孤独死・覚え書き

(1) 孤独死――重なり合う要因 

 現役世代の受難の極北が過労死・過労自殺とすれば、高齢者の悲劇の極北は、誰にも看取られずに死に、遺体の匂いによって後日はじめて隣人に気づかれる孤独死である。
 警察庁によれば、2024年1月~3月にひとり暮らしで亡くなった人は2万1716人であったが、うち65歳以上は78%の1万7034人。年換算では約6万8000人になるという。
孤独死の事例はむろん高齢者に限られない。今では孤独死者の約23.7%は、たいていは無職・独身の15~64歳層なのだ。しかしやはり、その比率は、60代後半で10%、70代前半で15.1%、70代後半で15.9%、80代前半で14.9%、そして85歳以上で20.1%になる(朝日新聞25..2.23)。それはすぐれて後期高齢者の悲劇である。
 孤独死は、現時点の日本のくらい状況が複雑に多様に絡み合った枢要の社会問題のひとつにほかならないと私は感じる。以下は、その原因の連関などを考えてゆくときの、多くは数値的なデータを省略した素人のおおまかなメモにすぎない。

 個々の孤独死の原因は実にさまざまに異なり、安易な一般化を許さない。それでも、多様のなかの共通因をあえて求めるなら、その主要因は、重層的で相互補強的な次の三つということができよう。
 その1は、なによりもまず、孤立、人間関係の徹底的な稀薄化である。
 周知のように現在の世帯構成では単身世帯が最大多数を占める。仮にそう呼ぶなら「孤独死者」は、配偶者と離死別、次世代との別居、相互の音信不通の状態にあるのが一般的だ。まずもって弱者を抱擁する家族との紐帯がない。そのうえ、地域との社会関係もほとんどもたない。困っている人には手をさしのべたいと思う隣人や地域包括支援センターの職員や役所の担当者は少なくないけれど、ひとつには、「困っていることを知られたくない」という当人のプライド(Help Me!と言いたくない自意識)、もうひとつには、それでもあえてそこに踏み込んで声をかけることを隣人や役所スタッフにためらわせるある種のプライヴァシー尊重意識があって、見守りには限界がある。結局、孤独死者はおよそアドバイザーなきままなのである。
 その2。孤独死の臨界にいたるころ、彼ら、彼女らはほぼ確実に体力も気力も喪失している。おそらく、持病の悪化、感染症の罹患、栄養失調、極度の倦怠感に苛まれていたのではないか。それなのに、いくつかの報道によれば、孤独死者は近くの医院に赴かず、猛暑にも厳寒にもエアコンをつけず(あるいはエアコンは壊れたままで)、ほとんど寝たきりで死を迎える。
 その3。このような生活の佇まいには、かなり以前からの貧窮が深く関わっている。無職の後期高齢者の年金額や金融資産の程度はもちろん千差万別であろうが、孤独死者の多くの収入は、職歴が就職氷河期このかた激増した非正規雇用やささやかな自営業であれば、厚生年金・共済年金ではなくわずかな国民年金のみであり、生活費の不足を補填する貯蓄も底をついている。その貧窮が、例えば食事をカップラーメンだけにし、電気代が心配でエアコン使用を控え、医者にかかることを控えさせる。脚や膝が悪くてあまり歩けず、交通費支出もためらわれるからだ。もちろん身の周りの世話をする家政婦を雇うことなど論外なのである。死者の傍らの財布には150円の現金しかのこされていなかったという報道もある。
 その4。現代日本における公的支援の現状にも注目しよう。まず公的扶助としての生活保護では、「本当に働けない」ことや家族援助の不可能性の証明が容易ではない。地域の役所の職員には受給者減らしのノルマさえあって、窓口規制が厳しい。国際比較すれば捕捉率(受給すべき生活水準の人に対する実際の受給者の比率)が極端に低いのである。
 各市町村の「地域包括支援センター」はむろん、孤独死者の「潜在的予備軍」の訴えを聴きとることはできる。介護保険サービスの受給を可能にする要介護認定基準について私の知見は乏しいけれど、確かなことには特別養護老人ホーム、老人病院、グループホームなどの数は僅少で、入居・入院はとてもむつかしい。それに、体力と気力がひどく衰えた後期高齢者は、サービスを求めて公的機関にアクセスすること自体がふつう困難である。それゆえ、オンライン利用をふくむ申請書類の作成を助け、諸機関に同行して申請を手伝う、ノウハウに疎い後期高齢者に寄り添うグループが絶対に必要なのである。フードセンター、貧困対策の「もやい」、地域ボランティアグループ、労働相談に応じる公式労働組合組織、コミュニティユニオンなどに期待されるところは大きい。
 ここで「孤独・孤立担当大臣」を任命し、孤立化対策において先進的なイギリスの場合を瞥見すれば、この国では、「孤独対応戦略」のなかに、現役職業人それぞれの責務を位置づけている。最初に患者を診るかかりつけ医は、身体的病状の背後にある孤独、貧困、借金苦などの社会的要因をつきとめ、担当行政機関や地域の支援グループや法律関係者に連絡・紹介するよう求められる。郵便配達員は配達区域での孤立の見守りを通常業務の一環としなければならない。学校の教師は、人間関係を学ぶ教育の中に孤独問題を取りこまねばならない・・(インターネット情報2021年8月、明治安田総合研究所「調査レポート」)。それはもうひとりの「ダニエル・ブレイク」を生むまいとする努力ということができる。 
 私たちの国の孤立死者の「予備軍」においては、家族の紐帯の喪失、地域内での孤立、体力と気力の著しい衰え、際立った貧窮、とじこもり――それらが相互に連関・補強しあっている。「誰の世話にもならない」プライドはあっても、広義の社会に関わって生きてゆく力はない。こうして1年に6万8000人が、病死、衰弱死、あるいは餓死を迎え、長く気づかれることなく腐敗してゆく。それは自棄的な緩慢な自殺だ。また、あえていえば社会的な殺人ということさえできる。人口高齢化と格差拡大のなかおそらく確実に増えてゆく孤独死をもう放置できない。  
 ちなみに最近では、ひとりの孤独死のみではなく、老夫婦または片親と子の「同居孤独死」も頻発しているという。ここでは、その要因はひとり孤独死の場合と多くは共通するとはいえ、また別の問題も潜んでいる。(2)では、この領域に立ち入ってみよう。

(2)「同居孤独死」の光景

 最近になって増加しつつあるという「同居孤独死」とは、高齢の老親が死亡していたのに、なんらかの事情で、何日か何ヶ月もの間、同居人がその死に気づかなかった、またはその死を知りながら関係各方面に伝えなかった事例である。その報道は衝撃的であり、まことに寒々とした印象をひきおこす。
 もっとも、老夫婦ふたりが相次いで人知れず亡くなる場合もある。その多くはいわゆる「老老介護」の不幸な結末であろう。介護する妻(夫)のほうが先に死に、認知症や重篤で寝たきりの被介護者がなすすべなく後を追うこともある。しかし、被介護者の配偶者の命がつきたあと、パートナーもまた生きてゆくいっさいの気力を失って、死者の傍らに寄り添って死を待つこともあるだろう。長年のパートナーの懸命の介護のみがひとり残された者の唯一の生きるよすがだったからだ。病死であれ餓死であれ、それは生きる力を喪失し、生きる努力を放念した人の従容たる自死のごときものである。それは悲劇ではあれ、まだしもわずかに救いのある選択であることを、私は十分に肯うことができる。
 もちろん、ひとり孤独死の場合と同じく、ここにも、自分たちの生活が精一杯の子どもたちや親族との疎遠な関係、地域社会での孤立、介護ゆえ重なっていた心身の衰え、きびしい貧窮、それでも国や他人の世話にはならないというある種のプライド、そしてふたりの記憶の世界への閉じこもり・・・という、相互に連関・補強しあう要因が背景にある。社会的には、ふたりながら孤立していたのだ。にもかかわらず、福祉行政がともすれば、「要介護者」でもなく同居なのだから「まだ大丈夫」とみなしていた事情も否定できない。

 息子や娘などと同居しているのに不幸な死を遂げるケースもある。私はかつて、48歳の息子と同居していたさいたま市のもと大工・佐藤孝夫(76歳、仮名)が、2010年8月、熱中症で死亡した事件を記述したことがある(『私の労働研究』堀之内出版、2015年所収)。彼らは、収入は月に7~8万円の孝夫の年金のみ、家賃5.5万円でぎりぎりの食費、電気もガスも電話も解約、自転車でまとめ買いした食品のカセットコンロでの煮炊き、エアコンも冷蔵庫も稼働なし・・・という貧窮のなかにあった。生活保護申請も門前払いだった。そうした深刻な状況を、高齢者の貧困や格差に関する一般資料の数値も参照しながら、かなりくわしく分析したものである。
 私がとりわけ注目したのは、15年来、失業または無業だった同居の息子・満夫のことだ。彼は前職の運送会社ではトラック運転手であり、その過重労働ゆえにひどく腰を痛めたが、企業内での職種転換はなく、95年頃に30代前半で退職せざるをえなかった。その後は雇用情勢の悪化のなか、腰痛症を抱えた40代の満夫は、非正規雇用でも再就職の機会に恵まれなかった。こうして彼は、空しい求職活動をくりかえしたあと、気力を失って無業者になり、父の乏しい年金にパラサイトするに到っている。
 佐藤孝夫は満夫に看取られて死に遺体も放置されなかった。その意味では、このケースは同居孤独死ではない。しかし私がもう15年も前の佐藤親子の体験を再現したのは、こうした事件はとても過去のこととは思われないからだ。それどころか、佐藤親子の軌跡は、その後、広く普及してメディアに注目されるようになったいわゆる<80・50問題>の先駆であり、その最も暗い側面の現れにほかならない。しばしば同居孤独死の前提となる<80-50問題>に、ここでしばらく立ち入ってみよう。

 <80・50>という世帯の類型のひとつは、配偶者と離死別した70代~80代の親と、シングルで無職の50代前後になる息子や娘との同居である。息子や娘は仕事を失っているか、または老親の介護のため「介護離職」している。親に潤沢な資産がある例外的な場合を別にすれば、唯一の収入源は老親の年金であり、たいていはひどく貧しく、外出や文化の享受にみる生活範囲はきわめて狭い。老親の身体の自由がきかない場合はいっそうそうだ。上述の佐藤親子のように、それはふたりながらのひきこもりに近いのである。
 その背景には、就職氷河期以来、団塊世代のかなりの部分が体験した不遇の職歴がある。例えば非正規雇用であれば「介護休業」の取得もむつかしく、ブラック企業の社員であれば過重労働からくる心身の疲弊が稼げる仕事への再挑戦の気力を奪っている。ともあれ、当面の老親の介護は、あるいは職業生活よりも生きがいのある、愛を感じる日々かもしれない。とはいえ、ふたたび佐藤親子を顧みてみよう、父・孝夫を死に到るまで看取ったあと、息子の満夫は立ち直ってまた社会に復帰できるだろうか? 孤独死の予備軍になってしまうことはないだろうか? 介護した老親の死後、息子や娘の一定部分が、求職活動なき無業者、「ミッシング・ワーカー」にうずくまってしまうという。その数およそ103万人という勢いである(NHKスペシャル取材班『ミッシングワーカーの衝撃――働くことを諦めた100万人の中高年』NHK出版新書、2018年)。

 <80・.50>のもうひとつの類型は、配偶者と離死別した老親と、たいていは有職でそれなりに独自の生活を営む息子との同居である。この類型では、経済的な貧窮はさほどではなく、介護の負担もなく、親と子は別室で、日々の密接なコミュニケーションなく暮らしていることが多いようだ。息子は中年層に限られない。しかし、ここにこそ、同居孤独死のもっとも荒涼たる風景が展開する。 
 2017年から2019年の3年間、東京23区、大阪市、神戸市では、高齢者550人の死が4日以上知られなかったという(日本経済新聞2021年6月13日)。なんというふれあいの断絶だろうか。息子は老親が死んだことを知らなかったのだ。いや、おそらくより多くのケースでは、息子は立ちこめる腐臭によって老親の死を知りながら、知らせなかったのだ。
 小林政弘の監督・脚本の映画『日本の悲劇』(2013年)にみるように、親の年金支給の途絶を怖れて息子がその死を隠していたということもある。けれども、親の遺体放置の事件は、このように短絡的ながらもある「実利的な」判断によるものばかりではあるまい。 完全には理解し納得することができないけれど、報道を参考にすれば、私はこのように推測する――同居の息子(娘の場合は少ないように思われる)は、老親の死という取り返しのつかない事態に遭遇して、まもな判断ができない心理状態に陥り、うろうろするばかりなのではないか。彼は呆然として、すぐにどうしていいかわからず、帰宅を避けたり、娯楽施設に入り浸ったりして、親の死なんて(本当はあり得るのに)あり得なかったことのように心を装い、判断を中止して数日を彷徨するのではないか。犯罪者の「心の闇」と言われるけれど、こうしたビヘイビアに奔らせるのはむしろ非情の「心の空白」である。
 ともあれ、一時的にせよ、このように意識的に親の死を念頭から去らせることができるのは、もともと老親は何者でもない、ただ自分とは無関係の厄介な存在とみなしていたからであろう。現代日本の家庭の崩壊の極北では、親子の絆はここまで無化していたのだ。その荒涼たる光景にあらためて慄然とする。しんしんと心が痛む。いま86歳の私にはそして、この日本の空気のなかで生きている限り、孤独死・同居孤独死の悲劇さえも、自分にはまったく無縁のこととは思われない。

トランプが怖い(2025年1月12日)

 2025年、平穏な日々を願う私たちをもっとも不安をもたらすのはもうすぐアメリカ大統領になるトランプの政治である。トランプが怖い。
 ひとりの庶民の精査なき印象の素人論議かもしれないけれど、トランプは、国益と自由の名のもとに、「弱肉強食」の界隈をいくらかは掣肘する公共サービスと社会的規制を担う公共部門を徹底的に削減するだろう。なにしろ国民規模の健康保険制の主張者さえ「過激な社会主義」と断じる彼のことだ。制約のない新自由主義の施策が推進されよう。格差是正の正義論などはもう通らない。トランプに進んで協力するIN界の巨頭ザッカーバーグが、これまでのファクトチェック作業をやめることの結果も深刻である。NETにあふれる根拠のないフェイクに熱狂する、およそ知的検証から自由な右派ポピュリズムの徒が「世論」をつくる傾向はいっそう強まるだろう。
 対外的には過大な関税が、貿易の困難化を通じて各国の経済を苦境に陥れる。そればかりか、トランプの国防論は、メキシコ湾をアメリカ湾と呼ぶ、グリーンランドの領有を主張するなど、対外膨張的だ。一方、ヨーロッパの排外主義的右派政党が支援される。ウクライナについては、北の暴君プーチンと結託して、ウクライナに侵略者ロシアへの領土の割譲を前提にした「平和」を「達成」しようとしている。膨大な犠牲に耐えて、ロシアのような国になりたくないと青息吐息の抵抗を続けるウクライナの人びとの不安は想像するにあまりある。
 日本にも、集団安保の負担金が確実に増やされることに留まらない困難が確実に降りかかる。その日本では、投資ガールたちがトランプ景気による株価上昇にはしゃいでいる。石破政権は、そして日本の民衆は、経済、政治、社会のありかたについてトランプの圧力と闘うことができるだろうか? 核兵器禁止条約への加盟を訴える日本被団協の老いた代表が石破首相との会談の虚しさを憮然として語るところに、まだしもほのかな希望がある。

立憲民主党雑感(2024年9月26日)

 早朝、ようやく咲いた彼岸花の小堤や旧東海道を散歩しながらこんなことを考えた。
 野田佳彦と側近たちは、「中道保守」路線をとれば「国民は安心して」投票してくれると考えているらしい。これからの立憲は、集団自衛権・敵基地攻撃能力強化・軍事費増額・沖縄の辺野古基地建設・原発回帰などについて自民党に対決することはないだろう。維新や国民民主や連合幹部はいっそう、一緒にやりたいなら「もっとこちらへ(右へ)おいで」と流し目で誘惑する。立憲が自民党と違うところは、裏金・金権政治の打破と夫婦別姓の制度化くらいになるのだ。前者は議会秩序を危うくするほどの大胆さがなければ闘えず、後者は、安倍の亡霊の巫女のごとき高市早苗が明日まかり間違って自民党総裁にならない限り、争点ではなくなるだろう。
 そもそも政策において野党が支配政党とあまり変わらなくなれば、国民が野党を支持する理由がない。選択の判断が同じような政策課題を達成するにどちらが技術的に長けているかになる、そうなれば官界に「顔を効かす」経験をもつ今の支配政党のほうが望ましいという結果になるからだ。この憂鬱な関係に逆転をもたらす隘路は、支配政党が極端な「へま」を犯すことである。立憲民主は裏金問題こそがその隘路であり、国民の怒りが沸騰している今こそその隘路を通ることができると読んでいるかにみえる。
 この判断は甘いと思う。韓国ならば、度しがたい裏金への憤激は連日の何万という大デモを引き起こしただろう。だが、長年の自民党の金権政治に慣れっこになってしまったシニカルな日本国民の裏金への怒りの熱量は、大規模な市民行動を呼び起こすほどではなかった。いま野党共闘の困難はさておいても、政策上の対抗性の乏しい野党が自民党支配を覆す「隘路」を進みうる可能性は乏しい。来たるべき総選挙で政権交代が生まれる見通しは、遺憾ながらほぼ絶望的である。
 ほんとうのところ、生活改善のため政治行動や労働組合運動の方途を見出せていない中下層の国民多数は、貧窮に呻吟し、根深い生活保障と戦争への不安に苛まれている。その方途を見いだせれば、多くの国民の「中道保守」への投げやりな支持は一気に雲散霧消するだろう。議会制民主主義のいずれの国でも、国民は「穏健」や「中道」を支持するとは限らないのだ。さしあたり「出口なし」に見えるとはいえ、理想を旨とする野党はいま、敵失を期待した隘路ではなく、オルタナティヴの正道こそを追求すべきだろう。それゆえ、せめて立憲民主に残るリベラル・左派の枝野派は、「代表代行」などに祭り上げられることに甘んることなく、立憲民主本来の政策理念に固執して野田支配に対して絶えず叛乱するよう期待したい。そして、その本来の政策理念をかなり共有する社民党や共産党との共闘をやはり模索してほしいと願うものである。
(付記:この記述は石破政権成立直前のものだが基本的に主張内容の変更は必要あるまい)

オリンピック雑感(2024年8月15日)

 なによりもまず、パリ・オリンピックのNHK報道にはいつもいらいらした。それは競技のそのものよりは、もっぱら日本人選手の活躍についてのアジテーションをくりかえすみたいな報道だったからだ。前提として動かないのは、日本人すべては日本のメダル獲得に我を忘れて熱狂しているはずだという思い込みである。日本選手の勝利をとくに切望しているわけでない私なぞ「非国民」」なのだろう。とはいえ、日々の暮らしがままならぬ人びと、例えばこの猛暑のなかクーラーもつけられないでテレビをみるほかない人びとにとって、メダル・ラッシュなどはなにほどのこともないだろう。大会関係者もアスリートも、「日本に勇気と感動を与える」ためがんばったと思わないほうがい
 メダルラッシュと言うけれど、いまメダルの金を三点、銀を二点、銅を一点として計算すると、総得点はアメリカ(240)、中国(195)、フランス(118)、イギリス(113)、オーストラリア(104)の順番であって、日本(91)は6位である。まぁそんなことはどうでもいいが、報道は日本の強さを過大評価させるように思われる。
 ついでに言うと、競技後、メダル受章者は国旗をまとって小走りするが、彼ら、彼女らには国からの報奨金がある。ナショナリズム鼓吹の強弱の差なのか、報償は国によって大きな格差をもつ。『フォーブス』誌の東京オリンピックでのメダル獲得の報奨金報道によれば、国別のベスト10は、①イタリア、907万ドル(約10億円):金10、銀10、銅20/②アメリカ、784万ドル:金39、銀41、銅33/③フランス、651万ドル:金10、銀12、銅11/④ハンガリー、564万ドル:金6、銀7、銅7/⑤台湾(チャイニーズ台北)、492万ドル:金2、銀4、銅6/⑥日本、403万ドル:金27、銀14、銅17/⑦スペイン、255万ドル:金3、銀8、銅6/⑧トルコ、226万ドル:金2、銀2、銅9/⑨セルビア、201万ドル:金3、銀1、銅5/⑩香港、193万ドル:金1、銀2、銅3。一方、イギリス、ニュージーランド、ノルウェー、スウェーデンはなどは報奨金ゼロだ。日本は6番目に報償の大きい国である。選手たちが闘うのはむろんカネのためではなく、多額の報酬でその純粋さが損なわれるわけではないけれど、このことにマスメディアがいっさい触れないのはやはり問題であろう。
 私は、格闘技一般と、それに、たとえば水中で逆立ちするとか頭を下にして身をくねらせるとか、人がふつうやらない軽業めいた競技が嫌いだ。TVの実録、録画をあれこれさがして見るのは、日本選手の活躍報道に比較的偏しない陸上競技、それも走りと跳びである。そこにみるの肉体の躍動はとても美しい。それでも、しなやかな美のきわまる棒高跳びの放映は結局なかったのではないか。
 走りは距離にかかわらず緊張感がただようけれど、印象深いのは、長距離ではアフリカ在住の黒人、中距離、短距離ではアメリカはもとより、フランス、イギリス、イタリアなどの先進国に移民・定着した黒人が主力スターであることにほかならない。鞭のようにしなやかな汗に光る黒い肌の疾走は、セクシーですらあり魅力的だ。心から愉快になる。そしてそこであらためて痛感されるのは、国籍と人種の著しいずれである。日本でもその傾向は徐々に進んできたと思う。国家ごとに競技を競うというオリンピックの建前は、いずれもたなくなるのではないだろうか。

四日市市民シンポジウム 私なりの報告(2024年7月21日)

 7月21日(日)、猛暑の四日市で、「戦争させない・憲法壊すな よっかいち市民ネット」主催のささやかなシンポジウム、<日常生活での憲法の空洞化を問う! 草の根の護憲運動にむけて>が開かれた。くりかえしFBで情宣してきたように、私たちが日常的に属している「界隈」、具体的には学校や家庭や職場やSNS交信におけるルールや慣習にみる憲法の無視や蹂躙をみつめ、その界隈での強力な同調圧力に従う生きざまを反省的にふりかえる――そんな趣旨の企画であった。

 名古屋や京都から駆けつけて下さった方々をふくめて参加者はほぼ30人。学校、家庭、SNS交信、職場と労働運動の状況について4人の無償のパネラー(全員が女性)が各15分、体験や現状を語り、その後、1時間ほど10人以上の方の発言で質疑・討論を繰り広げた。

 ここにアンケートの回答をピックアップしてみる――日常から問題を問う方法論はとても良いと思う/それぞれの場での人権問題について経験や意見が共有され交流できるこのような機会は貴重だ/すべてのパネラーの話からコミュニケーションの重要さと現実のなかでのその難しさがわかった/SNSについて若い世代の思いが聴けてよかった/参加者が自由に発言できるのがいい/思ったよりも楽しかった/自分にとっての自由やともすればネグレクトしがちな「自分の痛み」を考えるよすがにしたい・・・と、おおむね好評であった。けれども、時間がたりない/それぞれ重要な問題のつながりを示す発言はあっても、もっと掘り下げた議論がほしかった/会場の都合でマイクがなく聞き取りにくかった・・・という、いくらか批判的な指摘も複数あった。

 主として企画・準備・運営にあたった私としては、日常の界隈における同調圧力の深刻さ、SNSの光と陰などの問題は一定共有されたとはいえ、日常生活を支配している界隈のルールや慣習、それに対する世智にもとづく人びとの適応を凝視する議論の掘り下げは、やはり道半ばに終わったように思う。すぐれて主催者の責任であるが、企画の趣旨を浸透させるにはなお「力業の無理」があったというべきだろう。アンケートの末尾には、「意見交換と討論を中心にした」「同じようなテーマのシンポジウムをくりかえしてほしい」との励ましの声もあったけれど、四日市の市民団体がこのようなイヴェントを「くりかえす」ことは人的にも財政的にも、もうむつかしいだろう。

憲法を空洞化させる日常の「界隈」(2024年5月18日)

 愛知県の作家・伊藤浩睦氏が、憲法記念日の5月4日、朝日新聞「声」欄に次のような投書を寄せている。
<私たちにとって、憲法はとても遠いものに思える。学校では、憲法上の権利を口にすれば、「憲法なんか生徒には関係ない。校則がすべてだ」と言われ、会社では、「社員である限り社則やノルマが最優先だ。憲法上の権利なんか関係ない」と言われた。庶民と憲法の関係なんてそんな遠いものだと思っていた>
 数多い良識的な護憲論はほとんど立ち入ることがないとはいえ、およそ現時点の護憲論がなによりも直視すべき枢要の問題を剔る、これはとてもすぐれた発言だと思う。本当にその通りである。ふりかえってみよう。それぞれが日常的に帰属する「界隈」において普通の人びとの発言やビヘイビアを律しているものは、憲法に保証された人権尊重や思想・表現・行動の自由と無関係な、たいていはそれらを蹂躙する、その界隈の公然・非公然のルールまたは慣行にほかならない。
 こうして学校では、「生徒らしい」服装や過剰な生徒指導の校則が若者の学校内外の自由を束縛する。職場では、過重なノルマ達成度や仕事態度を多面的に評価する査定の労務管理が、サラリーマンに「社員の掟」を内面化させ、彼らを萎縮させている。家庭では、なおしたたかに残る性と世代のジェンダー慣行が、それぞれの家族たち、とくに妻や母親にいいようのない鬱屈をもたらしている。社会運動の場でも、自治体は「中立」の名の下に運動にわずかでも「政治的」なにおいをかぎつければ、市民の営みに便宜を図ることをかならず拒む。ネットや公園に集うママ友の交友関係などでも、話題は「いやがられないように」無難なものに留めるという。
 私の言う「界隈」に働くのは、まさに憲法の条文などかかわりない「界隈」独自のルールへの強力な同調圧力である。そして「界隈」の多数者は「空気」を読んでこの同調圧力に靡くだろう。構成員が憲法の条文に殉じて異議を申し立てるならば、その少数者はそれなりの受難を蒙ることになる。たとえば、学校の生徒が求めてやまない自由に固執して校則指導への反抗に転じるならば、サラリーマンが労働基準法を楯としてサービス残業を拒み休暇の自由な取得を主張するならば、労働組合員が労働組合法にもとづいて労使一体ムードの企業でストライキの必要性を訴えるならば、「対等の人格権」を内面化した妻が性別分業に居すわる夫を許さないならば、町内会の集まりで住民の誰かが信教の自由を唱えて神社への寄付の慣行に従わないならば、それらの勇気ある少数者は「波風立てるな」を旨とする多数者から「そっち系のひと」とみなされ、以降、無視され、つきあいで差別され、悪くすれば「界隈」から排除されてしまうだろう。排除されてもかまわない、その方が「すっきりする」場合もあるかもしれないけれど、多くの場合、一介の庶民は「界隈」から排除されてはやってゆけないのである。
 こうしてニッポン2020年代では、憲法の保証する多様な個人の人権尊重、表現と行動の自由、労働基本権などは空洞化し、普通の市民の日常にまさにかかわりないものに堕しているのだ。この点を直視し、政治思想、政治運動論に留まらない「界隈」の民主化、すくなくともそこでの表現・発言の自由を達成する方途が探られなければ、護憲論は市民の生活に届かない。その方途の模索は容易ではないけれど、それぞれの「界隈」の少数者を「界隈」の境界を超えて横につなぐ営み、いわば外なる「界隈」の形成が、その出発点になるだろう。構想することができる、そしてすでに着手されてもいる例して、学校の枠を超える生徒会、Me tooの女性運動体、そして企業横断的な職種別・産業別労働組合の構築などをあげることができる。

プーチ・ダモイ!(2024年4月13日)

 ロシアの女性たちがウクライナの前戦に駆り出された夫や息子たちを返せという果敢な街頭キャンペーン、「プーチ・ダモイ」をはじめている。NHKの「クローズアップ現代」で昨夜、その報道に接して言いしれぬ感銘を受けた。
 彼女らは、動員は一定期間で交替するという当初の約束を容赦なく裏切られたのち、今やその要求を、民間人の動員の反対、ひいては軍事作戦をやめよという水準に高めている。このプーチ・ダモイに対しては、そして今のところ、権力も、従来の反戦運動に対するような過酷な暴力と逮捕の弾圧を控えているという。その理由は、権力側の政治アナリストによれば、前線の兵士たちは家族たちへの弾圧に憤り、戦線を離脱し、武器をもってロシアに帰ってくるかもしれないからだ。かつてのロアシア革命の勃発を連想させる、それは真に危機的な状況であろう。それに、もともと、家族の絆と国家への献身を結びつけて鼓吹してきたプーチンにとって、出征兵士の家族は敵視できないというジレンマがあるとも解釈される。
 とはいえ、プーチンはむろん、その要求がわかりやすく、潜在的には広汎な共感をよぶプーチ・ダモイの広がりを放置できない。その担い手にはじわじわと「沈黙せよ」との圧力がかかっている。それに、NET世界では、第2次大戦中に出征兵士たちをじっと待ち続けたロシア女性を讃える歌「カチューシャ」を高唱しながら戦争協力を訴える「カチューシャ」運動も始まっている。数的な勢力はさしあたりこちらのほうが多分大きいだろう。そうして迫り来る弾圧とプーチン万歳・非国民弾劾の空気のなか、プーチ・ダモイの中心的な担い手、小児科医で一人娘の母であるマリア・アンドレエワは「怖い」と言う。だが、彼女は言葉を継いで、この時代に私が何もしなっかったと思い出すこと、後に娘に「あのときお母さんは何もしなかったの」を聞かれることのほうが「もっと怖い」と語るのである。
 胸をつかれる。なんという勇気に支えられた平和と自由の希求だろう。ウクライナ防衛戦の暗澹たる風景のなか、プーチ・ダモイの広がりは、希望というもののささやかな発芽にほかならない。

春闘はどこへいったのか? 非正規春闘に注目せよ(2024年4月20日)

 2024春闘はどうなったのか? 周知のように政府にも経団連にも言祝がれて大企業では満額回答、そればかりか組合要求以上の回答も相次いだ。4月18日の連合のまとめでは、3283企業の平均賃上げは定昇こみで5.20%、そのうちのベースアップ分はわかる企業の範囲では3.57%という。ストライキはもとよりなんらの紛争もないすんなりした収束であった。なんのことはない、大企業の「支払能力」は十分にあったのだ。もともと「5%以上」という連合の要求そのものが企業への配慮に満ちて低すぎたのである。
 賃上げは組合員300人以上の1160社での5.28%に対して300人未満の2123社では4.75%である(以上、朝日新聞24.4.19)。中小企業の賃上げこそは現下の枢要の問題だが、そのためには、中小企業が人件費や材料費の上昇を大企業との取引価格に転嫁できなければならない。だが、いかにその必要性を政府が語ろうとも、元請けの親企業も、卸売業界も、そしてあえていえば消費者も、その転嫁、つまり製品・サービスの価格上昇を忌避し拒否する。人不足が死活問題になるまでに深刻化しないかぎり、中小企業での大企業並みの賃上げが難しいことは否定できないだろう。結局、24春闘の結果、企業規模別賃金格差は確実に拡大すると思われる。
 では、労働者の4割近くを占め、累積する貧困者の中核をなす非正規労働者についてはどうか。大企業では、たとえ正社員組合であっても、今回は常用パートや嘱託職員はしかるべき賃上げを享受できよう。けれども、企業と直接の雇用関係がないとされる派遣労働者や臨時アルバイト、「自営」扱いのギグワーカーなどはその限りでない。それになによりも、未組織の非正規労働者の大群はさしあたり公式の春闘とは無縁のままなのである。

 首都圏を中心にいくつかのコミュニティユニオン(CU)が協同する非正規春闘にこそ、私たちは注目すべきである。総合サポートユニオン共同代表・青木耕太郎の丁寧なレポート(『POSSE』56号:24年3月)を紹介しよう。それによれば、23年冬に発足した「非正規春闘実行委員会」には、全国16の個人加盟ユニオンが参加し、約300名の労働者が勤務先の36社に対して1律10%の賃上げを求めて団体交渉を行った。各地の非正規労働者の相談に根ざした行動であり、経団連前の街頭行動やストライキも展開された。その結果、靴のABCマート(パート5000人)では6%、アマゾン倉庫の派遣労働者には約4.3%、トンカツのかつやの都内店舗では8.9%(時給100円増)。スシローでは都内店舗で17%(時給200円増)の賃上げが獲得されている。私たちになじみのこうした店舗や作業場において低賃金で劣悪な労働条件のなか汗ばんで働く膨大な非正規労働者たち。その実像をわずかながら知る私は、彼ら、彼女ら自身の切実な行動による、未曾有の、しかし一般的にはあまりにささやかにみえる達成のもつ意味を心に留める。
 そして今春、非正規春闘は、要求を①非正規労働者の10%以上の賃上げ、②正規・非正規雇用者の均等待遇(同一価値労働同一賃金)、③全国一律最低賃金1500円の実現と定めた。関西のいくつかCUや生協労連なども加わり、非正規春闘実行委員会の参加も23労組、約23万人に、交渉先企業も約120社、従業員総数で30万人ほどにまで増えた。宮城県では、みやぎ青年ユニオンが、仙台けやきユニオン、関西では、なかまユニオンなど4つのCUが実行委員会を形成し、関係企業への交渉をはじめ、街頭宣伝行動や地元経済界への申し入れを試みている。業種別共闘の動きもある。私学非正規教員たちは「私学非正規春闘」に着手し、広尾学園では8%の賃上げを達成した。介護労働者も「介護春闘」をはじめ、介護3法人に対して賃上げ要求を提出し、月7万円の賃上げが可能になる財政措置を求めて厚労省要請も試みている。
 大企業での集中回答日の3月15日、実行委員会は「非正規春闘集中ストライキ」を企画し、その日、学習塾の市進ホールディングス、総合スーパーのベイシア、あきんどスシロー、英会話教室のGabaの4社に対してストライキおよび社前行動を実施した(朝日新聞24.3.14)。3月末にかけては15社以上でストライキを実施し賃上げを迫るという・・・。
 こうした闘いの結果は、POSSE66号発刊の時点ではなお不明ではあれ、スムーズに大きな成果が得られると期待することはできないだろう。なお青木は、マスコミは首都圏や地元では非正規春闘に高い関心を寄せたと記しているが、多くの地方では労働運動によるスシローでの賃上げなどあまり報道されていない。ちなみに政財界は中小企業での賃上げを可能にする取引価格への転嫁の必要性を口にするけれど、生コンの標準価格を設定して中小生コン企業の支払を確保しようとした全国建設・運輸連帯労働組合・関西生コン支部を理不尽な刑事弾圧にさらしている。この未曾有の組合弾圧事件を関西以外の地域ではまったく報道しないマスメディアの労使関係のリアルに対する鈍感さは、非正規春闘の場合も同じである。ABCマートの非正規労働者――どれほど多くのなかまがいることだろう――の賃上げは、その意義においてトヨタ社員の賃上げと少なくとも等価なのである。 
 好個の文献、青木レポートは最後に、「25年春闘以降は、非正規労働者の賃上げ相場をつくること」をめざしたい、その際、「非正規公務員やケア労働者などがそのカギになるのではないか」と書いている。そのとおりである。青木も自覚しているように、非正規春闘の担い手たちの勢力もその影響力もなおきわめて限られたものに留まっている。それだけにいっそう大きな質量を秘めた結集を期待したい。
 このところ非正規労働者に焦点を据えたいくつかの書物の刊行が盛んである。精粗はさまざまであるが、労働現場の実態把握は統計数値で済ませ、改善策は法的・行政的方途の提唱で終わる叙述も少ないように感じられもする。労使関係の視点が稀薄なのだ。そんななか、これまで異議申し立てを忘れていた若者たち自身が、労働の日々の鬱屈を顧みて、ストライキやボイコットや街頭行動のような、直接行動をふくむ労働組合運動をはじめることの意義ははかりしれない。ここに私は、日本では長らく不毛のままであった産業内行動・産業民主主義の再生の芽生えをみる。

民間委託の水道検針業務における労働協約拡張(2024年1月15日)

 福岡市が民間委託する水道検針業務について、委託先企業すべてでパート検針員の最低時給を同じ水準にすることが決まった。自治労傘下の「福岡市水道サービス従業員ユニオン」が、市の東部と中部の委託先企業2社と結んだ労働協約を、歩合給の切り下げがあった西部をふくめて全市に適用するよう県に申し立てた、いわゆる労働協約の地域的拡張運動の結果である。これにより全市規模で、検針員は、最低時給1082円、一定の業務実績という条件を満たせば1420円~1605円 になり、労働保険・社会保険の加入が保障されるという。
 これまでも地域的拡張の事例は11件みられたが、対象は正社員に限られ、民間委托の非正規労働者に適用されるのは今回がはじめてという(以上、朝日新聞24年1月6日)。 
官・民を問わず委託・下請企業の非正規労働者の労働条件を包括的に下支えする労働協約の拡張は、今日もっとも労働組合運動に求められるアジェンダである。今回の達成は、民間委託企業の労働条件を公務員のそれと均等にする西欧型ユニオニズムの水準にはなお到っていないとはいえ、日本の労働界では画期的な第一歩の営みだ。その意義ははかりしれない。私には、ほとんど絶望的にみえる労働組合運の現状のなか、それは久方ぶりの希望の兆しだった。自治労は、これを先駆として、広汎な正規職員以外の働き手の労働条件の規制に突き進んでほしいと願うものである。

学校と教師――問題領域間の関連について(2023年10月23日)

 

文部科学省は最近、学校の諸相について、たとえば次のよう調査報告を発表している。        

①2022年、小中学校の不登校は約22.9万人、いじめは約68.2万件、暴力行為は約9.5万件。いずれも過去最多であった(朝日新聞23.10.4)。不登校は子どもたちにとってかならずしも否定されるべき選択ではなく、いじめの増加は「認知」が網羅的になったことがその一因であるとはいえ、社会問題として浮上する「学校問題」が深刻化の一途を辿っていることは疑いない。
②教師は平日、小学校では11時間23分、中学校では11時間33分も働く。22年、残業時間は、小学校で月に82時間、中学校で100時間であった(NET情報)。教師の精神疾患の激増はすでに旧聞に属する。教職は現在、もっとも長時間労働の職業のひとつということができる。
③公立学校教師の労働組合組織率は、21年、30.4%、新規教員の加入は23.4%、日教組組織率は20.8%である。いずれも76年,77年このかた連続的な低下をみている(NET情報)。むろん組織率の動向は表層的な現象だ。明かなのは教師自身の発言力の著しい低下にほかならない。

 このエッセイは、いずれも重層的な原因のある①②③それぞれの状況を立ち入って考察するものではない。私がここで問いたいのは3者の関連であり、その関連についてのマスメディアと「世論」(国民、あるいは子どもの保護者)、そして教師自身の認識である。それらをかりに「世論」と総称しておこう。「世論」はむろん①を深刻な問題と意識し、②は「先生の志望者を減らしもする」劣悪な労働条件として憂慮する。けれども、教師の過重労働が生徒たちとの豊かなコミュニケーションの時間や、学校でのトラブルに対する教師たちの協同対処のゆとりを奪っていることにはなかなか思い及ばない。すなわち②の労働問題が①の学校問題=社会問題が棚上げされるひとつの有力な原因であるという理解は、なお稀薄なのである。
 だが、①②③の無視できない関連に関する「世論」について私がもっとも批判的に検討したいポイントは、現時点の日本における③教師の労働組合運動への徹底的な無関心にほかならない。今日では、「世論」のなかに、③ふつうの教員の発言権・決定参加権が②教師の労働問題のありようを左右するはずという認識すらすでにない。いや当の教師たち自身でさえ、「教師という労働者・職場としての学校」という観点をすでに失っているかにみえる。 

 およそ1980年代以降、もともと労働三権が剥奪されていたうえに、行政⇒教育委員会⇒校長と下降する管理体制が強化され、教員個人への人事考課が浸透するなかで、教師たちは教育実践と学校経営に関する連帯的な自治の慣行を次々に失っていった。「教育の荒廃」を日教組の「偏向教育」のゆえとする自民党右派の圧力もこれに棹さした。活発な討論の場であった職員会議はいまや管理者からの単なる伝達機構に堕している。教師間の助け合いの協同精神も風化し、教師たちは、個別の査定を怖れ、「私の教室に起こっている問題をむしろ同僚や校長に知られたくない」という気持から、社会のひずみの反映にほかならない学校問題に、誰に相談することもなく孤独に対処するようになった。教師の組合離れはそのひとつの結果である。要するにふつうの教師は今日、学校の労働についての主体的な発言権を失っているのだ。もし教師たちが学校においてみずから労働者としてのニーズや、日ごろ夢想する「教育の理想」の一端でも主体的な連帯行動に噴出させることができれば、それが②労働条件にも③学校問題=社会問題の改善にも大きな役割を果たすことができるのはいうまでもない。
 たとえばアメリカ・ロサンジェルスの公立学校の教師たちは2019年、学校の民営化に抗議し、担当生徒数の抑制、新しいカリキュラム創造、極貧家庭の子弟への支援などの要求も掲げて「合法」とはいえないストライキを敢行している。そのピケ(!)には、保護者や子どもたちも加わった。そんな投企もありうるのだ。私たちの「先生方」の発言と行動のあまりの萎縮を、アメリカやイギリスで頻発する教員ストはふと顧みさせる。そういえば、今の教師たちは、「政治的偏向」とみなされるのを極度に怖れて、社会の暗部について生徒たちにみずからの見解を決して語らず、権力と闘う姿の背中を次世代に見せることはまずないという。

 もういちどいえば、「世論」は、①の事象に現れる社会問題化した「学校問題」に危機感を抱き、②教員の過重労働を望ましくないと認識するけれど、ふたつは別個の問題であるかのように感じ、両者の関係には深く立ち入らない――日本の低賃金に関して労働組合の行動の不十分さ、たとえばストライキのまったき欠如を問うことがないのと同様に。そして③教育労働運動の衰退にみる教師の主体的な営みの萎縮については、いまや完全に関心の外にある。それは①にはもとより、②にさえも無関係であるとみなされている。
 そうした多数の常識の帰結は、①も②も、その克服や改善の期待はすべて行政や法律に委ねられることだ。今の広義の教育問題の現状を規定しているのは予算決定を采配する政権の政策である。それゆえ、現状の改革を望む勢力の戦略は結局、政権交代、その方途は選挙での勝利に収斂するのである。どんな政権のもとでも、労働運動が学校を含むおよそ労働現場での労働者の発言権・決定参加権を与件とさせる、そんな欧米ではふつうのありようへの絶望が、すでに私たちの国の「空気」だからである。

 いくらかふえんすれば、ことは教育・学校の問題ばかりではない。医療にせよ介護にせよ生活保護にせよ、事業体のサービスの質と量の不備・不足は、対人サービス職労働者の要員不足や低賃金や雇用の不安定や離職によって引き起こされている。その所以はそして確かに、予算、制度、法律など上部の利権関係や権力構造に求められる。それゆえ、今の日本に軍備拡張などのゆとりはない、広義の福祉に資金を回せという政治の場での追及はまぎれもなく正当であろう。だが、その政治的追及の熱量も、しかるべき労働条件とディーセントなサービスを求める現場の対人サービス担当者の連帯的な産業内行動(industrial action)、ときには叛乱によってこそ保証されるのだ。そうした労働運動は、利用者のニーズをみつめ続けることにおいて市民運動と連携することもできる。現時点の日本では総じて、この労働現場からの突き上げが欠けている。それゆえ、たとえば訪問介護ヘルパーが人権尊重的な介護のために一人の利用者にさきうる時間を延長する努力は、選挙のとき福祉を重視する政党に投票することに限局されるのである。
 エッセンシャル・ワーカーとしての対人サービス職の人びとがますます増えてゆく時代である。そうした労働者は、日常的に、直接的に、仕事を続けてゆける労働条件と、公共サービスの利用者・受給者のヒューマンなニーズを汲む仕事の遂行を求める。そのために
は組合づくりの営みが不可欠となるだろう。「世論」はさしあたり寒々としているけれど、そう願うのは、いつまでも、私のような産業民主主義の信奉者のみではあるまい。