ひと日わが心の郊外にささやかなる祭りありき(マラルメの詩句)。先日、「職場の人権」以来の旧友である3人の京都の女性が、四日市に宿泊し、2日間にわたって、拙宅を訪問してくださった。近著『イギリス炭鉱ストライキの群像』の「そう読まれたい」と思うような温かい感想、『福田村事件』をはじめとするいくつかの映画語り、今日この頃の社会のありかた、彼女らの日常のあれこれなど話題はつきず、歓談に時間を忘れた。四日市の中華料理店でのちょっと贅沢なディナーを楽しみ、2日目には、快作『プロッフェショナル』を一緒にみてはしゃいだ。遠くから来てくれてありがとう。私たちにとって久しぶりの祭りのような二日間だった。写真はその折のスナップである。
とはいえ、こうした「ハレ」の日と裏腹に、私たち老夫婦の「ケ」の日常は、なにかと気苦労が多くなっていて、ともすれば憂鬱にもなる。結局のところは80代半ばの体力・気力の衰えと急激な時代の変化への不適応に起因する不可避のことなのだが、「憂鬱」要因の棚卸しをまとめ、まだできること・もうできないことを思い定めることで、いくらか元気になるかもしれない。以下はそんなことをとりとめなく綴る、社会的な意味はほとんどない駄文である。
(1)毎朝、起床すると、私と妻の身体のどこかに未体験の痛みや不具合はないか、毎日使うパソコンがさくさくと動くかどうかが不安になる。たいていは私の乱暴なつかいかたに起因するパソコンの不調は、幸せにも大学在職時代の旧友のこの上ない指導と「往診」で解消されるのだが、1時的にせよパソコンが動かないと、日誌やエッセイの入力もメールも、もう乏しい社会的交流の手段であるFBの送受信もできない。書斎ではなにもできなくなる。
身体のほうは昼寝が欠かせない。なによりもふたりとも記憶力が衰え、なにかいつも必要なものを見失って探している。この時間が馬鹿にならない。二人とも内臓関係は疾患をまぬかれていて、休みながらなら1万歩くらいは歩けるように4日に一度は外出するが、バランス感覚が鈍くなって、凹凸のある土地などではよくよろめく。はしごに登って庭木の剪定をするなどは、バランスも筋力も心もとない。
(2)高額の補聴器はやむをえないとしても、ほぼ20年以上も前からのエアコン、テレビ、雨戸のサッシ、シェーバーなどの寿命がきて、買い換えが必要になり、万円単位の出費が続く。年金以外の収入はまず望めない経済生活なので、いきおい心ならずも節約志向にとらわれる。かなり頻繁だった海外旅行は、体力の不安も棹さして、コロナ禍以前の2019年をもって終わりとした。外出日によく外食はするが、ハレの日以外はふたりで数千円の出費に留めようとする。ちなみに地方行政はリーズナブルな価格で耐久消費財の修理・修繕・メインテナンス、または良心的な業者の斡旋をするサービスを提供してほしい。悪徳業者が甘言をもって高齢者世帯にたかる事例もよく耳にするからである。
(3)それと関係して近年のインフレが痛い。食品はもちろんであるが、私たちにはとくに、各種の社会保険料、電車運賃、映画料金・拝観料、レストランなどの値上げが響く。衣類はもうほとんど買わない。ズボンの裾が広いのには閉口するが眼をつむる。それにしても、最近は消費の階層分化が著しいと感じる。私のような生活スタイルでも贅沢と感じる人たちもずいぶん多い一方、信じられないほど高価なツアーや身の回り品やレストランメニューも、結構、人気が高いようである。
(4)スマホの十分なつかいこなしを前提とした風潮についてゆけない。 少し敷衍すれば、かつては、背後に効率的な情報処理システムをもつにせよ、顧客・利用者の多様な要求にそのつど個別に応える窓口労働者が多かった。今は広義サービス業の対人折衝が激減し、町役場を別にすれば、総てが自動販売で、大組織への電話の問い合わせには総てが機械音のたらい回し、人の応接に到るにはずいぶん時間がかかる。研究会の参加にもたいていパスワードの必要な登録がいる。「ダニエル・ブレイク」の困惑と疎外感はまさに私たちのものだ。仕方なく最近、スマホ教室に通い始めたが、「らくらくホン」1台で、それもめったに使わない私たちは、スマホがあればなんでもできる、しかし私たちはなにもできないとため息をつくばかりである。最近あるツアーに参加したが、その感想アンケートはなんと、配られるバーコードをスマホに写して、旅行社のHPに現れるアンケートの項目に記入して送信せよという次第だった。誰がこんなアンケートに答えるものか。エッセンシャルワークがそんなに人不足なら、外国人労働者の流入と定着がもっと容易になるよう国をひらけばいいのだ。
スマホ社会は、コロナ禍に加速されもして、ほかの人びとへの関心とふれあいをきわめて稀薄にしている。電車に乗れば10人中9人はスマホだけを見ている。他の乗客の喜怒哀楽を気にすることは決してない。そういえば新聞をよんでいる人もいなくなった。スマホによって広がる世界を知らない者の繰り言かもしれないが、これほどぐるりのことに無関心なひとびとの多い社会では、リアルな会話や討論になじんできた私たちは、疎隔されている。
万事が「時代おくれ」の感覚は、数年前から私が労働問題・社会問題について発言の機会を失っていったころから自覚していた。著書の刊行、講演などはおそらく2023年をもって最後だろう。2024年からはもっぱら、私と妻の心身の相互ケアと断捨離の日々になる。それはもう覚悟している。けれども、いよいよ日常的に押し寄せてきた気苦労や疎外感については、まだ工夫と努力で憂鬱をまぬかれうる余地はあるかもしれない。温かい友人たちのアドヴァイスに恵まれたいと思う。