その4 過労死・過労自殺の重層的要因と労働者の主体性


──過労死防止学会発足記念シンポジウム(2015年5月23日)報告

 私の過労死研究はもともと、たくさんの労働者が職場史や生活史のなかで、どのように働きすぎに、どのように死に追い込まれていったかを、物語として再現することに関心を寄せてきました。私の過労死に関する著書『働きすぎに斃れて――過労死・過労自殺の語る労働史』(岩波書店、2010年)は、そういう内容です。だから、本来はきわめて具体的な労働者体験を語るのが好きなのですが、今日はもっぱら論理的な考察に絞ります。職場の状況に関する具体的な事実は省略して、広義の過労死の重層的な原因を把握し、その要因のなかでも、私が重視する日本の労働者が仕事に向き合うときのものの考え方、いわば日本的な「働く文化」についていくらか立ち入り、その上で、最後に時間の許す限り、過労死に対してどんな対策が考えられるか──そんな報告をしたいと思います。30分という時間限定はかなり厳しいですから、1分の無駄も許されないという感じ。早速入ることにします。

過労死の根因と媒介要因
 まず、過労死の原因は、きわめて重層的で、遠因や近因がさまざまな形で組合わされていることは、すでにご存じのとおりです。しかし、そのもっとも根底的な原因は、やはり日本企業特有の働かせ方にほかなりません。この点を抜きにしては、いかなる過労死論も成り立ちません。この、いわば働かせるフレームワークは、今日、私が重視して語りたいこと、日本の労働者の働く姿勢・志向性にあまりにも強く関係しておりますので、ここはもういちど振り返ることにして、さしあたり、この働かせる企業労務が過労死の根因であるという確認だけしておきたいと思います。
 けれども、もっともインテンシィヴに、あるいはできる限り長時間、労働者を働かせようという意向は、ある意味では世界共通のもので、世界の経営者はすべてその傾向にあります。では、なぜ日本で過労死という問題がこんなに特徴的に現れるのかといえば、そのように働かせる企業労務が過労死を導くような、あるいは過労死を可能にするような、日本的な媒介要因というものがあると思います。そこのところが実は、日本の産業社会を理解するとき枢要のことなのです。この文脈で私は二つほどの媒介要因を考えます。
 その1は、ずばり言えば、やはり労働組合の弱体化です。過労死元年は1988年といわれますが、そのおよそ5~10年ほど前から、労働組合の働き方に関する職場規制が徹底的に後退しておりました。非常につづめた言い方になりますが、そのころは日本的能力主義管理が浸透・定着しておりました。この日本的能力主義管理の具体的な現れ方はすぐれて「労働条件決定の個人処遇化」ということでした。すなわち、仕事のなかみやノルマ、職務の範囲、配属、そして求められる残業量・・・といった具体的な労働条件が、上司の命令にしたがって労働者が働いた努力と成果に対する査定によって、個人別に決まるようになってきたということ、それが大きな影響を与えました。つまり、広義の労働条件のうち、労働協約とか労働法が一律に規定する部分がきわけて小さくなったのです。
 私はこれを「労働条件決定の個人処遇化」と規定します。この個人処遇化は、労働者のしんどさが、「個人の受難」として現れるということです。この界隈では、過労死・過労自殺にしても、ハラスメントにしても、メンタルヘルス不全にしても、それは従業員の全員に及ぶというよりは、その職場の少数者の問題とみなされがちです。その事例を集計すれば社会的には大きな問題ですが、当該の職場では少数者のもので、企業内では「個人の受難」と扱われてきました。したがってそれは辛辣に言えば、「個人の責任」とされてしまう。<日本的能力主義の浸透⇒労働条件決定の個人処遇化⇒個人の受難=個人の責任>という流れがひとつの連関になっています。そして労働組合は、この連関に介入することを徹底的に回避してきました。組合は「個人の受難」に寄り添わないのです。例えば89年の労働戦線統一時の組合文書には、「過労死」の文字は見えません。過労死元年と労働戦線の統一と同じ時期というのは、皮肉にも象徴的なことと言っていいと思います。例えば、残業にかんする36協定の特別条項。特別条項の適用としてひどい残業があるわけですね。過労死というのはそういうところから起こる。しかし、この特別条項に労働組合はサインしているんです。その点から言えば、労働組合は過労死の頻発に責任がないとは言えない。それゆえ、私は組合の職場規制の後退を過労死の媒介要因の一つとしてあげたいのです。もっとも組合論は、今日はあまり論じません。
 媒介要因のその2は、厚生労働省の方もお話になりましたので言いづらいんですが、やはり労働保護立法も労働行政もダメだったということ。働きすぎを規制すべき政策が不備なのです。これも語ればきりがないんだけれど、たとえば残業時間のマキシマムの法的規制は、日本では基本的にないと言えます。今回、成立した過労死等防止対策法にしても、労働時間規制には踏み込んでいないというのが現状であります。
 また、ノルマとか、個人の残業割り当てとか、そういう具体的な働かせ方の経営権というものは、労働行政としてはある意味で当然の限界かもしれないけれど、「聖域」とされていて、そこには踏み込めないということもある。それから、今の労働法でも駆使すれば、労働基準法で過労死を防止するようなこともある程度できるかもしれないけれど、ご存知のように労働基準監督官は国際比較で見ても大変少ないのです。例えば労働省労働組合などの統計によれば、総じて日本は公務員は少ないのですが、わけても労働基準監督官の労働者数あたりの人数の僅少さには目をみはるほどでしょう。「ダンダリン」がいかにがんばろうと限度があります。こうした労働保護法・労働行政の弱さは否定できないのです。もっともこの媒介要因その2についても、今日はこれ以上立ち入りません。
 もうひとつ無視できないものに、労働を取り巻く日本的な「社会的システム」みたいなものがある。この点について私はこう考えます。日本では、職域を超える普遍的な福祉国家のシステムがなお基本的に貧弱です。そこにジェンダー規範のしがらみも加わって、日本では、男性の会社員人生が成功的であるかどうかが、自分ならびに家族の生活の安寧に実に大きな影響を与えるというところがある。だから結局、男性サラリーマンは会社員人生で成功しないと生活保障が危うい。それは働きすぎのとても大きな駆動因なのです。ここから来るのはどういう生きざまか。私はドイツの労働者の働く姿勢について日系企業の経営者の話を聞いて痛感したのですが、ドイツなんかとは違って、日本の労働者というのは、会社のために働いているということと、自分や家族のために働いているということとの、峻別ができなくなっているのです。自分や家族の人生よりも会社の発展のほうが大切だという考えで過労死するまでに働くのではない。自分や家族の生活のほうがはるかに大切だと思っている。思ってはいるけれども、一番大切なものを守るためには、会社に「精鋭」と認められなければならないと信じ、そのあげく無理に働きすぎてしまうのです。この両者の峻別が難しいというところに、日本の労働者が追い込まれているやりきれなさみたいなものがあります。この社会保障の事情についても、これも今日はここまでに留め、後に議論になりましたら、意見を追加します。
 以上は、先に紹介しました過労死・過労自殺の人びとのエピソードを綴る本で最後にまとめた理論部分の、上澄みみたいなことにすぎません。

働きすぎるノンエリートの主体性
 さて、今日、私がとくに語りたいことは、あえて言えば、過労死や過労自死を招くまでの働きすぎには、「強制された自発性」にもとづく、ある意味での労働者の主体的な働きかけがあるということです。企業や社会に強制された環境のもとで、とはいえ最後には自分が選んで働きすぎているという側面がある。そこを見なければならないのではないか。言い換えれば、過労死・過労自殺に導びかれるような働き方における、労働者のある主体的な適応の側面というものを、今こそ、労働者の思想・労働者の文化として振り返る必要があると痛感します。
 なぜかと申しますと、どんなに「長時間働かざるを得なかった」と言っても、日本の職場はやはり強制収容所の労働ではありません。日本の労働者は奴隷ではありません。最後には、ある自発的な選択があって、あれほどに働いてしまうんです。働いちゃうんです。ここが労働文化の問題として見逃せません。この点はふつうあまり議論されませんし、ある反発も引きおこします。しかし、反発や違和感を覚悟で、今後の闘いのためには、ふれないわけにはまいりません。では、くどいようですが、なぜ、過労死の重層的な原因のうち、最後にあげた労働者の主体的な適応の側面に注目するのか。
 ここを重視することはむろん、一種の危険性があります。なぜなら、たとえば過労死や過労自殺の損害賠償の裁判が行われると、会社側は総じて、先ほどの寺西笑子さんの話にもありましたね、「彼の働き方は会社が命令したものじゃない、寺西は自発的に働いたんだ」という。これは平岡悟さんの裁判以来、いつも繰り返される会社の言い分なんですね、命令したんじゃなく自発的に働いているんだから、と。私が働きすぎには自発的な側面があると主張することには、少し危険な側面があるというのはそこです。しかしながら、労働者の働く文化というものをわれらの側から問い直すことがなければ、今後、どのような法的規制も職場に活かすことはできません。労使関係や労働組合機能にかかわる労働者の働き方の文化についての変革なくしては、法律だけで過労死を防いだり、残業を規制したり、過度のノルマを規制したりすることは絶対にできません。そこをもういちど顧みたい。今後の働き方をめぐる労使関係の営みにこそ、労働者の思想性が問われるということです。今回の過労死等防止対策法を活かすも、形骸化を許すのも、結局は、現場の労働者の働く志向性、思想、文化・・・そういうところに帰着するからです。私が、「強制された自発性」という概念で、労働者のビヘイビアを強制一本で説明することを拒むのは、そのような現場の労使関係の営みへの期待をこめてのことなのです。
 もう少し考察を展開します。労働研究のなかで、私がいつも痛感することがひとつあります。それは、日本の労働状況の一大特徴は、地味な労働を担って労働生活を全うする普通の労働者、これをかりにノンエリート労働者とよびますと、働きすぎがノンエリート労働者にまで広がっていることにほかなりません。たとえばジル・A・フレイザー『窒息するオフィス』(森岡孝二監訳、岩波書店、2003年)なんかを見ると、働きすぎはアメリカのほうが酷いじゃないかと感じもします。しかし精読すると、登場人物たちは総じて上級ホワイトカラーか高度専門職なんですね。彼ら、彼女らは、新自由主義的な哲学と企業に認められて成功する上昇意欲が身についていて、極端にがんばりますので、日本の同じようなクラスの従業員よりも労働時間は長いようです。しかし日本の特徴は、地味な労働に終始するノンエリート労働者が長時間働いていることなのです。
 時間がありませんのでとても簡単な国際比較をしますが、日本の労働時間は、全体的な趨勢としては、突出して長いわけではない。しかし日本で注目すべきなのは、超長時間労働者の比率が高いということです。それは特に正社員男性についてそうなのですが、その比率は職務スティタス上のエリート層の比率を超えています。もうひとつ、週50時間以上働く労働者の比率。OECD諸国のなかでは日本はダントツの金メダルですね。これらについては、レジメの最後のページに、最小限の参考資料をあげておきました。男性正社員の20代後半から30代の後半ぐらいまでは、週60時間以上働く人の比率がおよそ20%弱ぐらいに及んでいること、それから週50時間以上働く男女労働者の比率が日本では30%と第一位であることなどがわかります。
 これはなにを意味するのか。長時間労働をする労働者の範囲が広いということですよ。そこでこの日本の特徴に関して、ひとつの仮説を立ててみます。地味な労働に携わるノンエリート労働者が長時間労働やハードワークを受容する、その熱意や意欲(社会学的にはアスピレーションと言います)の強弱になにが関わっているのか。将来、経営者のグループに入ることが予定されたエリートががんばるというのはわかる。しかし将来の大成功が見こまれるわけでないノンエリート従業員が、日本のようにこんなにがんばるのはなぜでしょう。それは企業内のエリートとノンエリートの間に、はじめからの断絶ではない連続の関係があるからではないかと考えます。
 もう少し説明すれば、ノンエリート労働者が勤続を経てエリート階層に、少なくとの「中間階級」的な存在に昇進していく、その可能性の広さまたは強さのごときものが、現実には結局、一生地味な労働を遂行するノンエリート労働者をも長時間労働・ハードワークの受容に赴かせるのだと思います。これが欧米と異なる日本の特徴です。日本では、長時間がんばって働くという意欲における職種や職位による格差は伝統的に希薄であったということができます。こうしてノンエリート労働者が働きすぎちゃうのです。エリート・ノンエリートという言い方は、ちょっと漠然としておりますから、これを職種に翻訳して考えてみると、境界はかならずしも明瞭ではないけれども、エリート層とは、管理職、高度の専門職、技術職、総合職的事務あるいは営業というような人たちですね。これに対してより広範に存在するノンエリート的な職業とは、工場労働一般、OLなどの一般事務や受付、それから販売職であっても取引営業というよりはルートセールスや店員だったりする、いわゆる裁量労働制の適用は不適な人びと。それから今では決して無視しえないサービス職の増えつつある労働者。サービス職というのは、まあ「マック仕事」みたいな接客関係、産業としては飲食店で働いていることが多いです。日本では、今あげましたようなノンエリート層も、彼ら、彼女らに命令するエリート層に牽引されて働きすぎになる傾向があります。
 この日本的特徴に深く関わってくるのは、先にペンディングいたしました日本企業の働かせるフレームワークです。この過労死の「根因」に戻りますと、日本の労働者の働くフレームワークを今後どのように変えていくかということが、大きな意味では過労死対策の大きなテーマになってくると私は思うのですが、とりあえず今の文脈では、ノンエリート層に及ぶ働きすぎに関わって、ひとつは年功制のもっている一種の平等性みたいなことがあります。この年功制では、上位職務、中位職務、下位職務が連続的な階梯としてつながっています。このことは、勤続を重ねて昇進を追求していく従業員の範囲の広さと、昇進を追求する期間の長さに深く関係しているのです。抽象的な言い方ですけど、日本企業ってそうなんだと、働いている方にはすぐにわかるのではないかと思います。ただ注意が必要です。企業内の上昇競争に参加する従業員の範囲が広いという平等主義には裏があります。ここのところは誤解されてはなりません。年功制はトコロテン・システムではありません。みんなが同じように順調に昇給し、定年まで雇用が保障されるのであれば、ノンエリートまでそんなにはがんばらないけれど、現実の年功制というものは、およそ1960年代後半ぐらいからはっきり、勤続プラス査定のシステムになっており、サラリーマンの昇給の程度や昇格や昇進を決めるのは最後には査定なのです。
 このような現実の(査定つき)年功制のなかに、日本特有の具体的な仕事の与え方が重なってきます。日本企業では、労働研究の定説ですが、職務区分が曖昧です。だいたい欧米では特定の職種や職務に応じてその能力をもつ人が雇われるのに対して、日本での正社員雇用とは従業員としてのメンバーシップの付与にすぎません。どんな質量の仕事をするかということは会社に入ってから与えられるのであり、就職というよりは就社だといわれてきました。仕事の範囲がフレキシブルなんです。フレキシブルということはよくいえば硬直的でないことですが、わるくいえば上司のいうがままということ、がんばるかがんばらないかということで処遇が違うということを意味します。このことの土壌に適合的なものとして、先ほど組合運動のところで言及しました「個人処遇化」が進んできたのです。仕事の範囲や配属、個人ノルマや残業に関する企業の要請を、フレキシブルにこなすという日本的な能力主義が、70年代後半には定着いたしました。過労死元年の80年代末ともなると、その状況はすでに爛熟期を迎えています。その上、日本的能力主義にはのちに成果主義も重なって、労働者に対する要請はいっそう厳しくなっています。どこの国でもそうなっているということはできません。新自由主義の浸透とともに、欧米の一部でもかつてのゆとりある働き方は難しくなっているということはいえましょうが、基本的には欧米は、もういちど申しますと、経営者もしくは経営者の候補者と、普通の労働者、なかんずく組織労働者の働く姿勢は、なおかなり違うんです。日本ではしかし、ノンエリート労働者も、企業内の上位オピニオンリーダーによって働き方を牽引されていて、ずるずるずるとつながっているような関係がある。ノンエリート労働者も「強制された自発性」に駆動されて、健康を損なうまでに働かなきゃならないという状況なのです。

「強制された自発性」の多様性と変化
 許される時間はわずかだと思います。最後の改善論・実践論にあまり独自性はありませんから、あとこれだけは付け加えておかなければ、ということを語りますと、あなたは「強制された自発性」と言うけれど、これはどういうことですかということだと思うんです。簡単に言いますと、どの労働者の働きすぎにも、強制と自発の両側面があります。しかしより具体的には、もちろん「強制と自発の混合比」には、時期的な変化と、階層別の多様性が認められます。階層別の多様性のほうを先に説明しますと、強制の側面というのはね、生活のため、過重ノルマや過度の残業をやむをえず呑み込んでがんばらなきゃならないということ。一方、自発的な側面の内容はよりさまざまです。会社から高い期待をかけられている、昇進の可能性も高いので期待に応えたい、また、しばしば仕事そのものの内容に面白さがある、自己表現性とか、顧客の喜びの実感とかがある──チャレンジしてみよう。そんなことから自発性が喚起されるわけです。この強制と自発は、まったくは二律背反でなく、どの仕事にも混じりあっているのですが、どちらの側面が強いかは職種とスティタスによって異なるでしょう。この区分は、予測可能性も含む、個々の過労死の要因の把握には役立つでしょう。一般に、先にあげましたエリート的な上位職務の担当者の過労死には自発の色彩がわりあい濃いようです。とくに仕事そのものが「おもしろい」専門職の場合はそういうところがあって、対人サービス専門職などは、労働条件がどんなに悪くても、「利用者さん」の喜ぶ顔さえ見られれば・・・と突き動かされるように働く若者も少なくありません。しかしながら、ノンエリート職とか、「しょもない仕事」とみずから言う非正規労働者の場合などは、強制の色彩が強いです。
 とはいえ、「混合比」の時期的な変化のほうがもっと大切かもしれません。「強制された自発性」という以上、その過労死には自発の側面がかなりあった、そんな時代も存在したと思います。それはやはり高度経済成長期、または、なおその余燼が残る時期です。その頃には、戦後初期の自動昇給的な年功制が後退したあと日本的能力主義の浸透がありました。その時代には、がんばれば「労働者も中産階級へ」ということが、かなり実態だったのです。その実態を見すえて、学歴の高くないノンエリート労働者も、いわば進んで長時間労働者やハードワークを受容してきました。初期の過労死のいくつかには、そういう性格もまとわりついております。例えば、経済成長があれば企業の発展があり、企業の発展があれば支店が増え、支店が増えれば支店長も増えるんです。支店長になるということは、些細なことかもしれませんが、とくに競争資源をもたないふつうのサラリーマンにとっては、やはり具体的にして大きな目標ですよ。そんなことでがんばってきたというところがある。
 しかし今はその後こそが問題です。低成長期の到来と平成不況の継続、そして企業社会の現時点を考えますと、説明を抜きに申しますと、ふつうの労働者の中産階級化は虚妄になっております。企業内の成功的サラリーマンの比率は低下し、労働者同士の競争の目的も、階層上昇というよりはせめてほどほどの昇給と雇用だけは確保したいというサバイバル的な競争になりました。競争のサバイバル化が際立ってきた90年代後半ぐらいからは、「強制された自発性」と言いましても、実際は「強制」の色濃い、しかしいくらかは「自発」の働きすぎが常態になっています。代表的な事例として、いわゆるブラック企業では、若者は自発的に働いているんだと、もう言えないところがあります。そして一方、増加の一途をたどる、はじめから年功制と企業別組合の外なる非正規労働者も激増しております。この非正規労働者も、親や配偶者に完全にパラサイトしている場合には、欧米ノンエリート的な、悠々たる働き方でいけるかもしれないけれども、それもたいていは幻想で、今では非正規雇用者が生活費の主要な担い手たらざるをえない状態がむしろふつうです。 中年近いシングルマザーなんかが代表的ですね。こういう場合には、なんといっても、稼ぐ必要に強制されて長時間労働を引き受けざるをえないことになります。そればかりか、非正規労働者の労働条件が劣悪であるということが、正社員の働きすぎの鞭になる関係もある。非正規労働者だけにはなりたくない、正社員にしてもらえるのであれば、どんなにしてもがんばって働くんだというわけ。最近の若者の過労自殺は、非正規雇用から正規雇用にされた人の衰弱死がすごく多いんですね。最近では、非正規から正規になって、すぐに責任の問われる店長になって、本当にすぐに過労死、過労自殺するというのは、決して誇張ではありません。
 全体として、階層上昇のための競争はサバイバル競争に変化しました。労働現場では、ノルマの過重化や、それを達成させるためのハラスメントが横行し、若者たちは、過労自殺(これはまぎれもなく多発しています)の直前には、もはや強制か自発か、自分では判断のできないまでの心の漂流に追い込まれています。彼ら、彼女らはいわば憑かれたように死に引き込まれてゆく。なぜあんなに働かされて死ぬのか、強制とか自発とかの区分そのものがむなしいようなところまできているように思うのです。
 しかしながら、そうであっても、くりかえしいえば職場は強制収容所ではなく、労働者は奴隷ではありません。強制の側面が強くなったとはいえ、働く姿勢にはなお自発性によって改変できる余地はあります。そう考えてこそ、過労死を生む労働環境は労働者が主体的に変えうるのです。その具体的な戦略については、時間の都合でここでは省略するほかありません。しかし、今日の私の議論の主題である働き方の主体性にふれてひとこと言えば、私たちの国・私たちの時代の労働者に認識してほしいことは、雇用形態を問わず、経営者に昇進することなく、たいていは一生、地味な仕事を続けることになるノンエリート労働者がふえてゆくことです。もう、企業内の新自由主義的な哲学を内面化した精鋭エリートに、牽引されたり、操作されたり、唆されたりして、なかま同士の競争に身を投じ、過労死の心配を封じ込めて働きすぎることがあってはなりません。そのような生きざまが「ものになった」時代は終わったのです。
 誤解されては困りますが、私は過労死・過労自殺の根因は労働者の主体的で自発的な労働意識だと言っているのではありません。それはわかっていただけるでしょう。自発性と言っても、それはなかなか抗いがたい強制の環境下で選ばれているからです。けれども、死に至るまでの働きすぎを受容してきた労働観を顧みることは、やはりこれからの私たちには不可欠なのです。もう一件の過労死・過労自殺も出さないと心を定めるならば、普通の労働者は、なんといっても、「命どぅ宝」というか、ワーク・アンド・ライフバランスを死守するんだというノンエリート的思想に自立を遂げていただきたいと思うのです。それなしにはいかなる法規制も組合規制も強靱たりえません。戦略論の最初が、労働時間のインターバル規制や残業規制であることはいうまでもありませんけれど。
 全体につづめすぎた語りになってしまって申しわけありませんでした。

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