その3『家族という病』の耐えられない軽さ 

子離れができない親は見苦しい
大人にとってのいい子はろくな人間にならない/家族の期待は最悪のプレッシャー
家族のことしか話題のない人はつまらない/家族の話はしょせん自慢か愚痴
「子どものために離婚しない」は正義か
「結婚ぐらいストレスになるものはないわ」/家族ほどしんどいものはない
家族に捨てられて安寧を得ることもある/孤独死は不幸ではない
結婚はしなくても他人と暮らすことは大事
家族写真入りの年賀状は幸せの押し売り・・・

これは大ベストセラー、下重暁子『家族という病』(幻冬舎新書、2015年)の広告の惹句である。私には大ベストセラーは総じてくだらない本とみるひねくれたところがある。しかし、上の発言には「うん、たしかにそうだよな」と感じることもあり、私自身も成人した息子たちとの関係にはいまだに悩まないこともないわけではないので、つい買って読んでしまった。惹句は各節のタイトルでもあり、内容はほぼ節題につきる。なんという軽い本だろう。

地域や親族、それに働く場所として大切な企業のなかでかつての共同性を失いつつある現代の日本人は、家族の絆というものにいわば過剰な期待を寄せている。とくに多くの人びとがかけがえのない家族を失う痛切な悲哀を体験した大震災ののちは、政府やマスコミによる家族愛の鼓吹?もあって、家族の絆への心の依存はいっそうつよくなっているかにみえる。
けれども、本当は震災前から、家族があれば生きてゆけるという基盤は大きく揺らいでいた。くわしく述べるまでもあるまい。一方では人口高齢化が、他方では雇用不安定を主要因とする労働生活の劣化・ワーキングプアの累積が、老若男女を問わぬ単身世帯の不可逆的な増加、少なからぬ若者の半失業、非婚とパラサイトの傾向、「労労介護」を典型とする家族介護の無理な負担などをもたらしている。総じて家庭内の孤独と緊張は高まっており、家庭内暴力やDVが頻発する。下重のいうように今日、犯罪のかなりの部分は家庭内で起きたものだ。そうした現実を見すえるならば、どんな家庭に育つにせよ、成人した者たちはなによりも自分という個人を大切にして、家族主義を相対化すること、心の上でも、できれば経済生活の上でも、家族離れすることが必要であろう。上の下重の諸発言は、その点で納得できるのである。

とはいえ、私にはまた、家族への愛執、いつまでも捨てられない恋々とした執着は、事実として、普通の人、とくに社会的に「要人」でない庶民にとってみずからのアイデンティとわかちがたいという思いに、どこまでもとらわれている。とくに子どもが未成年のときには、人はすぐれて家族とともに生きる幸せに溺れる。子どもの写真を「見て見て!」というのは、子のない友人をふくむ他人がなにを見たいかの配慮に欠ける一種の「排他主義」かもしれないけれど、幸せそうな家族のようすが唯一自分にとって誇らしいものとする意識を嗤うことはできない。どこの国、いつの時代にも、庶民は家族愛に執着し、その日常意識は家庭の範囲内でぐるぐるまわるのである。
さらに敷衍すれば、人が家族のために、ある負担を背負うばかりか、他人からみれば「犠牲になる」ことさえ、かならずしも不幸せとはいえないだろう。そもそも庶民は、つらい仕事でも、家族を中心とした「傍ら」の誰かが「楽」をするために耐えて働いてきた、つまり「傍楽」労働観のなかに生きてきたのだ。家族のために働くのは、エリート層がよく言う「企業、国民経済、国家のために働く」のにくらべて、決して人としてコンプレックスを感じなければならない営みではない。そしてまた「愛執」に戻るならば、人はその捨てがたさゆえに、社会的・経済的に「一家団欒」の条件が失われようとするときにいっそう、あえて過剰に家族の愛を求め、その絆に期待してしまうのだ。思えば家庭内犯罪も、この否定できない愛執の惰力の産物であろう。愛着なければ激しい憎しみも生じようがない。それゆえにこそ、家庭内犯罪は悲劇的なのである。

NHKのトップアナウンサーであり、エッセイスト・「作家」として成功した下重暁子にも、むろん出身家庭にかかわる葛藤があって、それが彼女の個人尊重の家族論に繋がっているのだろう。彼女は仕事のために子育てをあきらめ、いまマスコミ関係職にあった理解ある夫とのDINKSの「個性的な」生活を満喫する。他人が忙しいときに海外旅行などができる条件があるゆえに、年末年始はたいてい執筆などの仕事、紅白歌合戦などは見ず、元日は夫とともに和服でおとそを祝い、ウィーンフィルのコンサートなどを楽しむ・・・。そんな下重暁子には、子どもたちも一緒にみてくれないかなぁとひそかに願いながら紅白歌合戦などを見ている「おとうさん」の所在なさはわからないだろう。目線が高すぎるのだ。普通の人が下重の発言どうりの距離をもった家族への接し方をするには、どれほど、例えば仕事は自慢できる状況になく、それゆえそれが「唯一のアイデンティティ」にさえなっている家族への愛執をあきらめねばならないか、そこへの目配りがない。お叱りにも聞こえる下重の発言には、不都合なやりきれない要素と対決しようとする迫力がまったくない。それでは評論にもならない。例えば私は、日本のサラリーマンが企業の能力主義的選別から我が身をもぎはなすべきことを年来の主張としてたけれども、そのためには、日本の労働者の日本型能力主義への帰依がどれほど根の深いものか、そこからの離反がどれほど心の緊張をもたらすものか、したがって、それができるためにはどのような組合運動が不可欠か・・・といった分析を迫られたのである。
そのことと関連して、下重暁子が、現在の多くの庶民の家族主義を危うくしている貧困、そしてその根因である労働問題に無関心なことも本書の大きな欠落点といえよう。下重は、自分と夫の職業上のステイタス、「恵まれた」存在が、みずからの家庭論の背景になっていることを、きちんと意識していないかにみえる。今日、家族・家庭について一本をまとめようとするなら、この文章の第4段落で素描したような諸要因に最小限はふれなければ、平均的な家庭を論じたことにならないだろう。それがないお勧めはいきおい言葉だけのものになる。薄っぺらな本だ。このベストセラーには当然ながら酷評も多いという。反応の多くはしかし、「家族の否定は道徳、社会、国の否定につながる」という、論じるにも値しない伝統主義からの批判ではなく、「わかるけどそんなこと言われてもなぁ、うちじゃいろいろあるし・・・」といった不充足感であろう。その結果、発言は聞き流される。思えば、その「いろいろあるし・・・」こそ、物書きが凝視すべきものではないか。例えば角田光代、金原ひとみなどによるすぐれた「家庭小説」には、その凝視がある。
私が今後、下重暁子の著書を繙くことはないだろう。