労働組合の性格把握(2)――労働のありかたをめぐる「蚕食」と「取引」                     (2024年1月24日)

 労働組合の機能は、労働市場での賃金決定の規制に留まらず、人間としての尊厳を踏みにじられない働き方を守るための経営管理への介入に及ぶ。
 この社会では労働力は商品ではあれ、一般的な商品とは異なって、人間としての労働者は、みずからの「商品」の使われ方、すなわち日々の働き、具体的には、職場での作業のスピードや要員に左右される仕事量、残業時間や休暇の程度、それに個々の職務への配置ルールなどについて切実なニーズをもつ。しかし使用者側は、働かせ方をとかく生産管理や労務管理の領域に属する経営の専権とみなすのがふつうだ。ここに「経営権」の範囲をめぐって使用者と労働組合がせめぎあう労使関係の歴史が展開するのである。
 私はもともと労働研究を始めた頃から労働そのもののありかたに深い関心を寄せていた。若い私がいくつかの職場見学を通じて衝撃を受けたのはなによりも、作業上の主体的な裁量権を剥奪され労働の意味を感じることのできない「単純労働」のあまりに広汎な普及であった。そこから仕事を遂行する上での労働者の裁量権の程度に深く関わる熟練というものの内容に考察を進める。そこからまた、初期マルクスの理論、いわゆる労働疎外論への傾倒が始まった。その当時、四つの産業における労働者の仕事遂行の裁量権の規定要因を実証し分析する、原著1964年のR・ブラウナー<佐藤慶幸監訳>『労働における疎外と自由』(新泉社)は、私にとって古典であった。そう、疎外と自由は労働の極と対極なのだ。
 こうした問題意識が胸にともってから、私は、1970年の二著、『産業史における労働組合機能――イギリス機械工業の場合』(ミネルヴァ書房)、『寡占体制と労働組合――アメリカ自動車工業の資本と労働』(新評論)として刊行される労働組合の史的研究に入っている。そして私はその研究過程のなかで、イギリスの合同機械工組合(ASE⇒AEU)と、アメリカ自動車産業労働組合(UAW)が、前者はクラフトマンの伝統的な作業自治の延長として、後者は非熟練労働を支配する経営者の職場専制へのしかるべき抵抗として、それぞれに労働そのものにおける一定の自由を確保するために、自治や団体交渉を通じて、労務管理・生産管理の経営権を蚕食してきたことを確認したのである。もっともUAWの場合、たとえば仕事量に関わるベルトコンベアのスピードそのものを団交事項とすることを経営側は断固として拒みとうし、歴史的なシットダウン・ストライキの帰結としての協約では、過重作業に対する苦情処理制度と、人員配置についての厳密なセニョリティを確保するという線で妥協せざるをえなかったけれども。
 こうして二つの組合史の総括として、組合主義の性格把握において、企業の支払い能力に「外在的」か「内在的」かという軸とともに、労働そのものありかたについて経営権の範囲を限定する「蚕食的」と、仕事のありかたは経営に委ねたうえでもっぱらその報酬を高くする「取引的」という、もうひとつの区分軸を設定したのである。

 そのうえでなお二点ほど語りたいことがある。
 その1。組合機能の「企業の支払い能力への外在的」と「内在的」の区分もそうだが、「蚕食的」と「取引的」の区分も時代によって可変的・流動的である。すべての労働組合が働き方をまったく経営管理の決定に委ね、賃金にのみ関心を限定することはありえないだろう。欧米労働組合は、テイラー・フォードシステムの導入を打ち込まれた後も、作業量や仕事範囲や配置ルールについての労働者のニーズを忘れず、執拗に経営管理の支配に抗ってきた。欧米のいわゆる「ジョブ・コントロール・ユニオニズム」は、高次の経営権の承認は前提とするゆえにとかく「体制容認」の労働組合運動とみなされるけれども、職務はわれわれのものというスタンスをもって、日々の働き方に直接かかわる生産管理・労務管理の下部領域を、執拗に自治や職場交渉の許される「労働条件」に変えさせてきたのだ。イギリスではショップスチュワード、ドイツではの経営評議会(レーテ)の従業員代表などがその担い手であった。1979年にイギリスで、右派組合と目されていた郵政労組の委員長N・スタッグにインタビューしたとき、彼は「ユニオニズムの歴史は経営権蚕食の歴史だ」と語って私は深く共感したが、次いで彼がたしかにジョークの口調でなく、「・・・だから私たちはチャールズ1世の首を切った」と言ってのけたのには驚かされたものである。 
 日本の企業別労働組合の歩みにおいても、例えば1950年代後半から60年末まで展開された「職場闘争」は、炭鉱、私鉄、印刷、国鉄や郵政などのいくつかの産業で、生産コントロール、要員確保、平等な配属(査定の規制)、安全保障などの慣行や協約を獲得していた。私たちはそこに、経過的ながら蚕食的組合主義の一定の浸透をみることができる。だが、その後の展開は一途そこからの後退であった。技術革新と日本的能力主義が浸透し三池闘争や国鉄の分割民営化闘争が敗北する過程で、企業別組合は作業量・ノルマ・要員策定、従業員の異動などに関する集団的な発言権・交渉権をことごとく失っていった。そして今、日本の主流派組合は、自動回転するPDCAシステムのなかにあって、労働者の働き方は経営側の一方的決定のもとにある。国際比較をまつまでもなく、そこには経営権蚕食の片鱗もない。現時点の企業別組合は、取引的組合主義の極北に位置するということができよう。

 その2。労働組合の経営権蚕食とは、現実的には、生産管理・労務管理の下部領域への自治権・団交権の拡大にほかならないが、左翼台頭期のヨーロッパでは、そのかなたに労働組合自身が産業を管理するWorkers’Control論が胚胎していた。1910~20年代イギリスでの公式組合から自立したショップスチュワード運動が生み出したこの思想は、1960~70年代の「管理社会」化の人間疎外を注視するイギリスやフランスのニューレフトに再評価され、そこからは自主管理社会主義の構想が生まれることになる。
 ASE・AEUの軌跡に示唆を受け、またその時期が思想形成期でもあった私は、1976年の論文集『労働者管理の草の根』(日本評論社)に示されているとおり、このワーカーズ・コントロール論に帰依していた。その勉強の過程では、ワーカーズコントロールの文献集ともいうべき大著Ken Coates/Anthony Topham:Industrial Democracy in Great Britain(Macgibbon&Kee、1968)に学ぶとことが多かった。しかし、思想系譜の点でとくに教えられたのは、1969年刊行のダニエル・ベル<岡田直之訳>『イデオロギーの終焉』(東京創元新社、原著1960年)所収の「マククスからのふたつの道」である。 この論文は、マルクスの搾取論と並ぶ疎外論および「労働者における労働者統制(管理)に焦点をすえて、革命ロシアにおける「労働組合反対派」がたどった運命、労働組合の国家管理に帰着する悲劇的な敗北(ソ連共産党による疎外論の搾取論へ上からの埋め込み)をみつめ、ひいてはイギリスやドイツにおけるサンディカリズム的な運動の挫折を冷静に描いている。それでもベルは、それらの軌跡のうちに「疎外を終わらせるためには、労働過程そのものを検討しなければならないという根本的洞察が・・・失われた」と総括し、「労働者の労働生活に直接の影響を与えることがら――労働のリズム・ペース、公正な賃金支払い基準を制定する際の発言権、労働者に対するヒエラルヒーの抑制――に対する職場におけるコントロール」になお「下からの労働者による管理」の決定的な意義を見いだている。そしてそのかけがえのなさの認識は、西欧ユニオニズムでは、人員配置についての経営者の査定を排した先任権、労働者間の正当な賃金格差、労働のぺース・テンポの規制・・・などのかたちでなお生きているという。産業の全体的な管理というアナルコ・サンディカリストの夢は失われた。けれども、 Workers’Controlの発想を受け継ぐ、日常の働きかたに関する労働組合の平等と発言権の要求、すなわち蚕食的ユニオニズムは、今なお私のものである。

その7 労働組合の性格把握(1)
――企業の「支払能力」への外在と内在
(2023年11月2日)

 連載もこれまでは主として研究史中期に意識した私の研究方法の視点・視角のいくつかを紹介してきたが、これからしばらくは初期からの研究内容に関わるキーワードの端的な説明を試みたい。やはり生涯のテーマとなった労働組合運動を理解する勉強からはじめよう。
 労働組合は、労働生活の必要性と可能性を共有する自然発生的なグループ、私のタームでは<労働社会>の組織化であり、その要求は、その<労働社会>のなかに芽生える競争制限的な黙契の意識化である。別項で扱う予定であるが、私はこのように労働組合の原点を構想する。もっとも、この<労働社会>論を定式化できたのは1976年の『労働社会管理の草の根』(日本評論社)であって、それまで研究者としてのごくはじめには、イギリスの合同機械工組合(ASE⇒AEUW)とアメリカの自動車労働組合(UAW)の軌跡を辿ることに専念していた。その際、分析の着眼点は、労働力の技能的性格(基幹職務の熟練の程度)と、b産業の製品市場のありかた(自由競争か寡占か)であった。一方、日本の労働組合の状況には院生時代から絶えず関心を寄せていたが、その際、この国の組合機能がまぬかれない個別企業の「支払能力」の軛というものがいつも念頭を去らなかった。 ふたつの組合の史的研究は、1970年の『産業史における労働組合機能――イギリス機械工業の場合』(ミネルヴァ書房)と、『寡占体制と労働組合――アメリカ自動車工業の資本と労働』(新評論)として刊行される。その結論的な命題として私は、労働組合の基本的課題として、次の二点を導き出している。
 ①個別企業の枠を超えて、その職種、その産業の労働者全体に、賃金や労働条件の標準(ウエッブ夫妻のいう「共通規則」)を獲得すること
 ②仕事のありかたに関する「経営の専権」を労働者自治や団体交渉および協約の範囲拡大によって蚕食してゆくこと
その上で私は、①②の達成の程度によって、労働組合機能の性格を、若書きの生硬な表現で、①A「製品市場外在的」と①B「製品市場内在的」、②A「蚕食的」と②B「取引的」に分類して把握したのである。先の「基本的課題」に照らせば、私が労働組合の理想型を①A、②Aに求めていることは自明であるけれど、組合運動の現実はつねに領域の①でも②でも、Bのありかたを求める資本と体制の働きかけに遭遇し、Aの曖昧化やBへの妥協を余儀なくされている。

 このふたつの評価軸のうち、今回は①軸についてのみ、もう少しコメントを加えよう。 ①A製品市場外在的ユニオニズムは、個別企業の支払能力の格差にかかわらず、職種別組合または産業別組合のストライキや団体交渉を通じて、基本的な労働条件を保障する統一的な労働協約にまとめあげる。ここでは組合機能は個別企業の支払能力に「外在」しており、労働条件は企業経営にとっていわば「与件」とされているのだ。総じて西欧では統一交渉・統一協約、アメリカの大企業界隈ではパターンバーゲニング(まず有力企業に交渉をしかける)・企業単位の協約(他社もほぼ追随する)――という違いはあれ、労働条件決定が雇用主の支払能力に左右されるべきではないという労使関係は、欧米ではノーマルな慣行であり当然のことなのである。
 それに対し、①B製品市場内在的ユニオニズムは、労働組合が組合員を雇用する企業の市場競争上の位置に配慮し、その「支払能力」に忖度して、結果として賃金などの企業間格差を容認する。ここでは個別企業を横断する職種別または産業別協約が欠如しているのが常態である。日本の企業別組合がまさに製品市場内在的組合主義の極北に位置することはいうまでもあるまい。
 とはいえ、このような分類を示して、①Aを推奨し、①Bを批判するだけに留まれば、現実の労働組合運動の分析としてはあまりに表面的にすぎよう。私も初期から意識していた留保点に加えて、その後の動向を瞥見してみよう。まず認識すべきは、どの国でも、資本が労働条件決定を支払能力の(与件ではなく)函数とさせようとする意思の強烈さである、もっとも経営側の唱える「支払能力」はたいてい、その余力を探るさまざまの経営施策を棚上げにした上でのことであるけれども。
 しかし例えば、西欧型の統一協約のばあい、共通規則としての賃金額は総じて最低規制に近いフロアになりがちである。そのとき、支払能力に余力のある企業では、生産性向上に報いようとする経営者と「余力」に応じた加給を求める組合下位組織との企業内交渉によってフロアに+αを加えがちである。ここにいわゆる「賃金ドリフト」が生まれる。また米国型のパターン交渉・パターン協約の場合には、しばしば不況期には、下請企業などでは、大企業でのパターンに従うことの雇用保障への影響などを心配して、パターンから下に乖離する賃金支払いに労使が合意することがありうる。西欧と米国いずれの場合にも、結果は一定の企業間労働条件格差の発生である。その分、現実には、①A・製品市場外在的ユニオニズムはいわば「不純化」するのである。
 そのうえ、新自由主義の台頭に伴う内外の企業間競争の激化と労働運動の一定の後退のなかで、資本側はいっそう企業の枠を超える統一的な労働条件協約の適用範囲を狭める攻勢を強めつつある。統一協約がとくに整然と整備されていたドイツでも、岩佐卓也の『現代ドイツの労働協約』(法律文化社、2015年)がくわしく分析するように、協約拘束範囲の縮小、協約規制の個別企化、協約賃金の低水準化への資本攻勢が強まって、従来型協約の改変がどの程度許されるかをめぐる労使紛争が展開されている。従来の協約形態を守り切ることはこの国の産業別組合の強靱な交渉力をもってしてもひっきょう難しいだろう。グローバルな流れとして、①B製品市場内在的、すなわち個別企業の支払能力を少なくとも一定程度は顧慮する組合機能への傾斜は、さしあたり避けがたいように思われる。

 では、日本の労働組合についてはどうか。
製品市場内在的ユニオニズムの代表格である日本の企業別組合にしても、高度経済成長で人不足の時期には、やはり企業横断的な協約は欠如していたとはいえ、春闘のベースアップ水準の高位平準化というかたちで、結果的に一定の製品市場外在性を示したということができる。60年代末代~70年代はじめにかけては、例えば機械金属産業での高率の賃上げは、ホワイトカラーを含むほとんど全産業の労働者に波及し、私鉄のストを経て公労協の仲裁裁定、はては公務員の人勧にまで影響を及ぼした。「国民春闘」の「相場」が成立していたのだ。この時期、企業の賃金決定要素のうち「支払能力」は著しく比重を低め、あらゆる基準での賃金格差はかなり縮小をみている。
 けれども、低成長時代が到来し、紆余曲折を経たうえでそれが常態化したとき、もともと欧米のような製品市場外在性を保証する協約の制度と慣行をもたなかった日本では、「里帰り」が当然であった。春闘相場は不確かになり、まったき支払能力の支配が復権を遂げた。企業間賃金格差の縮小も進まなくなった。そしておよそ80年代このかた、賃金ベースは支払い能力に代表される企業経営の都合で決まり、個人の賃金は社会的な規範から自由な査定によって決まる――それが疑いを容れない日本の常識となった。現時点では政財界はもとより、主流派組合のリーダーたちでさえ、製品市場外在性という組合機能のあり方なぞ思い及びもしない。
 だが、その徹底した製品市場内在性が多くの労働者階層にもたらす格差と差別の影はあまりに濃い。とはいえ、試練に晒されているにもかかわらず、それでもなおグローバルには、「共通規則」の確保を旨とする製品市場外在性というユニオニズムの原理は、その輝きを失ってはいない。企業規模、雇用形態、性や国籍を問わず、多様な労働者すべての階層についてかならず存在すべき労働条件の社会的規範というものが、経営側のいう「支払能力」によってずたずたにされている日本の労働状況は克服されなければならない。

その6 ノンエリートの自立
(2023年9月12日)

 1960年代末から70年代末という研究史初期の著作のなかで、私は主なテーマであった労働組合について、その形態や機能を把握するいくつかの区分論を提起している。その内容は追々紹介したいが、今回はとりあえず、労働組合の思想の核とみなされる考え方をつかむ私のキーワードを紹介したい。それは1981年の著書(有斐閣)のタイトルにもなった<ノンエリートの自立>である。
 産業社会に不可避の分業体制のなかで、労働者の多くが携わるのは、裁量権は乏しいのに肉体的または神経的な労役を求められ、賃金・労働条件は相対的に劣悪な仕事である。裁量の巾の大きい精神労働を遂行し、そのうえ相対的に高賃金のマネージャーや上級ホワイトカラーの業務とは異なる。後者の「エリート」に対し前者は「ノンエリート」と分けることができる。むろんふたつの区分のなかにも、複数の階層、「可視的ななかま」の範囲(私のいう「労働社会」)を異にするいくつかのグループがあることは確かであろう。しかし労働組合論の場合、私は大きな区分軸としては「階級」を用いない。今日、エリートの一部は定義上の「労働者階級」にふくまれもし、それは新自由主義国ではもとより、「搾取」のないはずの「社会主義国」にも現存して、ノンリート大衆を支配し操作している。労働組合は、体制のいかんに関わらず、エリート層の支配・操作と闘おうとするノンエリート層にとって不可欠なのである。

 どのような意味で不可欠なのか。ノンエリートの立場にあることが耐えがたいとき、人は当然、その立場からの上向脱出を図るだろう。だが、現実を直視すれば、その脱出の過程は、教育課程、「就活」、社内での昇進をめぐる、長期にわたり時には世代を超えて続くしのぎを削る競争の過程である。なによりも心身の消耗、周辺の評価を忖度しての自由の抑制、歓びの享受の不本意なくりのべなどは避けられない。それになによりも、「その3」で書いたように分業の分布が基本的に上部に薄く下部に厚い構造であるかぎり、経済の局面によっていくらか異なるとはいえ、歴史的事実として競争の成功者は総じて少ない。地位を求めて得られず、ということのほうがふつうなのだ。
 そんなことを体験するなかから世界の労働者が選んだ叡智が労働組合運動であった。それは「脱出」を夢見るのではなく、ノンエリートの立場のままで、地味なエッセンシャルワークを担う者のプライドを心に刻み、人間としてのディーセント・ワークを求める闘いである――生活できる賃金、仕事に関する決定参加権、そして労働現場での自由と発言権を! すなわち、エリートの立場と文化への追随を拒む。それが<ノンエリートの自立>の意味するところである。それに現代社会学の知見を加えるならば、エリートの仕事には多分に社会的には「クソどうでもいい」プルシット・ジョブが含まれるのに対し、ノンエリートの仕事は総じて誇るにたるエッセンシャルワークなのである。

 とはいえ、実は事柄はそれほど単純ではない。エリートの立場に経上がることは、ノンエリートたちにとってすぐには否定できない原初的な願いである。それに「権威主義」を脱した近代社会では、権力の側も、人材登用による体制の安定と効率化の必要性から、この「経上がる」機会の開放、一定の機会の平等化を進めるのがふつうである。個人主義が現代社会の通念とってゆくなか、グローバルな規模で、人びとの世智として、<ノンエリートの自立>が容易には多数者の選択にならない理由がここにある。労働者の生活を守る方途の選択も、なかまと協同の労働組合運動よりは、選別の個人間競争への雄々しい投企になりがちなのである。
 とりわけ私たちの国は、<ノンエリートの自立>の思想にとって厳しい風土だったように思われる。その理由は歴史的かつ重層的である。ラフながら説明を試みよう。
 ①明治維新以来、近代日本のタテマエは、階級形成が、門地門閥、生まれつきの「生得的」ではなく、努力と精進しだいの「結果的」であった
 ②人びとはあるいは「立身出世主義」、あるいは「(二宮)金二郎主義」でがんばる道徳を内面化してきた
 ③他方、権力は庶民がその立場のままで闘う労働組合運動を決して容認しなかった
この三者はみごとな相互補強関係を保って、<ノンエリートの自立>の思想、それを体現する産業民主主義の不毛を近代日本の伝統とさせたのである。
 戦後の労働運動は、階層上昇機会の平等化というタテマエをホンネ、つまり実態とさせることを追求し、高度経済成長期には、消費生活のスタイルにおける「一億総中流」をかなり実現させている。けれども労働運動は、戦後民主主議をすぐれて、権力の側も正面から否定するわけではない「機会の平等」と理解したかにみえる。「一億総中流」の成果ゆえにこそというべきか、「機会の平等」の民主主議の陰に潜む日本伝統の<ノンエリートの自立>という思想の希薄さは、十分に意識化されないままであった。労働組合は、機会の平等の不徹底さを批判する告発はしても、「ノンエリートのままで生活と権利を!」という発想が労働運動の思想的基盤になってはいなかったのである。

 この診断は辛辣にすぎるだろうか。だが、私が2020年代という時点で、このような回顧を試みるにはそれなりの理由がある。およそ90年代半ば以降、日本経済「ジャパン アズ ナンバーワン」の時代、「一億総中流」の時代は昔日のものとなった。経済格差は拡大し、増加を続ける非正規労働者を中心に貧困層が累積した。就職氷河期に働き始め、いま社会の中核に位置するロスジェネ世代(40~50代)の多くは、正社員であっても賃金停滞や雇用不安に怯えるノンエリートになり、あるいはかなりの層がいつまでもパート、派遣、アルバイトのまま生活苦に呻吟する。その子どもたちのZ世代(20~30代)のうち、「俺ってすごいな」と自賛するエリート層も輩出しているとはいえ、やはり不安定雇用で都市雑業のなかを流動している若者も数多い。
 Z世代のなかには企業外の労働組合運動によって、労働条件の改善に立ち上がる事例が現れている。それはひとすじの希望だ、だが、端的にいえば、今のままではまともに生活できないノンエリート労働者のこのように広汎な存在は、戦後史上初めての事象であろう。いうまでもなく、<ノンエリートの自立>の思想は、当然の権利としての労働組合運動、ストライキや占拠や会社前抗議などの直接行動の基礎である。個人の受難-個人責任-個人的解決、そう直結させる新自由主義のひずみが極まる現時点なればこそ、この国では長らく少数者のものと私も半ばあきらめていた、80年代以来の<ノンエリートの自立>をいまいちど鼓吹したいのである。ノンエリートがエリートになる機会が増えるのは民主化ではあるけれど、ノンエリートがエリートに支配・操作されることがない社会はもっと根底的に民主主義的なのだ。

その5 民主主義工場の門前で立ちすくむ (2023年8月10日)

 1979年~96年にいたる研究史の中期に提起した私の命題として、ここにもうひとつ、これまでに述べた日本の労働者の主体的なマンタリテ(心情)をめぐる諸概念とは異なる、直截な労働状況の把握に関する私のキーワードを紹介したい。「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」である。
 この言葉はときに私の造語とみなされもする。しかし実は、70年代のイギリス労働党大会におけるジャック・ジョーンズ(運輸一般労働組合の左派リーダー)のスピーチから私が読み取った言葉、Democrasy stops at the factory gate の翻訳である。労働組合の強靱なイギリスでさえ職場はなお労働者の発言権、決定参加権は乏しいと意識されていたのだ。では、日本ではどうか?
 1973年の『労働のなかの復権』(三一新書)、81年の『日本の労働者像』(筑摩書房)における企業社会の探求、もっと直接的には東芝府中人権裁判闘争の記録の精読を通じて私は、日本企業の労務管理の徹底した「異端」へのいじめと排除、ふつうの従業員の行動と発言のおそるべき抑制のようすを思い知った。企業社会はなんという自由と民主主義が不毛の界隈だったことだろう。従業員として労働者たちは、企業のあらゆる要請を呑み込み、<強制された自発性>に駆動されて、黙々と働く存在であった。職場の労働そのものと人間関係に関わる労働組合機能は不在だった。「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」は、その状況への端的な告発である。それは私と同様の危機感を抱く少なからぬ人びとの共感を呼んだと思う。この告発の言葉はそして、いみじくも東芝府中人権裁判闘争についての講演録を巻頭におく1983年の論文集(田端書店)のタイトルになったのである。
 
 それからおよそ40年後の現在、この告発はなお生きているだろうか? 
 今では「工場」というタームはホワイトカラーの事務所、販売店、学校や病院、戸外の作業現場などをふくむ「職場」一般にまでに広げられるべきだが、無愛想に言ってのければ、それらの「職場」における労働者の発言権、決定参加権、つまり民主主義は、以前よりもいっそう不毛になったと思う。ハラスメントとよばれるいじめは訴えの件数だけでも最多項目のまま増加の一途であり、それに対抗すべき職場の労働組合は無力なままである。その意思決定の会議は、あたかもひとつの異論も出ない中国の「全人代」のようだ。例えばかつて教師たちの「職員会議」は談論風発の場であったが、いまは単なる管理者からの意思伝達機関である。2006年まで奉職した大学の教授会でも、90年代頃から私はよく、この議題は、ここ(教授会)で諾否を決定できるものなのか、大学執行部の提案に参考意見を述べるだけのものなのかと問い詰めたものである。要するに提案の決定権というものがふつうの教員から実質的に剥奪されていったのである。
 
 もう少し敷衍して考えてみよう。最近、私が痛感することは、ふつうの人びとが日常的に帰属する界隈――職場、地域社会、子どもたちの教室、NET上の交友関係、PTA、公園のママ友・・・などに瀰漫する強力な同調圧力である。時代の諸変化の合力によって、良かれ悪しかれ、家庭・家族関係のみは例外的に同調圧力が弱まっているかにみえるけれども。
 そんな界隈では、さまざまな理由からおよそ批判精神を失ったロスジェネ(40代~50代前半)の小ボスたちの、とにかく波風を立てまいとする慣行遵守の卑俗な現実主義がまかりとおっている。いくらかは人権や民主主義の感性をもつ人びとが声をあげても、彼ら、彼女らは、まず異端のKYとみなされて、孤立し、ときには排除されてしまう。それゆえ、少数の感性豊かな潜在的な体制批判者も、「そっち系」のKYとみなされる「空気」を怖れ、黙り込むのである。
 職場という界隈は、多くの人びとにとって生活の上で帰属が不可欠であり、容易には離れがたい。だが、その職場とそこに癒着する労働組合こそは、この同調圧力がとくに際立つ場である。そこでの小ボスは、課長や係長といった下級管理者、そして昇進を目前にした精鋭従業員である。その界隈において労働者個人が、過重ノルマ、長時間労働、パワハラ・・・のもたらすメンタル危機や過労死・過労自殺などを、個人責任ではなく経営施策の問題にほかならないと発言するには、並外れた勇気を必要とする。それゆえ、潜在的には必ず存在するだろうこの勇気ある発言者を掬う、企業外からのユニオン、行政、法律の働きかけが絶対になければならない。依然として「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」状況だからである。   
 ちなみに職場を中心とする界隈の「異端者」は、穏健な他のメンバーからは、しばしば、界隈の任務遂行に消極的で、つきあいの悪い人、まぁ「いやな奴」とみなされていることも多い。しかし、以上の総ての叙述から、人権とはすぐれて「いやな奴」のためのものだという命題が導かれよう。「いやな奴」の人権は多少とも制限されても仕方ないと考えるとき、私たちは多様性の否定を旨とするファシストへの道を歩みはじめるということができる。

その4 被差別者の自由
(2023年5月12日)

 労働問題の勉強のはじめから単純労働、分業と配置のありように深い関心を寄せていた私が、やがてこれらの議論に不可欠の位置を占める女性労働というものを研究対象のひとつとするようになったのは必然であった。とはいえ、研究初期の営みは、後に述べるように、伝統的な「3Mの領域」(man、manual、manufacturing)に限局された労働組合研究であって、本格的に女性労働の状況に取り組んだのは、前掲『職場史の修羅を生きて』所収の『歴史学研究』84年1月の論文「女性労働者の戦後」においてだった。歴史から文学に及ぶあらゆる知見を動員して懸命に執筆した記憶がある。そこで私は、「単純労働への緊縛、低賃金、短勤続という相互補強的な三位一体」および単純労働脱出の性別ルート(前項参照)を、女性労働のおかれた基本的枠組みと規定している。
 しかし、この構造に対する女性の主体的対応については、愛読していた森崎和江が、「女は『権力や支配力の外』にいて『不安なく遊べる状態』をのぞみ・・・『被害者の自由』をへそくりのように溜めています』と指摘していることに大きな影響を受けたと思う。未婚の{OL}であれパートタイマーであれ、私が昭和40年代以降の女性労働者のまずは屈託ない仕事観を<被差別者の自由>と規定したのは、上の森崎の鋭い指摘のいわば剽窃に近い表現にすぎない。
 日本企業において女性は仕事内容でも、賃金でも、雇用保障の実質でも、構造的に差別されている。だから企業や経営のことに責任を感じなくてもいい、そんな自由をもつのだという感覚。これは権力から疎外された者の小気味よい無責任であって、この規定にいささかも侮蔑もない。私は後年、一部のエリート女性に活躍の場をそれなりに用意する男女雇用機会均等法が成立し、能力主義管理の浸透する1993年に、あらためて「被差別者の自由――日本的能力主義と女性」という短い論文を書いている(『賃金と社会保障』1109号)。私は仕事に「後ろ向き」のこのスタンスを、むしろ欧米ブルーカラーも共有するようなノンエリートの思想として定立を試みたのである。
 この把握には多くの女性研究者から賛否両論の反応があった。なかには男の私には女性への侮蔑があるという本能的な反発もあった。しかし、この立場の限界または(正当にしても)その経過性を指摘するまっとうな批判もあった。ひとつは<被差別者の自由>論は、能力主義に背を向けてもそれに対抗する思想になり得ず、職場の性差別構造を撃つ実践性はないという批判、今ひとつは、これは結局、女性を職場から遠ざけ性別役割分業を承認させることになるという批判である。私も支援の陣営にあった住友三社の性差別告発の裁判闘争を担う論客、中島弁護士なども、そうした批判の論調であった。
 これらの点は、実は私自身、自覚するところであって、こうした批判は正当であった。私はむしろ、84年の論文でも、いったん企業の論理に外在的になったノンエリート女性性たちが、欧米のユニオニストのように連帯して、例えば家事一切を免除される男の働きぶりを基準とする能力主義を昔日のものとするような仕事の編成に乗り出す、そんなことを展望していたのである。この展望はなお夢想のままであるかぎり、<被差別者の自由>の概念は死に絶えてよい。だが、現時点において多様な非正規雇用の女性労働者が企業の内部にまで攻め上るとき、彼女らはひっきょう思想としての企業外在性を自覚するはずである。

その3 分業の構造と受容 
(2023年5月2日)

 <強制された自発性>の概念化は80年代のことであるが、このような把握の由来を回顧すると、研究史初期の60~70年代以来の私の大きな関心分野であった単純労働論と分業論にさかのぼることに、いま気づく。分析の方法意識の枠を超えた初期の研究内容に立ち入ることになるけれど、系論として、若い日に確信したことをふりかえってみよう。
 60年代に労働問題の勉強をはじめた私の目に映じた衝撃的な現実は、高度経済成長下の日本の職場に広く普及していた膨大な密度高い単純労働であった。どのような機会にそれぞれの職場の現実にふれたのかもう思い出せないけれど、例えば、東芝の汎用モーター工場の巻線・組線職場、総理府統計局のキー・パンチャー室、電電公社の「104番」電話番号案内作業場・・・などでは、大きな建屋の中でずらりと並んだたくさんの若い女性たちが、脇目もふらず一心にそうした手作業をしていた。少し後に、私は懸命に学んだC・ウォーカー、R・ブラウナーなど英米の労働社会学の自動車組立工――assembler 機械製作の熟練仕上工fitterとは区別される非熟練工――の細かい分析などを参考にして、単純労働を、作業方法、作業時間などの裁量権をもたず、機械と労務管理に命じられるまま作業する労働者と定義した。その定義はともあれ、私には単純労働は、日々息つく暇もないほどにゆとりがないばかりか、長く続けてゆくにはつらすぎる仕事であるように感じられた。当時、このような仕事はどれほど多かったことだろう。そして高度経済成長下の日本は、賃金水準は改善できても、こうした単純労働の要請を決して否定できないと私は確信したのである。だが、それにしても、彼ら、彼女らは、なぜこのような資本に求められるしんどい労働を、引き受けてくれるのだろうか?
 一方、私はそのころ、師匠のひとりである科学史家・中岡哲郎から決定的に大切なひとつの認識を教えられた。それは、生産と情報処理のシステムの一角が高度にオートメーション化されても、産業社会は、そのオートメーションの効率性を活かせるために、さまざまの単純労働の担い手をいっそう必要とするということである。例えば自動車のエンジンの穴開け作業がオートメ化されれば、その作業のスピードに対応するためには、以前よりも多くの単純作業のアッセンブラーが求められるいうわけである。形成される全体の分業構造は、そしてやはり、基本的には労働「やりがいの度合い」において上に薄く下に厚いピラミッド型、小池和男の穏健な表現では「将棋の駒型」であった。
 膨大な単純労働の現存とシステムのなかの多様な労働の分布をみる必要性。このふたつは私を分業の論理とその安定性への考察に向かわせる。およそ権力の求める産業社会の秩序は、分業体制の安定的な秩序維持なくしては覚束ない。近現代の権力のニーズは、それゆえ、とくに単純労働を中心とする下位労働の就業に「ふさわしい」とみなす人びと、すなわち、そうした就業を「叛乱」なく引き受けてくれる人びとを見いだすことにほかならない。では、それはどのような人びとか。大きくふたつの属性があると思う。
 ①長年の貧困や失業の体験、高度な仕事のまったき無経験などによって、就業さえで きれば仕事の内容はさして重要ではないと考える、またはそう考えさせられる人びと。 わかりやすく現時点の日本を念頭において具体的に挙例すれば、それはノンエリート の女性たち、非正規体験の続いた求職者、低学歴者、定年後再就業の高齢者、技能修 習などの外国人労働者・・・である。
 ②下位職務の遂行がただ経過的なものと意識している人びと
こうした単純労働の分析や分業の把握は、初期1976年の『労働者管理の草の根』(日本評論社、1976年)所収の「労働単純化の論理と現実」、「労働意識の背景」、「労働疎外論の今日」などの諸論文に明瞭である。そして私はあらためて、後期2000年の『女性労働と企業社会』(岩波新書)三章のなかで、この分業と配置の構造を定式的に述べている。もちろん、分業の安定的維持を支える労働者の下位職務への就業が<強制された自発性>の選択以外ではないことはいうまでもない。そのうえで上の①と②についてもう少し述べておく。
 まず②について語れば、続けてゆくにはつらすぎる単純労働・下位職務の遂行者は数多いが、労働者はそれを職業生活の一経過点として上位職務に「脱出」できれば耐えることができるかもしれない。ではどのように脱出するのか。これまでのところ、男性は年功制のもと昇進によって「上に」、それが難しい女性は結婚・出産退職によって家庭に、つまり「横に」脱出してきたのである。しかし②の脱出の選択は、とくに現時点では、①にあげた恵まれない就業者の群像には、利用できない場合のほうが多いだろう。彼ら、彼女らは、「脱出」といっても同種の仕事を強いられる別の職場への脱出であって、貧困の強制を逃れられず、わずかでも稼げることを恩恵として、その点だけでは自発的に労苦に耐え続けるのだ。私たちは農業、工場、建設現場、大量販売店、ファストフッド・・・で、どれほど多くの密度高く身体が疲れる、拘束的な単純作業者、コールワーカー、店員、警備員、配送係の低賃金労働者の群像を眼にすることだろう。非正規雇用から逃れられない低学歴の女性たち、フリーターやアルバイト、乏しい年金収入を補うために働く高齢者、そしてベトナム人やネパール人である。
 社会の歴史的変化によって、こうした群像が下位職務の受容を拒むようになるという心の踊る可能性はある。たとえば女性のジェンダー規範からの離脱、非正規雇用者のユニオニズムの台頭、外国人労働者の権利擁護などがあれば、分業秩序に対する異議申し立てが起こりえよう。1972年、アメリカはオハイオ州ローズタウンのGMペガ工場では、単純で他律的なコンベア作業の労働者7800人が「(賃金ではなく)このような内容の仕事はいやだ」と山猫ストに入ったものだ。若い日にその報にふれたときの大きな感動は忘れられない。このような「叛乱」こそは資本制社会を根底から変革する思想と行動にほかならないと感じたのだ。以来半世紀にわたって、私は現代の日本でのそのような萌芽を求め続けている。
とはいえ、さしあたり、資本主義の産業社会の分業構造は、それぞれの階梯の職位に「ふさわしい」とされる人がはめ込まれた巨大な階層社会のパノラマとして現れている。既存の「社会主義国」においても状況は同様であろう。いや自由な労働組合活動が許されない「社会主義国」の職場では、この階層社性はいっそうはばかりないかもしれない。いずれにせよ、その産業を代表する陽の当たる職務だけに注目して、基幹と補助、中心と周辺の仕事の相互依存性に注目しない、すなわち「パノラマ」をみない労働研究を私は軽くみる。私には、職場にあるすべての仕事について、就業者の正規・非正規別、性別、年齢別、人種別などの属性を把握できれば、職場の分析は半分は終えているように思われる。

その2 強制された自発性
(2023年4月25日)

 個人の受難を凝視することは、労働者個人を体制の論理に従わされるだけのまったき受動的な存在と把握することでは決してない。労働者は、抗いがたい資本制企業の要請を受諾するにしても、そのとき、例えば自分や家族の生活のためにはこの従属の選択もやむをえなかったのだ、それでよかったのだという、なんらかの主体性の自覚をわがものとする。人は支配や従属にうちのめされたままでは元気にやってゆくことはできないからだ。それに、そもそも制度的には奴隷でない「自由な」労働者の資本の要請の受容は、近代社会の建前としては自発的なのである。 
 だが、例えば、過労死するまでの過重労働、不安定な非正規雇用、仕事自体は「くそおもしろくない」底辺労働への就業などが、偽りなき自発的選択でないことはいうまでもない。それは資本の論理にもとづく労務管理や分業構造が特定の労働者に強制したありようである。「選択の自由」はしばしば空語であろう。その選択をあくまで「自己責任」とするのは体制側のイデオロギーにほかならない。にもかかわらず、労働者のマンタリ(心情)は、その強制に、あえて自分なりの自発的選択の要素をはりつける。それはある意味で悲しくも切実な労働者のアイデンティティの求めではあれ、そう考えるほかないのだ。私が、研究史中期に、日本の労働者のものの考え方という意味での文化を、「一定の職場状況が労働者に強いる生きざまへの、自発的な投企」(『職場史の修羅を生きて――再論 日本の労働者像)(筑摩書房、1986年)と「あとがき」に規定した所以である。それ以降、「強制された自発性」は、私の労働研究を代表するタームとなった。このマンタリテがどれほど日本に独自的であるかについては、確答に自信はないけれど、ひとつ忘れられない記憶はある、
 1989年、私は日本の労務管理が外国人労働者にどれほど通用するんのかをさぐる『日本的経営の明暗』)(筑摩書房)を刊行する。その研究の過程で、アメリカのマツダのフラット・ロック工場の労働者の状況を描くFucini夫妻のWoking for the Japaneseという興味ぶかい本を繙いたが、そのなかにこんなエピソードがある。
 マツダは従業員に着用が義務づけられているつなぎの作業服と、着用は自由なロゴ入りの野球帽を配布したところ、労働者は野球帽のほうはほとんど被らなかった。そこで日本人管理者がなぜ被らないのかと咎めると、労働者たちは、野球帽の着用は自由のはずだと答えた。管理者はそこで、あなた方にマツダを愛する気があるなら自然に被りたいと思うはずだと追及した。すると組合役員は、「会社が野球帽を被れと命令するなら、それは管理者の立場としていちおうありうるだろう、しかしわれわれに野球帽を自発的に被りたくなれと命令するな」と返したたという。その他の例、例えば命令と自発的遂行の区別が曖昧な清掃業務なども勘案して、アメリカの労働者は、結局、「日本人は強制と自発の区別がついてないのではないか」と断じたのである。たかが野球帽、されど野球帽というべきか。このヤンキーの姿勢に私は深く感じるところがあった。
 閑話休題。<強制された自発性>という把握は、研究史後期、『働きすぎに斃れて――過労死・過労自殺の語る労働史』(岩波書店、2010年)の刊行に向けて、死に到るまでの多くの労働者の日々の軌跡をきわめて具体的に辿ったとき、あらためてこの把握の有効性と不可欠性を自覚したものである。以上では大まかに述べたが、もちろん、問題によって(過労死の場合には事例によって)、また、経営のニーズの緊迫度を規定する局面によって、強制と自発の相対的な役割の大きさが異なるのは当然であろう。例えば2000年代以降にいっそう頻発するようになった過労自殺の多くの事例では、受難の若者たちの多くは強制か自発かを区別する自己認識のゆとりも失い、憑かれたように死に導かれてしまうという印象である。
 熊沢過労死論の<強制された自発性>は、この分野の先駆者たる川人博や森岡孝二からも高く評価された方法論だった。もっとも、かけがえのない人の死にもいくばくかの「自発性」を認めるこの把握は、過労死遺族の会の一角には、一定の反発もあったようである。しかし、愛する人はただただ強制的に死に追い込まれたのだと遺族が受け止めるのも、遺族の立場としてはよく理解することはできる。

その1 労働研究は<個人の受難>の凝視にはじまる

はじめに
 もう80代半ば近い私がどこまで執筆のエネルギーを持続できるかはわからないけれど、これから、ホームページの場で60年以上にもなる労働研究の回顧――考察の視角やキーワード、著作の簡単な紹介、その時代的・私生活的な背景、それにまつわるエピソ-ドなどを、不定期だがほぼ月1回、とりとめなく書き綴ってゆきたいと思う。それは私個人の忘れ残りの覚え書きであり、それが現時点の社会的または学問的な要請からみて意義ある文章であるかどうかは問わないことにしよう。
 2023年2月、名古屋で隔月50回も続けて労働文献研究会を閉じるにあたって、チューターだった私は最終例会において「私の労働研究のキーワード」なる報告を試みた。それぞれの「系論」をふくめて25ほどのキーワードや諸概念、分析枠組みなどを概説した報告であった。その報告が今回の「連載」執筆の契機となった。そのとき思い出すままにレジメに記した項目を手がかりにすれば、時系列の順序は前後するが、これまで労働研究で私が重視してきた事柄はかなり網羅できるのではないか。そう考えたのである。説得的な語りになるかどうかはわからないけれど、そのレジメにしたがってともかく書きはじめてみよう。

 その1 労働研究は<個人の受難>の凝視にはじまる
     産業社会の体制や構造の権力はかならず<個人の受難>として現れる
     それゆえ

     ①なによりもまず<個人の受難>をみつめ
     ②その実像の把握を通じて体制や構造の認識にいたる
     要請されるのは①と②を往還する分析である

 権力構造としての体制にまきこまれそこに適応せざるを得ない個人のリアルなありようをみつめることから考察をはじめる。およそ社会問題にアプローチする際に私が忘れまいとしてきた発想ルートはこれである。もちろん、このような視角は私に独自的なものではあるまい。ホワイトカラーをテーマとする学生時代のゼミの共同研究の際、私はライト・ミルスの著『ホワイトカラー』にみる人間像への洞察に深い感銘を受けた。そのミルスは後年、『社会学的想像力』1959年、邦訳1965年)のなかで、私なりの上記のまとめと同様または類似の発想ルートを、精緻に、アカデミックに展開している。
 けれども、いま思えば、私が労働研究においてこうした発想ルート・視角を重視するようになった遠い原因としては、50年代から60年代にかけて、「下士官」として参加した学生運動の体験があったように思う。トップのリーダーたち(はじめは共産党、後にはニュレフト諸派)の一般学生への働きかけは、政治情勢から説き起こす政治主義のアプローチだった。人びとの生活と意識の実態に関心があった私は、そのアジテーションに加担しながらも、どこか違和感をもち続けていた。要するに「大所高所」論になじめなかった。そう、体制・構造をつくる権力アクターよりも、そこに従わされる個人の実像こそが枢要の問題なのだ・・・。労働研究を専門分野に選んだのも、そんな思いからだった。
 もっとも、労働研究において「個人の受難」を重視するとするようになったのは、研究史の中期(1979~96年)である。80年代にそこに到るには二つの契機がある。ひとつは、初期1972年の拙著『労働のなかの復権――企業社会と労働組合』の読者であった富士銀行勤務の河部友美との交流である。河部は78年、痛ましい事故死を遂げたけれど、私は河部の残した詳細な日記を読んで、銀行業務の合理化のなかで、「真摯な銀行員」と「左派の組合活動家」との矛盾に苦悩しながら23年の職業生活を続けた彼の軌跡を追う叙述に取り組むことになった。河部の痛ましい事故死(78年)そして今ひとつは、東芝府中工場で、会社人間に造型されることを拒んで、すさまじいいじめを受けた板金工・上野仁の体験記録にふれ、上野と「隠れキリシタン」のような少数のなかまたちによる、81年に始まる「東芝府中人権裁判」に、10年近く協力したことである。
 河部友美についての82年の論文「ある銀行労働者の20年」は、86年の『職場史の修羅を生きて』を経て、最後には、中期の「代表作」ともいうべき93年の『新編 日本の労働者像』(ちくま学芸文庫)に収められた。スタインベックの『怒りの葡萄』に習って、変貌する銀行の職場史と葛藤をまぬかれなかった河部個人の苦悩の体験を撚り合わせて綴っている。93年の学術文庫は、後に海外で翻訳されたこともあって、この論文はアメリカの研究者からの賛辞に恵まれもした。
 上野仁と東芝の労務管理については、その講演録が83年の『民主主議は工場の門前で立ちすくむ』に収録された。この人権裁判闘争が社会的な広がりをもつ一助にはなったと思う。その後、裁判記録などを資料として、私は日本の企業社会を深掘りする論文2篇を執筆し、86年の前掲『職場史の修羅を生きて』、89年の『日本的経営の明暗』)にそれぞれ収められた。これらは、その後の私の日本型企業社会の構造分析と、現時点も絶えることのない職場のパワー・ハラスメントへの批判作業い引き継がれている。
 研究史中期の80年におけるこれらの論文・著書は、ほとんどが筑摩書房の岸宣夫氏の編集担当で刊行された。そこに示された「個人の受難」を凝視する分析視角に、私はいつまでも執着した。例えば、研究史後期(1997年以降)に属する2010年の大著『働きすぎに斃れて――過労死・過労自殺の語る労働史』(岩波書店、のち『過労死・過労自殺の現代史--働きすぎに斃れる人たち』とタイトルを変えて2018年の岩波現代文庫)。ここでは50人もの労働者の死に到る職場体験を、やはり裁判記録を主資料として、細部にわたって具体的に描いている。個人の些細なエピソ-ドのもつ切実な意味をあきらかにしたかったのだ。また、ごく最近、私は<イギリス炭鉱ストライキ(1984-85)の群像>(未公刊)を書き下ろしたが、おそらく最後になるこの大きな執筆においても、私の関心は、なによりも、坑夫や家族たちの思想・心性や行動の具体像であった。
 社会や国家にふれるにしても、もっぱら個人のありようを凝視するのは文学の常道である。もともと文学好きの私はその発想ルートに引きずられてるのかもしれない。社会科学としての労働研究に必要なレーバー・エコノミストの性格が私の著作には欠けているというありうる批判は甘んじて受けたい。とはいえ、文学的であれ、経済学的であれ、およそ状況分析に不可欠な要素は、人間生活のリアルな把握にほかならない。私には、個々の労働者の存在感の希薄な労働研究には、情報は豊富であっても今ひとつ惹かれないのである。