2024年の収穫 読書と映画

(1)社会・人文系の書物
 労働と社会の研究からの撤退を自覚した2024年、本当に勉強しなくなった。この分野の読書はまことに貧弱で、いろんな関心はあっても、読むのは主として新書を中心とした小著ばかり。こうした「収穫」の紹介は今年をもって終わった方がいいように思われる。
 それに、新しいことをキャッチする感性のアンテナが錆びたのか、老人性が薨じて「こらえ性」がなくなったのか、テーマに惹かれても読み進めるうちにすぐになにかの不満でいらいらすることが多くなった。以下、むしろ一般的には社会的な意義があり高い評価も受けた良書が多いけれど、そのいくつかへの私なりの不満を書いてみる。
 例えば田中洋子(編著)『エッセンシャルワーカー 社会に不可欠な仕事なのに、なぜ安く使われるのか』(旬報社)や、斎藤幸平、松本卓也編『コモンの「自治」論』(集英社)は、問題意識の的確さと編者の叙述の充実を痛感する一方、多くの(多すぎる!)寄稿者の文章が総じてものたりない。原武史『象徴天皇の実像――「昭和天皇拝謁記」を読む』(岩波新書)は、裕仁のあまりの無責任、自省の欠如、非人間的なまでの人格の軽さに対する嫌悪と軽蔑がつきまとい不愉快だった。一方、麻田雅文『日ソ戦争――帝国日本最後の戦い』(中公新書)は、その克明さにおいてすぐれた戦史であるが、ソ連、米国、日本の政治的思惑やそれぞれの戦闘の作戦、用兵、指揮の判断などの日毎の詳細な記述などは、そこまで知りたいとは思わないよと感じて退屈もした。それとは逆に、橘木俊詔『資本主義の宿命――経済学は格差とどう向き合ってきたか』(講談社現代新書)は、格差是正をめざす社会民主主義のスタンスに同感でき、ピケティ登場の意義について教えられたとはいえ、全体に分析が簡単にすぎて浅い。くわしくは数多い自著を参照せよと言うわけだ。それに、なによりも、格差是正の営みや社会民主主義体制の構築に占める労使関係、労働組合運動に徹底的に無関心であることが致命的である。それから近藤絢子『就職氷河期世代』――データで読み解く所得・家族形成・格差』(中公新書)。かねてから「私は団塊ジュニア」に当たるこの世代の成功者と不成功者の分化に深い関心があって、すぐに読んだけれど、その内容は、この世代の重要性の相対化を明らかにする官庁統計の無味乾燥の報告に徹し、人びとのナマの生活にはふれられず、私の関心とあまりにずれがあってつまらなかった。
 社会的にはおそらく意義深い良書について身勝手な不満を書きつらねてしまったが、そんなわけで結局、今年、私なりに「おもしろく」、示唆的で勉強になったこの分野の著作は次の通りである。24年以前の作品のみ発刊年を記載した。
①黒川創 鶴見俊輔伝(新潮社)2018年
②五野井隆史 島原の乱とキリシタン(吉川弘文館)2014年
③上野千鶴子・江原由美子編著 挑戦するフェミニズム――ネオ リベラリズムとグローバ リゼーションを超えて(有斐閣)
④満薗勇 消費者と日本経済の歴史――高度成長から社会運動、 推し活ブームまで(中公新書)
⑤上杉忍 アメリカ黒人の歴史(増補版)――奴隷貿易からオバ マ大統領、BLM運動まで(中公新書) 
かんたんなコメント加える。
 ①:戦後日本を代表する哲学者・思想家についての初めての本格的な評伝という。筆者自身が鶴見に近すぎる感もあって、もう少し突き放した批評もほしいと思うところはあるが、それだけに解像度は高く、滅法おもしろい大冊である。
 ②:小説もふくめてこのところ集中的に読んだ島原・天草の欄について歴史書として最も説得的だった書物。本の紹介もふくめて、日本近代史最大の民衆叛乱については、HPエッセイ「読書と映画」欄(24年6月24日)の考察を参照してほしい。
 ③:12人の女性研究者が、現時点でフェミニズムが挑戦しなけれならない課題を新自由主義とグローバリゼーションと定め、総論・各論を寄稿する著作である。私は、この分野の外国文献に不案内で、文献に依拠する寄稿には理解できないところもあったけれども、能力主義・競争主義への帰依と性差別への反発が裏腹になっている新自由主義的フェミニズムへの批判の必要性はかねてからの持論でもあって、共感を禁じえなかった。その主題を中心に、本書の中で私があらためて教えられた寄稿は、さすが!という感じで総論の上野千鶴子、生活保障システムへのジェンダー分析の大沢真理、いま枢要のケア問題を語る山根純佳、私にはなじみの日本的能力主義管理下の女性労働を論じた金井郁のものだった。
 ④:消費生活・消費者という視点で高度成長以降の経済史を辿った作品。消費にまつわる概念が登場する時代ごとの特徴把握など、私には新鮮な好著だった。
 ⑤:きわめて多くを学びながら同時にもっとも感動的だった著作。「またトラ」の直後、あらためてアメリカの黒人の体験についてくわしく知りたくて繙く。16世紀の黒人奴隷の導入以来の長年にわたる南北の白人たちの狡猾な思惑、あまりにも非道の虐殺や圧迫の詳細を教えられた。そしてなにより、1831年のナット・ターナーの叛乱を始めとして現時点のBLM運動にいたるまで、筆舌に尽くしがたい困難のなか、黒人たちが自由のためにこのようにも多様な創意に満ちた抵抗を続けてきた勇気にふれたことに深い感銘を受けた。今なお都市コミュニティでの黒人の下層は、貧困、犯罪、麻薬、投獄がくりかえされる、絶望的なまでに重層的な「出口なし」の状況にある。彼ら、彼女らはとはいえ、基本的にはもう屈せざる人びとなのである。民主党も専門職エリートに肩を入れすぎたが、さりとてトランプでいいのか?と思ったりする。

(2)小説
 いつも読んでいる小説は選ぶのに難儀するけれど、そのリアルさ、荒唐無稽ではないグロテスクさ、サスペンスに満ちた展開、あるいは切実さきわまるゆえについ夜更かししてしまうほどおもしろい作品7作ほどを、あえて選んで書きとめる。
①金原ひとみ マザーズ(新潮文庫)2014年
②ジョージ・オーウェル<高橋和久訳> 一九八四年(早川文庫) 2009年。原著は1949年
③加賀乙彦 湿原( 朝日新聞社)1985年
④石牟礼道子 完本 春の城(藤原書店)2017年
⑤ケイト・クイン<加藤洋子訳> 狙撃手ミラの告白(ハーパーbooks)2023年
⑥津村記久子 つまらない住宅地のすべての家 双葉文庫 2024年
⑦津村記久子 水車小屋のネネ 毎日新聞出版 2023年

➀:同じ保育園に通う幼児をもつ作家、モデル、専業主婦という三人の、夫から任された育児の苦しみの過程をぎりぎりと描く。心身の疲労のきわみ、孤独と不安、虐待・・・。その果てに3人はそれぞれに心の危機に陥り、幸せなはずの家庭も崩れてゆく。その筆致の迫力に、女ひとりの育児とはこのようにもすさまじいものか、それを思い知れと突きつけられる思いだった。こんな小説を読まないフェミニストは信用できない。
②:徹底した管理社会に閉じ込められた恋人たちが、表現と行動の自由の束縛ばかりでなく内面的な心の従属をも強いられてゆくようすを描く。迷路のようなもの語りを通じて恐怖の近未来を警告する古典。彼のもうひとつの政治的パロディの傑作『動物農場』(早川文庫)のほうが、わかりやすいけれど、深みはこの作品のほうにある。 
③:1960年代末の社会運動の激動期を背景にした、中年の自動車整備工と鋭い感性の女子大生との長年の愛の軌跡がテーマである。新幹線爆破計画の冤罪で投獄される二人は不屈の抵抗の何年かの末に法廷闘争に勝利し、かつてその愛を確かめあった清冽な釧路湿原に旅立ってゆく。若い日に惹かれた雄渾な大作の再読である。
④:島原の乱を描く数ある文学作品のうち、叛乱者たちにもっとも寄り添う美しく温かい大作。キリスト者以外の仏教徒の参加者や、その後、天草の代官として死者を手厚く弔い、生き残った島民が生きてゆけるよう田畑の甦りに献身した鈴木重成も、理解と敬意を込めて記述している。数多の無名の人びとの生活と闘いに注がれるそのまなざしこそ、水俣病とその告発に身を投じた石牟礼道子のそれである。
⑤:『亡国のハントレス』や『戦場のアリス』のおもしろさで定評あるケイト・クインが、第二次大戦中のソ連軍で並外れた能力を発揮した実在の狙撃手ミラ・パヴィリチェンコの波瀾万丈の体験を活写する。くりかえす戦闘、度重なる負傷、同士との愛、性差別者の夫との確執・・・。これも巻おくあたわざるという感じである。
⑥:かねてからなぜか惹かれて大のファンである津村記久子の近作から二つを選んだ
⑥では、ある住宅地に、実は悪辣さにほど遠い女性脱獄者が向かっているという報が入り、10家族の住民が手分けして見張りをはじめることになる。その過程で、それぞれしんどい「事情」を抱えていた人びとが交流と理解を深め、それ以前には目論まれていた厄介な家族への非情の処置や、他家への悪意の「犯罪」が自然に忘れられてゆく。辛辣さを思いやりに変えてゆくそのささやかな目覚めの表出が、いかにも津村らしいのである。
⑦:実家を出奔した理沙と律の姉妹が、信州らしい川辺の村で、1981年から2021年まで地味に生きて成熟してゆく物語である。81年、高校を卒業したばかりの理沙は、溜めていた進学資金を母が許嫁の男に貢いでしまったことに憤り、虐待されていた8歳の律を連れて家出し、この村に来て、老舗の蕎麦屋の手伝いと、驚くべき反復力でほとんど人と会話ができ、蕎麦粉を轢く水車の稼動をチェックもできる鳥(ヨウム)ネネの世話をして暮らすことになる。10年ごとの語りの内に、手芸に長けた理沙は現地の縫製工場でも働き、怜悧な律は大学にも進学して農産物商社で働いたり、塾を開いて子どもたちに教えたりする。具体的に描かれるのは、家財のない二人の貧困のようすや、18歳が8歳の保護者になる大きな不安だった(第1話)が、それ以降は、蕎麦屋での食事、そばづくり、ネネとのふれあい、時折の些細な事件などの淡々とした静謐な日常の描写に終始する。10年ごと状況が4つの章を刻む。大切なのは、彼女らに関わる、象徴的にも、蕎麦屋夫妻のほかはすべてが「健全な家庭」から疎外されたもともとは孤独な周囲の人びととの関わりである。みんなネネが大好きでなにかといえば水車小屋に集う――妻を亡くした地元発電所の社員と律の親友の娘。挿絵画家の老女。自動車部品工場をやめて発電所の清掃係になり後に蕎麦屋の仕事もネネの世話もする聡。彼は後に理沙と結婚し、外国人労働者の保護をするボランティア団体のスタッフになる。それに成人した律に助けられて進学して建設会社に勤め、東北大震災の地へ進んで赴任するため去って行く研司。さらに過酷な親子関係に苦しみながら徐々に律と心を通わせる美咲。律の小学校の担任で、困った人には惜しみなく身銭を切る女教師の存在も見逃せない。
 こうした人びとに、姉妹はいつもさしでがましくなく(自立を損なう干渉なく)思いやられ、二人はこうして生きてこられたのだとふりかえり、人を思いやる歓びこそ生きる意味なのだと心に刻む成熟の途を歩むのだ。2021年のエピソードでは、美咲が蕎麦屋の後身であるカフェで働き、久しぶりに息子たちを連れて村に帰った研司を迎える。みんなして水車小屋に向かう。ネネとは人びとの絆の神のごとくである。そこにはヒロイン、48歳になった律が微笑んでいる・・・。静かな感動が潮のように満ちてくる。
 この淡々たる起伏のない物語になぜこうも惹かれるのか自分でもわからない。谷崎潤一郎の『細雪』を読んだとき、このような大阪の豊かな老舗商家の姉妹のくりかえす縁談などの些事を延々と綴る物語がなぜこんなにおもしろいのかいぶかしく思ったものだが、ある意味で『水車小屋のネネ』は『細雪』に似ている。だが、この姉妹の些事は、現代のふつうの家族からの疎外にいちどは打ちのめされ、思いやられ・思いやりのうちに生きる意味を見いだした無名の貧しい庶民が営む生活の些事である。ちなみにこの作品は谷崎潤一郎賞を受けている。

(3)映画
 2024年は、テーマに関心をもって名古屋の映画館に足を運ぶことが少なくなったせいもあって、邦画、洋画とも「生涯ベスト」に数えられるような作品に恵まれなかった。世評高い映画ながら、おそらく時代遅れの私の感性にしっくりこない作品もいくつかあった。それでも、私なりにああ見てよかったと思った映画をいくつか記録しておこう。24年初公開とは限らない。番号は観賞順でランク付けではない。ごく簡単にコメンを加える。

 【日本映画】
➀Perfect Days ヴェム・ヴェンダース(脚本とも)/主演:役所広司
②市子 戸田彬弘(原作戯曲とも)/主演:杉咲花
③52ヘルツのクジラたち 成島出/原作:町田その子/主演:杉咲花、至尊淳
④罪の声 土井裕泰/原作:塩田武士/主演:小栗旬、星野源 
⑤missing ミッシング 吉田恵輔(脚本とも)/主演:石原さとみ、青木崇高、森優作
⑥あんのこと 入江悠(脚本とも)/主演:河合優美、佐藤二朗、稲垣吾郎
⑦正体 藤井道人(脚本とも)/原作:染井為人/主演:横浜流星、山田孝之

➀:姪の訪れというさざ波はあれ、終始、公衆トイレの清掃する役所広司の毎日を淡々と描く。その静謐な自足の微笑。さすが巨匠は、観る者にもそれなりの自足をもたらす。
②&③:いずれも過去にDVなどジェンダー的に過酷な体験を負う女性(いずれも杉咲花)の軌跡を描く。こうした物語は今では数多いが、②ではそこからしたたかな悪女として立ち上がるユニークな設定がすぐれておもしろく、対照的に③では、切望と孤独と果てに、ひたすら絆を求めて泣くクジラの12ヘルツの声を聴きとり、寄る辺ない少年とともに生きる力を取り戻す。感動的な作品である。
④:幼児のころの声の録音が重大な犯罪に使われれたことを知った洋服職人(星野源)が、真相を探る記者(小栗旬)とともに、隠蔽の闇に分け入って、零落し自死しようとしていたもう一人の声を使われ男(宇野祥平)をついに救い出す。なによりもストーリーが魅力的で、好演するの星野と小栗ふたりの交歓が温かい印象を残す。
⑤&⑥:いずれも紹介済み。私のHPのエッセイ「読書と映画」欄(24年6月24日)を
参照されたい。MISSSINGの石原さとみの切実な感情が大きく起伏する演技が光る。
⑦:冤罪の死刑囚(横浜流星)が必死に逃亡し、変装しさまざまの仕事で生き継ぐ。その過程で、建設現場の同僚や各職場の女性たちが彼の「正体」の優しい美質に気づいてゆく。別件逮捕された男が凄惨な事件の真犯人と知った彼は、意識朦朧の被害者家族がいる施設に潜り込んで本当に目撃したことを思い出させようとするが、そのさなかについに逮捕されてしまう。しかし冤罪の疑いは司法界にも広がり再審が始まった。孤児として育ち、なんの人生体験もなかった彼は、逃亡してはじめて愛を知り、人間として自由な生活ができた歓びを語る。そこが心をうつ。そして警察上層部はあくまで冤罪や誤認逮捕の隠蔽を計るけれど、自由を求めた彼についに無罪の判決が下るのである。最近では稀なサスペンスに満ちた骨太のヒューマンドラマである。

 【外国映画】
➀アイアンクロー(US) ショーン・ダーキン(脚本とも)/主演:ザック・エフロン
②人間の境界(23ポーランドほか) アグネシュカ・ホランド/主演:ジャラル・アルタウィル、マヤ・オスタフシェカ
③関心領域(23.US、英、ポーランド) ジョナサン・グレーザー(脚本とも)/原作: マーティン・エイミス/主演:クリスチャン・フリーデル、サンドラ・ヒュラー
④罪深き少年たち(22韓) チョン・ジヨン/脚本:チョン・サンヒョブ/主演:ソル・ギョング、コ・ジェンサン、チン・ギョン、ホ・ソンテ、ヨム・ヘラン      
⑤ぼくの家族と祖国の戦争(23.デンマーク) アンダース・ウォルター(脚本とも)/主演;ビル・アスベック、ラッセ・ピーター・ラーセン
⑥サウンド・オブ・フリーダム(23.US) アレハンドロ・モンテベルデ(脚本とも)/主演:ジム・カヴィーゼル、ミラ・ソルヴィノ、ビル・キャンプ 
 
➀:「鉄の爪」の異名をとる強豪ボクサー、フリッツ・フォン・エリックの4人の息子たちが、ヘビー級チャンピオンの座を願う父(ホルト・マッキャラニー)の慫慂によって、当初の希望コースに関わらずボクサーに仕立て上げられてゆく。筋肉を鍛えろという父の教えは絶対で、息子たちはそのために、痛みを鎮痛剤で抑え、ステロイド剤を打ち、意欲を保つためコカインを吸ったリもする。兄弟は一時は無敵の家族チームとして成功するかにみえたけれど、穏和で人望ある次男(ザック・エフロン)はやがて限界を覚って身を引き、期待の三男(ハリス・デッキンソン)は急病死、将来を嘱望された四男(ジェレミー・アレン・ホワイト)はバイク事故で足首を切断、五男(スタンリー・シモンズ)は試合中の負傷から後遺症を患ってしまう。そのように悲劇的な、それでも愛し合う家族の道行きをみつめるのはいたたまれない。それでもこれは切実な傑作ということができる。
②:ベラルーシからEUに入れるという噂を信じたシリア難民たちが、ポーランドとベラルーシのいずれにも駆逐され、どこにも安住を許されない。その絶望のなか、ポーランドの女性活動家たち(マヤ・オスタフシェカら)が危険をおかして細々と脱出の途を開く。第三世界の多様な人びとの困窮のリアルな描写が冴え、シスターフッドの勇気が輝いて感動に誘う。
③:ユダヤ人強制収容所のすぐ裏にすむ収容所所長と家族たちの平然たる優雅な生活を描く。まことに傑出したユニークなテーマだ。広く注目された本作はしかし、行為を説明する台詞がほとんどない、大切な小道具がクローズアップされない、ときにノン・リアルなアニメ的映像が挿入されるという独特の演出手法ゆえに、感性の鈍磨した私には細部がわかりにくく、名作の特徴である鮮烈な印象が残らなかった。
④:1999年韓国で少年犯罪をでっちあげた「三礼ウリスーパー事件」に対する一刑事の長年の闘いを描いて感銘ぶかい傑作。すでに紹介ずみ。HPのエッセイ「読書と映画」欄(24年6月24日)にくわしい。
⑤:1945年4月、ナチス・ドイツの占領下のデンマークで。市民大学の学長ヤコブ(ピル・アスベック)はドイツ軍司令官の命令で、ドイツを逃れた500人もの難民を学校の体育館に受け入れる。多くの子どもを含む難民は飢餓と感染症の蔓延で日々死亡し病苦に苦しんでいた。ヤコブと妻リス(カトリーヌ・グライス=ローゼンタール)は、難民の生命と健康を救おうと苦闘する。それはしかし反ナチの市民にとって裏切り行為だった。祖国愛か人間愛か、夫妻は選択を迫られる。だが、その折、12歳の息子が、死に瀕したドイツ人少女を絶対に救いたいと必死に訴え、一家は禁を犯して都市の病院に赴く。少女は救われた。戦争は終わった。しかし、「親ナチ」とつまはじきされたこの家族は、結局この街を去らねばならなかった。今年もっともまっすぐに、愛国心を超えるヒューマニズムを謳う作品であった。
⑥:米国土安全保障省捜査官ティム(ジム・カヴィーゼル)が、はじめに救いだした幼児から姉を取り戻してほしいと懇願され、通常の任務の枠を超えて、南米コロンビアに赴く。彼は当地の実業家や侠気あるもとやくざの協力のもとに、奥地で誘拐した子どもたちを奴隷のように搾取する有力なギャング団の集落に潜入し、生命を賭してついに姉を、多くの少女たちとともに救い出す。終始サスペンスあふれる、ある意味で無謀ながら正義感と勇気に満ちたティムの行動は実話という。サウンド・オブ・フリーダムとは、救い出された少女たちの歓びの歌声だ。協力する訳ありの男たちにもそれぞれに存在感があっておもしろい。この作品、本当に見てよかった!

 外出の少なくなった後期高齢の私たちにとって、DVDによる大好きな映画の再訪は今年いっそういっそう頻繁になった。あまりに数多いが、そのうちから厳選したいくつかのタイトルと監督のみを記す。どれも珠玉の作品であり語るにつきない。若い世代の方はこのうちいくつご存知だろうか。
【洋画】:ペーパーバード 幸せは翼にのって(スペイン、エミリオ・アラゴン)/フライド・グリーン・トマト(US、ジョン・アブネット)/罪の手ざわり(中国、ジャー・ジャンクー)/未来を花束にして(英、サラ・ガヴロン)/灰とダイアモンド&地下水道&カチンの森(いずれもポーランド、アンジェイ・ワイダ)/ジュリア(US、フレッド・ジンネマン)/ミシッシピー・バーニング(US,アラン・パーカー)/心の旅路(US,マーヴィン・ルロイ)/ドクトル・ジバゴ(英、デヴィッド・リーン)/8 1/2(伊、フェデリコ・フェリーニ)/明日の少女(韓、チョン・ジュリ)/野いちご(スウェーデン、イングマール・ベルイマン/かくも長き不在(仏、アンリ・コルピ)/サラの鍵(仏、ジル.パケ=フランネール)
【邦画】七人の侍(黒澤明)/八日目の蝉(成島出)/ 名もなく貧しく美しく(松山善三)/フラガール(李相日)/砂の器(野村芳太郎)

その17 経済・社会体制論の試み

 前回の末尾、この連載は「その16」をもって幕を閉じると記した。しかしその後、狭義の労働問題研究ではないにせよ、ソ連崩壊の直後、さまざまの文献を集中的に精読し、懸命にまとめた私なりの「体制論」を、今ふりかえっておく必要があると思うようになった。そのころの私論が、最後の著書『イギリス炭鉱ストライキの群像――新自由主義と闘う労働運動のレジェンド』(旬報社、2023年)の最終章「思想的・体制論的な総括」の内容に直結していることに気づいたからでもある。
 ソ連・東欧の社会主義諸国の崩壊のなか、左翼論壇は、ではこれからどのような経済体制を選択すべきかについて根本的に考え直すことを迫られていた。その頃、属していた大阪の研究者・労働運動実践家が協同する「社会主義理論センター」でも、その視点を定める目的で長時間の討論集会が開かれ、中岡哲郎、山口定の両氏とともに、私も主要報告者の一人になった。そのことが、それまでこのような「大状況」について論じることのなかった私が逡巡ののちこの大きなテーマに挑戦した契機である。『国家のなかの国家――労働党政権下の労働組合.――1964-70』(日本評論社、1976年)などそれまでのイギリス産業社会の研究をふまえて、労働問題の枠を超える広汎な分野の懸命の勉強を経て試みたこの講演は、労働研究者以外の方々の間でも予想外の好評だった。当時の社会党構造改革派のグループに招かれて語りもしている。そこで私は講演録を、徹底的に修正・加筆したうえで、1993年刊行の『働き者たち泣き笑顔――現代日本の労働・教育・経済システム』(有斐閣)に収めた。いまふりかえっておきたいのは、この本の最終章「よりヒューマンな経済社会システム――体制の選択・序説」の概要にすぎない。 

 私の特徴的な関心は、社会主義、社会民主主義(ソーシャル・デモクラット、以下SD)、新自由主義(ネオ・リベラリズム、以下NL)など、代表的な体制論の系譜とか定義(理想型としての「本来論」)ではなかった。どの体制も深刻な矛盾や問題点をはらんでいると感じていたからだ。私はもうユートピアはないという前提で、その頃10年~15年ほどの各国の体制変動のなかで浮かび上がってきた、否定できない、どれも蹂躙また無視することが許されない諸価値を摘出することから出発した。諸価値は次の「4指標」に具体化される。
 ①人びとの自由、とりわけ表現と結社の自由
 ②混合経済の不可避性。生産性向上とともに価格が下がりうる「普通材」を市場競争を通じて供給する民間部門と、供給が限られており、かつ誰であれその享受ができなければ人権を損なう、インフラやライフ・ラインのサービス(稀少財、人権材)を供する公共部門のと共存。わけても不可欠な公共部門の護持
 ③社会保障(公的補助や社会保険)の安定的な水準維持
 ④狭義の議会政治にとらわれない民衆運動、とりわけ労働組合運動(産業民主主義)の自由の承認
 この確認から導かれる「よりヒューマンな体制」は、私見では戦後ヨーロッパの、とりわけ左派政党の政権担当時にみられた社会民主主義(SD)であった。これにくらべれば、既存または現存の社会主義国では、③はともかく、まず①において完全に失格である。実質上独裁の共産党の施策――例えばロシアのウクライナ侵略――に異議を申し立てる人びとやメディアは、無数の挙例を待つまでもなく徹底的に弾圧され、基本的に表現・結社の自由はない。④についても労働組合は国家機関と化し、民衆の街頭行動も暴力行使や逮捕の憂き目に遭い、しばしば政府・党から独立しているとはいえない司法によって有罪とされ投獄される。②に関しては私に正確な知見はないが、ピケティらの『世界不平等レポート2018』によれば、ロシアや中国で「上位10%の所得が国民所得に占める割合」は41~46%である(ちなみに北米は47%、ヨーロッパは37%)という。それはおそらく党員の高級官僚や「財閥」の特権が、まっとうな市場競争をゆがめるとともに格差と不平等を固定化させている社会なのである。
 一方、80年代以降、欧米の福祉国家的な要素を後退させてイギリス、アメリカ、日本、など先進諸国の政権を奪取した新自由主義(NL)は、社会主義の崩壊によって90年代にはいわば「ひとり勝ち」であった。では、このNL席巻のもと、上の「4指標」はどのような扱いになっただろうか。
 反全体主義の「民主主義」を謳う限り、NLも「4要素」を制度として公然と否定することはできない。しかしながら、国によっていくらかの違いはあれ、NLは「小さな政府」、企業間・個人間(労働者間)競争の開放と規制撤廃、成功・不成功の自己責任論・・・を核とする思想である。ここから②領域での公共部門の民営化、民間委託、③領域での「甘すぎる」支出制限は当然の帰結であった。そして④領域では、個人の能力や努力よりも「衆の力」つまりなかまとの連帯に頼る民衆運動は忌避せよという道徳律が鼓吹された。非暴力であっても「行きすぎた」デモの弾圧や、大規模なストライキの規制、 産業民主主義の制限が正当化されることになる。
 NL浸透の深刻な帰結のひとつは、具体例を挙げるまでもなく80年代以降にどの国でも顕著になった(ジニ係数の高まりに代表されるような)所得と資産の格差拡大と、貧困者の累積であった。そしてもうひとつは、格差拡大と自己責任論による庶民の孤立化・アトム化であり、連帯行動への結集の緩みだった。成功者の支持するNLの道徳律は、それ不成功者をふくむ多くの人びとのやむおえない生きざまとなってゆく。こうして多くの先進国で組合組織率は低下し、ストやピケなどの産業内行動は衰退、少なくとも沈静化した。要するに、NLは、「4指標」を真っ向から否定したとは言えないまでも、それら諸価値のもつ役割を減殺し、それらを空洞化させたのである。
 以上から、私はとりあえず結論する―― 否定しえぬ「4指標」のいずれをも蹂躙することなく、その意義や価値に固執しようと苦闘した「よりヒューマンな経済・社会体制」は、端的にいえば社会民主主義(SD)にほかならない。

 講演録「よりヒューマンな経済社会システム」は、「4指標」の理想を描くのではなく、生起するさまざまの難問を指摘してもいる。そのひとつは、「4指標」それぞれが内部にはらむ幾多の意見対立である。現時点のこともふくめて考えれば、例えば、➀表現・結社の自由については、ある人びとの人権を損なう唾棄すべきヘイト発言やフェイクに満ちたSNS発信をどこまで禁止するかが論争点になるだろう。③社会保障にしても、医療や介護の保障の財源を国庫(税金)とするか社会保険料とするか、金銭またはサービスが支給される資格としてのナショナルミニマムをどの水準に設定するかについて、大きな選択の幅がある。こうして最低賃金額とか公的補助としての生活補助の基準や貧困層の補足率などは、「福祉国家」のなかでもかなり格差をもつわけである。
 意見対立によってもっとも選択の幅が大きく変動を免れないのは③混合経済の領域である。社会民主主議(SD)の下でも、政府は財政逼迫のとき、市場経済への規制を嫌う経済界や可処分所得の増加を求めて増税に反対する中・上層国民の圧力に応えて、公共部門の圧縮に赴きもする。そもそも、サービス供給のどこを公共部門に、どこを民間企業にするかの議論についての論争は限りない。SD勢力のなかでも右派、左派の対立は否定できず、「保守中道」の右派が力を得ることがあれば、政府は、新自由主義(NL)に接近して、人権材の供給も、平等な安定的享受の危うい市場競争・利益志向の民間(委托)企業に委ねがちなのである。その結果は教育や医療や安寧の享受における階層間格差の拡大にほかならない。、
 いまひとつの、より深刻な問題は、「4指標」のいずれも蹂躙しないとすれば、それゆえにこそ政府が逢着する「4指標」間の共存の困難である。例えば③社会保障の継続的な充実は、国家財政を逼迫させ、②領域で、公共部門の「人権材」供給の護持という原則を後退させ、それを民間(委託)企業に移行させる可能性がある。②と③の間に矛盾が生まれるわけだ。だが、もっとも共存がむつかしいのは、国民経済の健全さ、インフレなき成長をめざす政府と、産業内行動・産業民主主義に執着する強靱な労働組合との間であう。NLの先駆者たるイギリスのサッチャーと炭鉱労働組合との1年の闘いはこの共存の困難を象徴している。けれども、本来的に 草の根の産業民主主義を否定するNLのみではない。SDの政権にとっても、「つよすぎる労働組合」は国民経済の運営にとってまことに厄介なのだ。そこでたいていのSD政権は、労働三権は護持しながらも、労働組合を国民経済に配慮する、つまり 産業民主主義を万能視せずに産業内行動を慎重に抑制する組織に導こうとする。現在の日本はNLのなかまにほかならないが、労働組合運動がすでに他国に例を見ないほど労使協調に飼い慣らされているゆえ、政府は資本主義経済を運営する労苦を大いに免れているといえよう。

 思えば「インフレは民主主義のコスト」(グンナー・ミュールダール)という見方はまことに真実をうがっている。国民の各層、労働者や貧困層や年金生活者などの強靱な要求行動に規制や禁止がなければ、政府は紛争を避けて譲歩せざるをえない。分権的圧力の合力の結果がインフレになるというわけだ。敷衍しよう。75年以降、戦後社会民主主(SD)の性格を帯びた先進ヨーロッパ諸国の「イギリス病」ともいわれるスタグフレーション(インフレ高進+失業増加」)の原因のひとつは、「4指標」、➀表現・結社の自由、②エッセンシャルな公共部門サービスの護持、③社会保障の充実、④自由な市民運動や労働運動の承認――そのいずれをも無視または蹂躙しなかったことにあるかにみえる。あわせてイギリスのように規制なき要求行動が「官民横断」であったことも見逃せない。「4指標」のすべてを尊重することが生産性向上や成長を鈍化させ、SD政権の国民経済の運営をもたもたさせたのだ。企業間・個人間の競争を至上とする新自由主義(NL)は、SDのこの資本主義経済のパフォーマンスの衰えをついて、支配の座を奪ったのである。そこで現出した産業社会が「4指標」のいくつかを空洞化させたシステムであることはすでに述た。
 ヒューマンな諸価値に固執したSDの、それは栄光ある敗北であった。しかし私たちは、資本主義経済のパフォーマンスの優越をもって望ましい体制と評価することができるだろうか? その後NL支配下での格差拡大、貧困層の累積、自己責任論では救われないアトム化した庶民が連帯の要求行動を容易に見出せない鬱屈、産業民主主議の衰退などを体験するなか、すでに90年代半ばには、日本を例外とする先進諸国においてSD志向が再生しつつある。SDが再生しても経済運営はやはりもたもたするだろう。けれども、ヒューマンな諸価値・「4指標」すべてを、相互のコンフリクトや、妥協を余儀なくされる紛争なく満たしうる「大思想」を唱えることはもうできないのである。
 「マルクスが構想した本来の社会主義は・・・」とユートピアを語ることは空しい。サッチャーにとって攻撃の的は「Socialist Britain」であり、トランプの放言?では統一的な医療保険の主張者は「過激な社会主義者」なのだ。それが今ここにある現実である。しかし、その現実の政治では、多くの人びとのニーズにもとづく社会運動や総選挙によっては、NLがSDの、SDがNLのある要素を取りこむことが十分にある。とはいえ、思想的にはやはり両者は峻別される。資本主義の経済運営がより効率的な新自由主義か、よりヒューマンな価値に固執する社会民主主義か。私たちはひっきょういずれかの選択を迫られている。   

2024年 晩秋から初冬、京都への旅

 10月末、私たちはふたりとも発熱、診察を受けるとコロナに感染していた。自宅静養を余儀なくされる。微熱が続き、味覚と食欲がない。体がだるい。何を読んでも集中できず、秘蔵のDVDで大好きな映画をぼんやり観るばかりだった。しかし11月8日、食欲不振を訴えて漢方薬が変わった頃から、不思議にぐんぐん回復した。いつも平熱となり、食欲と味覚が戻った。早朝に30分から40分ほど散歩をするようになった。なにかしようとするする意欲が猛然と戻った。11月23日、はじめは欠席するつもりだった名古屋労働会館での<関生労組の弾圧を許さない東海の会>主催の、京都事件公判報告&パネルディスカッションにもパネラーのひとりとして参加した。もっとも準備不足と病み上がりで発言は持論に留まり精彩制裁を欠いたと思う。それでも、11月26日~27日には、ふたりして、長年の女友だちとともに紅葉を観る京都への旅を敢行した。
 26日は、旧友KやS・I(敬称略)と、勧修寺、醍醐寺、永観堂、真如堂の4古刹をめぐり、会食・歓談することができた。午後は雨だったが、すばらしく充実した観光ができ本当に幸せな1日だった。それというのも、敬愛する労働運動家T・Iが、細かいコースと食事処と時間の周到な計画にもとづいて、レンタカーでご案内をしてくださったからだ。みごとな道選びと時間設定だった。煩雑な会計事務その他もすべて旧友たちに任せた。よぼよぼの老親みたいな私たちを歓待してくださったみなさんに、どれほどお礼を言ってもつくせない。その夜はまたYさんのご紹介で古民家風「自主管理」の民宿に宿泊した。
 27日は、晴天に恵まれ、ふたりで夕方まで、休み休みしながら実にゆっくりと東山を散策した。京都市役所からバスで銀閣寺前⇒哲学の道⇒法然院⇒また哲学の道⇒永観堂(門前のみ)⇒「料庭」八千代での昼食⇒南禅寺という懐かしいコース。法然院のあたりから次第に紅葉が濃密になる。陽光に輝くその美しさに魅せられた。南禅寺では方丈を拝観し、紅葉が彩る庭園の続く長い回廊をめぐる。こんなことがまだできるのね!と妻がつぶやく。彼女は幸せと感じればそれでいい・・・。境内に出てまた夕陽に輝く紅葉を見納め、疲れた足を引きずって地下鉄蹴上を経て京都駅に至る。近鉄を乗り継いで帰宅したのは20時前だった。今日は16000歩ほども歩いている。
 11月27日の二人の散策をくわしく書いたのは、もうこんな機会は、私たちのつましい余生にはもうないかもしれないと感じたからだ。この間の紹介したいスナップは、23日のイヴェント、26日のみんなとの観光・会合などいくらもあるけれど、きりもなくここでは27日の京都の紅葉などに限りたい。

 写真の紅葉の背景は、順を追って、永観堂/哲学の道、川向こう/法然院の門/哲学の道、川向こう/永観堂/同上/同上/南禅寺下の料庭「八千代」で/南禅寺、正因庵白壁に被さる紅葉/南禅寺法堂前のふたり/南禅寺、方丈の庭/南禅寺境内ふたたび、法堂前/同上、背景は三門/蹴上への途上で 

その16 非正規労働者――被差別の状況を超えて(2024年12月6日)

 パートタイマー、アルバイト、契約社員、派遣労働者などの非正規労働者は、2023年には雇用者の37%、男性でも22%、女性では54%にもなる。正規雇用者に対する非正規雇用者の賃金格差は、時給で2021円vs.1337円の66%、年収で531万円vs.306万円の58%(22年厚労省)という。だが、この場合の非正規従業員は多少とも常用的な人びとであろう。年収が200万円に届かない不安定雇用の非正規労働者が数多く存在することは、年収200万円以下のワーキングプアが労働者の22.9%になる(国税庁調査2023年)ことからも明かなのだ。不安定雇用・低賃金の非正規労働者こそは、累積する貧困層の中心的な地層であることは自明である。
 ちなみに相対的貧困率(所得の中位の半分以下の人の比率)は21年には15.4%で、Gセヴンのなかの最高位である。日本は今や堂々たる貧困大国であるといえよう。

 2018年5月、自民党安倍内閣(当時)は、①残業の法的制限を主内容とする長時間労働の是正とともに、②「同一労働同一賃金」(以下EPEW)の導入による非正規労働者の処遇改善を図る「働き方改革」を唱えた。そのゆくえは、①長時間労働の是正も高度プロフェショナル制度の導入にみるようにかなり欺瞞的であったが、②はいっそう空疎だった。以下、横田伸子/脇田滋/和田肇編著『「働き方改革」の達成と限界――日本と韓国の軌跡をみつめて』(関西大学出版会、2021年)寄稿の最近の論文「安倍内閣「働き方改革」の虚実」をベースに議論を進めよう。
 安倍晋三は当初「日本から正規・非正規という言葉をなくしたい」と揚言した。なんという舞い上がりようか。そんなことが政府にできるなら苦労しないと、私は苦笑を禁じえなかった。安倍はこの差別的な雇用形態が、日本企業の労務管理の重要な堡塁であることがわからないほど鈍感だった。企業側はしかるべく安倍のEPEW論を一蹴したのである。
 企業は、正社員Aと非正社員Bが日常的に遂行している仕事が同じであっても、両者を同等に評価し同一賃金を支給することは決してない。Aの職務にはしばしば財務上または人事管理上の「責任」が付加されているからだけではない。Aの仕事は明日のキャリア展開のための経過的な課業とみなされるが、Bのそれは総じて「袋小路」の担務なのだ。Aがはじめからフレキシブルに働きキャリアを歩む従業員として「期待」されて採用されているのに対して、Bはそのように「期待」されることなく、必要に応じた定型的または補助的な働き手handsとして拾われているのである。両者に同じ賃金決定ルールを適用することは企業にとって不合理なのだ。こうした雇用形態・採用方針・人材活用の従業員間の差別は、分業配置上および経営コスト上、大きな企業利益をもたらす。ここには企業利益と能力主義的選別の間にあるwin-winの関係はない。雇用形態差別の経済性は、がんばれる女性を旧来の性差別意識ゆえに活用しないことの非経済性と対照的でさえある。
 この財界の堡塁を前にして、安倍晋三はいつしか、EPEWとか非正規雇用の撤廃とかを謳わなくなる。のちの法制が、非正規労働者の処遇改善において、賃金、賞与、その決定方式を統合する改革は姿を消し、休暇・休日取得、福利厚生などにおける可視的な差別の是正のみを規定するに堕したのも当然であろう。そして正社員を組織する企業別組合がこうした道行きに異を唱えることもなかった。
 
 近年の講演などで私がよく用いた分析軸は、ときに過労死・過労自殺にいたるまでの正社員の心身の疲弊と年収200万にも満たない非正規労働者の貧困との相互連環・相互補強関係であった。非正規の貧困体験を経た人は、ようやく正規雇用として採用されると、課せられる過重労働を拒むことなく引き受ける。だが彼ら、彼女らはしばしば過重労働ゆえの心身に不調を来たし、退職してまた非正規労働市場に入ってゆく。被差別雇用をくりかえすうちに求職の気力も失うかもしれない・・・。正規雇用と非正規雇用は地続きなのだ。いずれにせよ、はじめから正社員就職できなかった人をふくめて 非正規労働者男女の部厚い層が堆積しつつある現状である。
 このことから次のように言える。第1に、非正規労働者と正社員それぞれのしんどさは表裏一体のものである。状況批判は両者を同時に視野に入れる必要がある。第2に、非正規労働者の問題は、どちらかといえば女性においてより深刻であることは確かながら、それはすでにノンエリート男女に共通する問題にほかならないことだ。
 では、ノンエリ-ト男女に共通するこの受難に対して、どのような改善の方途が考えられるだろうか。当の非正規労働者の選択に応じて方途はふたつである。
 
 特定の企業や職場への定着を望む常用型の非正規労働者は、やはり正社員化をめざし、正社員としての処遇の平等化を、なによりも賃金体系・賃金決定方式の正社員との統合を求めるべきであろう。従来の非正社員も一般職正社員の昇給線を辿る。職務の違いはあっても、彼ら、彼女らはすでに多くの産業で「その作業なくしては業務遂行ができない」という意味での基幹労働である。正社員としての拘束性や上昇の「天井」はあるにせよ、昇給・昇格・キャリア展開が閉ざされているのは、まことに不平等にほかならない。
 けれども、どの企業、どの職場でも働ける非正規労働者は、専門技能の有無を問わず、非正規雇用のままでいい、しかし物乞いのような求職と食えない賃金は絶対に拒む、それゆえ、非正規雇用も働き続け生活できるまでの「自立」を求める途を追求する、そんなありようを追求したい。そのために必要なことは、企業外でみずからが打ち立てた一定の働くルールや賃金、職種別レートや最低賃金を、そのとき働く企業に持ち込ませるのである。
 空理空論ということはできまい。現在でも、労働条件の水準をさておけば、地方労働市場の実情に応じて多くの企業や公共部門でそのような処遇がなされている。残されている課題は、「企業外でみずからが打ち立てた一定のルールや賃金」を、その慣行に加えることである。それができるためには、欧米の一角にみられるように、彼ら、彼女らが産業別または職種別労働組合に加入し、またはそうした企業外組合の連帯を構築し、個別企業また業界を相手とする団体交渉や要求行動を実践できる思想をわがものとしなければならない。その萌芽は、図書館司書・非常勤教員など公共部門専門職の連帯行動、コミュニティユニオンの協同による非正規春闘の展開、ファストフード店員・アマゾンスタッフ・自動販売機係員など労働条件改善行動、大都市での最低賃金即時1500円獲得などの共闘に現れている。それらは可能性としてまことに広大なフロンティアをもつ。ここに希望がある。
 ふたつの途に共通する非正規労働者の状況改善のため日本に不可欠の労働運動上、政治・行政上の戦略ポイントは、前回「女性労働」で述べたところといくつか重なって、すでに十分に意識化されている。
 まずもって、企業のいう労務管理視点の「同じ労働」論議にとらわれない「同一価値労働同一賃金」論。職務評価によってそれぞれの賃金額の「正当な格差」を設定するこの手法を用いれば、しばしば男性の半分ほどの女性の賃金は8割ほどには高まるという。例えば、この理論に立脚して商社について克明に職務を分析した森ます美、木下武男、居城舜子、高嶋道枝らの報告書(ペイ・エクイティ研究会『商社における職務の分析とペイ・エクイティ』1997年)によれば、男性と女性の正当な(その水準に是正されるべき)賃金格差は、100vs.89であった。この格差是正論はむろん、雇用形態間の賃金格差の是正にも適用されるべきなのである。
 また、日本ではなお不在の、非正規雇用が許容される条件を規定する「入り口規制」の法制化が絶対に必要だ。ドイツや韓国では厳しい許容条件があるのに、日本では非正規労働者の「活用」は企業の思いのままである。さらに、今日、枢要のエッセンシャル・ワークであるのに、経営状態が零細で、雇用や契約の枠組みが多様で、処遇があまりにも劣悪なケアワーカーのありように鍬入れがなければならない。この不可視の草の根の働き手の公務員化を視野に入れた労働条件と生活水準の公的保障が喫緊の課題といえよう。
 いずれにしても、正規・非正規の差別の「堡塁」は、社会運動の性格を帯びた労働運動によって撃破されなければならない。堡塁のなかの城兵がさしあたり撃破に加担することはない。とはいえ、彼ら、彼女らのノンエリート化した層は、拘束感とともに将来不安も抱えており、より社会的な保障を求めてもいる。堡塁が揺らげばひそかな謀反が期待できるかもしれない。

 私なりの労働研究キーワードを手がかりに、とりとめなく精粗さまざまに綴ってきた<労働研究回顧>は、これでいちおう幕を閉じることにする。多少とも私に独自的なコンセプトは、主として60年代~90年代までの案出であり、2000年代はじめの上記<正社員の心身の疲弊と非正規労働者の差別と貧困の相互>をもって、ほぼつきたからである。
 2010年前後、私はいずれも岩波書店から、それまでの研究を集約・総括するような著書をいくつか刊行している。多様な格差を内包した労働状況を全体的に分析した『格差社会ニッポンで働くということ』(2007年)、長年の労働組合研究のすべてを網羅した『労働組合運動とはなにか』(2013年)、そして企業社会における労働者の極北の受難、過労死・過労自殺を凝視して、個人体験のレベルにまで降りて克明に辿った『働きすぎに斃れて』(2010年、2018年「岩波現代文庫」に収録)である。けれども、それらは、産業民主主義の復権へのあくなき執着、<強制された自発性>を軸とする労働者の主体性の重視、労働者個人と階層全体との往還的考察など、研究史の初期・中期に培った思想や分析視角を、手放さず彫啄して貫いた作品にほかならない。方法論としての新しさはない。研究者は「処女作に向かって成熟する」という。「成熟」した自信はなく、もっと考究したい多くのテーマを抱えたままながら、以上をもって連載を閉幕とする次第である。
 なお、本格的な労働研究から撤退した後、私はさらに2023年まで、市場性は乏しいけれど、長年の読者からは「いかにも私らしい」と愛好されもした3冊の本を出版している。これらについては、しかし書くとすれば、<労働研究回顧>の補論とすべきであろう。

その15 女性労働へのアプローチの軌跡(2024年11月25日)

 研究史の初期、1960~70年年代から、私は「3M」(男性、肉体労働、製造業)への関心限定という日本労働研究への批判はまぬかれていたと思う。
 勉強をはじめたころ、私は訪問・見学したいくつかの労働現場、東芝の汎用モーター組立、繊維工場の精紡・粗紡、総理府統計局の電子計算操作、電電公社の電話交換、あるいは銀行窓口などで、膨大な数の女性たちが、まさに基幹労働としての単純労働、清掃などの補助労働の不可欠の担い手として、この産業社会を支えていることを心に刻んだ。そのときふと思ったのは、なぜ彼女らは、このようにつづけてゆくことがしんどい単純労働や補助労働を引き受けてくれるのか、ということだった。イギリス労働社会学のある文献で、単純労働を続ける中年女性が「こんな仕事は男にはさせられない、気が狂ってしまう」と語るのを読んだときの衝撃を、なぜか忘れられない。その優しさと矜持にうたれたのだろうか? 分業の位階序列それぞれに「ふさわしい」とされる人びとを安定的に配置することが体制の不可欠の要請である。そう考えるとき、すでに雇用者の30%以上になっていた女性労働者の存在は、私にははじめから黙過できない考察テーマだったのだ。1972年の『労働のなかの復権――企業社会と労働組合』(三一新書)がすでに、この分業とジェンダーの関係、支配層の仕事配分にとっての女性の不可欠性を明示している。
 とはいえ、その後の私は、この連載「その5~その13」にうかがわれるように、やはり男性中心の労働組合論と労働者像の考察にしぼっている。けれども80年代半ば、企業社会における労働者の受難の具体的な記述を重ねるなかで私はあらためて、分業配置論の枠組みを超えて全体的に女性労働の諸相をはじめてきちんと描く必要性を痛感するにいたる。こうして執筆されたのが、1984年の『歴史学研究』誌を初出とする「女性労働者の戦後」(『職場史の修羅を生きて 再論 日本の労働者像』筑摩書房、のちに『新編 日本の労働者像』ちくま学芸文庫、1993年に収録)である。この論文の執筆時には、近代以降の女性の歴史、ドキュメント、裁判記録、そして女性を活写する数多の小説を精読・乱読した。あれほど「女性」について多様で広汎な読みに耽ったのは研究史の上でも稀である。

 この論文は、経営者の<受容の論理>と労働者の<供給の適応>をかみ合わせるという方法論によって、職場内外の性別分業に深く規定された女性の仕事、職場、意識、それまでの性差別に対する抵抗の戦後史を辿っている。<単純労働-低賃金-短勤続>という私なりの女性労働「三位一体」の状況把握や、<男は上位職務へ・女は家庭へ>という単純労働からの性別脱出ルートを定式化したのも、この論文においてである。もっともこの時期、すでに資本は、主婦パートの「活用」をはじめており、女子雇用者の有配偶比率は60%近くにもなっていたけれども、女性の非正規雇用化という、次の時代の最大の課題についてはなお十分に考察は及んでいない。
 特記すべきことに、この執筆時、私は遅ればせながら田中美津『いのちの女たちへ――取り乱しウーマン・リブ論』(田畑書店、1972年)の洗礼を受けている。田中はマルクス主義の女性解放論が認識を階級対立に収斂させる惰力として、労働者階級のなかにも厳存する男の女に対する支配に盲目になる傾きを鋭く指摘した。一方、一部のエリート女性も「よき妻、よき母」の自覚もまた、男に評価されることを誇りとする「女の歴史性」のなかにある。こうしてリブ派は、人間として生きがたいゆえにぶざまに「取り乱す」無名の「ドジな女たち」に寄り添い、男社会を駆動する効率と差別の論理を撃つ「おんな」性を確立しようとする。
 田中美津が語っているのはすべて本当のことだ。感銘を受けた。この立場の正当性は、後の新自由主義に対する対抗性においてもなお輝きを保つだろう。とはいえ、私見では、その情念の豊かさにも関わらず、リブ派は「無名の女たち」が生涯、担うほかない仕事についてはなにも語らなかった。おんなの論理の視野は、労働と職場のありかたに関する根底からの批判、生産点における性別分業の克服論、男と女の新しい協同のイメージにはいたらなかたようである。リブ派はまじめなキャリアーウーマン、仕事に後ろ向きの事務OL、働き者の主婦パート、総じて単純・補助労働を「被差別者の自由」をもってやりすごす女性たちを、それぞれどのように評価し批判するのだろうか。正当にも無名の女たちに依拠することと、悲劇的にも労働のイメージを欠くことの矛盾に立ちすくむのは、どこまでも労働ということに執着する私のみだろうか?

 それからおよそ15年後に刊行された『女性労働と企業社会』(岩波新書、2000年)は、この枢要のテーマをめぐる私の再度の挑戦の試みであった。
 その15年ほどの間には、能力主義管理の進行に連動した男女雇用機会均等法とその改正、やがてその比率が50%を超えるまでの女性労働者の非正規雇用への集中、しかし他方では住友三社のヴェテランOLたちの仕事内容・昇格・昇給の性差別に抗う裁判闘争の展開などがあった。これまでの性別役割分業と企業内の性別職務分離の大枠はなお「健在」ではあれ、その変容は明かであった。
 そんな変容を汲んで2000年の著書は、広く「企業社会のジェンダー状況」、「男の仕事・女の仕事」(性別職務分離の論理と実態)、「女性自身の適応と選択」、「ジェンダー差別に対抗する営み」を網羅している。それらの内容の詳細は省略するほかはないけれど、分析視角として、私が重視したのは、その1には、能力主義管理・改正雇均法のもとでの女性労働内部の階層分化であり、その2には、上の分化に応じた女性労働者の主体意識、労働観・生活意識の多様化であった。それぞれ一枚岩の<男VS女>の時代ではもうなくなったのである。
 その1。企業は雇均法を梃子に、従来の性別待遇の非効率性を克服する能力主義管理を一挙に進めようとしていた。能力主義管理とは、「人材」として「だめな男とできる女の交換」にほかならない。こうして、「ぱっとしない」中高年男性がそれまでの優遇の特権を失うとともに、高学歴の意欲的な女性の一定層が総合職や専門職として台頭するようになった。「一定」というのは、新時代でも、住友三社の裁判の軌跡が明らかにしたように、総じて女性の能力発揮の機会や条件がよく整備されたとはなお言いがたいからだ。しかし女性はすべて単純労働や補助労働に閉じ込める企業の慣行は崩れた。仕事そのものにやりがいを感じる「エリート」女性が増えつつあったことは否定できない。 
 とはいえ、この新しい労務管理は、従来、「高望みすることなく」それなりに安定的に単純労働や補助労働を担ってきた正社員OL層を、派遣・契約などの非正規雇用者のグループに追い込む。この層に、家事・育児・ケアとともに家計補助の収入は確保する多数の主婦パートを加えて、しばしば貧困を強いられる下層女性労働者が、ここに累積することになる。もとより、上述のエリート層よりは、このノンエリート女性労働者層のほうが遙かに分厚い存在なのである。
 その2。エリート層のうち、それほど仕事の効率性は問われない対人サービスの専門職の場合をさておけば、事務・企画・営業などの総合職に勇躍し進出した女性たちについては、その意識は能力主義的競争の肯定であり、「もう男だ、女だって言ってる時代じゃない」、性差別はすぐれて学歴や能力や「やる気」の違いから来ると考えがちだ。確かにこの時代の性差別は、基本的には性差そのものよりも能力主義的選別が生み出すものになったとは言えよう。女性エリート層はむろんジェンダー差別に批判的だ。だがその反差別は、上野千鶴子/江原由美子編の『挑戦するフェミニズム』(有斐閣、2024年)が、現時点の課題としてグローバリゼーションとともに批判の対象とする新自由主義的フェミニズム(リーンイン・フェミニズム)に傾斜する。また同書に寄稿する金井郁が、課題とするのは、「能力」の機会と内容の内実を問う日本企業の能力主義管理への批判にほかならない。
 一方、多数派のノンエリート女性労働者層は、やはり、次のような「新性別分業」システムのうちに閉じ込められている。
【男性】①主に正社員/②長期雇用と昇給と相対的高賃金/③長時間労働/④主として総 合職・管理職/⑤仕事態様の柔軟性/⑥家事・育児・介護の免除】
【女性】①非正規用の高い比率/②短勤続・昇給の停滞または欠如・低賃金/③家庭の事 情で「選べる」労働時間/④主として単純労働または補助職/⑤雇用量の柔軟性(企業 都合の雇用調整)/⑥家事・育児・介護の義務――加えて家計補助の稼ぎ】
 上の定式の「主として」という部分に旧体制のいささかの揺らぎは認められるかも知れないが、なおジェンダー差別の牢固たる厳存は疑いを容れない。あまりにも過酷な個人の体験は司法や行政によって救われることはあれ、非正規雇用者の比率が高い彼女らは、ジェンダー差別に挑戦する労使関係的または社会運動的な方途をもたず、可能なかぎり<被差別者の自由>を求めながら、総じて鬱屈の毎日を過ごしている。エリート層とは異なり、ノンエリ-ト女性にとっては「いつになっても男は男、女は女よ」というのが実感なのである。
 くりかえせば、ノンエリート女性たちは、家庭では家事・育児・ケアの圧倒的割合を引き受け、ある「息抜き」にはなるという職場での底辺作業を担う。家庭と職場を貫くこの性差別がなお日本の企業社会にとって枢要のものであることを彼女らは覚っている。だが、さしあたりどうしようもないのだ。2000年までノンエリト女性の意識を探ってきたあげく私には結局、彼女らは家庭でも職場でも「私が今ここで耐えればとりあえずすべては収まる」という、いわば我慢を心ばえに生きているように思われる。その「我慢」はおそらく、なお「ガラスの天井」を痛感するエリート女性層にも共有されているはずである。

 それからすでに四半世紀を経た現在まで、さらにいくつかの状況変化があった。その結果、プラス・マイナスを差し引きして、女性の生活はさらに厳しくなっているように思う。
 家事や育児やケアを顧みない男性サラリーマン規範が揺らぎはじめたことはある。けれども、より決定的には、昇給停滞ばかりか非正規雇用化が、女性に留まらず、男たちの職業世界にも広く深く浸透し、女たちを差別するかわりにそれなりに保護し扶養してきた男たちの経済力が著しく減衰した。経済的な理由による未婚率の高まりや単身世帯の増加もその反映である。一方、男たちの貧困化にもとづく焦りと鬱屈は、核家族の内部にも新たな緊張を醸しだし、DVの激増や育児放棄や離婚の増加をもたらしている。
 このような社会と家族の内部的な変化によって、女性の働く主たる目的が、従来の家計補助から家計支持に変わった。シングルマザーを典型例として、今や女性は自分の稼ぎで食ってゆかねばならなくなったのだ。だが、労働運動の衰退もあって、ひたすら非正規雇用の拡大に奔る企業が許す賃金は、そのような女性の生活ニーズに応えるものではなかった。結局、以上の総結果は、ノンエリートの女性労働者を代表とし、冴えない男たちの大群に取り囲まれる、貧窮に喘ぐ広汎なワーキングプアの累積であった。
 上述の新性別役割分業における「我慢の心ばえ」も、もう限界に来ている。もう我慢することはないのだ。ペイエクイティ・同一価値労働同一賃金、非正規雇用の「入り口」の法的規制、ケアワーカー=エッセンシャル・ワーカーの労働条件保障、企業の枠を超えた非正規労働者の組合結成と団体交渉など、状況に憤り、頭(こうべ)をあげて要求すべき課題はもう出そろっている。 けれども、なによりも前提として不可欠な課題は、ノンエリ-ト女性と、今や企業社会の特権的な保障を失ったノンエリート男性とが、協同・共闘する思想と組織を構築することにほかならない。

注記:『女性労働と企業社会』は、小森陽一、成田龍一、本田由紀の三氏によって、戦後10年ごとに3冊の岩波新書を選んで評論する企画の「第6章 1995~2005年」に取りあげられ、その思想性や状況と個人の体験とを往還する筆致に及ぶ、懇切な「鼎談」に恵まれた(『岩波新書で「戦後」を読む』(岩波新書、2015年)。労働研究ではなく、文学史、近代史家、教育社会学を専門とする方々からまことにゆきとどいた理解をいただいたことは、「書評体験」のなかでもとりわけ心の躍るものであったゆえ、あえてここに紹介したい。

その14 日本的能力主義の解明     (2024年10月10日)

 『日本の労働者像』(筑摩書房、1980年)の出版以降、私は企業社会に生きる労働者の遭遇したさまざまの試練を、職場あるいは特定階層の現代史として、さらには個人の体験史として、具体的に分析・描写することに専念した。東芝府中の人権裁判などへの関わりを通じてパワハラに関心を寄せはじめたのも、遅まきながら女性労働の軌跡に立ち入って性差別の執拗さに注目するようになったのも、この頃からだ。それらの考察は、『職場史の修羅を生きて――再論 日本の労働者像』(筑摩書房、1986年)にまとめられている。
 その過程で痛感したのは、日本の労働組合運動のまぎれもない衰退であった。私にはその衰退は、90年代にはあらわになる賃上げ機能の弱体化にさきがけて、仕事そのものと職場のなかま関係のありかたへの労働者の発言権・規制力の著しい後退、すなわちそれらに対する経営権の浸透を起点とするように思われた。個々の労働者の労働条件の決定についておよそ労働協約の介入を拒む<個人処遇化>と、それは言い換えてもよい。そうした傾向の大元こそはそして、1960年代半ばごろに姿を現し80年代、90年代を経るにつれて次第に定着するにいたる日本的能力主義管理にほかならない。結局、企業社会での従業員の働き方の経営主導性を確立したのは、この日本的能力主義の労働者への要請であり、労働者多数・企業別組合によるその基本的受容であった。
 日本的能力主義管理の労働者への強力なインパクトを私が総合的に検証した著作は、ようやく1997年刊行の『能力主義と企業社会』(岩波新書)である。遅すぎたとはいえこの新書は、当時、先駆的なプロレーバーの能力主義論と評され、私の著作としては最大の10万部以上の販路をもつことができた。その骨格はおよそ次のようである。

 日本企業に特徴的な能力主義管理が従業員に求めるのは、①今の仕事の種類、範囲、標準的な仕事量、勤務地にこだわらない「柔軟な」働きぶり、フレキシビリティと、②そこから派生する「会社の仕事を第一義」とする<生活態度>である。
 ①は要するに、労働者は会社の望むように働けとうことだ。それはすでに述べた<仕事遂行における経営専制=労働者の規制力欠如>の結果でもあり原因でもある。そればかりか、①と②を合わせ考えれば、企業の必要に応じて過重ノルマ・過度の残業・頻繁な転勤などを引受けることができるのは、そうした生活態度でやってゆけるのは、家事、育児、介護など無償のケア労働をまぬかれ、それらを「主婦」にさせている男性正社員のみなのである。この能力主義ははじめから性別役割分業・ジェンダー差別を前提にしているのだ。日本的能力主義管理下のサラリーマン生活はひっきょう、男にとってはもとより女にとっても、きわめて拘束的であった。
 この日本的能力主義にもっとも適合的な賃金システムは、査定つきではあれ年齢照応の年功賃金でもなく、経営側がある局面で導入を試みた職務給でもなく、職能給であった。そこでは、正社員は年功制度に包摂されながらも、「潜在能力」の開発と発揮を個人査定され、いくつかの昇給線上の職能等級の階梯のいずれかに位置づけられて支払われる。職務のグレードアップ、つまり昇進はなくとも、潜在能力の向上によって昇給はある。それは、戦後初期の自動昇給的年功賃金が昔日のものとなった時代における、紛争を回避した高度成長期の労使の大いなる妥結点であった。多くの労働者と企業別組合は、会社本位のフレクシブルな働き方を承認するかわりに、雇用保障とともに、年齢段階別の生活費の上昇を賄う昇給の一定の保障は確保している。経営側にとっても、技術革新に素早く対処するためにも、個々の担務内容の頻繁な変動をそのつど賃金差に結びつけるよりは、大まかな潜在能力と昇給を対応させるほうがよいと判断したのである。
 
 とはいえ、労働者・労働組合の日本的能力主義の受容の土台には、このような労使の戦略的な選択よりも根深い、前回までに論じてきた日本の労働者像の思想と心情が潜んでいるように思われる。くわしくくりかえすことは避けたいが、日本の労働者は、伝統的に、国家の要請への順応だけではない主体的な選択としても、労働者間競争の承認、階層上昇への不断の願い、「下積みの労働者」からの脱出志向、「庶民的開き直り」の忌避、そしてそれらと不可分の「現在の立場のままで生活向上と発言権を獲得する」思想、産業民主主義への信頼の稀薄さにおいて、ある意味で特異な人間像を刻んできた。この勤勉な人びとには、欧米の組織されたブルーカラーに特徴的な、競争主義・個人評価のメリトクラシーにつよく反発する思想はない。日本の労働者は個人の力量やがんばりが評価される能力主義に特有のなじみを感じてきたのだ。戦後の国民平等の思想も、消費生活の標準化要求に留まり、総じて労働現場の働き方の共通規制の樹立志向とは無縁だったということができる。
 多数派労働者の連帯的抵抗をうけなかった日本の能力主義管理はこうして、80年代以降、じりじりと企業社会に浸透し定着していった。その過程で年功制の一要素でもあり能力主義管理と表裏一体のものである人事考課の役割はいっそう強化されてゆく。細かくみれば、多面的な査定項目のうち、とくに客観性の疑わしい「情意」(責任感、積極性、規律遵守、協調性)の比重は弱まり、ノルマ達成の秤量基準となる「実績」の比重が強まったかにみえる。だが「潜在能力」の評価を中核とする評価の3項目はやはり健在であった。そうした多面的な個人査定は、昇給や賞与や昇格に大きく左右するゆえに、従業員の職場内外の生活を支配し続けた。
 そのうえ、やがて人事考課に目標面接制度が加えられたことのインパクトも無視できない。それは、上司との個人面談のなかで労働者が「君ならもう少し背伸びしてもいいじゃないか」などと誘導されて、より高度の能力の開発と達成を「約束」してしまう制度である。典型的な<強制された自発性>の世界。この上司との面談によって、きびしい仕事量も押しつけられたものではなく、労働者の「自己責任」とされるわけだ。この目標面接は、日本企業の誇る作業管理――P(プラン)D(行動)C(チェック)A(改善アクション)の連鎖に組み込まれ、労働時間の法制などをさておけば、働き方についての労働者の連帯的な職場規制をほとんど不可能にしたのである。
 この連鎖への統合は、日本企業の現場レベルのすぐれた効率性確保の完成形態であった。
だが、それこそが過重ノルマ、過度の残業、パワハラの脅威、メンタルクライシス、過労死・過労自殺などの最大の背景にほかならない。くりかえしいえば、それらは労働条件の<個人処遇化>のもと、<個人の受難>として現れ、<個人責任>が問われる。けれども、かつての高度経済成長が昔日のものとなった90年代にもなると、能力主義管理が唆してきた従業員の競争と選別は、正社員のなかに、昇給・昇格もできず、雇用保障も危うい多数の人びとを輩出するようになった。「能力主義を選択した日本にワークシェアリングは無縁ではないでしょうか」と嘯く有能なサラリーマンもなお少なくなかったとはいえ、<個人の受難>は本当はまぎれもなく労働者階級の受難だったのだ。だが、長年、能力主義管理のもとでさしあたり<個人の受難>をまぬかれてきた従業員の多数は、組織的抵抗が必要となる、例えばリストラ期を迎えたとき、それまでの労働者間競争への投企がなかま関係をばらばらに分解しており、連帯的抵抗はもはや不可能であることに突然、気づかされたのである。とどのつまり労働組合運動は存在意義を疑われるようになった。敷衍すれば、近年、およそ「労働問題」の解決者として労働組合運動、産業民主主義の復権に期待する論調は、左派の研究者にも、当の労働者にも、ほとんど見当たらないようである。

 人事考課や能力主義管理の「効用」は、経済政策としての新自由主義の支配のなかでいっそう時代の合意となりつつある。それだけに、日本の主流派の正社員労働組合が、それらに正面から対決することはもうできないだろう。けれども私は、にも関わらず、いやそれゆえにこそ、ユニオニズムへの次のような「後退戦」への期待を述べることをもって、この暗鬱な議論をいったん閉じるほかはない。
 まずは人事考課について。労働組合は、経営の一方的な運用に介入して、少なくとも、「A氏の給料は40万円、B氏の給料は25万円であるが、なかまたちはその差15万円がなぜ生まれるかをわかっており、その根拠を納得している」――そんな査定制度に変えるべきである。
 そして、能力主義管理については、それを絶対視せず、働きやすい職場に向けて次のような3点を追求したい。
 ゆとり:性、年齢、婚姻状態、健康状態を問わず、休暇の法的権利を確保でき、少なくとも70歳ごろまでは働けるようにすること
 なかま:雇用身分を問わず、傍らの同僚と助け合い、庇い合い、誰にとっても職場を居心地のよい界隈とすること
 決定権:遂行している仕事の遂行方法やペースや負荷に関して、現場の職場集団や労働者個人が少なくとも一定の裁量権を確保できること。
 こうしたことは、日々の労働に生きる人びとが自然に願うことだはないだろうか。そのようであれば、私はここに定着し、経験の力を蓄えることができる、と思うのではないか。ちなみに『能力主義と企業社会』の終わりに述べた<ゆとり・なかま・決定権>の三点は、ある有力なコミュニティユニオンの運動方針とされたことがある。
 しかしながら、現代の労働問題を全面的に論じるには、むろん男性正社員の受難の凝視のみではまったく不十分である。それなくして企業社会システムが成立しない階層であり、
能力主義の時代にここでも大きな変化を遂げた階層である女性労働者と非正規労働者について、私なりの考察をつないでゆかねばならない。それが「労働研究回顧」の次回以降のテーマとなる。

立憲民主党雑感(2024年9月26日)

 早朝、ようやく咲いた彼岸花の小堤や旧東海道を散歩しながらこんなことを考えた。
 野田佳彦と側近たちは、「中道保守」路線をとれば「国民は安心して」投票してくれると考えているらしい。これからの立憲は、集団自衛権・敵基地攻撃能力強化・軍事費増額・沖縄の辺野古基地建設・原発回帰などについて自民党に対決することはないだろう。維新や国民民主や連合幹部はいっそう、一緒にやりたいなら「もっとこちらへ(右へ)おいで」と流し目で誘惑する。立憲が自民党と違うところは、裏金・金権政治の打破と夫婦別姓の制度化くらいになるのだ。前者は議会秩序を危うくするほどの大胆さがなければ闘えず、後者は、安倍の亡霊の巫女のごとき高市早苗が明日まかり間違って自民党総裁にならない限り、争点ではなくなるだろう。
 そもそも政策において野党が支配政党とあまり変わらなくなれば、国民が野党を支持する理由がない。選択の判断が同じような政策課題を達成するにどちらが技術的に長けているかになる、そうなれば官界に「顔を効かす」経験をもつ今の支配政党のほうが望ましいという結果になるからだ。この憂鬱な関係に逆転をもたらす隘路は、支配政党が極端な「へま」を犯すことである。立憲民主は裏金問題こそがその隘路であり、国民の怒りが沸騰している今こそその隘路を通ることができると読んでいるかにみえる。
 この判断は甘いと思う。韓国ならば、度しがたい裏金への憤激は連日の何万という大デモを引き起こしただろう。だが、長年の自民党の金権政治に慣れっこになってしまったシニカルな日本国民の裏金への怒りの熱量は、大規模な市民行動を呼び起こすほどではなかった。いま野党共闘の困難はさておいても、政策上の対抗性の乏しい野党が自民党支配を覆す「隘路」を進みうる可能性は乏しい。来たるべき総選挙で政権交代が生まれる見通しは、遺憾ながらほぼ絶望的である。
 ほんとうのところ、生活改善のため政治行動や労働組合運動の方途を見出せていない中下層の国民多数は、貧窮に呻吟し、根深い生活保障と戦争への不安に苛まれている。その方途を見いだせれば、多くの国民の「中道保守」への投げやりな支持は一気に雲散霧消するだろう。議会制民主主義のいずれの国でも、国民は「穏健」や「中道」を支持するとは限らないのだ。さしあたり「出口なし」に見えるとはいえ、理想を旨とする野党はいま、敵失を期待した隘路ではなく、オルタナティヴの正道こそを追求すべきだろう。それゆえ、せめて立憲民主に残るリベラル・左派の枝野派は、「代表代行」などに祭り上げられることに甘んることなく、立憲民主本来の政策理念に固執して野田支配に対して絶えず叛乱するよう期待したい。そして、その本来の政策理念をかなり共有する社民党や共産党との共闘をやはり模索してほしいと願うものである。
(付記:この記述は石破政権成立直前のものだが基本的に主張内容の変更は必要あるまい)

誕生日を迎えて(2024年9月23日)

 9月21日、86歳の誕生日を迎えた。このたびの「認知症基本法」によればこの日は「認知症の日」らしい。苦笑するほかはない。まぁ同じ年の妻とともにMCI(軽度認知傷害)の門口には来ているのかなぁと思うこの頃だからだ。FBではほぼ70人ほどの方から誕生日メッセージを頂いた。そのうち15人ほどの友人の言葉には、総じて「老いの一徹」みたいな私の発言にもまだなにがしかの意味はあるのかもと感ることができて、元気づけられる。
 それでも、この1年ほどの間に、私の社会との公的な関わりはすべて終わったと思う。著書の刊行、論文や書評の執筆、マスメディアのインタビューなどの、おそらく最後の機会は、不思議にこの1年に集中した。もう社会的な発言が求められる可能性はほぼないだろう。今後はエッセイ「労働研究回顧」などをFBやHPに気ままに綴るだけである。ただ、この10月はいささか緊張して迎える。月初に懸案の妻の不整脈・心臓弁膜症の治療方針(検査入院、施術など)が決まるばかりか、中旬には社会政策学会書評分科会で最後の著書『イギリス炭鉱ストライキの群像』(旬報社)が取りあげられるのにかこつけて妻とささやかな観光を楽しむため、大分旅行を「敢行」する予定だからである。
 そのために、当面は、ふたりの体力を維持するため、相互ケアのパンクチュアルな日々を送る。30分~1時間ほどの早朝ウォーキング、時間を限定した庭の草取り、食欲の出るような食事の用意、週にいちどほどの外出・・・といった、まことに地味な生活である。TVで見るのは1時間以内のドキュメントが多いけれど、かなり貯蔵しているDVDで2.5時間~4時間近い名画の大作を見るのは私たちの大きな楽しみだ。そういえば、21日、「誕生日記念」として深夜まで見たのは、愛着このうえない『ドクトル・ジバゴ』だった。その起伏に満ちた物語の魅力、その語りの完全な説得性、ラーラ(ジュリー・クリスティ)の優しさと心意気、美しい風景と音楽。なんというすばらしい作品か。今回あらためて注目したのは、D・リーン監督の細部の心配りとともに、ロバート・ボルトのシナリオの卓越であったが、思えば私は半世紀も、こんな映画に人間と社会の光を教えられて生きてきたのだ。ともあれ、雨戸をあけ雨戸を閉める間に、日記に何か特記できることをひとつはやりたいと思う。
 最近のスナップ写真をいくつか。①9.15脱原発四日市行動でリレートークする私/② 名古屋の地下鉄で知り合ったネパール人家族/③大好きな喫茶店、名古屋芸文センターならびの倉式珈琲でのランチ/④矢場町のセンチュリー劇場で時間待ち/⑤書斎の日常。2011年ミャンマー旅行で買ったTシャツをまだ着ている。

その13 日本の労働者像をもとめて(4) 戦後民主主義と労働者思想の転轍

 戦争にまきこまれ、圧倒的多数の国民は、あまりにも悲劇的に、幼少時から教え込まれた天皇制のタテマエに殉じて、かけがえのないほとんどのものを失った。けれども、「民主主義が与えられて」労働組合活動が公認されたとき、労働運動は、「燎原の火」のように燃え広がった。では、その労働運動に日本の労働者はどのような思いを込めたのか? 彼ら、彼女らの戦前から内面化されていた天皇制に対する思想と心情はどのように変わったのか? 日本の労働者像の解明にとって、それは不可欠な検討課題であるが、私の懸命の考察は次のような道行きを辿る。
 一般的にいって、権力体制に文化的な資源、概念、言葉を奪われてきた人びとが、体制が瓦解したとき、それまでの権力の統合理念を、異端の宗教をもって正面から撃つ思想を掲げることは稀である。人民の新しい思想はむしろ、それまでの体制が国民統合に用いてきた論理の欺瞞性、すなわち理念と実態の矛盾を追及するかたちをとるように思われる。
 まして日本の場合、異端のキリスト教に殉じた唯一の大一揆、島原の乱のような叛乱も、ひとり戦前から天皇制の廃棄を掲げてきたコミュニスト主導の革命も、持続的な大衆運動としては考えられなかった。それゆえ、労働運動をふくむ戦後革新思想の現実的なルートは、天皇制のタテマエの平等と、権力者のホンネである徹底して差別的な階序の不平等との懸隔を是正または粉砕することに赴いたのだ。天皇制が四民平等・能力による人材登用、組織のすべての成員の公平な処遇などを唱えるなら、その理念を本当に実現してみよというのである。
 戦後の革新勢力や労働運動がまず要求したのは、それゆえ、まずもって<国民としての平等>であった。戦前では、実態として「職工」は蔑まれ、貧しい生活を強いられ、生活改善に声をあげることは許されなかった。これは「天皇制の理念の裏切りではないのか。労働者も国民としてふつうの生活を!」。それとともに、国民である以上、社会的なミニマムの生活が保障されなければならない・・・。それは当時の世界的な動向である福祉国家論に沿う発想でもあり、天皇制の平等のタテマエを掲げてきた日本の支配層も、「社会主義にまで行かなければ」否定できない考え方であった。皮肉な表現ではない、戦後の労働運動は、「人間宣言」で逃れた昭和天皇をもはや神と信じはしなかったが、天皇制のもと理念上でのみ「平等」だった「臣民」を、実態として「一億総中流」に変えようとしたのだ。政財界も、およそ1980年代後半以降までは、福祉国家や、格差を公認する「階層別ライフスタイル」の否定を公然と唱えることを控えるほかなかった。「貧乏人は麦を食え」は禁句だったのである。

 <国民としての平等>論は、企業社会を基盤とする戦後企業別組合の<従業員としての平等>論により具体的に現れている。その後の推移もふくめ、少し具体的に紹介しよう。
 その1は、高学歴のホワイトカラー「 職員」とブルーカラー「工員」の差別撤廃である。年功制といっても、それまでは両者の間に、賃金の額と形態、労働時間管理、企業内福利施設の利用などに大きな格差と差別があった。これはおかしい。「従業員としてのステイタスを同等にせよ!」 この要求はほぼ実現し、呼称も、さまざまの変遷を経てとはいえ、70年代には「社員」に統合されてゆく。
 その2。戦前の年功制では、年功賃金といっても、社内には雇用身分、学歴、職群、性などによるさまざまの昇給線があり、上司の恣意的な査定による個人格差もあからさまであった。だが、「同じ従業員であるなら同じように生活できる賃金が年齢段階別に保障されなければならない。年功賃金は基本的に同一の、譲歩しても職群別同一の、自動昇給であるべきだ・・・」。年功賃金の戦後労働者的解釈というべきか。生活の維持を重視すれば、賃金は年齢によって上がるのが正当なのだという主張である。
 この年齢別賃金論は、「職工差別撤廃」とは違って、戦後初期の左派労働組合によって一定達成されたとはとはいえ、すぐに昇給線の分断や査定昇給を手放さない経営側の執拗な反撃を受け、紆余曲折を経て、60年代半ば、能力主義管理の一環としての職能別賃金制に収斂し、これが日本の代表的な賃金体系になる。その後、かねてから労働論壇の一角にあった同一労働同一賃金論が、性差別・非正規差別反対運動の台頭とともに「同一価値労働同一賃金論」に発展していっそうの説得性を高めているとはいえ、それはいまだ大企業正社員の職能給とか役割給の堡塁を揺るがせてはいないかにみえる。
 その3。年功制の枢要の輪である終身雇用というタテマエの最大の裏切りは整理解雇である。「この裏切りを許すな!」 戦前の大争議もそうだったが、戦後労働運動史を彩る、国鉄、海員、日立製作所、宇部興産、三井鉱山、日鋼室蘭、三井三池など、いくつかの大ストライキの主要なテーマは解雇絶対反対にほかならなかった。
 これら長期の闘いは、しばしば企業協調的な第二組合の生成をまねき、総じて労働組合側の敗北に終わる。けれども、「大争議は高くつく」ことを学習した企業は、その後、経済成長を迎えたときには、むきだしの整理解雇は控えて、企業経済に必要な労働力の弾力性の確保を、非正規労働者の活用、正社員の残業調整、配転・出向、退職金優遇の希望退職募集などによって賄う労務管理に転じてゆく。そうしたソフトタイプの人減らしは、企業別組合の整理解雇反対闘争の必要性をたしかに低めたが、同時に、その可能性も、労働者が能力主義管理による従業員の選別に順応してゆくにつれなくなった。こうして時が過ぎ、2000年代にふたたびリストラの季節が到来したとき、企業は人員整理を、ほとんど争議なく従業員の「個人処遇」として対処できたのである。

 最後に、以上の<従業員としての平等>の思想と戦略が、女性労働者を包括するものであったかどうかが問われなければならい。
 戦前とは異なり、憲法にも男女平等の理念が謳われた戦後民主主義のもとでは、組合の生活給・自動昇給、解雇反対の要求にも、公式には女性を直接に差別する要素はなく、女性もまた労働運動の新鮮な担い手であった。近江絹糸での労働組合の勝利は、戦前の総じてうつむいた自己表現をためらう「女工」を、人権擁護や女性の独自要求に昂然と頭(こうべ)を挙げるOLに変えたと言えよう。
 とはいえ、女性労働者の多数は、なお引き続き、「寿退社」の短勤続・キャリア展開のない単純労働・いくつかの重層的な要因による低賃金という「三位一体」の働き方のままであった。そして、性別役割分業を基礎にもつこのような間接差別に、「家族責任」をもつ男性労働者も内心では総じて肯定的であり、彼らを中心とする労働組合がこのシステムに挑戦する営みは乏しかったということができる。その見直しが始まるには、フェミニズムが社会的な説得性を高めるとともに、女性の職場進出が本格化し、ひいては年功制の安定性が揺らいで、働く女性が「家計補助」者から「家計の主要なまたは不可欠の支持者」になってゆく1990年代を待たねばならなかった。80年代前半の私もなおジェンダー・ブラインドであった。女性労働者も非正規労働者も40%に及ぶ今、彼女らを包括することがなければ、<労働者像>論の説得性の範囲はきわめて限られたものになるように思う。

 <日本の労働者像>を求めてきた私の思索は、不十分ながらここでひと一区切りとする。
 思えば日本の労働者が身に宿した思想と心情は、日本という国の近代史が彼ら、彼女らに課した過酷な体験の反映そのものであり、それだけに外在的な批評を拒むほど内在的で必然的であった。戦後民主主義の世になって、それは<国民としての平等>、<従業員としての平等>、すなわち平等へのつよい願いとして展開する。
 日本の労働者は長らく、他の先進国とくらべても、実直な仕事に前向きの働き手だった。しかし、この真摯な人びとの思想や心情は、欧米の労働者、とくに組織労働者と著しく対照的である。国家社会の枠組みに軌道を強制されたとはいえ、彼ら、彼女らは主体的な選択としても、労働者間競争の受容、階層上昇への不断の願い、「労働者階級」からの脱出志向、「庶民的開き直り」の忌避、そしてそれらと不可分の「現在の立場のままで生活向上と発言権を獲得する」思想、産業民主主義への信頼の稀薄さにおいて際立った人間像を刻んでいる。
 私の描くこのような労働者像が、戦後史の各段階を通し世代を超えて継承されたということはもちろんできないだろう。経済環境、雇用形態、ジェンダー意識の変化を考慮したより精密な労働者意識の戦後史が必要である。しかし、とりあえずこうは言えるのではないか。
 新自由主義が席巻した1990年代以降、世代的には「団塊ジュニア」以降、伝統の労働者像そのものに大きな分断が生まれたと思われる。2000年代はじめの氷河期の就職戦線に成功して大企業、中堅企業の正社員になった相対的に少数の人びとは、総じて上述の日本に特徴的な思想・心情の多くを保持した。だが、男女を問わず、就職においてが失敗して、労働条件の劣悪な企業や非正規雇用で働くようになった多くの人びとはもう、階層上昇の熱意や階級脱出志向はもたず、どちらかといえば消極的な仕事観で、不安定な下積みの労働を日々引き受けている。といっても「勝ち組」が信奉する競争関係は厳存し、時代の「自己責任論」の常識化によって「この不成功は自分の責任」とみなされるゆえ、「庶民的開き直り」もできないのである。
 けれども、確実なことは、皮肉にも組織労働者であることの多い安定雇用「成功者」にも、未組織の下積み労働者にも、産業民主主義の思想、労働組合運動によって生活と権利を守る思想の稀薄さが、世代を超え、男女を問わず、継承されていることにほかならない。それは日本の労働者の精神史を貫く負のレジェンドということができる。
 格差社会化が深化する新自由主義の支配する、2020年代半ば、抵抗の発言権の弱々しい労働者の世界をみるとき、伝統の日本の労働者像の思想と心情の内在的な由来を理解できるだけに、私はこの労働者像の造型が喪ったものをやみがたく哀惜し、喪ったものの復権をひたすら願うのみである。

その12 日本の労働者像を求めて(3)  日本唯一の労働社会・企業社会への道

 職業社会も地域一般労働社会もなく孤独な稼ぎ人であった日本の労働者を、相対的に安定的な居場所と可視的ななかまを見いだすことができる労働社会に帰属させたものは、直接的には、大正末期から昭和にかけて大企業がうちだした年功序列制・年功的労務管理ということができる。
 その年功制の構成要素は主要には選抜採用された正規従業員の長期雇用の「約束」、勤続や年齢を評価する昇給制、副次的には退職金や企業内福利である。それに、1931年の満州事変の頃から上の諸要素に臨時工制度が加わり、賃金総額と雇用人数の弾力性の要請が満たされるようになって年功制は完成する。もっとも、出稼ぎ後にはふつう帰郷して短勤続のうえ賃金もわずかの時間給の「女工」は、もともと企業社会の外なる存在であり、彼女らが、臨時工とともに、年功的労務管理の対象とされることはなかった。以下、労働者とはもっぱら男性のことと想定して議論を進めよう。 
 年功制の構造的な背景は、外来の近代技術を用いる新旧財閥系の大企業と、都市や農村のマニュファクチュアや手工業に発する多数の中小企業との「二重構造」であり、その間の大きな処遇格差だった。一方、農村からは企業のプル・農家の口減らしのプッシュに応じて地位の不安的な出稼ぎ型、半農型のプロレタリアがにじみ出ていたけれど、農村はいつも潜在的過剰人口が重く滞留する労働力の給源だった。そんななか、選ばれて大企業の養成工となり年功制度に入ってゆくことは、高小卒の若者にとって得がたい成功の道であった。 
 こうしたなか労働者の年功制の受容はまことに自然である。まず、それまであらゆる意味で定着性のなかった労働者は、企業社会ではじめて、集団労働のなかで自分の仕事ぶりが他人の仕事の苦楽と密接に関わっているなかまを見いだすことができた。また、そこでは、明治以来推奨されてきた立身出世主義の、自分にも現実的な成果を、まじめに長勤続して企業の職務階梯・ステイタスを一歩づつ歩むことのうちに見通すことができた。それに、誰にもひとしい加齢にそれなりに報いるという年功制のある種の平等性も、「四民平等」の理念に適合的なように思われた。それになによりも、年功賃金は広汎な低賃金の海のなかに浮かぶ島のような相対的高賃金であり、労働者が貧困の生活を脱出する具体的な方途だったのである。
 けれども、大企業が年功的労務管理のなかに忠実な従業員を取り込もうとしたのは、労働者のもうひとつの結集体である労働組合、とりわけ企業横断の労働組合の団体交渉を断固として排除するためであり、その成功はその排除の結果であることは決して忘れられてはならない。
 たとえば1921年の6月~8月、総同盟神戸連合会傘下の神戸三菱・川崎造船所の労働者は、いくつかの機械企業をも巻きこんで、賃上げや時短とともに「横断組合の承認」を求め、ストライキ、怠業、工場管理をふくむ、約3万人の参加する45日間の闘いを敢行した。この大争議はしかし、産業民主主義をどこまでも拒否する企業と国家に抗い続けることができず、1300人が解雇され、100人もが収監されて「完敗」するにいたる。労働者は結局、企業外に労働社会、なかまの絆をもつことがゆるされなかったのだ。この象徴的な事例、横断組合の承認をめぐる資本の勝利・労働者の敗北が、それ以降の大企業の年功的労務管理の普及に影響し、そこに帰属してゆく労働者の心情にはるかに木魂している。

 日本唯一の労働社会、すなわち年功制度の大企業への服属として形成された企業社会は、イギリスやアメリカの労働社会とはさまざまな点で性格を異にしていた。
 二点ほどにまとめる。ひとつは、工場の塀による、つまり特定企業の正社員身分の有無による構成員の限定である。他企業の労働者、臨時工や社外請負工は、ときに地域の大規模な労働争議のとき連帯行動に加わることが皆無ではなかったとはいえ、日常的には、同じ仕事であっても「可視的ななかま」ではなかった。現在でも基本的に不変の、それは従業員の企業内意識である。
 いまひとつ、労働者の貧民の海からの「離陸」先は、多段階の地位序列をそなえ、本来的に刻苦精励の競争を強いられる企業にほかならならない。そこでは、競争制限や助け合いといった労働者文化の自立性がやはり脆弱だった。言い換えれば、経営者文化と労働者文化が未分化のまま、下層労働者、ベテラン従業員、下級管理者、経営者が一続きになっている。企業内は生得的な意味では無階級社会という想定なのだ。その「未分化」の自然な結果は、低学歴で昇進にも限度がある下積み従業員であっても、競争志向の能力主義になじみをもつようになったことである。こうして、よかれ悪しかれ、「庶民的開き直り」のあまりない労働者像が形成されてくる。「庶民的開き直り」とは、この職場のこの下積みの職務のままで生活を改善し発言権を拡大する、ここで闘うという思想である。こうした考え方の欠如が、「人材登用」・ 出世主義の鼓吹・ 産業民主主義の否認を一体のものとする国家規模の統治政策と適合的であることは、あらためていうまでもあるまい。
 企業に外在的な存在で自立的な労働者文化を培いうる職業社会や地域一般労働社会とは異なる、日本の労働社会・企業社会の負の伝統は、日本の労働者を、一介の労働者であるという立場を人生の一経過点とみなし、絶えざる上昇アスピレーションに身を投じる人びとに造型したということができる。
 もちろん、企業社会の外に放置された、およそ労働社会をもたない人びとがこの「造営」をまぬかれたわけではない。それは日本プロレタリアの共通の性格となった。ふつうの労働者のこの上昇アスピレーション志向は、そして、かたちをかえて、労働者一般にとっても「中流階級的」な生活向上がさほど虚妄でなかった戦後もおよそ90年代頃までは、労働者の心に執拗に生き延びたように思われる。顧みて思えば、労働者思想の自立性とは労働社会の自立性そのものであった。

 さて、労働者像の探求という叙述の流れを外れるけれど、ここで、天皇制のタテマエの理念(顕教)とホンネの実態(密教)との間の矛盾が、権力内部での対立を惹起し、それが体制の瓦解を招いた軌跡を、今では常識に属することだが、ごくかんたんにふりかえっておきたい。次回に述べる戦後民主主義のもとでの労働者思想の転轍を理解するためでもある。 
 国家の諸組織の上位ポストにある権力者たちは、むろん天皇制の「密教」の信者であったが、神である天皇の下では「臣民」は平等という、いわば神話的で幻想的な「顕教」のタテマエを公然と批判することは決してできなかった。それが「下々の者」に教え込んできた道徳の大元だったからだ。だが、この矛盾にに気づきながら沈黙を貫くことは、力ある勢力が、対外危機の局面で、まともにタテマエをホンネと信じこみ、双面神のはらむ欺瞞性を撃つ「密教の顕教征伐」に乗り出したとき、それに有効に対峙できなかった。力ある勢力とは、天皇統治の「補弼」ではなく、天皇専権の統帥権(軍隊を動かす権力)に直属する軍部にほかならない。そこでは天皇親政・国体明徴を奉じる「尉官以下」の軍人が、欺瞞性を突く「皇道派」を形成して暴走することになる。
 天皇制の階序秩序を守ろうとする「佐官以上」の軍人が属する密教信者の「統制派」は、二二六事件の弾圧に見るように「暴走」を一定チェックし、権力を維持しはした。しかし天皇制の理念を公然と掲げる皇道派の論理――といえるかどうか?――は、右翼の思想家や団体ばかりか、富裕層本位の堕落した政治を憤る庶民の応援を得ており、暴走のおそるべき惰力を止めることはできなかった。とどのつまり、統制派は皇道派の論理を表に立てた軍部独裁を通じて、政党政治・立憲議会制を崩壊させる天皇制ファッシズムを樹立する。こうして日本帝国は、判断力を奪われた国民の熱狂と献身に支えられ、「八紘一宇」のアジア侵略を経て無謀な太平洋戦争に突入する。日本人だけでも310万人、アジアでは何千万人もの生命が失なわれた。そして、「国体」維持にこだわって遅きに失した敗戦の結果、天皇制ファッシズムの体制は瓦解し、戦勝国アメリカの占領軍から日本人は民主主義を「与えられる」ことになる・・・。
 閑話休題。では、日本の労働者像の探求に立ち戻ろう。