞化はすでに、2012年頃から加速度的に進行している。
 静かなファッシズムへの接近ともいうべきこうした日本の状況のもと、『労働情報』が廃刊になるのは、ある意味でやむおえないとはいえ、深い挫折感にとらわれる。折しも私個人も、加齢のためもう発信の新鮮な感性と能力を失いつつある。とはいえ、ほとんど絶望的にこの日本の状況を診断しながらも、私はなお、香港やアメリカの若者たちの勇気に憧憬のまなざしを注ぎ続ける。日本でも2015年には、自分のこれまでのKYの姿勢こそが間違いだったのだと語る女子学生を目の当たりにもしたのである。
 あのシールズの運動でもなにも変わらなかったという思いが、若者に社会運動への希望を失わせたという分析がある。そこを考慮して、これからの労働・社会運動論は、香港やアメリカの若者の行動のような、非暴力ながらももう少し身体を張った運動形態の議論にも踏み込むべきだろう。私の夢みるところ、労働運動ではスト・サボタージュ・ピケなど、社会・政治運動では長期のシットダウンなどがそれだ。議会のルールや最低限の政治倫理すら意に介さない安倍・菅政権のもとでは、あえていえば、人びとの怒りの熱量に比例しない議会内外のあまりに「秩序」を守った抗議行動に、労働や政治の現状にわずかでも疑問を感じるようになった潜在的な運動の参加者はさして魅力を感じないのではないか。ラディカルを忌避しすぎると選挙時の得票さえ失いかねない。権力のあまりの非道がまかり通るとき、いつもはとかく秩序に靡いて抗議行動に立ち上がらない庶民たちも、ついには正義(JUSTICE)なくして平穏(PEACE)なしと思い到リもする。香港やアメリカの若者たちの「秩序紊乱」さえ一部にふくみもった生き生きとした社会運動はそうした思想の顕現にほかならなかった。そしてそれこそがふつうの人びとの心に灯をともし、両国の直近の国政選挙において、リベラル派・民主党に勝利をもたらしたのである。
『労働情報』(最終)1000号:2020年12月

その19 「外出自粛」期の読書ノートから

 2020年春から初夏にかけて、コロナウィルス感染のゆえに集会や研究会、国内外の旅行や遠出の行楽ができなくなって以降、私の主な生活時間は、ひとつには長編の名作映画のDVD観賞に、今ひとつにはやはり読書に費やされた。もっとも読んだ本は、数年前までとは異なって、なんらかのアウトプット(執筆) のために必読の浩瀚な研究書や資料ではなく、総じてどちらかといえば「軽い」多方面の一般書や小説である。貧弱な読書内容ながら、長年の習慣にしたがって、この間読んだもののベストと思われる書物のいくつかを順不同でメモしておきたい。

 (1)文学・小説
 小説はいつも手ばなしたことはないが、読後の収納場所が心配で購入するのは主として文庫本としている。しかし近年、私が読みたいと思う書物の文庫化は稀である。いきおい読了した冊数はそう多くないが、うち「おもしろかった」作品はつぎのようである。

 ①ジョゼ・サラマーゴ<雨沢泰訳>『白の闇』河出文庫( 2020)
 ②桐野夏生『夜の谷を行く』文春文庫(2020)
 ③セレクション『戦争と文学』より 『4-女性たちの戦争』
 ④同じく『5-日中戦争』いずれも集英社文庫(2019)
 ⑤『平家物語』(上)(中)(下)<中山義秀 現代語訳>河出文庫(2004)

 いわゆる感染パニックものはいくつか乱読したけれど、文学的にみて白眉はなんといっても①であった。ある国のある都市で、すべての人が盲目になるという悪疫が急速に蔓延する。主人公となる感染者のグループは強制的に拘束され、酸鼻をきわめる不潔と飢餓に呻吟し、そのうえ収容者中の暴力集団に過酷にも隷属させられる。だがそのグループのうち「医者の妻」だけは視力を失っていない。そのグループは、聡明で勇気に富む彼女のリードで連帯し、暴力集団と闘い、収容所を脱して人びとが死に絶えつつある街へ出て、奇跡の終焉の日まで生き延びてゆく。その不潔、臭気、飢餓、抑圧、諍いの地獄を描写する濃密な筆力はすさまじくリアルながら、グループを率いる「医者の妻」はドラクロアの自由の女神のように美しく、盲目の医者、娼婦、病院の事務員、労働者たちからなるグループが徐々に助け合いに向かうプロセスも美しい。そんなSF的な黙示録の世界に引き込まれた後、私たちは静かにしたたかな感動に誘われるだろう。
 ②は連合赤軍のアジトから赤ん坊を連れて脱出し、出獄後、身を潜めていた女性の変化の日々。かの永田洋子は(赤軍派に抑圧されたけれども)実は山塞アジトを女たちの母子共同体にしようとしていたのだという、ジェンダー視点の構想が注目に値する。
 ③④は、以前から読み続けてきた各巻に20篇ほどの短編・中編を編集する戦争文学のアーカイヴスのうちの2冊だ。今の価値意識をもって戦中から戦後初期の作品群を裁断するつもりはないとはいえ、戦争という人間の悲劇を抉る文学の質はやはり玉石混合である。③では、大原富枝、上田芳江(「焔の女」)、藤原てい、高橋揆一郎(「ポプラと軍神」)、一ノ瀬綾、冬敏之など、④では、日比野士郎、伊藤桂一(「黄土の記憶」)、藤枝静男(「犬の血」)、田村泰次郎(「蝗」)、五味川純平などの作品が印象的であった。とくに優作と感じた小説にはタイトルを記した。
 最後に⑤について。私はもともと『平家物語』のファンで、これまでも何種類かの訳本を楽しんできたが、「自粛」在宅の後半、読みたい小説に窮して、今回は中山義秀現代語訳「平家」に時の経つのを忘れた。「平家」のおもしろさは、事態の推移の説明はきわめて簡潔ながら、数ある見せ場での大向こうの雄弁、衣装・装備のきらびやかさ、戦闘における今ではユーモアを誘う蛮勇の立居振舞などの描写が驚くほどくわしく、読むほどに、すべて名前が明かな登場人物たちの究極の人間悲劇がくっきり浮かび上がるところにあると思う。鑑賞としては邪道であろうが、底流にある諸行無常、因果応報、、天皇崇拝、仏道帰依の世界観・歴史観など、どうでもいいという気になる。そしてそれはともあれ、読み進むうちに私は、後白川法王のおそるべき狡猾や、頼朝の果てしない猜疑や、義経の勝ち戦のためには手段を選ばぬ酷薄さが嫌いになる一方、してやられて頓死する木曽義仲、敗戦が重なって鬱になり入水自殺する平維盛、「みるべきほどのことはみつ」の情理の知盛のような敗者におのずから贔屓するようになる。俊寛の悲劇も切実きわまりなく、祇王、仏御前、小督など女性像の佇まいも深い余韻を残す。「平家」のすべてのエピソードをもうすでに熟知しているのになおおもしろい。いちど繙いてみてほしいものである。

 (2)一般書籍
 ①本田由紀『教育は何を評価してきたのか』岩波新書(2020)
 ②清真人『高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り』藤原書店(2020)
 ③森政稔『戦後「社会科学」の思想 丸山真男から新保守主義まで』NHK出版(2020))
 ④プレイディみかこ『ボクはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』新潮社(1919)   
 これら学ぶところ多かったそれぞれの作品について内容をきちんと紹介し、他の書物にはない特色を指摘した上で感想を述べるのが本当であろうが、ここでは恣意的ながら、実は私は、上のいずれにもある不満を禁じえなかったことを語りたい。敬愛する本田由紀の①は、人びとを「垂直的序列化」し「水平的画一化」しようとする日本国家の教育の思想と政策を手堅く説得的に実証しているけれども、私は、そうした国の働きかけに対応する卒業生を採用する経営者、保護者や子供たち、あるいは教師たちの消極的または積極的な受容の心情も描いてほしかったと思う。畏友、清真人の500頁を超える大著②は、高橋和巳の思想を時代背景のなかで徹底的に解剖する力作であるが、高橋の人間像が清の長年の豊富な哲学研究にもとづいていわば演繹的に規定されすぎている。たとえば名著『邪宗門』の人びとの物語を辿りながら高橋の問題意識を帰納法的に把握してゆく、いわば文学評論的アプローチを好む私には、倒叙法を多用する力強くはあれ硬質の文体を、清真人の命題を絶えず反芻しながら読み進むのはなかなかしんどいのである。
 また③は、国内外の多くの社会分析の名著によく目配りが効いており、私自身の学びの軌跡もふりかえさせられて懐かしい気持になった。この分野の絶好のテキストであろう。しかし、戦後日本の民衆の思想や生活意識が社会科学にどのように掬われてきたのかは結局わからなかった。また④は、ヒューマンで感性ゆたかな在英の母と子の、かつての強靱な階級連帯が影をひそめ、貧富の階層、ジェンダー、人種など多様な区分の間で、日常生活において言葉に気をつけなければならないほどはらはらする緊張がはらまれているイギリスでの、公立高校に通う日々を伝える興味ぶかいドキュメント。この国ではそれでも、庶民・ヤンキーの文化の表出と、「多様であること」の絶対的な価値が断固として擁護されている。そんな不思議な国でこの母と息子や教師などが失っていない生活の端々での思いやりにときにじーんとする。好著である。ただ、やはり読みやすさと裏腹にエピソードはとりとめなく、やや軽いという印象はなお残るのである。

 とはいえ、これら良書に対するある意味「ないものものねだり」の不満は、私がいま本当に読みたい・学びたいと思っていることは満たされていないという思いの反映でもある。 私個人の関心は、とくに80年代以降の日本のふつうの労働者の精神史、意識や心性の軌跡である。端的には、労働組合・労働運動の思想史といってもよい。とくに80年代以降およそ40年にわたり、日本の民主主議の議論のなかでは、産業民主主議というものの独自的な価値がほとんど顧みられず、したがって労働運動の脆弱さは、国際比較的にみても際立ってきたかにみえる。それはなぜか。その背景や軌跡を尋ねたい。
 私の乏しい知見では、日本の思想論・精神史の叙述は、60~70年代のニューレフト・全共闘の問題提起、労働運動についてはおそらく考察したことのない丸山真男や吉本隆明の言説で終わってるように思われる。岩波書店の2015~16年刊行の全九巻シリーズ『人びとの精神史』が、「大文字でないふつうの人々の精神史」を標榜し、100人以上の個人のいきざまを扱いながら、そのなかに堅気のサラリーマンやふつうのユニオニストや「消費者」が、私の寄稿した1篇を例外として、登場させていないことは象徴的でさえある。
なぜ国民や市民ではなく(組織・未組織を問わず)労働者なのか、なぜ、80年代以降なのか。ここで述べるいとまはないが、森政稔の本に間接的に触発されて読み返した古い文献、私の初期の労働研究にほとんど決定的な影響を与えた論文を紹介したいと思う。ご存じだろうか、ダニエル・ベル<岡田直之訳>『イデオロギーの終焉――1950年代における政治思想の涸渇について』東京創元新社(1969)所収の「マルクスからのふたつの道――社会主義思想における疎外、搾取、ならびに労働者による統制の諸テーマ」である。 それは、マルクスにおける<搾取⇒失業と貧困の凝視⇒一党独裁の政治革命>という公式のルートとは異なる、<疎外⇒労働そのものの凝視⇒労働者の自主管理>という系統に属する思想の軌跡――1910~20年代ヨーロッパにおける力強い台頭、ソ連におけるその無残な圧殺、その興隆と挫折が現代労働運動に残した示唆・・・を語る雄渾な内容をもつ。終わり近くベルは言う、「労働組合が労働過程に挑戦するなら、社会全体への根本的挑戦を要求されるだろう」。「要求の流れが上から課せられた強制ではなく、労働者自身から生じなければならない」。「労働者の抗議というかつての社会主義的・人道主義的伝統の遺産を再び受け入れるならば、市場ではなくて、職場そのものが労働のペースとテンポを決定する中枢でなければならない」。今では墓どころさえ定かでない古い理想主議である。しかしそれは、今なお労働組合運動が顧みるべき思想の酵母である。

その18 コロナ感染拡大と生活・事業の支援

 コロナウィルスが猛威をふるう今、賃金が保障されて在宅勤務のできる正社員や私のような退役の年金生活者は、多少の鬱屈はあれ、とりあえず安んじて外出を自粛できる。だが、続けられねばならない医療、介護、日用品小売りなど必要不可欠のサービス供給のために通勤して働く人びとの健康不安はどれほど大きいことだろう。この問題はあらためて考えるとして、もうひとつ、①人員削減で雇用契約を失った日給制の非正規労働者や派遣社員、②要請される休業で収入が激減した小規模事業者および個人事業者・フリーランサーなど、「日銭」を稼げなくなった人たちの生活危機という、まことに深刻な問題がある。
それら安んじて家にいることのできない人びとにとって、ようやく5月末に始まる(1回だけの)一律10万円給付(正確には税金の還付だ)は、あまりにも乏しい生活費の補填というほかはない。

 もちろん、もう少し長期的な補償の制度や措置もあるにはある。融資・貸付の容易化を別にして主な給付に的をしぼれば、①に対しては、労基法に会社の判断による従業員の休業には、正規・非正規を問わず、直近3ヵ月の平均賃金の6割以上の休業手当を支払わねばならないという規定がある。そして企業に休業手当の支払いが出来るように今回、大企業は支払額の4分の3、中小企業は10分の9の助成を受けられる、雇用調整助成金制度を一時的に拡充する措置がとられる。売り上げが5%以上減っても従業員を一人も解雇しないことが条件である。しかしその実施の日はなお遠く、厚労省は近く(?!)その詳細を示すという。私の危惧するところ、手続き面倒なこの助成を受けるくらいなら非正規労働者の人員整理を選ぶ企業も少なくないだろう。
 ②に対して用意されているのは一種の営業支援であって、売上げが今年1~12月で前年同月にくらべ50%以上減った月があった中小企業に限度200万円、フリーランスをふくむ個人事業者に限度100万円を給付するという。50%以上減った月の売り上げが1年続いたと仮定し、前年の売り上げとの差を上の限度内で給付する。経産省はこれから事務局を設置して電子申請システムを整え、申請を受け付ける。給付は早くても5月後半からであろう。これも手続きには時間がかかりすぎる。その上、個人事業のフリーランサーには、それまでの収入水準が不安定で、その確定・立証が困難な場合も多いだろう。いうまでもなく企業が推進してきた「雇用者」の(労働法の適用を受けない)個人事業者への置きかえが、その結果としてのギグ的・ウーバー型の働き方の普及が、ここにきて、休業がフリーランサーの受難に直結する状況を生み出しているのだ。ちなみに、都道府県によっては休業要請に際して支払われるという50~100万円の「協力金」は、上記の国レベルの営業継続支援とどこまで併用できるのだろうか?

 朝日新聞2020.4.20付によれば、カナダでは、コロナの影響で仕事を連続14日失えば、月2000カナダドル(約15.4万)を 最大限4ヵ月、一律に(フリーランスをふくめて)支給される。フランスは、外出禁止直後に、売り上げが前年同月より7割減少した個人事業主や小企業に、月1500ユーロ(約18万円)を支給する。この7割はほどなく5割になり、倒産の危機にあれば月2000ユーロの追加もあって、結局5000ユーロに引き上げられた。そしてイギリスでは、3月末、休業になった雇用者やフリーランスに当面3ヵ月、最大限、平均の賃金・収入の8割、月2500ポンド(約34万円)が支給されるという。これまで伝統的に賃金に減額補填をしてこなかった新自由主義の政府の、それは画期的な政策転換であった。

 もっとくわしい国際比較が必要であるとはいえ、以上を概括して気づくことは、私たちの国の(端的に言って)「コロナ補償」は、諸外国と同様にもう無視できないフリーランサー、ウーバー型労働者をいちおう包括するものとはいえ、充実にほど遠いままである。第1に、緊急事態宣言から2週間後にようやく実施の手続きをはじめたという著しい遅れを否定できない。第2に、その支給水準は乏しく、しかもイギリスのような継続的な支給が確定していない。そして第3に、手続きの過程に企業の雇用区分による処遇格差の評価が入り込むことによって、正社員以外の労働者が満額の支給から排除する可能性をふくんでいる。
 そしてつけくわえたい――暦年の公共部門と公務員の削減が、医療現場、介護現場だけではなく、官庁・役所にも保健所にも人員不足を招いており、そうでなくても遅れがちなさまざまの申請の処理を、やむなくいっそう滞らせつつあるかにみえる。いくつか難しいハードルはあれ、この際、仕事や収入を失った非正規労働者、派遣社員、アルバイト、フリーランサーらを、いま不可欠な公共部門の補助労働に臨時雇用することも考えられてよいと思われる。いずれにせよ、コロナ感染という試練は、世界的な規模で「小さな政府」論を見直させ、公共部門の意義を再確認させるはずである。

その17 読書ノートから、2020年冬

 2020年冬。「社会」から要請される専門仕事の責務はずいぶん少なくなった。2月8日に主宰してきた『市民塾<ひろば>イin四日市』が閉幕し、10.~11日に厳寒・積雪の北海道大学へ講演と学生ゼミ講評に出かけた後は、3月半ばまではかなり自由だ。だからこのところは読書と映画三昧の日々になる。映画はすでに劇場とTV録画・DVDあわせて20本くらい見ているが、映画については次に回して、今日は、多くは文庫や新書ながら、12冊くらいあてどなく読み上げた本のうちから2冊だけを選んで推薦したい。

 小説では、集英社の『戦争と文学』シリーズの1「 ヒロシマ.ナガサキ」。文庫本ながら785ページの大著で、16の中・短篇といくつかの詩歌が収められている。すべてはそれぞれにすぐれた作品であるが、わけても、大田洋子『屍の街』、林京子『祭りの場』、中山志朗『死の影』などは、原爆投下の8月6日、9日とその直後の人びとの被曝による酸鼻を肉体の崩壊と心に巣くう底知れぬ不安を描いて 、私たちをあらためて衝撃に打ちのめす。また、井上光晴『夏の客』、後藤みな子『炭塵の降る町』は被曝者が余儀なくされるすさまじい生きざまをえぐりとる。第5福竜丸の漁民の受難を克明に綴る橋爪健『死の灰は天を覆う』は、戦後反核運動の原点を顧みさせる。
 わけても刮目させられたのは小田実『「三千軍兵」の墓』だ。小田はドイツの強制収容所でのユダヤ人の死、太平洋のクエジリン島で玉砕した日本兵士の死、かつてその島の日本軍の基地建設に動員された朝鮮半島、台湾、東南アジア、島民の死を尋ねて、ひとしく「三千軍兵の墓」に祀る。そして戦後、アメリカは、このブラウン環礁でなんども水爆実験を行って多くの島民を放射能被曝の死に追い込みながら、そうした累々たる屍が重なるクエジリン島にミサイル基地を建設したのだ。小田の思いはさらに阪神大震災の死者たちにも及んでいる。このような時も所も超えた膨大な死者たちの運命を広角レンズ風に視野に収める、庶民の「難死」を反戦の原点にすえる、小田の思想の広さと深さに、深い感動を覚えずにはいられない。
 『戦争と文学』は、記憶すべき過去のアーカイヴスではない。それは平凡な言い方ながら、現時点の「国民必読」の書ということができよう。

 社会・人文科学の分野では、竹内洋『大衆の幻像』を、竹内自身による「大衆の実像」の把握が放棄されているかにみえる点で物足りなく思い、橘玲『上級国民 下級国民』のあまりのいいかげんさにうんざりした後にやっとめぐりあった橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』(河出新書)のみが白眉だった。
 この分野の第1人者、橋本の本書の内容は、すでに読んだことのある2009年および2013年(増補)の『「格差」の戦後史』(河出ブックス)と基本的に同じだ。敗戦から50年代に始まり2010年代に及ぶ<格差>と<階級>の構造と動態が辿られる。本書での修正や加筆はどこか私は検討していないが、今回、新著を通読して学び直し、あらためてその充実ぶりに驚嘆した。無駄のない必要にして十分な叙述。数多いいくつかの命題をどこまでも数値的に立証する手堅さ。格差をつくる多様な要因摘出の視野の広さ。格差の定点的観察とともに、人びとの今のステイタスの肯定と否定に深く関わる階級・階層移動の状況を考察する方法・・・。400ページに及ぶ大著で、ときにまた、それぞれの命題の説明は新書にしては詳しすぎて、読者をもっと端的な断定を求める気にさせるかもしれないけれど、これはまことに「この人にしてこのテーマ」と納得させる、第一級の専門的新書といえよう。終わり近く358-59ページに一表にまとめられた「5つの階級のプロフィール」は、現代日本の構造に関するすぐれた総括表であり、現代日本を語るとき必携の資料ということができる。いつも思うことながら、階級・階層と格差の認識なき日本論・日本社会論はひっきょう虚妄だからだ。
 前回エッセイに書いたように、私は今、非正規労働者にもなれない(失業者でもない)無業者の世代を超えた膨大な累積を凝視すべき課題だと考えている。本書もそこにふれてはいるが、私のこれまでの企業社会論に由来する関心では、無業者がしばしば求職の意欲も失うまでに精神的に打ちのめていることには、正規、非正規を問わず、彼ら彼女らが企業で働いていたときにおける過酷な体験が大きな役割を演じていると思われる。求職意欲を失う無業と企業での就業時の体験との関係性を、橋本には90年代の「企業社会」と「会社主議」を扱う8章2を引き継いで、後章でももう少し論じほしかったという気がする。とはいえ、これは私の好みに偏した、本書の論旨の流れにあまり沿わない「望蜀」の注文かかしれないけれど。いずれにせよ、この本読みは、もう怠惰になっている私にとって久しぶりの勉強であった。

その16【市民塾<ひろば>in四日市】をふりかえって

 2020年2月8日、17年4月から隔月(偶数月)に開いてきたささやかな市民学習会【市民塾<ひろば>in四日市】(以下、「市民塾」と略)がひっそりと幕を閉じた。
 ここで、3年間の軌跡としての綜合テーマ、例会ごとのプログラムをふりかえってみる。
 *R=報告者(所属機関のみ表示))、C=コメンテーター(第1期&第2期)

第1期(2017年4月~18年2月) 「私たちの日常生活と人権」
①女性の生きがたさ ■R・坂倉加代子(四日市男女共同参画研究所)
②貧困者の生存権はいま ■R・深井英喜(三重大学)
③学校のいじめと友だち関係 ■R・山田潤(元定時制高校教員・元関西大学講師)
④サラリーマンの表現の自由――私の銀行体験から ■R・猿爪雅治(名城大学)
⑤過重労働とパワハラ――自死に誘われる若者たち ■R・熊沢誠(塾代表)
⑥大学生の生活と意識 ■R・粟田菜央&山口由貴(三重大学学生)

第2期(2018年4月~19年2月) 「私たちの隣人――無理してるけどがんばってる」
①シングルマザーのゆとりなき日々 ■R・当事者/C・水野有香(名古屋経済大学)
②老親介護のため離職して ■R・予定の当事者は欠席/C・津止正敏(立命館大学)
③仕事と家事・育児の両立はやはりむつかしい? ■R・当事者/C・石田好江(愛知  淑徳大学)
④生活保護受給者のリアル ■R・村田順一(寄添いネットワークみえ)/C・深井英  喜(三重大学)
⑤この日本で働くということ――外国人労働者の体験 ■R・神部紅(みえユニオン)  /C・艶苓(中京大学)
⑥若者の就業――「使い捨てられ」も「燃えつき」もせず ■R・熊沢誠(塾代表)/C  ・橋場俊展(名城大学)

第3期(2019年4月~20年2月) 、女たちの夢と現実――<女性学>入門
①若い女性として生きる――その希望としんどさ ■R・貴戸理恵(関西学院大学)/C  ・山口由貴(三重大学大学院)
②家事・育児・介護の担い手は誰? ――「これまで」と「これから」 ■R・深井英喜 (三重大学)/C・佐藤ゆかり(三重の女性史研究会)
③男女関係にまつわる多様な性暴力 ■R・禿あや美(跡見学園女子大学)/C・坂   倉加代子(四日市男女共同参画研究所)
④貧困化する女性たち――状況、背景、改善の方途 ■R・北村香織(三重短期大学) /C・水野有香(名古屋経済大学))
⑤専業主婦・パートタイム・正社員――それぞれの自由と鬱屈 ■R・熊沢誠(塾代表) /C・石田好江(愛知淑徳大学)
⑥風雨つよくとも屈せず――韓国女性労働者の闘い ■ドキュメント『外泊』上映』/C  (解説文寄稿)・横田伸子(関西学園大学)

 小規模ではあっても、継続的な市民塾の運営にはさまざまの作業が欠かせない。会場設営や資料プリントや司会の作業は、無償で会場を提供したNPO法人・四日市男女共同参画研究所に集うわずかの女性たちによるところが大きい。案内郵送と受付と会計処理はまた別の女性スタッフの担当であった。しかし、企画――具体的なテーマ、報告者・コメンテーターの決定、運営ルールの策定、それにはがき案内・配付資料・例会後の「事務局総括」などの文章作成は、ほとんどすべて代表の私が引き受けた。だから市民塾の内容については全面的に私の責任に属する 以上のテーマ設定にも、私たちの(というよりは私の)塾を立ち上げるに当たっての、当初からの次のような問題意識が色濃く反映している。
 現時点の日本のふつうの人々は、日常的には、職場、学校、家庭、地域などの界隈に属している。その界隈はふつう、いつもの俗論を声高に語るボスと、処世のために「KY」とみなされることを怖れる穏健な多数派で構成されている。そこに立ちこめる忖度の「空気」が強力な「同調圧力」になっている。それゆえ、その空気のなか、人権に敏感な人びが「慣行」をおかしいなぁと感じたとしても、寡黙なままなのではないか。そしてこの同調圧力に反発することで被るある種のいじめや排除に意義を申し立てる「大胆な」発言や行動を結局、放棄してしまっているのでないか。ふつうの人々の間に広がる同調圧力に靡くこの「空気」こそに、日常生活のしんどさや、憲法には保証されているはずの人権尊重や民主主議の空洞化に危機がひそんでいる・・・。
 それゆえ私たちは、「日常の界隈」に生きる「ふつうの」寡黙な人びと、しんどい思いをかかえる、どちらかといえば恵まれない人びとに注目し、彼ら、彼女らの自由な発言を制約している困難な問題をリアルを凝視したうえで、その状況に風穴を空ける手がかりを探ろうと試みたのである。

 運営の方針にもある工夫があった。通常の講演会では講師の語りが長く、質問機会も限られ、その解答もまたくわしすぎて、フロアに欲求不満が残ることが多い。だから市民塾は、報告は1時間に限り、コメントテーターが論点を引き出し、一問一答型式を避けて、できるだけ多数が発言できるように努めた。この運営方式は、討論が多く論点に立ち入ることが特徴として評価された「職場の人権」の体験から学んだことだった。ちなみに会員の年会費は2000円、折々の参加費は500円、会場カンパはなし。講師には5000円、コメンテーターには3000円を、交通実費のほかに支払うことにした。もとより極端な薄謝であったが、幸せなことに、近隣はもとより、東京、大阪、京都、名古屋、津などの、その分野の有力な専門研究者、あるいは問題の当事者の協力を得ることができた。
 しかしながら、組織的な情宣力の乏しさもあって、市民塾は大きくは育たなかった。会員はほぼ30名以下、例会参加者は25~40名に留まった。それぞれのテーマについて大切な論点は総じて指摘されたけれども、フロア討論ということに不慣れな参加者の多い討論はなお不十分で、発言の立ち入った応酬は不十分だったと思う。毎回の学習はそれなりに有意義だったと自負できとはいえ、いささか理想倒れの市民学習会だったかもしれない。ふっつの講演会のほうは気楽だと感じる人もきっとあったことだろう。
日常の界隈における同調圧力のなかでの自由の逼塞という状況は、いま2020年、ますます際立っているかにみえる。その危機は、「令和の御代」と五輪・パラリンピックの「国民的」祝賀ムード、あれほどまで欺瞞と無責任と国政の私物化を続ける安倍内閣の存続、労働組合運動の抵抗の極端な衰退、DVやいじめの蔓延・・・などにまことに明瞭である。それなのに、わずか3年で市民塾を閉じるのはいかにも心残りではある。とはいえ、私など旧世代に偏ったスタッフのいっそうの高齢化あるいは繁忙、新鮮な企画をつくる感性の鈍化、それに遠方から有力な論者を招聘しうる財政の貧弱さ、会計の赤字などのゆえに。情宣力の乏しい市民塾のこれ以上の存続は難しいと判断するほかはなかった。これまでさまざまな協力を惜しまれなかった報告者、コメンテーター、例会参加者の方々には深く感謝したい。
 ここに、ささやかな市民学習会の軌跡と、なお古びてはいないと自負する問題意識(日常のリアルな界隈における自由な発言の逼塞)と、運営方針およびその反省点などを、【市民塾in四日市】の記録として留めおきたいと思う。四日市の地でなくとも、世代を超えるなんらかのグループが、新しい創造的な感性をもって、日常のリアルを見つめる新たな市民塾を組織されんことを願いつつ。

その15「令和の御代」にも「不安定下層」のやりきれなさは続く

 平成期が労働の世界に残した働く人びとの間の明瞭な格差構造。その下層には、働いて生計を立てる「労働者」といえないほど不安定な「下層」の大きな累積がある。
 この不安定「下層」の最大グループは、「常用」か「臨時」かでいくらか差はあれ、およそ180万円前後の年収、国民年金のみ、未婚者の多い、2018年には2120万人を数える非正規労働者である。若者だけではない。就職氷河期のころ就職を試みた年齢層をふくめて、今では非正規雇用のうち35歳以上が40%、55~64歳だけでも22%を占める。そこに広義の「心の病」から「働けない」ひきこもりの人びとが加わる。これも約55万人とされる若者だけではない。19年春の厚労省調査では、40~64歳のひきこもりは実に61.3万人であった。またNHKは最近、老親介護の体験などを経て働く気力を失った中高年「ミッシングワーカー」が、完全失業者を遙かにうわまわる103万人にのぼることを報道して大きな衝撃を与えた。景気変動的というより構造的な「下層」形成である。 
 これにはむろん、正社員よりは非正規労働者を好んで雇う一方、長時間労働・過重ノルマ・督励や指導の域を超える上司のハラスメントによって若手従業員を「メンタルヘルス不全」に追い込み、そのあげく退職させる、企業の選別的な労務管理の役割が大きい。雇用口があっても働けない人が続出するのはそのためだ。けれども、現代の「下層」の不安定には、そこにもうひとつ、従来、生活危機へのクッションであった家族の変貌がかかわっている。人口高齢化、少子化、未婚率と離婚率の増加などの複合作用による単身世帯の激増、それが複数家族の低所得の合算によってなんとか生計を立てることを難しくしているのだ。片親と十分に稼げない子からなる世帯の苦境も同様に深刻だ。シングルマザーの貧困率の際立った高さや「80-50問題」の果てしない鬱屈が、それを立証している。
 「令和の御代」にも、こうした不安定「下層」のしんどさが改善される方途はみえない。そればかりか、さしあたり生活の安定した正社員層をこの「下層」に振り落とす選別の労務も続いている。1500円の最低賃金、身分・経歴を問わない普遍的な社会保障の確立、うずくまって寄る辺ないひきこもりに向きあう行政の相談活動、個人の受難にどこまでも寄り添う労働組合の営み。だが、考えうるそうした対策の実行に寄与できる「労働者」の連帯はどこかに芽吹いているだろうか。それがわからない鬱屈と焦慮に、私はとらわれる。

              みやび出版『myb』終刊号:2019年10月より転載