その10 2016年秋の憂鬱

 今月21日、私は78歳の誕生日を迎える。このところのメランコリーな気分もひとしおである。
 今年になってからとくに、体力や気力や記憶力の衰えを痛感している。幸せにもどこといって内臓や足腰の不具合があるわけではないけれど、例えば長時間、睡眠や勉強や歩行を続けることができなくなった。同年齢の、なんであれ行動をともにしてきた妻もまた、物忘れが多い、速く歩けないなど、衰えを訴える。これまでのような「行動する老カップル」のありようをいつまで続けられることだろう。恥ずかしながらこのごろは駅の階段など手を携えて降りる。どちらかが転んでどこかを痛めて寝込んだりすれば、と心配だからである。
 恒常的な憂鬱の原因は体力の衰えばかりではない。もっと根本的な要因は、大学退職後も10年ほど研究や分析や著作の執筆などを日常の営みとしてきた私に、社会的な発信を試みることはもうあきらめ、余暇が中心・「毎日が日曜日」の生活に徹する覚悟がまだできていないことかもしれない。
 今でも月に一度ほどは講演やシンポジウムの機会に恵まれ、労働組合運動、若者労働、パワーハラスメント、教師の労働状況、過労死・過労自殺の根因などについて語る。少しもお変わりなくお元気とは言われる。読書意欲はまだ旺盛である。しかし今ではテーマもさほど系統立っていないし、総じてアウトプットを予定しないインプットの勉強である。研究者としての私に社会的な発信の機会はもうあまりない。要するに社会から課せられる仕事が少ない。それだけに小説や映画を楽しみ、海外旅行に出かけ、反戦・憲法擁護・反原発の市民運動に参加する時間のゆとりは享受できる。けれども、仕事の充実もあって余暇も楽しいという、かつては生活全体をカバーしていた漲りは望めないのである。
 もちろん、世間の人びとには、私に依頼される仕事が少なくなったことなどどうでもいいことだろう。私の労働に関する発言のいわば「賞味期限切れ」にはしかるべき理由がある。そのことを嘆くのはある意味では傲慢かもしれない。おとなしく引退すればいいのだ。だが、私的なホームページではあっても、ここであえて憂鬱な気分を綴りたくなるのはほかでもない、上の「しかるべき理由」のうちには、おそらくおよそ60~70年代になにかを感じて思想を形成し、いま高齢化を迎えた多くの左派インテリゲンチャ(しばしば「オールズ」ともよばれる)が共有する、現代日本の趨勢についての暗い認識があるからである。それは安倍政治の下における、もともと日本の庶民の歴史意識の「古層」ともいうべき「つぎつぎに(おのづから)なりゆくいきほひ」(丸山真男『忠誠と反逆』所収論文)の顕在化だ。私個人の嘆きはどうあれ、そこから生まれる社会のなしくずしの右傾化だけは、批判的に検討され、対抗の契機が探られなければならない。

 一挙に卑近なレベルに降りて、ここで対抗の契機に関わる論点をひとつだけ述べよう。
 民進党の代表選挙を前にして3人の候補者は、ニュアンスの違いはあれ、競い合うかのように共産党との間に距離を保ち、参院選での「野党共闘」をこれからは見直すべきだと語っている。かねてから民進党の有力者のなかには、共産党のもつ政治行動における「足腰」、政財界に手痛い情報秘匿の暴露、党内一致の徹底性--それらの強さに対する密かな怖れがあって、例えば、共産党と協力すれば民進党は「シロアリに食われる」「軒を貸して母屋を取られる」・・・といった怯懦な発言がみられた。そして参院選挙後は早くも、一人区での野党共闘に一定の成果があったにもかかわらず、上のような危惧がこの党ほんらいの反共主義(反共産党主義)を再び目覚めさせているようである。「共産党とはもともと国家像が違う」、「協力すれば民進党の支持層が逃げる」・・・といった声もきかれる。 そうした、自信のない民進党を制度的に支えるのはほかならぬ労働組合の公認団体「連合」であろう。組合内部では反主流の組合活動家の言論をファッショ的に抑圧し、民進党の選挙演説会には動員手当つきで組合員を派遣する連合系組合は、民進党右派と同様に、共産党とは国家観が違うなどと口走る。嗤うべきだ。現在の連合、そして民進党右派のどこに、大企業と日本経済の成長、そのトリクルダウンとしての福祉の改善という路線をいくらかでも超える体制論・国家像があるだろうか? ちなみに 少なくとも発足時の連合の政治路線は、「ヨーロッパ型の社民勢力の結集」であった。
 憲法擁護・反戦平和の課題はしばらくおいて、青臭い政治談義を試みるなら、経済大国日本での現時点での基本的対立軸は、経済政策と職場の労使関係を縦貫して、新自由主義(競争によるやみくもの経済成長・アベノミクス)VS.社会民主主義(働きすぎと貧困に本格的に挑戦する格差是正の構造改革)にほかならない。そして認識すべきことに、現在の共産党は、「プロレタリア独裁」を放棄して議会主義・立憲主義と複数政党制を方針としているゆえ、基本的には、かつて共産党が敵視していた社会民主主義の党なのである。
 私は共産党に対しては、どのレベルの党人も政策表明や運動の総括の場合まったく同じ主張を表明する、つまり過度の統一性が見られる、という点が不満だ。学術と文化の受容についてもまじめすぎて、ユニークで異端的な表現者の登用がほとんどなく多様性を欠く。しかしながら、貧困や格差や職場に頻発する人権権抑圧などの摘発、市民運動や街頭キャンペインへの献身などをみれば、この党の具体的な主張のまっとうさと行動の真摯さは疑いを容れない。自民党政権が最大の敵を共産党とみなすのは当然であろう。そして民進党は、共産党との距離を言い立て、野党共闘を放棄することによって、すなわち社会民主主義から離れることによって、その程度に応じて自民党の協力者に堕するだろう。端的に言えば、ようやく芽生えた野党共闘を忌避することで、民進党は自民党との争点を喪い、国民はこの党を独自に支持しなければならない理由を見失う。
 もっと多方面からの考察、例えば「暮らしのなかの憲法の実在と不在」といった領域の凝視も不可欠であろう。けれども、以上の文脈に即して、とりあえず野党の喫緊の課題を語るとすれば、ひたすらのエコノミックアニマル志向をベースにして多くの国民が安倍政治の先導する「つぎつぎになりゆくいきほい」に巻き込まれつつあること、そのことへの警戒とチェックにほかならない。民進党による「反共主義」の克服はその第一歩である。すでに学校やマスコミや自治体では、体制批判の表現の禁止または自粛が進んでいる。杞憂だろうか、この先にさまざまの公共空間からの共産党の実質的な排除が来ないとはいえない。これは「いつか来た道」であるが、戦前、戦中とは異なり、その形態は、40年代~50年代、「赤狩り」のアメリカのようになるだろう。
 では、この「つぎつぎになりゆくいきほい」は、いつの頃から再び(60年代~70年代とは違って)現時点の日本に顕在化してきたのだろうか。私は日本の現代史における精神史、大衆意識の軌跡を探る勉強を、あてどないとはいえ、細々とはじめたいと思っている。
 (2016年9月15日)