その22 2020年のマイベスト 映画と読書

 (1)日本映画
コロナウィルスが猛威をふるう2020年。映画ファンの私は新作・旧作、劇場・自宅をふくめて実に165本ほどの映画をみている。外出自粛期の最大の恵みは、アンゲロプロス、フェリーニ、ベルトリッチ、D・リーン、今井正などの名作をふくむ、まさに「生涯ベスト」に属するような作品群のDVD観賞であった。そのうち『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ)、『真昼の暗黒』/『ここに泉あり』(今井正)などについては、国公労連の雑誌『KOKKO』連載の映画評論の場でくわしくその感銘を綴っている。しかしこのFB投稿では、劇場でみた新作に限ってベストを紹介することにしよう。 日本映画からはじめる。注目に値する佳作たちであるが、③以下はほとんど順不同である。

①スパイの妻(黒沢清)
②罪の声(土井裕彦)
③風の電話(諏訪敦彦)
④許された子どもたち(内藤瑛亮)
⑤糸(瀬々敬久)
⑥MOTHER マザー(大森立嗣)
⑦朝が来た(河瀬直美)

①は、戦時下の1940年、満州で目にした日本帝国の非道を知り、それを世界に公表しようと渡米を試みる貿易商(高橋一生)が、とまどいの末、彼に寄り添って生きようとする妻(蒼井優)ともどもスパイとみなされ、悲劇的な結末を迎える物語。歴史の闇をみつめる最近の邦画には稀にみる壮大な優品。女の心の変化を表現する蒼井優がすばらしい。②は子ども時代に犯罪に加担させられた人の生きてゆく苦しみを描いてかなしくも温かい。③は東北の津波であまりにも打ちのめされた少女が、人びととふれあうなかで成熟した女性として頭(こうべ)を上げるまでを描いて感動的。主演のモトーラ世里奈がとてもいい。④と⑥はともに、常軌を逸した「毒ママ」とママが大好きな息子との相互依存を描いて切実な佳作。⑥の長澤まさみは、評判の熱演ながら、なおいささか堅い感じ。⑥は高校時代に運命的に惹かれあった平成元年生まれの菅田将暉と小林菜奈が、時代の諸相に翻弄されて多くの失敗の体験を重ねた末ついに結ばれるというメロドラマながら、古今東西を通じたすぐれた恋愛映画が共有する、変化しながらも愛し続けるという特徴を備えている。

 (2)外国映画

①異端の鳥(バーツラス・マルホウル)――チェコ、ポーランド、ウクライナ 
②存在のない子供たち(ナディア・ラバキ)――レバノン
③パラサイト 半地下の家族(ポン・ジュノ)――韓国
④コリーニ事件(マルコ・クロイツパイントナー)――ドイツ
⑤オフィシアル・シークレット(ギャリン・フット)――イギリス
⑥カセットテープ・ダイアリーズ(グリンダ・チャーター)――イギリス
⑦レ・ミゼラブル(ラジ・リ)――フランス
⑧ジョジョ・ラビット(タイカ・ワイティティ)――アメリカ
⑨ジュデイ 虹の彼方に(ルパート・グールド)――イギリス
⑩スペシャルズ(エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ)――フランス

ミクロな視点で小粒の佳作からなる邦画にくらべて、外国映画のベスト作品群は、それそれの地域での歴史的悲劇や社会の格差構造への深くマクロな洞察を背景に人間の歓びや悲しみを鋭く描き出す。例え短文でもこの場ですべてを紹介し解説することは難しいので、上位作にのみふれると、①は戦時下の東欧、②は現代のアラブ世界を舞台に、少年の過酷な受難を徹底的に抉るまれにみる秀作。映像の美しさと対照的に、リアルでグロテスクな圧迫者たちのすさまじさ、ふつうの庶民たちが重ねる差別と排除の酷薄さに打ちのめされる。③は『ジョーカー』や『家族を想うとき』にくらべればいくらかけばけばしいけれども、韓国格差社会の様相を「おもしろく」語って飽かせない。④は、ナチスの残酷さをもういいだろうと黙過しようとする現代ドイツの法曹界を告発する感動的な物語。⑤は事実にもとづく。アメリカのイラク戦争に関わる極秘通信を傍受したイギリスのNASA勤務の女性が、その反戦思想ゆえにあえてジャーナリズムに暴露する。そこに始まる周囲の非難、拘束、行為の意味を考慮した裁判の末、ついに無罪になるまでのプロセスが描かれる。毅然たるヒロイン、キーナ・ナイトレイがさわやかに美しい。現代イギリスのパキスタン人、フランス・パリのアラブ人の苦境や成長、屈しない抵抗の姿を描く⑥と⑦も注目に値する。ああ、もっと語りたいけれど。・・・。

 (3)読書――社会・人文・歴史
 
 建設運輸連帯労組関生支部への刑事訴追裁判の鑑定意見書の執筆のために、夏秋には、多くの裁判資料ほかの精読に忙殺されたとはいえ、私の2020年の読書体験は貧弱だった。小説以外の分野で読了した冊数こそ38だったものの、そのうち労働研究の専門書はごく少なく、多くはルポや新書である。しかしともかく、テーマが意義深く、視角が新鮮、情報が豊富で学ぶところ多かった良書を摘記してみよう。

①デヴィッド・グレーバー<酒井隆史、芳賀達彦。森田和樹訳>
 『ブルシット・ジョブ  クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)
②森政稔『戦後「社会科学」の思想 丸山真男から新保守主義まで』(NHKブックス)
③片山夏子『福島原発作業員日誌 イチエフの眞実、9年間の記録』(朝日新聞出版)
④橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』(河出新書)
⑤山口慎太郎『「家族の幸せ」の経済学 データ分析でわかった結婚、出産、子育ての眞実』(光文社新書)
⑥本田由紀『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)
⑦藤野裕子『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)

 ①は稀にみる収穫であった。ブルシット・ジョブ(BJ)とは、本田由紀の巧みな紹介によれば、イ誰かに媚びへつらうだけの仕事。ロ誰かを脅したり騙したりする仕事、ハ組織の欠陥を取り繕う仕事、ニ形式的な書類をつくるだけの仕事、ホ誰かに仕事を割り振るだけの仕事だ。本書は、不思議に増えてゆくBJのくだらなさを、自分でもうんざりしている担当者からの詳細な聞き取りを通じて徹底的に暴露し、その由来を尋ねる。BJよりも遙かに労働条件の悪い真に不可欠な仕事の担い手たちへの共感が調査・分析の根底にある。私たちの常識を根底から揺るがせる、これはすばらしく示唆的な必読の大著といえよう。②はとても役に立つ平易な研究史。私にも懐かしいいくつかの書物の示唆を再認識させた。③は原発作業員の実態を報告する数多い文献中の白眉である。④は橋本ワールドになれた人にはいささか新味を欠くけれど、なんといっても「このテーマにはこの人」。研究の蓄積がゆるぎない信頼性を保証する。同じことは⑥についても言える。⑤は、左派、フェミニズムとは立場を異にしながら、統計の駆使によってクールに、常識的な女性への提言を一蹴する好著。また、テーマに惹かれて繙いた⑦は、近代史における民衆暴力の光と、直視すべき破壊的な暴力や排除という陰を描いている。読後感は私にはいささか苦い。
 ほかに文芸評論の分野では、当の作家の作品を広く読んでいるわけではないゆえ短評も難しけれど、①水溜真由美『堀田善衛 乱世を生きる』(ナカニシヤ出版)、②清真人『高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り』(藤原書店)、佐藤秀明『三島由紀夫 悲劇への欲動』(岩波新書)の3点が労作と感じられた。私の好きなジャンルであり、いずれも興味深く読むことができた。

(4)読書――小説

 いつも手放すことのなかった小説の読みも少なくなって、2020年には34冊ほどだった。そのなかでとくに惹かれた作品をいくつか紹介し推薦する。 

①川上未映子『夏物語』(文藝春秋)
②ジョゼ・サマラーゴ<雨沢泰訳>『白の闇』(河出文庫)
③『セレクション戦争と文学1 ヒロシマ・ナガサキ』(集英社文庫)
④『セレクション戦争と文学8 オキナワ 終わらぬ戦争』(集英社文庫)
⑤桐野夏生『日没』(岩波書店)
⑥『平家物語』(上)(中)(下)<中山義秀現代語訳>(河出文庫

 ①はイチオシ。中年近くセックスはいや、東京でひとり住まい、冴えない作家の夏子が、いらいらさせるほどあれこれと逡巡したのち人工受精で赤ちゃんを産むまでの物語。こう書けば身も蓋もないが、そこにいたるまでの間、大阪でのどん底の貧乏をともにした寛容な姉、クールな編集者、辛辣ながら情愛ゆたかなシングルマザーの流行作家、人工受精で生まれ実父を求める心やさしい男性、厳しいフェミニストのその恋人――そんなそれぞれに個性的な人びととふれあうようすや、度しがたい男のエゴイズムに遭遇してきた彼女らのドストエフスキー的な語りの迫力がリアルでどうにもおもしろい。女が人生の過程で選択を迫られる諸課題がいかに重く複雑なものか、その思いがずっしりと心に残る。
 ②は、すでにHPエッセイ(20年6月)ですでにふれているが、感染のすさまじさ、人びとの受難の耐えがたさ、そこから這い上る希望の歩み・・・などの描写においてまさにパンデミック文学の白眉といえよう。③と④は、ヒロシマ、ナガサキ、そしてオキナワに関する数多い秀作の短編集。とくに私の心をうつ作品は、③では大田洋子、林京子、井上光晴、後藤みなこ、小田実、④では長堂栄吉、大立正裕、吉田スエ子、日取眞俊、桐山襲の作品であった。⑥についてもいつかHPエッセイでふれたように、私はいくつもの現代語訳になじんだ「平家」好きで、物語は細部までわかっているが、なお、生々流転のなかにあるすべて固有名詞のある男たち、女たちの折々の立ち居振舞いに惹かれる。歌舞伎十八番のように私の古典である。⑤は、体制の「良識」に背反する女性作家が一方的に拘束され、虐待され、転向を迫られ、精神病者にされ、破滅するというこわい物語だ。あまりの「人権無視」に、グロテスクなおもしろさを超えて心がふさがってくる。これは現在のリアルではなく近未来のSFではある。しかし果たして「今」とは違うだろうか? 桐野夏生のそんなメッセージが耳の奥にきこえてくる。

その21 『労働情報』廃刊の風土と季節

 イギリスの労働組合運動がきわめて強靱だった70年代末か80年代初めの頃だったか、私の記憶に深く刻まれているこんな出来事があった。
 ロンドンのあるブティック。女性店員Jが上司から執拗なセクハラを受け、それを拒むと解雇通知を受けた。悩んだJが親友のKにどうしたらいい?と相談をもちかけたところ、KはそのことをTGWU(運輸一般労組)の活動家だった兄に話した。TGWUは座視しなかった。ブティックの新装開店の朝、ドアを開くと、路地はそこに抗議のためシットダウンする、女性たちばかりかトラック運転手や工場労働者さえふくむTGWU組合員でいっぱいだった。ブティックは困り果て、Jを復職させてセクハラ上司のほうを解雇した・・・。
 今ではもう資料出所が定かではないけれども、私がこのエピソードにふれたとき感じたのは、こんなことも可能なのだという感銘とともに、日本ではとてもこんな連帯の発揮は難しいだろうという、あきらめの混じった羨望であった。
私たちの国でこれと類似の営みを担ってきたのは、主流派の企業別組合の組合員ではなく、地域コミュニティユニオンなど企業外の広義「ユニオン」の人びとである。その主要な役割は、解雇、賃下げ、パワハラなど、選別の労務がもたらす<個人の受難>を、団交や門前行動を通じて救うことだったと思う。その成果の度合い、個別労働紛争の解決率は、労働委員会、裁判所、労働局、労基署など公の機関よりも遙かに高いことを、ユニオンの活動家は誇りにしてよい。とはいえ、当のユニオンも知悉していることながら、「紛争」の結末は、たいてい受難の本人へのバックペイや解雇撤回や会社の謝罪であり、その人が実際にそこで働き続けることも、会社の労務の基本を変えることもできなかったという限界はまぬかれなかったということができよう。
 その限界を突破できる条件は、受難者を擁護するなかまが職場内で増えること、そうした人びとの言動の自由を外から守るユニオンがTGWUのような力を備えていることである。そう考えると、私たちはどうしても国民意識に、わけても若者たちの日常意識に、忌憚なくいえば、どう批判的に切り込むかを問われることになる。日本ではなぜアメリカのように、マクドナルドの店員のストライキに呼応して、ケンタッキーフライドチキンやダンキンドーナツの若者が街頭にあふれ出さないのか。

 若者に限らず現時点の日本のふつうの人びとは、日常的には、職場、学校、ネット上の友だち関係などの「界隈」に属している。その界隈では総じて、権力に無批判な俗論を声高に語るオピニオンリーダーに、ふつうの多数派は「KY」とみなされることを怖れ、「なにもとがったことを言わなければ大丈夫」と悟って追随する。そこには、忖度の「空気」濃厚なつよい「同調圧力」が働いている。だから、その空気のなか、人権に敏感な誰かがあるとき、追随するのはおかしいなぁと感じたとしても、(若者言葉の)「そっち系の人」とみなされれば、いじめやハラスメント、排除の憂き目に遭うと怖れて、何があっても寡黙のまま行動しないのだ。それに棹さして、街頭で政治関係のビラは受けとらないようにと「指導」するふぬけの教師もあるという。結局、労働生活の軌道を外れないサラリーマンやOL(その一部は企業別組合のメンバーだ)、教室での孤立を怖れる中高生、就職を心配する大学生、「ママ友」を失うまいとする主婦・・・などにとって、ストライキや激しい団交で企業労務に抗うユニオンや、政府の施策に抗議してデモやスタンディングをする、いうならば「労働情報系」のおじさん・おばさんは、できればかかわりたくない「そっち系」の人たちなのである。

 しかしながら、正社員の働きすぎと非正規労働者のワーキングプア化の相互補強関係に閉じ込められる現代日本の労働状況が、とりわけ若者のそれが「大丈夫」でないことは、今さらいうまでもない。そんなとき、結局は逃れられない労働の現場を働き続けられる居場所とする労働組合運動を若者が忌避し続けるとすれば、それは悲劇的というほかあるまい。また労働者に限らず、若者をふくむふつうの人びとの界隈に、同調圧力に靡く「空気」が瀰漫し続けるならば、日常生活のしんどさに深く関わっている、憲法には保障されているはずの人権尊重や民主主議の空洞化はあきらかなのだ。その空洞化はすでに、2012年頃から加速度的に進行している。
 静かなファッシズムへの接近ともいうべきこうした日本の状況のもと、『労働情報』が廃刊になるのは、ある意味でやむおえないとはいえ、深い挫折感にとらわれる。折しも私個人も、加齢のためもう発信の新鮮な感性と能力を失いつつある。とはいえ、ほとんど絶望的にこの日本の状況を診断しながらも、私はなお、香港やアメリカの若者たちの勇気に憧憬のまなざしを注ぎ続ける。日本でも2015年には、自分のこれまでのKYの姿勢こそが間違いだったのだと語る女子学生を目の当たりにもしたのである。
 あのシールズの運動でもなにも変わらなかったという思いが、若者に社会運動への希望を失わせたという分析がある。そこを考慮して、これからの労働・社会運動論は、香港やアメリカの若者の行動のような、非暴力ながらももう少し身体を張った運動形態の議論にも踏み込むべきだろう。私の夢みるところ、労働運動ではスト・サボタージュ・ピケなど、社会・政治運動では長期のシットダウンなどがそれだ。議会のルールや最低限の政治倫理すら意に介さない安倍・菅政権のもとでは、あえていえば、人びとの怒りの熱量に比例しない議会内外のあまりに「秩序」を守った抗議行動に、労働や政治の現状にわずかでも疑問を感じるようになった潜在的な運動の参加者はさして魅力を感じないのではないか。ラディカルを忌避しすぎると選挙時の得票さえ失いかねない。権力のあまりの非道がまかり通るとき、いつもはとかく秩序に靡いて抗議行動に立ち上がらない庶民たちも、ついには正義(JUSTICE)なくして平穏(PEACE)なしと思い到リもする。香港やアメリカの若者たちの「秩序紊乱」さえ一部にふくみもった生き生きとした社会運動はそうした思想の顕現にほかならなかった。そしてそれこそがふつうの人びとの心に灯をともし、両国の直近の国政選挙において、リベラル派・民主党に勝利をもたらしたのである。
『労働情報』(最終)1000号:2020年12月

その20 告発される大阪医科歯科大学のアルバイト職員差別

 はじめに 2015年8月、大阪医科大学でのアルバイト勤務に携わった香山由佳(仮名)は、この職場で体験した正職員にくらべてのみずからの労働条件のあまりに大きな格差を是正することを求めて、大阪地裁に提訴した。

 香山は、2013年1月に、大阪医科大学基礎系教室に有期雇用・フルタイム・アルバイトとして就職し、以降、毎年4月の一年ごとの契約更新をくりかえして、15年3月まで事務職「秘書」として働いた。2015年3月には、心労の末、適応障害に陥り休職。その年に雇用契約は更新されたとはいえ、欠勤扱いとなる。そして同大学は、これから経過を辿る裁判判中の2016年3月づけで、香山を雇い止めにしている。 

  香山由佳の職場体験と告訴 この大学の事務系職場は、無期雇用の正職員(200人)の他、無期雇用の契約職員(40人)、アルバイト職員(150人)、嘱託職員(10人)という4種の雇用形態で編成されていた。香山の職務は、ある雑誌に彼女自身が記すところでは、そこに配置されている4名の正職員の教授&教室秘書とまったく同じ仕事内容・同じ責任であったという。仕事範囲は広汎にわたり、教授らの全スケジュール管理、各種の研究費の管理、研究材料の購入、教員の授業の資料準備、試験問題の編集や採点の集計、実験助手や非常勤講師の書類手続きと支払い、院生の「お世話」、それにさまざまの雑務(郵便物配布、清掃、整理・ゴミ出し、お茶くみ、軽食・飲物購入など)に及ぶ。所属の「教室」によっていくぶん相違はあったが、香山の教室では、1人で15~30人のメンバーの補助労働を課せられ、しかも用務員の配置はなかった。秘書+一般庶務+雑用が重なる職務である。もと大学教員の私には、「職場の家事」のような煩わしい周辺作業のすべてを引き受ける「秘書」の有り難さがよくわかる。こうした職務配置の格差は研究や講義への集中にとってとても好都合なのである。

 このようなフルタイム・アルバイトに対する処遇はきわめて差別的であった。a賃金は時給制で950円であり、正職員には4~6ヵ月分あるb賞与はゼロであった。その結果、年収は正職員の秘書とくらべて約3割強、2013年の新規採用者とくらべても約55%である。そのうえ、正職員が享受できるいくつかの休暇や便宜供与もアルバイトにはなかった。c年休日数の法定日以上の加算、d年末・年始等の休暇への賃金保障、e夏季特別有休(夏休み)、f業務外疾病休暇への休職規定による賃金保障、g大阪医科大学病院に通院・治療した場合の医療費償還措置・・・などがそれである。

 みずからの仕事に誇りをもち、正職員以上に働いてきたという自覚もある香山由佳にとって、このような構造的差別ともいうべき処遇格差はとうてい容認できなかった。それは有期雇用者と無期雇用者の間にある労働条件の「不合理な」格差の是正を規定する労働契約法20条にも違反するものと思われた。日本郵便や東京メトロコマースなどで、非正規労働者たちがこの法律を論拠に不当な処遇格差の是正を求める裁判闘争に入りつつあったという時代の風もあった。香山の提訴には以上のような背景がある。                                       非情の地裁判決 2018年1月の大阪地裁判決(裁判長・内藤裕之)はしかし、酷薄きわまるものであった。地裁は、大阪医科大学の香山への処遇のいっさいを労働契約法違反に当たらないとして、失われた労働条件の補償分と慰謝料あわせて1174万円余の請求をすべて棄却したのである。ここで私が問題としたいのはその論拠である。  その1。地裁はまず、香山の労働条件と比較すべき対象者を、原告側の主張する同じ仕事をする正職員の秘書ではなく、事務の正職員一般とみなした。すべてはこの認識を起点とする。正職員は、たとえそのときアルバイト同じ仕事をしていたとしても、もともと長期雇用の見通しを前提として、より複雑で責任の重い管理業務などに配置される可能性のある、つまりフレキシブルにさまざまの職務につきうる「能力」をもった人材としてきびしく選抜されて採用され、かつ育成される職員であり、はじめから特定の業務に限定して募集・採用されたアルバイトとは比較にならないというのである。その点は、香山の場合、運転手とか看護師のように職種区分の明瞭な仕事でなく、秘書+事務+雑用を兼ねた一般労働であったことがいっそう不利に働いたかにみえる。ともあれ、労働契約法20条における労働条件格差の合理・不合理を判断する基準も、職務の内容(業務内容、それに伴う責任の程度)、配置変更の程度、「その他の事項」の総合勘案である。地裁はこの基準の複数性活用したのである。

 その2。日本企業の正社員のこうした位置づけを無批判にも前提として、では地裁は、香山の仕事をどのように評価したのだろうか。被告側の主張を全面的に汲む地裁判決によれば、アルバイトは、正職員や契約職員の指示の下、採用部署の「定型的で簡便な作業や雑務レベルに従事する職員」であり、ノルマもそれを達成する責任もほとんどないという。この認識は、実は後の高裁判決も踏襲したところだ。ここでは高裁判決が記す、杉山が後任のために作成した教室事務員の「業務の引継書」を紹介しよう。それによれば、「毎日すること」は、教授らの予定の把握・確認、ポットの水替え、朝夕2回の教授へのコーヒー淹れ、メールセンターの郵便物集配、「一週間の内にすること」は、ゴミ捨て、汚れた白衣のクリーニング依頼、「毎月5日までにすること」も、研究費ごとの請求書の確認、購入伺の作成・提出、科研費書類の印鑑確認などにとどまる。そして高裁判決は、これらはなんらの判断も伴わない単純で定型的な事務作業ばかりだと述べている。判決を聴く香山は、憤りを禁じえなかったことだろう。

 地裁、高裁ともに判決ではまた、正社員とアルバイトの間には期待される「能力」には明らかに高低差がある、それに正社員への登用制度もある、「能力」を発揮できる仕事を求めるならば、正職員になるように努めよという。だが、正職員の秘書は同職のアルバイトと異なるどのような「能力」を発揮しているのかに、言及はない。

 その3。日本企業における非正規労働者の位置づけと以上の「労働分析」の上で、地裁判決は、「職能給」の正職員と時給・「職務給」のアルバイトとの間の賃金格差と、後者の賞与不支給を容赦なく容認した。2013年採用の正職員と比較して香山の賃金が約80%、賞与をふくめた年収が約55%に留まることは不合理とはいえないと判示したのである。そればかりか地裁は、さしあたり労働の質とは無関係な各種の賃金保障や便宜供与(上記c~g)の請求についても、長期勤続や能力開発や労働の長期インセンティヴを「期待」されていないアルバイトには認められないことは不合理とはいえないとして、ことごとく棄却した。従業員としてのアルバイト労働者の尊厳にあまりに配慮のない判決である。原告側が控訴したのは当然のなりゆきであった。

  高裁判決の成果 しかしながら、2019年2月の大阪高裁の判決(裁判長・江口とし子)では、香山のいくつかの訴えが掬われた。

 すでに述べたように、高裁判決も、地裁判決の枠組み、上記「その1」「その2」の認識を踏襲する。それゆえ、正職員とアルバイトの間には「職務、責任、移動可能性、採用の際に求められる能力に大きな相違があ」るとして、賃金決定方式が異なることを了承し、約2割の賃金格差も不合理とはいえないと述べている。

 だが、高裁判決は賞与については地裁と認識を異にした――賞与は、長期雇用へのインセンティヴの要素も含むとはいえ、年齢や在職年数にではなく基本給に連動する支給であり、賞与算定期間における就労それ自体への対価にほかならない。事実、長期雇用を前提としない契約職員には80%の支給もある。したがってアルバイトにも、「功労」の程度は考慮するとしても、約60%を下回らない賞与が支給されなければ不合理だというのである。60%という算定には議論の余地はあれ、経営の人材活用方法と切り離すという賞与論にもとづくこの判決は、非正規・有期雇用者の労働条件改善に大きく寄与する、意義深い、まさに画期的な法的判断であった。

 賞与ばかりではない。夏季特別有休休暇、業務外疾病休暇への休職規定による賃金保障(およびそれによる厚生保険の資格喪失の防止)についても、高裁判決は生活者のニーズに配慮し、アルバイトにも賃金や就労期間に応じてこれらが認められなければ不合理だと判示した。以上いくつかの不合理な処遇でこれまで香山が被った損害賠償と弁護料をふくめて、大阪医科大学には109万円余の支払いが命じられた。この判決に対して、大学側は上告する・・・。

  日本的「人材活用」という堡塁 およそ2015年の頃から、労働契約法20条にもとづいて有期雇用者の差別的な労働条件を是正する提訴が相次ぎ、いくつかの企業で一定の成果が伝えられている。しかしその成果は総じて、各種の手当て、休暇制、あるいは退職金の改善に限られ、基本給や賞与についてはなお手つかずのままであった。この点、本件での賞与の6割認容という判決の画期性はやはり疑いを容れない。しかも、事務アルバイト・香山由佳の職務の、正職員の仕事との違いを指摘されやすい一般労働的性格を考慮すれば、その画期性はいっそう際立つといえよう。それだけに、非正規・有期雇用労働者への、ふつうは賃金の一部と考えられやすい賞与の支給に最高裁がどのような判断を下すかは、楽観を許さない。

 今なお、非正規労働者の差別的労働条件は、正社員を対象とする、どのような責務にもフレクシブルに応じる「能力」の総合評価、すなわち日本的経営特有の「人材活用方法」という「堡塁」によって守られている。非正社員に割り当てられる仕事は、たとえそのとき同一労働であっても柔軟な適応を求められる正社員の仕事と比較できない、両者の基本給決定方式は統合できないというのである。財界が固執するこの堡塁、日本的「人材活用」労務の前に立ちすくんで、喧伝された安倍「同一労働同一賃金」論は虚妄と化した。労働規約法20条にも基本的にはこの堡塁の爆破力はない。

 本件における地裁判決はこの堡塁への完全な屈従であった。そのうえ、地裁は、賃金・賞与の決定方式の統合を放棄するかわりの弥縫策として安倍労働改革が勧める手当や休暇の均等化さえ無視した。高裁も基本的には堡塁の承認をまぬかれなかったけれども、柔らかい感性に恵まれた高裁の裁判官は、あえて、というべきか賞与を賃金の方にではなく手当の方に引き寄せて解釈することによって、辛うじて堡塁の一角を崩し、他の休暇付与および不時の賃金保障とともに、原告の訴えを掬ったのだ。非正規労働者のこれからの反差別運動の課題は、この判決を起点として、日本的「人材活用」の堅固さと安倍労働改革の不確かさをどこまで追及できるかであろう。

 *2019年5月記/参照文献:大阪地裁判決(正本)、大阪高裁判決、各種の原告側  資料、原告執筆の小論(『女性のひろば』2017年12月に掲載)ほか

                   『労働情報』982号 2019年6月     

その19 「外出自粛」期の読書ノートから

 2020年春から初夏にかけて、コロナウィルス感染のゆえに集会や研究会、国内外の旅行や遠出の行楽ができなくなって以降、私の主な生活時間は、ひとつには長編の名作映画のDVD観賞に、今ひとつにはやはり読書に費やされた。もっとも読んだ本は、数年前までとは異なって、なんらかのアウトプット(執筆) のために必読の浩瀚な研究書や資料ではなく、総じてどちらかといえば「軽い」多方面の一般書や小説である。貧弱な読書内容ながら、長年の習慣にしたがって、この間読んだもののベストと思われる書物のいくつかを順不同でメモしておきたい。

 (1)文学・小説
 小説はいつも手ばなしたことはないが、読後の収納場所が心配で購入するのは主として文庫本としている。しかし近年、私が読みたいと思う書物の文庫化は稀である。いきおい読了した冊数はそう多くないが、うち「おもしろかった」作品はつぎのようである。

 ①ジョゼ・サラマーゴ<雨沢泰訳>『白の闇』河出文庫( 2020)
 ②桐野夏生『夜の谷を行く』文春文庫(2020)
 ③セレクション『戦争と文学』より 『4-女性たちの戦争』
 ④同じく『5-日中戦争』いずれも集英社文庫(2019)
 ⑤『平家物語』(上)(中)(下)<中山義秀 現代語訳>河出文庫(2004)

 いわゆる感染パニックものはいくつか乱読したけれど、文学的にみて白眉はなんといっても①であった。ある国のある都市で、すべての人が盲目になるという悪疫が急速に蔓延する。主人公となる感染者のグループは強制的に拘束され、酸鼻をきわめる不潔と飢餓に呻吟し、そのうえ収容者中の暴力集団に過酷にも隷属させられる。だがそのグループのうち「医者の妻」だけは視力を失っていない。そのグループは、聡明で勇気に富む彼女のリードで連帯し、暴力集団と闘い、収容所を脱して人びとが死に絶えつつある街へ出て、奇跡の終焉の日まで生き延びてゆく。その不潔、臭気、飢餓、抑圧、諍いの地獄を描写する濃密な筆力はすさまじくリアルながら、グループを率いる「医者の妻」はドラクロアの自由の女神のように美しく、盲目の医者、娼婦、病院の事務員、労働者たちからなるグループが徐々に助け合いに向かうプロセスも美しい。そんなSF的な黙示録の世界に引き込まれた後、私たちは静かにしたたかな感動に誘われるだろう。
 ②は連合赤軍のアジトから赤ん坊を連れて脱出し、出獄後、身を潜めていた女性の変化の日々。かの永田洋子は(赤軍派に抑圧されたけれども)実は山塞アジトを女たちの母子共同体にしようとしていたのだという、ジェンダー視点の構想が注目に値する。
 ③④は、以前から読み続けてきた各巻に20篇ほどの短編・中編を編集する戦争文学のアーカイヴスのうちの2冊だ。今の価値意識をもって戦中から戦後初期の作品群を裁断するつもりはないとはいえ、戦争という人間の悲劇を抉る文学の質はやはり玉石混合である。③では、大原富枝、上田芳江(「焔の女」)、藤原てい、高橋揆一郎(「ポプラと軍神」)、一ノ瀬綾、冬敏之など、④では、日比野士郎、伊藤桂一(「黄土の記憶」)、藤枝静男(「犬の血」)、田村泰次郎(「蝗」)、五味川純平などの作品が印象的であった。とくに優作と感じた小説にはタイトルを記した。
 最後に⑤について。私はもともと『平家物語』のファンで、これまでも何種類かの訳本を楽しんできたが、「自粛」在宅の後半、読みたい小説に窮して、今回は中山義秀現代語訳「平家」に時の経つのを忘れた。「平家」のおもしろさは、事態の推移の説明はきわめて簡潔ながら、数ある見せ場での大向こうの雄弁、衣装・装備のきらびやかさ、戦闘における今ではユーモアを誘う蛮勇の立居振舞などの描写が驚くほどくわしく、読むほどに、すべて名前が明かな登場人物たちの究極の人間悲劇がくっきり浮かび上がるところにあると思う。鑑賞としては邪道であろうが、底流にある諸行無常、因果応報、、天皇崇拝、仏道帰依の世界観・歴史観など、どうでもいいという気になる。そしてそれはともあれ、読み進むうちに私は、後白川法王のおそるべき狡猾や、頼朝の果てしない猜疑や、義経の勝ち戦のためには手段を選ばぬ酷薄さが嫌いになる一方、してやられて頓死する木曽義仲、敗戦が重なって鬱になり入水自殺する平維盛、「みるべきほどのことはみつ」の情理の知盛のような敗者におのずから贔屓するようになる。俊寛の悲劇も切実きわまりなく、祇王、仏御前、小督など女性像の佇まいも深い余韻を残す。「平家」のすべてのエピソードをもうすでに熟知しているのになおおもしろい。いちど繙いてみてほしいものである。

 (2)一般書籍
 ①本田由紀『教育は何を評価してきたのか』岩波新書(2020)
 ②清真人『高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り』藤原書店(2020)
 ③森政稔『戦後「社会科学」の思想 丸山真男から新保守主義まで』NHK出版(2020))
 ④プレイディみかこ『ボクはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』新潮社(1919)   
 これら学ぶところ多かったそれぞれの作品について内容をきちんと紹介し、他の書物にはない特色を指摘した上で感想を述べるのが本当であろうが、ここでは恣意的ながら、実は私は、上のいずれにもある不満を禁じえなかったことを語りたい。敬愛する本田由紀の①は、人びとを「垂直的序列化」し「水平的画一化」しようとする日本国家の教育の思想と政策を手堅く説得的に実証しているけれども、私は、そうした国の働きかけに対応する卒業生を採用する経営者、保護者や子供たち、あるいは教師たちの消極的または積極的な受容の心情も描いてほしかったと思う。畏友、清真人の500頁を超える大著②は、高橋和巳の思想を時代背景のなかで徹底的に解剖する力作であるが、高橋の人間像が清の長年の豊富な哲学研究にもとづいていわば演繹的に規定されすぎている。たとえば名著『邪宗門』の人びとの物語を辿りながら高橋の問題意識を帰納法的に把握してゆく、いわば文学評論的アプローチを好む私には、倒叙法を多用する力強くはあれ硬質の文体を、清真人の命題を絶えず反芻しながら読み進むのはなかなかしんどいのである。
 また③は、国内外の多くの社会分析の名著によく目配りが効いており、私自身の学びの軌跡もふりかえさせられて懐かしい気持になった。この分野の絶好のテキストであろう。しかし、戦後日本の民衆の思想や生活意識が社会科学にどのように掬われてきたのかは結局わからなかった。また④は、ヒューマンで感性ゆたかな在英の母と子の、かつての強靱な階級連帯が影をひそめ、貧富の階層、ジェンダー、人種など多様な区分の間で、日常生活において言葉に気をつけなければならないほどはらはらする緊張がはらまれているイギリスでの、公立高校に通う日々を伝える興味ぶかいドキュメント。この国ではそれでも、庶民・ヤンキーの文化の表出と、「多様であること」の絶対的な価値が断固として擁護されている。そんな不思議な国でこの母と息子や教師などが失っていない生活の端々での思いやりにときにじーんとする。好著である。ただ、やはり読みやすさと裏腹にエピソードはとりとめなく、やや軽いという印象はなお残るのである。

 とはいえ、これら良書に対するある意味「ないものものねだり」の不満は、私がいま本当に読みたい・学びたいと思っていることは満たされていないという思いの反映でもある。 私個人の関心は、とくに80年代以降の日本のふつうの労働者の精神史、意識や心性の軌跡である。端的には、労働組合・労働運動の思想史といってもよい。とくに80年代以降およそ40年にわたり、日本の民主主議の議論のなかでは、産業民主主議というものの独自的な価値がほとんど顧みられず、したがって労働運動の脆弱さは、国際比較的にみても際立ってきたかにみえる。それはなぜか。その背景や軌跡を尋ねたい。
 私の乏しい知見では、日本の思想論・精神史の叙述は、60~70年代のニューレフト・全共闘の問題提起、労働運動についてはおそらく考察したことのない丸山真男や吉本隆明の言説で終わってるように思われる。岩波書店の2015~16年刊行の全九巻シリーズ『人びとの精神史』が、「大文字でないふつうの人々の精神史」を標榜し、100人以上の個人のいきざまを扱いながら、そのなかに堅気のサラリーマンやふつうのユニオニストや「消費者」が、私の寄稿した1篇を例外として、登場させていないことは象徴的でさえある。
なぜ国民や市民ではなく(組織・未組織を問わず)労働者なのか、なぜ、80年代以降なのか。ここで述べるいとまはないが、森政稔の本に間接的に触発されて読み返した古い文献、私の初期の労働研究にほとんど決定的な影響を与えた論文を紹介したいと思う。ご存じだろうか、ダニエル・ベル<岡田直之訳>『イデオロギーの終焉――1950年代における政治思想の涸渇について』東京創元新社(1969)所収の「マルクスからのふたつの道――社会主義思想における疎外、搾取、ならびに労働者による統制の諸テーマ」である。 それは、マルクスにおける<搾取⇒失業と貧困の凝視⇒一党独裁の政治革命>という公式のルートとは異なる、<疎外⇒労働そのものの凝視⇒労働者の自主管理>という系統に属する思想の軌跡――1910~20年代ヨーロッパにおける力強い台頭、ソ連におけるその無残な圧殺、その興隆と挫折が現代労働運動に残した示唆・・・を語る雄渾な内容をもつ。終わり近くベルは言う、「労働組合が労働過程に挑戦するなら、社会全体への根本的挑戦を要求されるだろう」。「要求の流れが上から課せられた強制ではなく、労働者自身から生じなければならない」。「労働者の抗議というかつての社会主義的・人道主義的伝統の遺産を再び受け入れるならば、市場ではなくて、職場そのものが労働のペースとテンポを決定する中枢でなければならない」。今では墓どころさえ定かでない古い理想主議である。しかしそれは、今なお労働組合運動が顧みるべき思想の酵母である。

その18 コロナ感染拡大と生活・事業の支援

 コロナウィルスが猛威をふるう今、賃金が保障されて在宅勤務のできる正社員や私のような退役の年金生活者は、多少の鬱屈はあれ、とりあえず安んじて外出を自粛できる。だが、続けられねばならない医療、介護、日用品小売りなど必要不可欠のサービス供給のために通勤して働く人びとの健康不安はどれほど大きいことだろう。この問題はあらためて考えるとして、もうひとつ、①人員削減で雇用契約を失った日給制の非正規労働者や派遣社員、②要請される休業で収入が激減した小規模事業者および個人事業者・フリーランサーなど、「日銭」を稼げなくなった人たちの生活危機という、まことに深刻な問題がある。
それら安んじて家にいることのできない人びとにとって、ようやく5月末に始まる(1回だけの)一律10万円給付(正確には税金の還付だ)は、あまりにも乏しい生活費の補填というほかはない。

 もちろん、もう少し長期的な補償の制度や措置もあるにはある。融資・貸付の容易化を別にして主な給付に的をしぼれば、①に対しては、労基法に会社の判断による従業員の休業には、正規・非正規を問わず、直近3ヵ月の平均賃金の6割以上の休業手当を支払わねばならないという規定がある。そして企業に休業手当の支払いが出来るように今回、大企業は支払額の4分の3、中小企業は10分の9の助成を受けられる、雇用調整助成金制度を一時的に拡充する措置がとられる。売り上げが5%以上減っても従業員を一人も解雇しないことが条件である。しかしその実施の日はなお遠く、厚労省は近く(?!)その詳細を示すという。私の危惧するところ、手続き面倒なこの助成を受けるくらいなら非正規労働者の人員整理を選ぶ企業も少なくないだろう。
 ②に対して用意されているのは一種の営業支援であって、売上げが今年1~12月で前年同月にくらべ50%以上減った月があった中小企業に限度200万円、フリーランスをふくむ個人事業者に限度100万円を給付するという。50%以上減った月の売り上げが1年続いたと仮定し、前年の売り上げとの差を上の限度内で給付する。経産省はこれから事務局を設置して電子申請システムを整え、申請を受け付ける。給付は早くても5月後半からであろう。これも手続きには時間がかかりすぎる。その上、個人事業のフリーランサーには、それまでの収入水準が不安定で、その確定・立証が困難な場合も多いだろう。いうまでもなく企業が推進してきた「雇用者」の(労働法の適用を受けない)個人事業者への置きかえが、その結果としてのギグ的・ウーバー型の働き方の普及が、ここにきて、休業がフリーランサーの受難に直結する状況を生み出しているのだ。ちなみに、都道府県によっては休業要請に際して支払われるという50~100万円の「協力金」は、上記の国レベルの営業継続支援とどこまで併用できるのだろうか?

 朝日新聞2020.4.20付によれば、カナダでは、コロナの影響で仕事を連続14日失えば、月2000カナダドル(約15.4万)を 最大限4ヵ月、一律に(フリーランスをふくめて)支給される。フランスは、外出禁止直後に、売り上げが前年同月より7割減少した個人事業主や小企業に、月1500ユーロ(約18万円)を支給する。この7割はほどなく5割になり、倒産の危機にあれば月2000ユーロの追加もあって、結局5000ユーロに引き上げられた。そしてイギリスでは、3月末、休業になった雇用者やフリーランスに当面3ヵ月、最大限、平均の賃金・収入の8割、月2500ポンド(約34万円)が支給されるという。これまで伝統的に賃金に減額補填をしてこなかった新自由主義の政府の、それは画期的な政策転換であった。

 もっとくわしい国際比較が必要であるとはいえ、以上を概括して気づくことは、私たちの国の(端的に言って)「コロナ補償」は、諸外国と同様にもう無視できないフリーランサー、ウーバー型労働者をいちおう包括するものとはいえ、充実にほど遠いままである。第1に、緊急事態宣言から2週間後にようやく実施の手続きをはじめたという著しい遅れを否定できない。第2に、その支給水準は乏しく、しかもイギリスのような継続的な支給が確定していない。そして第3に、手続きの過程に企業の雇用区分による処遇格差の評価が入り込むことによって、正社員以外の労働者が満額の支給から排除する可能性をふくんでいる。
 そしてつけくわえたい――暦年の公共部門と公務員の削減が、医療現場、介護現場だけではなく、官庁・役所にも保健所にも人員不足を招いており、そうでなくても遅れがちなさまざまの申請の処理を、やむなくいっそう滞らせつつあるかにみえる。いくつか難しいハードルはあれ、この際、仕事や収入を失った非正規労働者、派遣社員、アルバイト、フリーランサーらを、いま不可欠な公共部門の補助労働に臨時雇用することも考えられてよいと思われる。いずれにせよ、コロナ感染という試練は、世界的な規模で「小さな政府」論を見直させ、公共部門の意義を再確認させるはずである。

その17 読書ノートから、2020年冬

 2020年冬。「社会」から要請される専門仕事の責務はずいぶん少なくなった。2月8日に主宰してきた『市民塾<ひろば>イin四日市』が閉幕し、10.~11日に厳寒・積雪の北海道大学へ講演と学生ゼミ講評に出かけた後は、3月半ばまではかなり自由だ。だからこのところは読書と映画三昧の日々になる。映画はすでに劇場とTV録画・DVDあわせて20本くらい見ているが、映画については次に回して、今日は、多くは文庫や新書ながら、12冊くらいあてどなく読み上げた本のうちから2冊だけを選んで推薦したい。

 小説では、集英社の『戦争と文学』シリーズの1「 ヒロシマ.ナガサキ」。文庫本ながら785ページの大著で、16の中・短篇といくつかの詩歌が収められている。すべてはそれぞれにすぐれた作品であるが、わけても、大田洋子『屍の街』、林京子『祭りの場』、中山志朗『死の影』などは、原爆投下の8月6日、9日とその直後の人びとの被曝による酸鼻を肉体の崩壊と心に巣くう底知れぬ不安を描いて 、私たちをあらためて衝撃に打ちのめす。また、井上光晴『夏の客』、後藤みな子『炭塵の降る町』は被曝者が余儀なくされるすさまじい生きざまをえぐりとる。第5福竜丸の漁民の受難を克明に綴る橋爪健『死の灰は天を覆う』は、戦後反核運動の原点を顧みさせる。
 わけても刮目させられたのは小田実『「三千軍兵」の墓』だ。小田はドイツの強制収容所でのユダヤ人の死、太平洋のクエジリン島で玉砕した日本兵士の死、かつてその島の日本軍の基地建設に動員された朝鮮半島、台湾、東南アジア、島民の死を尋ねて、ひとしく「三千軍兵の墓」に祀る。そして戦後、アメリカは、このブラウン環礁でなんども水爆実験を行って多くの島民を放射能被曝の死に追い込みながら、そうした累々たる屍が重なるクエジリン島にミサイル基地を建設したのだ。小田の思いはさらに阪神大震災の死者たちにも及んでいる。このような時も所も超えた膨大な死者たちの運命を広角レンズ風に視野に収める、庶民の「難死」を反戦の原点にすえる、小田の思想の広さと深さに、深い感動を覚えずにはいられない。
 『戦争と文学』は、記憶すべき過去のアーカイヴスではない。それは平凡な言い方ながら、現時点の「国民必読」の書ということができよう。

 社会・人文科学の分野では、竹内洋『大衆の幻像』を、竹内自身による「大衆の実像」の把握が放棄されているかにみえる点で物足りなく思い、橘玲『上級国民 下級国民』のあまりのいいかげんさにうんざりした後にやっとめぐりあった橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』(河出新書)のみが白眉だった。
 この分野の第1人者、橋本の本書の内容は、すでに読んだことのある2009年および2013年(増補)の『「格差」の戦後史』(河出ブックス)と基本的に同じだ。敗戦から50年代に始まり2010年代に及ぶ<格差>と<階級>の構造と動態が辿られる。本書での修正や加筆はどこか私は検討していないが、今回、新著を通読して学び直し、あらためてその充実ぶりに驚嘆した。無駄のない必要にして十分な叙述。数多いいくつかの命題をどこまでも数値的に立証する手堅さ。格差をつくる多様な要因摘出の視野の広さ。格差の定点的観察とともに、人びとの今のステイタスの肯定と否定に深く関わる階級・階層移動の状況を考察する方法・・・。400ページに及ぶ大著で、ときにまた、それぞれの命題の説明は新書にしては詳しすぎて、読者をもっと端的な断定を求める気にさせるかもしれないけれど、これはまことに「この人にしてこのテーマ」と納得させる、第一級の専門的新書といえよう。終わり近く358-59ページに一表にまとめられた「5つの階級のプロフィール」は、現代日本の構造に関するすぐれた総括表であり、現代日本を語るとき必携の資料ということができる。いつも思うことながら、階級・階層と格差の認識なき日本論・日本社会論はひっきょう虚妄だからだ。
 前回エッセイに書いたように、私は今、非正規労働者にもなれない(失業者でもない)無業者の世代を超えた膨大な累積を凝視すべき課題だと考えている。本書もそこにふれてはいるが、私のこれまでの企業社会論に由来する関心では、無業者がしばしば求職の意欲も失うまでに精神的に打ちのめていることには、正規、非正規を問わず、彼ら彼女らが企業で働いていたときにおける過酷な体験が大きな役割を演じていると思われる。求職意欲を失う無業と企業での就業時の体験との関係性を、橋本には90年代の「企業社会」と「会社主議」を扱う8章2を引き継いで、後章でももう少し論じほしかったという気がする。とはいえ、これは私の好みに偏した、本書の論旨の流れにあまり沿わない「望蜀」の注文かかしれないけれど。いずれにせよ、この本読みは、もう怠惰になっている私にとって久しぶりの勉強であった。

その16【市民塾<ひろば>in四日市】をふりかえって

 2020年2月8日、17年4月から隔月(偶数月)に開いてきたささやかな市民学習会【市民塾<ひろば>in四日市】(以下、「市民塾」と略)がひっそりと幕を閉じた。
 ここで、3年間の軌跡としての綜合テーマ、例会ごとのプログラムをふりかえってみる。
 *R=報告者(所属機関のみ表示))、C=コメンテーター(第1期&第2期)

第1期(2017年4月~18年2月) 「私たちの日常生活と人権」
①女性の生きがたさ ■R・坂倉加代子(四日市男女共同参画研究所)
②貧困者の生存権はいま ■R・深井英喜(三重大学)
③学校のいじめと友だち関係 ■R・山田潤(元定時制高校教員・元関西大学講師)
④サラリーマンの表現の自由――私の銀行体験から ■R・猿爪雅治(名城大学)
⑤過重労働とパワハラ――自死に誘われる若者たち ■R・熊沢誠(塾代表)
⑥大学生の生活と意識 ■R・粟田菜央&山口由貴(三重大学学生)

第2期(2018年4月~19年2月) 「私たちの隣人――無理してるけどがんばってる」
①シングルマザーのゆとりなき日々 ■R・当事者/C・水野有香(名古屋経済大学)
②老親介護のため離職して ■R・予定の当事者は欠席/C・津止正敏(立命館大学)
③仕事と家事・育児の両立はやはりむつかしい? ■R・当事者/C・石田好江(愛知  淑徳大学)
④生活保護受給者のリアル ■R・村田順一(寄添いネットワークみえ)/C・深井英  喜(三重大学)
⑤この日本で働くということ――外国人労働者の体験 ■R・神部紅(みえユニオン)  /C・艶苓(中京大学)
⑥若者の就業――「使い捨てられ」も「燃えつき」もせず ■R・熊沢誠(塾代表)/C  ・橋場俊展(名城大学)

第3期(2019年4月~20年2月) 、女たちの夢と現実――<女性学>入門
①若い女性として生きる――その希望としんどさ ■R・貴戸理恵(関西学院大学)/C  ・山口由貴(三重大学大学院)
②家事・育児・介護の担い手は誰? ――「これまで」と「これから」 ■R・深井英喜 (三重大学)/C・佐藤ゆかり(三重の女性史研究会)
③男女関係にまつわる多様な性暴力 ■R・禿あや美(跡見学園女子大学)/C・坂   倉加代子(四日市男女共同参画研究所)
④貧困化する女性たち――状況、背景、改善の方途 ■R・北村香織(三重短期大学) /C・水野有香(名古屋経済大学))
⑤専業主婦・パートタイム・正社員――それぞれの自由と鬱屈 ■R・熊沢誠(塾代表) /C・石田好江(愛知淑徳大学)
⑥風雨つよくとも屈せず――韓国女性労働者の闘い ■ドキュメント『外泊』上映』/C  (解説文寄稿)・横田伸子(関西学園大学)

 小規模ではあっても、継続的な市民塾の運営にはさまざまの作業が欠かせない。会場設営や資料プリントや司会の作業は、無償で会場を提供したNPO法人・四日市男女共同参画研究所に集うわずかの女性たちによるところが大きい。案内郵送と受付と会計処理はまた別の女性スタッフの担当であった。しかし、企画――具体的なテーマ、報告者・コメンテーターの決定、運営ルールの策定、それにはがき案内・配付資料・例会後の「事務局総括」などの文章作成は、ほとんどすべて代表の私が引き受けた。だから市民塾の内容については全面的に私の責任に属する 以上のテーマ設定にも、私たちの(というよりは私の)塾を立ち上げるに当たっての、当初からの次のような問題意識が色濃く反映している。
 現時点の日本のふつうの人々は、日常的には、職場、学校、家庭、地域などの界隈に属している。その界隈はふつう、いつもの俗論を声高に語るボスと、処世のために「KY」とみなされることを怖れる穏健な多数派で構成されている。そこに立ちこめる忖度の「空気」が強力な「同調圧力」になっている。それゆえ、その空気のなか、人権に敏感な人びが「慣行」をおかしいなぁと感じたとしても、寡黙なままなのではないか。そしてこの同調圧力に反発することで被るある種のいじめや排除に意義を申し立てる「大胆な」発言や行動を結局、放棄してしまっているのでないか。ふつうの人々の間に広がる同調圧力に靡くこの「空気」こそに、日常生活のしんどさや、憲法には保証されているはずの人権尊重や民主主議の空洞化に危機がひそんでいる・・・。
 それゆえ私たちは、「日常の界隈」に生きる「ふつうの」寡黙な人びと、しんどい思いをかかえる、どちらかといえば恵まれない人びとに注目し、彼ら、彼女らの自由な発言を制約している困難な問題をリアルを凝視したうえで、その状況に風穴を空ける手がかりを探ろうと試みたのである。

 運営の方針にもある工夫があった。通常の講演会では講師の語りが長く、質問機会も限られ、その解答もまたくわしすぎて、フロアに欲求不満が残ることが多い。だから市民塾は、報告は1時間に限り、コメントテーターが論点を引き出し、一問一答型式を避けて、できるだけ多数が発言できるように努めた。この運営方式は、討論が多く論点に立ち入ることが特徴として評価された「職場の人権」の体験から学んだことだった。ちなみに会員の年会費は2000円、折々の参加費は500円、会場カンパはなし。講師には5000円、コメンテーターには3000円を、交通実費のほかに支払うことにした。もとより極端な薄謝であったが、幸せなことに、近隣はもとより、東京、大阪、京都、名古屋、津などの、その分野の有力な専門研究者、あるいは問題の当事者の協力を得ることができた。
 しかしながら、組織的な情宣力の乏しさもあって、市民塾は大きくは育たなかった。会員はほぼ30名以下、例会参加者は25~40名に留まった。それぞれのテーマについて大切な論点は総じて指摘されたけれども、フロア討論ということに不慣れな参加者の多い討論はなお不十分で、発言の立ち入った応酬は不十分だったと思う。毎回の学習はそれなりに有意義だったと自負できとはいえ、いささか理想倒れの市民学習会だったかもしれない。ふっつの講演会のほうは気楽だと感じる人もきっとあったことだろう。
日常の界隈における同調圧力のなかでの自由の逼塞という状況は、いま2020年、ますます際立っているかにみえる。その危機は、「令和の御代」と五輪・パラリンピックの「国民的」祝賀ムード、あれほどまで欺瞞と無責任と国政の私物化を続ける安倍内閣の存続、労働組合運動の抵抗の極端な衰退、DVやいじめの蔓延・・・などにまことに明瞭である。それなのに、わずか3年で市民塾を閉じるのはいかにも心残りではある。とはいえ、私など旧世代に偏ったスタッフのいっそうの高齢化あるいは繁忙、新鮮な企画をつくる感性の鈍化、それに遠方から有力な論者を招聘しうる財政の貧弱さ、会計の赤字などのゆえに。情宣力の乏しい市民塾のこれ以上の存続は難しいと判断するほかはなかった。これまでさまざまな協力を惜しまれなかった報告者、コメンテーター、例会参加者の方々には深く感謝したい。
 ここに、ささやかな市民学習会の軌跡と、なお古びてはいないと自負する問題意識(日常のリアルな界隈における自由な発言の逼塞)と、運営方針およびその反省点などを、【市民塾in四日市】の記録として留めおきたいと思う。四日市の地でなくとも、世代を超えるなんらかのグループが、新しい創造的な感性をもって、日常のリアルを見つめる新たな市民塾を組織されんことを願いつつ。

その15「令和の御代」にも「不安定下層」のやりきれなさは続く

 平成期が労働の世界に残した働く人びとの間の明瞭な格差構造。その下層には、働いて生計を立てる「労働者」といえないほど不安定な「下層」の大きな累積がある。
 この不安定「下層」の最大グループは、「常用」か「臨時」かでいくらか差はあれ、およそ180万円前後の年収、国民年金のみ、未婚者の多い、2018年には2120万人を数える非正規労働者である。若者だけではない。就職氷河期のころ就職を試みた年齢層をふくめて、今では非正規雇用のうち35歳以上が40%、55~64歳だけでも22%を占める。そこに広義の「心の病」から「働けない」ひきこもりの人びとが加わる。これも約55万人とされる若者だけではない。19年春の厚労省調査では、40~64歳のひきこもりは実に61.3万人であった。またNHKは最近、老親介護の体験などを経て働く気力を失った中高年「ミッシングワーカー」が、完全失業者を遙かにうわまわる103万人にのぼることを報道して大きな衝撃を与えた。景気変動的というより構造的な「下層」形成である。 
 これにはむろん、正社員よりは非正規労働者を好んで雇う一方、長時間労働・過重ノルマ・督励や指導の域を超える上司のハラスメントによって若手従業員を「メンタルヘルス不全」に追い込み、そのあげく退職させる、企業の選別的な労務管理の役割が大きい。雇用口があっても働けない人が続出するのはそのためだ。けれども、現代の「下層」の不安定には、そこにもうひとつ、従来、生活危機へのクッションであった家族の変貌がかかわっている。人口高齢化、少子化、未婚率と離婚率の増加などの複合作用による単身世帯の激増、それが複数家族の低所得の合算によってなんとか生計を立てることを難しくしているのだ。片親と十分に稼げない子からなる世帯の苦境も同様に深刻だ。シングルマザーの貧困率の際立った高さや「80-50問題」の果てしない鬱屈が、それを立証している。
 「令和の御代」にも、こうした不安定「下層」のしんどさが改善される方途はみえない。そればかりか、さしあたり生活の安定した正社員層をこの「下層」に振り落とす選別の労務も続いている。1500円の最低賃金、身分・経歴を問わない普遍的な社会保障の確立、うずくまって寄る辺ないひきこもりに向きあう行政の相談活動、個人の受難にどこまでも寄り添う労働組合の営み。だが、考えうるそうした対策の実行に寄与できる「労働者」の連帯はどこかに芽吹いているだろうか。それがわからない鬱屈と焦慮に、私はとらわれる。

              みやび出版『myb』終刊号:2019年10月より転載

その14 過重労働とパワー・ハラスメント-自死に誘われる若者たち-

Ⅰ はじめに 問題の整理 

 日本の企業社会の宿痾--なかなか治らない業病ともいうべき過労死は、日本特有の企業労務を起動因とし、これまた日本特有の「媒介要因」を経て、過重労働や長時間労働をもたらす、そしてそれらが過労死を生む。まずそのように押さえてよろしいと思います。
 過労死には、大雑把に言って2つの類型があります。
 ひとつは比較的初期には、それだけが問題としてまず浮上したわけですが、脳・心臓・血管の疾患、例えばくも膜下出血、脳内出血、脳梗塞、急性心不全などで亡くなる類型。これはいわば古典的、伝統的な過労死、狭義の過労死とよんでいいでしょう。
 もうひとつは、しばしば古典的な過労死と同じような背景をもちながらも、極度のストレスや鬱病などの精神疾患に陥り、その結果、死を選ぶという過労自殺です。過労死自殺もむろん広義には過労死なのですが、これをさきの狭義の過労死と一応区別し、今日はこの過労死に焦点を据えることにします。 80年代後半に顕在化しつつあった過労死は、遺族の告発や弁護士の110番活動を経て社会問題として浮上しました。1988年が「過労死元年」です。そのころは、主として中高年層中心のいわゆる古典的・伝統的な過労死が多かったといえます。しかしながら、その当時からなかったわけでないのですが、とくに21世紀近くになりますと、この狭義の過労死に重なって、次第に過労自殺が増えてきて、若者の場合には、これが狭義の過労死をしのぐほどになってきました。
 資料は順不同ながら、とりあえず資料1、2016年の厚労省「労災補償状況」をみてみます。この年の過労死関係の労災の請求件数、認定件数、認定率を示しています。脳・心臓疾患とそのうちの過労死、精神疾患とそのうちの過労自殺の4項にわけてそれぞれの件数がわかります。請求件数からいえば精神疾患の請求件数のほうが多い。1586件ですね。認定というのは、これは労災にあたると判定された労災支給件数。これが脳・心臓疾患の場合は260、過労死は107。つまり公に認められた狭義の過労死は107人です。精神疾患の場合は498件で、認定された過労自殺は84。84人は確実にみて仕事のために過労自殺したのです。若者は過労死よりも過労自殺のほうが多いです。ところで認定率はといえば、過労自殺の場合42.4%ですから、請求の半分以上は、労災と認定されませんでした。脳・心臓疾患での過労死の場合は、認定率を計算できる数値が資料では欠けておりますが、前年の数値をいうことはできます。2015年、脳・心臓疾患の過労死の認定率は37.4%という水準です。

資料1

 労災申請した病気にしろ死亡にせよ、だいたい30%~40%ぐらいしか支給認定されないということです。もちろん、なんらかの事情で申請しなかった人は、申請者よりもはるかに多数です。過労自殺の場合、申請した人は16年で198人ですが、根拠は曖昧とはいえ、一般には2000人が過労自殺をしていると観測されています。くりかえしますが2016年の過労自殺は、「観測」の1割の200人近くが申請、その半分以下84人が認定です。
 私は2010年に『働きすぎに斃れて--過労死・過労自殺の語る労働史』という本を書きました。この著作は私の晩年のもっとも中心的な仕事ですが、値段も高くて重版されなかった本ではあります。50人以上の過労死・過労自殺のケーススタディです。彼らはどういう職場体験を経て、どのように心身を疲弊させ、死に追い込まれたのか、どういうことがしんどく、どんなことを考えて、あるいは考えるいとまもなく死んでいったか、その遺族たちはどのような闘いを展開したか--そんなことを物語として綴ったうえで、帰納法的に過労死・過労自殺の原因を究明した本です。ここでも過労死・過労自殺の詳しい経過はいくらも語りたいですが、もちろんその余裕はありません。そこでこのほんの抜粋ですが、資料2をご覧ください。ここでは、仕事の種類別に、過労死・過労自殺の類型化を試み、それぞれの代表的な事例をあげたものです。すべて労働史に残るような重要な事例ばかりです。例えば類型Ⅰは「連続・反復作業型」で、これは繰り返し作業が密度で長時間行われる場合のしんどさからくる過労による死。「ひとり作業型」といって、家族から離れて不便な生活をしながら無理な仕事をする場合の死もあります。「営業職型」、数字で示されるノルマを達成させようとする上司の、ときにハラスメントを含むきびしい督励のもとで、いくつかの取引先との納入量や価格の折衝にもあたる若手営業マンの過労死・過労自殺、ずいぶん事例が多いです。それから「専門職型」。これはふつう数値的なノルマはあまりありませんが、仕事そのものにやりがいや使命感を感じることが多いだけに、所属機関やサービス受益者の要請に応じてあえて仕事の境界を広げて無理を重ねるにいたる対人サービス専門職の過労死・過労自殺。これもたいへん多いです。教師なんかが代表例ですね。ここはしかし、他の類型にくらべ過労自殺はそう多くありません。それから「技術者型」。これは過労死もさることながら、過労自殺の多い仕事です。ここではノルマは納期という形を取ります。数値的にいくつ達成するかというよりはいつまでに設計を終えるか、いつまでに結果を渡すか--そういう納期に追われ、専門技術を駆使してほとんど際限のないストレスに満ちた仕事を続ける人。設計技術者やSEなんかの過労自殺がよくあります。もうひとつ、意外に多いのは現場管理者、下級管理者、例えば組長、主任、係長などです。課長さんになるとちょっと少なくなる印象ですが・・・。こういう下級管理者者の場合の一番の問題は、自分自身が上から課せられる重いノルマを背負っていて、そのノルマを達成させなきゃいけないという重い圧力に押されて部下を厳しく督励する。だから彼らは上からのハラスメントの被害者であるとともに、部下へのハラスメントの主役にもなる存在です。早い話がアルバイトの人が集まらなければ代わりに自分が働く、いつもピンチヒッターとして働くから、連続3勤務なんかをやったりする、そのやりきれない鬱屈。そういう例がたくさんこの本で物語として書かれておりますが、今日はそれぐらいにして次に進みましょう。

資料2

 過重労働はパワーハラスメントに媒介されて過労自殺を生みます。あらためていえば、そのあたりの解明が今日のテーマです。もちろん、過重労働がなくても、ハラスメントだけで自殺することもあり、過重労働だけで自殺することもあります。あまりにも仕事がしんどい。あまり厳しく叱られたりしないのに、自分で、自分で、というふうに追いこんで死んでしまう場合もあります。しかしながら、総じて、過重労働にハラスメントが加わると、働く若者の過労自殺の可能性が高まる--そういってまず間違いはありません。さて、前提としてこのように問題の整理をしましたが、以下、内容は大きくふたつに分かれます。なお、上の著書とは対照的に、今日の論理展開は演繹的です。

Ⅱ 過労死、過労自殺 共通する重層的な要因

 根底にあるもの--日本企業の労務管理 過労死・過労自殺に共通する重層的に重なる要因を考えてみます。日本的経営は、どうしてこうも過重労働を生み出すのか? これは、日本の労働者はなぜこんなに働くのかという議論と同じで、過労死論をさておいても、私はよく<日本の労働>についてのシンポジウムなどで語ったりもします。まず、そこをまず聞いてください。
 その根底にあるものは、ほかでもなく、働きすぎ求めてやまない日本企業の労務管理の性格です。日本企業における働かせる構造と論理、そこのところを抜きにしては、いかなる過労死論もやはり虚妄に終わります。「日本人っていうのはとにかく働きが好きでね」といった「国民性」の議論には、私はとても与することができません。
 企業間競争の激化する時代の到来とともに熾烈化した要員削減やノルマの過重化。この過重ノルマは売上高や利益率といいった数値的なノルマもあれば、納期というかたちもあり、取引先を拡大する、新しい契約を取る・・・というように実にさまざまですが、ノルマこそは現場の労働者を厳しい労働に駆り立てるもっとも直接的な要因です。ノルマは労働研究ではこれまであまり注目されてこなかったのが不思議です。銀行の一般職OLなんかでも、自社の勧めるカードの契約を何件とるかといったことがノルマになったりしています。ノルマの強制の程度やその達成の成否の労働条件に及ぼす影響度は、例えば総合職ではきわめてきびしいというようにさまざまですが、一般に組合規制はほぼ皆無で、従業員はノルマを拒めません。
 この過重ノルマを起点として、長時間の残業やサービス残業や休暇返上の要請が続きます。例えば日本の有休取得率は、ここ40年ほど50%未満の水準にぴったりと貼り付いて動かない。周知のように外国の会社へ行って貴社の労働者の有給休暇の取得率はどれぐらいですかと尋ねると怪訝な顔をされます。取得率という概念そのものがヨーロッパにはないからでね。
 このあたりは、お見かけするところ皆さん耳の肥えた方ばかりという感じなので、どんどん進みますと、過重ノルマから必然化されるのはまずもって日本の長時間労働です。正確に言うと、一般的な労働時間がどんどん長くなっているというよりは--当然のことです、パートタイマーがふえていますからね--日本の特徴は超長時間働く労働者の比率が高く、それがいっかな減らないということにほかなりません。もっとも代表的な資料(再掲省略)は、2012年の就業構造基本調査(今のところこれが最新版です)。これで見ると、週60時間働いている男性正社員は20代後半では19.6%、30代前半では20.6%、30代後半では19.4%。若手・中堅のおよそ20%に及びます。週60時間の労働ということは週20時間の残業ということですね。週5日出勤とすると一日に4時間の残業。そんな労働ではどんな生活になるか想像していただきたいと思います。ちなみにこれで計算すると、4.3を掛けて月の残業時間は86時間になります。過労死の認定基準を超える長時間労働です。
 もうひとつ、次の資料(再掲省略)は、男女を問わず、雇用形態を問わず、なのですが、週50時間以上働く労働者の国際比較です。時点は2010年。日本は29.5%。イギリス11.7%、アメリカ10.7%、フランス8.6%、ドイツ5.1%、スウェーデン1.3%。日本はダントツで堂々の金メダルということになります。だいたいヨーロッパの国では、どんなことがあっても労働者は週48時間以上働くものではないというのが「公序良俗」だとされているみたいです。サービス残業の現状、休暇取得の返上については、数値を省略いたします。

 ふたつの日本的特徴 さて、ここからは、従業員を働きすぎにさせる日本的経営の特徴について私が重視したいことに立ち入ります。経済グローバル化時代に経営環境が厳しくなってきたからこんなに働かせるようになってきたという一般的な説明ではつくせず、日本的経営には従業員を働きすぎに駆り立てる独特の枠組みというものがあるように思います。ポイントはふたつあります。
 ひとつはよく指摘されることですが、日本では「就職というよりは就社」です。簡単に言いますと、個人の職務区分、職務範囲というものがあらかじめ決められた職種ごとに採用され、その職種でのだいたい標準的な仕事の遂行で給料が払われるのではなくて、日本企業では、正規の従業員として迎え入れられたひと個人の職務範囲というものの区分は不明瞭で、日々の仕事量や必要とされる残業時間や、働く部署名などについてはきわめてフレキシブルなのです。そのフレキシビリティの要請を引き受けなければならない。この要請へのほとんど無限の適応いかんが、日本企業の求められる「能力」といっていいと思います。このことは従業員の「責任」の無限定さということですね。そこに従業員の仕事量が規制を受けず増やされてゆくひとつの根拠があります。
 それからもうひとつ。ここは多くの過労死論・働きすぎ論で見逃されていることで、私に独自的な視点なのですが、こう考えることができます。一般に先進諸外国では、エリート層は成功や富を求めて無理して懸命に働くけれども、多数のノンエリート労働者は違います。彼ら、彼女らは企業や経済のことなんか私たちに関係ないよなみたいな感じで、それよりは自分たちの生活を大切にしよう--そういう一種の庶民的開き直りが定着しています。ノンエリートのレベルでは、あまり長時間労働を受け入れないという風土なのです。日本はそこが違うのです。日本には、従業員の階層間で労働のオリエンテーション(労働に向き合う姿勢)があまり変わらないという、経営者にとってはまことに喜ぶべき状態が存在するわけです。これはなぜか。根深い歴史的な要因もありますが、直接的には、査定付きの年功制の役割が大きいと思います。年功制にはある種の平等性があります。はじめは従業員のみんなが階層性の下に位置していて、長年の従業員生活を経て成功の度合いが分化してくるのです。昇進、昇格、昇給の程度や遅速はこの成功度によって決まります。現実の年功制がほぼ一律の昇進、昇格、昇給をもたらしたのは労働組合の力が大きかった戦後初期、つまり人事考課・査定というものの適用が厳しくチェックされていた時期だけです。この場合はいわばトコロテンシステムの年功制で、私はこれを「ハト派の年功制」とよぶのですが、ハト派の年功制は、戦後初期、あるいは特定の産業、特定の労使関係のもとでだけだったのです。およそ1960年代から、まぁ経済成長の頃から、そして能力主義管理が浸透すると明瞭に、年功制にはかならず査定がまとわりつくようになりました。すなわち査定によって、昇進、昇格、昇給は人によって違う。勤続年数がそれらの有資格者を決め、査定が該当者を決めると総括していいでしょう。最後には査定でことを決するということですね。
 年功制が理念的に備えている平等性(階層性の事前的な否定)と、査定のもっている選別性(階層性の事後的な承認)が組み合わされるとどうなるか。結果は、労働者の多数が、ノンエリートも含めて、長期間にわたり上昇競争の志向に駆り立てられるということにほかなりません。昇進アスピレーション、上に上がろうとする熱意というものがクールになる、冷却される時期がなかなか来ないということです。一般には50代の半ばぐらいまで、それが来ないのではないか。それまでは査定によって昇格や昇給に少しづつ差が付きますからね。こうして多数の従業員が長期間競争志向に駆られる、そういう働き方が生まれてくるのです。ここが査定付き年功制というものの秘密です。全階層的に多くの人がしらけないでがんばる、そんなふうに自分の労働生活を方向付けるのです。従業員階層によって働く姿勢があまり変わらず、結局ノンエリートもふくめると日本の労働時間が長くなるのはそのためです。このあたりわかっていただけますか? 以上が日本企業での働かせ方を管理する企業労務とそのフレームワークです。 しかしながら、考えてみると経営者というのはどこの国でも労働者を過度に働かせようとするものだから、そんな本質をもつ企業労務と、働きすぎや過労死・過労自殺の間には、さらに、これまた日本特有の媒介要因があると考えなければならないでしょう。そこに議論を進めます。その媒介要因を私は2つあるいは3つあげたいと思います。

 媒介要因1 そのひとつは、働きすぎを規制すべき政府の労働行政、労働保護法が不備であるということです。簡単にいうと政治的な労働規制が弱いのです。新自由主義志向の政府の喧伝ゆえに日本は労働規制の強い国だと思っている人がいるかもしれないけれど、とんでもない話です。EUなんかの経営者に比べれば日本の経営者が労働者の扱いにおいて享受できるフリーハンドはすごく大きいとに言っていい。ここでは詳しく例示しませんが、例えば残業マキシマムの法的規制は弱い。今までは罰則付きのものはなかった。今度できるんですが、法案でどんな水準のものができるか思い返してごらんなさい。アホくさくって、という感じ。ときには月100時間未満さえ許されるという条項をふくむ年720時間ですよ。それが華々しい「労働改革」の結果です。しかし今まではそれもなかったわけだから、連合なんかこれでできたといって喜んでいます。体制追随もいいかげんにしてほしいですね。
 また、非正規労働者の雇い方や支払い方についての経営権は全般的に政府のチェックを受けません。日本では一貫して社会民主主義的な政権でなかったということもあるけれど、自民党政権だって、もっと労働運動や野党からの強靱な運動があれば、もっとまともな働き方にさせるような法的な枠組みを作れるはずなんです。端的な例として、例えば労働基準監督官は日本ではきわめて少ないのです。資料(再掲省略)を見てください。雇用者1万人あたりの労働基準監督官の数を調べると、日本は0.53。アメリカはさすがに新自由主義の国というのか0.2ですが、フランスは0.74、イギリス0.93、ドイツは1.89。労働基準監督官は少ないことは、企業の労基法違反が見逃される可能性が大きいということです。

 媒介要因2 次の媒介要因はいうまでもなく労働組合規制の弱体化です。今の日本の労働組合の守備範囲は極端に限定されています。とくに過労死論の文脈では、労働者の<個人の受難>に不介入になっていることが致命的です。このあたりは私の最近の労働組合批判の中心部分で本当はもっと詳しく語りたいのですが、ごく簡単に説明します。
 いま職場を支配しているものはおよそ昭和40年代末ぐらいから定着した日本的能力主義にもとづく選別です。それが査定の強化を通じて労働条件決定を個人処遇化しております。労働協約や労働法によって一律に規制される分野を小さくして、上司の査定によって決まる部分を大きくしている--それを労働条件の個人処遇化といいます。そしてそれゆえに職場生活のしんどさは過度の残業、ハラスメント、心の危機、過労死・過労自殺などにみる<個人の受難>として現れます。しかもその個人の受難は「公平な」能力主義的選別を前提としているだけに、不当な差別としては認識されず<自己責任>とされてしまう--そんな強い強い傾向があります。組合はそこのところを問わずにきたのです。
 80年代以降にもなりますと、労働組合は、正社員の昇給と雇用保障があれば--非正規労働者の処遇については総じて企業別組合は眼中にありません--労働者の働き方や働き方を巡る人間関係のことについてはもう何も言いませんという立場になりました。つまりノルマの水準やその督励の仕方、個人に課される残業、配置転換や出向などの人選等については、もう一度言いますと昇給と雇用保障があれば、あまり文句を言いませんという考えになったのだと総括することができます。これらについては経営者の専権が貫徹し、その経営者の専権を傍観してきたというのが労働組合の現状です。しかし例えば過労死なんかに労働組合にも責任があるかと問えば、責任があるというほかはない。不思議に誰も言わないだけです。例えば36協定は労使協定ですからね。ところがその36協定の特別条項は、今まで100時間以上の残業とか、場合によっては24時間継続労働とかも承認していたのです。個別組合は一般的に時短とか有休の完全取得とかは要求するようですが、職場で起こった<個人の受難>の極北ともいうべき過労死について立ち入ることは決していたしません。

 媒介要因3 媒介要因としてさらにもうひとつ。これも簡単すぎる説明ですが、企業社会の外を取り巻く社会的な要因があります。とくに日本の社会保障の特徴的な枠組みです。
 日本では、職域を超える福祉国家の普遍的な保障が大変乏しいので、企業内での保障どれほどであるかということが労働者生活の明暗に大きく関わります。端的に言えばこういうことです。つよいジェンダー規範のもと、男性サラリーマンは、会社員人生の成功がなければ、自分と扶養家族の生活保障は危ういという考え方を、骨がらみにたたき込まれてきています。日本の労働者というのは自分とか家族の生活よりも会社のことを大事にして働きすぎになってるんだという、半ば批判的な言い方がありますよね。私は違うと思います。普通の労働者が家族や自分の生活よりも企業や日本経済のことを大事に考えるという思想は、日本の労働者にもないと思います。そうではなく、日本では、自分の家族の生活のためには企業で重んじられなければならない、企業で良い評価を受けて昇進・昇格・昇給を遂げなければならない、そう考えるのです。心身を疲弊させてもがんばれば昇進はできなくても昇格はできる、昇格ができれば昇給はできる、少なくともその昇給は果たさなければ生活が危ういと思うのです。
 要するに、ことの本質は、日本では「自分と家族のため」ということと「会社のため」ということを峻別することが難しいのだ、私は長らくそう考えてきました。くりかえしますが、日本の労働者も、自分や家族よりも会社のことが大事なんだと考える、決してそんな人種ではありません。

 労働者の適応--「強制された自発性」 前半の最後に、私の過労死、過労自殺論にもっとも特徴的な点を、ありうる誤解を怖れずに語りたいと思います。それは、ときに過労死・過労自殺を招きかねない労働者の働きすぎには、労働者自身のある主体的な選択もしくは受容があるという見解です。もとよりこれは「強制された自発性」にもとづく選択なのです。これまでのべた根因と媒介要因のすべてが「自発」的な選択を促す「強制」の側面です。
 この点はしかし、例えば過労遺族の方に話しますと、その通りですと共感される場合もありますが、ときにいくらかの反発を受けもします。遺族の方々は、自分の夫や子どもは、ひとえに企業や仕事に殺されたと受け止めます。そう考えるのは当然かもしれないけれど、あえていえば日本の企業は強制収容所ではなく、日本のサラリーマンはいかに抑圧されていたとしても奴隷ではありません。結局は、このように働きすぎる自分の労働生活にいくらかでも肯定的な側面を見つけなければ元気にやってゆけないのです。「強制された自発性」の選択は切実です。もちろん結果として死を招くまでの選択が、さきに原因論のところでのべた働きすぎを促す日本的経営に特徴的なふたつの枠組みへの、従業員の必死の適応であることはいうまでもありません。それはある意味で、選択であるだけにいっそう悲劇的なのです。
 それに、労働者のある種の主体性の側面をみないと、そこを重視しないと、過労死・過労自殺の克服論から労働組合活動論が抜け落ちます。なぜなら労働組合活動はすぐれて労働者の主体的な意識によって営まれるからです。労働者意識にも注目しないと、過労死・過労自殺を救うアクターは、企業の温情か政府の配慮か、そのどちらかになってしまうんです。私は労働者自身によって過労死・過労自殺を克服する思想に固執します。そのためには「強制された自発性」による労働者ビヘイビアを、あえて過労死・過労自殺の要因のひとつと考えたいのです。

 強制と自発の多様性と変化 どのような過労死・過労自殺でも「強制」と「自発」の側面が混じり合っているのですが、両者の(変な言い方ながら)「混合比」は、職種や職位によって多様であり、時期によって変化します。過労死の具体的ケースを考察する場合にこの視点が有効になります。
 例えば、簡単にいって、管理職、専門職、営業職の場合には比較的、自発の性格がより強いです。経営の要請もさることながら仕事にやりがいがあるから突き進むのです。特に教師などの専門職はそうですね。医者もそういうところがあるでしょう。しかしながら、定型的な工場労働、サービス職、労務職といった「下積みの」業務の場合には強制の要素がより濃厚になる。例えばトラック運転手、あるいはコンベア作業者の過労死の場合は、働き方にほとんど選択の余地はなく、すさまじいスケジュールの管理と作業計画に締め付けられ、心身を疲弊させて死んでいく、そんな姿が浮かんできます。もういちど資料2を参照してください。
 以上が混合比の多様性ですが、では、その変化とは? それをもたらすのは経済の局面でしょう。例えば経済長期、60年代後半から90年代の前半ぐらいまでは、サラリーマンたちが企業内階層上昇をめざす競争に自分を投げ込んで働きすぎた時代でした。そしてその競争への自己投企は決して空しくはなく、それなりに成功者は多かったのです。経済成長があれば企業が大きくなる。企業が大きくなれば支店も、系列会社も増えるのです。そうすると社長の数が増えるのです。こうした事実は、案外大事なことなんですよ。つまり中卒でも高卒でも社長になる人がある程度は輩出した。こうしてサラリーマンの多くは中産階級化したといわれますが、そういう右肩上がりの時代には、従業員は全階層的に、あえていえば自発的にがんばって長時間労働に赴いたのです。しかしながら、バブル崩壊後の低成長期、引き続く平成不況のころから状況は変わります。成功者の比率はきわめて少なくなり、日本的中産階級のピラミッド型への分解が際だってきました。そうなると、過重労働への競争はひとつのサバイバル競争、俺が上がればあいつが下がるというサバイバル競争になっていく。すなわち、自発と強制の混合比において、強制の側面が強くなってくるのです。川人博さんも確か、「強制された自発性というのは基本的に正しいけれどもこの頃はどうも強制のほうが基本的なよう」とおっしゃっていたと記憶します。確かに現時点では、多くのふつうの労働者はどちらかといえば強制的に働かされているということができます。

Ⅲ 過労自殺を引き起こすパワーハラスメント

 パワハラとは? ここからは後半で、パワーハラスメントの考察に入ります。厳密には、過労死・過労自殺とハラスメントはまったく同じ問題とはいえないかもしれません。けれども、近年の若者中心の過労自殺を考えるとき、そこにたいていパワー・ハラスメントがまとわりついていることはあまりにも明かです。パワハラについては本当は別の講座でくわしく論じるべきなのですが、ここでは以上の文脈を念頭に置いて、議論を進めましょう。
 現在、労働者の3人に1人は、この3年のうちにパワハラを受けた経験があるといわれます。これはセクハラ体験の比率よりも高いという。別の資料では、「うつで病休、半数が再取得」、鬱になって病休、休職しても再び勤めたところでまた鬱になった、そんなことも多いということが示されております(以上、資料再掲省略)。
 パワハラとはどんな行為か。どのテキストにも載っておりますが、暴行・傷害、脅迫・侮辱・ひどい暴言、隔離・仲間外し・無視、業務上明らかに不要なことや不可能なことを強制する「過大な要求」、能力や経験とかけ離れた仕事を命じる「過少な要求」--隔離部屋なんかがそれですね--、それから私的なことに過度に立ち入る「個の侵害」などです。その例は、私の著書にもいくつかあって、ヘアスタイルが悪い、体臭がひどい、結婚指輪なんて「そんなちゃらちゃらしたものをつけて仕事場に来るな」・・・無数にそんな言いがかりがありましたが、ともあれ、パワーハラスメントの行為は広範です。主として職場の権力者が部下に対していやな行為を継続的に行うというのがパワハラといっていいでしょう。

 差別と抑圧の4象限 さて、私のハラスメントでもっとも特徴的なのは、資料3に掲げたあるパワハラの位相に関する象限図、差別と抑圧の四象限分析です。これは私のものの考え方というのがいかに成長していないかを示すものではあります。記憶にございますか、この象限図はすでに『職場の人権』」創刊号の第一号にあります。私は80年代のはじめから、いじめというものがいかに日本の職場にとって枢要の問題かを痛感しておりました。そしてその問題意識を反映して、1999年9月の第一回「職場の人権」におけるシンポジウムでの報告のとき、この象限図を掲げたのです。それ以来、基本的な把握は変わっていません。これはもう知っているという人もたくさんいて気が引けるのですが、やっぱりこれが私のハラスメント論のもっとも特徴的な把握です。

資料3

 およそ企業の労働者に対する人権抑圧にはどんな類型があるかを考えると、こういう4つの象限にわけることができる。まずY軸で、その行為が労働基準法、労働組合法、男女雇用機会均等法、労働契約法など、およそ労働法に違反する、明らかに非合法であるとすぐにわかるものであるか、あるいはグレーゾーンにあって、直ちに非合法とはいえない、つまり括弧付きの「合法」措置であるかをわけます。この「合法」ゾーンを問題にしないと労使関係論は表面的になる。新聞記者はよく「企業のこの措置は合法ですか非合法ですか」と聞くけれど、実は職場の問題は、むしろ「合法」行為の方が多いのですね。次がX軸での分類で、抑圧や差別が特定の従業員階層一括のものであるか、特定の個人へのものであるかをわけます。
 そのうえでそれぞれの象限に属する行為の例をあげますと、第1象限には、女性労働者をひとしなみに差別したり、労使協調になびかない「第一組合」(古い言葉ですね)の活動家を差別したりする行為があります。明かな雇用均等法違反や労組法違反です。その真下、第4象限は、個人に対する非合法の圧迫で、暴行・暴力行使が代表的です。この暴力行使はもう日本の職場にはみられないかというと、なかなかさにあらず、平気で殴ったりする上司または同僚はまだいくらもいる。それからセクハラも、認定は簡単ではないけれど今ではここに、非合法に分類されます。
 Y軸の「合法」領域が厄介です。そのうち、X軸の上の第2象限、階層一括の抑圧と差別の代表例といえるのが、今なおというべきか、非正規労働者への低い処遇一般です。現在では雇用形態が違うということで雇用期間や賃金体系や賃金水準が違ったりすることは、一概に非合法ではありませんからね。そう考えてくるとると、その次に私が言いたいことはもうわかっているでしょう。いじめ・ハラスメントこそが第3象限--「合法」で個人を対象とした差別・抑圧--の代表例なのです。これは闘いにくいです。法的に「非合法」とすぐに言えないということがひとつの理由、ともに闘う仲間がなかなか見つからないとうことがもうひとつの理由です。そういう点で、このハラスメントという問題の深刻さが浮かび上がってくるのです。
 さらに深刻なことは象限の面積変動のゆくえです。いま、この第3象限が広がってくる可能性が大きいです。なぜかというと、まずY軸が右に移動する傾向にあります。全体としての労働の規制緩和によって、労働者の扱い方の非合法行為が少なくなるからです。残業代ゼロ法案なんて、残業代を払わないということが非合法ではなくなるわけですからね。それからもうひとつ。これはさらに労使関係に内在的な現象なのですが、X軸が上に上がる傾向が進行しています。能力主義管理の深化によって労働条件決定の個人処遇化が進むからです。ひとりひとりの処遇が問題になってくる。だから企業は階層一括の差別よりは望ましくない特定の個人をいじめることを重視するようになるのです。女性従業員を一括して差別しているんじゃありません、あんたの能力がダメなんです、そういう言い方で責められるわけです。再び現在のパワーハラスメントの問題の深刻さに思いをいたすべきです。

 東芝府中、国鉄解体期、2000年代のリストラ これまでのパワハラについて、ごくかんたんに触れます。私は先ほど、いじめの問題にずいぶん前から関心を寄せてきたと言いました。1980年代に私は、東芝府中の板金工であった上野仁への、徹底と執拗をきわめたいじめを告発する「人権裁判」に10年近く関わりました。私はしょせん応援団なのですが、裁判記録をくわしく検討したり、「守る会」で「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」と講演したり、控訴審の鑑定意見書を書いたり、いくつかの論文を書きました。これは上司の徹底的な私生活干渉、「働く態度」の統制、「望ましい従業員ではない」ということでなかまから排除するいじめなのですが、最後には会社は、上野が許されないのは結局「能力不足」(本当は違うのですが)であるというところへ帰着させようとしたことが、私には教訓的でした。また、この東芝府中人権闘争は、労働基準法にも労働組合法も直接は関わらない、労務管理の直截な人格侵害に対する賠償請求であったという意味で、ハラスメントへの対抗運動としての画期性と先駆性があったように思います。
 歴史の上でもうひとつ重要なのは、国鉄解体期の人材活用センター。労組法違反でもあるのですが、ここでは組織的なハラスメントが行われました。この経験で、企業というものは労働者へのハラスメントが許されるものだ、そういう確信を経営者たちの残したように思われます。もっともこれは後にすべて労働委員会で国鉄当局が敗訴になったのですね。にもかかわらず徹底した差別といじめがすでに行われていて、それだけのことはあった。法律というものが労働者の職場生活にとってもつ影響力の間接性みたいなものがうかがわれます。ハラスメントの常態化はまた、2000年代のはじめのリストラによる退職勧奨のときにあらわになりました。企業に「不要な」労働者を仕事を与えないまま隔離部屋に閉じ込め、自然に辞めていくのを待つ、退職勧奨の個人面接とともに実施されたそんなリストラの仕方。そのもとで、強制解雇をしなくても自然に「必要」退職人数は満たされたのです。

 パワハラと過労自殺の具体像 現時点に話を戻し、もう少し議論を進めます。パワハラの形態は多様ではあれ、もっとも中心的な行為は、みずからもノルマを背負っている上司の過度のノルマ督励にほかなりません。その背景には企業の採算単位の分割という要因もあります。これはわりあい大切な論点ですが、企業が赤字・黒字を計算する単位を企業全体ではなく、下位の部局・部門へもってゆく。するとそれぞれの部局の管理者はそこでの採算性を責任としてきびしく問われますから、そこでは何としても部下を精鋭に育てて頑張らさなければならない。当該の課、係から一兵たりとも弱卒の部下を出したくないのです。私のゼミの卒業生なんかでもだいたい80年代の末ごろから「上司が怖い」と話すようになりました。当時の青年にとっては人生で初めて抗えない「怖い大人」に出逢うことになったのですね。
 上司のきびしいノルマ督励はハラスメントになる惰力をはらんでいます。はじめは指導です。それが指導⇒叱正⇒罵倒⇒人格誹謗⇒排除というふうに展開してゆくのです。それぞれの境界は実に曖昧で、どこまでが正当で、どこからが不当かなんてわかりはしないというところがあります。例えばはじめは、「あんたはもっとやれるはず」「がんばればもっと成果が上がるよ。このままじゃ残念じゃないか」といった励ますような指導なのですが、そのうちに「なにをやっているんだ、そんなことでいいのか」といった叱正になり、やがて「今までなにかちゃんとやったことあるのか言ってみろ」「お前、バカか」「親の顔が見たいよ」「お前なんかどこに行ってもダメだ、ウチにいられることを幸せだと思え」・・・などの罵倒や人格誹謗に発展する。そしてついには「やめさせる」フルセットのハラスメントが行使されるわけです。<指導-叱正―罵倒―人格誹謗―排除>は明瞭な区分なくつながっています。
 いじめの実例は本当にたくさんあげたいのですが、ここではひとつだけ、あまりにも忘れられないのでお話したいと思いますのは、過労自殺には至らなかったとはいえ、朝日新聞の2013年の10月4日に掲載されたある事務機器販売会社のサラリーマンの受難(資料省略)です。電話で事務機器を売る仕事なんですが、営業マンひとりについて毎月4台~10台の販売ノルマがあり、ノルマをこなさなければ人として扱ってもらえないという雰囲気です。上司は「お前何をボヤボヤしてるんや、そんなことで売れると思ってんのか」と怒鳴り、「立ってやれ」と椅子を蹴っ飛ばし、電話機とセールススタッフの手をテープで縛り付けて一日中電話を掛けさせる。それでも成果が思わしくなければ、「お前、裸になって踊れ」と。事実は小説より奇なりという感じですが、オフィスの事務机の上で全裸で踊らせのです。極端な事例とは言えましょうが、朝日新聞の記事のとおりです。しかしこの人はうちのめされもう自暴自棄の気持で、「殴られるよりは裸で踊るほうがまだまし」と、ニヤニヤ笑いながら(?)踊るという。殴られるよりは裸で踊るほうがいい! そのことも一種の人格崩壊といっていいでしょう。現代の日本ではこんなパワハラさえあります。
 そうでなくてもしんどい過重労働にこういうパワハラが重なるとき、若者がどれほどダメージを受けるかはいうまでもありません。心身の極端な疲弊はもちろんです。他の例では、よくあることですが、上司が怒鳴りはじめたら3~4時間にもなり、深夜の11時になってもまだ説教している。上司もよくやるねとも思いますが、こうした残酷さのもうひとつの側面は、「お前がダメなのは」「自己責任」と思わされるされることです。お前が悪い、能力ゼロ、お前の親が悪い・・・そうたたき込まれますから。やがて受難者は、すべての自尊感情というものを、自分を肯定する感情というものをつぶされてしまう。明らかに人権抑圧的な不当な仕打ちに抗う気持ちそのものを失ってしまう。今野晴樹いうところの「民法的殺人」です。その必然の結果が「心の危機」にほかなりません。鬱病など「心の危機」を経て、良くて退職、悪くて過労自殺なのです。過重ノルマ+パワハラの最終段階では、若者たちは、自分でも「強制か自発か」ということの区別がつかないまま、憑かれたように上司に従い、その限界の彼方に自殺してしまう。そんな若者が続発しているということは、いささかも誇張ではありません。続発する過労自殺のひとつひとつを物語ることはできないけれども、資料4で最近のいくつかの事例を略記しております。(資料4の続きはこちら)

資料4


資料4の2

 ここには若者でない人、それにNHKのように過労自殺でない場合も少し含まれますが、総じて20代、30代の若者の過労自殺の事例です。それぞれの背景に、私が以上にのべたことが深く関わっていると考えてください。東和フードサービス、日東フルライン、中部電力、ステーキのくいしんぼ、岐阜市の十六銀行、ゼリア新薬工業、それからNHK、システム開発会社オービーシステム、さらには電通。高橋まつりさんの自死ですね。また新潟市民病院のお医者さん、関西電力、三菱電機、そして新国立競技場建設工事受注共同企業体の現場監督。これらの事例では、計算されるとだいたい残業150時間とか250時間とかの長時間労働を求められる過重労働があるのと同時に、たいていは叱正、罵倒、人格誹謗・・・のパワハラが関係しているのです。また、しばしば事例に共通していることは、入社直後、または非正規雇用から正規雇用への転換まもないという場合が多いということ。非正規労働者が正規従業員に転換できると、非正規であることの生活の不安定がわかっているだけに、正規労働になった限りはなんでもやらないといけないという気持ちに追い込まれるようすが透視できます。
 さらにもうひとつ付けくわえると、皆さんもご存じでしょう。今、20代と30代前半の若者について、最大の死因は自殺です。20代の若者で死ぬ人の半分以上は自殺なのです。かつて私はアメリカの平均寿命が短い原因は自殺と犯罪だと聞いて驚いたことがありますが、それは決して遠い国のことではなかったのです。悪性腫瘍、すなわち癌が自殺を凌駕するのは30代の後半になってからなのです。ちなみに自殺の原因では病気、家族関係などが上位に立ちますが、それらもしばしば「勤務問題」の結果であることが推測されます。
 
 これ以上、若い世代を死なせるな! 若者がこんなに過労自殺するのはあまりにも悲惨なこと、黙過できません。それでも、過労自殺になりかねない職場のいじめについて、周辺の同僚たちは総じて傍観しているといわれます。そのことを思うにつけ、私は若者たちにこんなメッセージを送りたくなります。
ハラスメントとか過労自殺とかに遭遇すれば、対策論としてすぐにコンサルタント活動強化とかコミュニケーション開発とかが叫ばれます。私はそういう対策の重要性を否定するものではありませんけれど、もう少し思想的な次元に降りてものを考えたいと思います。「思想的な次元」とまでいえるかどうか自信ありませんが、私が長年、感じてきましたのはこういうことです。
 教室のいじめの場合でもそうなんですが、なかまの受難に寄り添う人権感覚というものを、学校でも職場でも育てたい。その人権感覚の原点は多数者のつくる「空気」というものに対する抵抗感、少なくともそれに対する疑問です。多数者の「空気」を読んで、いつも大勢になびく人はふつう人権の価値や、それが抑圧される苦しみを理解できません。いじめられていないからです。しかし、だれがいじめられるかの「選択」は、実際には教室でも職場でもほとんど偶然的であって、「明日は我が身」かもしれないのに、今はそうでない場合には安心してしまい、ひたすらKYとみなされまいと沈黙と傍観に終始してしまうのです。 職場の場合、理不尽なハラスメントの対象者は、なんらかの事情で従業員として精鋭たり得ない人、不健康で「鈍くさ」かったり、性格上「うっとうしい」く社交性がないとか、そういう人が多いことはおそらく事実でしょう。しかし「そういう人」はある程度(ある程度というところが大切なのですが)、人権が無視されても仕方がないとする鈍感さこそが一番の問題です。日本では今、その鈍感さが「常識」になっていると痛感いたします。あえて言えば、それはファシズムの土壌なのです。日本の職場はいま、そういう「鈍感な常識」の界隈、多数者が自分の自由は侵されていないとして「空気」になびいている小社会になっているのではないかと心配です。いじめられている彼/彼女の問題は私自身の問題、そう把握できる感性をどうしても取り戻したいものです。
 ところで昨日の新聞に政府でもハラスメントを非合法化する検討を始めたと書いてありました。労働界も法制化すべきだといっています。法制化はいいけれど、私はもっと労働組合ががんばれと私は言いたいですね。その記事でおもしろかったのは、経団連の代表の女性が、「指導とハラスメントの区別はつけにくいからこの法制化には慎重であるべきだ」といっていることです。それこそ私が言いたいこと。実際のところそうですよ。くりかえしますが、企業社会の現状では、指導、叱正、罵倒、人格誹謗の間は流動的です。境界を越える惰力を防ぐのは、上に述べたような人権の思想を擁した職場の同僚であり、新しい労働組合の営みなのです。現在の多数派従業員の「空気」を問わぬままの、ハラスメントを解決する社内機関の役割は限られているように思われます。

Ⅳ 状況の改善のためになにができるか

 働きすぎ、過労死・過労自殺、ハラスメントの頻発する状況の改善のためになにができるでしょうか。 重層的な要因をみすえた多方面からの営みが大切であることはいうまでもありません。やはり、まずは長時間労働のまともな法的規制が不可欠です。残業の罰則つき法的限度を設定する。働き方改革の年720時間、ときに月100時間未満なんかはとてもその名に値しません。裁量労働制の拡大や残業ゼロの「高プロ」の導入など、年104日の休日保障(これは1年の土日の日数と同じです)があっても絶対にNOです。大切なのはインターバル規制でしょう。日本の労使関係では、かならず労働時間を減らせば今の仕事量をどうするかという議論になり、組合はこの議論に巻き込まれます。そんなことは知ったことではない、ワーク・ライフ・バランス! 人間の健康な生活には、退勤から次の出勤まで少なくとも11時間が必要だ、でなければ睡眠時間が不十分になる、そう主張する市民運動を組織し、企業の外から押しつけるのです。時短には案外、この企業社会の論理を飛び超えた施策が現実的な方法ではないかと思うのです。
 職場ではノルマや残業や休暇について、ワーク・アンド・ライフバランスを重視するノンエリート労働者が発言権を高める労使関係の構築が課題です。くわしくは、著書『労働組合運動とはなにか』などを読んでいただければ幸いです。
 最後に、パワハラに対する基本的な対策については、もういちど資料3をみてください。Y軸を左に、X軸を下に! つまり進んでいる「傾向」に逆転をかけることです。内容的には、ひとつには労働者の雇い方、働かせ方、支払い方について公的な規制を強めること、つまり非合法領域を拡大すること、いまひとつには、労働条件決定の個人処遇に連帯的な規制を対置して、組合が個人の受難にどこまでも寄り添うことにほかなりません。過労死防止法案には賛成するけれども、自分の会社の過労死については知らないというような労働組合では困りますね。しかし残念ながらそういう組合が多いわけです。そして組合活動を革新するためには、働きすぎや長時間労働の受容(自発であれ強制であれ!)を払拭する新しい労働者の思想性を、40年の過労死・過労自殺の痛恨の歴史からわがものとしてほしいものです。

注:エッセイ欄への発表になっていますが、これは研究会「職場の人権」2017年12月2日例会で報告され、会誌『職場の人権』102号(2018年4月刊)に収録されたものの再録です

その13官民ファンド「クールジャパン機構」への女性派遣労働者の提訴
―セクハラ、組合つぶし、非正規契約カットをめぐって

 マスメディアの紙面や映像がオリンピックでの日本選手のメダル獲得に埋めつくされて詳細な報道に恵まれていないけれど、2月なかば、東京地裁にひとつの意義深い損害賠償提訴がなされた。被告は、アニメやファッション、日本食などの日本文化を海外に売り込む官民ファンド「クールジャパン機構」と、機構の専務および当時そこへ出向していた復興庁のキャリア官僚。原告は派遣契約を切られた20代の女性派遣社員(仮称Aさん、以下敬称略)である。
 Aは15年1月以来、これまで20回近くも派遣契約を更新されて、文書作成や出張手配の業務に携わってきた。だが、16年7月、Aは3人の同僚とともに、カラオケ店での懇親会によばれてある籤を引かされる。その籤はなんと、中央官庁からの出向者をふくむ機構幹部とのワインディナーや映画観賞などのデート、また「手作りのプレゼント」を女性派遣社員たちに割り当てるものだった。後日、専務から誰がどの籤を引いたかの確認と日程調整の問い合わせがあったという。密室での集いに違和感を覚えたとはいえ上司の誘いは拒めなかった彼女らも、この紛れもない供応への狩り出しは、派遣社員などどうにでもなると想定した機構によるセクハラにほかならないと鋭く反発し、社内のセクハラ相談窓口に訴える。その結果、デートなどの実行は控えられたが、「窓口」も専務もこんなのセクハラじゃないという対応であった。出向のキャリア官僚はほどなく官庁に戻る。ちなみに彼は2015年から、女性社員の身体にさわるセクハラの常習を指摘されていた。
 この事件は、予想される女性たちの泣き寝入りではない、異例の展開となる。Aらは、セクハラの再発防止や派遣社員の差別克服のために労働組合を結成したのだ。機構はそれに対し、10月下旬、人材派遣会社を通じて、Aに11月1日以降の出勤停止を伝え、11月末の派遣契約の更新を拒否する。その事由は、機構がもつ個人情報をAが委員長の労働組合が業務外で広報に利用したというものであったけれど、私見ではそれが誰にも適用されるどのような社内規定違反にもとづくのかは疑わしい。それはまぎれもなくセクハラ隠しの不当労働行為であった。興味深いことに、派遣会社ははじめは、一方的な契約更新拒否であるとして、かわりに人材を派遣せよという機構の求めを拒んでいたという。しかしほどなく、派遣会社は機構側の擁護に転じている。
 一方、機構は法廷への提訴に傾くAに対して、提訴をやめることを条件にさまざまの「和解」を画策している。推測すれば、和解提案のなかには金銭解決や労組承認や再契約の申し出が含まれていたかもしれない。機構側にしてみれば、提訴されることはたまらなくいやなことだっただろう。だが、結局、Aは派遣社員の人格を踏みにじる機構の体質を社会的に明らかにする途に踏み出したのだ。こうしてAは2018年2月13日、セクハラ、不当労働行為、一方的契約破棄などに対する計2000万円の賠償請求を求めたのである。

 この文章は、早くから本件に深い関心を寄せてきた共同通信社の配信による、Aの提訴に到る経過をもっともくわしく伝える『静岡新聞』と『愛媛新聞』(2月16日付)にもとづく。事実そのものはこの記事の限りで書いている。だが、「私見」や「推測」とした部分もほぼ間違いはあるまい。私はAを個人的には知らず、訴状もまだ読んでいない。しかしふりかえれば、財界人やキャリア官僚のつくるクールジャパン機構VSひとりの女性派遣労働者というのは、圧倒的に非対称的な関係であろう。そのなかで、女性派遣労働者などどうにでもなるとみなす機構の傲慢な通念が、セクハラやその告発を隠すための組合つぶしの不要労働行為、ひいては個々の派遣切りを、よくあること、どうせたいしたことにはならないと感じさせ、ついにAの提訴を招いたのだ。もちろん派遣労働者には「たいしたことではない」ことは断じてない。思い通りにならずここまで辿ってきた、Aのおそらくは重い心労に屈しない勇気が心をうつ。裁判の過程は機構の諸々の偏った思い込みや、派遣労働者の人格蹂躙や、キャリア官僚をふくむ機構幹部の狡猾--若い女性とデートがしたければ、断られる恥ずかしさも覚悟して、個人として誘えばいいのだ!--を明らかにするだろう。女性派遣労働者に対する政財界の差別的な処遇を白日の下にさらす、それはまことに意義深い営みということができよう。巨象に対する蟻の抗いにも似たこの裁判闘争を見守り、Aを孤立させないための、できる限り広範な支援を呼びかけたいと思う。