その7 労働組合の性格把握(1)
――企業の「支払能力」への外在と内在
(2023年11月2日)

 連載もこれまでは主として研究史中期に意識した私の研究方法の視点・視角のいくつかを紹介してきたが、これからしばらくは初期からの研究内容に関わるキーワードの端的な説明を試みたい。やはり生涯のテーマとなった労働組合運動を理解する勉強からはじめよう。
 労働組合は、労働生活の必要性と可能性を共有する自然発生的なグループ、私のタームでは<労働社会>の組織化であり、その要求は、その<労働社会>のなかに芽生える競争制限的な黙契の意識化である。別項で扱う予定であるが、私はこのように労働組合の原点を構想する。もっとも、この<労働社会>論を定式化できたのは1976年の『労働社会管理の草の根』(日本評論社)であって、それまで研究者としてのごくはじめには、イギリスの合同機械工組合(ASE⇒AEUW)とアメリカの自動車労働組合(UAW)の軌跡を辿ることに専念していた。その際、分析の着眼点は、労働力の技能的性格(基幹職務の熟練の程度)と、b産業の製品市場のありかた(自由競争か寡占か)であった。一方、日本の労働組合の状況には院生時代から絶えず関心を寄せていたが、その際、この国の組合機能がまぬかれない個別企業の「支払能力」の軛というものがいつも念頭を去らなかった。 ふたつの組合の史的研究は、1970年の『産業史における労働組合機能――イギリス機械工業の場合』(ミネルヴァ書房)と、『寡占体制と労働組合――アメリカ自動車工業の資本と労働』(新評論)として刊行される。その結論的な命題として私は、労働組合の基本的課題として、次の二点を導き出している。
 ①個別企業の枠を超えて、その職種、その産業の労働者全体に、賃金や労働条件の標準(ウエッブ夫妻のいう「共通規則」)を獲得すること
 ②仕事のありかたに関する「経営の専権」を労働者自治や団体交渉および協約の範囲拡大によって蚕食してゆくこと
その上で私は、①②の達成の程度によって、労働組合機能の性格を、若書きの生硬な表現で、①A「製品市場外在的」と①B「製品市場内在的」、②A「蚕食的」と②B「取引的」に分類して把握したのである。先の「基本的課題」に照らせば、私が労働組合の理想型を①A、②Aに求めていることは自明であるけれど、組合運動の現実はつねに領域の①でも②でも、Bのありかたを求める資本と体制の働きかけに遭遇し、Aの曖昧化やBへの妥協を余儀なくされている。

 このふたつの評価軸のうち、今回は①軸についてのみ、もう少しコメントを加えよう。 ①A製品市場外在的ユニオニズムは、個別企業の支払能力の格差にかかわらず、職種別組合または産業別組合のストライキや団体交渉を通じて、基本的な労働条件を保障する統一的な労働協約にまとめあげる。ここでは組合機能は個別企業の支払能力に「外在」しており、労働条件は企業経営にとっていわば「与件」とされているのだ。総じて西欧では統一交渉・統一協約、アメリカの大企業界隈ではパターンバーゲニング(まず有力企業に交渉をしかける)・企業単位の協約(他社もほぼ追随する)――という違いはあれ、労働条件決定が雇用主の支払能力に左右されるべきではないという労使関係は、欧米ではノーマルな慣行であり当然のことなのである。
 それに対し、①B製品市場内在的ユニオニズムは、労働組合が組合員を雇用する企業の市場競争上の位置に配慮し、その「支払能力」に忖度して、結果として賃金などの企業間格差を容認する。ここでは個別企業を横断する職種別または産業別協約が欠如しているのが常態である。日本の企業別組合がまさに製品市場内在的組合主義の極北に位置することはいうまでもあるまい。
 とはいえ、このような分類を示して、①Aを推奨し、①Bを批判するだけに留まれば、現実の労働組合運動の分析としてはあまりに表面的にすぎよう。私も初期から意識していた留保点に加えて、その後の動向を瞥見してみよう。まず認識すべきは、どの国でも、資本が労働条件決定を支払能力の(与件ではなく)函数とさせようとする意思の強烈さである、もっとも経営側の唱える「支払能力」はたいてい、その余力を探るさまざまの経営施策を棚上げにした上でのことであるけれども。
 しかし例えば、西欧型の統一協約のばあい、共通規則としての賃金額は総じて最低規制に近いフロアになりがちである。そのとき、支払能力に余力のある企業では、生産性向上に報いようとする経営者と「余力」に応じた加給を求める組合下位組織との企業内交渉によってフロアに+αを加えがちである。ここにいわゆる「賃金ドリフト」が生まれる。また米国型のパターン交渉・パターン協約の場合には、しばしば不況期には、下請企業などでは、大企業でのパターンに従うことの雇用保障への影響などを心配して、パターンから下に乖離する賃金支払いに労使が合意することがありうる。西欧と米国いずれの場合にも、結果は一定の企業間労働条件格差の発生である。その分、現実には、①A・製品市場外在的ユニオニズムはいわば「不純化」するのである。
 そのうえ、新自由主義の台頭に伴う内外の企業間競争の激化と労働運動の一定の後退のなかで、資本側はいっそう企業の枠を超える統一的な労働条件協約の適用範囲を狭める攻勢を強めつつある。統一協約がとくに整然と整備されていたドイツでも、岩佐卓也の『現代ドイツの労働協約』(法律文化社、2015年)がくわしく分析するように、協約拘束範囲の縮小、協約規制の個別企化、協約賃金の低水準化への資本攻勢が強まって、従来型協約の改変がどの程度許されるかをめぐる労使紛争が展開されている。従来の協約形態を守り切ることはこの国の産業別組合の強靱な交渉力をもってしてもひっきょう難しいだろう。グローバルな流れとして、①B製品市場内在的、すなわち個別企業の支払能力を少なくとも一定程度は顧慮する組合機能への傾斜は、さしあたり避けがたいように思われる。

 では、日本の労働組合についてはどうか。
製品市場内在的ユニオニズムの代表格である日本の企業別組合にしても、高度経済成長で人不足の時期には、やはり企業横断的な協約は欠如していたとはいえ、春闘のベースアップ水準の高位平準化というかたちで、結果的に一定の製品市場外在性を示したということができる。60年代末代~70年代はじめにかけては、例えば機械金属産業での高率の賃上げは、ホワイトカラーを含むほとんど全産業の労働者に波及し、私鉄のストを経て公労協の仲裁裁定、はては公務員の人勧にまで影響を及ぼした。「国民春闘」の「相場」が成立していたのだ。この時期、企業の賃金決定要素のうち「支払能力」は著しく比重を低め、あらゆる基準での賃金格差はかなり縮小をみている。
 けれども、低成長時代が到来し、紆余曲折を経たうえでそれが常態化したとき、もともと欧米のような製品市場外在性を保証する協約の制度と慣行をもたなかった日本では、「里帰り」が当然であった。春闘相場は不確かになり、まったき支払能力の支配が復権を遂げた。企業間賃金格差の縮小も進まなくなった。そしておよそ80年代このかた、賃金ベースは支払い能力に代表される企業経営の都合で決まり、個人の賃金は社会的な規範から自由な査定によって決まる――それが疑いを容れない日本の常識となった。現時点では政財界はもとより、主流派組合のリーダーたちでさえ、製品市場外在性という組合機能のあり方なぞ思い及びもしない。
 だが、その徹底した製品市場内在性が多くの労働者階層にもたらす格差と差別の影はあまりに濃い。とはいえ、試練に晒されているにもかかわらず、それでもなおグローバルには、「共通規則」の確保を旨とする製品市場外在性というユニオニズムの原理は、その輝きを失ってはいない。企業規模、雇用形態、性や国籍を問わず、多様な労働者すべての階層についてかならず存在すべき労働条件の社会的規範というものが、経営側のいう「支払能力」によってずたずたにされている日本の労働状況は克服されなければならない。