その6 情勢論(2) 日常の界隈に働く強力な同調圧力

 SEALDsの若者たちは「私の思い」を伝えるいくつかのユニークな語りとともに、「民主主義ってなんだ、なんだ」、「これだ!」とシュプレヒコールで訴える。では、「これ」とはなにか。それはこの集会・デモという、とりあえずは非日常的な空間であろう。
 こうした「組織でなく個人の参加」に新鮮な感銘を受けながらも、私にはある危惧が残る。ふつうの人びとが集会やデモを終えて帰る日常の界隈は、教室、友人との親密圏、家庭、地域、そして職場であろう。それらの場ではふつう、政府批判的な発言などをあえてして傍らのなかまを行動に誘うことをKYとみなす、強力な同調圧力が働いている。実際SEALDsの若者がこう語ることもある──友人の間では私の意見はなかなかわかってもらえず孤独を感じていたけれど、ここに来てこんなに沢山のなかまがいることがわかって本当にうれしい、と。
 日常の界隈を支配する「常識」への同調圧力が、私は怖い。その常識の大前提は、知的な合理主義ではなく、庶民が支配権力に抗うことの成果を絶望視する徹底した現実主義であろう。いくらか内容を問えば、それは、深刻な格差の正否を問うことを彼岸視したエコノミックアニマルの志向であり、「政治的中立」を僭称する政治的無関心である。反戦・平和・防衛については、といえば、それはせいぜい、想定される侵略者=「強盗」に対する「戸締まり論」、あるいは米軍に協力するバランス・オブ・パワー論となる。備えあれば憂いなしというわけだ。社会構造と歴史に関する知的営為のないこうした卑近な現実主義に立って、日常の界隈の小ボス、オピニオンリーダーは若者たちに、「共産党みたいなこと」を言っていては、有利な進学もまともな就職もできないよ、友だちといてもしらけるよ、みんなの関心は安保や憲法なんかじゃなく、コミックやおしゃれやアスリートや彼/彼女と行くレストラン情報だろ・・・と説教するだろう。

 もっともこうした若者サブカルチャーへの没入は、しかしまだ、「戦争が怖くてふるえる」気づきによって相対化できるかもしれない。しかし、学校や家庭やメール友だち以上に永続的で避けがたい「界隈」である企業社会・職場では、KYを許さない同調圧力の強さはさらに圧倒的である。ここでは、サラリーマンや労働者は、まず頻繁な残業や心身を消耗させる過重労働によって政治参加のゆとりを奪われており、その労働意識は、景気上昇、企業の発展、職場の生産性向上の範囲に閉じ込められていて、とても戦争反対や立憲主義擁護のため国会前に集まる気分になれない。また、およそ70年代末までとは違って今では、労働者が職場で、たとえば兵器生産や原発推進を語ることは、不利益処分を覚悟せずには不可能であろう。安定した保障が危なくなりかねない。
 この文脈では、今回の安保法制に反対する集会・デモの参加者はたしかに「職業、世代を問わず」ではあったけれど、無愛想にいえば、企業社会の論理から身を遠ざけうる程度に応じて参加できたということができる。参加者のなかで現役のサラリーマン・労働者は決して相対的に多くなかったように思う。とくに初期には、集会に労働組合の旗がないことを、組織動員の参加ではないとしてなにか肯定的に語る人もあったけれど、私は評価を異にする。誤解してはならない、60年安保での組合の参加でも、労働者は組合の動員でいやいや集まったわけではない。いま組合の参加が少ないのは、組合員、すなわちふつうのサラリーマン、労働者の参加が少ないということであり、彼ら/彼女らをそこへ送り出す企業社会が政治討論の場としてすでに不毛の地になっていることを物語る。もっとも連合などはさすがに、夏には大規模な集会・デモを組織するようにはなった。しかしこれは、たいてい日曜日の午前中に限られており、率直にいって、支持政党の民主党を励ます、形式的な動員の性格がつよかったように見受けられる。

 平和主義・立憲主義の危機に「じっとしていられなくなって」「個」として国会前にきた人びとは、日常の界隈に戻ると、もうKYはやめるようにという、硬軟さまざまの圧力のなかしんどい思いに苦しむ。やむなくその「空気」に靡く人も多いことだろう。こうして「政治的に中立」の国民に遠巻きにされ、復古的な強権は安定する。
 この10月25日、研究者とSEALDsのシンポジウムで、立命館大学2年の大澤茉実は、「空気を読んでいては、空気は変わらないのです」と発言した(朝日新聞2015年10月26日)。それは燦めくような言葉だ、やはりそれを出発点としたい。日常の界隈の空気は傾向として重くなり、支配権力に対する抵抗を難しくするだろう。だが、主張の宣伝力や政策行使の資源において、市民と権力(具体的には政府・地方自治体、ときに大手メディアなど)の間に明らかな非対称性があるかぎり、「政治的中立」とは権力を支持することと同じだ──そう認識する人びとが、日常の界隈に波紋をもたらし、そこから溢れ出すかたちでレジスタンスを執拗に続けるならば、空気は変わってゆく。
 政治の場はむろん国会だけではない。だから闘いは多様なかたちを取りうるだろう。私の危機感を示す「情勢論(1)」の文脈では、さしあたり「政治的中立」のなかで政治問題の討論をすることを許さない役所、教育委員会、学校当局、政府批判を忌避するマスコミなどには、市民グループの抗議行動が鋭く突き出されねばならない。
 もちろん、国政選挙では、戦争法廃案と立憲主義・憲法擁護の線で有力野党が協力体制を組むべきである。私見では、このたびの反安保法制の運動でもっとも評価すべきだったのは民主党と共産党が対立しないことだった。これ以上、政党について語れば「生臭い」議論になるけれども、あえて言いたい。これまでは長年、民主党・連合の共産党排除と共産党の全選挙区での候補者擁立とが、悪しき相互補強関係にあった。どちらが反省すべきだったかの議論は不毛だ。第二党の民主党は、伝統の反共主義を払拭し、いま第三党の共産党のこのたびの協力提案を、少なくとも選挙の候補者調整については支持に踏み切るのがまっとうな選択であろう。過去のしがらみにとらわれないSEALDs TOKAIも、最近の集会に野党4党を招いて、正しくも「垣根を越え」た協力を訴えている(朝日新聞2015年11月15日)。
 民主党のなかには、とはいえ、共産党とはめざすところが違う、共産党と組めば、かえって得票を減らす、シロアリのように民主党の基盤を崩される・・・として、協力を拒む有力議員が存在する。では、民主党の路線は、もう「共産主義」とはいえない共産党のそれとどう異なるのか、維新のそれとどう共通するのかと問いたい。だが、それはともかく、もっぱら共産党の勢いへの怯えが印象ぶかいこれら細野、前原らの発言には苦笑するほかはない。9.19からなにも学んでいない、こんな古びた反共主義に凝り固まった考えで、どうして民主党が伸びるだろうか。

 最後に、私はやはりこだわりたい、日本産業社会の深奥の岩盤をなす企業社会での「堅気の」サラリーマン・組織労働者の抵抗は、なお絶望的なままだろうか。
 朝鮮戦争やベトナム戦争の折には、軍需産業を扱う機械産業労働者のなかに散発的なサボタージュが、60年安保の折には、国鉄労働組合などの時限ストがみられた。時代は大きく保守化しており、そんな行動はもう難しいかもしれない。けれども、2015年初夏から秋においても、今後の戦争法体制の要請にもとづく、国策に沿った労働のゆがんだ方向づけを警戒して、印刷・出版、医療などの諸組合が反安保の運動に参加している。大規模でないにせよ、それはみずからの労働の意義を確認する貴重な営みであった。
 ここに学ぶならば、このエッセイに述べてきた地方自治体や教育委員会の動向に注目して、地方公務員の組合はもっと、市民運動の自由を制限する行政体の統制を内部から突き崩す営みができるはずだ。また、教員組合はもっと、むしろ若者の政治的無関心を育てるような「毒にも薬にもならない」社会科や歴史の授業を拒むことができるはずだ。それに多様なマスコミ従事者の組合はもっと、進行する批判的ジャーナリズムの窒息死に抗うことができるはずなのだ。踏み出されるべきはいずれも、狭義の労働条件を超えて、自分たちはなんのために働いているかを問い直す労働運動の新たな地平なのである。
 ある意味では市民運動に協力するこうした営みが、もっとも困難な運動領域であることを、私ははよく承知している。しかし労働組合は少なくとも、「個」としてデモに参加して帰ってきた労働者を孤立させないように、職場でなにができるかの政治討論に入るべきだろう。そこに進むことを、来るべき容易ならぬ時代は労働組合に要請している。