その22 2020年のマイベスト 映画と読書

 (1)日本映画
コロナウィルスが猛威をふるう2020年。映画ファンの私は新作・旧作、劇場・自宅をふくめて実に165本ほどの映画をみている。外出自粛期の最大の恵みは、アンゲロプロス、フェリーニ、ベルトリッチ、D・リーン、今井正などの名作をふくむ、まさに「生涯ベスト」に属するような作品群のDVD観賞であった。そのうち『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ)、『真昼の暗黒』/『ここに泉あり』(今井正)などについては、国公労連の雑誌『KOKKO』連載の映画評論の場でくわしくその感銘を綴っている。しかしこのFB投稿では、劇場でみた新作に限ってベストを紹介することにしよう。 日本映画からはじめる。注目に値する佳作たちであるが、③以下はほとんど順不同である。

①スパイの妻(黒沢清)
②罪の声(土井裕彦)
③風の電話(諏訪敦彦)
④許された子どもたち(内藤瑛亮)
⑤糸(瀬々敬久)
⑥MOTHER マザー(大森立嗣)
⑦朝が来た(河瀬直美)

①は、戦時下の1940年、満州で目にした日本帝国の非道を知り、それを世界に公表しようと渡米を試みる貿易商(高橋一生)が、とまどいの末、彼に寄り添って生きようとする妻(蒼井優)ともどもスパイとみなされ、悲劇的な結末を迎える物語。歴史の闇をみつめる最近の邦画には稀にみる壮大な優品。女の心の変化を表現する蒼井優がすばらしい。②は子ども時代に犯罪に加担させられた人の生きてゆく苦しみを描いてかなしくも温かい。③は東北の津波であまりにも打ちのめされた少女が、人びととふれあうなかで成熟した女性として頭(こうべ)を上げるまでを描いて感動的。主演のモトーラ世里奈がとてもいい。④と⑥はともに、常軌を逸した「毒ママ」とママが大好きな息子との相互依存を描いて切実な佳作。⑥の長澤まさみは、評判の熱演ながら、なおいささか堅い感じ。⑥は高校時代に運命的に惹かれあった平成元年生まれの菅田将暉と小林菜奈が、時代の諸相に翻弄されて多くの失敗の体験を重ねた末ついに結ばれるというメロドラマながら、古今東西を通じたすぐれた恋愛映画が共有する、変化しながらも愛し続けるという特徴を備えている。

 (2)外国映画

①異端の鳥(バーツラス・マルホウル)――チェコ、ポーランド、ウクライナ 
②存在のない子供たち(ナディア・ラバキ)――レバノン
③パラサイト 半地下の家族(ポン・ジュノ)――韓国
④コリーニ事件(マルコ・クロイツパイントナー)――ドイツ
⑤オフィシアル・シークレット(ギャリン・フット)――イギリス
⑥カセットテープ・ダイアリーズ(グリンダ・チャーター)――イギリス
⑦レ・ミゼラブル(ラジ・リ)――フランス
⑧ジョジョ・ラビット(タイカ・ワイティティ)――アメリカ
⑨ジュデイ 虹の彼方に(ルパート・グールド)――イギリス
⑩スペシャルズ(エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ)――フランス

ミクロな視点で小粒の佳作からなる邦画にくらべて、外国映画のベスト作品群は、それそれの地域での歴史的悲劇や社会の格差構造への深くマクロな洞察を背景に人間の歓びや悲しみを鋭く描き出す。例え短文でもこの場ですべてを紹介し解説することは難しいので、上位作にのみふれると、①は戦時下の東欧、②は現代のアラブ世界を舞台に、少年の過酷な受難を徹底的に抉るまれにみる秀作。映像の美しさと対照的に、リアルでグロテスクな圧迫者たちのすさまじさ、ふつうの庶民たちが重ねる差別と排除の酷薄さに打ちのめされる。③は『ジョーカー』や『家族を想うとき』にくらべればいくらかけばけばしいけれども、韓国格差社会の様相を「おもしろく」語って飽かせない。④は、ナチスの残酷さをもういいだろうと黙過しようとする現代ドイツの法曹界を告発する感動的な物語。⑤は事実にもとづく。アメリカのイラク戦争に関わる極秘通信を傍受したイギリスのNASA勤務の女性が、その反戦思想ゆえにあえてジャーナリズムに暴露する。そこに始まる周囲の非難、拘束、行為の意味を考慮した裁判の末、ついに無罪になるまでのプロセスが描かれる。毅然たるヒロイン、キーナ・ナイトレイがさわやかに美しい。現代イギリスのパキスタン人、フランス・パリのアラブ人の苦境や成長、屈しない抵抗の姿を描く⑥と⑦も注目に値する。ああ、もっと語りたいけれど。・・・。

 (3)読書――社会・人文・歴史
 
 建設運輸連帯労組関生支部への刑事訴追裁判の鑑定意見書の執筆のために、夏秋には、多くの裁判資料ほかの精読に忙殺されたとはいえ、私の2020年の読書体験は貧弱だった。小説以外の分野で読了した冊数こそ38だったものの、そのうち労働研究の専門書はごく少なく、多くはルポや新書である。しかしともかく、テーマが意義深く、視角が新鮮、情報が豊富で学ぶところ多かった良書を摘記してみよう。

①デヴィッド・グレーバー<酒井隆史、芳賀達彦。森田和樹訳>
 『ブルシット・ジョブ  クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)
②森政稔『戦後「社会科学」の思想 丸山真男から新保守主義まで』(NHKブックス)
③片山夏子『福島原発作業員日誌 イチエフの眞実、9年間の記録』(朝日新聞出版)
④橋本健二『<格差>と<階級>の戦後史』(河出新書)
⑤山口慎太郎『「家族の幸せ」の経済学 データ分析でわかった結婚、出産、子育ての眞実』(光文社新書)
⑥本田由紀『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)
⑦藤野裕子『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)

 ①は稀にみる収穫であった。ブルシット・ジョブ(BJ)とは、本田由紀の巧みな紹介によれば、イ誰かに媚びへつらうだけの仕事。ロ誰かを脅したり騙したりする仕事、ハ組織の欠陥を取り繕う仕事、ニ形式的な書類をつくるだけの仕事、ホ誰かに仕事を割り振るだけの仕事だ。本書は、不思議に増えてゆくBJのくだらなさを、自分でもうんざりしている担当者からの詳細な聞き取りを通じて徹底的に暴露し、その由来を尋ねる。BJよりも遙かに労働条件の悪い真に不可欠な仕事の担い手たちへの共感が調査・分析の根底にある。私たちの常識を根底から揺るがせる、これはすばらしく示唆的な必読の大著といえよう。②はとても役に立つ平易な研究史。私にも懐かしいいくつかの書物の示唆を再認識させた。③は原発作業員の実態を報告する数多い文献中の白眉である。④は橋本ワールドになれた人にはいささか新味を欠くけれど、なんといっても「このテーマにはこの人」。研究の蓄積がゆるぎない信頼性を保証する。同じことは⑥についても言える。⑤は、左派、フェミニズムとは立場を異にしながら、統計の駆使によってクールに、常識的な女性への提言を一蹴する好著。また、テーマに惹かれて繙いた⑦は、近代史における民衆暴力の光と、直視すべき破壊的な暴力や排除という陰を描いている。読後感は私にはいささか苦い。
 ほかに文芸評論の分野では、当の作家の作品を広く読んでいるわけではないゆえ短評も難しけれど、①水溜真由美『堀田善衛 乱世を生きる』(ナカニシヤ出版)、②清真人『高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り』(藤原書店)、佐藤秀明『三島由紀夫 悲劇への欲動』(岩波新書)の3点が労作と感じられた。私の好きなジャンルであり、いずれも興味深く読むことができた。

(4)読書――小説

 いつも手放すことのなかった小説の読みも少なくなって、2020年には34冊ほどだった。そのなかでとくに惹かれた作品をいくつか紹介し推薦する。 

①川上未映子『夏物語』(文藝春秋)
②ジョゼ・サマラーゴ<雨沢泰訳>『白の闇』(河出文庫)
③『セレクション戦争と文学1 ヒロシマ・ナガサキ』(集英社文庫)
④『セレクション戦争と文学8 オキナワ 終わらぬ戦争』(集英社文庫)
⑤桐野夏生『日没』(岩波書店)
⑥『平家物語』(上)(中)(下)<中山義秀現代語訳>(河出文庫

 ①はイチオシ。中年近くセックスはいや、東京でひとり住まい、冴えない作家の夏子が、いらいらさせるほどあれこれと逡巡したのち人工受精で赤ちゃんを産むまでの物語。こう書けば身も蓋もないが、そこにいたるまでの間、大阪でのどん底の貧乏をともにした寛容な姉、クールな編集者、辛辣ながら情愛ゆたかなシングルマザーの流行作家、人工受精で生まれ実父を求める心やさしい男性、厳しいフェミニストのその恋人――そんなそれぞれに個性的な人びととふれあうようすや、度しがたい男のエゴイズムに遭遇してきた彼女らのドストエフスキー的な語りの迫力がリアルでどうにもおもしろい。女が人生の過程で選択を迫られる諸課題がいかに重く複雑なものか、その思いがずっしりと心に残る。
 ②は、すでにHPエッセイ(20年6月)ですでにふれているが、感染のすさまじさ、人びとの受難の耐えがたさ、そこから這い上る希望の歩み・・・などの描写においてまさにパンデミック文学の白眉といえよう。③と④は、ヒロシマ、ナガサキ、そしてオキナワに関する数多い秀作の短編集。とくに私の心をうつ作品は、③では大田洋子、林京子、井上光晴、後藤みなこ、小田実、④では長堂栄吉、大立正裕、吉田スエ子、日取眞俊、桐山襲の作品であった。⑥についてもいつかHPエッセイでふれたように、私はいくつもの現代語訳になじんだ「平家」好きで、物語は細部までわかっているが、なお、生々流転のなかにあるすべて固有名詞のある男たち、女たちの折々の立ち居振舞いに惹かれる。歌舞伎十八番のように私の古典である。⑤は、体制の「良識」に背反する女性作家が一方的に拘束され、虐待され、転向を迫られ、精神病者にされ、破滅するというこわい物語だ。あまりの「人権無視」に、グロテスクなおもしろさを超えて心がふさがってくる。これは現在のリアルではなく近未来のSFではある。しかし果たして「今」とは違うだろうか? 桐野夏生のそんなメッセージが耳の奥にきこえてくる。

その21 『労働情報』廃刊の風土と季節

 イギリスの労働組合運動がきわめて強靱だった70年代末か80年代初めの頃だったか、私の記憶に深く刻まれているこんな出来事があった。
 ロンドンのあるブティック。女性店員Jが上司から執拗なセクハラを受け、それを拒むと解雇通知を受けた。悩んだJが親友のKにどうしたらいい?と相談をもちかけたところ、KはそのことをTGWU(運輸一般労組)の活動家だった兄に話した。TGWUは座視しなかった。ブティックの新装開店の朝、ドアを開くと、路地はそこに抗議のためシットダウンする、女性たちばかりかトラック運転手や工場労働者さえふくむTGWU組合員でいっぱいだった。ブティックは困り果て、Jを復職させてセクハラ上司のほうを解雇した・・・。
 今ではもう資料出所が定かではないけれども、私がこのエピソードにふれたとき感じたのは、こんなことも可能なのだという感銘とともに、日本ではとてもこんな連帯の発揮は難しいだろうという、あきらめの混じった羨望であった。
私たちの国でこれと類似の営みを担ってきたのは、主流派の企業別組合の組合員ではなく、地域コミュニティユニオンなど企業外の広義「ユニオン」の人びとである。その主要な役割は、解雇、賃下げ、パワハラなど、選別の労務がもたらす<個人の受難>を、団交や門前行動を通じて救うことだったと思う。その成果の度合い、個別労働紛争の解決率は、労働委員会、裁判所、労働局、労基署など公の機関よりも遙かに高いことを、ユニオンの活動家は誇りにしてよい。とはいえ、当のユニオンも知悉していることながら、「紛争」の結末は、たいてい受難の本人へのバックペイや解雇撤回や会社の謝罪であり、その人が実際にそこで働き続けることも、会社の労務の基本を変えることもできなかったという限界はまぬかれなかったということができよう。
 その限界を突破できる条件は、受難者を擁護するなかまが職場内で増えること、そうした人びとの言動の自由を外から守るユニオンがTGWUのような力を備えていることである。そう考えると、私たちはどうしても国民意識に、わけても若者たちの日常意識に、忌憚なくいえば、どう批判的に切り込むかを問われることになる。日本ではなぜアメリカのように、マクドナルドの店員のストライキに呼応して、ケンタッキーフライドチキンやダンキンドーナツの若者が街頭にあふれ出さないのか。

 若者に限らず現時点の日本のふつうの人びとは、日常的には、職場、学校、ネット上の友だち関係などの「界隈」に属している。その界隈では総じて、権力に無批判な俗論を声高に語るオピニオンリーダーに、ふつうの多数派は「KY」とみなされることを怖れ、「なにもとがったことを言わなければ大丈夫」と悟って追随する。そこには、忖度の「空気」濃厚なつよい「同調圧力」が働いている。だから、その空気のなか、人権に敏感な誰かがあるとき、追随するのはおかしいなぁと感じたとしても、(若者言葉の)「そっち系の人」とみなされれば、いじめやハラスメント、排除の憂き目に遭うと怖れて、何があっても寡黙のまま行動しないのだ。それに棹さして、街頭で政治関係のビラは受けとらないようにと「指導」するふぬけの教師もあるという。結局、労働生活の軌道を外れないサラリーマンやOL(その一部は企業別組合のメンバーだ)、教室での孤立を怖れる中高生、就職を心配する大学生、「ママ友」を失うまいとする主婦・・・などにとって、ストライキや激しい団交で企業労務に抗うユニオンや、政府の施策に抗議してデモやスタンディングをする、いうならば「労働情報系」のおじさん・おばさんは、できればかかわりたくない「そっち系」の人たちなのである。

 しかしながら、正社員の働きすぎと非正規労働者のワーキングプア化の相互補強関係に閉じ込められる現代日本の労働状況が、とりわけ若者のそれが「大丈夫」でないことは、今さらいうまでもない。そんなとき、結局は逃れられない労働の現場を働き続けられる居場所とする労働組合運動を若者が忌避し続けるとすれば、それは悲劇的というほかあるまい。また労働者に限らず、若者をふくむふつうの人びとの界隈に、同調圧力に靡く「空気」が瀰漫し続けるならば、日常生活のしんどさに深く関わっている、憲法には保障されているはずの人権尊重や民主主議の空洞化はあきらかなのだ。その空洞化はすでに、2012年頃から加速度的に進行している。
 静かなファッシズムへの接近ともいうべきこうした日本の状況のもと、『労働情報』が廃刊になるのは、ある意味でやむおえないとはいえ、深い挫折感にとらわれる。折しも私個人も、加齢のためもう発信の新鮮な感性と能力を失いつつある。とはいえ、ほとんど絶望的にこの日本の状況を診断しながらも、私はなお、香港やアメリカの若者たちの勇気に憧憬のまなざしを注ぎ続ける。日本でも2015年には、自分のこれまでのKYの姿勢こそが間違いだったのだと語る女子学生を目の当たりにもしたのである。
 あのシールズの運動でもなにも変わらなかったという思いが、若者に社会運動への希望を失わせたという分析がある。そこを考慮して、これからの労働・社会運動論は、香港やアメリカの若者の行動のような、非暴力ながらももう少し身体を張った運動形態の議論にも踏み込むべきだろう。私の夢みるところ、労働運動ではスト・サボタージュ・ピケなど、社会・政治運動では長期のシットダウンなどがそれだ。議会のルールや最低限の政治倫理すら意に介さない安倍・菅政権のもとでは、あえていえば、人びとの怒りの熱量に比例しない議会内外のあまりに「秩序」を守った抗議行動に、労働や政治の現状にわずかでも疑問を感じるようになった潜在的な運動の参加者はさして魅力を感じないのではないか。ラディカルを忌避しすぎると選挙時の得票さえ失いかねない。権力のあまりの非道がまかり通るとき、いつもはとかく秩序に靡いて抗議行動に立ち上がらない庶民たちも、ついには正義(JUSTICE)なくして平穏(PEACE)なしと思い到リもする。香港やアメリカの若者たちの「秩序紊乱」さえ一部にふくみもった生き生きとした社会運動はそうした思想の顕現にほかならなかった。そしてそれこそがふつうの人びとの心に灯をともし、両国の直近の国政選挙において、リベラル派・民主党に勝利をもたらしたのである。
『労働情報』(最終)1000号:2020年12月

その20 告発される大阪医科歯科大学のアルバイト職員差別

 はじめに 2015年8月、大阪医科大学でのアルバイト勤務に携わった香山由佳(仮名)は、この職場で体験した正職員にくらべてのみずからの労働条件のあまりに大きな格差を是正することを求めて、大阪地裁に提訴した。

 香山は、2013年1月に、大阪医科大学基礎系教室に有期雇用・フルタイム・アルバイトとして就職し、以降、毎年4月の一年ごとの契約更新をくりかえして、15年3月まで事務職「秘書」として働いた。2015年3月には、心労の末、適応障害に陥り休職。その年に雇用契約は更新されたとはいえ、欠勤扱いとなる。そして同大学は、これから経過を辿る裁判判中の2016年3月づけで、香山を雇い止めにしている。 

  香山由佳の職場体験と告訴 この大学の事務系職場は、無期雇用の正職員(200人)の他、無期雇用の契約職員(40人)、アルバイト職員(150人)、嘱託職員(10人)という4種の雇用形態で編成されていた。香山の職務は、ある雑誌に彼女自身が記すところでは、そこに配置されている4名の正職員の教授&教室秘書とまったく同じ仕事内容・同じ責任であったという。仕事範囲は広汎にわたり、教授らの全スケジュール管理、各種の研究費の管理、研究材料の購入、教員の授業の資料準備、試験問題の編集や採点の集計、実験助手や非常勤講師の書類手続きと支払い、院生の「お世話」、それにさまざまの雑務(郵便物配布、清掃、整理・ゴミ出し、お茶くみ、軽食・飲物購入など)に及ぶ。所属の「教室」によっていくぶん相違はあったが、香山の教室では、1人で15~30人のメンバーの補助労働を課せられ、しかも用務員の配置はなかった。秘書+一般庶務+雑用が重なる職務である。もと大学教員の私には、「職場の家事」のような煩わしい周辺作業のすべてを引き受ける「秘書」の有り難さがよくわかる。こうした職務配置の格差は研究や講義への集中にとってとても好都合なのである。

 このようなフルタイム・アルバイトに対する処遇はきわめて差別的であった。a賃金は時給制で950円であり、正職員には4~6ヵ月分あるb賞与はゼロであった。その結果、年収は正職員の秘書とくらべて約3割強、2013年の新規採用者とくらべても約55%である。そのうえ、正職員が享受できるいくつかの休暇や便宜供与もアルバイトにはなかった。c年休日数の法定日以上の加算、d年末・年始等の休暇への賃金保障、e夏季特別有休(夏休み)、f業務外疾病休暇への休職規定による賃金保障、g大阪医科大学病院に通院・治療した場合の医療費償還措置・・・などがそれである。

 みずからの仕事に誇りをもち、正職員以上に働いてきたという自覚もある香山由佳にとって、このような構造的差別ともいうべき処遇格差はとうてい容認できなかった。それは有期雇用者と無期雇用者の間にある労働条件の「不合理な」格差の是正を規定する労働契約法20条にも違反するものと思われた。日本郵便や東京メトロコマースなどで、非正規労働者たちがこの法律を論拠に不当な処遇格差の是正を求める裁判闘争に入りつつあったという時代の風もあった。香山の提訴には以上のような背景がある。                                       非情の地裁判決 2018年1月の大阪地裁判決(裁判長・内藤裕之)はしかし、酷薄きわまるものであった。地裁は、大阪医科大学の香山への処遇のいっさいを労働契約法違反に当たらないとして、失われた労働条件の補償分と慰謝料あわせて1174万円余の請求をすべて棄却したのである。ここで私が問題としたいのはその論拠である。  その1。地裁はまず、香山の労働条件と比較すべき対象者を、原告側の主張する同じ仕事をする正職員の秘書ではなく、事務の正職員一般とみなした。すべてはこの認識を起点とする。正職員は、たとえそのときアルバイト同じ仕事をしていたとしても、もともと長期雇用の見通しを前提として、より複雑で責任の重い管理業務などに配置される可能性のある、つまりフレキシブルにさまざまの職務につきうる「能力」をもった人材としてきびしく選抜されて採用され、かつ育成される職員であり、はじめから特定の業務に限定して募集・採用されたアルバイトとは比較にならないというのである。その点は、香山の場合、運転手とか看護師のように職種区分の明瞭な仕事でなく、秘書+事務+雑用を兼ねた一般労働であったことがいっそう不利に働いたかにみえる。ともあれ、労働契約法20条における労働条件格差の合理・不合理を判断する基準も、職務の内容(業務内容、それに伴う責任の程度)、配置変更の程度、「その他の事項」の総合勘案である。地裁はこの基準の複数性活用したのである。

 その2。日本企業の正社員のこうした位置づけを無批判にも前提として、では地裁は、香山の仕事をどのように評価したのだろうか。被告側の主張を全面的に汲む地裁判決によれば、アルバイトは、正職員や契約職員の指示の下、採用部署の「定型的で簡便な作業や雑務レベルに従事する職員」であり、ノルマもそれを達成する責任もほとんどないという。この認識は、実は後の高裁判決も踏襲したところだ。ここでは高裁判決が記す、杉山が後任のために作成した教室事務員の「業務の引継書」を紹介しよう。それによれば、「毎日すること」は、教授らの予定の把握・確認、ポットの水替え、朝夕2回の教授へのコーヒー淹れ、メールセンターの郵便物集配、「一週間の内にすること」は、ゴミ捨て、汚れた白衣のクリーニング依頼、「毎月5日までにすること」も、研究費ごとの請求書の確認、購入伺の作成・提出、科研費書類の印鑑確認などにとどまる。そして高裁判決は、これらはなんらの判断も伴わない単純で定型的な事務作業ばかりだと述べている。判決を聴く香山は、憤りを禁じえなかったことだろう。

 地裁、高裁ともに判決ではまた、正社員とアルバイトの間には期待される「能力」には明らかに高低差がある、それに正社員への登用制度もある、「能力」を発揮できる仕事を求めるならば、正職員になるように努めよという。だが、正職員の秘書は同職のアルバイトと異なるどのような「能力」を発揮しているのかに、言及はない。

 その3。日本企業における非正規労働者の位置づけと以上の「労働分析」の上で、地裁判決は、「職能給」の正職員と時給・「職務給」のアルバイトとの間の賃金格差と、後者の賞与不支給を容赦なく容認した。2013年採用の正職員と比較して香山の賃金が約80%、賞与をふくめた年収が約55%に留まることは不合理とはいえないと判示したのである。そればかりか地裁は、さしあたり労働の質とは無関係な各種の賃金保障や便宜供与(上記c~g)の請求についても、長期勤続や能力開発や労働の長期インセンティヴを「期待」されていないアルバイトには認められないことは不合理とはいえないとして、ことごとく棄却した。従業員としてのアルバイト労働者の尊厳にあまりに配慮のない判決である。原告側が控訴したのは当然のなりゆきであった。

  高裁判決の成果 しかしながら、2019年2月の大阪高裁の判決(裁判長・江口とし子)では、香山のいくつかの訴えが掬われた。

 すでに述べたように、高裁判決も、地裁判決の枠組み、上記「その1」「その2」の認識を踏襲する。それゆえ、正職員とアルバイトの間には「職務、責任、移動可能性、採用の際に求められる能力に大きな相違があ」るとして、賃金決定方式が異なることを了承し、約2割の賃金格差も不合理とはいえないと述べている。

 だが、高裁判決は賞与については地裁と認識を異にした――賞与は、長期雇用へのインセンティヴの要素も含むとはいえ、年齢や在職年数にではなく基本給に連動する支給であり、賞与算定期間における就労それ自体への対価にほかならない。事実、長期雇用を前提としない契約職員には80%の支給もある。したがってアルバイトにも、「功労」の程度は考慮するとしても、約60%を下回らない賞与が支給されなければ不合理だというのである。60%という算定には議論の余地はあれ、経営の人材活用方法と切り離すという賞与論にもとづくこの判決は、非正規・有期雇用者の労働条件改善に大きく寄与する、意義深い、まさに画期的な法的判断であった。

 賞与ばかりではない。夏季特別有休休暇、業務外疾病休暇への休職規定による賃金保障(およびそれによる厚生保険の資格喪失の防止)についても、高裁判決は生活者のニーズに配慮し、アルバイトにも賃金や就労期間に応じてこれらが認められなければ不合理だと判示した。以上いくつかの不合理な処遇でこれまで香山が被った損害賠償と弁護料をふくめて、大阪医科大学には109万円余の支払いが命じられた。この判決に対して、大学側は上告する・・・。

  日本的「人材活用」という堡塁 およそ2015年の頃から、労働契約法20条にもとづいて有期雇用者の差別的な労働条件を是正する提訴が相次ぎ、いくつかの企業で一定の成果が伝えられている。しかしその成果は総じて、各種の手当て、休暇制、あるいは退職金の改善に限られ、基本給や賞与についてはなお手つかずのままであった。この点、本件での賞与の6割認容という判決の画期性はやはり疑いを容れない。しかも、事務アルバイト・香山由佳の職務の、正職員の仕事との違いを指摘されやすい一般労働的性格を考慮すれば、その画期性はいっそう際立つといえよう。それだけに、非正規・有期雇用労働者への、ふつうは賃金の一部と考えられやすい賞与の支給に最高裁がどのような判断を下すかは、楽観を許さない。

 今なお、非正規労働者の差別的労働条件は、正社員を対象とする、どのような責務にもフレクシブルに応じる「能力」の総合評価、すなわち日本的経営特有の「人材活用方法」という「堡塁」によって守られている。非正社員に割り当てられる仕事は、たとえそのとき同一労働であっても柔軟な適応を求められる正社員の仕事と比較できない、両者の基本給決定方式は統合できないというのである。財界が固執するこの堡塁、日本的「人材活用」労務の前に立ちすくんで、喧伝された安倍「同一労働同一賃金」論は虚妄と化した。労働規約法20条にも基本的にはこの堡塁の爆破力はない。

 本件における地裁判決はこの堡塁への完全な屈従であった。そのうえ、地裁は、賃金・賞与の決定方式の統合を放棄するかわりの弥縫策として安倍労働改革が勧める手当や休暇の均等化さえ無視した。高裁も基本的には堡塁の承認をまぬかれなかったけれども、柔らかい感性に恵まれた高裁の裁判官は、あえて、というべきか賞与を賃金の方にではなく手当の方に引き寄せて解釈することによって、辛うじて堡塁の一角を崩し、他の休暇付与および不時の賃金保障とともに、原告の訴えを掬ったのだ。非正規労働者のこれからの反差別運動の課題は、この判決を起点として、日本的「人材活用」の堅固さと安倍労働改革の不確かさをどこまで追及できるかであろう。

 *2019年5月記/参照文献:大阪地裁判決(正本)、大阪高裁判決、各種の原告側  資料、原告執筆の小論(『女性のひろば』2017年12月に掲載)ほか

                   『労働情報』982号 2019年6月     

その18 コロナ感染拡大と生活・事業の支援

 コロナウィルスが猛威をふるう今、賃金が保障されて在宅勤務のできる正社員や私のような退役の年金生活者は、多少の鬱屈はあれ、とりあえず安んじて外出を自粛できる。だが、続けられねばならない医療、介護、日用品小売りなど必要不可欠のサービス供給のために通勤して働く人びとの健康不安はどれほど大きいことだろう。この問題はあらためて考えるとして、もうひとつ、①人員削減で雇用契約を失った日給制の非正規労働者や派遣社員、②要請される休業で収入が激減した小規模事業者および個人事業者・フリーランサーなど、「日銭」を稼げなくなった人たちの生活危機という、まことに深刻な問題がある。
それら安んじて家にいることのできない人びとにとって、ようやく5月末に始まる(1回だけの)一律10万円給付(正確には税金の還付だ)は、あまりにも乏しい生活費の補填というほかはない。

 もちろん、もう少し長期的な補償の制度や措置もあるにはある。融資・貸付の容易化を別にして主な給付に的をしぼれば、①に対しては、労基法に会社の判断による従業員の休業には、正規・非正規を問わず、直近3ヵ月の平均賃金の6割以上の休業手当を支払わねばならないという規定がある。そして企業に休業手当の支払いが出来るように今回、大企業は支払額の4分の3、中小企業は10分の9の助成を受けられる、雇用調整助成金制度を一時的に拡充する措置がとられる。売り上げが5%以上減っても従業員を一人も解雇しないことが条件である。しかしその実施の日はなお遠く、厚労省は近く(?!)その詳細を示すという。私の危惧するところ、手続き面倒なこの助成を受けるくらいなら非正規労働者の人員整理を選ぶ企業も少なくないだろう。
 ②に対して用意されているのは一種の営業支援であって、売上げが今年1~12月で前年同月にくらべ50%以上減った月があった中小企業に限度200万円、フリーランスをふくむ個人事業者に限度100万円を給付するという。50%以上減った月の売り上げが1年続いたと仮定し、前年の売り上げとの差を上の限度内で給付する。経産省はこれから事務局を設置して電子申請システムを整え、申請を受け付ける。給付は早くても5月後半からであろう。これも手続きには時間がかかりすぎる。その上、個人事業のフリーランサーには、それまでの収入水準が不安定で、その確定・立証が困難な場合も多いだろう。いうまでもなく企業が推進してきた「雇用者」の(労働法の適用を受けない)個人事業者への置きかえが、その結果としてのギグ的・ウーバー型の働き方の普及が、ここにきて、休業がフリーランサーの受難に直結する状況を生み出しているのだ。ちなみに、都道府県によっては休業要請に際して支払われるという50~100万円の「協力金」は、上記の国レベルの営業継続支援とどこまで併用できるのだろうか?

 朝日新聞2020.4.20付によれば、カナダでは、コロナの影響で仕事を連続14日失えば、月2000カナダドル(約15.4万)を 最大限4ヵ月、一律に(フリーランスをふくめて)支給される。フランスは、外出禁止直後に、売り上げが前年同月より7割減少した個人事業主や小企業に、月1500ユーロ(約18万円)を支給する。この7割はほどなく5割になり、倒産の危機にあれば月2000ユーロの追加もあって、結局5000ユーロに引き上げられた。そしてイギリスでは、3月末、休業になった雇用者やフリーランスに当面3ヵ月、最大限、平均の賃金・収入の8割、月2500ポンド(約34万円)が支給されるという。これまで伝統的に賃金に減額補填をしてこなかった新自由主義の政府の、それは画期的な政策転換であった。

 もっとくわしい国際比較が必要であるとはいえ、以上を概括して気づくことは、私たちの国の(端的に言って)「コロナ補償」は、諸外国と同様にもう無視できないフリーランサー、ウーバー型労働者をいちおう包括するものとはいえ、充実にほど遠いままである。第1に、緊急事態宣言から2週間後にようやく実施の手続きをはじめたという著しい遅れを否定できない。第2に、その支給水準は乏しく、しかもイギリスのような継続的な支給が確定していない。そして第3に、手続きの過程に企業の雇用区分による処遇格差の評価が入り込むことによって、正社員以外の労働者が満額の支給から排除する可能性をふくんでいる。
 そしてつけくわえたい――暦年の公共部門と公務員の削減が、医療現場、介護現場だけではなく、官庁・役所にも保健所にも人員不足を招いており、そうでなくても遅れがちなさまざまの申請の処理を、やむなくいっそう滞らせつつあるかにみえる。いくつか難しいハードルはあれ、この際、仕事や収入を失った非正規労働者、派遣社員、アルバイト、フリーランサーらを、いま不可欠な公共部門の補助労働に臨時雇用することも考えられてよいと思われる。いずれにせよ、コロナ感染という試練は、世界的な規模で「小さな政府」論を見直させ、公共部門の意義を再確認させるはずである。