その17 経済・社会体制論の試み

 前回の末尾、この連載は「その16」をもって幕を閉じると記した。しかしその後、狭義の労働問題研究ではないにせよ、ソ連崩壊の直後、さまざまの文献を集中的に精読し、懸命にまとめた私なりの「体制論」を、今ふりかえっておく必要があると思うようになった。そのころの私論が、最後の著書『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動のレジェンド』(旬報社、2023年)の最終章「思想的・体制論的な総括」の内容に直結していることに気づいたからでもある。
 ソ連・東欧の社会主義諸国の崩壊のなか、左翼論壇は、ではこれからどのような経済体制を選択すべきかについて根本的に考え直すことを迫られていた。その頃、属していた大阪の研究者・労働運動実践家が協同する「社会主義理論センター」でも、その視点を定める目的で長時間の討論集会が開かれ、中岡哲郎、山口定の両氏とともに、私も主要報告者の一人になった。そのことが、それまでこのような「大状況」について論じることのなかった私が逡巡ののちこの大きなテーマに挑戦した契機である。『国家のなかの国家――労働党政権下の労働組合.――1964-70』(日本評論社、1976年)などそれまでのイギリス産業社会の研究をふまえて、労働問題の枠を超える広汎な分野の懸命の勉強を経て試みたこの講演は、労働研究者以外の方々の間でも予想外の好評だった。当時の社会党構造改革派のグループに招かれて語りもしている。そこで私は講演録を、徹底的に修正・加筆したうえで、1993年刊行の『働き者たち泣き笑顔――現代日本の労働・教育・経済システム』(有斐閣)に収めた。いまふりかえっておきたいのは、この本の最終章「よりヒューマンな経済社会システム――体制の選択・序説」の概要にすぎない。 

 私の特徴的な関心は、社会主義、社会民主主義(ソーシャル・デモクラット、以下SD)、新自由主義(ネオ・リベラリズム、以下NL)など、代表的な体制論の系譜とか定義(理想型としての「本来論」)ではなかった。どの体制も深刻な矛盾や問題点をはらんでいると感じていたからだ。私はもうユートピアはないという前提で、その頃10年~15年ほどの各国の体制変動のなかで浮かび上がってきた、否定できない、どれも蹂躙また無視することが許されない諸価値を摘出することから出発した。諸価値は次の「4指標」に具体化される。
 ①人びとの自由、とりわけ表現と結社の自由
 ②混合経済の不可避性。生産性向上とともに価格が下がりうる「普通材」を市場競争を通じて供給する民間部門と、供給が限られており、かつ誰であれその享受ができなければ人権を損なう、インフラやライフ・ラインのサービス(稀少財、人権材)を供する公共部門のと共存。わけても不可欠な公共部門の護持
 ③社会保障(公的補助や社会保険)の安定的な水準維持
 ④狭義の議会政治にとらわれない民衆運動、とりわけ労働組合運動(産業民主主義)の自由の承認
 この確認から導かれる「よりヒューマンな体制」は、私見では戦後ヨーロッパの、とりわけ左派政党の政権担当時にみられた社会民主主義(SD)であった。これにくらべれば、既存または現存の社会主義国では、③はともかく、まず①において完全に失格である。実質上独裁の共産党の施策――例えばロシアのウクライナ侵略――に異議を申し立てる人びとやメディアは、無数の挙例を待つまでもなく徹底的に弾圧され、基本的に表現・結社の自由はない。④についても労働組合は国家機関と化し、民衆の街頭行動も暴力行使や逮捕の憂き目に遭い、しばしば政府・党から独立しているとはいえない司法によって有罪とされ投獄される。②に関しては私に正確な知見はないが、ピケティらの『世界不平等レポート2018』によれば、ロシアや中国で「上位10%の所得が国民所得に占める割合」は41~46%である(ちなみに北米は47%、ヨーロッパは37%)という。それはおそらく党員の高級官僚や「財閥」の特権が、まっとうな市場競争をゆがめるとともに格差と不平等を固定化させている社会なのである。
 一方、80年代以降、欧米の福祉国家的な要素を後退させてイギリス、アメリカ、日本、など先進諸国の政権を奪取した新自由主義(NL)は、社会主義の崩壊によって90年代にはいわば「ひとり勝ち」であった。では、このNL席巻のもと、上の「4指標」はどのような扱いになっただろうか。
 反全体主義の「民主主義」を謳う限り、NLも「4要素」を制度として公然と否定することはできない。しかしながら、国によっていくらかの違いはあれ、NLは「小さな政府」、企業間・個人間(労働者間)競争の開放と規制撤廃、成功・不成功の自己責任論・・・を核とする思想である。ここから②領域での公共部門の民営化、民間委託、③領域での「甘すぎる」支出制限は当然の帰結であった。そして④領域では、個人の能力や努力よりも「衆の力」つまりなかまとの連帯に頼る民衆運動は忌避せよという道徳律が鼓吹された。非暴力であっても「行きすぎた」デモの弾圧や、大規模なストライキの規制、 産業民主主義の制限が正当化されることになる。
 NL浸透の深刻な帰結のひとつは、具体例を挙げるまでもなく80年代以降にどの国でも顕著になった(ジニ係数の高まりに代表されるような)所得と資産の格差拡大と、貧困者の累積であった。そしてもうひとつは、格差拡大と自己責任論による庶民の孤立化・アトム化であり、連帯行動への結集の緩みだった。成功者の支持するNLの道徳律は、それ不成功者をふくむ多くの人びとのやむおえない生きざまとなってゆく。こうして多くの先進国で組合組織率は低下し、ストやピケなどの産業内行動は衰退、少なくとも沈静化した。要するに、NLは、「4指標」を真っ向から否定したとは言えないまでも、それら諸価値のもつ役割を減殺し、それらを空洞化させたのである。
 以上から、私はとりあえず結論する―― 否定しえぬ「4指標」のいずれをも蹂躙することなく、その意義や価値に固執しようと苦闘した「よりヒューマンな経済・社会体制」は、端的にいえば社会民主主義(SD)にほかならない。

 講演録「よりヒューマンな経済社会システム」は、「4指標」の理想を描くのではなく、生起するさまざまの難問を指摘してもいる。そのひとつは、「4指標」それぞれが内部にはらむ幾多の意見対立である。現時点のこともふくめて考えれば、例えば、➀表現・結社の自由については、ある人びとの人権を損なう唾棄すべきヘイト発言やフェイクに満ちたSNS発信をどこまで禁止するかが論争点になるだろう。③社会保障にしても、医療や介護の保障の財源を国庫(税金)とするか社会保険料とするか、金銭またはサービスが支給される資格としてのナショナルミニマムをどの水準に設定するかについて、大きな選択の幅がある。こうして最低賃金額とか公的補助としての生活補助の基準や貧困層の補足率などは、「福祉国家」のなかでもかなり格差をもつわけである。
 意見対立によってもっとも選択の幅が大きく変動を免れないのは③混合経済の領域である。社会民主主議(SD)の下でも、政府は財政逼迫のとき、市場経済への規制を嫌う経済界や可処分所得の増加を求めて増税に反対する中・上層国民の圧力に応えて、公共部門の圧縮に赴きもする。そもそも、サービス供給のどこを公共部門に、どこを民間企業にするかの議論についての論争は限りない。SD勢力のなかでも右派、左派の対立は否定できず、「保守中道」の右派が力を得ることがあれば、政府は、新自由主義(NL)に接近して、人権材の供給も、平等な安定的享受の危うい市場競争・利益志向の民間(委托)企業に委ねがちなのである。その結果は教育や医療や安寧の享受における階層間格差の拡大にほかならない。、
 いまひとつの、より深刻な問題は、「4指標」のいずれも蹂躙しないとすれば、それゆえにこそ政府が逢着する「4指標」間の共存の困難である。例えば③社会保障の継続的な充実は、国家財政を逼迫させ、②領域で、公共部門の「人権材」供給の護持という原則を後退させ、それを民間(委託)企業に移行させる可能性がある。②と③の間に矛盾が生まれるわけだ。だが、もっとも共存がむつかしいのは、国民経済の健全さ、インフレなき成長をめざす政府と、産業内行動・産業民主主義に執着する強靱な労働組合との間であう。NLの先駆者たるイギリスのサッチャーと炭鉱労働組合との1年の闘いはこの共存の困難を象徴している。けれども、本来的に 草の根の産業民主主義を否定するNLのみではない。SDの政権にとっても、「つよすぎる労働組合」は国民経済の運営にとってまことに厄介なのだ。そこでたいていのSD政権は、労働三権は護持しながらも、労働組合を国民経済に配慮する、つまり 産業民主主義を万能視せずに産業内行動を慎重に抑制する組織に導こうとする。現在の日本はNLのなかまにほかならないが、労働組合運動がすでに他国に例を見ないほど労使協調に飼い慣らされているゆえ、政府は資本主義経済を運営する労苦を大いに免れているといえよう。

 思えば「インフレは民主主義のコスト」(グンナー・ミュールダール)という見方はまことに真実をうがっている。国民の各層、労働者や貧困層や年金生活者などの強靱な要求行動に規制や禁止がなければ、政府は紛争を避けて譲歩せざるをえない。分権的圧力の合力の結果がインフレになるというわけだ。敷衍しよう。75年以降、戦後社会民主主(SD)の性格を帯びた先進ヨーロッパ諸国の「イギリス病」ともいわれるスタグフレーション(インフレ高進+失業増加」)の原因のひとつは、「4指標」、➀表現・結社の自由、②エッセンシャルな公共部門サービスの護持、③社会保障の充実、④自由な市民運動や労働運動の承認――そのいずれをも無視または蹂躙しなかったことにあるかにみえる。あわせてイギリスのように規制なき要求行動が「官民横断」であったことも見逃せない。「4指標」のすべてを尊重することが生産性向上や成長を鈍化させ、SD政権の国民経済の運営をもたもたさせたのだ。企業間・個人間の競争を至上とする新自由主義(NL)は、SDのこの資本主義経済のパフォーマンスの衰えをついて、支配の座を奪ったのである。そこで現出した産業社会が「4指標」のいくつかを空洞化させたシステムであることはすでに述た。
 ヒューマンな諸価値に固執したSDの、それは栄光ある敗北であった。しかし私たちは、資本主義経済のパフォーマンスの優越をもって望ましい体制と評価することができるだろうか? その後NL支配下での格差拡大、貧困層の累積、自己責任論では救われないアトム化した庶民が連帯の要求行動を容易に見出せない鬱屈、産業民主主議の衰退などを体験するなか、すでに90年代半ばには、日本を例外とする先進諸国においてSD志向が再生しつつある。SDが再生しても経済運営はやはりもたもたするだろう。けれども、ヒューマンな諸価値・「4指標」すべてを、相互のコンフリクトや、妥協を余儀なくされる紛争なく満たしうる「大思想」を唱えることはもうできないのである。
 「マルクスが構想した本来の社会主義は・・・」とユートピアを語ることは空しい。サッチャーにとって攻撃の的は「Socialist Britain」であり、トランプの放言?では統一的な医療保険の主張者は「過激な社会主義者」なのだ。それが今ここにある現実である。しかし、その現実の政治では、多くの人びとのニーズにもとづく社会運動や総選挙によっては、NLがSDの、SDがNLのある要素を取りこむことが十分にある。とはいえ、思想的にはやはり両者は峻別される。資本主義の経済運営がより効率的な新自由主義か、よりヒューマンな価値に固執する社会民主主義か。私たちはひっきょういずれかの選択を迫られている。   

その16 非正規労働者――被差別の状況を超えて(2024年12月6日)

 パートタイマー、アルバイト、契約社員、派遣労働者などの非正規労働者は、2023年には雇用者の37%、男性でも22%、女性では54%にもなる。正規雇用者に対する非正規雇用者の賃金格差は、時給で2021円vs.1337円の66%、年収で531万円vs.306万円の58%(22年厚労省)という。だが、この場合の非正規従業員は多少とも常用的な人びとであろう。年収が200万円に届かない不安定雇用の非正規労働者が数多く存在することは、年収200万円以下のワーキングプアが労働者の22.9%になる(国税庁調査2023年)ことからも明かなのだ。不安定雇用・低賃金の非正規労働者こそは、累積する貧困層の中心的な地層であることは自明である。
 ちなみに相対的貧困率(所得の中位の半分以下の人の比率)は21年には15.4%で、Gセヴンのなかの最高位である。日本は今や堂々たる貧困大国であるといえよう。

 2018年5月、自民党安倍内閣(当時)は、①残業の法的制限を主内容とする長時間労働の是正とともに、②「同一労働同一賃金」(以下EPEW)の導入による非正規労働者の処遇改善を図る「働き方改革」を唱えた。そのゆくえは、①長時間労働の是正も高度プロフェショナル制度の導入にみるようにかなり欺瞞的であったが、②はいっそう空疎だった。以下、横田伸子/脇田滋/和田肇編著『「働き方改革」の達成と限界――日本と韓国の軌跡をみつめて』(関西大学出版会、2021年)寄稿の最近の論文「安倍内閣「働き方改革」の虚実」をベースに議論を進めよう。
 安倍晋三は当初「日本から正規・非正規という言葉をなくしたい」と揚言した。なんという舞い上がりようか。そんなことが政府にできるなら苦労しないと、私は苦笑を禁じえなかった。安倍はこの差別的な雇用形態が、日本企業の労務管理の重要な堡塁であることがわからないほど鈍感だった。企業側はしかるべく安倍のEPEW論を一蹴したのである。
 企業は、正社員Aと非正社員Bが日常的に遂行している仕事が同じであっても、両者を同等に評価し同一賃金を支給することは決してない。Aの職務にはしばしば財務上または人事管理上の「責任」が付加されているからだけではない。Aの仕事は明日のキャリア展開のための経過的な課業とみなされるが、Bのそれは総じて「袋小路」の担務なのだ。Aがはじめからフレキシブルに働きキャリアを歩む従業員として「期待」されて採用されているのに対して、Bはそのように「期待」されることなく、必要に応じた定型的または補助的な働き手handsとして拾われているのである。両者に同じ賃金決定ルールを適用することは企業にとって不合理なのだ。こうした雇用形態・採用方針・人材活用の従業員間の差別は、分業配置上および経営コスト上、大きな企業利益をもたらす。ここには企業利益と能力主義的選別の間にあるwin-winの関係はない。雇用形態差別の経済性は、がんばれる女性を旧来の性差別意識ゆえに活用しないことの非経済性と対照的でさえある。
 この財界の堡塁を前にして、安倍晋三はいつしか、EPEWとか非正規雇用の撤廃とかを謳わなくなる。のちの法制が、非正規労働者の処遇改善において、賃金、賞与、その決定方式を統合する改革は姿を消し、休暇・休日取得、福利厚生などにおける可視的な差別の是正のみを規定するに堕したのも当然であろう。そして正社員を組織する企業別組合がこうした道行きに異を唱えることもなかった。
 
 近年の講演などで私がよく用いた分析軸は、ときに過労死・過労自殺にいたるまでの正社員の心身の疲弊と年収200万にも満たない非正規労働者の貧困との相互連環・相互補強関係であった。非正規の貧困体験を経た人は、ようやく正規雇用として採用されると、課せられる過重労働を拒むことなく引き受ける。だが彼ら、彼女らはしばしば過重労働ゆえの心身に不調を来たし、退職してまた非正規労働市場に入ってゆく。被差別雇用をくりかえすうちに求職の気力も失うかもしれない・・・。正規雇用と非正規雇用は地続きなのだ。いずれにせよ、はじめから正社員就職できなかった人をふくめて 非正規労働者男女の部厚い層が堆積しつつある現状である。
 このことから次のように言える。第1に、非正規労働者と正社員それぞれのしんどさは表裏一体のものである。状況批判は両者を同時に視野に入れる必要がある。第2に、非正規労働者の問題は、どちらかといえば女性においてより深刻であることは確かながら、それはすでにノンエリート男女に共通する問題にほかならないことだ。
 では、ノンエリ-ト男女に共通するこの受難に対して、どのような改善の方途が考えられるだろうか。当の非正規労働者の選択に応じて方途はふたつである。
 
 特定の企業や職場への定着を望む常用型の非正規労働者は、やはり正社員化をめざし、正社員としての処遇の平等化を、なによりも賃金体系・賃金決定方式の正社員との統合を求めるべきであろう。従来の非正社員も一般職正社員の昇給線を辿る。職務の違いはあっても、彼ら、彼女らはすでに多くの産業で「その作業なくしては業務遂行ができない」という意味での基幹労働である。正社員としての拘束性や上昇の「天井」はあるにせよ、昇給・昇格・キャリア展開が閉ざされているのは、まことに不平等にほかならない。
 けれども、どの企業、どの職場でも働ける非正規労働者は、専門技能の有無を問わず、非正規雇用のままでいい、しかし物乞いのような求職と食えない賃金は絶対に拒む、それゆえ、非正規雇用も働き続け生活できるまでの「自立」を求める途を追求する、そんなありようを追求したい。そのために必要なことは、企業外でみずからが打ち立てた一定の働くルールや賃金、職種別レートや最低賃金を、そのとき働く企業に持ち込ませるのである。
 空理空論ということはできまい。現在でも、労働条件の水準をさておけば、地方労働市場の実情に応じて多くの企業や公共部門でそのような処遇がなされている。残されている課題は、「企業外でみずからが打ち立てた一定のルールや賃金」を、その慣行に加えることである。それができるためには、欧米の一角にみられるように、彼ら、彼女らが産業別または職種別労働組合に加入し、またはそうした企業外組合の連帯を構築し、個別企業また業界を相手とする団体交渉や要求行動を実践できる思想をわがものとしなければならない。その萌芽は、図書館司書・非常勤教員など公共部門専門職の連帯行動、コミュニティユニオンの協同による非正規春闘の展開、ファストフード店員・アマゾンスタッフ・自動販売機係員など労働条件改善行動、大都市での最低賃金即時1500円獲得などの共闘に現れている。それらは可能性としてまことに広大なフロンティアをもつ。ここに希望がある。
 ふたつの途に共通する非正規労働者の状況改善のため日本に不可欠の労働運動上、政治・行政上の戦略ポイントは、前回「女性労働」で述べたところといくつか重なって、すでに十分に意識化されている。
 まずもって、企業のいう労務管理視点の「同じ労働」論議にとらわれない「同一価値労働同一賃金」論。職務評価によってそれぞれの賃金額の「正当な格差」を設定するこの手法を用いれば、しばしば男性の半分ほどの女性の賃金は8割ほどには高まるという。例えば、この理論に立脚して商社について克明に職務を分析した森ます美、木下武男、居城舜子、高嶋道枝らの報告書(ペイ・エクイティ研究会『商社における職務の分析とペイ・エクイティ』1997年)によれば、男性と女性の正当な(その水準に是正されるべき)賃金格差は、100vs.89であった。この格差是正論はむろん、雇用形態間の賃金格差の是正にも適用されるべきなのである。
 また、日本ではなお不在の、非正規雇用が許容される条件を規定する「入り口規制」の法制化が絶対に必要だ。ドイツや韓国では厳しい許容条件があるのに、日本では非正規労働者の「活用」は企業の思いのままである。さらに、今日、枢要のエッセンシャル・ワークであるのに、経営状態が零細で、雇用や契約の枠組みが多様で、処遇があまりにも劣悪なケアワーカーのありように鍬入れがなければならない。この不可視の草の根の働き手の公務員化を視野に入れた労働条件と生活水準の公的保障が喫緊の課題といえよう。
 いずれにしても、正規・非正規の差別の「堡塁」は、社会運動の性格を帯びた労働運動によって撃破されなければならない。堡塁のなかの城兵がさしあたり撃破に加担することはない。とはいえ、彼ら、彼女らのノンエリート化した層は、拘束感とともに将来不安も抱えており、より社会的な保障を求めてもいる。堡塁が揺らげばひそかな謀反が期待できるかもしれない。

 私なりの労働研究キーワードを手がかりに、とりとめなく精粗さまざまに綴ってきた<労働研究回顧>は、これでいちおう幕を閉じることにする。多少とも私に独自的なコンセプトは、主として60年代~90年代までの案出であり、2000年代はじめの上記<正社員の心身の疲弊と非正規労働者の差別と貧困の相互>をもって、ほぼつきたからである。
 2010年前後、私はいずれも岩波書店から、それまでの研究を集約・総括するような著書をいくつか刊行している。多様な格差を内包した労働状況を全体的に分析した『格差社会ニッポンで働くということ』(2007年)、長年の労働組合研究のすべてを網羅した『労働組合運動とはなにか』(2013年)、そして企業社会における労働者の極北の受難、過労死・過労自殺を凝視して、個人体験のレベルにまで降りて克明に辿った『働きすぎに斃れて』(2010年、2018年「岩波現代文庫」に収録)である。けれども、それらは、産業民主主義の復権へのあくなき執着、<強制された自発性>を軸とする労働者の主体性の重視、労働者個人と階層全体との往還的考察など、研究史の初期・中期に培った思想や分析視角を、手放さず彫啄して貫いた作品にほかならない。方法論としての新しさはない。研究者は「処女作に向かって成熟する」という。「成熟」した自信はなく、もっと考究したい多くのテーマを抱えたままながら、以上をもって連載を閉幕とする次第である。
 なお、本格的な労働研究から撤退した後、私はさらに2023年まで、市場性は乏しいけれど、長年の読者からは「いかにも私らしい」と愛好されもした3冊の本を出版している。これらについては、しかし書くとすれば、<労働研究回顧>の補論とすべきであろう。

その15 女性労働へのアプローチの軌跡(2024年11月25日)

 研究史の初期、1960~70年年代から、私は「3M」(男性、肉体労働、製造業)への関心限定という日本労働研究への批判はまぬかれていたと思う。
 勉強をはじめたころ、私は訪問・見学したいくつかの労働現場、東芝の汎用モーター組立、繊維工場の精紡・粗紡、総理府統計局の電子計算操作、電電公社の電話交換、あるいは銀行窓口などで、膨大な数の女性たちが、まさに基幹労働としての単純労働、清掃などの補助労働の不可欠の担い手として、この産業社会を支えていることを心に刻んだ。そのときふと思ったのは、なぜ彼女らは、このようにつづけてゆくことがしんどい単純労働や補助労働を引き受けてくれるのか、ということだった。イギリス労働社会学のある文献で、単純労働を続ける中年女性が「こんな仕事は男にはさせられない、気が狂ってしまう」と語るのを読んだときの衝撃を、なぜか忘れられない。その優しさと矜持にうたれたのだろうか? 分業の位階序列それぞれに「ふさわしい」とされる人びとを安定的に配置することが体制の不可欠の要請である。そう考えるとき、すでに雇用者の30%以上になっていた女性労働者の存在は、私にははじめから黙過できない考察テーマだったのだ。1972年の『労働のなかの復権――企業社会と労働組合』(三一新書)がすでに、この分業とジェンダーの関係、支配層の仕事配分にとっての女性の不可欠性を明示している。
 とはいえ、その後の私は、この連載「その5~その13」にうかがわれるように、やはり男性中心の労働組合論と労働者像の考察にしぼっている。けれども80年代半ば、企業社会における労働者の受難の具体的な記述を重ねるなかで私はあらためて、分業配置論の枠組みを超えて全体的に女性労働の諸相をはじめてきちんと描く必要性を痛感するにいたる。こうして執筆されたのが、1984年の『歴史学研究』誌を初出とする「女性労働者の戦後」(『職場史の修羅を生きて 再論 日本の労働者像』筑摩書房、のちに『新編 日本の労働者像』ちくま学芸文庫、1993年に収録)である。この論文の執筆時には、近代以降の女性の歴史、ドキュメント、裁判記録、そして女性を活写する数多の小説を精読・乱読した。あれほど「女性」について多様で広汎な読みに耽ったのは研究史の上でも稀である。

 この論文は、経営者の<受容の論理>と労働者の<供給の適応>をかみ合わせるという方法論によって、職場内外の性別分業に深く規定された女性の仕事、職場、意識、それまでの性差別に対する抵抗の戦後史を辿っている。<単純労働-低賃金-短勤続>という私なりの女性労働「三位一体」の状況把握や、<男は上位職務へ・女は家庭へ>という単純労働からの性別脱出ルートを定式化したのも、この論文においてである。もっともこの時期、すでに資本は、主婦パートの「活用」をはじめており、女子雇用者の有配偶比率は60%近くにもなっていたけれども、女性の非正規雇用化という、次の時代の最大の課題についてはなお十分に考察は及んでいない。
 特記すべきことに、この執筆時、私は遅ればせながら田中美津『いのちの女たちへ――取り乱しウーマン・リブ論』(田畑書店、1972年)の洗礼を受けている。田中はマルクス主義の女性解放論が認識を階級対立に収斂させる惰力として、労働者階級のなかにも厳存する男の女に対する支配に盲目になる傾きを鋭く指摘した。一方、一部のエリート女性も「よき妻、よき母」の自覚もまた、男に評価されることを誇りとする「女の歴史性」のなかにある。こうしてリブ派は、人間として生きがたいゆえにぶざまに「取り乱す」無名の「ドジな女たち」に寄り添い、男社会を駆動する効率と差別の論理を撃つ「おんな」性を確立しようとする。
 田中美津が語っているのはすべて本当のことだ。感銘を受けた。この立場の正当性は、後の新自由主義に対する対抗性においてもなお輝きを保つだろう。とはいえ、私見では、その情念の豊かさにも関わらず、リブ派は「無名の女たち」が生涯、担うほかない仕事についてはなにも語らなかった。おんなの論理の視野は、労働と職場のありかたに関する根底からの批判、生産点における性別分業の克服論、男と女の新しい協同のイメージにはいたらなかたようである。リブ派はまじめなキャリアーウーマン、仕事に後ろ向きの事務OL、働き者の主婦パート、総じて単純・補助労働を「被差別者の自由」をもってやりすごす女性たちを、それぞれどのように評価し批判するのだろうか。正当にも無名の女たちに依拠することと、悲劇的にも労働のイメージを欠くことの矛盾に立ちすくむのは、どこまでも労働ということに執着する私のみだろうか?

 それからおよそ15年後に刊行された『女性労働と企業社会』(岩波新書、2000年)は、この枢要のテーマをめぐる私の再度の挑戦の試みであった。
 その15年ほどの間には、能力主義管理の進行に連動した男女雇用機会均等法とその改正、やがてその比率が50%を超えるまでの女性労働者の非正規雇用への集中、しかし他方では住友三社のヴェテランOLたちの仕事内容・昇格・昇給の性差別に抗う裁判闘争の展開などがあった。これまでの性別役割分業と企業内の性別職務分離の大枠はなお「健在」ではあれ、その変容は明かであった。
 そんな変容を汲んで2000年の著書は、広く「企業社会のジェンダー状況」、「男の仕事・女の仕事」(性別職務分離の論理と実態)、「女性自身の適応と選択」、「ジェンダー差別に対抗する営み」を網羅している。それらの内容の詳細は省略するほかはないけれど、分析視角として、私が重視したのは、その1には、能力主義管理・改正雇均法のもとでの女性労働内部の階層分化であり、その2には、上の分化に応じた女性労働者の主体意識、労働観・生活意識の多様化であった。それぞれ一枚岩の<男VS女>の時代ではもうなくなったのである。
 その1。企業は雇均法を梃子に、従来の性別待遇の非効率性を克服する能力主義管理を一挙に進めようとしていた。能力主義管理とは、「人材」として「だめな男とできる女の交換」にほかならない。こうして、「ぱっとしない」中高年男性がそれまでの優遇の特権を失うとともに、高学歴の意欲的な女性の一定層が総合職や専門職として台頭するようになった。「一定」というのは、新時代でも、住友三社の裁判の軌跡が明らかにしたように、総じて女性の能力発揮の機会や条件がよく整備されたとはなお言いがたいからだ。しかし女性はすべて単純労働や補助労働に閉じ込める企業の慣行は崩れた。仕事そのものにやりがいを感じる「エリート」女性が増えつつあったことは否定できない。 
 とはいえ、この新しい労務管理は、従来、「高望みすることなく」それなりに安定的に単純労働や補助労働を担ってきた正社員OL層を、派遣・契約などの非正規雇用者のグループに追い込む。この層に、家事・育児・ケアとともに家計補助の収入は確保する多数の主婦パートを加えて、しばしば貧困を強いられる下層女性労働者が、ここに累積することになる。もとより、上述のエリート層よりは、このノンエリート女性労働者層のほうが遙かに分厚い存在なのである。
 その2。エリート層のうち、それほど仕事の効率性は問われない対人サービスの専門職の場合をさておけば、事務・企画・営業などの総合職に勇躍し進出した女性たちについては、その意識は能力主義的競争の肯定であり、「もう男だ、女だって言ってる時代じゃない」、性差別はすぐれて学歴や能力や「やる気」の違いから来ると考えがちだ。確かにこの時代の性差別は、基本的には性差そのものよりも能力主義的選別が生み出すものになったとは言えよう。女性エリート層はむろんジェンダー差別に批判的だ。だがその反差別は、上野千鶴子/江原由美子編の『挑戦するフェミニズム』(有斐閣、2024年)が、現時点の課題としてグローバリゼーションとともに批判の対象とする新自由主義的フェミニズム(リーンイン・フェミニズム)に傾斜する。また同書に寄稿する金井郁が、課題とするのは、「能力」の機会と内容の内実を問う日本企業の能力主義管理への批判にほかならない。
 一方、多数派のノンエリート女性労働者層は、やはり、次のような「新性別分業」システムのうちに閉じ込められている。
【男性】①主に正社員/②長期雇用と昇給と相対的高賃金/③長時間労働/④主として総 合職・管理職/⑤仕事態様の柔軟性/⑥家事・育児・介護の免除】
【女性】①非正規用の高い比率/②短勤続・昇給の停滞または欠如・低賃金/③家庭の事 情で「選べる」労働時間/④主として単純労働または補助職/⑤雇用量の柔軟性(企業 都合の雇用調整)/⑥家事・育児・介護の義務――加えて家計補助の稼ぎ】
 上の定式の「主として」という部分に旧体制のいささかの揺らぎは認められるかも知れないが、なおジェンダー差別の牢固たる厳存は疑いを容れない。あまりにも過酷な個人の体験は司法や行政によって救われることはあれ、非正規雇用者の比率が高い彼女らは、ジェンダー差別に挑戦する労使関係的または社会運動的な方途をもたず、可能なかぎり<被差別者の自由>を求めながら、総じて鬱屈の毎日を過ごしている。エリート層とは異なり、ノンエリ-ト女性にとっては「いつになっても男は男、女は女よ」というのが実感なのである。
 くりかえせば、ノンエリート女性たちは、家庭では家事・育児・ケアの圧倒的割合を引き受け、ある「息抜き」にはなるという職場での底辺作業を担う。家庭と職場を貫くこの性差別がなお日本の企業社会にとって枢要のものであることを彼女らは覚っている。だが、さしあたりどうしようもないのだ。2000年までノンエリト女性の意識を探ってきたあげく私には結局、彼女らは家庭でも職場でも「私が今ここで耐えればとりあえずすべては収まる」という、いわば我慢を心ばえに生きているように思われる。その「我慢」はおそらく、なお「ガラスの天井」を痛感するエリート女性層にも共有されているはずである。

 それからすでに四半世紀を経た現在まで、さらにいくつかの状況変化があった。その結果、プラス・マイナスを差し引きして、女性の生活はさらに厳しくなっているように思う。
 家事や育児やケアを顧みない男性サラリーマン規範が揺らぎはじめたことはある。けれども、より決定的には、昇給停滞ばかりか非正規雇用化が、女性に留まらず、男たちの職業世界にも広く深く浸透し、女たちを差別するかわりにそれなりに保護し扶養してきた男たちの経済力が著しく減衰した。経済的な理由による未婚率の高まりや単身世帯の増加もその反映である。一方、男たちの貧困化にもとづく焦りと鬱屈は、核家族の内部にも新たな緊張を醸しだし、DVの激増や育児放棄や離婚の増加をもたらしている。
 このような社会と家族の内部的な変化によって、女性の働く主たる目的が、従来の家計補助から家計支持に変わった。シングルマザーを典型例として、今や女性は自分の稼ぎで食ってゆかねばならなくなったのだ。だが、労働運動の衰退もあって、ひたすら非正規雇用の拡大に奔る企業が許す賃金は、そのような女性の生活ニーズに応えるものではなかった。結局、以上の総結果は、ノンエリートの女性労働者を代表とし、冴えない男たちの大群に取り囲まれる、貧窮に喘ぐ広汎なワーキングプアの累積であった。
 上述の新性別役割分業における「我慢の心ばえ」も、もう限界に来ている。もう我慢することはないのだ。ペイエクイティ・同一価値労働同一賃金、非正規雇用の「入り口」の法的規制、ケアワーカー=エッセンシャル・ワーカーの労働条件保障、企業の枠を超えた非正規労働者の組合結成と団体交渉など、状況に憤り、頭(こうべ)をあげて要求すべき課題はもう出そろっている。 けれども、なによりも前提として不可欠な課題は、ノンエリ-ト女性と、今や企業社会の特権的な保障を失ったノンエリート男性とが、協同・共闘する思想と組織を構築することにほかならない。

注記:『女性労働と企業社会』は、小森陽一、成田龍一、本田由紀の三氏によって、戦後10年ごとに3冊の岩波新書を選んで評論する企画の「第6章 1995~2005年」に取りあげられ、その思想性や状況と個人の体験とを往還する筆致に及ぶ、懇切な「鼎談」に恵まれた(『岩波新書で「戦後」を読む』(岩波新書、2015年)。労働研究ではなく、文学史、近代史家、教育社会学を専門とする方々からまことにゆきとどいた理解をいただいたことは、「書評体験」のなかでもとりわけ心の躍るものであったゆえ、あえてここに紹介したい。

その14 日本的能力主義の解明     (2024年10月10日)

 『日本の労働者像』(筑摩書房、1980年)の出版以降、私は企業社会に生きる労働者の遭遇したさまざまの試練を、職場あるいは特定階層の現代史として、さらには個人の体験史として、具体的に分析・描写することに専念した。東芝府中の人権裁判などへの関わりを通じてパワハラに関心を寄せはじめたのも、遅まきながら女性労働の軌跡に立ち入って性差別の執拗さに注目するようになったのも、この頃からだ。それらの考察は、『職場史の修羅を生きて――再論 日本の労働者像』(筑摩書房、1986年)にまとめられている。
 その過程で痛感したのは、日本の労働組合運動のまぎれもない衰退であった。私にはその衰退は、90年代にはあらわになる賃上げ機能の弱体化にさきがけて、仕事そのものと職場のなかま関係のありかたへの労働者の発言権・規制力の著しい後退、すなわちそれらに対する経営権の浸透を起点とするように思われた。個々の労働者の労働条件の決定についておよそ労働協約の介入を拒む<個人処遇化>と、それは言い換えてもよい。そうした傾向の大元こそはそして、1960年代半ばごろに姿を現し80年代、90年代を経るにつれて次第に定着するにいたる日本的能力主義管理にほかならない。結局、企業社会での従業員の働き方の経営主導性を確立したのは、この日本的能力主義の労働者への要請であり、労働者多数・企業別組合によるその基本的受容であった。
 日本的能力主義管理の労働者への強力なインパクトを私が総合的に検証した著作は、ようやく1997年刊行の『能力主義と企業社会』(岩波新書)である。遅すぎたとはいえこの新書は、当時、先駆的なプロレーバーの能力主義論と評され、私の著作としては最大の10万部以上の販路をもつことができた。その骨格はおよそ次のようである。

 日本企業に特徴的な能力主義管理が従業員に求めるのは、①今の仕事の種類、範囲、標準的な仕事量、勤務地にこだわらない「柔軟な」働きぶり、フレキシビリティと、②そこから派生する「会社の仕事を第一義」とする<生活態度>である。
 ①は要するに、労働者は会社の望むように働けとうことだ。それはすでに述べた<仕事遂行における経営専制=労働者の規制力欠如>の結果でもあり原因でもある。そればかりか、①と②を合わせ考えれば、企業の必要に応じて過重ノルマ・過度の残業・頻繁な転勤などを引受けることができるのは、そうした生活態度でやってゆけるのは、家事、育児、介護など無償のケア労働をまぬかれ、それらを「主婦」にさせている男性正社員のみなのである。この能力主義ははじめから性別役割分業・ジェンダー差別を前提にしているのだ。日本的能力主義管理下のサラリーマン生活はひっきょう、男にとってはもとより女にとっても、きわめて拘束的であった。
 この日本的能力主義にもっとも適合的な賃金システムは、査定つきではあれ年齢照応の年功賃金でもなく、経営側がある局面で導入を試みた職務給でもなく、職能給であった。そこでは、正社員は年功制度に包摂されながらも、「潜在能力」の開発と発揮を個人査定され、いくつかの昇給線上の職能等級の階梯のいずれかに位置づけられて支払われる。職務のグレードアップ、つまり昇進はなくとも、潜在能力の向上によって昇給はある。それは、戦後初期の自動昇給的年功賃金が昔日のものとなった時代における、紛争を回避した高度成長期の労使の大いなる妥結点であった。多くの労働者と企業別組合は、会社本位のフレクシブルな働き方を承認するかわりに、雇用保障とともに、年齢段階別の生活費の上昇を賄う昇給の一定の保障は確保している。経営側にとっても、技術革新に素早く対処するためにも、個々の担務内容の頻繁な変動をそのつど賃金差に結びつけるよりは、大まかな潜在能力と昇給を対応させるほうがよいと判断したのである。
 
 とはいえ、労働者・労働組合の日本的能力主義の受容の土台には、このような労使の戦略的な選択よりも根深い、前回までに論じてきた日本の労働者像の思想と心情が潜んでいるように思われる。くわしくくりかえすことは避けたいが、日本の労働者は、伝統的に、国家の要請への順応だけではない主体的な選択としても、労働者間競争の承認、階層上昇への不断の願い、「下積みの労働者」からの脱出志向、「庶民的開き直り」の忌避、そしてそれらと不可分の「現在の立場のままで生活向上と発言権を獲得する」思想、産業民主主義への信頼の稀薄さにおいて、ある意味で特異な人間像を刻んできた。この勤勉な人びとには、欧米の組織されたブルーカラーに特徴的な、競争主義・個人評価のメリトクラシーにつよく反発する思想はない。日本の労働者は個人の力量やがんばりが評価される能力主義に特有のなじみを感じてきたのだ。戦後の国民平等の思想も、消費生活の標準化要求に留まり、総じて労働現場の働き方の共通規制の樹立志向とは無縁だったということができる。
 多数派労働者の連帯的抵抗をうけなかった日本の能力主義管理はこうして、80年代以降、じりじりと企業社会に浸透し定着していった。その過程で年功制の一要素でもあり能力主義管理と表裏一体のものである人事考課の役割はいっそう強化されてゆく。細かくみれば、多面的な査定項目のうち、とくに客観性の疑わしい「情意」(責任感、積極性、規律遵守、協調性)の比重は弱まり、ノルマ達成の秤量基準となる「実績」の比重が強まったかにみえる。だが「潜在能力」の評価を中核とする評価の3項目はやはり健在であった。そうした多面的な個人査定は、昇給や賞与や昇格に大きく左右するゆえに、従業員の職場内外の生活を支配し続けた。
 そのうえ、やがて人事考課に目標面接制度が加えられたことのインパクトも無視できない。それは、上司との個人面談のなかで労働者が「君ならもう少し背伸びしてもいいじゃないか」などと誘導されて、より高度の能力の開発と達成を「約束」してしまう制度である。典型的な<強制された自発性>の世界。この上司との面談によって、きびしい仕事量も押しつけられたものではなく、労働者の「自己責任」とされるわけだ。この目標面接は、日本企業の誇る作業管理――P(プラン)D(行動)C(チェック)A(改善アクション)の連鎖に組み込まれ、労働時間の法制などをさておけば、働き方についての労働者の連帯的な職場規制をほとんど不可能にしたのである。
 この連鎖への統合は、日本企業の現場レベルのすぐれた効率性確保の完成形態であった。
だが、それこそが過重ノルマ、過度の残業、パワハラの脅威、メンタルクライシス、過労死・過労自殺などの最大の背景にほかならない。くりかえしいえば、それらは労働条件の<個人処遇化>のもと、<個人の受難>として現れ、<個人責任>が問われる。けれども、かつての高度経済成長が昔日のものとなった90年代にもなると、能力主義管理が唆してきた従業員の競争と選別は、正社員のなかに、昇給・昇格もできず、雇用保障も危うい多数の人びとを輩出するようになった。「能力主義を選択した日本にワークシェアリングは無縁ではないでしょうか」と嘯く有能なサラリーマンもなお少なくなかったとはいえ、<個人の受難>は本当はまぎれもなく労働者階級の受難だったのだ。だが、長年、能力主義管理のもとでさしあたり<個人の受難>をまぬかれてきた従業員の多数は、組織的抵抗が必要となる、例えばリストラ期を迎えたとき、それまでの労働者間競争への投企がなかま関係をばらばらに分解しており、連帯的抵抗はもはや不可能であることに突然、気づかされたのである。とどのつまり労働組合運動は存在意義を疑われるようになった。敷衍すれば、近年、およそ「労働問題」の解決者として労働組合運動、産業民主主義の復権に期待する論調は、左派の研究者にも、当の労働者にも、ほとんど見当たらないようである。

 人事考課や能力主義管理の「効用」は、経済政策としての新自由主義の支配のなかでいっそう時代の合意となりつつある。それだけに、日本の主流派の正社員労働組合が、それらに正面から対決することはもうできないだろう。けれども私は、にも関わらず、いやそれゆえにこそ、ユニオニズムへの次のような「後退戦」への期待を述べることをもって、この暗鬱な議論をいったん閉じるほかはない。
 まずは人事考課について。労働組合は、経営の一方的な運用に介入して、少なくとも、「A氏の給料は40万円、B氏の給料は25万円であるが、なかまたちはその差15万円がなぜ生まれるかをわかっており、その根拠を納得している」――そんな査定制度に変えるべきである。
 そして、能力主義管理については、それを絶対視せず、働きやすい職場に向けて次のような3点を追求したい。
 ゆとり:性、年齢、婚姻状態、健康状態を問わず、休暇の法的権利を確保でき、少なくとも70歳ごろまでは働けるようにすること
 なかま:雇用身分を問わず、傍らの同僚と助け合い、庇い合い、誰にとっても職場を居心地のよい界隈とすること
 決定権:遂行している仕事の遂行方法やペースや負荷に関して、現場の職場集団や労働者個人が少なくとも一定の裁量権を確保できること。
 こうしたことは、日々の労働に生きる人びとが自然に願うことだはないだろうか。そのようであれば、私はここに定着し、経験の力を蓄えることができる、と思うのではないか。ちなみに『能力主義と企業社会』の終わりに述べた<ゆとり・なかま・決定権>の三点は、ある有力なコミュニティユニオンの運動方針とされたことがある。
 しかしながら、現代の労働問題を全面的に論じるには、むろん男性正社員の受難の凝視のみではまったく不十分である。それなくして企業社会システムが成立しない階層であり、
能力主義の時代にここでも大きな変化を遂げた階層である女性労働者と非正規労働者について、私なりの考察をつないでゆかねばならない。それが「労働研究回顧」の次回以降のテーマとなる。

その13 日本の労働者像をもとめて(4) 戦後民主主義と労働者思想の転轍

 戦争にまきこまれ、圧倒的多数の国民は、あまりにも悲劇的に、幼少時から教え込まれた天皇制のタテマエに殉じて、かけがえのないほとんどのものを失った。けれども、「民主主義が与えられて」労働組合活動が公認されたとき、労働運動は、「燎原の火」のように燃え広がった。では、その労働運動に日本の労働者はどのような思いを込めたのか? 彼ら、彼女らの戦前から内面化されていた天皇制に対する思想と心情はどのように変わったのか? 日本の労働者像の解明にとって、それは不可欠な検討課題であるが、私の懸命の考察は次のような道行きを辿る。
 一般的にいって、権力体制に文化的な資源、概念、言葉を奪われてきた人びとが、体制が瓦解したとき、それまでの権力の統合理念を、異端の宗教をもって正面から撃つ思想を掲げることは稀である。人民の新しい思想はむしろ、それまでの体制が国民統合に用いてきた論理の欺瞞性、すなわち理念と実態の矛盾を追及するかたちをとるように思われる。
 まして日本の場合、異端のキリスト教に殉じた唯一の大一揆、島原の乱のような叛乱も、ひとり戦前から天皇制の廃棄を掲げてきたコミュニスト主導の革命も、持続的な大衆運動としては考えられなかった。それゆえ、労働運動をふくむ戦後革新思想の現実的なルートは、天皇制のタテマエの平等と、権力者のホンネである徹底して差別的な階序の不平等との懸隔を是正または粉砕することに赴いたのだ。天皇制が四民平等・能力による人材登用、組織のすべての成員の公平な処遇などを唱えるなら、その理念を本当に実現してみよというのである。
 戦後の革新勢力や労働運動がまず要求したのは、それゆえ、まずもって<国民としての平等>であった。戦前では、実態として「職工」は蔑まれ、貧しい生活を強いられ、生活改善に声をあげることは許されなかった。これは「天皇制の理念の裏切りではないのか。労働者も国民としてふつうの生活を!」。それとともに、国民である以上、社会的なミニマムの生活が保障されなければならない・・・。それは当時の世界的な動向である福祉国家論に沿う発想でもあり、天皇制の平等のタテマエを掲げてきた日本の支配層も、「社会主義にまで行かなければ」否定できない考え方であった。皮肉な表現ではない、戦後の労働運動は、「人間宣言」で逃れた昭和天皇をもはや神と信じはしなかったが、天皇制のもと理念上でのみ「平等」だった「臣民」を、実態として「一億総中流」に変えようとしたのだ。政財界も、およそ1980年代後半以降までは、福祉国家や、格差を公認する「階層別ライフスタイル」の否定を公然と唱えることを控えるほかなかった。「貧乏人は麦を食え」は禁句だったのである。

 <国民としての平等>論は、企業社会を基盤とする戦後企業別組合の<従業員としての平等>論により具体的に現れている。その後の推移もふくめ、少し具体的に紹介しよう。
 その1は、高学歴のホワイトカラー「 職員」とブルーカラー「工員」の差別撤廃である。年功制といっても、それまでは両者の間に、賃金の額と形態、労働時間管理、企業内福利施設の利用などに大きな格差と差別があった。これはおかしい。「従業員としてのステイタスを同等にせよ!」 この要求はほぼ実現し、呼称も、さまざまの変遷を経てとはいえ、70年代には「社員」に統合されてゆく。
 その2。戦前の年功制では、年功賃金といっても、社内には雇用身分、学歴、職群、性などによるさまざまの昇給線があり、上司の恣意的な査定による個人格差もあからさまであった。だが、「同じ従業員であるなら同じように生活できる賃金が年齢段階別に保障されなければならない。年功賃金は基本的に同一の、譲歩しても職群別同一の、自動昇給であるべきだ・・・」。年功賃金の戦後労働者的解釈というべきか。生活の維持を重視すれば、賃金は年齢によって上がるのが正当なのだという主張である。
 この年齢別賃金論は、「職工差別撤廃」とは違って、戦後初期の左派労働組合によって一定達成されたとはとはいえ、すぐに昇給線の分断や査定昇給を手放さない経営側の執拗な反撃を受け、紆余曲折を経て、60年代半ば、能力主義管理の一環としての職能別賃金制に収斂し、これが日本の代表的な賃金体系になる。その後、かねてから労働論壇の一角にあった同一労働同一賃金論が、性差別・非正規差別反対運動の台頭とともに「同一価値労働同一賃金論」に発展していっそうの説得性を高めているとはいえ、それはいまだ大企業正社員の職能給とか役割給の堡塁を揺るがせてはいないかにみえる。
 その3。年功制の枢要の輪である終身雇用というタテマエの最大の裏切りは整理解雇である。「この裏切りを許すな!」 戦前の大争議もそうだったが、戦後労働運動史を彩る、国鉄、海員、日立製作所、宇部興産、三井鉱山、日鋼室蘭、三井三池など、いくつかの大ストライキの主要なテーマは解雇絶対反対にほかならなかった。
 これら長期の闘いは、しばしば企業協調的な第二組合の生成をまねき、総じて労働組合側の敗北に終わる。けれども、「大争議は高くつく」ことを学習した企業は、その後、経済成長を迎えたときには、むきだしの整理解雇は控えて、企業経済に必要な労働力の弾力性の確保を、非正規労働者の活用、正社員の残業調整、配転・出向、退職金優遇の希望退職募集などによって賄う労務管理に転じてゆく。そうしたソフトタイプの人減らしは、企業別組合の整理解雇反対闘争の必要性をたしかに低めたが、同時に、その可能性も、労働者が能力主義管理による従業員の選別に順応してゆくにつれなくなった。こうして時が過ぎ、2000年代にふたたびリストラの季節が到来したとき、企業は人員整理を、ほとんど争議なく従業員の「個人処遇」として対処できたのである。

 最後に、以上の<従業員としての平等>の思想と戦略が、女性労働者を包括するものであったかどうかが問われなければならい。
 戦前とは異なり、憲法にも男女平等の理念が謳われた戦後民主主義のもとでは、組合の生活給・自動昇給、解雇反対の要求にも、公式には女性を直接に差別する要素はなく、女性もまた労働運動の新鮮な担い手であった。近江絹糸での労働組合の勝利は、戦前の総じてうつむいた自己表現をためらう「女工」を、人権擁護や女性の独自要求に昂然と頭(こうべ)を挙げるOLに変えたと言えよう。
 とはいえ、女性労働者の多数は、なお引き続き、「寿退社」の短勤続・キャリア展開のない単純労働・いくつかの重層的な要因による低賃金という「三位一体」の働き方のままであった。そして、性別役割分業を基礎にもつこのような間接差別に、「家族責任」をもつ男性労働者も内心では総じて肯定的であり、彼らを中心とする労働組合がこのシステムに挑戦する営みは乏しかったということができる。その見直しが始まるには、フェミニズムが社会的な説得性を高めるとともに、女性の職場進出が本格化し、ひいては年功制の安定性が揺らいで、働く女性が「家計補助」者から「家計の主要なまたは不可欠の支持者」になってゆく1990年代を待たねばならなかった。80年代前半の私もなおジェンダー・ブラインドであった。女性労働者も非正規労働者も40%に及ぶ今、彼女らを包括することがなければ、<労働者像>論の説得性の範囲はきわめて限られたものになるように思う。

 <日本の労働者像>を求めてきた私の思索は、不十分ながらここでひと一区切りとする。
 思えば日本の労働者が身に宿した思想と心情は、日本という国の近代史が彼ら、彼女らに課した過酷な体験の反映そのものであり、それだけに外在的な批評を拒むほど内在的で必然的であった。戦後民主主義の世になって、それは<国民としての平等>、<従業員としての平等>、すなわち平等へのつよい願いとして展開する。
 日本の労働者は長らく、他の先進国とくらべても、実直な仕事に前向きの働き手だった。しかし、この真摯な人びとの思想や心情は、欧米の労働者、とくに組織労働者と著しく対照的である。国家社会の枠組みに軌道を強制されたとはいえ、彼ら、彼女らは主体的な選択としても、労働者間競争の受容、階層上昇への不断の願い、「労働者階級」からの脱出志向、「庶民的開き直り」の忌避、そしてそれらと不可分の「現在の立場のままで生活向上と発言権を獲得する」思想、産業民主主義への信頼の稀薄さにおいて際立った人間像を刻んでいる。
 私の描くこのような労働者像が、戦後史の各段階を通し世代を超えて継承されたということはもちろんできないだろう。経済環境、雇用形態、ジェンダー意識の変化を考慮したより精密な労働者意識の戦後史が必要である。しかし、とりあえずこうは言えるのではないか。
 新自由主義が席巻した1990年代以降、世代的には「団塊ジュニア」以降、伝統の労働者像そのものに大きな分断が生まれたと思われる。2000年代はじめの氷河期の就職戦線に成功して大企業、中堅企業の正社員になった相対的に少数の人びとは、総じて上述の日本に特徴的な思想・心情の多くを保持した。だが、男女を問わず、就職においてが失敗して、労働条件の劣悪な企業や非正規雇用で働くようになった多くの人びとはもう、階層上昇の熱意や階級脱出志向はもたず、どちらかといえば消極的な仕事観で、不安定な下積みの労働を日々引き受けている。といっても「勝ち組」が信奉する競争関係は厳存し、時代の「自己責任論」の常識化によって「この不成功は自分の責任」とみなされるゆえ、「庶民的開き直り」もできないのである。
 けれども、確実なことは、皮肉にも組織労働者であることの多い安定雇用「成功者」にも、未組織の下積み労働者にも、産業民主主義の思想、労働組合運動によって生活と権利を守る思想の稀薄さが、世代を超え、男女を問わず、継承されていることにほかならない。それは日本の労働者の精神史を貫く負のレジェンドということができる。
 格差社会化が深化する新自由主義の支配する、2020年代半ば、抵抗の発言権の弱々しい労働者の世界をみるとき、伝統の日本の労働者像の思想と心情の内在的な由来を理解できるだけに、私はこの労働者像の造型が喪ったものをやみがたく哀惜し、喪ったものの復権をひたすら願うのみである。

その12 日本の労働者像を求めて(3)  日本唯一の労働社会・企業社会への道

 職業社会も地域一般労働社会もなく孤独な稼ぎ人であった日本の労働者を、相対的に安定的な居場所と可視的ななかまを見いだすことができる労働社会に帰属させたものは、直接的には、大正末期から昭和にかけて大企業がうちだした年功序列制・年功的労務管理ということができる。
 その年功制の構成要素は主要には選抜採用された正規従業員の長期雇用の「約束」、勤続や年齢を評価する昇給制、副次的には退職金や企業内福利である。それに、1931年の満州事変の頃から上の諸要素に臨時工制度が加わり、賃金総額と雇用人数の弾力性の要請が満たされるようになって年功制は完成する。もっとも、出稼ぎ後にはふつう帰郷して短勤続のうえ賃金もわずかの時間給の「女工」は、もともと企業社会の外なる存在であり、彼女らが、臨時工とともに、年功的労務管理の対象とされることはなかった。以下、労働者とはもっぱら男性のことと想定して議論を進めよう。 
 年功制の構造的な背景は、外来の近代技術を用いる新旧財閥系の大企業と、都市や農村のマニュファクチュアや手工業に発する多数の中小企業との「二重構造」であり、その間の大きな処遇格差だった。一方、農村からは企業のプル・農家の口減らしのプッシュに応じて地位の不安的な出稼ぎ型、半農型のプロレタリアがにじみ出ていたけれど、農村はいつも潜在的過剰人口が重く滞留する労働力の給源だった。そんななか、選ばれて大企業の養成工となり年功制度に入ってゆくことは、高小卒の若者にとって得がたい成功の道であった。 
 こうしたなか労働者の年功制の受容はまことに自然である。まず、それまであらゆる意味で定着性のなかった労働者は、企業社会ではじめて、集団労働のなかで自分の仕事ぶりが他人の仕事の苦楽と密接に関わっているなかまを見いだすことができた。また、そこでは、明治以来推奨されてきた立身出世主義の、自分にも現実的な成果を、まじめに長勤続して企業の職務階梯・ステイタスを一歩づつ歩むことのうちに見通すことができた。それに、誰にもひとしい加齢にそれなりに報いるという年功制のある種の平等性も、「四民平等」の理念に適合的なように思われた。それになによりも、年功賃金は広汎な低賃金の海のなかに浮かぶ島のような相対的高賃金であり、労働者が貧困の生活を脱出する具体的な方途だったのである。
 けれども、大企業が年功的労務管理のなかに忠実な従業員を取り込もうとしたのは、労働者のもうひとつの結集体である労働組合、とりわけ企業横断の労働組合の団体交渉を断固として排除するためであり、その成功はその排除の結果であることは決して忘れられてはならない。
 たとえば1921年の6月~8月、総同盟神戸連合会傘下の神戸三菱・川崎造船所の労働者は、いくつかの機械企業をも巻きこんで、賃上げや時短とともに「横断組合の承認」を求め、ストライキ、怠業、工場管理をふくむ、約3万人の参加する45日間の闘いを敢行した。この大争議はしかし、産業民主主義をどこまでも拒否する企業と国家に抗い続けることができず、1300人が解雇され、100人もが収監されて「完敗」するにいたる。労働者は結局、企業外に労働社会、なかまの絆をもつことがゆるされなかったのだ。この象徴的な事例、横断組合の承認をめぐる資本の勝利・労働者の敗北が、それ以降の大企業の年功的労務管理の普及に影響し、そこに帰属してゆく労働者の心情にはるかに木魂している。

 日本唯一の労働社会、すなわち年功制度の大企業への服属として形成された企業社会は、イギリスやアメリカの労働社会とはさまざまな点で性格を異にしていた。
 二点ほどにまとめる。ひとつは、工場の塀による、つまり特定企業の正社員身分の有無による構成員の限定である。他企業の労働者、臨時工や社外請負工は、ときに地域の大規模な労働争議のとき連帯行動に加わることが皆無ではなかったとはいえ、日常的には、同じ仕事であっても「可視的ななかま」ではなかった。現在でも基本的に不変の、それは従業員の企業内意識である。
 いまひとつ、労働者の貧民の海からの「離陸」先は、多段階の地位序列をそなえ、本来的に刻苦精励の競争を強いられる企業にほかならならない。そこでは、競争制限や助け合いといった労働者文化の自立性がやはり脆弱だった。言い換えれば、経営者文化と労働者文化が未分化のまま、下層労働者、ベテラン従業員、下級管理者、経営者が一続きになっている。企業内は生得的な意味では無階級社会という想定なのだ。その「未分化」の自然な結果は、低学歴で昇進にも限度がある下積み従業員であっても、競争志向の能力主義になじみをもつようになったことである。こうして、よかれ悪しかれ、「庶民的開き直り」のあまりない労働者像が形成されてくる。「庶民的開き直り」とは、この職場のこの下積みの職務のままで生活を改善し発言権を拡大する、ここで闘うという思想である。こうした考え方の欠如が、「人材登用」・ 出世主義の鼓吹・ 産業民主主義の否認を一体のものとする国家規模の統治政策と適合的であることは、あらためていうまでもあるまい。
 企業に外在的な存在で自立的な労働者文化を培いうる職業社会や地域一般労働社会とは異なる、日本の労働社会・企業社会の負の伝統は、日本の労働者を、一介の労働者であるという立場を人生の一経過点とみなし、絶えざる上昇アスピレーションに身を投じる人びとに造型したということができる。
 もちろん、企業社会の外に放置された、およそ労働社会をもたない人びとがこの「造営」をまぬかれたわけではない。それは日本プロレタリアの共通の性格となった。ふつうの労働者のこの上昇アスピレーション志向は、そして、かたちをかえて、労働者一般にとっても「中流階級的」な生活向上がさほど虚妄でなかった戦後もおよそ90年代頃までは、労働者の心に執拗に生き延びたように思われる。顧みて思えば、労働者思想の自立性とは労働社会の自立性そのものであった。

 さて、労働者像の探求という叙述の流れを外れるけれど、ここで、天皇制のタテマエの理念(顕教)とホンネの実態(密教)との間の矛盾が、権力内部での対立を惹起し、それが体制の瓦解を招いた軌跡を、今では常識に属することだが、ごくかんたんにふりかえっておきたい。次回に述べる戦後民主主義のもとでの労働者思想の転轍を理解するためでもある。 
 国家の諸組織の上位ポストにある権力者たちは、むろん天皇制の「密教」の信者であったが、神である天皇の下では「臣民」は平等という、いわば神話的で幻想的な「顕教」のタテマエを公然と批判することは決してできなかった。それが「下々の者」に教え込んできた道徳の大元だったからだ。だが、この矛盾にに気づきながら沈黙を貫くことは、力ある勢力が、対外危機の局面で、まともにタテマエをホンネと信じこみ、双面神のはらむ欺瞞性を撃つ「密教の顕教征伐」に乗り出したとき、それに有効に対峙できなかった。力ある勢力とは、天皇統治の「補弼」ではなく、天皇専権の統帥権(軍隊を動かす権力)に直属する軍部にほかならない。そこでは天皇親政・国体明徴を奉じる「尉官以下」の軍人が、欺瞞性を突く「皇道派」を形成して暴走することになる。
 天皇制の階序秩序を守ろうとする「佐官以上」の軍人が属する密教信者の「統制派」は、二二六事件の弾圧に見るように「暴走」を一定チェックし、権力を維持しはした。しかし天皇制の理念を公然と掲げる皇道派の論理――といえるかどうか?――は、右翼の思想家や団体ばかりか、富裕層本位の堕落した政治を憤る庶民の応援を得ており、暴走のおそるべき惰力を止めることはできなかった。とどのつまり、統制派は皇道派の論理を表に立てた軍部独裁を通じて、政党政治・立憲議会制を崩壊させる天皇制ファッシズムを樹立する。こうして日本帝国は、判断力を奪われた国民の熱狂と献身に支えられ、「八紘一宇」のアジア侵略を経て無謀な太平洋戦争に突入する。日本人だけでも310万人、アジアでは何千万人もの生命が失なわれた。そして、「国体」維持にこだわって遅きに失した敗戦の結果、天皇制ファッシズムの体制は瓦解し、戦勝国アメリカの占領軍から日本人は民主主義を「与えられる」ことになる・・・。
 閑話休題。では、日本の労働者像の探求に立ち戻ろう。

その11 日本の労働者像を求めて(2) ヤヌスの天皇制と労働者の誘導

 近代日本国家の天皇制は、ヤヌス(双面神)であり、タテマエの理念とホンネの実態という不可分のふたつの相貌をもつ。思想史のタームでは、それは「顕教」vs.「密教」とも表現されている。
 タテマエの理念は、天皇を神とする一方、その下の「臣民」は身分的には「四民平等」であるとする。今ふりかえれば、華族、士族、平民の区別もあり、関東大震災の際の大量虐殺に典型的に見るように、戦前から日本に連行され酷使されていた朝鮮人などは視野の外である。その「平等」の欺瞞性、少なくとも限定性は明かであろう。実のところは実際は神話または幻想ということができる。それでも、「士農工商」というがんじがらめの身分制に生きてきた多くの平民にとって、新しい天皇制のタテマエは、希望の福音にほかならなかった。
 しかし一方、ホンネの実態では、権限や処遇が大きく異なり、上下の命令・服従関係を疑うことが許されない不平等な階序組織の厳存が正当化されている。密教の政治機構では、天皇は実は「機関」にすぎないが、官庁や軍隊では、この階序組織が、顕教の「神」=天皇の意向にしたがって、天皇の統治を「補弼」する、つまり実際の政治運営に権力をふるうのである。官庁や軍隊において、ひいては官営・民営企業でも制度化されてゆくこの階序的で不平等な上下関係は、そもそも権力が絶対に必要としたシステムであった。ここに注目すべきは、こうした天皇制の双面性から、次のような統治政策が自然に打ち出されることである。
 その1。学校教育の内容はきわめて階層的になる。貧しい庶民がふつうそこで学歴を終える初等教育では、顕教のタテマエだけが徹底的に教え込まれた。大多数の下々の「臣民」は「現人神」の下で平等であると学ぶのだ。密教のホンネ、階序組織の不可欠性を学ぶのは、戦前にはまだほんの少数であった中等教育以上に進学する広義のエリートだけである。それゆえ、のちに盲目的にタテマエを信じて暴走した軍部「皇道派」が排撃した天皇機関説などは、ホンネを学んだエリートには、決して公言することは許されなかったとはいえ、実は自明のことであった。
 その2。四民平等の理念と不可欠な階層序列の実態という、本来的に矛盾する要素をなんとか調和的に共存させるためには、なんらかの階層流動性・「人材登用」のシステムが用意されなければならなかった。「天性同体ノ人民賢愚其処ヲ得ベシ」(伊藤博文)。すなわち人を門地や家柄でははなく、能力・業績・努力を評価して人を階序のラダーに位置づける構想である。それは「士農工商」のしがらみを体験してきた庶民を勇気づけ、積極的な前向きの行動エネルギーを引き起こすものだった。ここから、「身を立て名を挙げやよ励めや」の競争的上層志向が鼓舞され、見田宗介が「日本近代の内面的推進力」とみなす「立身出世主義」(『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年)が、全階層的な規模で噴出するのである。私の表現では、こうして、日本の階級形成は「生得的(生まれつき)ではなく結果的(能力と努力の結果)」という性格を帯びることになる。
 とはいえ、明治憲法が近代国家の諸制度を確定してゆくにつれ、現実に立身出世主義の努力の末に相当の権力をもつ階梯上の地位を得ることのできる人はもとより限られてくる。秀才は階層上昇を遂げる原則はあれ――女性の場合は「美人は報われる」というべきか――圧倒的な貧困層の存在ゆえに、中等教育以上への進学者は絶対的に制約されていたからだ。だが、階層流動性の存在への一定の信頼がなければ、国民の永続的な活力を期待することはできない。そこで推奨された国民道徳が「(二宮)金次郎主義」(見田宗介)である。すなわち、どんな下積みの仕事でも実直に刻苦精励すれば、それなりの相対的に優位な地位の生活水準を獲得できるというのである。 
 それは酷薄なまじめさ・実直さの搾取だ。だが、この場合でも庶民は、いつまでも「カエルの子はカエル」ではないという「四民平等」の天皇制の理念・タテマエに殉じたのだ。もし日本の天皇制が平等のタテマエを掲げない、ひとえにブルボン朝やロマノフ朝のような差別と抑圧の絶対主義であったなら、すべての国民がこの「立憲天皇制」に心情的に帰依することはなかっただろう。
 しかしながら、庶民が天皇制のタテマエに帰依し立身出世に賭ける生きざまを選ぶことの代償は大きかった。それは、階層上層の努力の過程では、階序そのものの不平等性を問わぬこと、上位の権力者を批判しないこと、ひいては階層上昇の不成功はみずからの能力と努力の不足のゆえだと覚らされることだった。こうして会社つとめの多くの労働者も、低賃金の仕事に不平を言わず実直に取り組んで企業内の階梯を経上がり、やがては下級管理者や小工場主になることをめざしていた。「職工は人生の経過的なありようとしたい」。この心情は、戦後もなお1950年代頃までは、一般庶民や未組織労働者の心に連綿として生き続けたのである。

 天皇制のはらむ平等の理念(タテマエ)と不平等の実態(ホンネ)の間をなんとか調和的に共存的に調和させる「人材登用」と出世主義の鼓吹。この日本近代の政策の不可欠の一環は、下積みの人びとがその立場のままで貧困の状況改善や権利の拡大を求める思想の徹底した否認にほかならなかった。労働者については、団体交渉やストライキの禁止、すなわち、西欧では19世紀末までには徐々に承認されていた産業民主主義の断固たる否定である。戦前・戦中の日本国家は、失業保険制とともに、どのような争議や要求があっても、ついに労働三権を保障する労働組合法の制定を拒み続けたのである。
 唯一の労働法制は、明治30年代に芽生えた労働組合を根こそぎにした1900年の治安警察法である。それは組合結成およびストライキの「煽動」を禁止し、一切の組合活動に対する官憲の介入を制約なく合法化していた。つまり他の労働者なかまに働きかけてはならないのだ。それゆえ、勇気をもって敢行された非合法の労働争議は、たいてい次のような軌跡を辿った――①過酷な低賃金や長時間労働などの改善、解雇撤回、あるいは団体交渉権を求める労働者の懇願⇒②会社の団交拒否⇒③やむなき非合法のストライキや怠業⇒④右翼団体との乱闘⇒④警察署長や市長による収束の斡旋(生産確保を考慮した一定の譲歩もある)⇒一段落後における争議のリーダーたちの解雇または大量解雇・・・。すべての結末は犠牲を伴う労働者の敗北であった。大成功した実業家、渋沢栄一の言うことには、努力せず怠けて貧苦に陥ったのにひたすら富の平等を叫ぶ「社会党のごときは宜しくない」のだ。   
 この治安警察法に1925年治安維持法が重なる。にもかかわらず、ここではくわしく辿らないが、このような厳冬の時代にあっても、日常の過酷な労働体験から、天皇制の理念と実態の懸隔を凝視し「出世」の虚妄性を痛感してあえて闘いに挑む労働争議が絶えることはなかった。その消長はあるにせよ、昭和初期の大不況期には、労働争議件数は、1928年には379件、争議参加人数はおよそ4.6万人、30年にはそれぞれ906件、8.1万人、31年には998件、6.5万人を記録している。今日とくに忘れないでいたい、「戦後1974年には(労働争議は)5197件もありましたが、2021年の半日以上のストライキはわずか33件です」と『語りつぐ東京下町労働運動史』(2024年)の著者、小畑精武は呟いている。
 戦前の大争議における男女「職工」たちの勇気と侠気、創意ある戦略の工夫などに触れるとき、私はいつも感銘を禁じえない。しかし文脈上「労働者の人間像」に立ち戻るなら、コミュニストを別にすれば、争議の労働者が天皇制にも天皇個人にも弾劾の鉾先を向けることはなかったように思われる。足尾鉱山暴動(1907年)の際、鉱夫たちは明治天皇のご真影を安全な処へ移した上で全山焼きうちをはじめたという。天皇制の「四民平等」の理念は抵抗者の心にも内面化されていた。かつての百姓一揆がしばしば時の道徳である儒教の「仁政」を掲げて苛斂誅求の領主に刃向かったのと同様に、争議の労働者たちは、天皇制の平等のタテマエを信じてこそ、こんな酷い労働条件を「天子さまがお許しなさるはずがない」と感じて労働現場での闘いに赴いたかにみえる。八幡製鉄大争議(1920年)を舞台とする佐木隆三の『大罷業』(1961年)は、この発想を汲み上げてまことに興味ぶかい小説である。もちろん、こうした天皇制のタテマエへの期待は無残に裏切られ、労働者は天皇の官憲によって徹底的に弾圧されるのである。
 天皇制の平等というタテマエへの悲劇的な幻想は、とはいえ、後に述べるように、戦後民主主義が到来したとき、推転してしかるべき役割を果たし、戦後日本の労働者思想の一契機となってゆく。しかしその「推転」に入る前に、企業社会こそが日本型の唯一の労働社会になった理由と、その評価にふれておきたい。

その10 日本の労働者像を求めて(1)  日本プロレタリアの形成ル-トと研究の課題

 イギリス滞在後の1980年代から、私は、英米の労働史とそこから帰納できる限りの労働組合運動論の研究をいったん休止して、75年以降いつも関心を寄せていた<私たちの国の労働者はどのような人びとなのか>というテーマ、つまり<日本の労働者像>の模索に集中して、懸命の勉強を重ねた。
 日本の労働者階級の形成プロセスが、イギリスやアメリカと異なる特質を帯びていたことについては早くから定説があった。近代日本の「殖産興業」によって次々に造られた大小の工場は、むろん多くの工業労働力を需要したが、それに日本の労働者は、農業革命や囲い込みに追われた都市移住によって一挙に、あるいは都市ギルドの解体によってドラスティックに、プロレタリア化した人びとではなかった。むろんアメリカのようなヨーロッパ諸国からの貧困移民でもない。日本では、職人層の熟練工への転身はあれ、「出稼ぎ型」の繊維女工にしても、各種製造業の「半農半工」型の一般労働者にしても、総じて農村を完全には離れることのない稼ぎ人であった。耕地の狭隘な小作農家はいつも潜在的過剰人口のプールだった。そこで会社のプルと貧しい農家の「口べらし」プッシュの合力が、まず娘、二・三男を工場に引き出し、次いで長男や父親を近隣の工場に通勤させたのである。 象徴的にも農家数は長らく変わらなかった。それが本当に減少に転じるのも、もっとふえんすれば、雇用者(労働者)が自営業者や家族従業者を凌駕して有業者の最大比率を占めるのも、戦後の経済成長が始まった50年代後半のことである。要するに日本では、長らく定着プロレタリアの層が薄かったともいえよう。
 もっとも、大工場は早くから先進的な技術を取り入れ、その技能の担い手の企業内養成を図っている。そこに選抜された高等小学校卒の養成工は、後に年功制の労務管理が整備されてゆくにつれて、昇給制や企業内福利をもつ「子飼いの」従業員になってゆくけれども、戦前はそれほど安定的な待遇だったわけではない。昇給も不確かで、なによりも企業はなんらかの不都合があれば容赦なく解雇の自由を行使した。しかし、少なくとも彼らは、離村して会社に定着する条件に恵まれた例外的な存在であった。
 この「例外」が、日本では唯一の労働者の一定の凝集性、<労働社会>(その9参照)をつくることになる。すなわち企業社会である。その負の遺産については後に述べるが、ともあれ日本プロレタリアの大多数は、それぞれに農村に家族的な絆はあるとはいえ、英米にみるような職業社会も、スラムを基盤とする地域一般労働社会ももたなかった。それらを育てる条件はなかった。彼ら、彼女らは、都市では、「生活の必要性と可能性の等しさが可視的な」いかなる労働社会にも帰属しない孤独な稼ぎ人として漂っていた。
  
 しかしながら、日本の労働者像はもとより、上にかんたんに述べた日本プロレタリアの形成過程論をもって十分に把握できるものではあるまい。いくつかの難問が私の前に立ちはだかっていた。例えば次のような考察が必要だと感じられた。
(1)日本の労働者に国際比較的にみて特徴的な性格を刻印した近代史の要因はなにか。こうして召喚された労働者を包摂する、近代日本の国家社会の枠組みはどのようなものか。(2)その枠組みのなかで、日本の労働者はどのような心情や思想を紡いだのか。
(3)こうした心情や思想は、やがて到来した現代史、戦後民主主義のもとでどのように展開したのか
 いずれも容易ではない設問であるけれど、そのいちおうの理解を経て、私はその後、(4)唯一の労働社会となった企業社会において、労働者が職場内外の生活で体験した数々の試練、(5)以上の歴史的体験ゆえに浸透・確立する、日本に特徴的な能力主義管理の特別のインパクト――などを分析することになる。さしあたりは、(1)~(3)をひと続きのテーマとして、おおまかに研究結果を回顧してみよう。ここからしばらくは、前回までのキーワードを窓口にした順不同のエッセイとは筆致が異なる論文風になる。
 私にとってなによりも課題は、周辺領域の学びをふくむ日本の労働史に関する知見の乏しさであった。懸命の文献の読みが始まる。私はむろん大河内一男や隅谷三喜男の概論、兵藤釗や二村一夫の敬服すべき精密な業績に多くを学んだ。しかし、それまでに労働者の仕事・職場・闘争などについて細密かつ濃密に事実を綴る英米の労働社会学に傾倒してしており、労働者の細部にわたる体験や「物語」にこだわる私にとって、社会政策学会系統の学術書ではやはり飽きたらなかった。現在でも同じ気持ながら、たとえばイギリスの労働者文化論の古典、リチャード・ホガース『読み書き能力の効用』(1974年)のような書物がほしかった。労働者の人間像を理解したかったのである。
 ともあれ、その当時の私の勉強は、「労働者像」のイメージをなんとか得るため、学問分野にとらわれず、言ってしまえば手当たり次第に、日本近代史、精神史、労働と職場の調査やルポ、労働運動史、片山潜、鈴木文治、西尾末広などリーダーたちの自伝、そしておよそ働く人びとの体験を活写する文学などを精読または乱読することだった。いずれからもなんらかの示唆に恵まれた。しかし、それぞれの読みの成果をここでくわしく述べることはひかえ、とくに多大の情報と重要な視点を与えてくれたように思われる文献のタイトルだけを思いつくままにふりかえってみよう。例えば次のような著作である。
 横山源之助『日本の下層社会』および『内地雑居後之日本』(1897-98年)。農商務省商工局『職工事情』(1903)。細井和喜蔵『女工哀史』(1925年)。大河内一男/松尾洋『日本労働組合物語』(全五冊)(1965年)。神島二郎『近代日本の精神構造』(1961年)、安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(1975年)。久野収/鶴見俊輔『現代日本の思想』(1956年)。そして労働者の発想を掬う文学としてひとつあげれば佐木隆三『大罷業』(1961年)。
 私はまだ40代のはじめで心身に不安なく、家庭的にもまことに恵まれていた。研究グループはなくひとりだけの研究の営みであったが、それだけにまったく自由に、学問領域の垣根にとらわれずにイメージを膨らませることができたと思う。そんな自由な勉強のいちおうの成果は筑摩書房刊『日本の労働者像』(1981年)にまとめられている。この本と、1986年の『職場史の修羅を生きて 再論・日本の労働者像』のなかから好評であった何篇かを選んで編集した1993年刊行の『新編・日本の労働者像』(筑摩学芸文庫)が、私の研究史中期の代表作ということができる。アメリカで翻訳され、社会政策学会学術賞を受けた作品である。

 以上は<日本の労働者像を求めて>を書き継いでゆく前書きのようなものである。では、回をあらためて。まず設問の(1)日本の労働者に国際比較的にみて特徴的な性格を刻印した近代史上の要因、彼ら、彼女らを包摂した近代日本の国家社会のフレームワークはどのようなものだったのか――について、私の解答を概説しよう。
 それはなによりも、下級武士たちのイニシアティヴによる明治維新後、伊藤博文らが巧みに構築した「神なき国」において国民諸階層を統合する装置、天皇制であった。ふつう労働史、労働研究では重視されないけれども、私には、天皇制こそは、戦前来の労働者の生きざまの選択をつよく規制した無視しえぬ枠組みであったように思われる。では、私はなぜ、労働者像を探る文脈で天皇制にこだわるのか? 

その9 <社会>としての労働組合(2024年6月3日)

 この「連載」は、労働研究における私なりのキーワードの意味するところを、発想の時期にとらわれず思いつくままに綴ってきたが、研究史の中期以降に精力を注いだ日本の労使関係の把握に入ってゆきたい。今回はしかし、生涯にわたって執着した、私に特徴的な――少なくとも日本では――労働組合という組織への視点を示しておきたいと思う。その着想は1976年の『労働者管理の草の根』の所収論文に遡り、後期2013年の『労働組合運動とはなにか』(岩波書店)にいたるまで継承されている。それは、<社会>としての労働組合、という把握である。
 若き日の着想の論文では、ヒントを得たF・タンネンバウム、S・パールマン、A・フランダース、H・A・クレッグなど古典的な文献の引用に満ちている。しかしここでは、2013年の著書の、「原論」の章にみる「社会(学)的にみた労働組合」のくだりからかんたんに説明しよう。
 生産手段を奪われて労働力を商品として売るほかはない労働者階級は、まずアトムとして労働市場に投げ出され、資本家に拾われ棄てられて翻弄される。けれども、労働者はいつまでもばらばらで星雲状態のなかを漂い続けるのでなく、やがては、無意識的にせよ、星雲のなかに「可視的ななかま」、すなわち生活上の具体的な必要性と可能性を共有する他人がいるような、ある境界をもつ領域をきっと見つけるだろう。領域の境界は基本的には仕事の種類や職場や技能、副次的には人種や宗教、性や年齢など多様であり得るが、この領域を私は、まず自然発生的な<労働社会>とよぶ。
 「可視的ななかま」のうちには、助け合いや庇い合いの慣行が自然に生まれている。例えば、なかまの間では決して競争しない、仕事を分け合う、困窮したなかまを扶助する仕組みをつくる、働きと稼ぎにおいてぬけがけしない・・・などである。だが、すぐに疑問が生まれるだろう、こうしたなかまの「黙契」は果たして持続可能なのか?
 自由競争という資本主義体制の「公認の道徳」が浸透している。雇用主は低賃金で働く人を求め、どこまでもなかま同士を競争させようとするだろう。労働者のほうも、緊急の個人生活の必要性に直面してしばしば、それで雇ってくれるならと、進んで、またはやむなく「黙契」を裏切るという現実がある。労働者はそこで、ゆっくりとではあれ、放置すれば風解する「可視的ななかま」の領域や、そのなかでの反競争的な暗黙のルールの意識的な構築を迫られることになる。ユニオニズムが芽生えるのはここからだ。それゆえ、自然発生的な<労働社会>を意識的に組織化したものが労働組合であり、その内部で息づいていた助け合い・庇い合いの黙契を意識したものが労働組合の要求・政策ということができる。私は若き日に、W・M・Leisersonの次のような記述にふれて心底から納得した、その感銘を忘れられない。
 労働組合機能は、公式の組織が賃金労働者の間に現れる遙か以前から存在した、職場労働者の習慣や気質に根を降ろしている・・・われわれの知るような組合規範と団体協約は、事実上労働者の書かれざる習慣と掟の法制化であって、それは習慣法が成文法に対してもつ関係と同じである」(American Trade Union Democracy、1959、P.17)。
  
 一般に<労働社会>の形成の基準は、ひとつは、職業的生涯、異動してもそこには留まるという意味での「定着」の範囲の共通性、今ひとつは、労働者生活における具体的な必要性と可能性の共有である。この<労働社会>の多様性が、労働史上に現出した労働組合のさまざまの組織形態の由来を説明するだろう。このように概念化することができよう。

 A・企業に定着する人
  ――a経営者・管理者へのキャリア展開――企業社会⇒企業別組合
  ――b特定の職種・職場に定着――職場社会⇒産業別組合(職場支部)
 B・職業(専門職・熟練職)に定着する人――職業社会⇒クラフトユニオン
 C・産業・職場・(非熟練)職種への就業が偶然的で流動的な人
  ――特定の地域への定着を経て地域労働社会⇒ジェネラルユニオン(一般組合)
註:もっとも、ABCの分類が同じでも、人種・宗教・性などによって「文化」(もの
  の考え方)があまりにも異なる場合には、組合組織が別になることが十分ありうる  だろう。現代日本では、女性だけのユニオンや非正規労働者の組合の結成はむし   ろ自然である

  日本についても<労働社会⇒労働組合>と把握することは、あるいはいぶかしく思われるかもしれない。しかし企業別組合に帰結させたものは、他の要因も作用すたとしても、ひっきょう日本なりの<労働社会>、企業社会であった。国際比較的にみれば、もちろんその特異性は明かである。企業社会は、黙契にすでに資本の論理が浸透しており、他国の<労働社会>のような反競争性が明瞭ではない。もっと枢要の異常性は、Abの人びとの職場社会がAaの従業員にこそふさわしい企業社会から自立せず、そこに曖昧に吸収されていることだ。こうした企業社会の性格については後にまたふれるけれど、企業別組合といえども、少なくとも1970年半ばくらいまでは、確かに世界共通のユニオニズム的な営みを発揮しなかったわけでなかった。そこを顧みれば、日本の労働組合運動を「世界の常識」を外れた、比較できない異質の運動とみることは、むしろこれからの日本の組合組織の変革の展望を絶望視させることに通じるように思われる
 この項の終わりに、最近、1984年~85年イギリスの炭鉱大ストライキの軌跡を細部にこだわって辿る作業を通じて、<社会としての労働組合>という長年の持論については、ある点で反省を迫られたことを付記したい。新自由主義の嚆矢ともいうべき炭鉱の閉鎖・大合理化に対して、10万人以上の炭坑夫たちは1年にわたって力尽きるまでピケをふくむストライキをもって抗った。その基礎はなによりも男たちの職場社会の結束であった。だが、抵抗力の驚くべき持続は、彼らの家族、女たちのつくる炭鉱ムラ・コミュニティの協力と援助、相互扶助の活動によってこそ支えられていたのだ。職場社会は居住地のコミュニティに抱擁されるとき、いっそう強靱に立つことができる。そういえば日本でも、かつて強靱だった炭鉱組合運動の背後には「炭住」の絆があったことにいまさら気づく。私の労働社会論は、この居住コミュニティの存否ということに関心が薄かったと反省させられたものである。くわしくは、冷静な叙述をもってしかるべき敗北の過程が「哀切を込めて語られている」とも評される、2023年の拙著『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動のレジェンド』(旬報社)の一読を乞う次第である。

大企業のサラリーマンや「OL」も、エンジニアや旋盤工も、教師や医師も、トラックドライバーも看護師も、スーパーのレジ担当パートもファストフードのアルバイト店員も、労働力商品の販売者としてはすべてプロレタリア、労働者階級である。けれども、彼ら・彼女らのそれぞれの<労働社会>は同じではない。日常生活上の必要性と可能性や「可視的ななかま」の範囲が異なるからだ。<労働社会>こそが多様な形態をとる持続的な労働組合の培養器となる。「階級としての労働者」が労働組合をつくるという命題はきわめて一般的な意味では正しいとはいえ、その一般論のみを強調する一部の「左派」研究者や労働運動実践者はしばしば、広くプロレタリアにふくまれとはいえ<労働社会>を異にする労働者さまざまの具体的な生きざまの凝視を怠り、ひいては、労働組合の組織形態にも無関心になりがちである。みんな連帯できる同じ労働者ではないか、そのなかの生活の格差や個々のニーズにこだわるなというわけだ。
 そのよびかけは総じて空しい。もとより、たとえば全国民的な政治課題をめぐる街頭行動とか、ゼネストに近い統一ストライキとか、労働者が<労働社会>の境界を超えて一斉に行動するときは確かにある。それは心の躍る非日常的な祭りだ。だが、祭りが終わるとき労働者の帰る居場所は、やはり職業社会や職場社会や地域一般労働社会であり、それぞれにふさわしい形態の労働組合なのである。
 私が労働組合の役割を経済的機能や政治的機能に限局せず、<社会としての労働組合>に執着するのは、労働組合とは、労働者が誰しも、個人のもつ競争資源の乏しい「孤独な稼ぎ人」たることをまぬかれる、なかまとの絆、相互扶助、、生活擁護を闘う協同の場をもたねばならないという思いに根ざしている。そこは居場所だ。一介の労働者は孤立してはやってゆけない。そこに帰属し、絶えずふりかかる受難に連帯して対応できるような居場所が不可欠なのだ。
 私の議論がさしあたり「ねばならない」という「べき論」であり、ユートピア論にすぎないと受けとられることを、私はよく承知している。たしかにいま現時点の現前にあるものは、従来、労働市場での不成功者の苦境をいくらかは緩衝してきた大家族や地域共同体が著しく衰退したのに、帰属すべき<労働社会>のないまま、過重労働や過少雇用、ひいては孤立貧に呻吟するニッポン・プロレタリアーとの群れである。
 企業のノンリート従業員もかつての職場社会の紐帯を失っている。まして、非正規労働者や低賃金の単身者、稼ぎのよい配偶者を欠く女たちは、まったく助け合いや生活改善に協同できるなかまをもたず、非情の雇用主に拾われ棄てられをくりかえし、文字通りの生活苦はどこまでも続いてゆく。最近の手近な文献では、例えば田中洋子編著『エッセンシャルワーカー』(旬報社)、東海林智『ルポ 低賃金』(地平社)などでその一端を知ることができよう。
 そうした孤立と貧困の深刻化に対して、保守政権の行政の吝嗇な生活支援策に心細く依存するだけでいいのだろうか。やはり当事者たちBY THE PEOPLEの営みが不可欠なのだ。 過重労働や貧困に苦しむ人びと自身が、自己責任論の軛を絶って、帰属する<労働社会>を探り当て、その居場所それぞれにふさわしいかたちの労働組合の意識的な構築につなげること。日本でも、クラフトユニオン、コミュニティユニオン、地域一般組合、企業横断の産業別組合など、もっと多様な労働組合が組織されるべきだ。これまでずっと新自由主義の「悪魔の挽き臼」に粉々にされてきた若い世代、いわゆるZ世代の一部は、そう気づいて、ささやかながらその萌芽を育てはじめているのではないか。私のできることはもうほとんどないけれど、<社会としての労働組合>の必要性論を可能性論に高める方途は、なお模索してゆきたいと思う。

 労働組合の性格把握(2)――労働のありかたをめぐる「蚕食」と「取引」                     (2024年1月24日)

 労働組合の機能は、労働市場での賃金決定の規制に留まらず、人間としての尊厳を踏みにじられない働き方を守るための経営管理への介入に及ぶ。
 この社会では労働力は商品ではあれ、一般的な商品とは異なって、人間としての労働者は、みずからの「商品」の使われ方、すなわち日々の働き、具体的には、職場での作業のスピードや要員に左右される仕事量、残業時間や休暇の程度、それに個々の職務への配置ルールなどについて切実なニーズをもつ。しかし使用者側は、働かせ方をとかく生産管理や労務管理の領域に属する経営の専権とみなすのがふつうだ。ここに「経営権」の範囲をめぐって使用者と労働組合がせめぎあう労使関係の歴史が展開するのである。
 私はもともと労働研究を始めた頃から労働そのもののありかたに深い関心を寄せていた。若い私がいくつかの職場見学を通じて衝撃を受けたのはなによりも、作業上の主体的な裁量権を剥奪され労働の意味を感じることのできない「単純労働」のあまりに広汎な普及であった。そこから仕事を遂行する上での労働者の裁量権の程度に深く関わる熟練というものの内容に考察を進める。そこからまた、初期マルクスの理論、いわゆる労働疎外論への傾倒が始まった。その当時、四つの産業における労働者の仕事遂行の裁量権の規定要因を実証し分析する、原著1964年のR・ブラウナー<佐藤慶幸監訳>『労働における疎外と自由』(新泉社)は、私にとって古典であった。そう、疎外と自由は労働の極と対極なのだ。
 こうした問題意識が胸にともってから、私は、1970年の二著、『産業史における労働組合機能――イギリス機械工業の場合』(ミネルヴァ書房)、『寡占体制と労働組合――アメリカ自動車工業の資本と労働』(新評論)として刊行される労働組合の史的研究に入っている。そして私はその研究過程のなかで、イギリスの合同機械工組合(ASE⇒AEU)と、アメリカ自動車産業労働組合(UAW)が、前者はクラフトマンの伝統的な作業自治の延長として、後者は非熟練労働を支配する経営者の職場専制へのしかるべき抵抗として、それぞれに労働そのものにおける一定の自由を確保するために、自治や団体交渉を通じて、労務管理・生産管理の経営権を蚕食してきたことを確認したのである。もっともUAWの場合、たとえば仕事量に関わるベルトコンベアのスピードそのものを団交事項とすることを経営側は断固として拒みとうし、歴史的なシットダウン・ストライキの帰結としての協約では、過重作業に対する苦情処理制度と、人員配置についての厳密なセニョリティを確保するという線で妥協せざるをえなかったけれども。
 こうして二つの組合史の総括として、組合主義の性格把握において、企業の支払い能力に「外在的」か「内在的」かという軸とともに、労働そのものありかたについて経営権の範囲を限定する「蚕食的」と、仕事のありかたは経営に委ねたうえでもっぱらその報酬を高くする「取引的」という、もうひとつの区分軸を設定したのである。

 そのうえでなお二点ほど語りたいことがある。
 その1。組合機能の「企業の支払い能力への外在的」と「内在的」の区分もそうだが、「蚕食的」と「取引的」の区分も時代によって可変的・流動的である。すべての労働組合が働き方をまったく経営管理の決定に委ね、賃金にのみ関心を限定することはありえないだろう。欧米労働組合は、テイラー・フォードシステムの導入を打ち込まれた後も、作業量や仕事範囲や配置ルールについての労働者のニーズを忘れず、執拗に経営管理の支配に抗ってきた。欧米のいわゆる「ジョブ・コントロール・ユニオニズム」は、高次の経営権の承認は前提とするゆえにとかく「体制容認」の労働組合運動とみなされるけれども、職務はわれわれのものというスタンスをもって、日々の働き方に直接かかわる生産管理・労務管理の下部領域を、執拗に自治や職場交渉の許される「労働条件」に変えさせてきたのだ。イギリスではショップスチュワード、ドイツではの経営評議会(レーテ)の従業員代表などがその担い手であった。1979年にイギリスで、右派組合と目されていた郵政労組の委員長N・スタッグにインタビューしたとき、彼は「ユニオニズムの歴史は経営権蚕食の歴史だ」と語って私は深く共感したが、次いで彼がたしかにジョークの口調でなく、「・・・だから私たちはチャールズ1世の首を切った」と言ってのけたのには驚かされたものである。 
 日本の企業別労働組合の歩みにおいても、例えば1950年代後半から60年末まで展開された「職場闘争」は、炭鉱、私鉄、印刷、国鉄や郵政などのいくつかの産業で、生産コントロール、要員確保、平等な配属(査定の規制)、安全保障などの慣行や協約を獲得していた。私たちはそこに、経過的ながら蚕食的組合主義の一定の浸透をみることができる。だが、その後の展開は一途そこからの後退であった。技術革新と日本的能力主義が浸透し三池闘争や国鉄の分割民営化闘争が敗北する過程で、企業別組合は作業量・ノルマ・要員策定、従業員の異動などに関する集団的な発言権・交渉権をことごとく失っていった。そして今、日本の主流派組合は、自動回転するPDCAシステムのなかにあって、労働者の働き方は経営側の一方的決定のもとにある。国際比較をまつまでもなく、そこには経営権蚕食の片鱗もない。現時点の企業別組合は、取引的組合主義の極北に位置するということができよう。

 その2。労働組合の経営権蚕食とは、現実的には、生産管理・労務管理の下部領域への自治権・団交権の拡大にほかならないが、左翼台頭期のヨーロッパでは、そのかなたに労働組合自身が産業を管理するWorkers’Control論が胚胎していた。1910~20年代イギリスでの公式組合から自立したショップスチュワード運動が生み出したこの思想は、1960~70年代の「管理社会」化の人間疎外を注視するイギリスやフランスのニューレフトに再評価され、そこからは自主管理社会主義の構想が生まれることになる。
 ASE・AEUの軌跡に示唆を受け、またその時期が思想形成期でもあった私は、1976年の論文集『労働者管理の草の根』(日本評論社)に示されているとおり、このワーカーズ・コントロール論に帰依していた。その勉強の過程では、ワーカーズコントロールの文献集ともいうべき大著Ken Coates/Anthony Topham:Industrial Democracy in Great Britain(Macgibbon&Kee、1968)に学ぶとことが多かった。しかし、思想系譜の点でとくに教えられたのは、1969年刊行のダニエル・ベル<岡田直之訳>『イデオロギーの終焉』(東京創元新社、原著1960年)所収の「マククスからのふたつの道」である。 この論文は、マルクスの搾取論と並ぶ疎外論および「労働者における労働者統制(管理)に焦点をすえて、革命ロシアにおける「労働組合反対派」がたどった運命、労働組合の国家管理に帰着する悲劇的な敗北(ソ連共産党による疎外論の搾取論へ上からの埋め込み)をみつめ、ひいてはイギリスやドイツにおけるサンディカリズム的な運動の挫折を冷静に描いている。それでもベルは、それらの軌跡のうちに「疎外を終わらせるためには、労働過程そのものを検討しなければならないという根本的洞察が・・・失われた」と総括し、「労働者の労働生活に直接の影響を与えることがら――労働のリズム・ペース、公正な賃金支払い基準を制定する際の発言権、労働者に対するヒエラルヒーの抑制――に対する職場におけるコントロール」になお「下からの労働者による管理」の決定的な意義を見いだている。そしてそのかけがえのなさの認識は、西欧ユニオニズムでは、人員配置についての経営者の査定を排した先任権、労働者間の正当な賃金格差、労働のぺース・テンポの規制・・・などのかたちでなお生きているという。産業の全体的な管理というアナルコ・サンディカリストの夢は失われた。けれども、 Workers’Controlの発想を受け継ぐ、日常の働きかたに関する労働組合の平等と発言権の要求、すなわち蚕食的ユニオニズムは、今なお私のものである。