私の実母・愛子は、小学5年制の秋、1949(昭和24)年10月24日、37歳の若さで他界した。少年時代に体験したこの悲しみの記憶を、これからできれば折にふれて綴ってゆく私の生涯の「忘れ残り」の「序」として記したい。母・愛子(1912~49年)、父・章(1907~84年)の戦後の生活、なかんづく俳句で結ばれたふたりの絆のことなどである。
1907年、四日市の食用油の企業を営む素封家の末子として生まれた父・章は、東京の慶応大学に進学、31年、卒業して三菱商事に入社し、33年、三井銀行勤務の道家和三郎の長女、愛子と結婚する。そして37年、「熊沢製油」の取締役就任のため愛子、長男・裕とともに四日市に帰郷、川原町の三滝川添いに邸宅を構えた。41年には当時の米内内閣の価格統制違反に問われ会社を代表して下獄もするけれど、まずは安定した生活であった。その間、1938年には私が、41年には妹が生まれている。私たちはなにかと恵まれた「坊ちゃん」「嬢ちゃん」だった。
しかし、45年6月18日、四日市大空襲で「邸宅」はあっけなく全焼。私たち一家は一時、高角町の農家の離れに疎開する。都会育ちの母の苦労はひとしおであって、それが母の後の不健康の遠因だったという。玉音放送は正座して泣く母の背後で聞いた。なんの感慨もなかったが、6月以来本当に怖くなった空襲がなくなると思うとうれしかった。
私たちはここでも恵まれていて、ほどなく末広町に新築された住居で生活するようになる。記憶の中の母は、凛として、躾は優しくもきびしかった。勉強の指導は熱心で、また古今の童話の名作をよく読み聞かせてくれた。父は会社の生産の復興に懸命に働いていたが、一方では心のゆとりを求めて俳句づくりに夢中になった。そしてここからが俳句に結ばれたふたりの協力が始まる。1946年、父に次いで母も作句をはじめる。ふたりは、矢津羨魚の指導のもと、ホトトギス派の俳誌『砧』発行に尽力、そこには虚子、立子、青畝、素十、年尾、鶏二らも近詠を寄せて協力した。
父と母は「句敵」であったが、父よりも頭角を現したのは、もともと感情が細やかで感性の鋭敏な母(俳号、鮎女)だった。愛子は、三重県規模の「伊勢玉藻会」幹事を努め、父とともに48年4月、湯の山温泉で「砧会」「伊勢玉藻会」共同の虚子・立子歓迎大会(参加234名)、翌年には、桑名照源寺で両会主催の「虚子・立子歓迎句会」(参加60名)を成功させる。鮎女の俳句はとくに虚子をはじめ一門から高い評価を受け、それ以降、ホトトギス誌での入選の巻頭を飾るなど、東海俳壇に閨秀作家として屹立したのである。
だが、それまでもなにかと体調不良だった母はすでに業病に侵されていたのだ。桑名の俳句会から疲労困憊して帰宅した母は高熱と猛烈な頭痛に襲われた。四日市市立病院での診断は結核性脳膜炎で、直ちに入院となる。毎日、海老状に横たわり、まず背中から髄液をぬきストレプト・マイシンとビタミンを注射するという苦痛の治療である。50日を経て小康を得たかにみえ、希望して退院する。だが、その直後、また激しい頭痛と嘔吐に苦しみ、再度の入院。家を出るとき母は、しっかりお留守番してね、きっとよくなって帰るからと涙を流して私たちを抱きしめた。その時の父の苦渋の表情が忘れられない。
再入院後もマイシンの治療は続いた。60本ほどのマイシンは闇価格で通常の10倍~20倍だったという。会社の営業を担っていた父は社業や出張、3人の子の面倒をみる老いたメイドの家事の差配という繁忙の合間を縫って、日に3回、時には私たちを伴って病院に母を見舞った。それでも、病状は日毎に悪化し、薬害で胃腸の神経も麻痺して食事も喉を通らなくなった。母が私たちのもとへ帰ることはなかった。49年10月24日、永眠する。享年37歳。父は、私たちを引き寄せて、もう安らかに!子どもたちは私が・・・と叫ぶように言った。菊に埋もれた棺の中の母の額はしんしんと冷たかった。
母・愛子は、入院後も作句を続け、短い間にたくさんの佳句を残している。次のような俳句が、句会やホトトギス誌上で高浜虚子をはじめすぐれたな俳人たちに選ばれ、広く知られた代表作とされている。
・犬小屋は落花に遠く犬は留守(桑名句会:虚子)
・門内へ一歩たちまち花吹雪(立子)
・絵日記の犬が大きく夏休み(素十、青畝ら3人、)
・みとり女の昼寝は浅しすぐに用
・人柄は扇づかひのはしばしに
・濯ぎつつ月に両手をあそばせて(ホトトギス子規会、虚子)
けれども、このほかにも、熊沢鮎女遺句集『しらぎく』(自費出版、1955)には多くの佳句がある。この機会に、それらのいくつかをあえて主題ごとにわけてに紹介したいと思う。段落に即していえば、母の凛とした生の佇まい、しあわせだった日々の思い、私たちをふくむ子どもたちの情景と慈しみ、いつのことだったのか心に秘めた恋の思い出、そして晩年の疲れ・入院・病苦のかなしみ。それらがあらためて私の心に迫ってくる。
・いひわけはすまじと思ひ炭をつぐ
・髪梳いてきりりと束ね夏やせて
・さわやかに髪引きつめて厨ごと
・美しく老いたるひとや藤の宿
・思ふことなきしあはせや星祭
・夫と子の外は思はず月朧
・わがのぞみこの子にかけて初詣
・おやつにはまだ間がありて水中花
・ふところ手して兄の本のぞきゐる
・園児等に肝油ドロップ蝶の晝
・風邪の子の大きな瞳われを追う
・弟の兄のと決めて兜虫
・兜虫だけ起きている子供部屋
・コート着てやさしく吾子に留守のこと
・秋扇に秘めたる言葉なしとせず
・落葉路別るることは思ふまじ
・思ふてはならぬ人なり夕端居
・枯萩にうすぎぬほどの日ざしかな
・とびつきし犬にすげなく花疲れ
・糊のなき夫の浴衣や吾病みて
・病める目にカンナははげしすぎていや
・春愁のきわまれる時熱高く
・蝶よ来よ病室の窓雲ばかり
・かげろふのものにすがれるごとく病む
・髪洗うのぞみ悲しく捨てにけり
・音立てて夏帯しめる日はいつぞ
・病める手を組んでほどいて夏布団
・子ら来れば病を忘れ蛍草
・蚊右往左往仰臥の手には届かざる
・目をつぶる外なき静臥氷嚢下
・退院は帰省に似たり胸おどる
父・章の病身の妻を思いやる佳句もここに書き添えたい。
・病む妻の窓にこの虹かかれかし
・病む妻に夏帯仕立て来しを秘す
・秋立つを不治の病と知らで待つ
私は、亡き実母から、凛とした生きざまや鋭敏な文学的感性を受けつぐことができたといえるだろうか? 生涯にわたる私の俳句鑑賞への偏愛などはそうかもしれない。ともあれ、その後、父がほどなく迎えた継母・ゆき子の明るい情愛のもとで、当時は、中1の兄、小1だった妹とともに、私は少年期を経て成長してゆく。それからのことはいつ綴れるだろうか。
ここに復元して添えた写真は、『伊勢新聞』(2001.7.1&13)掲載の文学探訪問記事と古いアルバムからの転写である。また、上の伊勢新聞記事、鮎女遺句集『しらぎく』、父の遺した回顧エッセイ集『藻塩草』(1984年)を参考文献とした。



